shin-1さんの日記

○家の周りの草刈り

 わが家の敷地は家庭菜園を含めると660坪もありべらぼうに広く、地元の人からは狭い土地柄もあって「いいですねえ。お宅は土地が広くて羨ましい」といわれています。確かに狭いより広いに越したことはないのですが、若い頃とは違って広いということが少々重荷になりつつあります。贅沢な悩みなのでしょうが、有に200メートルはある細長い地形には畦畔と称する斜面があって、隣の敷地と境界をなしているのですが、この草刈りがまた大変な重労働なのです。毎日草を刈ってるお百姓さんならこの程度の草は朝飯前なのでしょうが、夏の暑さもあってまさに汗だくだくなのです。昨日と今日の二日間、といっても昨日午前中3時間、今日午後1時間半をかけて、今年3回目の草刈りをやりました。お陰さまで家の周りがまるで散発をしたようにすっきりとして、「うん綺麗になった」と自画自賛するほど綺麗になりました。

 昔なら炎天下の草刈りで一汗かいてシャワーを浴び、「ビールをぐい」と行きたいところですが、酒を飲まなくなった私はシャワーを浴びて「麦茶をぐい」程度なのです。ビールを飲んでた昔を懐かしく思い出すのですが、酒を止めて6年も経つと体内からアルコール分が完全に消えているため、もう一度飲んでみたいという気持ちには不思議とならないのです。

 家の周りの草刈りは4月に1回、6月に1回、8月に1回、10月に1回の年4回やりますが、自分の都合と父親の助言が優先されます。草が伸びてくると几帳面な性格の父親はそれとなく私に「家の周りの草が伸びた。もうそろそろ刈らんといかん」などといいながら家の裏のドハ草を鎌で少し刈るデモンストレーションをやって私を促すのです。若い頃はそんな親父の言葉や行動が何とも嫌で、言われれば言われるほどまるでアマノジャクを決め込んだものでした。しかしそんなアマノジャク的な元気も今は失せて、自分の家を守る当然の仕事として草刈りをするようになりました。今回は草丈が比較的短いなと思いつつ草刈機のエンジンをふかし作業を進めました。前回何時草を刈ったのか記憶にありませんが、今日は台風の去った後の吹き返しのような生ぬるい南風の吹く中でいい汗をかきました。

 何年か前双海町の海外派遣研修事業の団長としてオーストラリア・ニュージーランドへ研修生を引率して行きました。ニュージーランドではホームスティをしましたが、何処までも広がる牧草の中にこんもりとした緑の森があって、その中にポツンと一軒まるで絵に書いたような家がありその家に泊めてもらいました。中庭には芝が植えられご主人が芝刈り機で芝を刈るのが日課だと言っていました。わが家もそれを見習って少し裏庭に芝を植えてみましたが、芝どころか芝の中に雑草がはびこって結局は失敗に終わってしまい、芝をはがして今は小砂利を敷き詰めています。理想と現実は違うと実感したものでしたが、ニュージーランドのご主人のようではないにしても、生える草を恨んだり何で私がこの草を刈らなければならないのか腹立たしく思ったりすることなく、草刈りを日課にするような優雅な心を持ちたいものです。

 親父が船を下りた70歳から88歳になる今日まで、家を守る作業の殆どは親父の仕事として位置づけられ、親父も元気の源としてその作業に誇りと生きがいを持ち続けてきました。その親父も「来年はもう」などと弱音を吐くようになり、その作業の量が少しずつ私に移りつつあると実感するようになりました。庭木の剪定も中庭の草引きも大変と思えば大変です。優雅な気持ちでとまではいかなくても思いを持って親父に近づきたいと思っています。

  「草を刈る ただそれだけの 仕事だが 俺もそろそろ 腹を決めねば」

  「田舎ゆえ 空気は美味いし 水だって 自慢の裏に 草刈る義務も」

  「散髪を したよに綺麗 わが屋敷 草刈り後の 美しきかな」

  「年金を 貰える意味は 後がない それに収入 なくなる日々だ」

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shin-1さんの日記

○凄いね1034という数字

 毎日少しづつ積み重ねた数字が1034です。「えっ、何の話」とお思いでしょうが、これは今月に入っての私のブログ「shin-1さんの日記」にアクセスし読まれた方の8月18日現在の人数カウントなのです。それに昨日の55人を加えると1089人、一日平均57人という私にとっては驚異的な数字なのです。先月から私の所属するアメーバーブログのトップページがリニュアールされ、自分のアクセス数が毎日累積されるようになってきました。不思議なもので毎日開けるトップページにはこのカウント数が毎日出るものですから、それまで余り意識しなかったのに最近はこの「読者」たる数字が妙に気になり始めたのです。

 「メールを読みました」とコメント欄やEメールで感想を入れてくれる人は、匿名にせよ氏名公表にせよ相手の顔がおぼろげながら想像できるのですが、毎日、時には80人もの不特定多数の人が私のブログを読んでくれているのです。時々出会う友人から「毎日ブログ楽しく読ませてもらっています」とか、「ブログの写真を見ました。お孫さんも大きくなりましたね」なんて会話を直接話す人もいて、ブログを餌に様々なお喋りが飛び交っています。

 昨日出会った「えひめ地域づくり研究会議」のメンバーからは、私のブログの活字量と一日2本程度の話題量について「凄い」と褒めてくれました。私もブログを書く手前、仲間や友人、知人のブログをよくアクセスして読みます。確かにその方たちは忙しい人なのでしょうから活字量も少なく、話題量も私のように毎日2本程度ではなく、一週間に一本程度の人も案外多いようです。私が多いのか少ないのかは自分でも正直いって分らないのです。昨年の9月に娘婿に勧められてブログを始めた頃は、一日一本でもそれは大変な苦痛でした。どんな話題を書けばいいのかさえも分らず、また書き込んだ文字の変換ミスを直す方法さえ分らず右往左往したことを思うと、文章の出来栄えは別として僅か一年で凄い進化を遂げたことになるのです。

 文章をブログに打ち込みながら思うのは、「文章を考えるのも朝昼晩、飯を食ったりトイレへ行ったり、眠ったりする暮しのリズムのようなもので、リズムに組み込まれると案外何てことはないようになるものなのです。朝起きて一本、夜寝る前に一本、てな具合で書いた結果が今の自分なのです。ですから一週間に一本程度の人から「凄い」と言われても別にどうってことはないのです。

 文章は毎日書く癖をつければ案外早く、組み立て作業が頭の中でできるようになります。最初1時間かかった一本のキジも30分に短縮され、誤字や脱字も少なくなって読みやすくなるようです。小説家は毎日筆まめに書くことを仕事にしているから上手く書けるのだと思うのです。今は文字を忘れてもキーボードを叩けば簡単に幾つもの文字が出てきて、その中から探せばいいのですから辞書を引くこともなく随分楽な作業です。ただ検索能力は発達しますが、人が言うようにペンで直接書く時代から比べると文字を書いて覚えたような記憶力が減退することだけは確かなようです。

 「よくもまああんなに毎日書くことがあるねえ」と感心されることも時々あります。自分でも驚くのですが、パソコンの前に座ってブログのトップページを開けると、書きたいことが浮かぶようになったのですからこれも凄い進歩です。「記事ネタは足元」と思うようになりました。身近な話題は足元にいっぱい転がっていて、案外その話題や文章の方が読んでも楽しいことが分りました。立派な文章を書きたいと肩肘張り過ぎて書くのに苦労した初期の頃は、書くために色々な本を仕入れて、まるでパクリのようなことをしていましたが、今思うと作者が書いた本のようなことを書いても何の面白さもないことが分ってきたのです。

 カウント数は自分のブログの出来栄えとは余り関係はありません。でもカウント数によって目には見えない読者の存在を意識することは一方的といわれるインターネットの世界で、相互交流ができる別な楽しみ方なのです。私はブログとメールで新しい交流の世界を楽しんでいます。

  「ブログ書く これが日課に 加わって 退職したけど 結構楽しく」

  「不味くても 俺のブログを 読む人が こんなにいるの 嬉しくなって」

  「俺のこと 何でこんなに 知ってるの 知ってるはずだ 知らせているから」

  「文章も 新鮮一番 古くなりゃ 不味いはずだよ 食い物同じ」 

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shin-1さんの日記

○演劇鑑賞

 わが家の次男「一生」は今年8月16日でで31歳になりましたがまだ学生です。高校を卒業して直ぐに就職しましたが4年前に一念発起して看護士の道を志し、看護学校に入学しました。この学校は3年で準看護士資格を取得し、更に専攻科で勉強そして正看護士を目指すのです。私たち素人目から見ると5年間は気の遠くなるような時間と思われましたが、早いもので来春には卒業して就職するため、今は5年目の実習をしながら就職活動をしています。

 その次男は仕事や学習の合間を縫いながら演劇活動をやっています。そもそも次男が演劇と関わったのは長男が出した劇団のオーディション応募の一枚のハガキがきっかけでした。少し内気で控え目な弟に自信をつけさせようとの思いからハガキを出したのです。その話を聞いた弟は激怒し「僕はオーデションには絶対に行かない」と粘っていましたが、明くる日ちゃんとオーデションを受けに出かけたのです。ところがオーデションの何であるかも知らぬままの受験でしたが、何とオーディションに合格してしまったのです。それからは小中高と一貫して入っていたサッカーの部活も止め演劇へとのめり込んでいきました。息子の所属する劇団は松山を活動拠点にしている「イリュージョン」という劇団で、井上佳子さんが作や演出を手がけています。

 あれほど内気で人の前へ出るのが恥ずかしかった次男は演劇によって大きく成長し、親目からも進化の後がうかがい知れるのです。今では演劇の振り付けを任されるまでになって、自信溢れる演劇活動をしています。

 今日は年2回の劇団の公演日です。妻は息子のために友人を演劇鑑賞に招待しました。今日と明日の二日間の公演ですが、私は妻の友人のアッシー君として同じ車を運転して同行しました。妻の出身地八幡浜からは魚本さんがわが家に泊りがけでやって来ましたが、顔も見覚えのある方なのですっかり打ち解けて松山の橋本さんと4人で開演までの束の間を食事をしたり堀の内界隈を散歩したりと、久しぶりにゆっくり時間を過ごしました。入場は6時半、開演は7時なのですが、開演前には長蛇の列ができて私たちも並んで入場し、自由席なので比較的前のいい席が取れてホッとしました。今日は少し早めに行ったため、無料駐車場へも車を止めることができラッキーでした。

 毎年のことながら加戸知事さんご夫妻も鑑賞に来られ、いつの間にか会場は殆ど満員の状態でした。やがて幕が開き途中10分の休憩を含めた2幕で2時間半の長い演劇でした。これも親の欲目でしょうか息子の踊りは劇団中他の誰よりも上手く、随所に息子のキラリ光る出番があったように思うのです。代表の井上佳子さんとも立ち話をしましたが、息子の成長に目を細めているとのお話でした。

 舞台は実力者の塩見さんが手がけているだけあって、凝った、それでいて美しい雰囲気を出して違和感はまったくなく、いやそれ以上に演劇を目立たさせる仕掛けが随所に感じられました。カメラの撮影は演劇ではご法度なので控えておりましたが、最後のの幕が降りる瞬間とカーテンコールの拍手で再び開いた場面を写真に収めたのです。

 これが松山市民会館中ホールの舞台です。鳴り止まぬ拍手の中で幕が下りましたが、衣装も舞台も素晴らしいものでした。

 さて今日の演劇の演題は「RENEWtheアース「シムルグ鳥の予言」という子難しい名前のミュージカルです。これは告知ポスターですが誰が書いたのか実に上手く表現されていました。

 内容は戦争や環境悪化などこれほど文明の進んだ地球上で、今なお起こっている様々な問題を取り上げ、未来への警鐘をメッセージしているのです。最後のシーンはかけがえのないこの地球を汚した人間が、再び人間の力で復活させなければならない 

作という者の意図がビンビン伝わって、久しぶりにいい演劇を見た満ち足りた心で大きな拍手を送りました。

  「十四年 続けた演劇 凄いです 知らない世界で 子どもは育つ」

  「夜遅く 帰えりきたのは このためか 日々の練習 さぞやお疲れ」

  「若松と いう家彼の ような人 おらぬかしげる 新人類?」

  「公演が 終わり息子の 目に涙 感動したか 俺も感動」 

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shin-1さんの日記

○雨の中での集会

 昨日は台風の影響で県下全域に大雨警報が発令され、わが双海町でも時折激しく雨が降りました。そんな中私が代表を務める「えひめ地域づくり研究会議」の、2ヶ月に1回の定例運営委員会が人間牧場で開催されました。普通運営委員会は松山の地域政策研究センターで開くのですが、時折地方に出て会議をやるのです。運営委員の面々の中にはまだ人間牧場へ来てない人もいて、折角やるのなら人間牧場でと門田さんの発案で計画されましたが、その発案者たる門田さんが所用で欠席ですから面白いものです。

 今回の台風10号は速度が遅く、「ゆっくり北上」なんて表現がまる三日も続いていて、上陸したり通過した九州地方の皆さんは大変だったに違いありません。愛媛は四国山脈の陰に隠れて大した雨でもなくホッとしている、いわば恵みの雨だと誰もが感じるほどの貴重な雨だったようです。それでも朝から運営委員会に出席予定の皆さんからは「雨だがやるの」とか、「尼が降ると危険ではないのか」などなど、様々な問い合わせが寄せられましたが、スケジュールの詰まった方ばかりなので思い切って決行する事にしました。中には雨で来れない人もいたと思うのですが、屋根を叩く雨音やウッドデッキを濡らす雨模様を見ながらの会議をするのも風情があって、時折霧が晴れて瀬戸内海や山並みが見える眺望に、一同感激の面持ちでした。

 「えひめ地域づくり研究会議」は結成以来20年目を迎えます。今日はその20周年を記念して既にスタートしている県内リレーシンポと20周年記念誌の発刊が議題でしたが、それぞれの担当分野で原案が作成されているので案外スムースに2時間の議論を終えました。

 5時半からはそれぞれが持ち寄った酒や肴を肴に小宴会です。私の高座用の魚梁瀬杉座卓の周りに思い思い陣取ってワイワイガヤガヤ楽しい宴会となりました。折角の集会ですからオードブルでもと思ったのですが、ゴミを出さないで持ち帰り、調理をしない、できるだけ質素にという人間牧場の掟に沿って四方山話に花を咲かせました。わが「えひめ地域づくり研究会議」は県内でもトップクラスの活動家の集まりなのでお喋りも味があって内容が深く、いい学びができるのが特徴です。この日は優秀な事務局職員が製作した私と亀岡徹さんのプロモーションビデオが上映され、笑いと感動と反省でいつになく盛り上がりました。

 

 お手玉遊びを全国的なイベントに育て、今や海外とも交流している仕掛け人である新居浜の武田さんは、時折晴れるウッドデッキに出て私の説明の向こうに見える眺望を存分に堪能していました。来週末にはお手玉全国大会と私たちのリレーシンポが新居浜で開催される予定で、その準備や運営に忙しい日々が続いているようですがご自愛の上頑張って欲しいものです。

 昨日の人間牧場から見える風景も雨や霧で一寸先が見えないような時があるかと思えば、時折陽が差して雨上がり特有の瑞々しい光景が一望でき、平穏な晴れた日よりも表情が豊かで、海は空を写す鏡のように鉛色ながら刻一刻変化して美しいと誰もが褒めてくれました。

 私は「えひめ地域づくり研究会議」の役員を結成当時から二十年にわたって務めています。もうそろそろと何度か思いながらあっという間に二十年が過ぎました。二十年前の幼稚だった地域づくりの理論や実践は私にとっても研究会議にとっても大きく成長してきましたが、地域づくりに対する情熱と実践は今でも、いやむしろ今の方が高いと自負するのです。若さとは年齢ではなくその想いの量と質がどれだけ高いかで決まるのです。その意味では研究会議の運営委員は皆若いです。魅力があります。まだまだ進化するようです。

  「雨の中 想い集めて 知恵を出す 頭も外も 澄み晴れわたる」

  「美味かろう 手持ちの品を 自慢して 飲み食い三昧 これぞ至福だ」

  「酒ありて 元気和やか 友の顔 俺も昔は こんなだったな」

  「二十年 そんなに経ったか 早いもの 時の流れの 速さ驚く」


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shin-1さんの日記

○文化とは何か・西土佐(20-11)

 トインビーは「文化とは航海である」と言いました。今東光は「文化とは決まり事が守れて街が綺麗こと」と言いました。ある県庁の課長さんは「文化とは何か」という質問に「文化を一口で言うのは難しい」「じゃあ二口で言ってください」「・・・・・・・・・」。亡くなった柳川市の広松伝さんは「俺の街は夏になると掘割に蚊がわいてブーンと飛ぶから文化だ」と笑って答えました。当然あちらこちらで話す機会の多い私に対しても「文化とは何か」という同じような質問が度々寄せれれます。これらの発言や質問でも分るように分っているようで分らないのが「文化」だと思います。さて「文化とは何か」と問われたら皆さんはどう答えるでしょう。広辞苑を引いてみました。「文化とは文徳で民を教化すること」だそうです。分りますか?、益々分らなくなってきました。「世の中が開けて生活が便利になること」「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住はじめ技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む」文明と同義語。「西洋では人間の精神的生活に関わるものを文化と呼び文明と区別する」と書かれています。文化とは左様に分りにくいものなのです。

 私は「文化とは人間がよりよく生きるために考えを形にする営み」だと説明しています。お茶を飲むことは茶道、花を活けることは華道、文字を書くことを書道、武術を習うことを武道などなど、人間はよりよく生きるためによりよい道を求めてきたのです。

 ところがつい最近、文化行政なるものが流行り、東京発の文化や芸術に触れることが文化だと思ったり、文化会館の立派なのを造ることが文化だとはき違って思っている人が多くなってどのまちも高いお金を出して文化会館の立派なのを建て、利用されぬまま高いメンテナンス料金に悲鳴を上げている市町村が多いことに驚くのです。特に平成の大合併を予測してまるで駆け込み寺のように訳も分らないほど文化会館が建ってしまいました。

 そもそも日本の文化はアグリカルチャーという言葉で表現できるように農耕文化が基底にあるのです。日本文化の基本である農業が機械化や大規模化によって自然の成り行きが無視され、あたかも人間が自然を征服したかのような振る舞いをするようになってきました。文化の基底である農業が危ないのですから文化も危ないのです。

 昨日四万十市西土佐の高台にあるふれあいホールという立派な文化会館をぶらり訪ねました。運良く顔見知りの中平所長さんがいて案内してもらいました。外観もさることながら中の立派なのには目を見張りました。失礼な言い方ですがこんな小さな村にこんな立派な施設があるなんてまさに驚きです。

 固定椅子と移動用椅子を並べると600人は有に座れる、5億円規模のホールです。今は教育委員会が管理するため事務所移転しいますが、説明によると稼働率20パーセントだそうです。それでも地元の太鼓集団が練習場に使っているのでそれなりの成果は上げているようですが、それとて地元が故に利用料金を取ることもできず、四苦八苦しているようでした。

 見学をしていた矢先外は激しい雨が降り出しました。ところがどうでしょう屋根天井を叩く雨音が激しくなって容赦なく室内に聞こえてくるではありませんか。「はいこれがこのホールの欠点です。でもこれも自然的でいいでしょう」と苦笑していましたが、室内で楽器の演奏中に雨音が聞こえたらコンサートも興ざめするかもと一人気を揉みました。

 見てくださいこの天井。まるで東京の一流ホールのような雰囲気です。思わず天井を見上げてパチリ写真に収めました。

 私のまちでもひと頃文化ホールを造って欲しいと隣の町のホールを羨んで多くの希望がありました。でも年間利用計画と投資額の差、ならびにメンテナンス費用が膨大で、結局は造らなかった経緯があります。もし仮に私のまちが文化ホールを造っていたら間違いなく今はお荷物になっていたに違いありません。その時私は町民への文化ホールを建てない理由を「隣町の文化会館を1ヶ月に1回借りて利用者をバスで送迎してもまだその方が安上がり」と説明したのです。勿論建てれば文化団体が育つなど副次的な効果はあるかも知れませんが、それでも全国に起こった文化ホール乱立の無意味さを分ってもらったと理解したものです。でも結果的には合併しそんな予算は組まれるはずもなく、説明責任を果せないでいる自分を悔やんでいます。

 要は文化ホールがあるから文化度が高いのではなく、文化ホールを必要とする時文化度は高くなるという事実を行政も住民も気付かねば、この文化ホールは無用の長物になってしまうのです。そのヒントは旧丹原町、今の西条市丹原町の文化ホールの運営にあるような気がします。一度ご覧あれ。

  「文化とは 何か分らぬ 行政が ホール造って お茶を濁して」

  「このホール 立派なけれど 雨の音 自然とコラボ 時代先取り」

  「天井は まるで東京 丸の内 ただし耳だけ 塞いでみれば」

  「教育を 全て任され その上に ホール任され 課長大変」 


 

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shin-1さんの日記

○台風10号襲来の中を・本村地区(20-11)

 妻「お父さん今何処ですか」。私「今大洲を走っとる」。妻「西土佐の和田課長さんから電話があって台風が近づいているので、今晩の会をどうしようか思案中なので連絡くださいとのことです。電話番号は・・・・」。私「ちょっと待って、今は運転中なので車を止めるから・・・」。妻「電話番号は○○○○です」。私「了解しました」。

 私「和田さん電話もらったそうですが」。和田課長「ええ、奥さんにも話したのですが日帰りのこともあるし、今日の会はどうしようかと思案しています。あと1時間後で判断しましので・・・・・」。私「青年の家の件で会う人があり早めに出てきました。ここまで来ているのでやる方向で検討してください」。和田課長「分りました』。

 私「四万十市西土佐地域事務所でしょうか。中脇係長さんはいますか」。中脇「はい中脇です」。私「その後雨や風の具合はどうですか」。中脇「はい今のところは小康状態です」。私「じゃあやりましょう。これからゆっくりそちらへ向かいます」。中脇「お気をつけてお越しください」。

 てなような緊迫した電話のやり取りをしながら、ふと10数年前の台風の時の悪夢が甦ってきました。その日私への電話の相手は後の瀬戸町教育長となった浜松為俊さんからでした。瀬戸町塩成での研修会に招かれ行く予定でした。そこへ電話が入ってきて、浜松「台風が接近中でどうしようか思案しています」。私「台風くらいが何ですか。天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」。浜松「よっしゃあ、じゃあやりましょう。直ぐに出発してください。お気をつけて」。昨日とそっくりの電話でのやり取りでした。ところがいざ出発してみると台風が近づくというよりは、台風直撃のため、佐田岬半島の国道197号線に出るとあちこちでは街路樹が倒れ、車が数台まるで亀の甲を逆さまにしたような状態で、この世のものとは思えぬ惨状に思わず後ずさりするほどでした。それでも風に横揺れされながら頂上線を走り、やっとのことで道の駅までたどり着いたのですが、そこから先へは進めず、結局はトンネル内でUターンして三机まで下り、瀬戸町商工会の奥山さんの家を訪ねましたが、電線や屋根瓦が路上に散乱しとても走れる状態ではありませんでした。奥山さんの家も停電で、ローソクを点けてもらいそれから奥山さんと台風の過ぎるのを待ちながら長い長い夜を二人でビールを飲みながら四方山話に花を咲かせました。

 明くる日は台風一過の晴天で、台風の傷跡が痛々しい国道197号を無事帰りました。この話を聞いた妻はあれ以来私の車での遠出には特にうるさくなって、事あるごとに止めるよう促すのですが、私の素行は一向に改められず今日に至っています。

 さて昨夜の集会は、台風襲来や折からの雨、それに私の都合で18日から17日に急遽変えてもらった様々な悪条件が重なり、多分区長さん以外は集まらないかも知れないと思って出かけたのですが、主催者を合わせると20名ほどの賑やかな会となりました。わが双海町にも本村という熱心な地域があるので、そのことも紹介しながら楽しいいおしゃべりに終始しましたが、質問が出たり、帰り際の雑談が多いに盛り上がって20分も超過してしまいました。区長さんの配慮でお茶までサービスしてもらったこと、チョークの真新しいのをご用意いただき、学校から貰ったというワイド画面の黒板に書き込んで説明したことなど、外の雨音を感じさせないものとなりました。雨が降って周辺の散策ができなかったのは残念でしたが、それでも雨降りしきる中を無事帰宅、帰って原研へ入った瞬間、タイミングよく中脇係長さんから帰宅確認のお電話までいただきました。感謝感謝です。

  「台風が 来るから集会 どうするか 電話やり取り 一押し決行」

  「あなどって 大事しよった 過去がある それでも俺は 前向き進む」

  「雨なのに 俺の話を 聞きに来る 腕をまくりて 声高熱弁」

  「西土佐の 雨に比べりゃ うちの雨 まるで霧雨 雨とはいえず」

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shin-1さんの日記

○予期せぬ死

一ヶ月前に旧友堀間さん(67歳)が不慮の死をとげ、一昨日は本間さん(57歳)という妻の友人のご主人が亡くなりました。年齢的には人生80年といわれる長寿の時代にしてみれば67歳も57歳も早死にというべきでしょう。一人暮らしだった堀間さんは台所で死に、本間さんは自宅の階段を踏み外して落下し、食べた物を喉に詰まらせて死にました。いずれも本人にとっても家族にとっても不本意な予期せぬ死であったことは、通夜や葬儀の深い悲しみの姿からも容易に汲み取れるのです。「堀間」さんは「ほりま」、「本間」さんは「ほんま」と中の一時が違うだけですからこれも何かの因縁でしょうか。つい最近近しい人や親しい人、それに年齢的に同年代の人の死を目の当たりにすると、「いよいよ俺の番かな?」と思うのは当然のことかも知れません。

 私が初めて死を意識したのは18歳の時でした。宇和島水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に旅立ち、帰港の途中に冬としては珍しい超一級の低気圧の洗礼を受け、船長さんから「この船は沈むかも知れない」という話を聞いた時、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と思ったのです。幸い生きて帰れたのです。その後何度か病気になり、何度か怪我もしましたがまあまあ元気で61歳の今日まで生きれた事に感謝はするのですが、さてこれから死ぬまでの期間をどう生きるか、そろそろと思いつつも死ぬことよりも生きることの方にまだ心が向いているようです。だって親父を見送る責任があるからです。一番の親不孝は親より先にあの世へ行くことだといつも諭され生きてきました。故に神様仏様、お願いですからもう少しだけ親父も私も長生きさせて下さい。勿論妻もですよ。

 ところで最近身の回りで自ら命をたつ人が増えてきました。周りから見れば何もそこまでと思うのですが、命を絶つ人それぞれにこの世を儚んでの決断だけに寂しい気がします。その原因は金銭トラブルと人間関係のトラブル、それに健康上の理由が圧倒的に多いと聞きました。あの大人物三島由紀夫や川端康成さえも自殺するのですから、人の悩みは理解し難いもののようです。

田舎者には田舎者の、都会人には都会人の悩みがあります。また貧乏人には貧乏人の悩みが、金持ちには金持ちには金持ちの悩みがあるのです。しかし田舎者も都会人も、貧乏人も金持ちもみんな命は一つだし、死んだら元もこもないのです。死に損なって死の淵から帰ってきた人の話を何度か聞きましたが、「死なないでよかった」が結論のようです。現代人は皆人生の重い荷物に押しつぶされてもがき苦しんでいるように見えます。要はその荷物を捨てることから始めることです。ある老人が一儲けしてやろうと先物取引に手を出しました。最初はこれほど儲かるのかと思ったらしく、次々に投資しお定まりのコースを辿ったようです。結果世を儚んで自殺というこれまたお定まりのコースを辿る予定でした。しかし神仏にすがるべく歩き遍路に出たそうですが、歩いているうちに死ぬことがばかばかしくなって無から出直しを誓い、今は立派に生きています。

 自分が自らの命を絶って死ぬことはとても勇気がいることです。でもこのおじいさんのように無一文になって重い荷物を下ろせばまた生きることの希望が湧いてくるのです。大体自殺する人にはマイナス思考の人が多いそうです。私なのどのように、失敗してもジョージアの宣伝ではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて人は滅多に自殺しません。自殺する勇気がないのです。世の中は先日まで不景気でした。東京では景気が回復しバブル時代を超えたとさえ言われています。しかし田舎ではまだまだ景気がよくなるどころか不景気で、特に建設土木業界は大きな試練に立たされています。田舎にあれほどあった中小の土木建設業者は倒産という名の下に次第にその姿を消しています。土木建設業のランク分けがされて仕事が回らなくなったばかりか、設計見直しで儲からなくなり、下請け孫請けなど赤字覚悟の自転車操業だと聞きます。どこか可笑しい世の中です。

  「この町の 仕事請け負う 他所の人 何故にゼネコン やはり献金?」

  「ゴーストに なりはしないか この町も 一つ二つと 灯が消え寂しく」

  「また一人 周りの人が 死んでゆく 寂しき盆の 線香揺れる」

  「不足なく 欲もなくなり 良寛の 域に達する 自由なこの身」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりのお湿りです

 今年は例年より10日も遅れて梅雨が明けましたが、どういう訳か今年の台風は四国を避けて通っているようで、梅雨明けから今日まで双海町では雨らしい雨はまったく降らず、そろそろ野菜や果樹に恵みの雨が欲しいと思っていました。みかん農家では「そろそろ潅水でもしなければ」と思ってるのでしょうが、潅水施設を持っていない兼業農家ではまさに自然農法ですから、自然の意の向くままにただ雨の降るのを祈りながら待つのみの心境だと思うのです。

 昨日は少しのお湿りがありました。孫の守りで疲れたため11時に早い床入りとなりましたが、その頃には涼を取るため開けた雨戸の向こうで雨音が聞こえていましたが、朝4時に起きて外を見ると期待した雨は止んで木の下の土もまだ余り湿った様子ではないようです。昨晩の天気予報だと四国や九州は台風の影響でかなりまとまった雨が降るだろうとの予測だったので、今日の高知行きを心配していましたが、この分だと今のところは大丈夫のようです。

 お盆が過ぎるといよいよ秋から冬にかけての野菜の作付けをしなければなりません。今は畑の土も折からの太陽で焼かれガチガチで鍬さえも歯がたたない状況ですが、そのうち雨でも降れば耕運機で深耕しいい野菜を、しかも無農薬で有機肥料で・・・と夢は膨らんでいます。

 私は儲けなくてもよい農業をしています。自分の体のために働いたりできるだけ健康に良い果菜を自分で作って食べたい思いから農業を始めました。ですから農業は副次的なのです。これが農業で飯を食わなければならない人にとっては、天気予報が気になったり、雨の一粒、虫の一匹、病気の広がりなど、まさに自然の猛威と格闘しなければいい成果は望めません。それに加えて高く売れる市況情報も欠かせないものです。かつてのように作物を作れば農協が売ってくれる時代は終わり、自分が売らなければ広域合併した農協や行政を当てにして左団扇を振れるほど農業はやわいものではなくなっているのです。

 私には農業をしている友人が沢山います。儲けている人、あくせく働く人、様々ですが、儲けて楽をしている人はそんなにいません。長男に生まれたから仕方なく、農地を荒らすわけにも行かないから仕方なく、儲からないけど仕方なく、止めるに止めれないから仕方なく、これ以外に仕事がないから仕方なくなどなど、殆どの人が仕方なく農業をやっています。「農業が好きだけど」という前提はみんな持っているのでしょうが、儲からないために「仕方なく」へと右肩ならぬ両肩下がりとなっているのです。私の農業は農業といえるかどうか分りませんが、儲けなくてもよい甘い考えの農業をしている私の口幅ったい言い方をすれば、「仕方なく作る作物」は仕方ない味しかしません。儲けるためには知恵を出さなければなりません。一部分ですがこんな儲からない農業だとみんながぼやいていますが、農業で儲けている人も結構いるのです。また儲けなくても農業を楽しんで暮らしている人もいるのです。

 日和見農業という言葉や民話があります。あるお百姓さんが今日は天気だからと大根の種を蒔きに畑に向かいました。道端で村人がひそひそ話をしていました。「そんな根も葉もない話を」という言葉が聞こえたので「根も葉もない大根を作ったって仕方がない」とその日は種を蒔きませんでした。明くる日は雨でした。前でも種を蒔こうと蓑笠で出掛けると、近所に住む村の知恵者が「雨の日に大根を蒔くと腐ってしまう」とお百姓さんを諭しました。長い雨が上がり今日こそと思って畑へ出掛けました。途中顔を腫らした人に出会いました。「どうしたの」と尋ねると「歯を虫が食って昨晩は寝れませんでした」と言うのです。「葉を虫が食う」なんて縁起が悪いとこの日も種まきを諦めました。結局このお百姓さんはその年大根の種を蒔くことができませんでしたとさ。

 御幣担ぎとはこのお百姓さんのような人を言うのでしょう。自分の信念や主張がなければ、結果に対しても人のせい社会のせいだと責任転嫁して、自分の努力は棚の上に上げてしまうのです。

 信念を持った安全で安心な果菜を食べたい、それは少々高くても、今人間が最も求めている欲求かも知れません。

  「お湿りに 少し安心 お百姓 台風嫌だが 雨だけ降って」

  「高くても 儲かる訳では ありません 果菜の原価 しれたものです」

  「農業は 競争もなく 消えてゆく 自然淘汰の 悲し運命」

  「年金の 金で清算 するという 経費の清算 全て農協」

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shin-1さんの日記

○孫と一緒に地域政策研究センター訪問

 私が関わるまちづくりの仕事は公私の区別をつけなければなりませんが、余り公私の区別をつけ過ぎるとかえってギクシャクして上手くいかないことも多いのです。私は家の横に私設公民館煙会所を設置し、煙会所の囲炉裏を囲んで連日連夜夕日によるまちづくりのワークショップを行いいい結果に結びつけたのです。もしもその時、公私の区別をつけて公共施設でこんな集会をしても誰もその気にはなれなかったでしょう。私の生き方第2弾として作った人間牧場も私的な部分が100パーセントの施設ですが、それでも全国から人は集まり夢を語り合うのです。

 今日は孫の夏休みの御守り2日目です。孫の自由奔放な一日に私の暮らしを合わせるのは容易なことではありません。朝起きてから風呂を入らせて眠るまで、食事や午睡、遊びと3歳の孫の世話は何かと骨が折れます。昨日はセンターの清水さんにお願いしていたパワーポイントの提出資料を作成しなければならないのに、結局は中途半端で終わってしまい、市役所地域振興課の武田さんから借りる資料の借用期限もあって、仕方なく孫を連れての打ち合わせになってしまいました。

 見覚えのある幼稚園の登園途中にセンターはあるものですから、見慣れた車窓の光景に孫はてっきり幼稚園へ連れて行かれると勘違いしていました。

 地域政策研究センターでの打ち合わせは1時間弱で終わりましたが、見慣れぬ光景に目をパチクリさせていましたが、終始静かに付き合ってくれました。

 さあ仕事が一段落したがどうすると孫に相談すると「道後温泉に行く」というのです。孫と二人で何度か道後温泉の椿湯に入った経験があるので孫のマンションの駐車場に車を止めて歩いて出掛けました。お昼時だったこともあって温泉は人もまばらで、孫と湯桶で水遊びをしながらゆっくり過ごしました。昼ご飯は近くの食堂で冷しうどんを注文、上手に箸を使ってうどんを食べる孫を見て食堂のお姉さんが、「まあ上手に食べるのね」と褒めてくれるものですからその気になって、居合わせた10人ほどの客を巻き込んでしまいました。再び駐車場に戻り車に乗ると、さすがに疲れたのか居眠りスースーで、我が家に帰ってからも4時頃まで昼寝は続きました。お陰さまでちょっと気が抜け、ブログが一本書けそうです。

 昼寝から目覚めた孫はすこぶるご機嫌で単車に乗ってドライブしようというのです。余り交通量の多い場所は危険だし、二人乗りはご法度なので目の前上灘川沿いの農道を風を切らない程度に走りました。今日は台風の接近で時折小雨がぱらつくあいにくの天気でしたが、孫は左といえば左の、右といえば右の方向指示器を出すまでに慣れてきました。単車の始動も停止もキーを回してOKなのです。

 どうです、こお格好よさやご満悦な顔は何ともいえないすまし顔です。

 二日間の子守も無事終わりそうで、夕方母親と友人の葬儀に参列した妻が相次いで帰宅し、やっと肩の荷が降りました。孫はあすから大阪のおばあちゃんの所へ里帰りだそうです。やっとわが家にも元の静寂が戻りそうです。

  「まだ弱い 俺の知識を カバーする スライドつくり ご支援願う」

  「公か私か 区別分らぬ そのままに 今日も一日 遊び働く」

  「盆終わり 送り火焚いて 母や祖母 また来年も 帰っておいでと」

  「椿湯に つかりて孫と 束の間の  遊び楽しむ 今日も平和だ」


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shin-1さんの日記

○親父が始めた池づくり

 88歳の親父は何かにつけて革新的な生き方をしています。高齢ゆえに「体が弱った」と口癖のように体力の衰えを嘆くのですが、気力は衰えておらず様々なことに挑戦し続けていて、その姿勢には目を見張ると同時に私も見習わなければならないと常々思っています。数日前鯉を飼っているため鯉の業者さんが訪れ、行き掛かり上断りきれず鯉の稚魚を沢山貰ったようです。貰ってくれる相手もなく仕方がないので当面自分で買わなければならない羽目になってしまいました。家にある大きな水槽を出して水を溜め、その中で飼育しようと試みたのですが結局は夏場のことゆえ水槽の汚れがひどく、見た目に悪いと断念しました。そこで登場したのが生簀です。昔漁師をしていた経験からみかん採取のキャリーに網を被せて池の中に半分浮かせて沈めました。ところがそのキャリーには手持ちの部分に穴が空いていて、何匹かの稚魚が池の中へ入ってしまったのです。その稚魚が池の中でうろちょろするものですから、それがストレスとなって自慢の鯉が餌を食わなくなったようです。広くて深い池の中に泳ぐ場所を得た稚魚を掬い取ろうと必死にタモ網で追いかけるのですが、親父の力ではどうすることもできず、結局は私に応援を求めその殆どを回収したのです。

 さてこの回収した鯉をどうするか、考えた末の親父の結論は庭の隅に小さな池を作るという計画に転化されました。最初は小さな計画だったようですが段々と本格的になって、やれセメント、やれブロックと近所の最近廃業した金物屋さんに在庫を分けてもらって池作りがスタートしました。折からの暑さなので予定地の上にビニールシートで日陰を作り、汗だくだくで急ピッチな作業が朝から晩まで進んでいるようです。私の書斎の横前辺りなのでパソコンを操作しながら私はただ傍観しているのです。しかし親父は器用です。土木作業、左官工事、造園業、配管工事何でもござれで、道具類も何でも揃っていてあっという間に仕上げてしまうのです。それでいてセンスがよいため仕上がりはとても素人がしたとは思えない立派な出来栄えにただただ驚くばかりです。

 私は親父の長男ですからそんな器用さを能力的に受け継いでいるはずなのですが、私のDNAの殆どは死んだ母のものを受け継いでいるようで、一向に器用さは身につきません。コツコツと続けることはできても瞬発力がないのかも知れません。

 親父は何かにつけて革新的だと述べましたが、動く距離が限られていて視野の狭くなった分だけ家の周りに目が行き届くようで、一木一草一石を見ても絶えずより以上なものを追求しているように見えるのです。例えば庭木や石は一度配置したらそれに満足しなければならないと普通は考えますが、石の配置や木の植え具合が気になると、平気で丸太を三脚に組んでチェンブロックで吊り上げ直してしまうのです。私のようにしょっちゅう家を空ける人間には、「あれ、ここの庭木がなくなっている」とか、「えっ、この石はこんな姿だっただろうか」なんて思うことはしょっちゅうなのです。

 88歳の親父に教えられることはまだまだいっぱいあります。家の隅に設置している私設公民館煙会所も海の資料館海舟館もより質の高いものを求めて進化し続けれたのは、やはり親父のそんな革新的な行動力だったと陰なる力の偉大さに感心しています。25年後の私にそのパワーは存在するはずもないと今から諦めていますが、少しだけでも学び取りたいと日々精進している私なのです。

  「鯉の稚魚 貰ろたどうする 池を掘る 直情的だが 親父実行」

  「何にでも 没頭するから いいのです 歳を忘れて 新たな挑戦」

  「器用さを 受け継ぐはずが 不器用な 人間なりて この歳迎え」

  「暮らしぶり 僅かな年金 それでいて 俺よりリッチ 親父見てると」 


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