shin-1さんの日記

投稿者: | 2006年10月31日

○第二のふるさと宇和島

第一があるのだから第二、第三はあって当然です。結婚が第二の人生なら私は目下世にいうリタイアによる第三の人生に足を踏み入れたことになります。第三の人生はこれまでの縛られた人生から解き放たれて自由な人生ですが、残念なことに給料が出ないという事実も抱えています。毎月何の疑いもなく給料を貰ってその給料で35年間も生活してきた私にとっては、生活の原資となる丘陵を断たれることはまさに死活問題ですが、幸いなことにチャップリンのライムライトを絵に書いたような少しばかりの蓄えと退職金によって年金生活の始まる62歳まで飢えと寒さをしのいできました。そして目出度く今月始めに満62歳となり、いよいよ来年から念願の年金暮らしが始まるのです。年金暮らしはいわば老いとの協働暮しですから、健康や生きがいなど今まで他人事と思っていたことが自分の身に降りかかる人生の仕上げの時代なのです。

 3日前宇和島市で開かれ話に出かけた「年金受給者」の集会も、そんな同類人種の集まりでした。この日は立派な弁当が出ることがあるいは魅力なのか、会場は立ち見ができるほどの盛況ぶりでした。しかし中には私の指摘どおり、講演など何処吹く風、受付で弁当を貰ってそそくさと引き上げる不心得者もいて、そのことを冒頭に話して一同爆笑の渦となりました。

 私の人生にとって第一、第二、第三があるように、私のふるさとも第一、第二があるのです。勿論第一は私が生まれ私が育ち、私が暮らしている双海町です。私は多分この町で一生を終えるでしょうがこのかけがえのない双海町を心から愛しています。さて「あなたのの第二のふるさとは?」と聞かれたら私は間髪を入れず「はい私の第二のふるさとは宇和島市です」と答えるのです。何故なら私は高校時代の3年間をこの宇和島で過ごしました。自分の人生の殆どを過ごした双海町を除けば3年間という短い期間ながら私にとっては長い期間を過ごした場所は他にないのです。しかも高校3年間という極めて純粋な青春時代を過ごしたのですから、自分の人生観が変わるほどの影響を受けたのです。

 宇和島には鶴島城という天守閣を持った城山が町の中心に聳えています。その真下にある枡形町の民家に下宿して高校に通いました。2006年2月10日、アメリカ原子力潜水艦グリ-ンビルに衝突し沈没した実習線えひめ丸の所属する愛媛県立宇和島水産高校漁業科に学び、初代の愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海に出かけたことも私にとっては大きな出来事でしたが、それもこれも宇和島という地域に帰属しての出来事でした。

 当時宇和島まではSL蒸気機関車で半日もかかりましたが、今は道も整備されて僅か2時間足らずで行くことが出来るのです。それでも宇和町、今の西予市を越え法華津峠のトンネルから出ると眼下に法華津湾が見える光景は、何時見ても青春のあの頃にタイムスリップして心が騒ぐのです。半世紀がたった今でも・・・・・。

 宇和島には知人友人も多く、何かと結びついては訪ねるのです。それは私のDNAの中にしっかりと宇和島が入っている証なのでしょう。その宇和島でじゃこ天の祭りをするからと先輩から相談がありました。第一次産業以外とりたてて産業のない宇和島は将来の方向を見出せないまま苦悩しています。海の駅を作る計画もあるようですが何から手をつけたらいいのか、賛否両論の中で揺れています。明治維新に活躍した大村益次郎も宇和島ゆかりの人であり、伊達政宗ゆかりの地でもあります。歴史的には古いのですがその歴史をどう未来と結びつけるかがキーワードのような気がしてなりません。

 第二のふるさとに思いを寄せて生きる人間にとって宇和島は輝き続けて欲しい地域なのです。

  「第三の ふるさとなんて あり得ない 第二で留まる 俺のふるさと」

  「只今は 第三人生 真っ最中 第四死ぬとき まだまだ先だ」

  「食いつなぎ やっと年金 気がつけば 後がないなと まるで他人事」

  「宇和島の じゃこ天吾を 助けたり 今では双海 じゃこ天名物」

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