shin-1さんの日記

○生協の常勤役員さんが人間牧場訪問

 えひめ生協の大川理事長さんに会ったのはもう20年も前のことです。地域づくりの出発となった雪の集会が道後文京会館で行われた時、当時生協の理事長さんだった立川百恵さんとご一緒でした。以来何度か思わぬ所でばったり出会ったりでしたが、今年の研修会に講師として招かれてから再び急接近し、非常勤理事まで引き受ける羽目になってしまいました。以来担当の尾崎さんを介して理事会や研修会で出会い、今回も尾崎さんから常勤役員で人間牧場への打診があり、快く引き受けました。ところが運の悪いことにこの日は朝からぐずついた天気で、午後2時の待ち合わせ場所である下灘コミセン前広場に到着した頃はかなりの雨足で、よほど運の悪いグループだと思いつつ理事長さんと松本専務さんを私の車に乗せ、出発しました。多分後続の2台に乗った方たちからは「どこへ連れて行かれるのだろう」と心配話に花が咲いたことでしょう。曲がりくねった道、細い道の連続を過ぎて到着したら、外はまた濡れるほどの雨で、ウッドデッキにも出れず、魚梁瀬杉のテーブルの回りに陣取って、私の話を熱心に聞いてくれました。

 私の話は、ひごろ話さないまちづくりの裏話や失敗談に終始し、約1時間30分も喋り続けました。人間牧場の構想から建築に至るまでのエピソードとこれからの計画について。自分の発想の原点は一体どこにあるのか。これまでの長いまちづくりの実践で失敗した出来事から何を学んだか。町の広報240号の発行プロセスで書くことを覚えたこと。結婚式の司会537組の実践で学んだプロデュース能力。第14回NHK青年の主張による自信が喋れる男に成長させたこと。毎朝早朝5時からのシーサイド公園砂浜を12年間掃除したことが認められて観光カリスマに選ばれたこと。100人全てが賛成することはやっても意味がないこと。トラブルは逃げると追いかけてくることやトラブル解決能力。人生の生活設計。失敗から学ぶ成功術などなど、思いつくままに話しました。8人の参加者は席を立つこともなく身を乗り出すような迫力でじっと聞き入っていました。役に立ったかどうかは疑問ですが、早速松本専務さんからお礼と感想のメールが届いていました。早くて嬉しい反応です。

 生協の組合員さんの多くは生き方に芯がある人が多いようです。ですからしっかりと自分の主張が出来ます。これを反対意見ととらえ煩わしいととるか、その意見に耳を傾け真摯に対応するかは執行部の姿勢一つで決まります。そして正しい対応が出来たとき組合は信頼され充実と成長をしてゆくのです。

 この日の天気のように今の日本は景気が上向いたといいながら何か不安の火種がくすぶってるような気がします。しかしこの天気もいつかは晴れて穏やかな日々が戻ってきます。ですから「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と考えて今日一日を一生懸命やることなのです。

 この日人間牧場水平線の家へやって来た理事長以下の常勤役員は若くて優秀なスタッフとお見受けしました。組合員のためにいい仕事をして下さい。くれぐれも目線は組合員の健康と幸せなのです。

  「雨が降る 自慢の夕日 見えずとも 心に太陽 唇に唄を」

  「細い道 何度か通れば 広くなる 行きと帰りは 同じ道幅」

  「理事長も 粋な計らい するものよ 寸暇惜しんで 心耕す」

  「霧晴れて 一瞬港 見え隠れ チャンス逃せば 次は見えぬぞ」 

[ この記事をシェアする ]

shin^1さんの日記

○隠れた歴史を学ぶ

 私たちの身の回りにはスポットも当たらず苔むして忘れ去られようとしている隠れた歴史がいっぱいあります。例えば道端に建っている記念碑などはその典型で、日ごろ何気なく傍を通ってその存在は知っているものの、「誰が何のために建てたのか」までは知らないし、それを知ろうと思っても「誰に聞けばよいのか」や「どんな文献に紹介されているのか」さえも知らないのです。そんな単純な疑問質問に答えてくれるのが郷土史や地元の歴史家なのです。双海町という町が昭和30年に誕生しておおよそ50年が経ちましたが、双海町と名の付く郷土史は明治100年を記念して編纂された昭和45年に発刊された「双海町誌」と合併前の平成17年に発刊された「改定双海町誌」があります。双海町が誕生する前に手書きの「下灘村誌」「上灘町誌」が3冊発刊されていますので都合5冊しか双海町に関する専門歴史書はないのです。しか手書きの3冊は役場に保管されていて研究のためでないと借り受けることも出来ない訳ですから2冊の「双海町誌」に頼るしかないのです。私は幸いなことにこの2冊の編纂に関わりました。昭和45年当時は歳も若く補助的な存在でしたが、昨年発刊されたものは教育長という職責から編纂委員長として深く関わりました。私は基本的に歴史は大好きです。しかし他の編纂委員を務められた方々のような深い洞察や知識もないのですから、ただ好きというだけの素人なのです。

 先日史談会の現地学習会に参加しました。玉井琢磨という人を顕彰するため建立している記念碑を解読するためです。臨済宗東福寺派の禅寺慶徳寺に集まって玉井琢磨の位牌にお経を唱えた後、早速お寺の和尚さんの話や中島史談会長、磯田副会長、西岡さんの話を中心に興味ある話を随分聞きました。このお寺には中世以来の城主の位牌があったり、歴代の庄屋の位牌が祀られており、その一つ一つも解読して説明を受けました。

 早速雨のあがった現地に赴き、五輪の塔や庄屋のお墓、玉井琢磨の顕彰碑を見せてもらいました。歴代庄屋の中には碁が好きな人がいて、お墓の蓮華が碁盤になっている珍しいお墓もあって、現地研修でしか味わえない学びがありました。

 この日の現地研修の主目的は玉井琢磨の顕彰碑の文字の解読ですが、さすがに長年の風雪に耐えた石物は風雨に晒され苔むして判読が難しく、事前に磯田先生が判読して分らない部分を懐中電灯を当てたり地元の古老を知ってる西岡さんや中島会長さん、山口住職さんの助言を聞きながら皆で文字をなぞりながら調べて行きました。その結果玉井琢磨の顕彰碑を建てるのに関わったであろう殆どの人名が判読でしました。過去にタイムスリップしながら、一人の人間の生き方を焦点化して学び、それを記録に残したり間違いを正す作業は容易なことではありません。ましてや古文書を解読するには文字から始めなければなりません。パソコン文字にすっかりならされている私たちには、手こずる相手なのです。

 夕闇迫る頃、一通りの作業を追え解散となりましたが、二月に一度の学習会はやっと始まったばかりですが、これからの学習が楽しみで、出来るだけ日程を割いて参加したいと思っています。メンバーは少し年齢が高いものの益々元気な方ばかり、この会では中尾先生に続いて私は若い方のようです。若いということは歴史の重みが軽いということです。学び過ぎることはありません。しっかり人間の生き様を学びたいものです。

  「編纂が 縁で始める 歴史学 薀蓄揃いて 俺は新参」

  「苔むした 石に刻みし 名をなぞり 生き様さぐる これも楽しき」

  「分らぬが 分った時の 嬉しさは まるで子どもの 時のようです」

  「過去の人 偉い徳積み 石刻み 名前残せし 次の世代が」

 



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ウナギの蒲焼

 写真はその時その場所があるとシャッターチャンスの必要性を思ったのはこの2枚の写真です。逗留した旅館の二階から見える雨上がりの風景が余りにも綺麗だったのでカメラに収めたのですが、明くる日の旅立ちが早く暗闇だったため、よくぞ撮っていたとしみじみ思いました。旅館の手入れの行き届いた庭は一幅の絵になる風景でしたし、赤い橋のかかるダム湖もまた捨てがたい風景です。いつか近いうちに妻にもこの風景を見せてやりたいものです。 

 高知県馬路村魚梁瀬の旅館を早朝4時30分に起床、身支度を整えそっと旅館を抜け出し、見覚えのある曲がりくねった道を引き返して約束の場所へ着いたのは5時15分でした。間もなく朝の早いことを自慢する木下君が手に抱えきれないほどの荷物を持って現れました。雑種愛犬チロも一緒のお見送りです。昨日見せてもらったウナギもしっかり氷水に入れてガムテープで水か漏れないにしているのです。木下君はわざわざホカホカのお結びを二個包んで持ってきてくれました。

 私は木下君と同じで朝が早く、毎日朝4時には起床をします。ですから朝の早いのは苦にならないのですが、今朝は8時過ぎにどうしても地元で片付けなければならない所要があって朝早い旅立ちとなったのです。木材運搬に向かう大型トラックが時折急なカーブから突然出てくる安田川沿いの道を注意しながら下って海岸国道を右折し、南国までの道程はそんなにかかりませんでした。南国から高速に乗って約束の8時30分に無事わが家に到着です。少し飛ばし過ぎたと自戒しながら迎えに出た妻にお土産を手渡しながら、楽しかった昨夜の事や、世話になった木下家のことを話して素早く身支度を整え次の行動です。

 夕方生協の理事長さんたちを見送って家へ帰ると妻は留守、「そうだ俺がウナギをさばいてやる」と思ったまでは良かったのですが、それからは悪戦苦闘の連続でした。私も魚料理は妻が褒めてくれるほどに上手です。あまり上手だといつも妻に使われますのでやらないことにしているのですが、包丁を研ぎ軍手をはめて調理に取り掛かりました。氷水の中では死んだように静かにしていたウナギが調理し始めるとこれは大変といわんばかりに荒れ狂いもがくのです。千枚通しを打ち込むのすら嫌がるウナギをしっかりと手で押さえて自分としてはまあまあな5本のウナギをさばきました。特に一番大きなウナギは立派なもので腕首ほどもある肉厚の厚いもので、用意したボールに一杯になりました。

 ウチワを使ってバタバタと七輪で火をおこし、網をかけて焼きました。ウナギを焼くコツはアナゴと一緒で皮目から焼かないと反りくり返りますので、アナゴ焼きの要領で焼いて行きました。最初は全てのアナゴを白焼きにしないとタレで焦げてしまうのでその要領で串を打つこともなく白焼き完了、戻ってきた妻が秘伝のタレを作ってさあ仕上げです。七輪の火を少し弱めてタレをつけて付け焼きにするのです。香ばしい匂いが当たり一面に立ち込めそれはもうお腹がグーグーです。私は料理人の特権とばかりに一口食べちゃいました。さばきだて、焼きだての天然ウナギは何ともいえない美味しさで思わず口がとろけるほどでした。妻はこのウナギのためにアサリの味噌汁を造り、肝吸いは次の機会にと冷蔵庫にしまうしたたかさでしたが、炊きだちのご飯に乗せるうな丼はお代わりまで「やっぱり天然のウナギは上手い」と褒めあい、このウナギを捕獲した木下君のことなどすっかり忘れて賞味しました。「これを機会に木下君とは末長いお付き合いをしたいもんだ」といったら妻に叱られました。

 私の町は海沿いにあって漁師町です。ですから魚はそれ程珍しくありませんし、川魚は独特の臭みがあって家族もそんなに喜びませんがウナギは別で美味しいですね。天然ウナギが年々減少している昨今、もう腹が黄色い天然ウナギも幻の魚になってしまうのではないかと心配されています。ウナギは淡水魚ながら海で生まれることは皆さんもご存知だし、その産卵場や生態も最近の研究で分ってきましたが、実は海にもウナギはいるのです。私が子どもの頃は港に餌をつけた釣り針を仕掛けておくと、アナゴに混じって時折ウナギが釣れました。海の人間ですからウナギは全部逃がしたり石に叩きつけて遊んだことを思い出しました。今思うと反対でウナギこそ大事にすべきだったと反省をしています。

 時ならぬわが家のおご馳走に、久しぶりに夕餉の前が楽しくなった昨晩の夕食でした。木下さんありがとう。

  「天然の ウナギさばいて 炭火焼き 何とも贅沢 つまみ喰いする」

  「匂い立つ 我が家はウナギ 隣から 羨ましいと 言ってるだろな」

  「包丁を 研いでウナギに メス入れる まるで実験 腹から針が」

  「気がつくと ウナギは捨てる ところなし 肝も骨まで 料理に使う」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○一億円の魚梁瀬杉御殿で

 今回の講演会会場はダムで水没して集団移転した魚梁瀬地区の真ん中にあって、森林鉄道の鉄路も記念に残されている場所に建つ象徴的な建物でした。ご存知竹下首相のふるさと創生資金一億円を活用して馬路村では魚梁瀬杉をふんだんに使った建物を建てたそうです。村の迎賓館とも思われるこの施設はさすが自慢の魚梁瀬杉材らしく、筋の通った贅沢な造りで思わずうなってしまいましたが、立派過ぎて地元では持て余し気味のようにも思われました。家は大事にし過ぎて使わないとかえって傷みます。しっかりと活用して人が新しい空気を家の中に吹き込まないと中の空気が淀んでしまうものです。

 講演会は田舎の時間にしては少し早いのではないかと思われる夕方6時から始まりました。しかしそんな心配を他所に学校の校長先生や診療所の医師先生も来るなど賑やかで、東谷組合長、顔見知りの組合職員、デザイナー、馬路村温泉支配人、木下さんの沖縄から嫁いで来ている奥さんなどの下から上がってきてそれは賑やかな顔ぶれとなりました。「まるで吉本の話を聞くようで久しぶりに楽しい話でした」と、講演が終了した折お世辞を言って闇に消えた人もいましたが、殆どの人が残って横の食堂で交流会が行われました。会費2千円だというのに洒落た料理が並び、高知弁丸出しの酒盛りは多いに盛り上がり、東谷組合長らの乱入もあっていつの間にか「この村をどうする」という地域づくりの方向に向かっていました。印象的に残ったのはNHKのテレビで大雨の旅に「高知県魚梁瀬では○○mmの雨が・・・・・」と宣伝してくれている雨をテーマにむらおこしをしてはどうかという、土木建設会社の社長さんの話でした。水を売る水商売も面白いと、早速自慢の美味しい水を私のテーブルに運んでくれるなど余念のない努力です。毎日降った雨を細長いアクア水槽に一年間溜めて百年分展示するのも一つの方法だし、雨は唄、雨は水、雨は天気、雨は笠、雨は映画、雨は恋などなど面白いとアイディアが次々披露されました。

 人間牧場水平線の家に魚梁瀬杉のテーブルがあるので「私の家には150年の年輪を刻んだ魚梁瀬杉のテーブルを置いていて、来た人に魚梁瀬杉の話をいつもしています」と得意げに言ったところ、その社長さんが「150年生の杉は魚梁瀬杉とはいい難い。少なくとも200年はこえていなくては」と口喧嘩を吹っかけてきました。この話も大いに盛り上がり結局は「自分の車庫倉庫に眠っている切り株をあんたにあげるから」とついつい口を滑らせてしまいました。社長さんは今頃酒に酔った失言に気が付いて悔やんでいることでしょうが、私は素面でしたし硬い握手をして確認したことですのでよろしくお願いします。これも酔った勢いでしょうか、東谷組合長が「その魚梁瀬杉はわしが車で運んでやる」と啖呵を切って、「さすが組合長、太っ腹」と皆の拍手喝さいとなりました。やったぞ、本物の魚梁瀬杉のテーブルが手に入りそうです。社長さんの奥さんはとても美人で社長の目を盗んで私とツーショットの写真まで撮りました。

 この人が噂の社長さんです。何でも徳島出身だとか。奥さんの顔に惚れて高知県入りしたのでしょうか。

 この人が美人の奥さんです。何でもこんな華奢なのにユズ畑5反を耕して昨年は13トンもユズを収穫した東谷組合長自慢のユズ農家だそうです。嬉し恥ずかし若松君。体が凍っているようではありませんか。しかし上の2枚の写真ともさすが夫婦です。偶然にも二人とも同じようなVサインをしているではありませんか。

 はいこの人が私の親愛なる友人で、私と同格の観光カリスマ百選です。めxxxxっっぽう酒が好きで、酒が強い高知賢人のモデルのような方です。でもこの方が年間20億を越えてごっくん馬路村を全国に売っているのですから驚いた傑物です。

 結局はお酒を行って気も飲まなかった私の一人勝ちとなった交流会でした。行司を務めた木下君も酒に酔っていましたのでどうなるか分りませんが、魚梁瀬杉の切り株の届く日を一日千秋の思いで待っています。あっそれから「足にするのも付けてやる」と社長さんはいってました。木下君お忘れなく。

  「魚梁瀬杉 濡らしてシトシト 戸糠雨 迎賓館に 想い集いて」

  「口車 乗った相手が 悪かった 杉の切り株 約束どおり」

  「人恋し 魚梁瀬の夜は 賑やかに 話し弾んで 夢の数々」

  「忙しき 身を押し会場 来てくれる 律儀な人の 心に感謝」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○高知県馬路村魚梁瀬地区での講演会

 馬路村の山猿というペンネームで私のEメールに度々進入するウイルス男は、馬路村の役場に勤める木下さんです。私に海猿と勝手に命名してメールを送ってくるものですから私も「海猿から山猿へ」などとお調子をくり返しています。彼と会ったのは昨年末馬路村で開かれた「地域の自立とは何か」の打ち合わせ会でした。それから急接近してシンポジウムや人間牧場見学など、まるでかつての私の若い頃のように精力的に動き回る彼の姿を、何故かまぶしく感じていました。その彼から再三にわたってラブコールを送ってくれたのが馬路村魚梁瀬地区での講演会でした。このところ忙しくてそれどころではなかったのですが天然のうなぎを食わせる」という餌に釣られて魚梁瀬地区へ行く事になったのです。盆踊り大会、韓国旅行、四万十市西土佐、金融広報委員会など超多忙な日程の間隙を縫って一度は訪ねてみたかった魚梁瀬地区へ足を踏み入れました。高知県奈半利町の坂本年男さんに貰った魚梁瀬杉の切り株が、わが人間牧場の水平線の家にあることも心が動いた大きな要因だし、今や旧知の間柄となった馬路村の東谷組合長にも久しぶりに会いたかったのです。本当はゆっくりのんびりの旅をと思っていたのですが、日程が詰まり過ぎて行きも帰りも高速道路、しかも今朝などは朝4時半に起きて宿を発つという強行スケジュールになってしまいました。それでも曲がりくねった狭い安田川沿いの道を、木下さんの「お昼にはわが家でうなぎでもという言葉に甘えて山里の木下家へ到着したのは12時を幾分回っていました。木下家に通じる坂道を歩いて登ると、昔は美人だったんだろうなあ(失礼、今も美人です)と思える品を感じる木下君のお母さんが人なつっこい笑顔で出迎えてくれました。「あっ、あの人はパンフレットに出ていた木下君のお母さんだ」と第一村人を発見して直感しました。木下君はうなぎ取りの名人で、私のために延縄で天然うなぎを沢山ゲットしていて、早速真昼間だというのに何とも贅沢な庭先でうなぎの蒲焼パーティと相成りました。ハスイモの酢漬けや鮎の塩焼き、合わせ味噌など田舎料理の数々に舌鼓を打ちました。

 魚梁瀬までの道程はかなりあり、曲がりくねった道の峠で眼下に魚梁瀬ダムを見学しました。昔何かの本でこのダムの石積み護岸を利用して加藤登紀子のコンサートを開いた話題を読んだことがありますが、こんな奥地でよくもまあと往時を振り返りながら感慨深げに下を覗き込みました。このダム湖の下に水没した集落は代替地に集団移転している話も驚きでした。ダム湖を見下ろし展望台には昔のそんな物語が写真い焼き付けられていました。

夜の講演会までには十分時間があるので、千本山の杉の木を見に道案内をしてくれる地元の人と木下君と3人で30分もかかる山道を車で登って行きました。道は元森林鉄道が走っていただけあってなだらかな道でした。折からの小雨に少し濡れながらも車を降りてつり橋を渡ると森の中には樹齢300年を越える大きな杉の木が何本も見えてきました。これぞまさしく会いたかった魚梁瀬杉の原生林なのです。九州の屋久島に生えている屋久杉にはかないませんが、どうして人間二抱えもあるような大きな杉の木に圧倒され、そっと手と耳を当てて木の息遣いを調べてみました。私たち人間の寿命は幾ら長生きしても高々100年、だのにこの杉の木は300年というから江戸時代に生を受け、この地にじっと立って、魚梁瀬の地に降った雨水を餌としながら生きてきたのですから、偉いとしか言いようがないのです。

 森の中で高知大学農学部の学生たちに出会いました。何でも千本山の生態系の調査を定点観測しているらしく、地下足袋や作業着は雨に濡れていました。一見無駄と思えるこのような学術調査が千本山の杉を守ることになるのですから頑張って下さい。驚いた事にこの学生さんと同じ旅館に、しかも隣の部屋に、しかも一緒の風呂に入ったのですから奇遇とかいいようがありませんでした。

 同行した地区の方の話は、営林署や地元製材に長年関わっただけあって歴史の生き証人のような詳しい話で興味をそそりました。ここの森林鉄道は蒸気機関車まで走った本格的なものだったようで、戦後の高度成長時代には多くの人が住み、山には活気がみなぎっていたそうです。その話はかつて日本の各地にあった炭鉱のように一時代を築いたのでしょうが、今は跡形もなく消え去り、伐採された魚梁瀬杉の切り株のみが無残にも苔むして朽ちつつありました。この方たちの生き証言をしっかりと記録に残すことも誰かが気が付いて今やらねば忘れられてしまうのかも知れないとふと思いました。

  「この山に 蒸気機関車 走ったと 語る古老の 声ぞむなしき」

  「切り株に 会いに来ました 魚梁瀬杉 こんな深さの 山にいたとは」

  「八郎が 歌った唄を 思い出す 山の釣り橋ゃ どなたが通る」

  「この奥で 降った雨滴 延々と 海に注ぐや 不思議なるかな」  


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○韓国旅行を終えて

 早朝5時に起床して身支度を整え、ホテルをチェックアウトしたのは5時50分でした。広島空港行きの飛行機が9時50分なので仕方のないことと諦めつつ、迎えのバスに乗り込みどしゃ降りの雨の中を一路仁川空港へ向かいました。途中土産物屋に立ち寄り店員の上手い口車に乗せられてキムチの漬物や岩のりを買わされてしまいましたが、財布の中身のウォンを使い切るためみんな予想以上の買い物をこの店でしたようでした。ウォンでレート換算すると100ウォンが約10円くらいですから10倍すればよく随分便利に出来ていると感じました。私なんぞは酒も飲まないしお土産も孫の遊び道具と家へのキムチくらいなものですから、換金した2万円が半分も余って空港の換金所で再びウォンを日本円に換金する羽目になってしまいました。仁川空港で軽い食事をとりすっかりくつろいだ雰囲気で機内に乗り込みましたが、別れを惜しむように空港は雨の帰路となって、板門店へ行ったこともあって今度の旅を象徴しているような光景でした。

 機内食を食べウトウトするともう窓の下には隠岐の島や島根県宍道湖の姿が見え始め、まさにひとっ飛びです。眼下に広がる中国山脈のひだ深い山々はどこまでも緑が広がり、改めて日本の原風景の美しさにしばし見とれていました。

 今回の旅では佐賀山さんが大活躍をしてくれました。特に「イッキョンさんを含め二人の元留学生が市内見学や夕食の世話をしてくれました。松山大学に留学していた時に知り合ったそうですが、海の向こうに友人がいるなんて素晴らしいことです。

 私たち21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバー以外にも同行した河野さんの奥さんや湯山さんファミリーなど、楽しい旅を演出するのに一役買っていただきました。もう既に3日間の韓国旅行は過去のものとなりましたが、いい旅をありがとう。

 今回の旅で感じたこと

 ①板門店が印象に残りました。部屋の中でしたが北朝鮮の領土へも越境しました。有刺鉄線や監視所の要らない統一された平

   和な朝鮮半島が一日も早く実現するよう祈っています。

 ②日本には徴兵制度はありませんが、愛国心は北の緊張がより増幅させているように思いました。日本は平和過ぎます。国を

   愛する心を育んでゆかねばならないと強く感じました。

 ③旅は一人歩きしないと相手に頼り過ぎてどこを歩いて何を目指すのか見失ってしまいます。結局旅は自立の旅立ちなので

   す。

 ④韓国料理はよく野菜を食べます。3日間あれ程食べたのによく歩いたせいもあるでしょうが、帰って体重を測ったら幾分痩せ 

   ていました。キムチの辛さは体によいのでしょうか。

 ⑤メンバーの佐賀山さんは韓国語を勉強して話せます。私などは英語も韓国語も駄目で日本語さえ満足に話せません。少し

   勉強が足らないと思いました。今度行く時は単語くらいはわかるようにしたいものですが無理でしょう。これは願望です。

 ⑥韓国でブログを一本書くことを目標にしていましたが、ホテルロビーのインターネットでは実現することが出来ませんでした。

   残念でなりません。

 ⑦今回の研修旅行は、出発地が出発直前になって松山空港から広島空港へ変更し、予定していた方々が旅を断念しました。

   深くお詫びをします。

 ⑧一駅地下鉄にも乗ってみました。道も尋ねました。ソウルタワーにも登りました。だのに市内にある世界遺産の故宮には準備

   不足で行けませんでした。骨董市場も訪ねたかったです。

 ⑨自由と平和の重みを知り、過去の歴史の重みを知りました。また人の情けの重みも知りました。

 ⑩またお金をためて行きたいと思いました。

  「十年の パスポート期限 後八年 次はどの国 夢持ち生きよう」

  「出来るだけ 安い旅など 心がけ 度々行こう 心耕し」

  「フロンティア 結成以来 二十年余 初めて外国 心そろえて」

  「ブログにて 反省点を 書きました 次につながる 視点を少し」

             

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○韓国ソウル一人歩き

 韓国旅行二日目の朝、眠りから覚めので同室の疲れて眠る日浅さんを起さぬようそっと部屋を抜け出し、ホテルの外へ一人散歩に出掛けました。昨夜の喧騒がまったく嘘のように街は静まり返り、道端にうず高く積まれたゴミの山が昨日を思い出させているようです。ホテルの裏山の急な坂道を登ると明洞聖堂という立派な教会がありました。韓国にはやたらと教会があるようで、東洋の仏教の国だというに不思議な感じがしました。その国の歴史を調べてみると弾圧や戦争の度に様々な宗教が起こり、民衆は救いや平和への願いを宗教に求めるようです。多分そんな意味もあるのでしょうが、日本で漏れ聞く統一教会の集団結婚式や最近問題になっている若い女性への性的暴行は宗教に名を借りた大きな社会問題かも知れません。しかしいずれにしても宗教心を持つことは良いことですから、外壁工事のための鉄骨足場の下をくぐり思い切って教会の扉を開けて中へ入ってみました。まさに「叩けよさらば開かれん」です。

 早朝だというのに教会の中には既にかなりの人が集まって、ミサが行われるのを待っていました。修道女や一般市民も洗礼を受けたものでしょうか頭にハンカチのようなものを被って何やら小声でお祈りをしていました。次々とやって来る人は皆胸で十字架を切って椅子に座るのです。私は仏教ですが無宗教に近く仏への祈りはそんなにするわけではありませんが、皆に習って座りました。やがて祭主が現れ、皆席で立ってお祈りや賛美歌を歌い始めました。言葉も通じず、意味さえも分らない言葉に戸惑いましたが約30分のお祈りを終えてそっと戸外へ出ました。宗教が分らなくても教会で自分自身を見つめなおす静寂の時間が持てただけでも幸せでした。

 板門店の見学を終えての帰り道、自由の橋を見学しました。朝鮮戦争で捕虜となった人たちが捕虜交換の折この橋を渡って自由の身となり、いつしか人々が自由の橋と名付けた橋です。鉄柱に支えられた木製の橋ですが捕虜たちはどんな思いでこの橋を渡ったのでしょう。この橋の向こうには橋のない橋脚だけが残る橋が象徴的に残っていました。また今話題となっている南北を結ぶ鉄道が既に結ばれ新旧対比の橋が象徴的に見えました。

 テポドンの発射などで世界中からバッシングを受けてる北朝鮮と、太陽政策を取る韓国とでは、まだまだ主義主張に大きな隔たりがあるようですが、何時の日かベルリンの壁のようにバリアーが取れてこの鉄道を平和の列車が一日も早く行き交うことを望んでいます。

 大きなイチョウの木の下で談笑する韓国人の姿が目に入りました。景福宮での光景です。韓国に来て38度線や国境、板門店、日本大使館、国連軍などの話を聞く度に何か分らぬ恐怖感や緊張感を体内に感じていました。また遠望する北朝鮮の山々は殆どが裸山で緑への愛着も感じていました。目にも鮮やかなイチョウの緑色は何とも落ち着くものだとしみじみ感じました。このイチョウが黄色く色付く秋の頃の姿も見てみたいものです。勿論冬も春も四季それぞれの姿を想像しつつ故宮を巡りました。

  「風感じ 一人歩きの 韓国で 想いめぐらす あれやこれやと」

  「軍隊に 徴兵されぬ 俺の国 母国思わぬ 人が増えてる」

  「ただ祈る そんな気持ちで 教会の 門を開けて 中に入りぬ」

  「今度来る 時には妻を 同伴し 少し自信の 街を案内」 



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○西土佐夏の終わり・口屋内地区(20-12)

 昨日までの3日間韓国旅行で日本を脱出していたため、時差ぼけはないのですが旅行を終えた安心感と開放感から何処となく気だるさが残っているもののそうもいっておられず、日本銀行松山支店での会議を午前中で終え12回目の西土佐へ向かいました。夏といっても6・7月の夏に向かう迫力ある時期と違い、8月末の夏は秋の気配が漂って、陽足も少し長くなった感じがします。

車窓から眺める田んぼでは既に早い稲刈りが始まっており、リュウゼツランのオレンジ色の花や沿道に咲く百日紅の花が行く夏を惜しむように咲いていました。

 坂井伸美さんの経営する彩花で一服し四方山話に花を咲かせた後、四万十川の風情を確かめるために四万十大橋を渡ってカヌー館まで行き、橋の下にあるキャンプ場まで下りて行きました。夏休み最後の日曜日も昨日で終わったというのに、親の仕事の都合でしょうか家族連れでキャンプを楽しむ県外ナンバーの車が何台も止まって、傍では幾つかのテントで早くも夕食が始まっていました。横目で見ると相変わらず焼肉とビールで盛り上がってる人たちもいて、アウトドアーといいながら日本のそれは外国と違って屋外で焼肉と酒を楽しんでいるだけだなと思いましたが、人それぞれに楽しみ方があるので異論を挟むこともなくそそくさと立ち去ってトイレへ向かいました。傍の東屋に陣取った一団がここでも何やら焼肉を始める準備をしているようでした。見ると地元のおじいちゃんやおばあちゃんのようでした。「ほう、おじいちゃんやおばあちゃんが焼肉とは珍しい」と思った時、おじいちゃんとおばあちゃんが「夕日の若松先生ー」と大きな声で呼んでいるのです。後ろを振り向きましたがどうも私のことのようなのです。その二人は江川崎の講演会場に来ていた見覚えのある顔だと直感しました。聞くと今日は社会福祉協議会主催の「男の料理教室」があったらしく、「何で男の料理教室に美人の娘さんが集まるの」と爆笑を誘いました。すかさずあるおじいちゃんが「そりゃあおららに魅力があるきん娘が寄ってくるのよ」と一本取られてしまいました。参った参ったです。「あんたの話はとてもよかったと皆の評判じゃ」と持ち上げてくれました。「あの時吹いたハーモニカは心洗われるようでした。もう一度あのハーモニカの音色が聴きたい」と言うのです。私はわざわざ車まで引き返しカバンの中のハーモニカを取り出し時間を気にしながら戻ってきました。「夕焼け小焼け」「ふるさと」「南国土佐を後にして」を吹くと何と大合唱が始まりました。傍のキャンパーたちもいきなり起こったハリケーンに何ごとかと目をパチクリしていました。リクエストは主に軍歌やナツメロでしたが無難にこなしハスイモと鮎セゴシの酢物をいただいて再会を約束して分かれました。

 途中トンボを竿で追いかける一人の少年に出会いました。草むらを無心に走り回る姿は何とも長閑で「子どもっていいなあ」としばらくその子どもとお話していると、「若松さんじゃないですか」と再びのお声掛かりです。宇和島市嘉島の親子がキャンプに来ていました。私も驚きましたがもっと驚いたのは相手の方でした。まさかこんな場所で私を発見するなんて思ってもみなかったようです。宇和島市嘉島には宮本正勝さんご夫妻や知人友人も多く度々島を訪れているので、奇遇でした。

 カヌー館の上の道路から再び手を振りあって分かれましたが、明日はカヌーに乗るのだと張り切っていました。

 この夜の集会は口屋内です。二十年も通っている舟母という民宿があります。民宿のおばちゃんは高知県の名物女で橋本知事ともじっ魂の間柄で知事さんも時々やって来るそうです。この日はわざわざ私と中脇さん、藤倉さんのために心からなる手料理を作って待ってくれていました。うなぎといい、カニといい、全てが舌覚えのある美味しい味です。二十年も付き合える人は中々いません。彼女は小町味噌を地元の主婦グループで作り売り出していますが、人気も定着し加工場も軌道に乗っているようです。味噌を作る話を持ちかけられた昔を思い出しましたが、歳は経ているものの高知のはちきんばあちゃんは衰えることもなく元気で活動していました。息子の博君ご夫妻も元気で頑張っているようで、お土産に新米を届けてくれました。

 口屋内の集会所は沈下橋を渡った四万十川の向こうにありました。昔野塾の連中とフロンティア塾の移動塾を行い大酒を飲み大ボラを吹いた懐かしい場所です。区長さんは朝比奈君のお父さんで昔舟母で一緒に酒を飲んだ記憶があります。

 口屋内でも高齢化や健康不安があるようで、朝比奈区長さんもここのところ腰の具合が悪く今日も整体へ行ったと座りにくそうに座って役目を果たしていました。みんな歳をとりみんなやがては死ぬのですが、10年前のようなむらおこしやまちづくりの話はもうこの地区には通じなくなっています。そう肌で感じたものですから、社会の流れや時代の流れに掉さしながら自分がどう生きるかについて少し軸足を変えた話をしました。

 帰り際、「ハガキを必ず出します」という方に名刺を一枚渡し、口屋内の集会所を後にしました。暗い夜道を中脇さんと世情や合併後のまちづくり、役所職員のあり方、農政について意見を交わしながら、どこかボタンの掛け方がずれ始めている今の社会を論じました。同感です。

  「腰伸ばし 俺に魅了が あるからと 爆笑誘う 焼

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○韓国一人歩き

 団体旅行とは気楽なもので、一人の旗振りさんが右だ左だシグナルを出すとその通り動けば別に迷うこともなく目的地に行け目的を達成できるのです。しかし何かのハプニングが起こって一人だけになるともうこれは大変で頭がパニックになってしまいます。ましてや言葉も通じない外国という場所で「私の行く所は何処でしょう」と聞いているようなものですからもうお手上げなのです。私は今回の板門店一人旅が3時までに到着することを知っていましたので、密かに一人歩きを目論んでいました。目的地は2ヶ所です。景福宮(キョンボックン)という李氏朝鮮の初代王によって創建された最初の王宮を見学することです。前回の訪韓では閉門儀式が見れなかったので、丁度3時の解散なのであるいはと期待を寄せていました。もう一つは南大門と市場の見学です。夕方みんなとホテルで落ち合う6時までは3時間もあるので前日の夜、同じ部屋の日浅さんが寝静まった頃地図を片手に場所の確認をして板門店行きのバスに乗り込みました。

 ツアーのバスは自由の橋や食事を終えて無事出発した場所に帰って来ました。さあ韓国一人歩き旅の出発です。首にカメラをぶら下げ、背中にはリュックの出で立ちでせみ時雨の中軽やかに歩きました。ズボンのポケットに入れた携帯電話のスイッチをオンにして万歩計もスタートです。景福宮が見えてきましたが10車線もある前の大通りは何処を横断したらよいのか分かりませんでしたが、少し下ると高架橋が見えました。汗をかきかき遠回りをして脇門あたりに出ました。中に入ると広大な敷地の中では既に閉門の儀式がまるで宮中絵巻を見ているような姿で再現されていました。大きな太鼓が叩かれ武官の群れがまるでマスゲームのように隊列を組んで動いています。この様子は韓国語、中国語、それに日本語と英語に同時通訳され見る人に説明され、その意味をよく理解することができました。遠巻きに見学する外国人の数も多く、アメリカ人と思しき観光客は「オーワンダフル」を連発していました。左から右へ前から後ろへと移動しながら写真に収めましたが、一人歩きの特典でしょうかいい韓国の一面を見せてもらいました。

?

 景福宮を出て日本大使館やアメリカ大使館付近を通り、ソウルで一番広いといわれる景福宮前の世宗路から李舜臣将軍銅像を経て太平路の歩道を歩きました。そかから南大門まではかなり距離がありますが博物館や徳寿宮を横目で見ながら結構楽しく歩きました。ロイヤルホテルへは随分と迂回する道順ですが、第2の目的地南大門市場の活気はそれを忘れさせてくれました。

 ロイヤルホテルが目と鼻の先まで歩いて帰った所で雷を伴ったかなり激しい夕立のような雨に出会いました。軒先を借りて雨宿りを市ながらやっとの思いでホテルへ到着しましたが、夏の雨とはいいながらかなり濡れてしました。万歩計を見ると何と今日は2万歩も歩いているのです。お昼はバイキング形式の昼食だったので思い切って食べたつもりでしたが、どうりでお腹が空くはずです。見知らぬ異国を一人で歩けた充実感は何ともいえない楽しいものでした。

  「ソウル路を 一人ぶらぶら 散策す 新旧混在 まるで日本だ」

  「見たかった 閉門儀式 間に合って 厳かなりし これがタダとは」

  「いいですね 隣の人が 声かける 相槌打ちつつ 宮中絵巻」

  「ゴロ・ピカ・ザー いきなり夕立 濡れてゆく 少しひんやり 気持ちよくって」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○板門店への旅

 今回の韓国旅行の楽しみは、前回の研修旅行で果せなかった板門店への旅を実現できることです。北朝鮮による日本人拉致事件やテポドン発射実験など、何かと騒がしい北朝鮮をこの目で確かめたかったので、韓流ドラマ見学コース、ソウル市内見学コース、板門店見学コースの3オプショナルツアーから一も二もなく板門店行きを選びました。しかし私たちの団体でこのコースを選んだのは私だけでした。政情不安な国境へたった一人で出発することにはいささかの不安もありましたが、他の観光客と一緒なので思い切って参加しました。

 通訳のパクさんが朝早くバス乗り場までタクシーで連れて行ってくれました。さあ出発です。バスが進むにつれて川の両岸には有刺鉄線が二重三重に張り巡らされ、コンクリートで作られた監視小屋がやたらと目に付くようになり、改めて国境付近の緊張感が漂い始めました。ガイドの話も北朝鮮と韓国の50年にわたる戦争の出来事を克明に伝え、「ここからは写真撮影禁止です」と不安を増幅するかのように更に高いトーンで話すのです。

 最後のトイレ休憩場所を発つ頃には空の雲行きも怪しくなり、小雨がぱらつき始めました。国連軍の二重三重のチェックや国連軍のバスに乗り換えて更に高まる緊張感の中板門店に着いたのは出発して2時間余り経ってからでした。いよいよ板門店の見学です。

 この建物は北朝鮮の監視場で北朝鮮の兵士が銃を構えじっとこちらの様子をうかがっている様子が目の当たりで見えました。窓の中からはやたらと兵士の目がこちらを見ているような視線を感じつつ、見学はさらに緊張の度を深めました。

 この場所からだけは撮影が出来ますというガイドの言葉に、みんな堰を切ったように写真やビデオに周りの風景を収めていましたが、目の当たりにした非武装地帯の国境最前線はテレビや新聞でしか見ることの出来ない場所だけに、私も埼玉県から来たという隣の席の人に監視所バックに一枚写真を撮ってもらいました。

 観光客は2列に並ばされ、無口で板門店の会見場へ入って行きました。会見場の中にはテーブルがあってそのテーブルの真ん中が38度線なのです。つまりこの部屋に韓国と北朝鮮の国境があるのです。本来私たちは北朝鮮には行けないのですが、この部屋に中だけなら国境を越えれるのです。一人一枚だけ写真を撮ることが許可され、ガイドさんに国連軍の兵士とともに一枚、シャッターを押してもらいました。これが38度線を越え北朝鮮の領土にいる私です。

 国連軍の兵士が見守る中、バスは本当の板門店という国境沿いの見学所へと向かいました。韓国側は草もなく北朝鮮側が見えますが、国境の向こうの北朝鮮はうっそうとした林になっていました。見学所からは北朝鮮が希望の村と呼んでいる村が見えました。韓国では宣伝村と呼ばれるこの村には大きくて高い鉄塔があり、その突先には北朝鮮の国旗が威厳を誇示するように折からの緩やかな風になびいていました。

 この写真は、私が別に悪いことをして逮捕された訳ではありません。ガイドさんが「めったにない機会ですので一枚如何ですか」とシャッターを押してくれました。習いたての言葉で「カムサハムニダ(ありがとう)」といったら「カムサハムニダ」と、少し笑って答えてくれました。

 板門店を見学して感じたことは、どこにでもあるこんな風景が珍しい光景としてとらえられなければならない人間の世界の愚かさです。朝鮮戦争が勃発して既に50年、日本の成長を支えたのは皮肉にもこの戦争でした。この戦争による軍需景気で日本は戦後の成長を遂げましたが、同じ民族が来たと南に分かれて戦い、今もなお肉親といえども国境や非武装地帯を挟んで行き来できない厳しい現実があるのです。更には私のように平和な国にいるものがこの場所を観光でしか見れないことも愚かといえば愚かなのです。再び板門店を訪れる時はベルリンの壁のように国境も有刺鉄線も地雷もない場所になっていることを願わずにはいれませんでした。

  「北南 同じ民族 三八で 分ける悲しい 戦争愚か」

  「同じ部屋 同じテーブル 話せども 未だ解決 何故にできぬか」

  「おらが国 誇示するように 鉄塔の 上にはためく 北の国旗が」

  「目と鉄砲 俺の姿に 向けられて 威圧感じつ そろそろ歩く」 

[ この記事をシェアする ]