shin-1さんの日記

〇今年最後の授業を終えて

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科での今年最後の授業に出かけました。私が非常勤講師として大学で授業をするようになって早くも6年が経過しました。最初は自分のコンテンツの領域を広げるくらいの、簡単な気持ちで請われるまま始めましたが、あっという間に6年が過ぎたという感じです。昨年までは主に夜間主の学生を相手にしていましたが今年から昼間主に代わり、毎週月曜日、4時限目の14時40分から90分間講義をするのです。他の学部や学生がどんな感じか分かりませんが、少なくとも私の教室の学生は真面目で、出席、授業態度など、どれをとっても満足のいくもので、安心して授業を行うことができました。

 私にとってこの一年の授業は、授業日が月曜日ということもあって、講演やイベントが土日に集中しているため最初はいい曜日で楽勝と思っていましたが、月曜日は祝日の振り替え休日が多く日程的にかなり組み立てが難しく、本来なら年末に終わっているはずの授業が、来春に一回だけずれ込んでしまいました。でも1月19日は発表会なので、本格的な授業は作日が最後だったのです。

 6年間見慣れた文京町の大学キャンバス構内にあるケヤキ並木も殆ど葉を落とし、冬の季節風が梢を揺らしていました。大学の建物は耐震工事のために足場で覆われ、高いクレーンが何度も建築資材を吊り上げて作業をしていました。駐車場敷地にはプレハブの工事事務所が立ち並び、工事関係者がせわしそうに働いていました。

 法文学部の事務局が工事の関係で本館に移って一年が経とうとしています。元々事務局へ顔を出すのは授業日に出勤簿に押印するの、授業に使うレジュメや資料をコピーするため顔を出す程度なので、担当者以外とは殆ど口をきくこともなく、機械的な作業のようです。まあ不可侵状態とでも言うべきか大学とはこんなものと認識した6年でした。はてさて来年はどうしようかと思案しています。既に担当の丹下先生から来年もとお誘いを受けていますが、農学部での授業のこともあるし、年内いっぱいで結論を出さなければならないようです。

 この6年間、前半の2年間は教育長をしながら大学に通ったため、目まぐるし忙しさでした。しかし小さいながらも町の教育行政トップとして教育行政を組み立てていく上で大学での授業は大いに参考になり、いささかの恩返しができたように思うのです。合併によってリタイアしたした後半の4年間はそのことに没頭するほどの余裕もなく、少し惰性で動いていた感も否めませんが、それでも夜間主と昼間主をそれぞれ担当し、いい意味での勉強ができました。

 反面教師とでもいうのでしょうか、出会った学生からは有形無形の若者文化を肌で感じさせてもらいました。この年齢になると若者社会のことに疎くなるのは当然のことなのですが、まるで吸い取り紙のようにしたたかにさりげなく吸収させてもらいました。ひょっとしたら一番学んだのは学生ではなく私だったのではないかと思うのです。

 正月休みに少し精神の整理をして、もし講師を引き受けるとすれば来年は新しい気持ちで学生たちに向かい合いたいと思った最後の授業でした。

 学生たちは正月休みに採点用のレポート提出をお願いしています。締切は1月10日、どんなレポートが書かれ送られてくるのか楽しみです

  「早いもの あっという間の 六年間 私は何を 教えたのだろう」

  「なるほどな 反面教師と いう言葉 若者文化に 触れて楽しく」

  「先生で ないのに先生 呼ばれてる どこか抵抗 あるにはあるが」

  「夜間から 昼間変わり この一年 月曜度に 授業に出向く」 

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shin-1さんの日記

〇進化せず退化する人

 昨日は元町議会議員さんの叙勲祝賀会に招かれ、久しぶりに懐かしい顔々にお会いしました。出席していた人は4年前の合併でその職を失った方々が殆どでしたが、4年という短くも長い日時は老いという重い課題に直面していることを肌でしみじみ感じさせられました。

 町議会議員の職を失った方は老いてもなお口は達者です。現職当時議会で舌戦をまみえたことを懐かしく振り返りながら、昔話に花を咲かせました。私などはそんなことを思い出す余裕もなく日々を過ごしているのですが、暇となった議員さんたちは昔を懐かしみ、「あのときこんな質問をして、地域振興課長だったお前はこんな答弁をした」などと克明に覚えているのです。

 しかし、そんな元議員さんや元役場職員も政治や経済などの世俗と縁を切ったように思える今の暮らしからは、肝心な今の世の中の情報には疎いと感じずにはいられませんでした。ある元役場職員との会話は主に私の日々の暮らしへの質問でした。「お前は忙しそうに毎日過ごしているようだが、何で飯を食っているのか」と、まるで貧乏な私を見下したような言い方をする人もいれば、「お前は口先だけで弁当箱も要らず飯が食えるのだからいいのう」と、これまた私が評論家のようだと揶揄するのです。

 私は少し腹にすえかねたので「飯を食うのは茶碗と箸で食ってます」ととぼけおどけてみせりました。リタイアして以来定職を持たないサンデー毎日の私が人の前で大ぼらを吹いて全国を歩き、霞を喰って生きているように見えるのは気に入らないのかも知れません。でも私だって3年半前に教育長という職を皆さんと同じように合併によって失職しましたが、あれから3年半の私の努力は進化は、学問や知識がないだけに相当努力したつもりです。多分集まった元議員さんや元役場職員の中では最も学習を積んだと自負するのです。元議員や元役場職員という肩書で飯が食えるほど世の中は甘いものではありません。それ相応の努力なしで生きれるものではないのです。

 80歳の年齢を超え老域に達した元役場職員と話していて気が付きました。その人はインターネットもやらずある意味古い型の人間です。今でも原稿は鉛筆を削り消しゴムで敬しては書くような素朴な人ですが、その人にもその人の人生があるものの、私たちと情報という世界においては少し次元が違うような印象でした。昨日の新聞にシニア向けサイト「自悠くらぶ」の広告記事が出ていたのを見つけたそうです。「自悠くらぶ」とは一体何か、シニア向けサイトとはなどなど、いくら説明してもチンプンカンでした。最後は「お前は偉い。学校で習ったこともないパソコンを独学でマスターしたのだから」と持ち上げてくれましたが、これほど溢れた情報の中で暮らしていると、彼のようにインターネットなどの煩わしい情報に惑わされず生きれる道を選んで生きることも得策かも知れません。しかしそれでは若い世代とコミュニケーションがとれないことも事実です。

 彼がぼそりとぼやく「今では情報も少なくなり、人と出会うことも少なくなった。このままだとおじ捨て山だ」という言葉は、私のこれからの生き方に大きなアドバイスだったように思うのです。つまり人間は情報と人間に出会わなければ退化するということです。と同時にリタイアしてからこの3年半、情報を求め人を求めて生きてきた進化の生き方がこれからの生き方でもあるのです。いい生き方、いい進化をしようと心に誓いました。


  「何で飯 食ってる言うから 茶碗箸 まるで落伍だ 座布団一枚」

  「弁当も 持たず口先 飯を食う 俺を見下し ある人曰く」

  「進化止め 退化の道を ひたすらに 生きてる人の 多いびっくり」

  「元などと 名乗ってみても 誰ひとり 偉い人だと 思う人なし」

  

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shin-1さんの日記

〇冬至かぼちゃにユズ湯

 昨日は一年中で最も昼が短く夜が長~い一日といわれる冬至でした。暦の説明には「二十四節気の一つ。旧暦11月子の月の中気で、新暦の12月22日~23日頃。太陽の黄経が270度に達し、冬至線の上に直射するときである。」と書いています。この説明を読んでもピンとこないため注釈を読んでみると、「この日、北半球では太陽の高さが一年中で最も低くなります。そのため昼が一年中で一番短く、夜が長くなります。この日を境に一陽来復、日脚は徐々に伸びてきます。」と付け加えていて納得するのです。でもまだ納得できないのは、冬至で太陽が最も低くなるのになぜ寒いのか、また今日から陽が長くなるのになぜ寒いのかという暦と日常気象のずれの説明がなされていないのです。気象予報士が「暦の上では・・・・」といつも注釈を付ける旧暦と新暦の違いなど、私たち凡人には分からないことばかりなのです。それでも四国愛媛県に住んでいると5時ころに日が暮れて、朝7時ころに夜が明ける今の暮らしよりは、7時半ころに陽が沈み4時半ころに西の空が明るくなる夏至の頃の方がなんぼか暮らしやすいのです。

 昨日は前日に人間牧場で畑の隅をたった一人で開墾した重労働?がたたって、少し風邪気味のようで、気分がすぐれず、咳も少し出ていました。朝10時半から友人の母親が亡くなって葬儀に出かけ、夕方4時からは元町議会議員が旭日双光賞を受賞した叙勲祝賀会に出席し、疲労困憊といったところです。でも家へ帰ってみると妻は冬至のことをちゃんと覚えていて冬至カボチャを煮てくれていました。このカボチャは親父が家の畑で夏の間に収穫して、倉庫の隅に保管していたものです。美味しいカボチャが年中出回る当世なので、正直味はは少し落ちているような感じもしましたが、十分美味しく食べれました。カボチャはこのようにジャガイモやサツマイモ、タマネギとともに保存の効く野菜です。中央アメリカから南アメリカ北部を原産地とするウリ科の植物で日本カボチャと西洋カボチャに大別されますが、日本カボチャは16世紀中ごろポルトガル船によってカンボジアからもたらされ、カボチャの名前はこの時の伝来先に由来していると聞いて「南瓜」も「カボチャ」も納得するのです。さて昨晩食べたカロチンは体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし感染症などに対する抵抗力をつけてくれるそうですが、風邪気味な体に効くかどうか心配です。


  昨日は高知県馬路村の東谷組合長さんから送られてきたユズを風呂に二個いれユズ湯を楽しみました。ユズ湯に入ると美肌効果や冷え性にも効いて体が温まり風邪をひかないともいわれていますが、ひいた風邪には効くのかこれもユズに含まれているビタミンCの効果だそうですが、こんなことぐらいで風邪をひかないようにはなるまいと半信半疑で風呂に入り、二個のユズを妻と二人で体に擦りました。

 さてさて冬至とユズ湯とどんな関係があるのか、それは湯につかって病を治す湯治とかけているようです。5月5日の菖蒲湯もユズ湯と同じ願いかも知れません。

 まあカボチャもユズもその効き目は別として、日本人が編み出したある意味での歳時記なので、これからも大切にしてゆきたいと思った次第です。


  「カボチャ食べ ユズ湯作って 息災を 祈った妻の お陰で元気」

  「ひいた風邪 カボチャユズ湯で 少しずつ 病は気から 快方向かう」

  「夜長く 妻は安眠 するけれど 私眠れず 大きな違い」

  「今日からは 陽脚猫の目 少しずつ 昼の時間が 長くなりぬる」

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shin-1さんの日記

〇仕事ができる人は違う

 90歳になる親父を見ていると「仕事ができる人はバックヤードの整理が綺麗」だとしみじみ思います。親父は一日中家にいてこまごまとした自宅周辺の掃除や家庭菜園の管理に余念がありませんが、暇がるから身辺が綺麗なのではなく、どうも性格のようなのです。親父は主に住んでいる隠居家と倉庫の中にしつらえた仕事場で一日を過ごしますが、大工道具類にしても農作業具類にしてもきちんと整理整頓や修理ができていて、目をつぶっていても分かるほどなのです。私が親父の道具類を無断で使って元の場所へ戻し納めているように見えても、道具を使ったことが分かるほどの徹底ぶりなのです。

 

 片や私はどうでしょう。私の仕事場は主に自分の書斎と人間牧場なのですが、人間牧場の脳具類はさて置いて、いずれも紙類中心ながら片付かないばかりか、かなりのものが横積み状態で置かれていて美観を損ねているのです。「一年間見なかった資料はごみに等しいから処分すべし」は整理整頓の達人の言葉なのですが、ものの不自由な昔に育った私は「勿体ない」「いずれ役に立つ」という気持ちが先に立って中々捨てきれないのです。「そのうちそのうち」と思っているうちに一日が終わり、早くも一年が終わろうとしています。昨日は思い切って机の上の紙類をごみにして、畑の隅のドラム缶で作った自家焼却場で火を付けて処分しました。多分中には必要なものもあっただろうと思うのですが目をつぶりました。


 最近私に用事があってわが家へ来る人を応接間へ案内することは殆どなくなりました。勝手知ったる人は私の南側に面した書斎裏口から「おるかい」と気軽に声をかけて入ってきます。妻はそのことが気に入らないようで、「お客さんに失礼だ」と応接室を使うよう勧めるのですが、もうこの歳になると恥も外聞もなく、「裏も表も見せて散る紅葉」なのです。

 私は外へ出ていない限りはこのバックヤードとも思える書斎兼仕事場で紙類に囲まれ一日を過ごします。この書斎に移ってもう10年近くが経ちましたが、本類を人間牧場へ移したため随分すっきりとしてきました。しかし昔と違うのはやはりパソコン類に関する道具が多くなったことです。CDやフロッピーが書棚の一角をわがもの顔に占領しています。その中には御用済みのものがあるのに整理できていません。これもいずれはと思いつつ、日々の忙しさに忙殺され忙しさを言い訳にして片付けないのです。


 90歳の親父を見てもうそろそろ親父の生き方を真似しないといけないと思っています。今年を締めくくる清水寺の森管長が書いた「変」という漢字にあやかり、来年こそは「仕事ができる人はバックヤードの整理が綺麗」といわれるような変化を進化を遂げたいものだと思っています。親父いわく「来年なんて考えるな、今から行動しろ」とは当たらずも遠からずです。反省だったら猿でもできるのですから。はい私は申歳です。

  「九十の 親父見習う ことばかり 強く生きねば 師走に思う」

  「そういえば 親父の道具 ここにある 使ったままで 返すの忘れ」

  「紙届く 紙を処分の 繰り返し 無駄だ思うが あいも変わらず」

  「来年は いやいや今だ 始めるは お陰で少し 片付きました」


 

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shin-1さんの日記

〇「夕日徒然草・水の書」の出版に向けて

 昨年の11月に出版した夕日亭大根心落伍高座本「夕日徒然草・地の書」の引き合いがかなりあって、千部作ったものが殆どなくなり底を尽きかけてきました。予想通りといえば嘘になりますが、本を作る時に思う一種の恐怖感というものが消えたことは嬉しい限りです。恐怖感とは「この本は出版したけど果たして売れるだろうか」「売れなかったら投資金額を回収できないしどうしよう」などなどです。

 私はこれまで、「町に吹く風」「昇る夕日でまちづくり」「今やれる青春」「ミレミアム200年その日私は」「夕日徒然草・地の書」などを人生の節目節目に出版してきました。私のようなまったく無名の人間が本を出すこと自体無謀なことは百も承知で挑戦しているのですから、本が売れないことなど当たり前なのです。それでも冒険やチャレンジをしないと人生は楽しくないと思い無謀にも挑戦し続けているのです。

 最初の「町に吹く風」は月2回10年間にわたって「大根心」のペンネームで広報ふたみに書いたコラムの再編集本でした。広報を印刷した印刷会社のご厚意もあって60万円というかなり格安で作りましたが、42歳の厄祓いという理由をつけ妻に無心をいって資金を出してもらいました。この本は1000部作りましたが、厄祓いだったのでその殆どはお世話になった知人友人、親類筋に無料で配ったのです。それでも非売品ながら資金カンパやお祝いという名目で、有難いことに出資金の半分くらいはいただきました。

 その時の出版快感が忘れられず55歳でもう一冊と密かな出版計画を立てていました。その後まちづくりの仕事に携わるようになって、夕日によるまちづくりという恰好の素材に恵まれ、計画より一年遅れましたが56歳で念願の「昇る夕日でまちづくり」を出版することができました。この本は本格的な本だったので、県内の有名書店に横積みで並べられ、250万円の資金で3千部作ったものの一年で全てを売り尽くし、異例の速さで2版刷りとなって60万円の投資で3千部を出したのです。田舎で1年間に3千部売れるなんてことはまさにベストセラーなのです。私はこの本の収益で人間牧場資金を作ったようなものなのです。本を出版するには自分でお金を出す方法と、出版会社が出す方法があります。自費出版は良くも悪くも自己責任ですから、本の売れ行き管理までしなければならないのです。印刷屋さんから届いたトラックいっぱいの本を見た時の感動にも似た恐怖は忘れることができないのです。幸いわが家は田舎なので倉庫が沢山あるものですから助かりますが、それにしてもあの在庫品には参りました。出版会社が出す場合は売上の10%程度しかいただきません。熟れても売れなくても自分には関係ない分実入りが少ないのです。1千円の本が1千部売れても10万円以下なのです。


 昨年出した「夕日徒然草・地の書」は落伍とセットの高座本です。1冊500円程度の紙質も悪い本ですが、この本が一番私には合っているように思います。この本は1千部印刷しました。25万円プラス諸費税という安さです。したがってまるころ売れなくても損失はそんなに多くありません。私はまちづくりを志す人たちが何故か経済のことを考えない風潮が気になっていたので、この本の出版を通じて少し資金調達を考えました。消費税を外せば初期投資額25万円を回収するには500冊販売すればいいのです。つまり初期投資資金さえ用意して500冊販売する努力さえすればすれば、以後に計画している水の書・風の書・火の書・空の書などの資金調達ができる、まるで自転車操業まがいの算段なのです。

 この計画は人間牧場という研修施設を持っているから、落伍ライブをやるから成せる業なので、とりあえず初期投資資金の回収どころか、人間牧場の運営資金まで稼ぐ勢いとなりました。

 さて年内に次の目標である「夕日徒然草・水の書」の原稿を書かなければならないと思い、昨日から書き始めました。私は毎日②本のブログを書く習慣もあって、書き始めると案外早いので、年賀状のこともあるのですが多分年内には書き上がるのではないかと思っています。


  「自著本の 出版視野に 記事を書く 何故か浮き浮き 師走の日々が」

  「目標を 持って生きれば この歳に なっても意外 日々が楽しい」

  「気がつけば 妻に内緒の 通帳に 資金蓄積 これで安心」

  「この一年 千人相手に 落伍する 木戸銭集めて 次なる一手」

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shin-1さんの日記

〇私の10大ニュース

年賀状を作る都合があって、私の10大ニュースを2008年Writing Calendarをめくりながら拾い出してみました。

 ●2月20日  県政発足記念の県政功労者として栄えある表彰を受けました。これまでにも色々な賞をいただき

          ましたが、もうこれが最後かもしれませn。

 ●3月7日   この一年で一番遠い秋田県能代市へ講演に出かけました。この一年100回を超す講演を行いま 

          した。


 ●4月12日  21世紀えひめニューフロンティアグループ(私が代表主宰)の研修旅行で世界遺産熊野古道を

          旅しました。グループでは今後も世界遺産を巡る旅を続けたいと意気込んでいます。

 ●6月13日  長年の恩人である奉仕財団の関会長さんが藤原さんとともに人間牧場へ来牧されて見学し、旧 

          交を温めていただきました。

 ●6月29日  シーサイド公園が恋人の聖地百選に認定され、記念イベントとして結婚式などを開催したり、モニ 

          ュメントを設置したりしました。

 ●8月23日  はからずも愛媛海区漁業調整委員会委員に選任され、今後4年間漁業振興のお手伝いをするこ

          とになりました。

 ●10月18日 第10回総理府派遣青年の船班長会が私が主宰し松山市で開きました。31年前太平洋をにっぽん  

          丸で航海し建国200年のアメリカへ行った懐かしい思い出が蘇ってきました。

 ●11月13日 地域づくり団体全国研修交流会愛媛県大会が宇和島市を主会場に県下15会場で開かれました。

          大会の実行委員長を務めました。第15分科会を双海でも開きました。

 ●11月1日  島根県松江市で全国夕日サミットが開かれ、私が基調講演とパネラーの重責を務めました。

 ●12月9日  年輪塾ネットが44名参加のもとスタートしました。来春にはオープンセミナーも開塾する予定で

          です。


 こうしてみると今年も色々なことがありました。叔父である親父の弟も4月に亡くなり寂しい限りですが、来年5月には長男の第2子が誕生予定など明るい話題もあり悲喜こもごもの若松家です。大海を泳ぐマグロのように人間は社会と時代の荒波を泳ぎ続けなければなりません。来年もいい青春の履歴書が書き込まれるよう自分自身に言い聞かせています。

  「俺流の 十大ニュースを 拾い出す 今年も色々 明暗あった」

  「『そういえば』 そんな言葉で 過去となる 二度と帰らぬ 今年一年」

  「年輪に 例えるならば 一刻み しれたものだな たかが一年」

  「今が過去 明日が過去に 早変わり うかうかすると 人生全て」 

                   

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shin-1さんの日記

〇楽しかったコープえひめの忘年会

体の都合でお酒を全然呑まなくなった私ですが、師走に入ると会合に何だかんだと言い訳をつけて、忘年会の案内があちらこちらから舞い込みます。指折り数えてみると両手の指が全て折られてしまうほどすさまじい数です。昨日朝食の時妻が「お父さん、今日も夕食は要らないの」と聞くのです。「うん」とうなずくと妻は台所の残り少なくなったカレンダーを見て、「そういえば今月は殆ど家で夕食をしていない」と、少し不満げでした。そういえばそうだと納得しながら、「それでも昔のように迎えに来いと言わないのだからこらえなければ・・・」と追いうちの言葉をかけました。そう、酒をたらふく呑んでいた昔はたとえ午前様になろうとも公衆電話で家へ電話して迎えに来てもらっていたのです。私の妻のことをいつの頃からか友人たちは「10円タクシー」と呼ぶようになっていました。当時「10円タクシー」は帰り道をいいことに呑み友達を送迎したり、呑み足らない食い足らない私のわがままで飲食店に寄ったりと、わがまま放題に妻を使っていたのです。酒を飲まなくなってさすがに「10円タクシー」は姿を消しましたが、それでも夜の呑み会は留まるところを知らず、妻は今月も寂しい一人だけの夕食を食べているのです。

 昨日はコープえひめの理事会が本部でありました。理事会は早く終わったのですが、忘年会は午後5時から西堀端の東京第一ホテルでの案内でした。久しぶりに少し時間が取れたので、あちらこちらへ年末のご挨拶にでかけました。日ごろ見慣れた光景の松山の街もすっかりクリスマスや師走のムードで、不景気といいながらやはり華やいだ雰囲気でした。

 東京第一ホテルの立体駐車場に車を止めホテルのロビーへ入ると結婚式案内のカウンターで、双海町出身の女性職員に声をかけられました。今は社長が亡くなり廃業した武田電業の娘さんです。そういえばこの女性職員の兄さんの結婚披露宴の司会もしたなあと思いだしつつ懐かしい思い出話をしました。受付で駐車券に押印してもらい会場となっている2階へ上がり、受付で席くじを引き17番の指定席が決まりました。メインテーブルです。席には見慣れた女性理事さんが陣取り、大川理事長さんの今年締めくくりのご挨拶をいただき、乾杯で忘年会は始まりました。理事長さんの挨拶を聞きながら、そういえば今年も色々あったなあとコープをめぐる中国餃子事件などを思い起こしました。自分自身にとっては比較的穏やかな、それでいて忙し一年だったと述懐しました。

若松進一ブログ (私のテーブルの理事さんたち)

若松進一ブログ (美味しかった料理)

 やはり女性が主導する忘年会は微細に凝っていて、色々な催しが企画され食事をしながら楽しい会話が飛び交いました。またクイズやお楽しみ抽選会も行われ、2時間があっという間に過ぎました。

若松進一ブログ (楽しいクイズ)

 最後は松本専務さんがあいさつとまちづくり締めでお開きとなりました。松本専務さんはいつも私のつたないブログを読んでいるようで、そのせいでしょうか会えば会話が弾み意気投合するのです。この夜も短い会話でしたが、温かい握手をしました。

若松進一ブログ (今年を締めくくった松本専務さん)

 追伸

 私はこの夜、大川理事長さんの勧めで余興としてアドリブでハーモニカ+ショート落伍をやりました。飲むほどに酔うほどに盛り上がっていた会場の雰囲気を壊すこともなく、まあいいかと思いつつ、相変わらずの馬鹿げた出し物でお茶を濁してしまいました。この日コープ四国の梶原専務さんがコープ徳島に出向する人事が発令され忘年会で送別しました。新任地でも今まで通りご活躍されんことを祈っています。


  「『今晩も 私一人で 夕食か』 ため息交じり 妻の一言」

  「大川の 荒波けたて コープ船 今年何とか 岸漕ぎ渡る」

  「花束を 受け取り去りし 人ありて 新任地での 活躍願う」

  「指折れば 十指に余る 忘年の お茶を何倍 飲んだだろうか」

  

 

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shin-1さんの日記

〇ハマチ大漁のおすそ分け

 昨日は港でハマチが大漁だったようで、おすそ分けのハマチが14匹も届きました。トロ箱いっぱいのハマチを見てさてどうするか思案しました。早朝だったこともあって昼からの外出に間に合うからとおおよその時間的配分と再おすそ分け先を決めました。妻は仕事に行くとき私に自分の割烹着を着せ「よろしくね」と、昔私がやったような格好いいセリフを残し出かけて行きました。

 倉庫から発泡スチロールの箱を出し、頭に浮かんだ伊予市のまり子さん宅と息子の職場に差し上げる分を4匹づつ入れ冷蔵庫の氷を入れましたが、足らないので急いでシーサイド公園の岡田鮮魚店に出かけ氷をいただいて帰り、ハマチが隠れるほど氷を入れました。さてそれからが大変です後の6匹は息子の家1匹、娘の家1匹、わが家4匹を調理し始めました。まず日ごろ使っている庖丁を②本研ぎまな板の上に置きました。この日のハマチはそんなに大きくはないので、出刃庖丁は使わないことを決めました。

 まず頭を落とし内臓としっぽを取り除く作業から始めました。さっきまで海で泳いでいた魚なので新鮮そのものですが、外の流し台は風が吹きっさらし、加えて氷でしめているので手がかじかむほど冷たくて、悪戦苦闘です。天然のハマチは捨てるところが殆どなく、内臓としっぽとエラくらいなもで、6匹をさばいても僅か一握りほどしか残ぱんは出ないのです。6匹をさばくとまな板の上は鮮血で真っ赤になりましたが、綺麗に水洗いして頭を半分に割りあら煮用にしてパレットに入れました。

 ここまでの作業を終えると後は簡単で、綺麗に水洗いした胴体をよく切れる包丁で3枚におろしてゆくのです。自慢ではありませんが私は厨房には入らないたちですが、魚のさばき方はまあまあ腕に自信があるのです。あっという間に6匹全てを3枚におろしてしまいました。骨は小切りにして頭とともにアラ煮用です。またヒハラと呼ぶ腹身もそいで二つに切りアラ煮用パレットに入れました。片身になった刺身用ブロックが12切れできましたので、娘と息子用に2切れづつサランラップに包みアラも小さなナイロン袋に入れて付けてやりました。

 冷蔵庫を片づけ、とりあえず外出予定の昼まで保存するため収納しました。その間ものの小時間は経ったでしょうか。意外と手際良い調理に満足しながら作業を終わり、割烹着を洗濯場まで持って行き、風呂場で臭くなった手を石鹸で洗いました。私は毎朝前の日の残り湯につかって髭を剃りながら朝風呂を楽しみますが、今朝は妻が足し湯をして温かくしてくれていたので少しのんびり朝湯を楽しみました。

 外出先に行く途中まり子さん、息子の勤め先、息子の家、娘の家へそれぞれおすそ分けの宅配便をやりました。

 昨日の夜の食卓はハマチの刺身とブリ大根、それに水産高校の先輩玉井さんから送ってもらったオカラのでない珍しい豆腐が湯豆腐になって食卓を賑わせました。新鮮なハマチも豆腐も実に美味しく、またブリ大根も食欲をそそり炊きたてのご飯をお替りしてしまいました。冬至間近な初冬の夜は身も心も温たまり、楽し一夜となりました。


  「六匹の ハマチ調理の 腕前に 俺もまんざら にんまり捌く」

  「割烹着 私に着せて 妻さっさ 後はよろしく 夫婦逆転」

  「ブリ大根 刺身も全て 美味しくて 思わずお代り 食が進むね」

  「今晩は あちらこちらの 食卓で ハマチ肴に 楽しい食事」 

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shin-1さんの日記

〇ささやかな夢の貯金箱

 わが家には子ども時代を思わせるような幾つかの貯金箱があります。その中でも私が管理するのは3つです。一番大きいのは昔の郵便ポストの形をしたもので、馴染みの郵便局長にいただいたものです。この大きさたるや尋常ではなく、もう8年くらい使っているのですが入れても入れても一杯にならないのです。これまで一回だけ一杯になったことがあって、郵便局へ持って行って計算してもらったところ、確か5万円くらいあったと記憶していますが、これも職場で小銭ができた度に入れていたためで、リタイアした今ではそれほど小銭もできないため、一年で貯まる金額は知れているのです。それでも持ち上げてみると少し重くなってきたようなので、来年は思い切って満杯を目指したいものです。

 その横に小さな可愛いイノシシ型の貯金箱が置いてあります。これはどこかの銀行でイノシシ歳にちなんでいただいた貯金箱ですが、「おかもとともき」と黒マジックサインペンでひらがな書きされています。私の大きな郵便ポスト型の貯金箱が欲しいという孫をなだめるために名前を書いて孫に渡したものです。孫はもうそのことを忘れていますが、それでもわが家へ来て私の書斎へ入る度に「あっ僕の貯金箱」といっては、「お金を入れて」とせがむのです。その度にポケットの小銭を入れてやるのですが、まだまだ開けるほどは貯まっていないようです。でも小さい頃から貯蓄を奨励することはいいことだと思いながら、折につけお金の大切さや、お金が貯まったら何に使うかささやかな夢を話しているのです。

若松進一ブログ

 さてもう一つの貯金箱は私が管理しているといっても、私と妻の夢の貯金箱なのです。100円ショップで毎年買ってくるかなり大きめの缶詰型です。退職してから始めたささやかな一年完結の貯金箱なのです。私たち夫婦には退職という人生の節目で夏と冬のボーナスがなくなりました。安月給の公務員だったためボーナスの金額は少なかったのですが、それでも年2回のボーナスはわが家にとってまるで夢をいただくような楽しみだったのです。その夢がなくなったのを機会に、せめて一年に1度でいいから、そしてささやかな金額でもいいから夫婦にボーナスを出そうという話になったのです。

 そのため何かにつけて「使ったつもり貯金」をこの缶詰め型貯金箱に入れ始めたのです。この貯金箱には原則として二人で入れます。「お酒を飲みに行ったつもり」「外食したつもり」のようなものから、今年最大だったのは長年使っていた洗濯機が故障して買った電気屋さんにトラックに積んで持って行ったところ、コンピューター管理したデーターで保証期間と分かって無料修理した際の「洗濯機を買ったつもり」でした。

 私たち夫婦は若い頃は喧嘩もしましたが、今はそんな馬力もなくお互いがいたわりながら生きれるようになって、格好良く言えば見てくれはおしどり夫婦のような暮らしをしています。多分妻の手のひらの上で転がされているに違いないのですが、それでも12月のクリスマス前後の大安吉日に開けるのを楽しみにしているのです。

 今年は少し早いものの12月16日の日に御開帳しました。今の机の上を全て片付け二人が向かい合って座り缶切りで私が開けるのです。テレビだと音楽でも欲しい一瞬です。

 中から出てきたお金は小さな穴から入れるため全てのお札は8つ折りにされています。それを一つ一つ広げてしわを伸ばすのですがその姿はまるで強欲夫婦の小銭勘定といった感じでした。開ける前に妻と私がそれぞれ金額予想を言うのですが、いつも多いほうがいいと心の中では思いながら、二人とも少なめの予想を言い合うのです。結果は当たったこともないのですが、計算してみるとまあまあの金額でした。私たち夫婦はこのお金で正月の準備と一泊二日程度の小旅行を計画します。家に90歳になる親父がいるので遠出の旅行はご法度とばかりに小さな旅行をこれから正月休みに二人で企てるのです。

 ささやかな夢の貯金箱は今年も私たち夫婦にささやかな夢を与えてくれました。早速今日は外出の帰り道ダイソーに立ち寄って僅か100円で少し大きめの貯金箱を買って帰ろうと思っています。来年もこの貯金箱がいっぱいになりますようにと、二人で今日からせっせと節約生活をします。


  「ささやかな 夫婦二人の 貯金箱 今年も夢の ボーナス入る」

  「100円の 投資で買った 貯金箱 缶切り開く 中からザクザク」

  「嬉しいね 使ったつもりの 節約で 何処へ行こうか 夢まで買える」

  「後ひとつ 増やして夢は 外国か? 何時になるやら 孫と競争」

 

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shin-1さんの日記

〇私のディナーショー?と勘違いしてしまいました

 昨日は愛媛新聞社事業部主催の食談会に招かれました。食談会に招かれたのはこれが2回目なので、前回のような緊張感もなくリラックスした気持で卓話に臨みました。食談会は午前11時30分から私のようなゲストスピーカーが30分卓話を行い、その後1時間30分程度食事をしながら楽しいおしゃべりをする社交場なのです。昨日の会場は愛媛調理師専門学校の6階にある「にこら」というお洒落なレストランでした。会場に入ると失礼ながら殆どが中年の女性で、男性は2~3名程度でしたが、やはりここへ来るような中年の女性は身だしなみもよくすっかり落ち着いた雰囲気でした。

若松進一ブログ (メインテーブルには卓話をした私の講師席が用意されていました)

 私の話は「美味しい話」というタイトルでした。まあ美味しい食事に付け足し程度の、刺身の皿にに乗ったつまもののような料理や参加者の引き立て役ですから、そんなに気張ることもなく思いつくまま話をさせてもらいました。

会場には6つの円卓が並べられ、各席10人ほどが着席していましたが、お世辞にも私のファンだという人もいて、顔見知りも何人かいました。中には20年前に私の話を聞いてハガキを交換したオールドファンもいて驚きました。

私の卓話が終わるといよいよ食談です。この日の料理は「愛あんるクチーナ」というタイトルで、クチーナはイタリア語で「料理」を意味する言葉だそうです。次々に運ばれてくるイタリア料理どれも吟味された愛媛の食材が使われ、見た目も味も最高でした。

若松進一ブログ (Antipasuto〈前菜盛り合わせ〉・炙りフグと根菜のサラダ仕立て・合鴨胸肉のスモーク、吉田のみかん添え・ほうれん草のアンチョビのピッツア)
若松進一ブログ (Pesca〈魚料理〉・瀬戸内魚介の港町風煮込み・イカ墨リゾット添え

 この他にもCarne〈肉料理〉・奥伊予地鶏のジャンボネット、木の子のニョッキ添えなど、美食に酔い知れました。

その後一階の喫茶に降りてデザートを楽しみながら会話を楽しみました。

若松進一ブログ(私の席の皆さん)
若松進一ブログ(楽しい食事のひと時)
若松進一ブログ(楽しい会話のひと時)

 今日も沢山の人と深くて広いご縁をいただきました。また今まで食べたこともないような美味しい食事とおもてなしの心をいただきました。世の中不況だ人間不信だといっていますが、こうしたつかの間ではあっても心のゆとりを持てば、楽しい生き方ができるのです。本当の豊かさとは何かを感じさせていただいた2時間でした。


  「いい人に 今日も出会って ほのぼのと 人生楽し 食談弾む」

  「素材よく 腕もよくって サービスも 心こもって 満足でした」

  「また会おう 約束言葉 交わしつつ 三々五々の 別れ惜しんで」

  「いい話 何処で聴いてた 店長の 帰り際なる 言葉いドキリ」

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