shin-1さんの日記

○わが家に展示している機関銃と魚雷エンジン

 昨晩双海町史談会から出されている宿題の「戦争を語る」というタイトルの原稿を書き始めました。400字詰め原稿用紙10枚以内ですから簡単に書けると思って構想を練りました。しかし昭和19年10月3日生まれの私に戦争の経験はなく、はてさてと思案しましたが中々筆が進まないのです。

 戦争を語るにはまず経験が優先しますし、どんな切り口で語るかによってその意味合いも変わるのです。先日非rかれた史談会で梶原先生は医者になるために勉学に励んだ著線での思い出を話されました。また久保進さっは女学校に通うお姉さんが徴用先の今治で空襲にあい死んだことを話されました。いずれも体験談なので私の心に深い感動を与えてくれました。しかし私には僅かに戦後の混乱期に少年時代を過ごした経験しかなく、祖母や先輩から聞いた話ではとても書けないのです。

 そこで満月の夜だった昨晩、妻が外出しているので自分の部屋の掃き出し窓から外に出て、海の資料館海舟館のかぎを開けて中に入りました。そこには戦争に使ったであろう機関銃と魚雷のエンジンなどが親父の手によって常設展示しているのです。「そうだ。これらの武器について書こう」と思い、カメラを取り出して写真に収めました。夜でしかも展示室がガラス張りなので上手く撮れませんでしたが、何のとか表現だけは出来たようです。

(わが家に展示している紫電改の機関銃)

 機関銃の前には昭和50年ころ「無印文化財」という愛媛新聞のコーナーで紹介された記事が額に入れて飾られていました。その額を取り出して書斎に持ち帰り文章にしましたが、これが結構リアルに戦争を語っているのです。親父は2度も召集され大陸に戦争に行きました。戦争で腕に傷を負い傷痍軍人となりましたが、何故かこれまで戦争について語ろうとはしませんでした。それは自分の目で見た戦争の悲惨さや意志半ばで散った戦友への配慮だったのかも知れないと納得していますが、この記事には少しだけ親父の戦争に対する思いのようなものが感じられたのです。

 その記事の見出しに「紫電改の機関銃」と書いています。早速インターネットのヤフーで紫電改について調べてみましたが、その中には松山大空襲や、松山飛行場が紫電改の基地だったことなどなど、次から次へ戦争の知らない私の闇の部分が浮かび上がってきたのです。これを解読するためにはそれなりの時間と暇が必要だし、出所も明らかにしなければならず、下調べのつもりでプリントアウトすると20枚や30枚など驚くような膨大な資料が出てくるのです。結局昨晩はその程度にして混乱した脳ミソを休めることにしました。

 今朝はプリントアウトした資料に目を通しながら朝食を食べ、迷路に入った「戦争を語る」という本来の入口までやっと引き戻すことができたのです。さて昨晩書いた原稿を再びパソコンで呼び出しましたが、既に10.5ポイントの文字で3枚も書いていて、400字詰め原稿用紙10枚はもう上限まできているのです。これを少し整理して今週は忙しいので来週中に提出しようと思っています。戦争を自分でなく武器に語らせる作戦は果たして上手くいくかどうか、今も少し不安が付きまとっています。

(魚雷のエンジン部分)
(魚雷のプロペラ、手前は大砲の薬きょう)

  「戦争を 知らずに育つ 俺だけど 武器に語らす アイディアいいぞ」

  「わが家には 戦争伝える 武器がある 誰が作った こんな道具を」

  「青島の 沖に沈んだ 飛行機の 部品が語る 戦争の秘話」

  「戦友を 思えば語る 言葉なく 黙しこれまで 親父は生きた」

 

[ この記事をシェアする ]