shin-1さんの日記

○NHKふれあいミーティングに出演しました

 「ミーティング」といえば、つい最近話題になっている文部科学省の教育基本法議論を思い出させ、まるで賛成者だけの仲間内議論のようですが、NHKでは一連の不祥事が連鎖した視聴料不払いに対して、経営を立て直すために全国で3000回ものふれあいミーティングを実施してきたそうです。その3000回を区切りとした模様をテレビで公開討論することになり、私にもパネラーの一人として出演するよう依頼がありました。比較的若い人の意見を取り上げたいと思ったのでしょうか、6人のパネラーでは私が一番年上なのです。これまで私はまだ若いと思っていただけに多少のショックはありましたが、故に責任もあるだろうと控え目な積極性を前面に押し出して議論に絡みました。

 数日前東京のNHKから唐突に「徳田ですがお元気ですか」と一本の電話が入って驚きました。東京のNHKで活躍しているあの徳田アナウンサーなのです。もう二十年も前に松山放送局に在勤中、私の取材で役場に来たことを思い出しながら懐かしく話したのですが、その徳田アナウンサーと「おはよう日本」の首藤アナウンサーが進行役という相当贅沢な顔ぶれだし、相手は永井副会長や番組総局長、理事、松山放送局長というそうそうたる顔ぶれで、この仕事への執念を垣間見ました。

 コムズ5Fの特設会場は一般視聴者が三方から囲み、視聴者の意見も交えての番組収録です。2時間半の長い時間をNHKへの意見や批判、提言といった様々な意見をからめながら、それぞれに楽しいお喋りをさせてもらいましたが、左程の緊張もなく無事終了しました。この模様は早速昨夜の全国ニュースで流れたようで、「テレビに出とった」と電話をかけてくれたりしましたが、いずれ編集の後番組として放送されるようです。

 白い服の方が首藤アナウンサー、私とツーショットは徳田アナウンサーです。

 私とテレビとのかかわりは物心ついた少年の頃からです。白黒テレビから始まってカラーテレビ、ハイビジョンと、またアナログからデジタルへと技術革新著しい情報化社会のなかで育ってきた私にとってテレビは私の知的能力の殆どだといっても決して過言ではないほど大きな影響を受けてきました。力道山や若乃花といったテレビ草創のころの思い出も今は懐かしくまるで三丁目の夕日のように過去の彼方に消えていますが、日本人のDNAはテレビと言われるような大きな影響力を持っているのです。

 私の場合最初は特にNHKとの関係が深く、第14回NHK青年の主張の愛媛県代表になった昭和43年、僅か23歳で早くもテレビ出演やラジオ出演を果たしているのです。その後も公民館や村おこし、まちづくりの節々に私の活動と町の話題がテレビやラジオを賑わかせました。「明るい農村」「人間マップ」など今も手元に残る古ぼけたVTRを見る度に当時を懐かしく思うのです

 でも時代は大きく変わり、2003年には全国の家庭からアナログテレビが消えるのです。誰がどんな意図でデジタルに変えるのか知るよしもありませんが、便利という名の社会がそこまで来ているのです。多分10年後に協の議論をVTRで見た人は、笑い話として片付けることでしょう。

 先日妻と息子のマンションを訪ねました。松山市では既にデジタル放送が開始され息子たち夫婦はデジタル放送の恩恵を受けて暮らしています。私の町にはまだその電波も届かずそれを受信するテレビもありません。しみじみ情報格差を感じつつ、息子の説明を聞きながら便利さに期待をした次第です。流行と不易という言葉がありますが、不易なものまで流行に押し流される現代に寂しさを感じる年代になったのかと、積み重ねた62年の重みを感じる今日この頃です

  「徳田です 二十年ぶり 電話にて 偉いものです 忘れず事前に」

  「歳の順 言われてハッと 気がついた 俺もそんなに 若くないのか」

  「カメラ前 ハラハラドキドキ したっけな 今はときめ気 動じもしない」

  「デジタルが 俺の家にも やって来る アナログテレビ もう直ぐゴミだ」 

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shin-1さんの日記

○わが書斎にストーブ入る

 このところの冷え込みで南向きとはいえ日当たりの少なくなったわが書斎も、朝夕はめっきり寒くなって妻からストーブを入れるように言われていたのですが、しまっている納屋からストーブを出すのが面倒臭くてついつい延び延びになっていましたが、先日一ノ関でお土産に貰った風邪気味が直らず、ついには昨晩ストーブのご厄介になることに相成りました。

 ここ数年間は書斎にコタツを用意していましたが、電話回線でパソコンにインターネットを接続した関係で机の方が便利なのでストーブに切り替えたのです。4畳半の小さな部屋ですので小さな石油ストーブでよく、昨年買ってもらったものなのでまだ調子がよく、一変で点火し部屋はまるで春のように変化しました。温度設定は只今18度に設定しているのですが、今朝の室内温度は10度を下回っていたようです。

 私は他の人に比べ比較的暑さや寒さに強いほうで、いつもの事ながら下着はランニングで位置年中を過ごしているし、昨年まではズボンの下にパッチをはいたことなどありませんでした。しかし日本全国を移動する旅に出る最近はさすがに東北などの寒さが身に堪えると、妻もうるさくいうものですから、パッチとコートがわが冬の必需品となりつつあるようです。「パッチもはかず、コートも着ずに風邪をひいたらそれこそ年寄りの冷や水だ」と妻は、私の体を気遣って私をいさめるのです。

 私の部屋の大きな吐き出し窓は、直ぐ外へ出られるようになっていて、スリッパも用意しています。最近はハクビシンや狸も私の水虫臭いスリッパに愛想をつかしたのかさっぱり姿が見えなくなって、スリッパ泥棒の被害にも遭わなくなりましたので、毎朝ここから戸外に出て親父の隠居へ6時過ぎには様子を伺いに行くのです。88歳の親父の健康状態は脛病院騒動も収まって比較的安定しているようで、相変わらず家の外回りの掃除や庭の手入れをブツブツ言いながらもやっているようです。

 ストーブで暖を取りながら原稿やブログを書き、こうして今年も無事で師走を迎えることができました。早いものだとこの一年の時の流れを感じつつ早くもメールでは来年の予約が入り始め、慌しさは来年も続くのだろうと予感をしています。給料生活を35年続けた後、まったく予定のたたない無給料になって早くも一年八ヶ月が過ぎました。家計のやりくりも大変だっただろうとわが家の大蔵大臣の苦労を垣間見つつ、ようやく62歳の年金受給者となってホッとしている妻の姿が目に浮かびます。

 幸い親父もまだどうにか元気で介護も必要とせず、妻もパートを続け、次男も目出度く就職も決まり、少しずつ肩の荷が下りつつありますが、これも健康あってのことなので健康には特に注意しようと、忙しさの余り長らく中断していた健康診断を受けようと今朝心に決めました。

 昨日、定年退職し再就職した友人に会いました。元気で頑張っているようでしたが、最近体の不調が気になってもうそろそろ辞めようかと相談を受けました。それは本人が決めることだからと前置きしつつも、残り少ない人生を大いに楽しんでいる私のもぎたてテレビ出演様子(先日放映)が気になるらしく、一度相談に伺うとの問いにどうぞと答えました。60にして惑わず生きている私が羨ましいと、去り際の言葉でした。

  「お父さん 辞めてよかった 妻が言う 俺も同じだ 夫唱婦随で」

  「裏山に 椎などないぞ 羨ましい 金はないけど 自信満々」

  「気を使い 長男夫婦 時々に 泊まりに来るが 妻も気遣い」

  「年金が 出る歳俺も 歳なのか 若いつもりで いたけど年金」

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shin-1さんの日記

○看護連盟の会合

 高校3年間を宇和島市桝形町に住んでいた私ですが、その下宿していた場所の目と鼻の先にあるニュー兵頭サプライムホールという場所に出かけました。勿論私が住んでいたその頃はそんな洒落た建物はありませんし、斬新な施設なので最近建ったものではないかと思われます。例によってカーナビに施設の電話番号で入力し、ひたすら宇和島めがけて国道56号を南下しました。宇和島も近くなったもので、7時に出たのですが土曜日の早朝ということもあって、交通量も少なくわずか1時間半ほどで迷うこともなく一発で到着しました。

 駐車場には昨年のカナダ旅行の打ち上げ会で知り合った鈴木さんが待っていてくれ、喫茶コーナーでお茶をいただき簡単な事前打ち合わせを行いました。

 愛媛県看護連盟南予支部という聞いたこともない大層な名前だけに少し緊張気味でしたが、喫茶に集まる人々が「若松さんの本を読んだ」とか「若松さん少し痩せましたね」と言い寄ってくるものですからすっかり打ちとけてその気になってしまいました。

 会場は結婚式の披露宴をするであろう素敵な部屋で、感心したのは二人掛けの席は前から後まで全て満席という記憶にないほどぎっしりで整然と座っているのです。しかもその殆どが素敵な女性ですから私の張り切りようは相当なもので、日ごろの話とは少し違った切り口で話してしまいました。

 私の娘が助産婦、次男が看護学生ということもあって、また無人島キャンプで知り合ったボランティアの看護婦さんや山本芙美子さんから教わった少しかじりの話しも織り交ぜながら面白おかしく「心豊かに生きる」という演題で90分間楽しい話しを話しましたが寝る人もなく終始和やかに話を終えました。

 それにしても看護関係の仕事は大変だと思います。命を預かる補助的な仕事ですが24時間体制で働かなければなりません。娘が日勤、準夜、深夜など3交代でバトンをつないでゆくのです。ミスの許されない職場だけに緊張もするでしょうし、娘のように家庭を持っているとこれまた心労は耐えないようです。わが家もそのお陰で孫の面倒を見なければならない親馬鹿ぶりを発揮していますが、親も子も、ましてや孫もそれぞれに大変なようであります。女性が外で働くことが当然と言わんばかりの社会風潮はこれからも続くものと思われますが、旦那の協力もこれまた必要とされているようで、私のような古い時代の人間は役に立たなくなりつつあるようです。

 喫茶コーナーで紅茶をいただきましたが、その席には「ご自由に食べて下さい」と篭にみかんが盛られていました。そのみかんの美味しかったことは格別でした。宇和島地方といえば吉田町など全国有数のみかんどころですから、美味しいのは当然かもしれません。でも来所者に地域特産品でサービスをするこの太っ腹なところが南予のおおらかさでしょうか。こんなPRも面白いと思いました。

 ほのぼのとした気持ちで北西の風の強くなった法華津峠を越え、帰りに大洲青少年交流の家に立ち寄りました。私が実行委員長を務める「大人を考えるフォーラム」のが間近にせまっているのでコーディネーターとして事前打ち合わせをするためです。運良く四国各地の青年団事務局の面々が立ち寄っていて、青年談義に花を咲かせました。

  「北西の 季節風吹き 始めたる 宇和島訪ね 話し花咲く」

  「看護師と 名前を変えた 人々が 集う会場 華やかでした」

  「散髪も せずに出かけた 男前 いやいやこれは 女前です」

  「これ程に 人に会いたる わが身でも 今日も初めて 会う人ありて」




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shin-1さんの日記

 役場を退職して1年半を越えたというのに、私の元へは相変わらず沢山の郵便物が届いています。昨日も市役所双海支所へ行ったところ、教育委員会の職員に呼び止められ、「若松さん郵便物が届いていますよ」とかなりの量の郵便物を手渡されました。教育委員会には私の私書箱のような場所まで作ってくれていて、支所へ行く度に持ち帰るのですが未だに教育長という肩書きもあるようですが、過去は中々捨てきれないものだとしみじみ思いました。講演の依頼や講演の肩書きも元教育長などと書く人もあるようですが、元や前などの名前など何の役にも立たないし、存在しない過去の名前にすがって仕事をするほどいやらしいことはないと自分を戒め、人間牧場主やどうしても使いたいときは愛媛大学非常勤講師などを肩書きにしています。先日も「あなたの最終学歴は?」と電話で尋ねられましたので、「最終学歴などを聞く所へは行きません。どこを出たかではなく、何をしてきたかでもなく、何が出来、何をしようとしているのかが人間の値打ちでは?」と問い詰めたところその人は恐縮して、「えらい失礼なことを申しました」と訂正されました。日本人はやはり肩書きに弱いようです。

 数日前地元の新聞が編集しているaccrete(アグリート)[共生]という雑誌を見つけました。後から読もうと食卓の上に置いてたのですが、残念なことに妻は紙ごみとして既に処分していたのです。出入りの「えひめ地域政策研究センター」へ行った折、見せて欲しいと頼んだところ、ここでも紙ごみとして梱包された後でした。お願いして処分される運命のゴミの中から取り出してもらい持ち帰ったのです。

 その薄っぺら委雑誌「風の散歩道」に、目の覚めるようなマリンブルーの海を背景にした双海町串駅付近の鉄橋の様子が紹介されていました。この写真の原風景は全国の各駅に張られる「青春18切符」のキャンペーンポスターとして紹介されたこともあって一躍有名になったカメラアングルなのですが、写真もさることながら大早直美さんの記事が何とも素敵な表現だったので大切に保管しようと思いました。何故ならこれまで色々な雑誌や新聞でまったく触れられていない予讃線存続への私の思いを代弁しているように思えたからです。

 ー前略ー『速さを求め、日本列島は新幹線や高速道路をはじめとした高速輸送網を張り巡らせてきた。鉄路や道路は都市と都市を結び、あるいは人や物資を都市に集約する集約するための流露となって、全国各地を結ぶ。一見、僻地の人たちにも便利さをもたらすかに思われた施策の数々は、地元の期待とは裏腹の「ストロー現象」を起こし、過疎化を進めた村、さらには失われてしまった集落さえある。美しい景色、長閑な自然に恵まれた村が、今も日本のあちらこちらで、静かに消えていく。

 しかしこの美しい景色には、素晴らしい価値がある。そう教えてくれるのが、伊予市双海地区の試みである。串、下灘、いよ上灘そして高野川の各駅、海をすぐ目の前にしたこれらの駅を持つ双海地区は「しずむ夕日が立ちどまる町」というキャッチフレーズで、旧双海町から継続して町おこしを行っている。毎夏、海に沈む夕日を主役に開催される「夕焼けプラットホームコンサート」は、今年で二十一回目を数えた。無人化が決定し、やがては路線自体廃止されるのかと危ぶまれた中で誕生したこの企画は、無人駅となった下灘駅を、あちこちから夏を惜しんで集まって来る人々の目的の駅にまでなってしまっている。

 列車は見飽きることのない景色の中を走っていく。コトリと進み、コトリと停まるが吐き出し、そして呑み込んでいく乗客は、明らかにその土地の人々に思われた。この路線は、通勤、通学、買い物などの生活の足なのだ。折りしも夕刻、部活帰りであろう高校生たちのグループがにぎやかに乗り降りしていった。通学の朝に夕に利用する彼らは、この路線にどんな思い出を刻むのだろうか。』

 青文字の文章は凄い文章だと思いました。浅学ながら文章を毎日書いてる私としては見習いたい描写です。やはり才能の違いでしょうか。

  「何気なく 開けたページが 目に留まる ふるさと上手く 書いて感心」

  「紙ごみに なりゆく雑誌 命乞い 手元に置いて しばし眺めぬ」

  「ガタゴトと 毎日走る 列車だが 存続危機を 乗り越え今に」

  「見る人は 見てる吾らの まちおこし されど今では 跡継ぎもなし」  

  

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shin-1さんの日記

○昔の名前の名刺ではない名刺

 今日は私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の運営委員会が持たれました。二月に一回のこの会議は、間近に迫った行事の運営や近況を報告しながら自らの意識を高める大切な会議です。この会議のお世話をもう二十年もやっていると、余り変化の内容に見える団体でも去る人来る人、また亡くなった人など様々な人間模様が浮かび上がって結構楽しいものです。

 今日の会議に飛び入りで今は合併して愛南町となった旧御荘町の山岡強さんが久しぶりに顔を見せてくれました。彼は旧まちづくりセンターへ2年間出向職員として派遣された頃知り合い、えひめ地域づくり研究会議の事務局としてお世話してもらった経験を持っており、膝つき合わせて策を練った昔が懐かしく感じられました。彼はその後役場に帰り、音信は年賀状程度のやり取りでしたが、道の駅に出向していたこともあって、折につけ何かと気になる存在でした。

 私と彼との間柄を考えれば名刺の交換など必要ないと思いましたが、私の近況と彼の近況がかつてとは違っているので、名詞の交換と相成りました。彼の名刺をもらった時、名詞の表面が何かごつごつしていることに気がつきました。名刺の表面に、愛南町の特産品であるヒオウギ貝の稚貝を貼り付けているのです。黄色い愛らしい稚貝は海のイメージが連想され、さすが観光振興の部局にいるだけのことはあるなあと感心しました。

 よく見ると私以外の人と名刺交換している別の名刺にも少し違ったヒオウギ貝の貝殻が貼り付けられて、オリジナルな表現をしていました。ある人が「この名刺楽しいけど持ち運びにかさばるよなあ」と感想を述べましたが、「それが難点なんです。でも私の名刺は名刺のケースの一番上に置いてください」と話していました。

 毎日のように何気なく交換する名刺の数々、ややもすると埋没して二度と浮かばれない名刺の何と多いことか、その感想は退職時に私が畑で焼いたダンボール数箱分の膨大な名刺が物語っています。重要だったり余程特徴がないと相手に覚えてもらって保存してもらうことは難しいのです。

 私の名刺もイラスト入りなので随分目だって、最近では名刺の売れ行きも好調なので、この分だと最初の計画通り名刺一枚100円の販売事業に取り組むのもそう遠いことではないと思っています。「えっ名刺を売るのですか」はいその通り、役所を辞めて給料の出なくなった私には名刺一枚も疎かにすることは出来ないのです。実はもう名刺を販売した経験があるのです。ある集会が終わった懇親会の席上、この話をしたら「その話し乗ろうじゃないの」と声を掛けてくれ、声を掛けた人がさっさとポケットマネー100円を集めてくれたのです。その金額は3700円、つまり37人の人が集まっていたのでそうなりました。私はこのお金を名刺貯金として大切に保管しています。このお金は名刺がなくなって次に作る時出資したいと思っているのです。

 名刺で金儲けなんてと呆れる人の顔を見ながら、今度はどの懇親会をターゲットにしようか虎視眈々です。だって酒を飲むとみんな頭が馬鹿になり、金銭感覚がなくなるからです。だって縁もゆかりもない飲み屋に5000円も払うのですから、縁もゆかりもある私に100円くらいの投資をしてもバチは当りますまいが・・・・。てな調子でたった一枚の名刺の話題をこうまで楽しい文章にして今日のところは夜もふけてきたのでお休みなさい。

 私のブログを毎日読むという同じ伊予市市民の門田さんの感想が聞きたいね。

  「名刺見て ブログの話題 今夜書く 夜が遅いと 諭す妻見つ」

  「毎日々に ブログ書く癖 つきました 随分早く 書けるも特技」

  「この名刺 一枚十円 売りましょう そんな商売 繁盛するかも」

  「おい俺の 名刺一枚 買ってくれ 売れた売れたよ 三十七人」

 

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shin-1さんの日記

○町内を回る

 私は300戸足らずの小さな自治会の区長(自治会長)をおおせつかっています。小さいといっても旧双海町では最も大きな自治会で町内には27組もの小組みという組織があります。毎月月初めにはこれらの組長さん宅を回って、市から届く広報を配布しなければなりません。本来なら小回りのきく愛用のヤマハメイトで家々を配るのですが、次男が病院の実習中なのでその単車を貸しているため、今朝は妻の軽四愛車に重い広報を配達順番に積んで出掛けました。早朝5時過ぎの町内は田舎らしく早起きの人が多く、あちらこちらで「お早うございます」と元気なあいさつを交わしながら配って回りました。今朝の外気は何時になく寒く吐く息も白くなるほど冷え込んでいました。それでも約1時間を小走りしたお陰で随分体が温まり、これも役得かと思いました。

 役場を辞盆踊り、秋祭りなどの恒例行事が一段落したこの頃は余計そんな感じがして、自治会長としての責任もあるので少し暇を見つけて町内を回らなければならないと思ったりもしました。

 私の町内でも近頃は独居老人が増えているようです。妻が民生委員をしているので、わが家の入り口にあるお地蔵さんの縁日を毎月21日と決めて、その日は妻が赤飯を作り近所にお接待と称して近所や妻の受け持ち区域に住んでいる独居老人宅へ私が宅配するのです。「おばあちゃんその後いかがですか」と近況を聞くと、まるで日向ぼっこの亀のように玄関からちょこんと首を出し、「いつも気をかけて下さりありがとう。お陰で何とか元気です」と会話を交わすのです。

 先日も面白い会話を交わしました。「若松さん、役場を辞めたそうなが選挙に出たらどうぞな。私らはいつも色々してもらって何のお返しも出来ん。選挙にでも出たら一票入れてあげるんじゃが」と、まあこんな会話です。長話も出来ないので、「選挙に出る時には頼みます」と笑いながらその場を立ち去るのです。選挙になど出る力もその気もないのを知っての話でしょうが、面白い表現をするものだと一人苦笑しました。

 田舎の高齢化はもう数年前から問題になっていて、高齢化は田舎だけかと思いきや、何と大阪の千里ニュータウンなどかつては若者が住んだ街が急速に高齢化して社会問題になりつつあるというショッキングなニュースが、今朝の新聞で報じられていました。確かに半世紀近く経てば20歳の青年は70歳になるのですから当然かもしれません。しかし高度成長に沸いたその頃は50年後の未来年齢なんて誰も想像しなかったに違いありません。人は誰でも確実に一年で一歳歳をとるという現実や、歳をとると車に乗れなくなるという文明の裏側を忘れてしまっているのです。その歳になって何とかしろと文句をいったって誰も助けてくれないのが世の中なのです。若い頃は何でも自分でできるから個人主義がまかり通ります。誰にも束縛されない現代の自由な社会はまさにそれを象徴しているようです。しかし歳をとったり体が不自由になったり、震災や災害にあった時は近隣の力添えがなければ決して一人では生きてゆけないのです。そのことに気がつくのが遅いと人間は人生の仕上げの大切な時期に不幸になるという末路は、今までの小説や身の回りの事例でよく分るのですが、まだそんなことに気付かず相変わらず愚かな暮しをしている人々が何と多いことか・・・・・・。

 「人は何のために生きるの」と訪ねたら、「生きるために生きる」「食うために生きる」「働くために生きる」「人々の幸せのために生きる」「目標を成就するために生きる」「子孫繁栄のために生きる」など人それぞれでしょう。今からでも遅くはありません。ちょっと立ち止まって、鏡に自分の姿を写しながら、自分に向かって「何のために生きるか」「誰と共に生きるか」などを自問自答するのも

大切かもしれません。秋は人恋しい季節です。

  「街歩き 会話重ねる いいもんだ ばあちゃん元気 お陰様です」

  「三十年 後には親父の 歳となる あんなになるのか 少しいたわり」

  「よもぎ餅 隣近所の おすそ分け ハアハアフウフウ 焼いてやきもち」

  「風邪気味で 親父隠居に 遠慮気味 俺より丈夫 昔鍛えし」 


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shin-1さんの日記

○やめた人の言い分とやめない人の言い分

 昨日久しぶりに旧役場の同年齢同僚二人と酒宴の席で出会いました。A君は家が農業です。したがって退職すると家業の農業を奥さんと共にやっています。晴耕雨読の日々は実に楽しいと、真っ黒に日焼けした顔をほころばせて話してくれました。しかし彼の作っているみかん類は施設園芸で高品質を追求するような農業ではなく、親から貰った財産を減らすこともできないからと、まあ仕方がないからやっているようなもので、相変わらず金の取れない農業だと農家の長男に生まれたことや農業の厳しい現実をぼやいていました。

 一方B君は天下りといえるかどうか分りませんが、役所の外郭団体に移って団体事務局のような仕事をしています。朝家を出て夕方家へ帰る退職前と変わらない背広にネクタイの生活ですが、責任がない分気楽なものだと話していました。しかし彼の置かれている立場は微妙で、これまで部下だった役所の人からいちいち文句をつけられ、おまけに給料はスズメの涙だとこれまたA君と同じようにやるかたない不満を打ち明けてくれました。

 さて彼らの話の矛先はもっぱら自由人となって伸び伸び生きてる私に集中してしまいました。「お前は大学の先生気取りで若い子と一緒になっていい」とか、「お前は講演など口先だけで弁当も持たずに色々な所へ出かけて講演するからいい」など、まるでさも私が勝ち組、自分たちが負け組みのような話をして羨ましがるのです。挙句の果ては「何でも人間牧場などというセカンドハウスを造ってリッチな生活をしているそうじゃないか。金があったら回してくれ」などと、いいたい放題なのです。

 ところでA君は酒もタバコもパチンコもという嗜好品100パーセントの人間でしたが、数年前に健康診断に引っかかって一念発起してタバコをやめました。パチンコも雨の日に行く程度のようですが、酒だけはやめれないと言い張っていました。「酒をやめるくらいなら死んだ方がましだ」と、体の都合で酒を6年前から断っている私にこれ見よと言わんばかりに、さも美味そうに盃を乾すのです。タバコをやめたことを誇らしく公言し、その代償として酒を飲むことを自分に納得させるA君ですが、過去に胃潰瘍の手術をした経験があるので、「そんなに無理して飲むな」と注意をしましたが、一向に馬の耳に念仏のようでした。

 B君はどちらかというとネグロ的性格で、私たちのように元気を顔に出すタイプではありません。故に物静かで再就職後もその性格は変わらずむしろ昔より愚痴っぽくなっているようでした。B君もA君と同様酒もやるし、タバコもやりますが、賭け事だけはしないようでした。

 私は同じ時代に生まれ同じ時代に生き、同じようにリタイアした3人の中で、A君とB君がいうように果たして幸せ者なのか考えて見ました。確かに今はさした悩みもなく、日々人と出会い、現職時代に培った人と情報のネットワークを駆使して楽しく暮らしていますが、彼ら2人と根本的に違うのは未来への明確な人生目標に向かって歩んでいるからだと思いました。そのことを今夕妻と風呂に入りながら雑談めいて話すと、「それは私の存在が大きいのよ」と返されました。妻の言うように確かに若い頃は様々な苦労や失敗を繰り返してきましたが、その度に妻の内助の功がどれほど支えてくれたか計り知れないのです。「それをいっちゃあお終いよ」とまるでフーテンのと寅さんのようなセリフでお茶を濁しましたが、せめてこれからも同行二人の人生でありたいと、友人二人にあってしみじみ思いました。

  「幸せは 私のお陰と 妻が言う そうだそうだと 心相槌」

  「A君と B君お前 幸せと 羨ましがり つつ酒を飲む」

  「酒止める なら死ぬ方が まだましと 友は変わらず 盃乾して」

  「今日すめば 明日など俺にゃ どうだって ネグラ男の 愚痴が始まる」 


 

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shin-1さんの日記

○知っているようで知らない松山市道後という街

 愛媛県の県庁所在地は松山市です。熊本県に熊本市、大分県に大分市と県と県庁所在地の名前がダブっている地名は比較的覚えやすいのですが、島根県の松江市や香川県の高松市のようにまるで違った名前だと、中々覚えられなかった社会科の授業が思い出されます。私たち松山市の周辺に住む者にとっては、行政・教育・文化・商業・医療・交通のどれをとっても松山市抜きの暮しは考えられませんし、その恩恵に浴しながら今日まで暮らしてきました。特に役所に勤めるようになってからは次第に松山市の占める割合が増えるようになって、リタイアした最近でも松山市から通っているのと言われるほど深くて広い結びつきです。ところが少し離れた地点で冷静に考えてみると、私と松山市の関係は同じような点を同じような線で結んで行ったり来たりしているだけであることがよく分るのです。例えば松山市の道後だって今まで数えられないくらい行ったり来たりしているのに、温泉や旅館といった場所で会合したり泊まったり、食事をしたり出会ったりするだけで、裏にある桜の名所常信寺の存在を知ったのは最近だし、近くにある松山神社の立派な造りも孫を迎えに行ったほんの少しの街歩きで発見したものでした。

 先日の日曜日、えひめ地域づくり研究会議が開いたリレーシンポジウムの会場となった宝厳寺も一遍上人さんの寺として知ってはいましたが、恥ずかしながら訪ねたのは今回が初めてなのです。

 この日はあいにくの雨の一日となりましたが、かつての色町といわれるネオン坂を登り、山門をくぐると目の覚めるような黄金色に紅葉したイチョウの大木が雨にしっとり濡れて二本、威風堂々と立って私たちを出迎えてくれました。

 私のカメラで出来るだけアップでと近づけて撮ったため頭は切れてしまいましたが、いい色は何とか表現できたようです。平和通や勝山通りのイチョウなど松山市には名だたるイチョウがありますが、このイチョウも立派で、葉の落ちた境内の姿も見てみたいと勝手に想像をしてしまいました。

 シンポジウムのプロローグはお寺の秋を演出しようと心憎いばかりの企画が盛り込まれ、森原さんの詩の朗読と竹山さんの尺八、それに三好さんの創作舞踊のコラボレーションが見事に表現されて、これだけで言葉は要らないような世界を感じ取ることが出来ました。


 一遍さんの木像が側に安置された本堂はまさに極楽浄土の世界です。残念ながら余りの見事さに見とれてしまい、一遍さんの写真を撮るのを忘れてしまいました。

 この会の企画や全体進行を担当された門田さんや森原さんはやはり文化人だとしみじみ思いました。私が企画したらこんな素敵な顔ぶれを集めれたかと思うと、少し後ずさりしそうな感じでした。中島や堀江の事例発表や犬伏先生をコーディネーターに据えたディスカッションも文化に彩られ、はり松山は凄いと、改めて文化的奥の深さに感心しました。

 私も内子で来春行われる予定の20周年記念シンポの予告のためチョイ役で出ましたが、その頃には雨も上がり、格子戸の向こうに夕焼けがあるのか格子戸を通して夕日が幻想的に差し込んで、何ともいえない深い味わいでした。私は厳を(げん)か(ごん)か隣の席に人に聞かれたので、あえて失礼ながら備え付けられた住職しか叩くことを許されないであろう鐘を、住職さんのお許しを得て叩かせていただきました。はいこのお寺の名前は(ほうげんじ)ではなく、鐘の音のとおり(ほうごんじ)と読むのです。

こんな文化的シンポなのに私の遊び心が夢の世界から現世に逆戻りして(しまった)感じがして(しまった)でした。

 それにしてもこの時間帯は、道後の街に全国から沢山の人が泊まりに来てお湯を楽しみ食事も始まるのであろうが、湯上りに湯篭を下げて下駄の音をカランコロンとさせながら、ネオン坂を登ってこのイチョウの紅葉を見に来させる、いきな計らいをするホテルや旅館はないのだろうかと、行く秋を惜しみながら車でネオン坂を下り、懇親会に出席できない後ろ髪を引かれて、松山インター口のバス乗り場へ車を走らせ、東京行きの夜行高速バスに乗り込みました。

  「今年ほど 紅葉見たのは 初めてだ 紅葉元年 美しい国」

  「文化人 なれぬ私が 恥かしい 修行が足らぬと 一遍お怒り」

  「お寺にて 会議する度 思うのは 昔はみんな こうだっただろに」

  「住職が 変わればお寺の 雨漏りも 直り人々 集まる場所に」

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shin-1さんの日記

○奥の細道紀行

 関西に住む私たちにとって東北は、いくら新幹線が通って便利になったとはいえ東京から向こうの遠い地域でしかなく、音信も交流も殆どないのが実情です。それでも最近は青森や宮城県仙台、岩手県宮古などからお声がかかって、少しづずつ遠い国が近くなりつつあります。それでも回数は年に何度かでしょうから、今回の岩手県一ノ関への旅も楽しみの一つであったことはいうまでもありません。私が東北に憧れるのは松尾芭蕉の奥の細道とイザベラバードといういイギリス人女性が姉にあてた書簡を基に書かれた「日本奥地紀行」を読んだからです。松尾芭蕉の俳句の幾つかは子どものころから教科書で知っていますが、イザベラバードの本の存在を知ったのは数年前です。地域づくりを志す私にとって、アルカディア(桃源郷)は理想の地域だからです。初老を迎えつつある私にとって東北の四季は魅力だし食文化や祭りも早く見ないと時間がないような焦りもあるのです。

 そんな折、一通のメールが岩手県一ノ関の金森勝利さんから入りました。彼とは何の面識もないのですが、彼に言わせると東京上野にある国立社会教育研修所で私の講演を聞いたというのです。もう何年も前のことなので記憶の片隅にもなかった出来事ですが、彼はこれまで私の存在をしっかりと頭の片隅に置いていたというのです。最近7つの町が合併して新生一関市という人口10万人を超す街が誕生したのを機に、課長さんたちに私を呼びたいと進言し私を招聘する企画が実現したそうです。

 私は一も二もなく了承しました。ただこの10月と11月は日程が滅茶苦茶立て込んでいて、結局は私に合わせる形で28日の予定を組みました。運が好いのか悪いのかその日の前後は日本列島が深い気圧の谷にすっぽり入って、2泊3日は全て雨にたたられました。しかし雨の晩秋東北はまた見方によっては風情があってホテルの一室に閉じこもって、締め切りの近づいた原稿を書くのにはピッタリの一日となりました。

 東京から一ノ関までは上野から東北新幹線で約2時間です。昔は特急でも8時間かかっていたというから信じられないような速さです。私は最近開かれた還暦の同窓会で同級生の友人からハーモニカで「ああ上野駅」という井沢八郎の歌った昔懐かしい歌を弾くよう懇願され何とか吹けた記憶を思い出しながら、上野駅のそこここに「どこかに故郷の便りを乗せて、入る列車の懐かしさ」と口ずさみながら新幹線に乗り込みました。


 かつての蒸気機関車とは似ても似つかぬまるでおもちゃの箱から飛び出したような美しい列車に身をゆだねながら、一路東北を目指しました。車窓の風景に飽きることのない2時間はあっという間に過ぎ去り、少し肌寒いかもしれないと妻が持たせてくれたコートを着込んでプラットホームに降りたのです。

 夕方まで自室で原稿を書きながら窓越しに町並みを眺め夕方まで久しぶりにのんびりした時間を過ごしましたが、6時になって生涯学習課長さんがわざわざ迎えに来ていただき、季節料理の柳橋というこじんまりとしたお店へ案内されました。気配りの出来る女将は急な二階への階段を足元に気を付けるよう一緒に上がってくれましたが、既に若い職員さんが8人も集まっていて、その後は推し量るべき話しに花が咲きました。美味い料理と美味い酒、そして人情は嬉しいもてなしの条件が全て揃い、遠くの町からはるばる駆けつけてくれたであろう、帰りの時間ギリギリまで熱心に話しこんだのです。
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 若い頃の私がそうであったように、集まった職員さんたちは私のむしろ失敗談に耳を傾け、熱心に話を聞いてくれました。「社会教育は楽しい」と仮説目標を立てれば絶対うまくいくと、日本一の公民館主事を目指して目を輝かせた当時のことを、明日の講演では聞けない裏話として話しました。

 会場となった文化センターはホテルのすぐ裏手でしたので、あくる朝は迎えを断って一人で歩いて行きましたが、センターの前には今を盛りと燃える紅葉が私を温かく迎えてくれました。

 餅のフルコースといわれるような珍しい昼食をご馳走になり、再び元来たコースを後ろ髪引かれる思いで後にしました。

 課長さんはじめまた出会いたい多くの人のご縁をいただきながら・・・・・。

  「一ノ関 目指す細道 ひとり旅 ご縁いただき 再会約して」

  「しとしとと 降る雨濡れる 一ノ関 家並み見ながら 締め切り終われて」

  「 


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shin-1さんの日記

○広島県世羅の町・その②

⑤世羅の町を流れている川は芦田川ですが、何故かこの川は広島県でもワーストを記録する川だそうです。こんな田舎に流れる川が何故汚いのかはあえて聞かなかったので原因は不明です。最近色々な町へ出かけますが、環境問題への関心は高く、海や皮を美しくしようという動きが活発で、既にその成果が報告されています。川は川上と川下の協力なしには美しくなりません。川下が川上の、川上が川下の悪口を言い合っている間は多分川は下水の延長になってしまうでしょう。

 芦田川の土手には沢山の桜が植えられていました。春の頃に見事に咲いた桜の並木を見に行きたいものです。芦田川の両岸に植えられている桜を愛でる手段として、満開の3日間だけでも歩行者天国にして筵やゴザを敷いて花見の宴を催したいものです。

⑥三郎丸のホタルの里の予定地を見学しました。残念ながら川は二方がコンクリートブロックになっていましたが、川には中洲もあって、ホタル保護活動は可能ではないかと思いました。川に架かった橋の名前は何ともロマンチックな夕霧橋だそうです。私の町でも20年間かかってやっと満足のいくホタルが飛び交い、心を一つにしたホタル祭りが開かれるようになったし、環境庁ふるさと生きものの里百選にも選ばれました。自然を相手の運動や活動は今日や明日結果が出ないジレンマがありますが、未来に生きる子どもたちのためにもホタルを復活させて欲しいものです。兼丸さんの炭焼きも芦田川の浄化も基本的にはホタルを飛ばせる運動とリンクするものだという認識を持って欲しいものです。

⑦町内には梨やブドウやリンゴなどの果物をアピールするフルーツロードがあり、いたるところに特産品販売所がありましたが、シーズンオフということで、どこも散閑としていました。想像するに多分これから春先まで世羅町はこれから長い冬篭りの季節になるのでしょうが、冬に人を来させるアイディアが欲しいと思いました。私の町は海抜ゼロメートルの温暖な特長を生かして水仙と菜の花で、冬の何にもない季節に沢山の人が訪れるようにしました。アイディア次第で人を呼び込むことは出来るのです。一工夫が必要でしょう。

⑧せら夢公園に立ち寄りました。何年か前西大田に講演に行った時、役場産業課の馬場さんに案内されてその予定地を見学に行った記憶が甦りました。馬場さんの夢が叶って夢公園は素敵に出来上がっていましたし、馬場さんも役場を退職してワイナリーの施設長になっていました。久しぶりの出会いはとても嬉しく思いましたが、あの当時あった赤松などの自生樹は既になく、ブルで押されて一面が平面化されていました。木陰がない公園はシーズンにやって来た人にとって安らげないのが少し残念でした。人間はどうしてこうも無駄なことをするのでしょう。折角生えていた木々を切ってしまって、また木を植えるために相当なお金をつぎ込みのですから・・・。「ふるさとのこの松切るな竹切るな」は正岡子規の句です。

それでもワインも美味しく出来ていたし、将来が楽しみです。

⑨残念ながらシーズンオフだったため、自慢の花は見ることが出来ませんでしたが、町内の農園ではチューリップやユリなど様々な花を咲かせて観光客を呼び込んでいる姿が町のパンフレットから読み取れました。この町の人たちは梨やブドウなどや花で金儲けは実に上手くやって経済効果を上げています。それは素晴らしいことですが、まちづくりの視点からいうと、自分を囲い込み過ぎてそれぞれが点でしかないのです。点を線で結び面にしていかなければ大きな成果は望めません、点の線化、面化が実はまちづくりなのです。そのことをしっかり考えないと行政や住民の力が得られないことも忘れてはなりません。

⑩最後に日本一の夢吊橋へ行きました。宮崎県綾町のつり橋や徳島県祖谷の吊橋など、今までにも全国いたるところで吊橋を見てきましたが、この橋はどこにもないような吊りロープのない吊り橋でした。珍しい工法でしょが、揺れない橋だけに恐怖感も感じない橋でした。出来たときは話題になったそうですが今は訪れる人もまばらで、山間にひっそりという感じでした。若者向きの物語を作って利用の仕方を考えれば面白い素材です。一休さんのとんちが必要なのかも知れません。

 自治振興協議会の皆さんは中々熱心で、平日にもかかわらず殆どの人が地区めぐりに参加し、ホテルで開いた夜の交流会も多いに盛り上がりました。やはり山間地の人は飲みニュケーションが必要なようです。交流会ですっかり打ち解けて、海に憧れる人だけに私の町とも交流が始まりそうな予感がしました。


 明くる日の講演会はほぼ満員で、甲山の田坂さんもわざわざ手土産を持って駆けつけてくれました。そういえば旧友田中一裕さんも世羅だったと、帰ってから思い出しました。失礼しました。

 それにしても世羅町はいい町です。いい素材があり過ぎて困るほどでした。

  「この町を あなただったら どうすると 言えといわれて 言いたい放題」

  「ワーストと 言われて悲し 芦田川 桜咲いても 川面さびしや」

  「ほたる飛ぶ 夕霧橋の たもとにて 愛をささやく そんなドラマが」

  「こんなにも 集まる講演 嬉しいね ふるさと思う 人の力だ」

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