shin-1さんの日記

○今治北高大三島分校

 若い頃は朝予定の時間になっても起きれず、目覚まし時計の助けを借りて起きていたものですが、歳を取ったからかも知れませんが、今は予定の時刻を体内時計が覚えているのか、決められた時間に起きれる様になりました。やはり歳を取った証拠でしょう。今朝は5時に起きて6時に身支度をして暗いうちに家を出ました。今治の沖に浮かぶ大三島へ行くためです。しまなみ海道の中ほどにあるこの島も大橋がかかってから随分便利になって、車の空いている朝の時間帯だと一般道路を通っても僅か2時間足らずで到着しました。早朝の大三島はみぞれ交じりの雨が降って霧に煙っていました。

 その島に一校ある高校は昨年の四月から生徒の減少による高校再編によって、大三島高校から今治北校大三島分校と名前を変えていました。全校生徒が100人に満たない小さな学校ですが、どうしてどうして、小さな学校を感じさせない高校生の皆さんに会ってほのぼのとした気持ちになりました。

 今日はあえてテーマを掲げないユニークな話をしようと思って乗り込みました。講演の依頼主は愛媛県金融広報委員会で、卒業間近な高校生にいい旅立ちをプレゼントしようと開かれたものでした。「楽しくなければ講演ではない」と常日頃言ってるものですからいきなり爆笑の渦です。僅か50分という短い時間はあっという間に過ぎてしまいました。それでも手ごたえは十分感じました。

 いつも思うのですが、世の中は大きいことがいいのでしょうか。大三島高校は生徒数の減少で今治北高校に統合されてしまいました。たとえ学年1クラスの合計3クラスで百人にも満たないとはいえ、学校が存続しているのですから分校なんて呼び名で呼ばなくても、大三島高校で良さそうなものをと、素人の私は考えました。普通は教頭先生を中心に学校が運営されていますが、週に一度校長先生が本校からやって来て色々な会議を開くのだそうです。ここにも本校と分校の関係が微妙な形で影を落としていました。指示や支配の意識がお互いになくても、社会はそのような目で見たり考えたりするものです。平成の大合併で誕生した市町村でも同じような関係が暗黙のうちに形成され、小の悲哀を感じる人がいるのです。

 でも私の見た大三島分校はそんな暗さは微塵もなく、生徒も先生も生き生きと輝いて、大きな学校にありがちな茶髪や変な制服の生徒は一人もいませんでした。先生は100人の生徒全ての名前と顔が一致するほどの深い信頼で結ばれています。

 本校の今治北校は今春の選抜高校野球に初出場を果たした凄い学校です。方や大三島分校は野球部がありながら只今7人しか部員がいず大会もままならない台所事情と聞きました。それでもめげることなくただひたすら練習をしているという教頭先生の話に、思わずジーンときてしまいました。大三島分校は大きいことはいいことだではなく「小さいことはいいことだ」と胸を張っているようでした。これこそスマップが歌って大ヒットした「世界に一つだけの花」の歌詞に歌われている「オンリーワン」であると思うのです。

  「生徒減り統合されて分校になったけれどもオンリーワンさ」

  「演題や職名なくても話し聞く生徒は私を心で評価」

  「土産提げ訪ねし友と久しぶり控え室にて昔話を」

  「橋架かり便利になった離島だが何故か人口今も増えずに」

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○自覚・健康・立志の少年式

 愛媛県内では12歳の中学2年生を対象に少年式というのを各中学校が計画実施しています。中にはかなり大掛かりな記念行事をしている所もあるようですが最近はいたってシンプルで、成人式に比べ爽やかな感じがします。

 今年は昨年に引き続き直線距離にして僅か300メートルしか離れていない上灘中学校の少年式に招かれ、講演をして先ほど帰って来ました。生徒のの数も33人とこじんまりしており、お母さんもその程度集まっていました。会場は寒い時期に配慮してストーブのついた部屋が用意され、壁にはそれぞれの考えた決意が長い半紙いっぱいに力強く書かれて張っており、決意の程が伺われました。

 講演会は少年式らしく運営からあいさつまで全て子どもたちが自主的に運営していました。私の話は大きく分けて5つのことを約10分づつに分けて50分間話しました。1、私には両親がいます。その両親にもそれぞれ両親がいるとねずみ算式に考えると10代前には1024人の先祖がいることになります。摩訶不思議な世界です。その長いリレーのバトンを受け継いでいることを肝に銘じ命を大切にしよう。2、私は子どもの頃に読んだジョン・万次郎の生涯という本に影響され30歳になったらアメリカへ行こうと目標を立てました。目標を持つと強くなれます。3、氷山の一角という言葉があります。今の成績は浮かんだ部分の僅か1で自分にはまだ自分も気付いていない6もの可能性があります。可能性を信じましょう。4、人間は幸せになりたい、金持ちになりたい、成功したいという三つの願望を持っています。幸せになるには相手の幸せを考えることも大事です。5、幸せには人にしてもらう幸せ、自分で出来る幸せ、人のためにしてあげる幸せという三つの幸せがあります。などなどを話しました。

 私の話の全てを理解してもらえるとは思いませんが、これからの長い人生の旅路の少しばかりの役に立ってくれることを望んでいます。子どもたちと一緒に聞かれたお母さん、私の話をどう感じたでしょう。

  「元服の誓い新たな二年生書いた決意にやる気みなぎる」

  「まだ初心なしかし大人の二年生二つの顔にほんのり笑顔」

  「明日入試職員室に書いている子親先生気を揉む前の日」

  「よく見れば見慣れた顔の人ばかり普通進ちゃん今日は講師だ」

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○留守電の行方

 「もしもし、Yさんのお宅ですか。私は愛媛県の若松と申しますが、お父さんはいますか。」「お父さんは外出していません。」「じゃあお母さんはいますか」「お母さんも外出しておりません。」「お母さんは何時ごろ帰られますか。」「分りません」「済みませんが、お父さんの友だちなんですがお父さんの携帯番号を教えてくれませんか。」「分りません。」「分りました。もしお父さんかお母さんが帰ったら、愛媛県の若松さんから電話があったことを伝えて置いてください。」「はい分りました」「ありがとうさようなら」

 講演先での出来事でした。夜9時ごろに到着する予定が、何故か乗り継ぎが上手くいって7時に着いてしまったのす。私はまず市役所へ電話をしました。あいにく市役所の課名を書いたメモを忘れていたため、Y係長の名前しか伝えられなかったのですが、市役所はこの時間になると宿直が警備会社に変わり、「私には分らない」の一点張りでした。困った挙句にYさん宅への電話と相成った訳です。

 私は公衆電話ボックスの電話帳でYさんの自宅の電話番号を調べ電話しました。Yさん宅の受話器を取ったのはYさんの息子さんで中学生のようでした。見ず知らずの人から電話がかかった場合、この中学生の電話対応は「余分なことは教えない」という完璧なものでした。そしてもっと素晴らしかったのはこの息子さんが市役所に勤めるお父さんに携帯電話をかけて、私のことを話したことです。「お父さんの電話番号は分りません」といいながら、ちゃんとお父さんに連絡を取ってくれたのです。受話器を置くなり私の携帯が鳴り、私は寒い冬の風に当ることもなく出迎えの車で宿舎へ送ってもらったのです。

 それにしても人のことは言えませんが、講演を依頼された相手の課の名前を思い出せないのですからいい加減な男です。パソコンメールをペーパー印字したつもりが、氏名だけしか載っていなかったものですから、大変失礼なハプニング劇でした。

 しかし、それにしてもです。私の醜態を棚に上げての発言なのでお許し下さい。市役所の対応は少し考える必要があるだろうと思います。私の町の役場も合併するまでは私たち職員が交代で宿直していましたが、今は当直警備員が常駐するようになりました。それはそれとして良いのですが、午後7時頃になると宿直に引き継がれ、役所に電話してもさっぱり要領が分らず市役所に残って仕事をしているはずなのに連絡が取れないのです。もしこれが緊急だったらと思うとゾッとします。私も愛媛県の遠い所から来たことを告げて話しましたが、残念ながら対応はしてもらえませんでした。

 宿直はお金を頂いてやっているのに連絡が取れず、中学生ながらYさんの息子さんは立派に仕事をされました。市役所さん、中学生の息子さんに対応の仕方を教わってください。

  「留守電で日ごろの暮らしが見えました息子の対応褒めておいてね」

  「市役所はマニュアルどおりの仕事すりゃ落ち度あっても責めは負わせず」

  「恥ずかしや私の行くとこ何処でしょうボケる歳でもないのに忘れ」

  「出口待つ言われてはてな北南どっちだったかまるで反対」

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○凄い太田市の係長パワー

 役所の職責は別名22条職員と言われる臨時雇や、主事補、主事、主査、係長、課長補佐、課長、主幹、参事、次長、部長などと様々な呼び名があり、その役所によって役割がかなり違っています。私も年齢に応じてその幾つかを経験しましたが、部下には部下の、上司には上司の言い分があって中々難しいものだと思いました。

 昨日まで群馬県太田市係長会の招きで、研修会に参加してきました。何でも千葉県幕張にある市町村アカデミー研修所で私の講義を聞いた方が私を推薦して実現したそうですが、太田という街の元気度には驚かされました。市庁舎が立派なのは全国を回っている私としては別に驚きませんが、市長さんのやる気元気度を職員一同誰しも認めていました。まちづくりのリーダーシップには首長、職員、民間の3つのタイプがありますが太田市は紛れもなく首長誘導型だとお見受けしました。首長の長期政権が続けばそれはそれとして上手くいくのですが、首長は4年に一度の禊選挙があり、その後が少し気になるところです。

 案内していただいた国の史跡に指定されている中世の城郭金山城も立派で、説明をしていただいた教育委員会の担当者は何と19年間も異動することなくこの仕事に取り組んでおり、私の持論である専門馬鹿なくしてこうした仕事は勤まらないと脱帽しました。もし私が金山城を訪ねても、彼のような専門家の説明がなかったら未整備途中の公園としか目に映らなかったのではないでしょうか。異動の希望もせずただ黙々と働く彼に大きな拍手を送ります。

 もうひとつ凄いのは200人近い人がホテルに宿泊して研修した係長会の存在です。太田市では係長は管理職だそうですが参加した人たちの熱心さにまず圧倒されました。私も若さと円熟味を兼ね備えた係長を相手の話ですから、普通3時間の話を1時間40分余り熱を込めて早口で喋りました。「あうんの心」とでも言うのでしょうか、大きな反響があり、明くる日のこともあるので夜を徹してまではゆきませんでしたが、かなりの手ごたえを感じました。あと5年したら彼らは市政の重要な役職に趣き市井をリードするに違いありません。

 人の出会いとは不思議なもので、太田市は愛媛県今治市と姉妹提携を結んで交流をしているそうで、愛媛県の実情を実によく知っており、係長会の会長さんは双海町のシーサイドで泳いだ経験をお持ちとか、いやはや驚きました。余談になりますが助役さんも皆さんと一緒に泊まり研修に参加しておられました。折に触れてお話をさせていただきましたが、ナンバー2のこうしたフォローも見逃せない努力なのです。

 「かかあでんかと空っ風」なんて言われますが、太田市を経つ日の朝は寒波の影響で冷え込み、赤城降ろしの空っ風の片鱗を少しだけ感じましたが、わざわざ駅まで見送ってもらった謙虚さにも深々と頭を下げて帰って来ました。

  「通風が出た足引きずり街中を進んで歩く誠実見たり」

  「携帯の呼び出し音に追われつつ見知らぬ街の見知らぬ人と」

  「日本は何処へ行っても自然あり海山川を自慢しつつも」

  「暮らし書くブログのお陰今日もまた共通話題こと欠きもせず」

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shin-1さんの日記

○日本全国が過疎地の時代

 「過疎」といえば私たちの住んでるような田舎町の代名詞のような言葉だと誰もが思っています。「過疎」という言葉の反対語に「過密」という言葉がありますが、当然大都会のように沢山の人が住んでる地域を表します。しかしこれは昭和30年代後半から起こった高度成長時代の人口移動現象であって、20世紀最後の社会現象であることを忘れてはなりません。

 最近新聞や雑誌で「人口減少時代」という言葉を耳にするようになりました。国の財政が破綻し少なく抑えようと努力しても毎年、30兆円もの国債を発行しなければ予算が組めない台所事情の中で、子どもの出生率が年々低下し、追い討ちをかけるように働かないニートと年金暮らしの高齢者が増えてくると、「高齢者を誰が支えるのか」といった当然の疑問が起こっても不思議ではないのです。

 日本の人口は2004年、つまり一昨年をピークに減少に転じているのです。面白い過去のデータを目にしました。日本の人口は明治維新の頃(1868年)には約3400万人くらいだったそうです。100年前の1905年(日清戦争時)には4700万人、50年前の1955年には9000万人、そして現在は1億2700万人と常に右肩上がりの増加を辿ってきました。でもほぼ50年後の2050年には1億人の大台を割り込み約9000万人なると推計されているのです。そんな馬鹿なとお思いでしょうが、様々なデーターを基に偉い先生たちが推計するとこうなるのだそうです。

 私たち夫婦は1+1で=4人の子どもを生み育てていますが、世の中には独身を貫く人や1組の夫婦が産む子どもの数は1.3人を割っている現実からするとなるほどとうなずけます。

 私たちの町は昭和30年代後半から深刻な過疎化に悩まされてきました。日本全国の中山間地域は政府から「過疎地」として指定され、手厚い財政支援を受けて「過疎対策事業」を実施してきましたが、その効果は殆どなく、田舎の過疎地が過疎対策によって便利になればなるほど過疎が進行してゆくという悪循環が今も続いているのです。

 私たちの町や村の代名詞だと思っていた「過疎」という冠は地方の「市部」にも及び、八幡浜市は過疎地に、そして愛媛県全体でも過疎が深刻な悩みになってきました。

 さてどうするといわれれば妙案は「子どもを生もう」運動くらいしか思い当たりませんが、「人口の過疎」をよりもっと深刻なのは「心の過疎」だということを、肝に銘じなければまだまだ続く21世紀は乗り切れないようです。

  「俺の家五十年前比較すりゃばあさん二減子ども四増」

  「人口は定住交流足したものこんな町でも五十五万人」

  「そういえば年寄り増えて子ども見ぬ俺も年寄り他人事じゃない」

  「世の中にゃ過疎を逆手の人がいる人間牧場それら集めて」

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shin-1さんの日記

○注射が大嫌いな男

 私は何が嫌いか言われたら即座に「注射」というくらい注射が大の苦手です。「エー、嘘ー、その顔で」なんていわれそうですが、本当なんです。子どもの頃「明日はツベルクリン反応の注射がありますから」と先生が言おうものなら、腹が痛いと嘘をついて学校を休んだことが何度かありました。ですから今も病院で血液検査のために採血するのは大の苦手だし、インフルエンザの予防注射などもしたことがありません。ですから風邪をひかないのかも知れませんが・・・・・。

 私たちが子どもの頃は注射といえば針や注射器を煮沸して何度でも使っていましたので余計痛かったのかも知れませんが、つい最近痛くない注射針が開発されたそうです。そのことを知ったのは、飛行機の中の座席ポケットに置かれた持ち帰り自由な「翼の王国」という雑誌の小林泰彦さんの書かれた文書でした。

 昔の注射針はパイプのような細い管を使っていたので小さくするのには限界があったようですが、東京東向島で町工場を経営する岡野雅行さんという方が、金属板を丸めて作ろうと思い立ち穴の小さい注射針を作ったのだそうです。これは世界でも始めてだそうで画期的だというのです。

 日本の企業も戦後はこんな町工場からスタートしました。そして創業者と社員の努力によって次第に大きくなり、世界に冠たる日本の企業を作ってきたのです。岡野さんの会社は資本金1千万円、従業員6人の小さな会社だと聞いて私はびっくりしました。親の代から続いた金型のこんな小さな会社でもやり方によっては大きな仕事が出来るのだということを・・・・。

 「俺はいつも言うんだ。ほかで出来ないことをやりゃあ、どんな時代でもちゃんとやっていけるんだって」という懐かしい東京原人の言葉で話す岡野さんの言葉には重みがありました。

 もし私が子どもの頃にこんな注射針が開発されていたら、私は注射嫌いの少年にはなっていなかっただろうと思ったりします。そういえば、前回の定期健康診断の時採血しましたが、痛みもなくあっという間に終わったのは岡野式?注射針を使ったのかも知れないと、今後病院へ行く時に憂鬱にならないで済むかもと思ったりしました。日本の町工場もどっこい生きているんですね。日本人の知恵の深さを思い知らされました。

  「明日注射すると言われて腹痛い仮病見つかり結局明くる日」

  「注射して泣かぬ偉いぞ孫褒めるだのに私は未だに嫌い」

  「俺にしか出来ないことは何だろうそれが見つかりゃ鬼に金棒」

  「蜂が刺す程のか細い注射針下町工場で作っているとは」

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○対等合併なんて嘘っぱち

 このところ市町村のまちづくり研修会に招かれることが多くなりました。それらのまちは既に合併したまち、これから合併しようとしているまち、単独で残ろうとしているまちなど様々ですが、特に合併したまちで大きなまちと合併せざるを得なかった小さなまちやむらの役場職員からは、ため息ともとれる諦めにも似た意見が飛び交っています。

 その意見の中では「対等合併なんて嘘っぱち」という意見が圧倒的に多いようです。今回の合併は一部を除いてその殆どが対等合併というスタートを切っています。役所の位置や新しいまちの名前、議員の定数など、思惑の総意から合併話が壊れたりリコール運動に発展した事例を考え、せめて穏便にことを運びたいと願う法定協議会の方針もあって、旧市町村には総合支所を置いて、行政サービスは高い方に、負担は低い方に合わせると公約で合併したものの、結局は僅か一年足らずで大きなまちの行政事務に合わされ、権力も集中してしまっているのです。

 「約束が違う」とか「こんなはずではなかった」とか小さなまちや村の職員は陰口をたたいていますが、結局は大きな声になることもなく今日を迎えているのです。

 「若松さん、あなたのまちも同じですか」と相槌を打ってもらおうと話しかけてくるのですが、「どうしてそんな声を大きな声にしないのです」と切り込んでも、「私一人くらいが言ってもどうにもならないことですし」と口をつぐみ諦めてしまうのです。彼らがものが言えないのは職員数が増え役職は下がる人がいても給料は高い方に合わせてもらえるし、止めさされないで済むからかもしれません。しかし自分のことだけならそれも良いでしょう。しかし大切なことは行政サービスを受ける住民の立場は一体誰が守るのか、真剣に考えて欲しいと思うのです。

 新しく撰ばれた首長だって議員だってそうです。殆どの市町村が昭和30年の昭和の大合併以来半世紀にわたって築き上げたまちやむらの特徴をいとも簡単に平準化という名の下になくしてしまおうとしているのです。

 平成の合併は旧市町村の色を残して新しいまちを作って欲しいと口を酸っぱくして言ってきたけれど、どうやらその願いは届くことなく新しい年度の予算が組まれようとしているのです。

 合併した役所の口癖は「金がないから何も出来ない」という言葉です。私の造語に「金がなければ知恵を出せ。知恵がなければ汗を出せ。汗もでなけりゃ辞表出せ」という言葉がありますが、まさにその言葉を関係の皆さんに贈りたいものです。「対等合併」とは一体何だったのでしょう。旧市町村の特長を生かしたパートナーシップ、行政と住民の協働、こんな言葉がむなしく聞こえる今日この頃です。

  「対等と言ったはずの合併も終わってみれば大きい所に」

  「あんたらは給料上がっていいけれど市民の暮らし役所遠のく」

  「行政は借金あっても倒れない責任取るのは結局市民」

  「お役所は二言目には金がない思いやられる俺らの未来」

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shin-1さんの日記

○電球が切れる

 2・3日前から書斎の電気のつき具合が悪いと思っていたら、今朝になって二本ある1.5メートルもある長い蛍光灯のうち一本がついにつかなくなりました。原因は蛍光灯そのものの寿命なのか、それとも電気をつけた時に蛍光灯に放電を促す小さな豆電球なのか色々いじったのですが分からず、天井を向いての作業を諦め、ブログ書きも諦めて朝食を取りました。しばらくしてスイッチを入れると摩訶不思議なるかな元のように電気がついたのです。勿論以前のような明るさではありませんし少しチカチカするので、明るい昼間のうちに電気屋さんへ行って蛍光灯の球を買い求め直しておきたいと思っています。

 私たちはいつの間にか電球の明るさに慣れ、無意識のうちに「スイッチをONにすれば電気はつくもの」と思い込み、電気がどうしてつくのかとか、電気の明るさへの感謝を忘れているようです。勿論私も日々の暮らしの中ではそんなことには無頓着で、酷い時は電気を消し忘れて一日中浪費したことだってあるのです。

 かつて私たちの「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は、子どもたちを無人島に連れて行ってサバイバルキャンプを試みましたが、台風襲来で無人島から有人島へ必死の避難を試みた時、二神島の集会所で、「畳が温かく電気が明るいことを初めて感じた」とキャンプの感想文に書いていたことを思い出しました。電気の有難さはまさに暗い思いをしなければ分らないのかも知れません。

 水戸黄門などの時代劇を見て思うのですが、昔は行燈などしか光源がありませんでした。だから「蛍の光窓の雪」などの明るささえも歌に歌われるのです。さぞや家の中は暗かったのだろうと思います。

 私たちがこうして電気という文明を手に入れるまでには多くの人の苦労を見逃すことは出来ませんが、考えてみれば私の祖母や祖父の時代という僅か100年前までそんな暗い生活があったことをもっと後世に伝えてゆくべきかも知れませんね。「文明」とは読んで字の如く明るいのです。

 しかし一方で、使用期限の切れた取り替えられた電球は、今月の不燃物回収に出され遇えない一生を閉じるのです。勿論不燃物となった電球は再処理工場で分別されて再利用されることでしょうが、使用期限の切れた物の運命は寂しいものです。

  「俺に似た使用期限の切れし球変えて捨てられ何処へ行くやら」

  「スイッチをひねれば電気つくものと誰もが思う豊かな日本」

  「ローソクは何処かとまさぐり探すけどとっさのことで仏壇さえも」

  「灯が消えたような表現あったっけ電気つかない部屋の暗さに」

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○魚梁瀬杉の切り株への挑戦

 昨年の夏、高知県の奈半利町へ講演料米一俵の約束で出かけた折、坂本年男さんと出会い、坂本さんがくれた魚梁瀬杉の切り株が宅配便で我が家に届いて2ヶ月余りが経ちました。毎日忙しく振舞う私に任せていても埒が明かないと思ったのか、88歳のわが親父は正月以来この切り株に挑戦しています。チェンソーの使える近所のおじさんに頼み込んでゆがみを直したり、割れを修復するために切り株の周りをチェーンで巻き締めてボンドを流し込んだり、素人とは思えない熱の入れようです。昨日は厚い板をはめ込んで割れにくくするための材料を買ってくるよう頼まれ、ホームセンターへも行きました。

 器用が売り物の親父は左様に何でも作り上げてしまうのですが、この切り株だけはくれた坂本さんのことを思うと何としても仕上げないと相手に失礼だと、作業小屋の中で一生懸命作業に打ち込んでいます。

 私などは呑気なもので、分かったような顔をして腕組の果てに側で見ているだけなのですから気楽なものです。それでも親父の手にかかるとまるで魔法のように、あれほどゴミのように汚れていた切り株が日一日と作業が進むにつれて見違えるように変身して行くのです。切り株の年輪を数えてみようと数えてみましたが、目が込みすぎて数えるのを諦めました。とに角私の年齢を遥かに超える年数を生きてきたことだけは確かです。

 最近内子町出身のノーベル文学賞作家の大江健三郎さんの「自分の木の下で」という本を読みました。その影響もあって人間牧場にツリーハウスを作る予定ですが、この切り株を見るにつけこの木はどんな場所にどんな形をして立っていたのだろうと想像します。と同時に人間を一本の杉の木に例えたら、人間の寿命は長く生きてもたかだか100年です。ゆえにこの木のように銘木といわれるよに長生きすることは到底出来ませんが、せめて今の子どもたちを100年生きる杉の木を育てるような気概を持たなければなりません。木が育つには土・水・太陽の他、ひとり立ちするまでの草刈や施肥など、人間を育てる姿に似ているなあとしみじみ思います。

 親父の挑戦を見ていると何かしら勇気が湧いてきます。自分もええ歳になったと思っていますが、親父に比べたらまだ26歳も若いのですから頑張らなければなりません。

  「米寿来た親父が還暦息子より元気頑張る偉き昔人」

  「切り株に挑む親父は昨日まで足腰痛い人と別人」

  「まるでゴミそんな切り株手をかけて汗と力で命吹き込む」

  「切り株に夢中の間は風邪引かず腰の曲がりも幾分しゃんと」

 

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○子供たちへの返事ついに書き上げました

 先日ブログで書いた講演先から届いた大量の子供たちからのハガキへの返事ですが、昨晩12時までかかってやっと書き終えました。内心無邪気な子供たちには「毎日ハガキを三枚書いている」なんて滅多なことはいえないと反省しながら書きましたが、一枚一枚ハガキを読みながら書いていると、今の子供の表現力の素晴らしさに驚きました。

 まずイラストが素晴らしいですね。マーカーペンを使ったり色鉛筆で様々な工夫を凝らしているのです。中には私の似顔絵や私の話に登場した「菊の実験」や「氷山の一角」のイラストもありました。多分双海町=夕日も連想したのでしょうが、夕日のイラストはダントツ多かったように思います。

 何せ50通を越える量です。時間的余裕がないからいっそパソコン印刷でと一瞬思ったのですが、ハガキを書くことを公言している私としては受け取る側の子どもたちのことを思うとそんなことも出来ず、昨日は朝から必死で書きました。側で見ていた妻は何の手助けもせず「大変じゃあねえ」と同情するだけです。でも妻は郵便局で50円の切手シートを100枚買ってきて机の上にそっと置いていてくれました

 今回のハガキ返事作戦は夕日をあしらった絵葉書を使用しました。前日役場に行って観光担当者に訳を言って使わないような絵葉書を数枚貰ってきたのも使いましたが量的に間に合わず、年賀状の使ってないものや官製はがきも使いました。書いた子供たちを決して差別している訳ではありませんので悪しからずご容赦下さい。

 手書き文字の絵葉書は、昨日が雨の日であって人間牧場の作業が出来なかったこと、私の日程が夕方の神社建築委員会出席までまる一日空白だったこともあって、悪戦苦闘しながら順調に進みました。切手を張り、私の名前と住所のゴム印を押し、切手を貼って製作が完了したのは12時頃でした。でも少しだけホッとしています。今朝は散歩のコースを変えて郵便局の前を通りポストに投函したいと思います。

 いつものことですが、この中の何人かは2回目の返事が数日の間に届きますが、多分2人か3人は長い文通が続くことでしょう。私のハガキ友だちの平均年齢がまた大幅にダウンしそうです。

 忘れていたのではなく後回しにしただけですが、担任の先生から届いたお便りの返事は、今日広島へ出張の準備で間に合わなかったものですから、広島へ向かう船の中で、木になるカバンという優れものの移動机を使って書きたいと思って昨晩切手を貼って用意しました。

 「お父さん余り無理しないようにもう休みませんか」と先に床に就いた妻の声が襖の向こうの寝室から聞こえていましたが、先に寝たはずの妻は6時になった今も寝ています。「早く寝たのだから朝ぐらいはゆっくり起きます」とは妻の弁。私は「遅く寝たのだから早く起きよう」と思いました。えっ、これって逆じゃないですか?。「何でだろう。何でだろう。何でだ何でだろう~」なんて昔ギャグが流行りましたよねえ。

  「講演を聞いて子どもの文届く汚いわが字少し安心」

  「昨日はハガキ製造機になってせっせせっせとペンを走らせ」

  「親子前話したはずに親からははがき届かぬ不思議なるかな」

  「難しい文字や言葉使わずにこれまた難し子どもへの文」

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