shin-1さんの日記

○いずれ人間は必ず歳をとり死ぬ

 昨日所用で近くの特別養護老人ホームへ出掛けました。昼下がりのホーム内は一階でディサービスに来た人たちが賑やかに歌を歌っていました。顔見知りの人も多く私の顔を見つけると、大きく手を上げ嬉しそうに言葉を掛けてくれました。私も応じるのですが何せ20人もの人が一斉に声を掛けるので、手前の人から順番に話しかけ手を握ったり肩を叩いたりして応じました。この人たちとはつい最近まで社会教育や産業団体、それにまちづくりの現場でよく出会っていたので、感慨も一入なのです。

 やがて一通りのあいさつを終えた私は、2階の老人ホームへ叔父の見舞いのため上がって行きました。普通の部屋にいるはずの叔父は病室のベットに移され静かに横たわっていました。左官をしていた叔父が仕事場で脳卒中で倒れたのは2年前でした。それまで殆ど病気もせず町の消防団長も務めた聡明な叔父を知っている人なら、ベットに横たわる叔父の姿はまるで別人ではないかと目を疑うような変貌ぶりなのです。力仕事で鍛えた腕や足は衰え骨と皮と筋だけで、目もうつろで記憶はしっかりしているのでしょうが反応も鈍く、握る手に伝わる力も意思も弱々しく感じられました。医学の進んでいなかった昔ならとっくに死んでいたかも知れないと思いつつ、一命を取り留めた叔父の力強い生命力に改めて感動したのです。手足をさすりながら一方的に私が叔父に話しかけ、叔父もかすかに反応しながら5分余り対話をしました。「進一だが分る」。言葉に反応して首を少しふっているように見えました。「また来るから元気でね」と部屋を出る瞬間、叔父の目から涙がこぼれ、何と不自由な手を振ってくれたのです。

 2階の老人ホームでくつろいでいる方たちも殆どの人が歳を取ったりふけたり、また少々ボケていますが見覚えのある顔ばかりです。痴呆の老人の殆どは今生きてることの意識は少ないのですが、何故か昔のことをよく覚えているものです。「おい進ちゃん元気か」と声を掛けてくれる人もいれば、こちらが声をかけても「どちらさんですか」てな具合の人もいます。

 昔北欧の老人ホームのドキュメンタリー番組をテレビで見たことがあります。当時世界一といわれた北欧の高齢者福祉について詳しく紹介していましたが、まさか日本が世界一の長寿国になって、高齢者福祉施設がこれほど日本全国に出来ようとは夢にも思っていませんでしたし、三世代同居の家が多かったあの頃には、歳をとって老人ホームで暮らすなんて、これも夢にも思わなかったのです。うつろな表情で過ごす老人ホームの人々を見ながら、「いずれ人間は必ず歳をとるし死ぬ」という運命を感じずにはいられませんでした。

 殆どの人が「自分は死なないし老いない」と思っているに違いありません。ですから親を粗末にしたり親孝行をしないのです。いずれは自分がそうなるであろうと思うのなら、もっと親に忠孝を尽くすはずなのです。昔は人間の一生も短く、50代・60代であの世へ旅立ちました。ところが今は80代・90代はざらなのです。長生きすればするほど老いを生きる期間は長くなりますが、老いへの備えは長寿国日本になってまだ日も浅く、万全とはいえません。気力と体力、知力と財力などのバランスを保ちながらいかにボケずに老いを迎えることが出来るか、日本人の挑戦はまだ始まったばかりです。

  「おいお前 歳は幾つと 問うたなら あんた何ぼと 聞き返すなり」

  「人は皆 必ず老いて 死んでゆく 俺は例外 てなことはなし」

  「人間の 死亡率はと 尋ねたら 百パーセントだ 必ず死ぬぜ」

  「水を打つ 老人ホームの 昼下がり 生きているか 死んでいるのか」 

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shin-1さんの日記

○孫と海で遊ぶ

 孫の幼稚園が夏休みに入って連日泊まりにやって来ます。家族はみんなそれぞれ仕事があるものですから、いきおいサンデー毎日の私が暗黙のうちにお守りをしなければならない羽目になってしまうのです。娘からは「孫の面倒を見れることは嬉しいことと思ってね」と言われるのですが、毎日引っ付きもっつきされると、この暑さゆえ言うことを聞きにくくなった孫の守りは正直言って少々うんざりです。それでも私しか頼りになる人間がいないのですから、否が応でもやらなければならないのです。

 このところの双海町での過ごし方は、起きて朝食を取ると単車に乗せて潮風ふれあい公園経由でシーサイド公園まで出かけます。シーサイド公園には中庭に池があってそこには沢山の鯉を飼っています。この鯉は私が現職中に夕日の物語を作るために飼い始めたのですが、今ではすっかり公園の人気者になって、子どもたちが100円で買った餌をやってくれるのです。孫も同じように餌をやるのが楽しみで、池田所長さんともすっかり顔馴染みになって、孫のために餌を用意して待っていてくれるのです。

 どうです、この鯉の群れは。孫が喜ぶはずなのです。

 孫が鯉をめがけて餌を投げると鯉は餌をめがけてわれ先に餌に群がるのですが、その光景たるやド迫力と呼ぶべき光景なのです。孫も最初は丁寧に一つ一つ餌を投げていましたが、余りの凄さに圧倒されて、最後は一掴みもまとめて投げると、鯉の上に鯉が乗って勢い余って孫の足元まで躍り出る始末でした。

 帰り際所長さんが「朋樹君、泳ぎにおいでね」と誘うものですから、帰ると早速「じいちゃん、海へ泳ぎに行こう」としつこく誘うので浮き輪を引っ張り出して空気を入れ始めましたが、残念ながら破れていて用をなしませんでした。海水パンツを履かせ、私も海水パンツを履いて早速単車に着替えを積みお出かけです。この数日間単車に乗りそめていることもあって、孫は「出発進行、発車オーライ」などと手馴れた言葉を連発し、ウインカーも右や左にボタンを押して手馴れたものです。

 売店に勤める顔見知りの電気屋さんの奥さんに小さい浮き輪を借りていざ海です。10時だというのにもう砂は素足で歩けないほど焼けていました。小心者でまだ海が怖い孫を海に泳がせるには、まず自分が見本をと海にゆっくり入りました。本当はザブーンと飛び込みたい心境でしたが、孫の恐怖を誘わないようにゆっくりゆっくりです。やがて孫の手を取って首筋まで海に入らせる戸、孫は水をなめてみて「おじいちゃん、この水ショッパイと言うのです。その後浮き輪に入れて少し沖合いや左右に移動をして海水浴に高じました。砂遊びも一通りやりましたが、直射日光が強く、20分ほどで切り上げて水を浴び、着替えてさっぱりしました。何と私は、これだけ海に近い町に住んでいながら、海水浴を楽しんだのは二十年ぶりではないかと思うのです。孫のお陰で二十年ぶりの海水浴を楽しむことができました。

 所長さんがかき氷をプレゼントしてくれました。孫のリクエストは「真赤ないちご」、全部を食べさせると量が多いので、二人で仲良くイベントホールの冷房の効いたところで氷を食べました。

 双海の夏は只今真っ盛り、シーサイド公園界隈は何処へ行っても人・人・人で埋まっています。その人ごみの中に入ってみると人々は、涼を求めて思い思いの過ごし方をしています。海の中で水しぶきを上げている人、パラソルの下の小さな木陰で涼を取る人、海水浴場の貸席で家族が涼を楽しんでいる人、公園の緑陰でセミの声を聞きながら海を眺めている人、ちゃっかり冷房の効いた部屋で涼しそうに語り合う人それぞれです。

 色々いいながら孫の守りのお陰で思わぬ夏の過ごし方を体験することができました。

  「海近き 町にいながら 泳がない 二十年ぶり 水浴楽しむ」

  「イチゴ味 二人で楽しむ かき氷 額付き合い ストローチュ-」

  「餌ねだる 鯉にめがけて 二三粒 しぶき飛び散り 孫はマゴマゴ」

  「息吹けど 穴あき浮き輪 膨らまず ついに断念 孫はしょんぼり」


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shin-1さんの日記

○雑誌を読んで

 「若松さんですか。今月号の『まち・むら』という雑誌を読んだのですが、人間牧場はどの辺りでしょうか。アポイントもなしに失礼とは存じますが、近くを通ったものですから一度見学したいと思いまして・・・・」。運良く今日はお盆休みを決め込んで家にいて電話を取った私に、「お手間を取らせても何ですから、場所さえ教えていただければ自分で訪ねてまいりますので」と言われるのですが、「残念ながら地図もなく、一人で行くと迷うことになりますので、私がご案内します。いまどちらにいますか」。「はいしもなだ運動公園の入り口にいます」。「じゃあ9時半にそこでお会いしましょう。ところで人数は」。「はい私と妻です」。「そうですかじゃあ早速そちらへ向かいます」。一昨日までの灘町集会所の宿泊者が出した膨大なゴミを、自治会長としての役目上ゴミ収集場所に出さなければならず、朝早くからその対応に追われ、ほっと一息ついた時間だったので、快く出かけて行きました。待ち合わせの場所に着くとキャンピングカーには大きな犬2匹と奥さんが同乗していました。残念ながら道が工事中で通行止めと書かれていて、キャンピングカーにはちょっと無理な道幅なので奥さんと犬2匹は車の中でお留守番という結果になってしまいました。

 聞けばキャンピングカーで四国八十八ヵ所を回っているとのこと、香川県善通寺市のれっきとした現役課長さんで、盆休みを利用して各地をラリーで回っているそうですが、初対面とは思えぬ奥の深い方で、波長が合って色々なことを話し合いました。特に私の生き方に興味があるらしく、ついでにわが家までやって来て煙会所や海舟館、夕観所を見学する念の入れようで、「昇る夕日でまちづくり」と「今やれる青春」という2冊の本まで買っていただきました。

 最近は団塊の世代が何かと話題になっていますが、その殆どの人たちが定年後どのように生きたらいいのか考えぬまま社会に飛び込んで来つつあるようです。昨日も一つ年上の先輩の奥さんに会いましたが、奥さんの話だと「退職後は釣りに凝って仲間と遠くへ釣りに出かける日々」だそうです。奥さんお話を続ければ、「もっとましな生き方ができないのでしょうか」とも言っていました。私は奥さんに「やることがあることは素敵なことですよ」とたしなめました。奥さんの不満は「私がこうしてパートに出て働いているのに、別に金儲けするでもなく、『年金は俺のもの』と言わんばかりに釣り三昧をするので腹が立つ」らしいのです。「そこへ行くと若松さんは偉いですね。うちの主人に若松さんの爪の垢でも煎じて飲ませたい」と大笑いをして分かれました。

 この課長さんと話したのですが、「世の中の乱れの大きな原因はみんなが豊になり過ぎたためではないか」ということでした。先日一俵入魂でお馴染みの高知県南国市の川村一成さんの話を紹介しましたが、彼が言うように「ほどほどな貧乏」が世の中には必要なのかも知れません。豊だと人に頼らず生きてゆけるし、人を気にせず生きていけるのです。人間は人とともに生きると人の恩に感謝が生まれ、感謝が新しい人の世話へと発展してゆくのです。私は「属地での生き方」を推奨しています。ふるさと運動もその一環で、ふるさとを愛する気持ちがあればゆがみあうこともなくみんなが仲良く日々暮らせるのです。子どもが育つ、お年寄りが穏やかに暮らせる地域は、最早なきに等しくなりつつあります。阪神大震災や新潟地震を見れば一目瞭然で、日本のかつてのよきコミュニティを復活しなければ、今話題の映画「日本沈没」になるかも知れません。そのためには、人間何のために生きるのか、人間はどう生きたらいいのか真剣に考え、自分自身の生き方をしっかりと考え生きて行かなければなりません。

  「飛び込みで 人間牧場 やって来る 今日もいい人 知恵を授けに」

  「弘法は 八十八ヵ所 巡る旅 そのつれづれに 何か学べと」

  「暑いねと 交わす言葉で 盆が来る 寒いね正月 半年後には」

  「見上げると 入道雲の 湧く空に トンボ早くも 秋の気配が」  

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shin-1さんの日記

○お盆の頃

私が覚えているわが家のご先祖様は祖祖父母・祖母・母の4人で、私が2歳の時の昭和21年に亡くなった祖父の顔は残念ながら覚えていません。戦後の衛生事情の悪い中、大流行した赤痢にかかって62歳で亡くなった祖父を除けばわが家は皆長寿で、80歳を越える天寿をまっとうしているのです。私は自分の生活設計の中で自分の寿命がいかほどまでなのか23歳の時推測し、その後の修正もなく85歳まで生きてやろうと思っているのです。ある人に言わせるとその人の寿命は父母の年齢を加えて2で割り、出た数字の+5が目安だといいます。その計算式で行くと父88歳(現在進行形)+母80歳=168歳÷2=84歳+5歳=89歳となります。つまり私は計算上は84歳~89歳まで生きられることになるのです。私の目標としている年齢が85歳ですから夢は可能で、健康管理さえ徹底し事故や事件に巻き込まれなければ今の親父の年齢までは生きれるのです。

 「長生きをしたい」という人間の願望は誰もが持っているのでしょうが、健康でボケもせず長生きすればその願望にも意味があるのですが、寝たきりになったり認知症になってまで長生きすると周りの迷惑をかけるばかりでなく自分自身も辛いものですから、そのことを念頭に置いて長生きの秘訣を日ごろから考えた行動をしなければならないと思うのです。

 私の寿命は最高に見積もっても今の親父の年齢なのですが、親父のようにボケもせず長生きができるかと思うと少々心もとない気持ちです。昨日から親父は庭の隅に小さな池を作り始めました。庭には大きくて深い池があって立派な鯉が8匹も飼われていますが、養魚場の方に鯉の赤ちゃんを多数貰ったようで、その飼育のために池を掘るというのです。「おいおい何歳まで生きるの」なんてことは言えませんし、「止めとけ」と生きがいをそぐ訳にもいかず見守るしかないと心に決めて、言われるままに少しの手伝いをしています。

 今朝、妻と親父と私の3人で麻ガラを玄関先で燃やしてお盆の迎え火を焚きました。3本の麻ガラを短く折って火をつけると勢いよく燃えました。冒頭に書いた祖祖父母、祖母、母以外にも若松家の先祖は10代前を数えると1,024人、20代に遡ると1,048,576人、30代前に遡ると何と1,073,741,824人になるのです。迎え火がこんなにも多い先祖を呼ぶことは到底不可能ですが、せめて顔見知りの3代前だけでも安らかにわが家でお盆を過ごしてもらおうと、応接間に祭壇を出し、お坊さんに棚行に来てもらって、お経を唱えてもらいました。明日は夕方お弁当を持って帰るのですが、それまで妻は母から教わったわが家の仏事のしきたりに沿って、この2日間せっせと仏様のお接待をしています。「ああ日本のお盆」です。

  「迎え火を 焚いてご先祖 里帰り お盆の行事 妻が受け継ぐ」

  「何処となく 嬉しそうなる 父の顔 母が帰りし 仏壇拝みぬ」

  「驚きぬ 十代前には 千人余 親の親親 親親親と」

  「五年前 逝きし母親 今頃は 何処をどうして 旅しているか」

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shin-1さんの日記

○使わなくなったペンシル

 高校生になって愛媛県立宇和島水産高校に入学する頃、既に東洋レーヨンに就職していた姉悦子が腕時計と万年筆をプレゼントしてくれました。その時の嬉しかったことは今も忘れることはできません。真新しい海軍服のような制服に身を包んだ私は胸のポケットにさっそうと金と黒に輝く万年筆を差し、腕時計をはめてさっそうと学校へ登校しました。男子学生だけの学校は色気もなく何か殺伐とした第一印象だったように思います。その第一印象はもののズバリ当って、3日後には生意気な格好をした新入生と写った先輩の、スパルタ教育の洗礼を受けてものの見事に取り上げられました。腕時計はかろうじて難を逃れたのですが、万年筆は恋文を書くこともなく当分は私の手元には帰って来ませんでした。幸い郷土出身の同じ家に下宿していた先輩のお陰で半年後に戻ってきましたが、万年筆やペンシルを見る度にその当時のことが懐かしく思い出されるのです。

 それにしてもわが家にはどれ程の筆記用具があるのだろうと思うほど使っていないペンシル類が居間のあちこちに沢山あって、雑然としているので思い切って妻と二人で整理をしてみました。

 ペンシル類には大きく分けるとボールペン類、シャープペンシル類、筆ペン類、マーカー蛍光ペン類、色鉛筆類、万年筆類、鉛筆類、マジックインキ類に分けられますが、圧倒的に多いのはボールペンでした。4色ボールペンは何かと重宝なので使っていますが、どこかの会社から貰った記念品などは新品同様ながら使うことがないから結局はペン先のボールがインクの酸化によって動かなくなり、一度も使わず捨てるのも随分ありました。シャープペンシルは0.3ミリと0.5ミリの2種類がありますが、ノックが傷んでいたり、芯が詰まっていたり、まともなものは少なく、殆どがゴミ箱行きのようでした。そういえばシャープペンシルやボールペンが普及してからは、鉛筆を使う機会は極端に少なくなったように思います。当然鉛筆をナイフで削る機会等殆どないものですから、鉛筆を削れといわれても果たして削れるかどうか心もとない感じさえするのです。

 マーカー蛍光ペンも付箋とともに役所の会議にはよく使っていましたが、今は使う機会も殆どなく干からびて使用不能で殆どを捨ててしまいました。昔は本によく赤鉛筆で記憶したいことや感動したことを線を引いていましたが、蛍光ペンの出現は便利なものとして多いに使った記憶があるのです。

 さて今回のペンシル大掃除で一本の万年筆を発見しました。何処で買ったか、誰に貰ったか定かではありませんが、パーカーの万年筆です。さすがに長年使わなかったのでカートリッジのインクは固まり、字を書くこともできませんでした。幸い文箱の隅にその万年筆のカートリッジインクが数本残っていたので、熱いお湯の中で古いインクを掃除してインクのカートリッジを入れ替えました。文字を書いてみると昔懐かしい極太の文字が書けるのです。早速今日の日課である3枚の絵葉書を書いて50円の切手を張り郵便ポストに投函しました。万年筆で書いたインクの文字はボールペンで書いたものとは一味もふた味も違って見えました。

 万年筆でハガキを書きながらふと35年余り前の姉のプレゼントしてくれた万年筆のことを思い出しました。姉の万年筆を私から取り上げた先輩は、私たち下級生に対するいじめが発覚し謹慎を言い渡されて、その後退学処分になったことも思い出しました。

一本の万年筆に秘められた逸話は青春時代の思い出として、死ぬまで忘れることはないでしょう。

  「ネズミ引く ようにペンシル 集まりて 残る運命 捨てる運命」

  「姉くれし 万年筆の 思い出も たった一人の 先輩いじめで」

  「香典の お返し筆ペン ついてくる どおりで沢山 あるはずだよね」

  「字の上を なぞる蛍光 ペン便利  それでも本は やっぱり無垢よし」  

 

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shin-1さんの日記

○日程調整が難しい

 私への講演依頼や人間牧場見学の依頼はメールでのやり取りが多くなってきました。私はその都度メールを読み返事のメールを打つのですが、日程がその場でうまく空いているとすんなり入るのに、「空いている日程を2~3候補に挙げて下さい。打ち合わせを行ってまた連絡します」で終わると、2~3日後ならよいのですが、1ヶ月も打ち合わせ会が長引くとその間にどんどん日程が詰まってしまい、とんでもないダブリ現象が出るのです。2~3日前埼玉県北本市で市議会議員をしている旧友の工藤さんから講演の打診がメールで届きました。あいにくその日は地方祭で、自治会長をしている私としては神輿守りの責任者として家を空けることができず、お断りのメールを入れたのです。すると工藤さんは一週間伸ばすがどうかと再びメール、私は一も二もなく引き受けた旨のメールを送りました。ところが昨夜メールの整理をしていたら、一ヵ月後の約束メールとかが見つかり、その日の日程がまったくダブってしまったのです。昨夜はそのことが気になって浅い眠りが続き、相手に悪いからと早朝4時を待ってメールを送りました。後で気がついたのですが、メールは朝まで待つこともなく朝晩関係なくいつでも受け付けてくれるのです。朝9時になって私は工藤さんに電話をかけ、私の講演の日程を1月に延期することで日程調整を終えました。この間工藤さんとも、もう一人の人とも電話や面談で一度も顔を見ず、声もかけていないのですからいかにデジタル社会になったかよく分ります。

 私の場合電話やメールのやり取りで日程が決まると、携帯用2006Writing Calendarに書き込みます。デジタルからアナログへの移動です。また電話やメールで日程の問い合わせがあるとCalendarを見て返事をするのですが、どうもトラブルの原因はいつもその接続部分で起こるのです。一時期パソコンで予定表管理をしていましたが、上手行かず結局は手馴れたCalendar管理にしてしまいました。今の時代ですから携帯電話とパソコンを接続して日程を管理すればよいのでしょうが、今のところそこまではしないつもりでいます。

 私への連絡は家への電話・FAX、私への直接携帯電話、インターネットでのメール、手紙やハガキでの連絡などですが、家への連絡電話は私も妻も留守が多く朝昼晩に限られます。朝昼晩も私は留守なので妻の書いたメモに沿って連絡するか、妻が私の携帯電話番号を相手に知らせて連絡となるのです。FAXは電話兼用なのでこれがまた洋紙切れ、トーン切れだったりして中々なのです。一番お勧めはやはりメールです。近頃は暇さえあればメールを開ける習慣がすっかり板について、「メールを送っても返事が帰ってこない」という苦情もなくなりました。しかし今はこのメールが沢山届き過ぎて3日間くらい家を空けるとメールを開くのがうんざりするくらい多く、その対応におおわらわの状態なのです。

 役所を退職し、一見長閑な若隠居さん、てな感じを連想していたのに、退職して昔の仕事とは無縁と思っていたのに、何と何とこの忙しさは、退職前を上回る忙しさで、日程の調整が難しくなってきました。まあそれでも自分で自分流に日程調整できるので、「ちょうど塞がっています」とついていい嘘をつきながら自由時間を作れるのも自由人の特権だと、今年はお盆を楽しもうと12日から16日まで日程を連続して空けました。ところが昨日は夏祭りの反省会、今日からは原稿書きやスライドショーの下書きが溜り、今朝から暑さを忘れセミの鳴き声も忘れて頑張らなければならない羽目になりました。

 工藤さんとは電話連絡が取れて私の埼玉県雪は1月に伸ばしていただき事なきを得ました。まだ気になる未日程調整が4~5件あるのですが、早く日程を決めてすっきりさせたいものです。

  「空いてるか 空いてますよと メール打つ 予定ダブって 青色吐息」

  「行くとこが 何でそんなに 妻が聞く 俺も知らぬわ 相手に聞いて」

  「今度何処 私も一緒に 妻算段 俺は一人で 気楽な旅を」

  「顔知らぬ 声さえ知らぬ 相手から 話しに来いと 誘われ多し」

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shin-1さんの日記

○人生で酒と女と歌を愛さぬ男は馬鹿である

 「人生で酒と女と歌を愛さぬ男は馬鹿である」。これは有名なマルティン・ルターの言葉ですが、酒駄目・女駄目・歌駄目な私はこの言葉通りだと馬鹿で間抜けな人間です。ましてやタバコもコーヒーも駄目でどうしようもない、「何のために生きてるの?」と問われそうな、「タバコも飲まず酒もやらず、女もやらず百まで生きた馬鹿がいる」といわれそうな人間なのです。しかし世の中はようしたもので、私のような駄目な人間でもそれ相応のこだわりを持って生きていると結構自分で満足し、結構楽しく生きられるのです。私は歌などカラオケで余り歌いませんが、数年前からハーモニカを吹くようになって少し音の世界が広がってきました。先日も大河内さん率いる大西町の女性群が人間牧場へ来られた折、鎌田さんの発案で私の吹くハーモニカに合わせ、みんなで「みかんの花咲く丘」や「ふるさと」を大合唱しました。童心に帰った歌声は心の魂を呼び起こさせてくれましたし、青年団時代にみんなで労働歌や青春歌を歌った懐かしさを思い出しました。

 私たちは若いごろ歌集を作って事ある毎によく腕を組み肩を組んで歌いました。「若者のうた」「希望の歌」「四季の歌」などなどは何故か歌うと元気が出て「またやろうと」いう意識が芽生えたものです。「青い空雲もなく そびえる富士は 若人の希望のしるし」は「希望の歌」、「若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が 逞しい体に」は「若者のうた」、「春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような 僕の恋人」は「四季の歌」の一節です。自分の心と頭に歌を歌う度に歌の醸すさわやかなイメージが広がり、青年団活動をより清新なものに仕上げて行きました。その意味では青年団で歌った歌は自分の心づくりに大いに役立ったように思うのです。歌もその一つかもしれませんがレクリェーションも沢山覚えたり実際にやりました。会の雰囲気を和ませるために100を超える程持ちネタを持ったものです。後に青年団活動が高じて社会教育の世界に入りましたが、公民館活動や青少年教育のの分野でも随分レク指導の技術は私を助けてくれました。

 青年団はションション青年団といわれるように、レクリェーションとディスカッションが二枚看板でした。ディスカッションは深夜にまで及び、時には酒と女の力を借りながら、夜明けまで続く時もありました。議論、激論の末取っ組み合いの喧嘩もよくしました。結論の出ない他愛もない議論を何日もくり返したものですが、今振り返るとあれこそ若さの発露だったのではないかと思うのです。今の若者には残念ながら議論の場と議論の相手がなくて、議論の末の喧嘩などなきに等しいのです。議論は人を育てます。ああでもないこうでもないと議論しながら一つのものを作り上げてゆく今流行の「ワークショップ」や「フィールドワーク」を地でいっていました。

 ふるさとをよくする運動にも積極的に関わりました。村祭りも盆踊りも殆ど青年が取り仕切っていました。特に盆踊りはお盆を中心に毎晩毎夜、どこかの部落へ応援に駆けつけ賑やかな踊りの輪ができたし、そんな盆踊りの場所での出会いが若者同士の恋心を育みました。今は盆踊りも踊る人も少なく、もう数年でわが町からも盆踊りの灯が消えるのではないかと心配されているようです。嘆かわしい時代になったものですが、これも一つの時代の流れとして諦めなければならない出来事なのでしょうか。

 「時代は来ない。いい時代にする」。「動け動かせ21世紀」。これは数年前、私の著書「昇る夕日でまちづくり」の編集を手助けしてくれた玉井恭介さんが、私にくれたハガキに書いてくれた言葉です。司馬遼太郎「龍馬がゆく」の編集者窪内隆起さんが「昇る夕日でまちづくり」を読んだ感想を「若松さんのような人を抱えている双海町は幸せだなあとつくづく思います。何ごとも押し進める人ありてこそ実現するんですね。理論も行動も一致しているところが凄い。233頁の「・・・・見せられた・・・・」の誤植は残念。しかしいい本ができました」と玉井さんに手紙をくれたそうです。そのことを知らせるハガキの表書きに書かれたこの言葉は、後の私の生き方に大きな影響を与えた一言でした。今も私は「いい時代にする」ために、人間牧場で頑張っているのです。

  「歌さえも 歌えぬ吾に 味方あり 楽器一つで 歌カモフラージュ」

  「一枚の ハガキが吾に 生き方を 教えてくれる 今も大事に」

  「定員は 何のためある 平然と 定員オーバー 帰省ラッシュで」

  「ルターさえ 俺は馬鹿だと 言っている 馬鹿でもいいや らしく生きよう」

  

 

 

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shin-1さんの日記

○相次ぐ人間牧場のお客様

 私には私の生き方に影響を与えたであろう旧友といわれる人が日本全国に沢山います。その殆どは普通音信不通なのですが、時々昔の仲のよりを戻すような出会いが突如としてやって来るのです。数日前中国電力の鍋島さんから電話があって「グリーンツーリズムの仕事の関係で人間牧場を見てみたい」と中国総研の方2人を伴って訪ねて来ました。中国地方には和田さんや宮崎さん、田中さんなど広島県北部を中心に名だたるまちづくり人がいますが、鍋島さんは一味違った冷静なお方です。彼との出会いがいつ始まったのかは覚えてないのですが、彼は私のことを愛情を込めて「進ちゃん」と呼んでくれます。多分生産性本部のQCサークル活動などで影響を受けたのでしょうが、本質の分る議論を交わせる人であるので楽しみに待ちました。

 左端の方が鍋島さんです。やって来た一昨日は夏の日差しが強烈に降り注ぐ暑い日でしたが、視界もまずまずで人間牧場の道具立てともいえる施設に驚いた様子でした。私の高知行き仕事の間隙を縫っての出会いだったので、シーサイド公園とのセット視察には2時間があっという間に終わってしまいました。

 ここはある意味でグリーンツーリズムやスローライフという人間本来の生き方の本質を突いている施設だと自分では思っていますし、グリーンツーリズムやスローライフを掲げて一儲けしてやろうと企む人たちに何かを考えもらえる場所だと思っています。鍋島さん始め三人の方々がどんな受け止め方をしたか、反応が楽しみです。

 

 昨日えひめ地域政策総合センターの清水研究員がやって来ました。私の国際会議の資料作成のお願いを快く引き受けていただき、その打ち合わせを兼ねて議論するためです。彼は農家の長男として農協に勤める傍らふるさとの農地を守っています。農業離れの農協マンが多い中で、彼は数少ないふるさとを守る(ふるさとの文化を守る・ふるさとの人を守る・ふるさとの田畑を守る・ふるさとの活気を促す)人なのです。

 昨日は彼の生き方のバックボーンをパソコンを使って存分に説明してもらいました。生活設計を基調にした生き方は私の考えと殆ど同じだし、これほど理路整然と自分の人生を見つめ語れる人は少ないのではないかと思うのです。脂の乗り切った経済人なので彼の人生は、父親の病気や娘の病気という難易度の高いハードルを、逆にきっかけとして活かして強くなっており凄いと思いました。

 「経済人は経済で破綻する」(私の造語)このような人を私は何人も見てきました。日銀総裁や村上ファンド、ほりえもんなどなどはほんの一例ですが、私たちの周りには株や土地、先物に投資して一儲けを企んだため、元も子もなくなった人を何人も見てきました。チャップリンのライムライトのように「ささやかな蓄え」で満足するような人間であり続けることも人間らしい生き方かも知れません。

?二人に出会ってまた私の心の中に新しい火種がくすぶり始めました。生き方をを理論化することです。論理と理論という言葉があります。理論とは「個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識」で、「実践を無視した純粋な知識」でもあります。一方論理は思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。実際に行われている推理の仕方。論証のすじみち。と広辞苑に書いていますが、私流に考えれば実践から生まれた知恵が論理であり、学問から得た知識が理論だと解釈しています。私たち実践家は論理の世界に生きています。それを理論にして説明できることが大切です。現代は理論家が多く、知識は語りますがそれを実践する人は少ないように思います。論理家を標榜する私たちは論理を理論化することが大切だと日ごろから思っています。清水さんは論理家と評論家の中間世界の人かも知れませんね。

 昨日から孫が夏休みになり、昨日は私が一日子守を引き受けました。たまに来る孫は可愛いのですが、一日中孫の守りをすることは重労働です。昨日は清水さんとの打ち合わせに孫同伴となってしまいました。ご迷惑をおかけしました。

  「評論家 御託並べて 議論する 最後は論理 少し分があり」

  「牧場に 訪ねし人に 教え請う 知恵の高まり 早くも実感」

  「メモしつつ 議論重ねる 爺姿 孫の目からは どんなに見える」

  「孫の守り 二人で昼寝 気持ちいい 幸せ感に セミの鳴き声」 

 


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shin-1さんの日記

○やっと見つかった幡多八景金毘羅さんと民宿・薮ヶ市・須崎(20-10)

 西ヶ方の駅を訪ねた時、駅の近くに幡多八景金毘羅さんという看板を見つけ、何度かトライしても見つけることができなかった場所がやっと見つかりました。彩花で民宿の女将井上茂子さんに会い、看板の向かい側だと説明を受けていたので看板から見ると直ぐに分りました。やはり虫の目より鳥の目が必要だったようです。西ヶ方の沈下橋を渡って離合もかなわない車が一台やっと通れる細い道を、踏み切り近くまで行ってUターンして帰り、少し松野側まで走った所にまるでモグラの穴のような小さなJR予土線のトンネルがありました。こんな小さなトンネルでは見つからないはずだと納得しました。付近に車を止め金毘羅さんの細くて長い道を一人フウフウ汗をかきながら社殿のある広場まで登って行きました。周りには桜の木が沢山あって、桜の季節にはさぞ綺麗だろうと頭に描きながら、立ちはだかるクモの糸と藪蚊を気にしつつ一気に奥の院とでも言うべき断崖絶壁を登りました。神社の森はうっそうと茂っているため周りの景色は見えませんでしたが、鳥居には皇紀二千六百年記念などといかにも伝統のある神社であることを証明するような文字が見えました。

 真下には広見川の清流と予土線の線路が見えました。

 再び元の道を引き返し井上茂子さんが営んでいる民宿を訪ねました。運良く姉妹仲良く泊り客の夕食準備中で在宅だったので、上がり込んでお家を見学させてもらいました。大黒柱、天井の梁、囲炉裏端、家の構えなど、どれを見ても一級で民宿に使うには惜しい気持ちのお家なのです。何でもこの家は2年前に新築しご夫婦とも公務員だったそうで、民宿などしなくても?と首を傾げたくなるような雰囲気でした。

 玄関にさりげなく活けてる花にも品のよさを感じました。


 奥さんとお姉さんのお仕事の手を休めてもらい、記念写真を一枚撮らせていただきました。聞くところによると雇用促進協議会の石川さんに手伝ってもらってホームページを開設し、インターネットで泊り客を誘っているだけなのですが、これだけで夏場は満杯というのですから驚きです。泊まった方もこの家構えには多分満足して帰られることでしょう。それにしてもあいにく留守だったこの家の主の顔が見たいものです。何でも酒が好きだし人も好きで、この道楽を始めたというのですから一度は会ってみたいと思いました。できることなら妻と二人で泊まってみたい民宿でした。

 この民宿の入口に少し変わった看板があり、この10回の西土佐参りの期間中ずっとこの看板をやり過ごしながら考えていました。

 「生まれたところで生きていく」という看板です。かつて大分県大山町へ行った時、「瞳は未来へ」という看板を見た記憶が甦ってきました。何か分らないけど心に響く看板です。先日還暦の同級会を行った時ある同級生が、「お前が羨ましい。俺なんか集団就職列車に乗って都会に送られ、気がつけば定年、終の棲家はふるさとではない。生まれたところに育ち、生きてここで死ねることは幸せだ」としみじみ話しました。ねだられて吹いたハーモニカの「ああ上野駅」(井沢八郎)に涙した光景を思い出しました。当たり前ながら「生まれたところで生きてゆく」というふるさとへの思いが伝わる味のある、そして旧西土佐村を表現するに相応しい看板だとしみじみ思いました。

 昨日の集会は日本一のモミの木があった津賀から更に奥まった薮ヶ市・須崎です。集会所の周りには早くも秋の気配が漂い始め、圃場整備された田んぼの稲は黄色く色づき、ハウスではイチゴの作付け準備が始まっていました。西土佐の村々を回って思うのですが、しし唐やオクラの畑はみな整然として勤勉な土地柄や人柄を表しています。集会所には時間通りそれなりに人も集まり、私の話に熱心に耳を傾けてくれました。特に私の話の途中で拍手が起こったのは初めてでびっくりしました。健康の貯蓄・感動の貯蓄・金銭の貯蓄・人間関係の貯蓄・知識の貯蓄という5つ葉のクローバーの話を人生の生活設計とともに訴えました。

  「看板の 言葉気になる 西土佐路 まちを愛する 気構え語る」

  「おとろしや こんな立派な 民宿で 一泊とまり ゆっくりしたい」

  「妻繁子 民宿女将 茂子です 文字は違うが どこか気風が」

  「早十回 後も十回 折り返し 集落巡り いよいよ佳境」

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shin-1さんの日記

○夏の水やり

 台風が相次いで日本列島を襲うようになりました。台風7号は日本列島をかすめるように北上し静岡県・神奈川県・東京都では思わぬ雨で土砂崩れがかなりあったようで、時ならぬ被害に都会の人はびっくりし、「災害がこんな都会で起きるなんて」と、さも「災害は田舎に起きるもの」なんて身勝手なコメントがテレビで映し出されました。「冗談じゃあないよ」と言いたいのですが、被災した人に悪いのでそんなことは言えませんので、お見舞い申し上げます。一方台風9号は八重山地方を暴風域に巻き込みながら北上するにしたがって予想以上に発達して石垣などでは大時化になっているようです。

 九州に比べると少ないのですが四国も台風の通り道に当たり、これまでにも室戸台風など沢山の台風がやって来て、その度に大きな爪痕を残していますが、今回に限っていえば気圧配置の影響で四国は何の影響も受けずに済みましたが、人間はほとほと勝手なもので「そろそろお湿りが欲しいと思って台風を待っていたのに、台風がそれてこりゃあ水不足が心配だ」と、来なかった台風への恨み節が聞こえています。それもそのはず、長雨だった梅雨が明けてから雨の一粒も降らないのですから、畑の作物は水が欲しいと根を上げています。

 わが家の菜園を管理する親父の日課も潅水のためにかなりの時間と手間をついやするようになってきました。わが家では親父がこんなこともあろうかと、庭の隅に井戸を掘り水不足に備えています。元々は池で鯉を飼うために掘ったのですが、裏山からの湧水で池の水が賄われるため、井戸の水は殆どが畑作用や洗い物に使われるのです。ホースを伸ばし蛇口をひねれば100メートルもの細長い畑と庭には全て水が撒かれるような配管を親父はちゃんと設えているのです。

 陽が西に傾いた夕方から親父の水やりは始まります。ナスやピーマンなど夏野菜は瑞々しさが命ですから、たっぷりやった水を夜の間に吸った野菜は朝取りとして食卓をにぎわすのです。しかしこの水やりも限界があり、日照りが続くと土地の浅い所は根が痛むのか余り寿命が長くないようです。

 植物は一度水をやり始めると、自分で土地の水を吸うことを止め、人から貰う水で生きる習慣がつくのです。ですから親父には「水をできるだけやらないように育てよう」と提案するのですが、余り言うとせっかくの丹精を傷つけてしまうことになり、生きがいをも枯らせてしまう恐れがあるので余りこだわらず、「じいちゃんがいるから野菜が食べられる」と持ち上げに懸命なのです。今はまだ野菜も何とか持っていますが、多分お盆頃には根を上げるのではないかと一雨欲しい天を仰いでいます。

 水が欲しいのは植物だけではありません。私たち人間もそろそろ水の大切さを気にしなければならないようです。先日西土佐に出かけて四万十川の支流目黒川の水を直接手ですくって飲みましたが、その美味しかったことは今も忘れることはできません。水道水に馴れていると水の本当の味や水の大切さをついつい忘れがちですが、空気と同じく人間が生きていく上で最も大切な水のことをもっと真剣に考えないといけないような気がするのです。最近は水道の蛇口にフィルターをつけて水を浄化する機械も開発され、親父はその水を飲んでいます。親父が長生きしているのはこの水のお陰かもと思うと、私も時々この水を隠居で飲んでいます。別に味が違うわけではありませんが確かに体にいい水に違いありません。水は人間の生命の源であることを今朝は親父の隠居でこの水を飲んでしみじみ思いました。

  「鯉メダカ 野菜と自分に 水をやる 親父はやはり ほんまもんだな」

  「陽が沈み 夕日見るのが 俺の役 親父は水遣り しんどかろうに」

  「水やると いつも貰うと 勘違い 補助金貰う 癖と似てるね」

  「台風が 来ぬから水が 不足する ぼやくな去年 もう忘れたか」


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