人間牧場

〇夢に出てきたAさんの懐かしい思い出

 昨晩は既に亡くなっている、友人の夢をかなり長い時間見ました。人間は何故夢を見るのか、凡人の私ゆえ科学的なことは分りませんが、友人の思い出が私の心の基底に存在していることは事実なので、いつものように朝4時に起床して書斎に入ると、パソコンで私のブログの左隅の検索欄に、「Aさん」とインプットすると、2006年8月17日の「友の死」という記事が呼び出され表示されました。その記事には偶然にも「A」さんと別人「A」さんの相次いだ死亡に関することが記録されていました。
 Aさんと私が出会ったのは、もう26年も前のことでした。当時私は旧双海町役場でまちづくりを担当していて、一緒にまちづくり専従班となった同僚と、松山の小さな小料理屋のカウンターに座って、酒を飲んでいました。偶然にもその横に座って二人で酒を飲んでいたAさんと縁も所縁もないのに、意気投合して再会を約束しました。Aさんは大手ゼネコンの副部長でした。私たち二人はまちづくりを始めた矢先だったため、自分たちの夢や構想を絵に書かなければならず、その予算もないことから私的に相談して絵を書いてもらいました。Aさんはプロでありスペシャリストなので、私たちの話を元にしてシーサイド公園や下灘運動公園の絵を見事に書いてくれました。

 ゼネコンと行政の癒着は絶対できない相談なので、絵を書いたからといって、仕事を回す訳には行かないのですが、Aさんはそのことを百も承知で、その後も私的な支援を続けてくれましたが、完成したシーサイド公園と下灘運動公園の整備計画は、Aさんの下書きした絵がフェースシートとなっているのです。
 Aさんは見返りに、自分の息子さんの結婚の仲人を私に依頼しました。私も恩義があるので快く引き受け、名古屋で行なわれた結婚式と披露宴に私たち夫婦が、揃って出かけお世話をさせてもらったのです。その後Aさんは関連会社へ出向となりましたが、その後も奥さん、息子さん家族を交えた交流が続きました。
 Aさんは5歳の時広島の爆心地近くで被爆し、被爆手帳を持っていました。思わしくない体調もあって、自分は短命で一生を終ることを口癖のように言っていました。奥さんに先立たれた時のショックや悲しみは、傍で見ていても気の毒なほどでした。そして2006年7月、一人住まいの自宅で誰に見取られることもなく、倒れて死んでいるのを友人が見つけ、67歳の波乱に富んだ生涯を閉じたのです。私もすでにAさんの享年を一つ超えましたが、彼の死は返す返すも残念です。

 人間は多くの人と出会いを重ね、幾つもの共感や共鳴をしながら生きて行くものですが、人間は100回あっても1回しか会わないような淡白な出会いの人もあれば、1回会っても100回会ったような密度の濃い人もいるのです。Aさんは既に8年前に亡くなっているのに、今でも夢の中に登場するのは、余程の思い入れがあるからに他なりません。Aさんのお墓は既に自分が亡くなる前に、出身地である広島に造られたことをAさん自身から聞いていますが、いつか機会を見つけ、妻と二人で墓参りに出かけたいものだと、今朝妻に話をしました。
 はてさて昨日夢に出てきたAさんは、私に一体何を言いたかったのでしょうか?。今でも交遊のある息子さん家族に、連絡を取ってみたいと思いました。生きていることの喜びも、死ぬことのはかなさも味わいながら、今日を生きている自分の存在を薄々感じるのも、私が歳をとったせいでしょうか。あの世に行ったら先に逝ったAさんの大好きだった「ふるさとの灯台」という歌を聴きながら、酒を酌み交わしたいものです。

  「今は亡き 友夢に 主役出る 懐かしき日々 今も忘れず」

  「生き方や 死に方 いつも語ってた 享年一つ 越えて生きてる」

  「俺死ねば 誰の夢にぞ 出てくるだろう 夢に出てくる 人になりたい」

  「カラオケで 歌ったふるさと 灯台の 写真自宅の 壁に飾りて」

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