shin-1さんの日記

○本を読む暇がない

 最近忙しくて本を読む暇がなくて困っています。本なんて暇がなくても心がけ次第で読めるものと豪語していたのに、このところの忙しさは尋常ではなく、読書さえもままなりません。今朝も早立ちで大洲青少年交流の家へ行ったため、新聞もろくに読まずに出かけてしまいました。仕方がないので休憩時間を利用して交流の家の事務所の新聞を借りて所長室に座り読ませてもらいました。また交流の家にはあちらこちらに読書用の本が置いてあるのも有難く、時々利用させてもらっています。

 先日東京の本屋で「国家の品格」という藤原正彦の本を立ち読みしました。最近起こっているいじめや自殺について彼はこんなことを書いていました。「いじめをなくしたければ卑怯を教えよ」という見出しだったと記憶しています。「いじめを本当に減らしたいのなら、大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯であるということを叩き込まないといけない。いじめるような卑怯者は生きる価値すらない。公平に戦うかぎり強いものが弱いものをやっつけてもよいという市場原理主義の考え方がいじめを誘発している。これを正すには武士道精神の中にある弱者への思いやり、すなわち惻隠の情を取り戻すことである。『命の大切さ』などというのはマスコミが垂れ流す偽善に過ぎない。本当は人の命など吹けば飛ぶような軽いものである。かくも軽く儚いものだからこそ、命は大事にしなけれいけない。たかがいじめで自殺するなどということは絶対に許されない」というのです。

 私はこの文章を読んだとき身震いするほどの感動を覚えたのです。カバンをホテルに置いてぶらっと外に出て、ぶらっと立ち寄った本屋での出来事だったので、財布も持たなかったため本を買う金もなく、店主の目を盗んで思わず背広の内ポケットの名刺入れから名詞を取り出し、名刺の裏に読んだ本の上に書いた言葉をメモをしてしまったのです。どこの街の何処の本屋さんだったかは忘れましたが、してはいけないことをしてしまいました。本当にごめんなさい。(今度東京へ行ったら探してお詫びのつもりで本を買うつもりです)

 本は時として私に大切なことを伝えてくれます。私のような学歴もなく生まれながらの凡人は、学習歴しかないと思い、人緒の話を聞いては学び、雑誌や本を読んでは学び、見ては学びと知識の習得に余念がないのですが、折角習得したこれらに知的能力も、忘れるというこれまた凡人たる私の不徳のために身につかないのです。でもこうしてメモにして書き溜めたことをブログに書き写して確認をすれば、少しは身につくようです。

 さて先程の赤字の文章の「惻隠の情」とは「いたわしく思うこと」「あわれみ」と教わりましたが、持つものが持たない人へ温情を持つようなイメージにとらえられがちな「あわれみ」ではなく、藤原正彦がいっている武士道精神にある「いたわしく思うことの方が相応しいのかもしれません。

 教育基本法の審議過程でまるで流行り病のように噴出したいじめや自殺の問題は、もう随分昔私が教育委員会にいた時代からあったことだし、今になって何でこうまで深刻な問題になったのか理解に苦しむのです。学校も家庭も社会もいじめに負けない、いじめを許さない、いじめをしないような健全な子どもを育成していればこんなことにはならなかったのです。

 私たちが結成した民間ボランティアグループである、21世紀えひめニューフロンティアグループが無人島に子どもを連れて行った二十年の軌跡はまさにそのための社会への警鐘でした。当時は物好きだとかボランティアなんてと揶揄されたものでした。成績万能、塾最高なんて親の考えや、万台が起こる度に責任逃れする社会では子どもたちの命は救えないのです。

  「本屋にて 名刺の裏に 読んだ本 名文写し 何食わぬ顔」

  「惻隠の 情は日本の 美徳にて 人をいたわり 人に優しく」

  「考えは 百人百様 様々だ 俺の考え 同じ人いる」

  「ホテル出る 財布忘れて 街歩き その日に限って 買いたいものあり」

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○後退気味の父

 大正7年9月1日に生まれた父は今年89歳になりました。40歳代でガンを発病し生死の世界をさまよった経歴を持つ父にとってはその後の再発もなくここまで寿命を保っているのですから、わが家にとっては奇跡としかいいようのない出来事なのです。一年中の殆どを遠出することもなくわが家で暮し、わが家の掃除機とでも代名詞を付けたくなるような縁の下の力持ち存在には、家族誰もが感謝しています。そして先に逝った祖母や母の分まで少しでも長生きしてもらおうと、私たち夫婦が中心になって様々な気配りをしているのですが、人間は先祖がえりとでもいうべきなのか、最近とみに何かにつけて子どものような言動が目立つようになりました。まあそれも予期した老年期の症状ですからボケたり深夜徘徊しないだけでもまだましと見てみぬふりをしながら、日々の暮しを組み立てています。

 私は朝起きると、父の起床時間午前6時を見計らって隠居へ行き、その日の元気を見るのです。耳が少し遠くなったのでまるでオームのように2度声を掛けます。「おはよう」と声を掛けると振り返って「何?」と問い返してきます。私が「おはよう」と同じ言葉を繰り返すと「おはよう」と同じ言葉が返ってくるのです。そして「今日は言い日和のようだ」とか、「体の具合は」とか雑談をしながら恒例の湿布薬を肩と腰に張ってやるのです。めったに家にいない私としてはこれで父とのコミュニケーションは終りなのですが、それから父の一日が始まるようです。着替えて散歩に出かけ、帰るとパンと牛乳で軽い朝食を取り野良仕事や家の周りの清掃、庭木の剪定、飼っている鯉の餌やりなどとに角よく動くのです。昼食を済ませると軽い午睡をして水戸黄門など時代劇をテレビ鑑賞して夕方まで働きますが、夕方仕事から返った妻が夕食の準備をして隠居に運び、6時から8勺くらいお酒を飲みながら夕食です。午後7時から風呂に入って8時までに床へつくというまあ規則正しい生活です。

 最近はよく夢を見るのだといいます。長年連れ添った母の夢を見るのは、「もうそろそろ迎えに来たのかも知れない」と、少々弱気なことも口にするようになったし、「来年の正月は越せない」とか、「来年は庭木の剪定や愛蔵刀の手入れもお前がやれ」とか、「飼っている鯉も俺が死んだらどうなるか」などなど、繭を細めたくなるような言葉をまるで独り言のように私に投げかけてきます。多分私にしか話せない寂しさなのでしょうが、その度に「そんなことはない」と打ち消して勇気の出るような言葉を交わすのです。一昨日から気分が悪いと不調を訴え、仕事に出かけていて妻も私も留守だったので近所に住む姉に電話をしたようでした。早速姉の配慮で近くのかかりつけのお医者さんが往診にきてくれてどうにか落ち着いたようです。昨日も出張先の青少年の家まで妻から電話がかかり、泊まる予定を変更して帰って来ました。それでも大事に至らず昨晩帰宅後と深夜、そして今朝も様子を見に隠居へ行きましたが、ま大事に至らずほっとしています。

 人間は歳をとると気力も体力も次第に減退してゆきます。それは仕方のない出来事ですし誰もが経験することなのですが、いざ自分の親がそうなると意外と分っているようでもついつい粗雑な物言いをして、父親の機嫌を損ねてしまうことがよくあります。先日も何かの拍子で父親と私が口げんかをしました。今考えれば他愛のないことなのですが、少しムキになって口論しました。見ていた妻は「まだ県下が出来るくらいだからおじいちゃんもまだ大丈夫」と冷ややかでした。

 いずれ私も歳をとりますが、「62歳になっても常に父という存在がいることだけでも感謝しろ」と、早くに父をなくした従兄弟は私に言います。私も反論して「62歳になってもまだわが家ではトップになれない」と笑い話をするのですが、人の運命はまあ不思議なもので、自分ひとりでは決して生きてゆけないのです。

 父の目下の楽しみは正月に還暦同級会出席のために帰省する弟夫婦を一日千秋の思いで待つことです。折にふれ高校を卒業すると直ぐに大阪へ就職した弟のことを話しています。一緒にいる長男の私などどうでもいいような雰囲気です。まあこれも先祖返りのひとつでしょうか。

  「ことの他 今年の正月 待ち遠し 父は指折り 数えつ日々を」

  「口げんか しつつ仲良く 日々暮らす 親父と俺の 二人三脚」

  「二十年 すれば私も あのように 息子と喧嘩 できるだろうか」

  「背も少し 低くなったと 気付く朝 父の背中に 湿布張りつつ」

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shin-1さんの日記

○ノロウイルスならぬ喉ウイルスにやられました

 一週間前から私の体に異変が起きました。岩手県でお土産にいただいた風邪がこじれたのか、体はすこぶる元気で咳と鼻水も収まり熱など出なかったのに何故か喉の調子が悪く、二日前の広島県熊野町が終わってから声がかすれ始めました。私から喋ることを取ったら何も残らないほど厄介だと内心心配しています。まるで歌い手さんが声が出ずうたえないのと同じような心境なのです。昨晩の高知県馬路村の皆さんとの交流会も喋るのがかなりきつく、今朝は最悪な状態で松前町ギノー味噌株式会社の早朝研修会に招かれているものの、声が出ないのではと心配しましたが、約90分の講演は何とかこなし、続いて大洲青少年交流の家で開かれた「大人を考えるシンポジウム」も、午後2時半から午後5時までのコーディネーター役だけはハスキーな声で役目を終えました。交流の家に泊まるつもりでしたが、昨日から親父の体調が優れず妻からの不安な電話で夜の部の途中から失礼して我家へ帰ってきました。幸い親父の体調は大事には至らず医者の往診で妻が対応してくれたようです。

 肝心の私の喉はどうしたものか今日一日交流の家の職員さんが心配してくれた喉飴をなめながら午後のひと時を過ごしました。日ごろ健康な私だけに体調が崩れるのはこのところのハードスケジュールがたたったのかと少し反省しながら、この文章を書いています。ふと部屋のストーブが目に入りました。僅か3畳の部屋にストーブを置いているのですが、どうもこのストーブが喉の痛みに因果関係があるのではないかと思い始めました。

 今日拘留の家の所長さんと話していたら、所長さんは以前鳥取県にいたことがあるそうですが、鳥取県の人が東京へ行く度に風邪をひいて帰って来るという話を聞きました。鳥取県はご承知の通り「弁当を忘れても傘を忘れるな」といわれるほど湿気の多い地方です。特に冬になると鉛色の雲に覆われる日が多いそうで「山陰」という知名そのものなのです。ところが冬の東京は関東の冬晴れといわれるように乾燥した風が吹くのです。そのため慣れていない山陰地方の人は喉を痛めるのだそうです。

 今晩家に帰って妻に話すと思い当たる節があるのか、同感の答えが返ってきました。わが家の今には同じように石油ストーブがありますが孫や娘が来るために除湿機を入れて適当な湿気を保っているのです。

 私たち、いや私は普通常識で考えれば乾燥した方が風邪のような細菌は繁殖せずむしろ湿気でじめじめする所には細菌類が繁殖すると思いがちです。同じようなことに活性酸素という言葉があります。酸素が活性化するのですからこれ程体にいいことはないだろうと思いきや、まったく逆の減少なのですから、最初に名前を付けた人の頭はどうなっているのだろうと疑ったりするのです。

 このまま喉が潰れて喋れないということはまずないと思っていますが、それでも喉の異変はとに角心配でなりません。明日は交流の家に戻って最後の詰をしなければなりませんし、明後日は自治会長として大切な集会も控えています。でもどうにかお喋りの仕事もこれにて一件落着ですので、年末年始はしっかりと休養を取って元気を回復したいものだと思っています。

 突如として起こった喉の異変は黄色の信号かもしれません。赤信号に変わらないようにしたいものです。

  「喉飴を なめなめ喋る 講演会 まるで進一 違う進一」

  「喋れない 俺の最も お得意を 神様どうか 元に戻して」

  「乾燥の わが部屋だから 喉痛い 明日からストーブ 止めてみようか」

  「痛くても 声を張り上げ 話する かえって悲壮 相手感動?」

 

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shin-1さんの日記

○海を渡っても日帰り

 私たち四国に住む人間は本州に行く場合、必ず乗り物に乗って瀬戸内海という海を渡らなければなりません。橋もかからず飛行機にもそんなに乗らなかった時代は船でのんびりと渡ったものです。山口、広島、岡山、淡路など幾つものルートがあって、目的地や仕事の内容によってそのルートを決めたものです。印象深いのは高松~宇野航路で、修学旅行や遠洋航海に出かける時、宇高連絡線に乗るため高松駅から船までわれ先に走ったことを思い出します。しかしそんな古きよき時代はすっかり過去の夢物語となって、夢の架け橋三橋時代となって、本州日帰りなんて便利な社会となったのです。

 昨日は広島県熊野町の観光ボランティア養成講座に招かれて松山堀江~呉阿賀を結ぶルートを選んで3時の船に乗りました。

私の古い時刻表だと3時半の出講予定だったのですが、少し早めに桟橋に着くと既に船は入港しようとしていました。急いで身支度を整えて船に乗りましたが、もし時間に遅れていたら間に合わなかったのではないかと、早めの出発を喜びました。港には戦中から携帯で電話連絡していたので、日の丸タクシーなんて威勢のいい名前の小型車が迎えに来ており、阿賀港から山越えで熊野町まで夕暮れの雨降る中を走りました。曲がりくねった山道の途中では見返り坂と名前をつけたくなるような呉市街の夜景がとても美しく見え隠れして、なんだか得をしたような気持ちになりました。

 港から熊野までは僅か30分足らずで到着し、文化センターロビーの筆の展示を見たりしばし談笑して時を過ごしました。今回の研修会は急に決まったことなのですが、不思議なことに担当者からは何度もメールが届き万全の打ち合わせをしたのですが、私が留守がちだったため担当者の声すら聞かずに研修会のお手伝いが成立したのです。インターネット時代の凄さをしみじみと味わいました。


 熊野町は全国の筆生産の80パーセントのシェアーを持つ有数の産地です。何年か前商工会の方々が中心なって私の町へ視察に来られたことがあったので、その存在をよく知っていたし、熊野町にもそのことを覚えている人が何人かいて、出席をされていました。最近は安い中国産の筆に押されて筆の世界も不況とか、それでも筆を作る技術を化粧のための刷毛に応用し、活路を開いている話を聞いて、いい話だと思いました。熊野町は広島市に隣接している町なので高度成長時代以降流入人口が増え今は3万人で、平成の大合併もせずに単独で生き残っていますが、団塊の世代など少しずつ町民の暮しにも高齢化やふるさと意識などに対する変化が現れ始めているようです。伝統工芸士が中心になって若い後継者の育成に乗り出したり、今回の観光ボランティアの育成講座を開いたり、様々な新しい取り組みが始まってるようですが、結構なことだと感心しました。

 熊野に新天地を求めてやって来た人にとって、熊野は行きずりの地だったかも知れませんが、その子どもたちに熊野町を「ここが君のふるさとだ」と胸を張って伝えるふるさと教育は学校教育や社会教育を問わず大きなテーマではないかと思われました。自分の町を語る物語と語り部育てがこれから益々重要になってくることでしょう。

 「若松さんあなただったらどんなまちづくりをしますか」と唐突に尋ねられました。折りしも清水寺で二日前、今年の漢字が「命」と揮毫されました。あの筆を熊野産の筆にして奉納し全国に紹介してもらおうか。清水寺の向こうを張って今年の漢字を熊野でも全国公募して有名人に書かせたら面白い文化財も残るかも。なんて楽しいアイディアを考えたりしました。

 午後7時から始まった講座は盛会のうちに午後9時終了、再びタクシーで阿賀港まで送ってもらい午後10時発のフェリーで松山を目指しましたが、片道1時間50分の最短コース船の旅といいながら、我家に着いたのは午前一時近くになっていました。近いようで遠い土地、遠いようで近い土地熊野まで、日帰りの旅となりました。お土産にもらった化粧用美顔筆で妻はどんな美人に返信するのでしょうか。眠気眼で起きて待っていてくれた妻は嬉しそうに受け取り、まるで少女のように枕元に置いて夢の世界へと旅立ちました。

  「遠くても 近いと思う 日帰りに 少々お疲れ 充実しきって」

  「喉が変 喋り過ぎたか 風邪なのか 朝起き気付き ウガイすれども」

  「面白い 途中参加の 議員さん そんな声かけ メールも届く」

  「美顔筆 寝床に並べ 夢心地 妻の寝姿 何とも少女」

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shin-1さんの日記

○今年最後の山陰への旅

 9月19日の伯耆町への旅を皮切りに島根県西ノ島、北栄町、江府町、米子市と続き、今回の日野町への旅で年内の山陰巡りは一応の終息です。中四国と一くくりでいわれながらこのエリアは高速道路を使っても高速道路の向こうが更に遠く、公共交通機関を使えばなお更、近くて遠い場所なのです。今回は旅のアクセントとして往復まったく別の道を通りたいなんて私の身勝手も、東京行きの立て込んだ仕事の関係で松山道・高松道・米子道を一直線に結んで突っ走るハイスピードな旅になりました。

 山陰への道すがら何気なく通る日野町の光景も、根雨という宿場町の地名も見慣れた光景なのですが、いざその町に踏み込んでみると、隣町江府町と同じように素敵なところとそれなりの悩みが見え隠れして、今回もいい勉強をさせてもらいました。伯耆町、江府町とまるで追っかけのように必ず顔を出してくれる町会議員の田中幹啓さんから、事前にその町の鳥取県における位置や文化度などの情報が寄せられるものですから、今回は「生涯学習とまちづくり」というテーマでもあったので少し内容を変えた話にしました。夕日によるまちづくりという話への期待感もあったのでしょうが、多分評価は分かれるところだと承知のうえで生涯学習に重きを置いて話したつもりです。明くる日早朝、出張先の東京新宿駅に田中議員さんから反響についての一報が入り、少し安堵の胸を撫で下ろしました。

 伯備線特急やぐもに乗って通り過ぎる根雨の駅前に役場と文化センターは並んで建っています。文化センターの下は図書館になっていて田舎町ながら施設の充実度や人々の暮しが文化的でかなり質が高い町民性を有しているとお見受けしました。それは人の集まりと話への感度からも十分読み取ることが出来たし、何よりも発表と講演のつなぎアトラクションに参加した子どもたちの真摯な姿が感動ものでした。私に対応していただいた教育長さんと女性課長さんと3人で文化センター出演者控え室のモニターテレビで説明を聞きながら見せてもらいましたが、いい子どもたちがいい教育環境の中で育っていると思いました。特に最後に登場した町民ミュージカルは、間近に迫った公演のPRも兼ねていたようですが、実に活き活きと輝いて見えました。近くだったら見に来るのにと思ったほどでした。最近はどこの街でもこうした市民ミュージカルが活発で、田舎はややもすると古い文化の伝承活動を重んじる余りに創作文化を忘れているきらいがありますが、4回も続いている市民ミュージカルに大きな拍手を送りたいと思います。多分町民は私たちの町と同じように演歌カラオケ大会の方に興味を示すでしょうが、新しい文化とは白いご飯に石ころが入っているようなもので最初は受け入れ難いものです。安心と安全にあぐらをかく人たちでも、何回かミュージカルを見ているとミュージカルが分るようになるのです。私の町だって夕焼けコンサートが受け入れられるのに21年も経っているのです。

 日野町はおしどりの里としても有名だそうです。おしどりはその羽色の美しさから色々と紹介されているし、おしどり夫婦なんて言葉も仲のよい夫婦の代名詞に使われているようです。鶴が一生相手を変えないのに比べ、おしどりはあくる年別の鳥に求愛することを揶揄する話も聞きますが、まあ賢明な人間ですら不倫をする時代ですから余りそのことを詮索しない方がいいのかも知れません。

 おしどり観察小屋の見える料理屋3階の部屋で短い時間ながらお歴々とともに昼食をいただきました。鴨肉を陶板で焼いて食べる定食は中々の味で、下を流れる川や根雨橋を遠望しながらひと時の懇談をし、小雨そぼ降る中をインターに向けて走りました。

 帰り道金持神社の看板や金道下・金道上なんて地名も珍しく眼に入りました。何でもこの地名や神社の名前が最近有名になって、山陰の旅ツアーにも組まれているそうです。まちづくりアイディアマンの私としては是非この地名を使ったまちづくりを提案したいものです。差し当たり金持神社の横に宝くじ売り場を設置したいと思います。そうすればどんどん人がやって来て、噂が噂を呼んでくるに違いありません。人間はお金持になりたい、幸せになりたい、長生きがしたい、成功したいという4つの願望は殆どの人が持っているのですから、成功間違いなしだし、経済的効果も期待できるでしょう。

  「目に付いた 金持神社の 看板に アイデア色々 必ず儲かる」

  「おしどりは 不倫の鳥と 揶揄するが そんな人ほど 不倫に期待」

  「ミュージカル それより演歌 言う人が 多い田舎は これからつまらん」

  「根雪より 根雨の響き 雨情詩が 似合う宿場に 小糠雨降る」 

  


















 

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shin-1さんの日記

○田舎と都会

 田舎の反対は都会でしょうか。定年でサラリーマン生活をリタイアした私には出張など縁遠いものと思い、都会への旅はもう旅行にでも行かなければ高嶺の花だと諦めていましたが、私のリタイアを知った多くの方々から講演のお声がかかるようになって、再び田舎と都会の往復が出来るようになりました。つまり私は当てはないけれど不定期的な田舎と都会のパスポートや情報回路を手に入れたのです。これは私の人生にとって極めて大事な出来事で、今やそのことが日々の暮しにメリハリをつけてすこぶる充実した日々を送っているのです。

 一昨日まで東京で2日間過ごしました。このところ頻繁に行く東京ですが、さすが東京は世界に誇る街だけあって行く度に様々な新しい発見があって、何か分らない新しい風を感じるのです。多分私が普通は田舎に住んでいるからその異文化ギャップの大きさを感じるのかも知れません。だとしたら田舎に住むことは都会を感じる一手段だと思えば、うかうかと田舎に住むのではなく、都会から帰って感じる田舎の良さも悪さも含めて少し勉強しなければならないのです。

 私の町に住む人たちの殆どは田舎暮らしに満足したり不満を言ったりしながら日々の暮しに明け暮れていますが、都会という対立軸にある社会をさも知ったかぶりで一方的にののしったり、田舎の良さを誇張しているのです。「都会は人間が信用できなくて治安が悪い」「都会は騒音がひどく大気が汚い」「都会の水は臭くて飲めない」「都会は人が沢山いてごみごみしている」などなど、都会の悪い面が強調され、結果的に「都会は悪い」というレッテルを張るのです。

 じゃあ反対に都会から見た田舎はどうでしょうか。確かに田舎が主張する都会の悪さはある面であるにしろ、田舎だって五十歩百歩だと思うのです。「田舎はのんびりしているというがハエが止まっても分らないような田舎ののんびりは如何なものでしょうか」「2時間に一本しか来ないような列車を待たなければならない不便さは如何なものでしょう」「雨が降れば濁る水は果たして衛生的で美味い水といえるでしょうか」「人の噂を噂話としてあることないこと話して喜ぶ社会は正常でしょうか」。なんて考えると田舎の住みにくさも随分考えさせられる部分があるようです。

 水は必ず高い所から低い所へ流れます。人間は文化の低い所から高い所を目指すのです。じゃあ文化が田舎にないかとお叱りを受けそうですが、決してそうではありません。むしり田舎には都会にない誇るべき文化が一杯あるのです。でも田舎はその持てる文化に気付かず、時代の流れと片付けてどんどん失っているのです。このような田舎では過疎になって住む人がいなくなるのは当然のことかも知れません。水が美味い、空気が美味しい、人がいいだけで人は住めないのです。事実私の町でも水が美味しいのに、空気が美味しいのに、人がいいのにこの50年間で人の数は1万人から5千人に半減しているのです。つまり田舎は田舎らしく生きる知恵をこの50年間持たなかったのです。空気が美味く水が美味しく人情が豊なのに自分の子どもには「こんな田舎に住んでいたら父ちゃんみたいに田舎にくすぶって生きなければならない」と「向都離村」の教育をさせ、優秀な子どもに育てて都会へと送り届けてきました。田舎は都会人になるための「都会人養殖場」だったのです。結果的には長男がいやいや残る社会となりました。役場も過疎地脱却と称してそれを後押しし、都会の真似をすることがさも過疎対策だと言わんばかりに横並び幕の内弁当のような文化会館を無造作に建てたりしてきました。嘆かわしいのはこれほど時代が田舎のスローな暮しを欲しているのにそのことに気付かず、いや気付こうともせず相変わらず田舎の何であるか分らぬままに一方では田舎の良さを過信し都会の悪口を言いながら何もせず暮らしているのです。

 昨晩愛媛大学で藤目先生に出会いました。立ち話もなんだからと先生の研究室で話しました。前回会った時はグリーンツーリズムをお互い進めようと張り切っていた先生が、少し落胆するような話をするのです。愛媛の、特に南予を活性化しようと愛媛県庁がやっきになっているようです。多分来年早々行われる県知事選挙の対策と思われますが、それでも遅れている第一次産業を活性化しようとする方針には大賛成です。でもかつて南予レクリェーション都市構想をうたい、莫大な資金を投入した惨めな結果は誰も責任も取らず説明責任を果たさぬまま風化している現実を思うと、手放しで喜ぶ分けにはいかないのです。自分たちの地域を自分たちの手で起さねば幾ら補助金を投入してもいいまちは出来ません。グリーンツーリズムはその意味で南予活性化の大きな知恵ですから、藤目先生の意見には大賛成なのです。あれ程地域を二分する激しい議論を経て合併した市町村も、過ぎてしまえば新しいまちづくりの胎動どころかくだりのエスカレーターのような有様です。広島に次いで合併先進県と胸を張るだけで地域づくりはできません。

 田舎と都市という対立軸を往復しながら、そのギャップを肌で感じ、是々非々を伝え行動をすることが私の使命かも知れません。

  「田舎いい 何処がいいのと 尋ねたら ただ何となく それでもいいか」

  「都会など 住むとこじゃない 言うけれど 住んだことなく 高言吐くな」

  「ノロノロと まるで亀さん みたいだね 田舎に帰って いつも感じる」

  「東京が 俺の頭を 刺激する 今度も少し 風に当たって」 

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shin-1さんの日記

○ファーストフードの店

 どこの旅先でも私一人であれば殆ど日本食の店に立ち寄ります。特に朝食などはあったかいご飯に味噌汁と焼き魚なんてメニューが自分の食生活に合っているのです。ですから駅前にあるファーストフードのマクドナルドやロッテリアなどにはこの2~3年入ったことがないのです。この3日間東京での仕事があったので、思い切って新宿西口駅構内のロッテリアのお店に入りました。注文の仕方もたどたどしくモゾモゾしていると、店員さんのマニュアル通りの気持ちのいい対応にすっかりその気になってサラダバーガーとオレンジジュースを注文してしまいました。これにフライドポテトがついて450円です。店の中には若い人が多く止まり木のような椅子に座って携帯メールに熱中する人、新聞を読む人、雑談にふける人など様々でそれぞれの自由を楽しんでいました。私もお盆に注文の品々を乗せて椅子を確保しましたが、ラテン系のBGMが何か都会的な雰囲気を醸していました。

 お盆の上には店のこだわりの言葉が随所に赤い文字で書かれていました。例えばフライドポテトのジャガイモはロッキー山脈の雪解け水で育ったとか、揚げる油はベジタリアンだとか、さも健康に配慮しているようなお店の主張です。紙のコップにも物語が書かれていて、こんなお店に慣れていない人でしょうか、私ぐらいの年配の人が、コップをぐるぐる回しながら私と同じように熱心に読んでいました。ハンバーガーのパンはまるで餅のようにモチモチした食感でレタスとハムがバランスよく美味しい味でした。

少し若者になったような気分で今日の会議の資料に目を通し、コーヒーの飲めない私はオレンジジュースを赤いストローでゆっくりと飲み干しました。外の通りはひっきりなしに通行人がコートの襟を立てて無造作に行き交い、師走の慌しさを醸していました。

 街はどこもクリスマスの飾り付け一色で、地下街は昼間だというのにイルミネーションの電球が華やかに飾られ、モミの木の下には赤い葉っぱのポインセチアが沢山置かれていました。

 ファーストフードの店は、私たちの年代には縁遠い店ですし、ファーストフードは何か体に悪いなんて思い込みをしている人も多いのではないかと思われます。確かにファーストフードは若者向きだし体によくないものもあります。でも全てが当てはまるとは限らないのです。便利さや安さだけでなく健康にだって気をつけているお店もあるのです。そして何よりもいいのはそこで若者文化が感じられるのです。時代感覚のズレは相手の立場に立たなければ分らないものがいっぱいあります。音楽もファッションも、日々の過ごし方も雑踏の中にこそ見つけられるのです。味噌汁とご飯と焼き魚も結構ですが、たまにはマクドナルドのお店に入って若者の食べている、飲んでいる、聞いている、そんな風を感じたいと、決して「都会かぶれ」でない都会の風を感じて帰りました。

 私たちの日々の暮しを見てみると随分古い暮らし方をしていることに気付きます。古さは決して悪いことではなくむしろ消されつつある古さの中にいいものも沢山あります。でも変化の少ない田舎暮らしや変化を望まない年代ゆえに、少し視点を変えた新しい暮らし方をして見たくなりました。都会で感じた異文化ギャップを少しだけ取り入れて見ましょうか。面白いかもしれませんね。

  「二年間 一度も行かぬ 店に行く 若者どんな 生き方してるか」

  「楽しいじゃん だってさー俺 チョー美味い バーガー食ったもん」

  「雑踏に 体ゆだねて 東京の ヒルズを歩く 夜の街中」  

  「新宿の ビルが頭に落ちてくる そんな錯覚 大口開けて」


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shin-1さんの日記

○友人の提案

 私の友人には私に負けず劣らず様々な提案を私に提供してくれる人がいます。「若松さん定年退職したのなら会社を作って一儲けしないか」とか「もうそろそろ次の本を出版したらどうか」など様々です。私は今のままで十分満足しているし、やりかけた人間牧場もこのところの急がしさで手が回らないのですから、これ以上の仕事は持ち込まないようにして欲しいと思うのですが、相変わらず私の行動力に大きな期待を寄せているようです。「そんなアイディアがあるのだったら自分でやったら」といいたいのですが、その人たちは自分で行動を起そうとはしないのです。

 私が仮に会社を作ったらどんな会社だろうかと空想してみました。多分仕入れて物を売るような商売は私には出来ないと思います。妹が立ち上げた海産物のお店も傍から見ると大変なようだしと思いつつ、結局は私が長年培ったノウハウを利用したコンサルのような仕事なのかと思ったりしました。しかしコンサルは人が来んし人が去るなんて散々悪口をいってる私ですからそんな会社は出来ないような気がします。本を出版するくらいなことだったら出来るかもしれませんが、あいにく人間牧場に虎の子の全資産をつぎ込んだため、大蔵大臣の協力なしでは出来ません。退職してこの一年余り、ブログを中心にして書いて書いて書きまくった原稿も沢山あります。その原稿を使えばいとも簡単に本など沢山できるのです。でも今のところそんな暇がないのが実情です。

 会社を作る話は前々からありました。そんな気がない訳でもなかったので有限会社や株式会社の作り方や運営の仕方についても本を読んだりして随分勉強をしました。その結果でしょうか、仕事柄ふたみシーサイド公園の運営に携わる第三セクターを出資金2千万円で立ち上げました。「有限会社シーサイドふたみ」という会社です。産業団体にお願いし出資金も難産の末集まりましたし、その会社は第三セクターでありながら何とこの12年間一回も赤字になることもなく、黒字経営を続けているのです。しかも出資者に5パーセントの配当をしているのですから凄い業績です。「赤字になったらどうするのか」「赤字の責任は誰が取るのか」とあれほど出資を渋った団体のお偉方は、何の疑いもなく何も言わずに配当をこの12年間受け取っているのです。計算すると100万円の出資者はこの12年間で60万円もの配当を受けているのです。血の滲むような努力と知恵を出した私には何の根ぐらいの言葉も褒美もないのですから不思議な話です。しかしその業績は毎日の売り上げが毎月、一年と積み重なった結果であり、数字で表す業績に一喜一憂する胃の痛くなるような日々は私にとって苦痛の連続でした。あんな思いだけはしたくないのです。

 私はこれまで5冊ほど本を出しています。私の本は何故か売れ行きがいいのです。特に「昇る夕日でまちづくり」という本は3千部自費出版しましたが、1年であっという間に売り切れ2版目を出したほどです。しかし思いついて3千部の本を出版しましたが、最初印刷会社からトラックに詰まれて我家へ全部の本が届いた時の驚きは尋常ではありませんでした。家中が本だらけになったのです。ましてや家の座が抜けるほどの重さですから、売れるという保証もない本をどう保管するか正直困りました。幸い私設公民館煙会所へ借り置きし、注文を捌いたものです。あの時の圧迫感は今も忘れられない思い出なので、今でも本を出すことを躊躇しているのです。

 昨日東京に出張したついでに大きな本屋さんに立ち寄りました。書棚に並んだ本を見て自分の本の存在のいかに小さいかを実感しました。日本国内ではこのように毎日毎日とどめもなく本が出版されているのです。

 でも会社も作りたいし本を出したい気持ちも半分半分、まあ熟慮を重ねましょうか。一儲けできるような上手い話はそんなにありません。

  「自由な身 ゆえに誰もが 俺の知恵 使って儲け 上手い話を」

  「言うのなら あなたがすれば いいのにと 思うけれども 人は人当て」

  「あの本を 出さなかったら 俺値打ち 上がっていない 一冊の本」

  「友人の 提案色々 ありまする 無茶は出来ぬぞ 俺の歳では」

 

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shin-1さんの日記

○このハマチハウマッチ

 今日外から帰ってみると玄関に見覚えのある発泡スチロールが置かれていました。直感したのは毎年この頃になると宇和島市嘉島の宮本正勝さんと千里さんご夫婦が手塩に掛けて育てた養殖ハマチを送ってくれるものですから、もしやの期待に胸を躍らせ送り状を見てみると案の定直感ズバリで当たったのです。早速密封のガムテープをはがすと中にはハマチどころか10キロにもと土管とするような大きな鰤が本も氷詰めにして入っているのです。一昔前は天然と比較して養殖ものは脂が乗り過ぎて敬遠されていましたが、今は養殖技術が進歩して天然にも負けない立派なブリとして市場の高い評価を受けているようです。特に鹿島のブリは外洋性の元気な海で育てるため市場や消費者の人気も高く、特に名古屋地方では大きな信頼を得ているとのことでした。送り主の宮本正勝さんは私と同年代で、養殖漁師でありながら短歌の本も出すなど文化人であり、奥さんの千里さんも宇和島市の漁協女性部の部長として活発な活動を展開しているおしどり夫婦なのです。離島青年協議会の活動で知り合った二人は子宝にも恵まれ島ゆえの厳しさと戦いながら活き活きと暮らしているのです。正月前には里帰りの最中に立ち寄り死んだ母とも交流していたので、まるで親戚のような感じのする方なのです。

 ハマチが届くと最近は私が包丁を使います。10キロにも近いブリは最早お魚ママさんの妻といえども出刃包丁はちょっと荷が重過ぎるようなので、余り包丁など持ったこともない私が粗方を捌き、小切りは妻が料理するという仲むつまじさです。

 専用のデカイ包丁を砥石で研ぎ、まず頭を落します。最近は血の出る部分や内臓部分がどういう位置にあるか分るようになって極力血の出ない調理を心がけているため、今日も僅か20分ほどで3枚に下し、後は妻が仕事から帰るのを待つばかりとなりました。私は胆嚢手術後殆ど肉を食べれなくなり魚党を貫いています。したがって頭やあらや腹身といった付属品が好きで、はまちのカマなどは塩焼きにすると絶品だし、あらもブリ大根にすれば極上の料理に変身します。最近は刺身をまな板の上で味噌と混ぜ合わせながら叩いて大葉やもみ海苔と一緒に炊きだちのご飯の上に載せて食べると食欲が進むのです。

 最近料理番組が多く放送されていますが、特に料理の苦手な有名女性タレントなどが各地を訪ねてその土地の食べ物をさも美味しそうに食べる姿を見るにつけ、「俺の家なんか妻が毎日そんなご馳走を作って食べてるよー」と言ってやりたいような心境なのです。料理の上手な奥さんをもらうとその男性は幸福だといわれますが、私のお妻はその点では三重丸なのです。

 明日早く起きて鳥取県日野町へ行き、帰るとその足で東京へテレビ会議に二日ほど行きます。帰ると広島県熊野町へ、更には馬路村の木下君が人間牧場へ、そして生協の理事会とまあ来週は一日も休まないはーどな日々が続きます。今晩の集会も少し早く切り上げないと明日の早立ちには間に合いません。

 せっかく宮本さんから送られて来たブリの料理をゆっくり味わう暇はないようですが、せめて今夜の集会に出かける前に美味しさを堪能しようとよだれをたらしています。冬の魚は何といってもやはりブリだねえ。

  「宅配で 生きてるような ブリ届く 早速包丁 俺の腕前」

  「ハウマッチ 単語覚えた 中学で ハマチ連想 だから忘れず」

  「今晩は ブリの料理の フルコース 楽しみたいのに 何故に会議が」

  「若夫婦 まな板包丁 ないと聞く 料理はもっぱら ハサミだそうだ」

  


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shin-1さんの日記

○忘年会

 昨晩請われるまま地元の忘年会に出席しました。そういえば酒を愛した現役頃の年末は毎晩忘年会があり、家へは寝に帰るだけのような日々が長く続いたものでした。酒の席は延々と続き一次会が二次会となり、時には三次会とはしご酒をしたものです。あの頃の体力と財力は一体何だったのだろうと懐かしく思うのです。そんな馬力も今では遠い彼方の思い出でしかないのはちょっぴり寂しい気もしますが、まあそれはそれとして今晩は楽しもうと近所の料理屋さんに歩いて出かけました。酒を飲まない私にとっては飲酒運転などするはずもないのですが、要らぬ詮索をされても困るので歩いて行きました。今晩の宴会は私を除いて10人中9人までが酒好きなのでウーロン茶一辺倒は私一人なのです。せめて今夜は色気を入れて楽しくやろうとコンパニオンという名の女性が3人松山からやって来ていました。料理は4千円だそうですが食べきれないくらいの日本料理が並んでいて、酒を飲まない私はもっぱら食べることに専念をしました。横の席を見るのですが酒飲みはそんな立派な料理には箸をつけるでもなく、飲むほどに酔うほどに声も高くなってボルテージは上がりっぱなしです。素面な私とのん兵衛な9人とでは到底議論もかみ合わず、「トイレに行く」といっては席を立ち、お店のカウンターに座ってテレビを見たり、まあ2時間の長く感じられることったらありゃあしません。やがてカラオケが登場し、思い思いの演歌を順番に歌い続けるのです。すっかり私の世界からカラオケが影を潜めていたので、懐かしく一通り聞かせてもらいました。酒の悪戯でしょうか、日ごろは無口でお硬いと思われた人が何と喋りながら踊り狂うのです。「ヘー」と意外な一面に驚きながら付き合っていましたが、もうもうと部屋の中に立ち込めるタバコの煙に根を上げついには退散となったのです。

 それにしても、これほど世の中の流れが禁煙に傾いているというのに、何故に酒を飲んだらタバコを飲むのでしょうか。愛煙家の彼らに言わせると、「タバコは百害あって一利なし」は百も承知のようでした。付け加える言葉は愛煙家たる自らへの援護のようにも聞こえました。「俺はタバコは吸いたくないけど財政的に豊でない町に税金を払うためにタバコを吸っている」「タバコを吸わないとイライラして病気になるので精神安定剤のつもりで吸っている」「タバコを止めると、ニコチンがアルコールに溶けて体内に入るので酒を飲むときだけでも止めた方が健康にいいと力説しましたが、私の話などはタバコの煙と共に消えてゆきました。「酒とタバコどっちを止める」と質問したら「どっちも止めない」とあっさりです。挙句の果てに「タバコやお酒を飲めないのなら死んだ方がましだ」などと豪語するのです。健康な人の言い分でしょうが、そのうちえらいしっぺ返しを食らうことでしょう。

 忘年会の回数が減っても私は「忘年会」を「望年会」と位置づけ、今年あった様々な反省をするようにしています。このグループにとっても今年一年は様々な出来事がありました。思いどうりに出来ない事案で空中分解しそうになったこともありました。でもみんながそれぞれの立場をわきまえて苦労を重ねた結果、こうして美味しいお酒が飲めるのです。失敗や苦労の後の成果は美酒の味が格別でした。

 今朝ひょっこり昨晩忘年会に参加した人からお礼の電話が入りました。「お陰さまで楽しい一夜を過ごしました」「昨晩はウーロン茶でのお付き合いありがとうございました」「私は酒の席で余計なことを言いましたか?」など、酒の力ですっかり記憶の失せた記憶を引き戻しながら反しているような感じでした。「会費の元がとれなくて御免」と電話を切りましたが、ひょっとしたら酒を飲まない私が一番料理を味わったのですから、元を取ったのは私だけだったのかも知れませんね。

 年末までにあと2つ、忘年会と称する会合が予定されています。さあ体調を崩さない程度にウーロン茶を飲みながら美味しい料理に舌鼓を打ちましょう。

  「酒飲まず それでも俺は 元を取る 飲めないことも 楽しいものだ」

  「俺歳か コンパニオンの スカートも 胸の谷間も 興味示さず」

  「あの人が 何で豹変 酒のせい 歌に踊りに 凄くハッスル」

  「煙草飲み 勝手な言い分 言いながら さも俺偉い 言わんばかりに」

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