shin-1さんの日記

○木登り

 近頃は私たちが子どもの頃と違って、子どもの遊びが随分変わってきました。巣篭り傾向というように部屋の中で一人でテレビゲームやマンガに熱中することが多いようです。たまに友だちと遊んでも同年代だけで異年齢と遊ぶ機会はかなり少ないようです。これは何も今時の子どもが悪いのではなく、子どもを安全という篭の鳥にしてしまう親や社会が悪いと思うのです。確かに子どもは目の届く部屋野中で遊ばせると安全です。怪我もしないし悪い事だってしないのですが、肉体的にも体力的にも発達著しい子どもにとってそれは決して好ましいことではなく、むしろ発達を阻害したり不平や不満を体内に閉じ込めてしまうのです。子どもには発達段階に応じた育て方があり、こどもも幾つかの反抗期というハードルを越えながら成長して行くのです。その反抗期を経ずに成長すると、大きくなってむしろそのエネルギーを抑圧することが出来ず大きな爆発となってしまうのです。子どもの頃いい子だった子どもが青年になって親まで殺す最近の事件はこの典型といえるでしょう。

 わが家にも外孫ながら5歳の孫がいます。娘の子どもといいながら、娘夫婦の子育て信念があり、私の思い通りに育てることは出来ませんが、せめてわが家に来た時くらいは自然の中で育ててやりたいと、人間牧場に連れ出して様々な経験をさせています。その効果があって虫が大嫌いで悲鳴を上げていた幼児期が全く嘘のように、団子虫やセミ、カマキリ、カエルを追いかけ、まるでペットのように遊びの道具となりました。嬉しい変化に目を細めながら、昨日は小鳥のえさ場を作りバードウォッチングに挑戦中です。

 昨日は人間牧場に孫を連れて行き、木登りをしました。私たちが子どもの頃、木登りは遊びのひとつで器用な子どもはまるでとび職や動物の猿のように大きな木のてっ辺まで登り、枝から枝に渡ってヤマモモなどの木の実を取って遊んでいました。孫にとっては初めての経験なので最初は怖いからいやだと渋っていましたが、そのうち私が登って見せ、低い木から順番に馴れさせながらやっていくと、ついつい面白くなって何度も挑戦し始めました。人間牧場には木登りに格好の柿木や杉の木、大きいのはヤマモモの木が沢山あって、木登りの訓練には最適なのです。

 

 どうですか。あれ程嫌がっていた孫がこんなまるでジャングルジムのような木にも登れるようになって、木の上から写真を撮るようにせがむのです。孫にとっては嬉しい経験だったに違いありません。勿論木登りの途中で枯れ木が折れて低い地面に落ちて擦り傷をしてしまいましたが、これは遊びの勲章でしょう。落ちても自己責任と思ったのでしょうか、「ぼくは落ちても泣かなかった」と強情なところを見せました。帰る頃にはまた木登りがしたいと車の中で盛んに自慢話を話し、親に出会うと「ぶく木登りが出来るようになった」とか、「木から落ちても泣かなかった」とか、体験を話していました。

 これからも安全な冒険をさせてやりたいものです。

  「木登りが 出来たと孫は 大威張り 当たり前だが 当たり前すら」

  「すり傷は 子どもの勲章 なめとけと 俺は古いな 傷テープ貼る」

  「さて次は どんな遊びを 教えるか 孫と一緒に お爺ウキウキ」

  「じいちゃんは 遊びの天才 思ってる 木登り上に 向って拍手」


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shin-1さんの日記

○旧肱川町からのお客様

 「今日も寒いですねえ」と朝の挨拶はまず近頃の寒さについて言葉が飛び出します。そのくらい今年の冬は寒さが厳しく、毎日氷点下近くまで冷え込んで、歳を取った人間にこの寒さは骨身に染みるようです。

 今朝も放射冷却現象とかで冷え込み、鳥取ではかなりの積雪があったと報じていましたが、北東の風が強いものの天気は快晴でした。

(旧肱川町からやって来たお客様)

 今日は旧肱川町から公民館の役員さんが10人余り視察研修に来るというので、朝からバタバタしました。この寒さですから、ストーブを焚いて部屋を温めておこうと、8時30分に孫を連れて田舎のオープンカーで人間牧場へ出かけました。今日は視界も抜群で、日ごろ海を見ずに暮らしている人たちですから何はともあれホッとしました。冨永に連れられてやって来た人は総勢12名、几帳面な冨永さんらしく約束した10時きっかりに上の道から歩いて下りてこられました。いかにも穏やかな人徳が偲ばれるような方々ばかりを前に、小一時間お話をし、質疑を交わしました。この人たちは神楽の保存伝承にとり組んでいて、ひょっとしたら水平線の家のウッドデッキで上演したらさぞかし面白かろうにと持ちかけましたら、いい予感の返事が帰って来ました。できれば是非実現させたいものです。この人たちも少子高齢化・過疎化・産業不振の中で、一生懸命生きており、このような交流が地位きを開く原動力になると思いました。今後も交流したいものです。

今日は大変失礼ながら私は孫同伴の研修でした。というのも振り替え休日を利用して昨晩から孫が泊まりに来ているため、孫の世話をしなければならないのです。昨日は娘が友人の結婚式に出席するため一日中子守りで娘宅に出かけて留守をした明くる日なので、少々お疲れモードの妻は昨晩はさすがに疲れたのか、早めに床につきました。私も泊り込みで2日ほど家を開けていたため、残務整理があって何かと気ぜわしいのに、孫の相手は?と思いつつ、下がる目尻で昨晩と今日は孫の世話をする羽目となったのです。昨晩「男どうし」などと嬉しい事を言うものですから一緒の布団に潜り込んで眠るとき、鳥のお話をしてやりました。そして夜が明けると小鳥のために餌を作ってあげようという話になったのです。

 こんな話しをすると自然派の孫は目を輝かせて話しを聞き眠りの世界へ旅立ちました。今朝5時過ぎ、私は起床するためそっと布団を抜け出しました。すると孫はとっさに起きて、「おじいちゃん、小鳥はもう起きたかなあ」というのです。「まだ外が暗いから小鳥さんも寝ているので、朋樹君ももっと寝ない」といっても聞かず、結局は私と一緒に起きてしまいました。身支度を整えた後みかんを2個輪切りにして割り箸に突き刺し、小鳥の餌を作りました。そして孫と二人で書斎の前の掃き出し窓を開けて外に出て、みかんを石に突き刺しました。6時過ぎの外はまだ薄暗く、こんな時間に餌を用意しても来るものかと思いましたが。それでも孫は窓越しに目を凝らして小鳥の来るのを待っていました。やがて食事の準備が出来て一緒にご飯を食べていましたが、小鳥が気になるのかソワソワとして落ちつかないのです。「ご飯はしっかり食べなさい」と注意をしながら食べていましたが、トイレへ行ったついでに外を眺めるとメジロが3匹ゆってきて、早くもみかんの輪切りを啄ばんでいたようです。「おじいいちゃん小鳥がご飯を食べに来ている」と弾んだ声で報告です。「どれどれ」孫に連れられ朝食を休憩してのバードウォッチングと相成りました。

 そのうち妻もやって来てメジロの啄ばみをみんなで観察したのです。

 春先のメジロはウグイス色で色合いも申し分なく、鳴き声こそ聞かなかったもののとてもきれいでした。早速デジカメに納めましたが、写真撮影に成功したこちらの方が興奮する有様でした。

 私たち大人には他愛のない小鳥の話ですが、子どもにとっては夜が寝れないほど、朝早く目が覚めるほどの話なのかと、あらためて子どもの思いや夢の大切さを学びました。孫は人間牧場から帰った後も帰宅の時間まで私の書斎に頻繁に出入りし、母親や叔母を連れて、さも自分のことのように説明をしていました。

  「海を見て 何を思うや 肱川の 源流辺りに 住まいし人々」

「このデッキ 神楽を舞えば 海神も さぞや喜ぶ ことであろうと」

  「少しだけ 小鳥の餌付け 話したら 孫は凄いな 夢まで見てた」

  「メジロ二羽 みかん啄ばむ 庭の隅 間もなく春が 来そうな予感」

 

  

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shin-1さんの日記

○希望の島での笑いの夕日寄席

(司会をした弓削島の村上律子さん)
(開会挨拶をした松下政経塾塾頭古山和宏さん)
(基調講演をした東大教授神野直彦先生)

 東大教授の神野直彦先生が「地域と人間の回復」と題した格調高い話をした直ぐ後、事もあろうに私が「笑いの夕日寄席」をやることになりました。参加した知識人なら誰でもそのミスマッチに呆れただろうと思うのですが、それでも兼頭さんの企画立案したことですから一生懸命務めようと思いました。

 えひめ政策研究センターの松本さんが手助けをしてくれるというので、息もピッタリでやれるだろうと鷹を食っていました。出囃子の調子もこれまでよりか幾分馴れていよいよ本番です。私に与えられた持ち時間は35分なのですが、神野先生の話が10分ばかり押していて、私で時間調整しなければならないような雰囲気でしたので、私の時間は30分と考えていました。

 この日の舞台は何と背後に金屏風で、いつも以上の舞台設定に思わず少し顔が赤らむ思いがしました。そして高座もいつも使っている魚梁瀬杉の切り株ではなく舞台用の少し高めの台が用意され、分厚い座布団が敷かれているのです。村上律子さんと水戸へ行った折、「座布団はわが家の仏壇の前にあるのを持ってきてあげる」と約束をしていたもので、座るとひっくり返りそうな分厚さです。

 「えー、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席申し上げます。今日この会場に来て事務員さんに『いい島ですね』とお世辞を言ったら、『それほどいい島で気に入ったのなら住んでくれますか』と返されました。私は思わず『すみません』と答えてしまいました」。(大爆笑)

 まあこんな調子で夕日徒然草の地の書から取り出した幾つかのネタを組み合わせながらお話をさせてもらいました。普通だともっと落とした落伍をするのですが、松下政経塾との共催や、兼頭君の先輩、同僚などが全国から沢山参加していたようなので、少しまちづくりに軸足を置いた話に切り替え、終始和やかな雰囲気を作りました。中にははるばる高松から私の話しを聞きに来てくれた人もいたり、原さんや黒瀬さん、浜田さんなど旧友知人も沢山駆けつけていて、久しぶりの話に笑い転げていました。一番前に陣取っていた神野先生も思わず笑っておられました。この日は私の人形パネルも登場して、悦に入りました。

 私の後に登場した兼頭さんは、私の流れを汲むように落語家が着る着流しの和服で登場し、「他所家若丸」という芸名で私より上手い落語形式の活動レポートをやり、参加者をアッと言わせました。私の落伍のお世話をしてくれている松本さんが夕日亭大根心」にあやかり、「困ったな」ならぬ「小松菜」という芸名にしようとみんなの前で公表して会場を笑わせており、松本さんといい、兼頭さんといい、落伍や笑いが少しずつ広がりを見せているようです。

(兼頭さんの落語)

(トークセッションに聞き入る参加者)

 この日のために熊本県水俣から地元学の吉本さんを招いて子どもたちと町歩きをした様子が会場一杯に飾られ、トークセッションで「ぼくらの考える島の未来」について発表がありました。またこの日のためにアンケートも集計され、希望の島フォーラムは150人を超える人たちで賑わいました。

 兼頭さんのコミュニティビジネスという新しい戦略が始まりました。奥さんと子どもさん3人で移住して挑戦する兼頭さんの将来に幸多かれと祈っています

  「島の人 何故か優しい 顔してる 同じ人生 ゆったりしたい」

  「東大の 先生話す 壇上に 何故か私も 上がって話す」

  「いいとこと いえばすかさず 住んでよと いうので返事 すみませんとは」

  「この島を 愛せよいった 先生が 愛することなく 転勤希望」 

  

 

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shin-1さんの日記

○21世紀えひめニューフロンティアグループの総会

 昨晩は弓削島の集会を終えて高速船で午後8時に今治に着き、それから会員でもある豊田渉さんと二人で私の車で21世紀えひめニューフロンティアグループの総会に参加しました。例年だと湯ノ浦ハイツのある温泉別荘をお借りしてやっていましたが、会員でもある河上和夫さんが間もなくその会社を退職することもあって河上さんのご自宅をお借りすることとなりました。河上さん宅は年末にお父さんが亡くなったばかりなので少々気が引けましたが、お言葉に甘えて歓待していただきました。

 21世紀えひめニューフロンティアグループは私が20年間に渡って代表を務め、その後大野さんにバトンをタッチしましたが、私の退職もあって再び私が代表となって3年が過ぎました。この日集まったのは10人ほどで、弓削島での会議の都合で少し送れて到着したため、先発隊はもう出来上がっていて賑やかな雰囲気で総会を進めました。総会といってもそんなに肩苦しいものではなく、事業報告も決算もすべて順調に承認され、事業計画と予算案は私の意向を伝えながらの協議承認となりました。

 25年も前に「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」という3つのテーマを掲げて旗揚げしたボランティア団体ですが、既に「空かなふるさとを見る運動」、「ブーメランテーブル製作」、「無人島に挑む少年の集い」、「大野ヶ原モウーモウー塾」、「竪穴式住居語り部の集い」、「丸木舟瀬戸内海航海」、「10年で40回のフロンティア塾」、「今やれる青春記録本の発行」などなど社会をアッと言わせるようなプログラムを企画立案し実践してきましたが、最近は会員の加齢でその方向を転換し、人間牧場にツリーハウスを建設したり韓国研修旅行など、会員自らが楽しみながら進化する宝庫にシフトして今日を迎えているのです。

 総会で今年の目玉として世界遺産の旅を計画しました。熊野古道を巡りながら人生を考えようとするものです。日本にはこの他にも身近なところでは姫路城や広島原爆ドーム、それの宮島厳島神社などもあり、シリーズでこれらの世界遺産を訪ね歩き、人生を考える旅をしようということになりました。また人間牧場を使ったフロンティア塾も今年中に立ち上げる事になりました。私や田宮さん、河野さんに続いて今年は河上さん、来年は大野さんがそれぞれリタイアする予定で、これらのロートル組を進化させることは容易なことではありません。でも彼らを導くのは私であるとの自負心を持って今年も代表の私以下役員全員が留任となって目出度く総会を閉じました。

 私にとって21世紀えひめニューフロンティアグループの25年間に及ぶボランティア活動はいかなる存在であったか、ふと記憶を辿りながら考えてみました。一口で言えばまさに自分の青春そのものでもありました。窮屈な公務員という仕事を越えて、自分たちがやりたいことをやりたいだけやるフロンティアグループの活動は誰からも何処からも束縛されることもなく実践でき、とても魅力的で、情熱を燃やしたものです。成果も上げそれらは社会からも認められてきました。まさに社会への揺さぶりが出来たのです。

 昨日は飲むほどに酔うほどに夜が更けるほどに神妙になり、加齢でいつまで続けられるか真剣に考えました。せめて私が75歳までは続けようと話しましたが、財政的な支援していただいている関奉仕財団の支援もあり、青少年の健全育成という部分も外せないと思い、人間牧場で代表である私個人ですが様々な青少年健全育成活動を展開しています。これも来年度に引き継ぐ手はずも既に整って継続出来ているので今のところは一安心のようです。

 人は誰でも歳をとります。故に私たちのようなグループが社会貢献することもある意味では高齢化する現代社会で先進的な事例として注目されるのかも知れません。もう少しだけ背伸びをして、もう少しだけ重い荷物を背負ってもう少しだけ頑張ってみようと、布団の中にもぐる込んで頭を並べながら消え行く記憶の中で話し合いながら午前三時頃消灯の運びとなりました。

  「ロートルが ふた度息を 吹き返す 青春求め 進化し続け」

  「屋根(頭)痛み 屋根替えできぬ この身にて せめて背筋を しゃんと伸ばして」

  「気弱なる この人たちを 元気付け 導き進む 俺の仕事だ」

  「放っとけば 完全消滅 このメンバー せっかく生きて もっと楽しく」

 

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shin-1さんの日記

○四国中央市川滝地区女性の集いに参加しました

 今朝は前の晩に今治市の旧友河上和夫さん宅に宿泊していたものですから、余り朝早く起きてガタガタするのも失礼と思い、家族の方が敷いてくれた布団の中で夜が明けるのを待ち、ご当主やご家族に挨拶もしないまま朝7時に河上さん宅をそっと抜け出して、勝手知ったる朝倉経由の道をクネクネ走って今治湯浦から高速に乗り、四国中央市までひたすら走りました。9時までに川滝公民館まで着かねばならないため「中年暴走族」どころか「初老暴走族」と言われそうな身分で法定速度ギリギリまで少々スピードを上げひた走りました。お陰様で川滝に着いたのは8時半、少々時間があるので、直ぐ側にある椿堂というお寺さんにお参りする事にしました。この日は日本列島全体がまるで冷蔵庫に入ったように冷え込んでいて、時折雪のちらつくあいにくの寒さで、椿堂は訪ねる人も殆どなくひっそりと静まりかえっていました。庭の寒椿が寒さに震えながらも一際美しく咲いて出迎えてくれたのは何よりも救いでした。



 今朝は少し縁起を担いで賽銭を115円投げ入れました。「100パーセント10分5円がありますように」との思いです。いつもの事ながら願い事はせず、ただ無心に両手を合わせて祈るだけなのです。参拝が終わった頃寒さに震えるように夫婦連れの参拝客が現れました。88ケ所参りをする途中で立ち寄ったとの事、これから土佐へ行くそうで、ちらつく雪を見て行く手の道路状況を案じたいたようです。

 女性の集いの会場となる川滝公民館は国道を挟んだ椿堂の直ぐ下にありました。カーナビのご厄介になるでもなく直ぐに見つかりましたが、この日公民館近くの国道は舗装のし直しのため、大きな工事作業車が轟音をたてて舗装を剥ぎ取っていました。「何も今日のような地元で催しをする日に限ってしなくても」と、お上のやる事に不満を感じつつ事務所へ入りました。入り口には既に受付も出来ていて、かなりの人が集まっていました。

 私に続いて井原市長さんが見えられました。市長さんは数日前の新聞で再選を目指して市長選に出馬を表明していて、まだ44歳と若いのですが、県会議員を経験して魅力ある政治家の階段を確実に登っているように見えました。

 やがて30分の開会セレモニーも終りいよいよ私の登場です。長閑な山村の川滝地区ですが、市長さんが自慢するほど盛況で、100人を超すほどの参加者が集まっていました。この日の演題は「女性が輝くときまちが輝く」でしたが、会場の年齢構成を見て、女性の集いといいながら余りまちづくりや活性化の話に特化しない方がいいとの判断から、世間一般の変化を話題を交え面白おかしく話させてもらいました。

 冒頭私を紹介した人が、ハーモニカで160曲吹けると紹介してくれたものですから、ついついその気になって最後はハーモニカの音色で閉めてしまいました。謝辞も身に余る光栄で、穴があったら入りたくなるような賛辞を送ってもらい、鳴り止まぬ拍手の中会場を後にしました。

 それにしても事務所の応接室でお茶受けに出された干し柿の美味しかったこと、早い旅立ちで朝食を取っていなかったためもあるのですが、思わず2個も食べてしまいました。普通は地元の菓子屋さんの饅頭などが並ぶのですが、今日の干し柿は粉吹きも抜群で、見た目も食べた味も申し分のない一級品で、出された少し濃い目のお茶に合っていました。

 素直な気持ちで干し柿を褒めたところ、作られた人がいて二パックもお土産にいただき嬉しい限りです。人をもてなすためには何もお金をかける必要はなく、このように真心のこもった手づくりはその土地や作り手の気持ちが伝わって、とても嬉しく感じました。

 若い公民館主事さんの爽やかさ、館長さんのさりげない気配り、そしてこの日司会をした宇和島出身で県連青年団副会長経験者の女性の思い出話などなど、今思い出しても心に残る舞台裏のエピソードでした。

  「旅先の 友人宅を 抜け出して 粉雪舞い散る 高速走る」

  「お茶受けに 出され干し柿 つまみ食い お茶にマッチし 気持ち落ち着く」

  「賽銭を はりこみ参る 寺の庭 寒の椿が 一際栄えて」

  「今日もまた いい人出会う 研修会 西に東に 動き回りて」  

 

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shin-1さんの日記

○希望の島にやって来ました

 今治沖というよりは尾道よりという表現がぴったりの、越智郡上島町弓削島にやって来ています。今日午後から開催されるシンポジウム「希望の島へ」という集会に出席するため、今治を高速船で出発しました。門田さん、岡崎さん、米湊さんを伊予市で拾い、一路今治へ向かったのですが、早朝でしかも土曜日とあって車がスムースに流れ、一便早く9時の船に飛び乗りで間に合ったのです。

 久しぶりの越智郡島嶼部への船旅は快適で、先に乗っていた豊田さんと合流しましたが、豊田さんは伯方島で下船して散策するとかで分かれました。

 弓削島へは合併して上島町になってから始めての上陸で、村上律子さんはじめ多くの仲間に会うのも楽しみの一つです。

 島の船着場には兼頭さんが迎えに来てくれていました。風邪気味とかいって声が少し変わっていましたが、それでもこの日の仕掛け人なので不安と期待を垣間見るような気がしました。

 会場は船着場から歩いてすぐそこの「せとうち交流館」という場所ですが、図書館や実習室を兼ね備えた驚くほど立派な建物で、図書館のパソコンでこうしてブログを書いて情報発信できるのも有難いことなのです。

 今回の「希望の島フォーラム」、~ボクらの地域の未来はボクらが創る」は、財団法人松下政経塾生である兼頭一司さんが地元の人たちと仕掛けたものです。兼頭三は松下政経塾26期生です。西条市丹原町出身で東京大学を出た後、東京暮らしをしていましたが塾生になり、本年4月より上島町に家族三人で移住して地域づくり活動に取り組む予定だそうです。彼と私の出会いは一年前に遡りますが、えひめ地域政策研究センターで一ヶ月間研修したことがきっかけで深いご縁をいただきました。

 今日は私の出番も予定されていて、何と落伍をやるのです。基調講演が「地域と人間の回復」という演題で、東京大学の神野直彦先生ですから、その後に出る私などはまるで入門前のド素人のようなものですが、兼頭さんの門出にふさわしい話をしながら『笑いの夕日寄席」ということで、参加者を笑いの渦に巻き込みたいものだと思っています。

 先日茨城県水戸市で行われた全国地域づくり団体交流会にご一緒した村上律子さんが、「弓削島に来たらお好み焼きを食べに行こう」と誘われていたので、早速連れて行ってもらいました。噂にたがわず美味しいお好み焼きをご馳走になり、準備していただいた昼食をキャンセルしてしまいました。

来月4日には弓削高専へ講演に来る予定で、月末には今治2箇所と、不思議なまちづくりの連鎖反応が起こりつつあります。

 家を出る時、「弓削島へ行ってきます」と予告をしてでたのですが、こうして寸暇を惜しんでブログを書き、弓削島から情報発信出来ることは嬉しい限りです。

  「いい島だ 聞いた女性が 住みますか 思わず私 すみませんです」

  「生き生きと 輝き生きる 島女性 頑張ってねと 支援の拍手」

  「湯気が出る 弓削での話し ホットだね 何かいいこと ありそな予感」

  「しまなみの 橋もかからぬ 島だけど 文化ほのぼの いい島ですね」

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shin-1さんの日記

○ひっきりなしのお客様

 今日は私が在宅を知ってか知らずでか、朝から10組もの人が入れ替わり立ち代りにわが家を訪ねて来るのです。やっと帰ったと思いきや玄関のチャイムが鳴らされ、また対応です。今日は冬型の季節風が強まり、今朝はこの冬一番の冷え込みだそうで松山で氷点下を記録したとテレビで報じられていました。私も朝から書斎に石油ストーブを焚いて暖を取りながら頼まれた原稿を書こうとするのですが、ひっきりなしの来客に中々構想がまとまらず、読書に切り替えて時を過ごしました。

 そういえば、外は冷たく風は強いものの好天で、少し遅めの下浜の水仙と少し早めの閏住の菜の花を目当てにやって来た人たちがわが家へ流れてくるのだと、皆さんの話を聞いて納得しました。つまりわが家訪問は「水仙や菜の花のついで」なのです。

 それでも役場に立ち寄って人間牧場やわが家の位置を訪ねての来訪ですから、丁寧に対応しなければならないのです。殆どの人は友人や家族連れなので応接間へは通さず私の書斎の掃き出し窓から上がり込み、お茶を飲みながらの雑談の後、私設公民館煙会所と海の資料館海舟館を見学して一時間弱で帰って行くのですが、中には人間牧場へ連れて行って欲しいとせがむ人もいます。今日は予定があるからと丁重にお断りをしても、「それなら自分たちで行くから道を教えて欲しい」と食い下がります。残念ながら案内がなけれ道に迷うし、地図も書けないと断るのですが、「あんたは不親切だな」という不満な表情を顔に出し、態度に表せてしぶしぶ帰って行くのです。それでも一つのご一行様に小一時間かかるのです。

 今朝は午前10時に予約の人が松前から訪ねてきました。先日ある人の紹介で電話がかかり講演依頼に伺いたいというのです。聞けばその学習グループの今年のテーマは「団塊の世代」だそうで、最近団塊の世代、つまり戦後生まれの方々がリタイアするようになって、生き方が分らない人が世の中に増えてきているというのです。このグループの狙いはそういった方々を再教育してボランティアとして活用する方策を探っているようなのですが、果たして目論みどおりその人たちがボランティアの戦士になれるかどうかは意見の分かれるところです。これまで家庭も地域も顧みずがむしゃらに働いてきた人にとってボランティア活動などという世界はまったく別の世界なのです。

 リタイア後の人生を有意義に生きてゆくためには大きく分けて3つの視点が考えられます。まず自分の人生をどう設計するかでしょう。残された人生は長いようで短く、短いようで長いものです。これまで生きて得た知識と資金でどう自分らしく生きれるかということを考えなければなりません。自分を見つめ自分の人生を考えるこのことが多分一番難しいことなのです。

 次に大切なことは家族との暮しです。一つ屋根の下で暮らしているというけれどみんなバラバラな考えと行動で生きているのが今の日本の家庭です。例えばわが家のように年老いた親がいればその介護も、また無限大的に広がっていた暮しをどうコンパクトに縮小したりまとめて身を寄せ合うように生きて行けるかです。

 もう一つ大切なことは地域活動やボランティア活動を通して役立ち感を持つのです。いきなりボランティアというところまでスキルアップするのは無理なような気がするのです。

 人間の生き方にはステップアップの手順があって、それを無視していきなりそれを求めると元も子もなくなる恐れがあるのです。

 そんはアドバイスをした二人は納得して帰って行きました。参考になれば幸せです。

  「菜の花と 水仙ついでに わが家来る おまけ人間 牧場強請って」

  「寒さゆえ 書斎の窓から 侵入し 暖を取りつつ 世間話を」

  「団塊の 世代集めて ボランティア 世の中そんなに 甘くはないぞ」

  「寒いのに 今年最初の 冬日とは 温暖せいか 寒さもピーク」


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shin-1さんの日記

○むらづくりコンクール

 「宮崎県むらづくりコンクール表彰式・むらづくり講演会」に招かれ、今をときめく宮崎県へ行ってきました。ノミネートされた7つの事例のうちで、むらづくり大賞に選ばれた銀鏡むらづくり推進会の事例発表を聞きました。壇上に上がって発表した5人全員が浜砂さんという何とも面白い顔合わせでした。西都市の北、東米良地区に位置する銀鏡(しろみ)はゆずの生産が盛んなところで、ユズを中心にした東米良ユズ生産組合や農産物加工施設を利用した活動によって雇用拡大や所得の向上が図られ、これが地域づくりの拠点施設となって重要な基盤整備となったそうです。地域存続に欠かせないものに学校の存在があり、最近は少子化の影響でどこも学校の統廃合に揺れていますが、ここではいち早く山村留学制度に取組み、これまで169人の子どもたちを迎えているそうです。里親制度による受け入れも効果を挙げてるようでした。また銀鏡神楽の保存活動やグリーンツーリズムによる都市住民との交流によって交流人口が拡大している様子がパワーポイントを使って詳しく発表されました。

 発表した5人の浜砂さんと昼食を挟んで懇談しましたが、素朴でそれでいてしたたかに生きている様子が伺え、一度訪れたいような気持ちになりました。ちなみに昼食は会場の近くのお寿司屋さんで850円のお寿司を食べましたが、とても美味しくいただきました。

 世の中が狭くなったのか私の行動範囲が広くなったのか、はたまた私の知名度が上がったのか?(それはないかも)、会場には知人が何人か来ていて、思い出すのに苦労しましたが一瞬驚きました。

 私の講演題は「地域資源を生かしたオンリーワンのまちづくり」でした。この集会には宮崎大学教育文化学部教授戸島教授を始め宮崎県むらづくりコンクール審査委員の方々も6人参加していて、そちらへのアピールしなければならないので、少し内容を変えてお話しました。しかし残念なことに私の持ち時間が1時間10分と少なく、担当者の要望でDVDまで紹介するとなると余りにも時間が少なく、尻切れトンボのようになってしまいました。いつも思うことながら、僅か70分のために陸路往復500キロの走行と24時間もの大移動とはこれまた大変な労力です。でも宮崎で新しい出会いの輪が広がって、新しい何かが起こりそうな予感がしています。

 今回の研修会に招かれたきっかけは、何年か前宮崎県椎葉村で行われたグリーンツーリズムの勉強会に講演を頼まれて出かけたことがきっかけでした。あの時出合った古谷さん夫婦とはその後沖縄県石垣島で行われた全国地域づくり団体交流大会で再会したりしましたが、宮崎でペンションポケットを営んでいて先日も奥さんは全国民宿のお母さん百選に選ばれるなど、新しい情報を発信しています。

 今回のむらづくりコンクールの審査講評で戸島先生は「私は限界集落という言葉は余り好きでない」とお話されました。確かにいい言葉ではないし、65歳以上を高齢者と呼び、高齢化率50パーセント以上というけれど、何を持って高齢化というのか、何を持って限界集落というのか意味不明のまま限界集落という言葉が独り歩きしています。でも学者や部外者は「こう有るべきだと」と「あるべきだ論」を声高にいっても、何も助けてくれないのです。限界集落も持った地域に住んでいる私たちは、結局世の中の流れに翻弄されながらも「人間としていかに生きるか」という開き直った考えで力強く生きるしかないのです。

 美味い水を飲んで、美味い空気を吸って、美味いもの(安心で安全な地のもの)を食べて長生きをする。何でもないことですが、これが田舎に生きる人間の特権だと思えばいいのです。そんなメッセージを伝えに宮崎まで出かけました。私の考えや生き方は間違いでしょうか。

  「往復で 五百キロもの 道程を 宮崎くんだり よくぞ行ったり」

  「発表で 銀鏡(みしろ)の話 聞きました よくぞここまで 大きな拍手」

  「逆境を 力に生きる 人がいる ジーンと胸が 熱くなります」

  「高速で 行けない宮崎 だからいい 特定財源 賛成ですか」


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shin-1さんの日記

○一人の人間でこうも変わるものなのか

 「お前がいなかったら双海町の夕日もなかっただろうが、一人の人間で町はこうもが変わるのか」と、町の余りの変貌に戸惑いの言葉をかけられた数年前のことを思い出しました。事実夕日でまちづくりを始めた20年前と今を比較してみると双海町は大きな変貌を遂げました。それは町長さんはじめ多くの人の力でなし得たことで私一人の力ではありませんが、今の変化が悪い変化に変わった時は多分「あいつさえいなかったらこんなことにはならなかった」と批判の矢面に立たされるのは自分であると、覚悟を決めて暮らしている今日この頃です。

 昨日村づくりコンクール表彰式の記念講演に招かれ宮崎県宮崎市を訪れました。会場となる県源ホールが県庁の近くだったものですから、今話題の東国原知事の居城宮崎県庁を訪問しました。先日訪ねた和歌山県庁や愛媛県庁と同じく歴史を感じさせる県庁本館を前に度肝を抜かれたのはまず県庁の設えです。シックな県庁本館は玄関にサボテンや花、それに噴水と、まるでテーマパークのようなのです。そしてひっきりなしに入ってくる観光バスからは胸に観光ツアーのバッチをつけたおじさんやおばさんが下りてきて、盛んにカメラで撮影しているのです。聞けば知事がテレビに出て「どげんかせんといかん」などと流行語をいい、マスコミに登場するものですから、それが社会現象となって、今では県庁はれっきとした観光スポットに変身しているのです。折りしもプロ野球が春のキャンプに入っていて、旅行業者はちゃっかり東国原知事の人気にあやかって県庁とキャンプの二枚看板で宮崎を売りまくっているのだそうです。



 私は時間があるので県庁本館を見学しました。まず本館入口には知事の等身大の人形写真パネルが立てられていました。これはアイディアで知事がいなくてもちゃんとPRできるのです。

 本館は重厚な造りになっていて知事室に通じる階段や廊下、それにドアなどは「県庁」という雰囲気でした。




 「お客さん一枚撮りましょうか」、いきなり観光客に声を掛けられ、恥ずかしながら知事さんとツーショットです。さて「男前はどっちでしょう」。はい知事さんの知名度を考えて私は一歩下がって写真に写りましたので「男前は知事さん」でした



 前県知事が逮捕された不祥事の頃県庁を訪ねましたが、そこ頃の県庁は硬く門を閉ざしているような、火の消えた存在でしかありませんでした。ところがどうでしょう。県庁の横にある物産館はツアーのコースに入っていることもあって連日満員で、私が訪ねたまだ早い午前中の時間になのに沢山の観光客が列をなしていました。

 「今日は平日でお客の数が少ない」と店員さんは言っていましたが、まるで都会のお店のようでした。観光客のお目当ては東国原知事の似顔絵シールが貼ってる焼酎や地鶏の燻製など様々ですが、ここにも知事の顔がブームとして反映されていて、知事さんの似顔絵シールがあるだけで中身は別として売れるのだそうです。

 それにしてもブームとは恐ろしいものです。宮崎の人に聞けば今の段階では知事さんの功績は誰もが認めていますが、「今の宮崎は知事の人気に助けられています。これは地震のようなもので、いずれ人気が下火になると必ず揺り戻しが来るでしょう。それまでに本当の実力をつけないと」と気を引き締めていました。

 県庁に通じる楠木の並木も、県庁の敷地内にある大きなガジュマルの木も、東国原知事の人気に浮かれて誰も見向きもしませんが、私はその木の存在が県庁という景観を形成しているような気がするのです。砂漠に建つ楼閣県庁にならないようくれぐれもご用心あれ。

  「行ってみて 始めて分る 大ブーム 今や県庁 観光スポット」

  「東国原と いう名の知事が いたっけな どぎゃんいわれる 二十年後は」

  「似顔絵を 書いた名刺を 手渡すと 知事に似てると 笑われました」

  「特産品 知事の似顔絵 似つかぬに 便乗儲け 狙ってどれも」

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