shin-1さんの日記

○眠れない夜

 昨晩は孫たちが3日間も逗留してその対応に疲れていたため、夫婦が早めに床に着きました。早めといっても妻は台所の片付けや洗濯物もあるので10時半を回っていましたが、私は10時に床に入って寝ながらテレビを見ていたのです。やがて妻が電気を消し夢の世界へ入りましたが、あることが気になって2時頃に目が覚め、疲れているはずなのにどうしても眠れないのです。

 あることとは友人の病気のことです。昨夕知人がやって来て外の夕観所の椅子に座り色々な四方山話をしました。その知人の従兄弟に当る人は私の友人というより、私より三歳年上の先輩なのです。私は若い頃青年団に入団していましたが、その方も青年団で団長を勤め、一歩先行く人として私をリードしてくれました。その後も仕事柄酒を飲んだり交流したりしていましたが、最近健康が優れないというのです。先日会った時にも小柄な体が少し太り気味になったいたので尋ねると、リュウマチの治療で飲んでる薬の副作用だと聞いたのです。妻もよく知っている人なので妻ともその話しを台所で食事をしながら話し案じておりました。

 従兄弟の知人の話によると最近体調が思わしくなく、抗がん剤を打ったというのです。リウマチの治療とばかり思っていたのに抗がん剤とは驚きです。その友人はもともと酒は弱いのですがタバコはめっぽう好きで、私が「陸蒸気」とあだ名をつけたほどヘビースモーカーでした。そんなにタバコを飲んだら今に肺がんになるぞ」と注意しても「タバコを止めるくらいなら死んだ方がましだ」とか、「タバコを吸って死ねるなら本望」と強がっていました。しかし最近「タバコを止めたい」と何度か思い挑戦しているようでした。禁煙パイプを口にくわえ、いらだたしそうにしている姿を見て、「命が惜しくなったの?」と茶化してみたりしました。でも長続きせず、最後の言葉は「タバコを止めれないなんて可笑しい。私はもう7回も止めた」とまるで落語や漫才のネタのような話しを笑ってしていました。

 彼は今農業をやっています。長い間勤めに出て家を留守にしたため、農業はもっぱら奥さんがやっていました。その奥さんも少し健康が優れなくて最近は奥さんに代わって農業をしていて「俺は最強の熟年農業後継者だ」と、すっかり日焼けして逞しくなった腕をまくって酒席で胸を張って豪語していました。その彼が抗がん剤とはと思うと、人毎ながら顔がちらついて眠れなかったのです。

 今朝は午前3時という早めに起きました。そして彼宛にハガキを一枚したためました。病気のことなど書けないので、近況の報告をしてさりげなく近々会おうと書きました。元々人とのコミュニケーションは苦手な方でしたが、私には家族のこと、人生のこと、これからのことなど、何でも話してくれたので、気分を一新すべく会いたいとおもっているのです。

 身近な人が病気になったり、私より若い人が死んだりと、加齢とともに親父が毎日愚痴る気持ちが少しずつわが身に降りかかってくるようになり、どこか気持ちが湿りがちになるのですが、人を思いやる気持ちだけは大事にしたいものの、自分自身は健康に生きるために、常に明るく前向きに生きてゆきたいと思っています。

 知人の健康回復を心より祈っています。

  「抗がんと 聞いてはてさて 困ったな ハガキしたため 一度会おうと」

  「無理をして 農業するな 愚か者 いってやりたい だけどいえぬな」

  「人のこと 言えぬわが身で ありながら 人を気遣い 眠れぬ夜を」

  「これからだ 楽しいはずの 人生を 楽しく生きろ われも生きるぞ」

 

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shin-1さんの日記

○勉強に来ました

 かつてまちづくりセンターに出向していた西予市の三好誠子さんから電話があり、人間牧場で勉強会をしたいので伺いたいと申し出がありました。市役所の女性職員だけで勉強会を立ち上げたらしく土曜日の休みだというのに午前10時に総勢6人でやって来ました。自己紹介をしてから始めましたが、旧城川町や旧三瓶町、旧宇和町などの役場職員として採用され、その後の合併で市役所職員になった人が殆どで、合併後4年が経ちましたが、話のあちこちに合併前と合併後の戸惑いや、ぎこちなさを感じつつ、私が色々な話しを1時間30分ほど話ました。

 この勉強会は差し当たりのテーマが観光とのことでした。観光やまちづくりは私のオハコなのですが、先日まち並みゼミプレシンポで西予市にお邪魔した時もお話したように、西予市の観光資源は正直手では数え切れないほど有り余っているのです。それを共通のテーマでくくるとかなりいびつな観光になるので、昭和30年の町村合併促進法で合併してからどの町も五十年という長きに渡って培った観光資源を点として、点と点を線で結び面的集積を図っていくべきだと助言をしました。昭和の大合併は旧町村の色を混ぜ合わせて混合色を作ろうと努力しましたが、平成の大合併は旧市町村の色を混ぜずに包含する方が得策だとも話しました。

 それにしても、女性だけで勉強会を立ち上げることはかなり勇気のいることです。近代日本になったとはいえ未だに男性優位の社会が多く、特に田舎にはそのことが顕著なようです。これから勉強会や勉強会で出た意見はかなり厳しい抵抗が予定されるでしょうが頑張って続けて欲しいと願っています。

 三好誠子さんは私が「ミレニアム200年その日私は」という限定10冊の手づくり本を出版したとき、ちょうどセンターに出向していて知り合いました。そしてプライベートなお願いをしてその本の校正を一年間に渡って毎月やってもらいました。2000年には毎日A4一枚の原稿をタイトルをつけて書きました。一ヶ月の原稿が溜ると三好さんに送りまとめて校正して送り返してもらい訂正をしました。私の訂正ミスもあって誤字脱字も時折見られますが、お陰様でその本は見事に校了し、私の手づくり綴じで世に出ました。その当時は前年に「昇る夕日でまちづくり、後年に「今やれる青春」いう2冊の本を出していますから、3年間で三冊もの本を出したことになるのです。今は思考も働かずあの頃のように筆は進みませんが、それでも何とか進化は出来なくても退化だけは防ごうとブログに挑戦しているのです。

 人のご縁とは不思議なもので、こうしてあの時の深いご縁がまた縁になるのです。三好さんはこれまで2回人間牧場へ来ていますが、絶えず次なる人を連れてやって来ます。自分の育てたい人を意識して育てないと人づくりは出来ないものです。私がそうであったようにフライと出来るまではしっかりと育てなければなりません。やがてフライと出来るようになったら自律・自立へと導けるのです。

 西予市の綺麗どころの来場で人間牧場は初秋ながらコスモスにも似た花が咲いたような雰囲気になりました。この日の研修をきっかけに、新しい人生や新しい発想で仕事に取り組んで欲しいと思います。

  「コスモスの 花が咲いたよ 牧場に そんな錯覚 するよな女性」

  「ミレニアム 二千年期し 執筆の 本を校正 あの時世話に」

  「早八年 過ぎたか互い 若かった 一昔前 そんなになるか」

  「空青く 白雲ポッカリ 流れ行く 初秋の風が 優しく頬に」  

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shin-1さんの日記

○孫に好かれて

 この週末は孫二人を連れた娘家族がやって来て、賑やかな3日間となりました。5歳になるブログ常連の朋樹はもう完全に自立していて、大人の私と話や行動の波長が随分合うようになり、色々なことに挑戦できるのです。昨晩は妻や妻の友人と一緒に夕やけコンサートに出かけ、最前列で2時間もしっかりコンサートを見学していました。帰り際にはアンコールに応えて歌った「ギュッとして・・・・」という歌を口ずさんで帰る有様です。

 昨晩コンサートから帰えり際、私の車で帰るという朋樹と暗い夜道を歩きながら、賑やかな初秋の虫の音を楽しみました。森林組合前に止めていた私の車のフロントガラスに大きなバッタが留まっているのを朋樹が見つけました。ライトを点けて車はそのまま発進しましたが、バッタは必死になってガラスにしがみついていました。朋樹はそのことが気になって車に乗ってからも少し興奮気味で、振り落とされないバッタに「頑張れ、頑張れ」と大きな声援を送りました。結局そのバッタは家へ帰るまでフロントガラスにしがみついていたのです。わが家へ到着するなりそのバッタは余程疲れたのか、あっさり地面へ飛び降り何処かへ去って行きました。

 風呂に入ると風呂場の中にコオロギが一匹迷い込んでいました。朋樹は大騒ぎをして追いかけていましたが、私が捕まえて外に出してやりました。歯を磨き寝る準備が出来ましたが、興奮気味の朋樹と私は妻の用意した

二つの懐中電灯をそれぞれ持って、暗い庭先に出ました。しっとりと夜露の降った草むらを、懐中電灯で照らしていると何やら怪しげな物体が灯りの向こうに見えました。かなり大型のバッタのようで、体や羽根を震わせた鳴き声は、懐中電灯の灯りで一瞬消えたように見えましたが、その後はまた鳴きはじめ、朋樹は感激の様子でした。昼とは違い夜にも楽しみ方はあるものです。

 「僕は男だから男同士でおじいちゃんと寝る」といって私の布団で寝ることにしました。私は朋樹にその日のミスたちとの出会いや出来事を創作話にして話してやりました。朋樹は始めと終わりには必ず拍手をしてくれるのです。おじいちゃんと孫の息もぴったりで楽しい夜となりました。

 一方孫尚樹は5月生まれですから一歳三ヶ月が過ぎ、ヨチヨチ歩きが出来るようになって、盛んに外へ連れて行ってくれとせがむのです。まだ言葉は「ワンワン」しかいえませんが、かなり自己主張が強くなって、「ワンワン」といいながら犬を飼っている近所のお家の方向を指で指すものです。今朝も6時前には起きてスタンバイOKです。ぎっくり腰の癖がある私は用心をして抱っこするのですが、何処で誰に教わったのか今は「好き好き」ポーズといって首に手を回してギュッと抱きしめるのです。このポーズでおじいちゃんはメロメロです。母親の娘はわが家に来るとのんびりゆっくりを決め込み、私と妻がその分疲れます。

 今晩も妻の作ったコロッケや餃子、野菜やお米などを例の如くどっさり車に詰め込んで帰って行きました。まあこれがしあわせというものでしょうか。

 お陰様で昨日は朝から晩まで絶え間ないお客様と孫たちに翻弄されてブログを書くことさえ出来ない空白の日となってしまいました。愛読者の皆さんご免なさい。

  「孫が来る 朝から晩まで 振り回し 疲れはしたが 何処か幸せ」

  「孫朋樹 誰に似たのか アウトドア 暇さえあれば 虫を追いかけ」

  「疲れたね 妻は朝から 休む間も なきに働き 夜はヘトヘト」

  「土日来る 孫に翻弄 わが家では 土日来るのが 少しおっくう」

 

 



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shin-1さんの日記

○エコー検査

 「若松さん、次回はエコー検査をしましょうね。ご飯を食べないで来て下さい」と医者に言われ、9月5日の午前10時をパソコンに入力されました。「ああ、2ヶ月後か、ずっと先の話だなあ」と思っていたら、2ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいました。昨晩自分の予定表と居間にかけてある大きなカレンダーに書いてある「定期健康診断受診日」と言う文字を見つけ、夜9時以降は食べないよう注意をしていました。最近はえひめ地域政策センター清水研究員の食育に関する影響もあって、まず9時以降は余程のことがない限り食べないようにしています。そもそもは舞たうんの食育に関する特集号で、私たちがこれまで信じて疑わなかった常識がいかにあやふやかを思い知らされました。

 清水さんから教わったことをメモにして暮らしの参考にしています。

  病気知らずの3原則

 第一の原則  「命の水を豊富に含む食べ物」を食べること

 第二の原則  「食べるにふさわしい時間帯」に食べること

 第三の原則  「正しい組み合わせの原則」に従って食べること

  常識破壊の「超健康革命」10ヶ条

 第1条  バランスのとれた食事をとらないようにすること

 第2条  朝食はしっかりとらず果物だけを食べるようにすること

 第3条  果物は毎日たっぷり食べて血糖値を正常に保ち血液をさらさらにする

 第4条  牛乳は骨粗そう症の原因になるので飲まないようにすること

 第5条  肉を食べるときは山盛りの野菜をいっしょに食べること

 第6条  ファーストフードは死に急ぎたい人のための食品なので利用しないこと

 第7条  油はできる限り使わないようにすること

 第8条  白砂糖、薬、サプリメントの摂取には十分注意すること

 第9条  病院にはできるだけ行かないようにすること

 第10条  適度な運動を励行し、必ず十分な睡眠をとること

 この話しを聞いた時、第1条、第2条、第4条は嘘だと思いました。だって日本の常識ではバランスの取れた食事を取りなさい、朝飯はしっかり取りなさい、牛乳はカルシュームだから一日一本飲みなさいと教わったし、そう心がけてきたのです。でも牛乳が本当にいいのであれば、アメリカなどの酪農大国では骨粗そう症など少ないはずだのに、ワースト3は酪農大国だというのです。なるほどと信じがたい話を信じようと努力していますが、未だに信じられないのです。

 さて今日の健康診断は前回の血液検査の結果と、今日のエコー検査結果を元に先生からお話がありました。血液検査の結果は肝機能が前回より少し改善、エコーも問題なしという結果でホッとしました。

 エコー検査の時、検査技師が研修生のような方で、色々いじくっていましたが私の体に異変があるというのです。最初は小声で話すその話しを聞きながら不安になりましたが、それが「胆のうを取ったため」と自己申告して納得のようでした。その後顔見知りの検査技師がもう一度しっかりエコーで検査し、異常がないと結論付けました。やれやれです。

 総合判断で異常なし、「あと2ヶ月は太鼓判」と何時もながらのジョークを飛ばした先生と、次は11月7日午前8時で予約を取り、支払いを済ませて病院を出ました。急に腹が減りましたが、わが家へ一直線、まず名残のスイカで腹を充たしました。「命の水を豊富に含む食べ物」だからです。

  「二ヶ月に 一回必ず 病院で 診察受けて 二ヶ月保証」

  「9時以降 食べない誓い 守りつつ 体の調子 自分で守る」

  「牛乳は ホントに粗しょう 効かぬのか? 未だ凡人 分らぬままに」

  「日本の 常識誰が 言い出した 信じることは 恐ろしいもの」

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shin-1さんの日記

○ニコ・ピン・コロの人生設計

 愛媛県で一番大きな街は何といっても県庁所在地の松山市です。その昔は四国の玄関といえば高松で、様々な国の出先機関や四国支店が軒を連ねていました。しかし宇高連絡船が廃止され、瀬戸大橋が架かってから物流の流れががらっと変わり、今や四国最大級の街は松山市となったのです。平成の大合併で北条と中島を加えて人口も51万人となり、いい街、住みたい街の条件を着々と整えつつあるようにも見えるのです。しかし夏になると瀬戸内海に面した少雨適温が災いし、決まったように水不足に見舞われ、多少の弱点をさらけ出しているようです。渇水対策本部という腕章をつけて記者会見に臨む市長さんからは、「水さえあれば」の嘆き節も聞こえそうですが、やはり国を治めるものは水を治める」の例えどおり、渇水に強いまちづくりをしっかりやって欲しいと思うのです。河辺ダム構想も途中で頓挫した苦い経験もあるだけに、市民も節水意識をしっかり持って欲しいと願っています。昨日訪れた場所のトイレにも「節水を呼びかけるステッカーが「これでもか」といわんばかりに貼ってありました。「節水とは水を使わないのではなく、水を無駄にしないのです」というステッカーは的を得ているようにも思えました。

 さてさて松山市は私にとって、いつの間にか空気のような存在の街になっていることに気がつくのです。殆ど毎日無意識のうちに松山をフィールドに活動し、今では松山から双海へ帰っているような錯覚さえするのです。

 そんな松山市の生涯学習振興財団から講演の依頼が舞い込みました。生涯学習講座の二部(一部は5月~7月)つまり二学期が9月から開講するにあたり、そのトップを切っての講演なのです。会場は男女共同参画推進センター、国際交流センター、新玉公民館が同居するコムズでした。会場は立派で、あらかじめ申し込んでいる人たちが三々五々集まって、会場は満席の状態でした。

(講義前の緊張感漂う会場です。使用前)

(休憩中に写真を一枚撮りました。使用中)

 財団から示された私の話すテーマは、私のホームページで紹介している講演内容一覧表から取った「ニコ・ピン・コロの人生設計」でした。このテーマでは県外などで話した経験は何度もありますが、県内ではそれほど多くの実績はありませんが、要は人生の生き方ですから楽しいお話に終始しました。会場には知人友人も多く、さすがにこの歳になるとステージに上がっても上がることなく参加者の顔が見えるほど落ち着いて話せるのですから、われながら大したものです。(笑い)

 講演が終わって友人が私の控え室を訪ねてくれました。「若松さん、久しぶりにお会いし話が聴けて嬉しかったです。あなたの話は何度も聞いていますが、中身が濃くて、しかも新しいねたが沢山詰まっていて、相当進化していますね」とお世辞をいって持ち上げてくれました。ついでに話した二宮金次郎の話しに興味があったらしく、手持ちの大学の一節をコピーしてくれと頼まれ、担当者が一階の事務室へ走りました。

 また帰りのエレベーターを待っていると、帰り支度したおばちゃんたちが何人も集まってきて、楽しいお喋りをしたり、名刺を差し上げたりしました。その折、私の書いている自著本と、二宮金次郎の読んでいる本についての問い合わせがあったので書いておきます。

 二宮金次郎の読んでいる本「大学」には次のような漢字が書かれています。読み方は( )内です。

 一家仁   一國興仁 一家譲 一國興譲 (一家仁なれば 一國仁に興り 一家譲なれば 一國譲に興り)

 一人貧戻 一國作乱 其機如此 (一人たんれいなれば一國乱をなす その機かくの如し)

 意味は「一家のうちが仁の道を行えば、その国じゅうの人々が仁の道を進んで行うようになり、これに反して尊貴の位にある君主が、自分の利益だけをむさぼるならば、その国じゅうの人々は争いを起こすことになる)というのです。味わい深い言葉なので今一度読み返してみて下さい。

  「松山と 言う名の土地で 活動し 今じゃ殆ど ここで暮らして」

  「満席の 松山市民の 集会で 乗せられ話す 私も元気」

  「演題が ニコ・ピン・コロと 面白い 興味津々 寝る人もなく」

  「金次郎 何の本読む 尋ねたら 誰も知らない だから教える」   

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shin-1さんの日記

○子どもたちの遊び

 今の子どもと私たちが子どもの頃の遊びとが大きく違うのは、無と有といった表現がぴったりするのかも知れません。無の世界は何にもない中で遊び道具や遊び方まで子どもが創作したり考えたりしていました。一方有の世界はあるものを使った与えられた遊びのような気がするのです。

 私たちが子どもの頃は野球がしたくてもボールもバットもグローブもありませんでした。ゆえにウエスと称する機械をいじる時に使うボロ布を丸めて凧糸でグルグル巻きにすると立派なボールが出来たのです。バットは竹薮に竹を切りに行き適当な大きさの真竹を見つけて適当に切ると、軽くて立派なバットが一本出来上がるのです。グローブはないから素手でした。放課後の学校の運動場は格好の遊び場でしたが、近くには漁村だったため砂浜が広場でした。砂浜は傾斜があって海に向って打ったり投げたりするとボールの回収が不可能となるため海を背にして野球をやりました。でも時折バックホームのボールが海に落ち、あえなくゲームセットだったことも覚えているのです。

 野球のルールは適当で、人数に合わせて3人だったりすると三塁ベースを作らず、また海にボールを落したらアウト、ボウルを走塁者に当てるとアウトなどの臨機応変でした。たまに女の子後入ると女の子はバットを使わず素手で拳または平手で打ったりして楽しみました。まさに道具も遊びも無の中で生み出していたのですから驚きです。

 子供用の自転車などは皆無で、大人の自転車を借りてきて、乗る練習を転んでも転んでもやりました。怪我も多く擦り傷や生傷は絶え間がなく、余程のことがない限り消毒したり包帯を巻いたりなどはせず、ヨモギを手の平でツバをはきかけて揉み、傷口に当てただけでいつの間にか治っていました。乗り物もないので一日中走ったり歩いたりして、夕方にはヘトヘトになって家に帰っていました。今の子どもは直ぐに疲れたと音を上げますし、学校の朝礼中でもバタバタと倒れるのですから、体力はないのだと思います。

 少子化で子どもの数が減り、子ども社会そのものが存在しなくなりました。ひょっとしたら私たちの世代以降は子どもの自治活動など知らないで育ったのではないかと思うのです。子ども自身が子どもとしてどう生きるか本能的に学んだ私たちが子どもの頃の社会はもう日本には戻って来ないでしょう。

 最近若いおじいちゃん、おばあちゃんが目立ち始めました。五十代でおじいちゃん・おばあちゃんになるのですから、前々期高齢者といっても過言ではない若いおじいちゃんやおばあちゃんが、暇も金もあって孫を甘やかせる時代は終わりにして、孫育てに一役買って欲しいと思うのです。例えば私は現在63歳ですが、妻が私のことを孫の相棒と言うほど孫は私になつき、私も孫と自然派的な遊びを通して様々なチャレンジをしています。幸い人間牧場というフィールドを持っているため、再三再四やって来て、楽しい遊びをしています。それは孫にとっても必要な情操教育だと思っています。残念ながら孫の親は働く事に熱中しなければならない年代です。そのカバーをこれからも後に続く孫二人にも深く関わってやりたいものです。

 明日の夕方孫は娘に連れられてやって来ます。さて今度はどんな創作的な遊びを教えてやろうか、今から楽しみです。相棒よ早く来いです。

  「創作の 遊びも知らぬ 孫達に 前々期高齢 手取り足取り」

  「子どもには 走る歩くが 常識だ 楽すりゃ今に 手足動かず」

  「虫の声 賑やか聞こえ 秋の夜 孫と一緒に 鳴き主探す」

  「孫植えた カボチャ収穫 嬉しげに 明日はカボチャの 煮物食べるか」


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shin-1さんの日記

○田舎で猪・鹿・猿は極悪動物

 猪・鹿・蝶といえば花札遊びのヤク札で三枚そろうと特別な加点がされますが、猪・鹿・猿といえば過疎の進んだ田舎では極悪人ならぬ極悪動物として厄介者扱いされ、お尋ね者なのです。一昨年20ヶ所の集落めぐりをした高知県四万十市西土佐では、この三種類動物の農作物被害に悩まされ、人間の存在さえも危ぶむ勢いだという山村の悩みを行く先々で聞きました。

 元々人間と他の動物はそれぞれの住処を持ち、住み分けて長年生きてきました。時折お互いがお互いの領域に侵入すれば人間は動物を威嚇したり殺したりしましたし、動物も人間に必死になって襲いかかったのでしたが、それは余程のことがない限りなくて、山里には平和な暮らしがありました。ところが人間の暮らし方の様子と自動的に餌を生み出していた自然の様子が変わり始めて、人間と動物の関係に微妙な変化が見られるようになったようです。

 動物の言い分は言葉が通じないので聞いたことはありませんが、人間の言い分とはかなりの開きがあることは事実です。人間も動物も生きることと種の保存をしなければならないので、そのせめぎ合いが今の田舎の動物出没騒動だと思うのです。

 猪も鹿も猿も道具を使うことが出来ません。唯一の道具は手と口と足と体です。しかし人間が太陽の出ている昼に活動しているのに比べ、動物たちは人間が寝ている夜の活動が得意なため、滅多に顔を合わせることもなく、猪・鹿・猿はどちらかというと目に見えない敵なのです。

 動物の被害を恐れる人間は、自分の農作物を守ろうと必死に威嚇します。山里に空しく響く爆音はまるで人間の嘆き節のような感じさえするのです。また網や波型トタンで垣根を作り、動物が入らないようにしますが、知恵のある猿にはこんなもの一飛びで越えるのです。最近は国・県・市町村の助成もあって電気柵張り巡らしている地域を見かけますが、敵も猿(笑い)もので入る時と出る時の電気ショックを覚悟で柵内に入り安全地帯になった場所で悠然と収穫物を食べる有様で、これ以上は柵(策)(笑い)がないとぼやいていますが、後はゲリラ戦に強い自衛隊に出動してもらう以外生き延びる道はないのではないかと思われるのです。

 三日ほど前の日曜日、人間牧場の近くに住む人から一本の電話がかかってきました。人間牧場の中を通っている道を通ってお墓参りに行ったそうです。その折何やら黒い物体が目の前の草むらをガサゴソして通り過ぎたらしく、気になって牧場の芋畑へ行って見ると、網囲いを破って猪が侵入して面積の半分も食べているようだというのです。私は出張の予定が立て込んでいて現地へ赴くことが出来ないため、日曜日で連絡が取れなくイライラしながら、共催している教育委員会の職員に電話連絡して、やっとの思いで柵の修復をしてもらいました。少し残念な気もしますが、またも私たち人間は猪との知恵比べに負けてしまったのです。

 猪にインタビューしてみました。(笑い)、開口一番「獲ったどー」と誇らしげに雄たけびを上げました。インタビュアー「猪さん、あなたは何で人の嫌がることをするのですか。これは人間の子どもたちが命のプロジェクトリレーと称して、種芋から芽を出させ、大切に育てているものなんですよ」。猪「私も本当はこんなことしたくはないのです。でも8匹も生まれた瓜坊たち子どもは育ち盛りで、食欲が旺盛なため、自然の食べ物では足りないのです。生きて行くためには止むに止まれることですので、どうかお許し下さい」。インタビュアー「・・・・・・・・」。

  「人間と 猪鹿猿の 知恵比べ 軍配どちら 誰が決めるか」

  「山里に 空しく響く ガス空砲 慣れりゃ怖くも 何ともないよ」

  「入りと出で 都合二回を 我慢すりゃ 中は天国 食べ放題だ」

  「さて次は 毒殺以外 ないかもと ひそひそ話 シシも側耳」

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shin-1さんの日記

○生徒からの感想文がどっさり届く

 私は講演に行く機会が多く、相手も北は北海道から沖縄まで、しかも揺り篭から墓場までなんて冗談で言うほどバラエティに富んでいて、子どもからお年寄りまでが対象です。行く場所や対象によっても違いますが、時々私の講演内容を事前の了解を得てビデオで撮影しDVDにして送ってくれたりするのです。浅学非才な私の話など何の役にもたたず、早く記憶の彼方に消してしまいたいような気持ちですが、相手にとっては大事な記憶らしく、そのDVDを見聞きした人が、「うちでも是非お話を・・・」てなことになることだってあるのですから世の中は分らないものです。

 中学校や高校になると、授業の一環で聞くものですから、必ずといっていいくらい、感想文を欠かされるようですが、几帳面な先生はその感想文をコピーしてわざわざ送ってくれるのです。実はこれが意外と役に立つのです。人間は自分で考えたことを、相手もそう思うであろうと話すものです。ところがこちらではそう思っていても、聞く相手はそう思っていないし、何気なく話した話が子どもの心に残っていたりするのです。

 8月23日インスパイアリングレクチャーに出かけた新田青雲中等教育学校の石丸和弘校長先生から今日、生徒たちの感想文のコピーがどっさり届きました。その数50枚以上です。今時珍しいB5版一枚256字に短くまとめられた感想文はとても読みやすく、失礼ですが外出から帰ったそのままの立ち読みで、一気に読んでしまいました。アドリブで話した1時間の話なので何を喋ったのかさえも思い出せませんが、生徒の感想文には私の話しを聞いた記憶が書かれているのです。

 宇和島水産高校の練習船でオーストラリアまでマグロを獲りに行った帰りの大時化の海からの生還から学んだ命の大切さやふるさとの有難さは生徒たちに受け入れられたようでした。

 青春とは心の若さだから、若い間に仲間、主張、ふるさと、感動という四つの道具を手に入れ、それを磨いて欲しいと話しました。この四つの道具は今も私の大切な宝物です。

 人間は生まれた時はまるで冷蔵庫から取り出した小さな氷のようにみんな同じ大きさをしています。本を読み、人の話しを聞き、知らない場所を見ることによって知的エネルギーが貯えられ大きな氷に成長してゆくのです。ですから本を読みなさい、人の話しを聴きなさい、知らないものを見なさい、そうすれば潜在能力は必ず大きくなるのです。しかしもっと大事なことは貯えた知識を智恵にして使わなければ何の役にもたたないのです。そのためには書こう、喋ろう、実践しよう。

 私は一日三枚のハガキを一年間休むことなく23年も書いています。また私は音楽が苦手でしたが、毎日練習してハーモニカが吹けるようになりました。今では160曲以上吹けるのですから驚きです。

 生徒の感想文の中にはこんな私の話のくだりが随所に読み取れました。私の一度の話で生徒たちの心や行動が変わるなんてことはないと思いますが、インスパイアリングレクチャーで聞いた色々な人の話しを参考にしながら強く生きて欲しいと願いました。さて私は次の人を選ぶ権利を与えられました。意中の人はいますので学校の許しを得てバトンを渡したいと思っています。

  「送られし 感想文を 読みながら 赤面したり 納得したり」

  「読みやすい 綺麗な文字の 感想文 送ってくれた 校長思う」

  「二学期制 どこが区切りか 分らぬが 六年学ぶ 今こそ男時」

  「少しでも お役に立てて ホッとする 私の後は 誰に頼むか」 


 

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shin-1さんの日記

○卒寿を迎えた親父

 還暦・喜寿・米寿と人生の節目を何とか通り越した親父が難関である卒寿を無事迎えました。本当はそれらの節目は数え年で迎えるので、既に昨年迎えているのですが、9月1日の誕生日で正真正銘の満90歳になったのですからお祝いです。親父は大正7年9月1日に生まれています。なくなった祖母の証言だと、昔は乳幼児の死亡率が高くて、誕生しても2年間は戸籍を入れなかったそうで、親父の誕生日は入籍した日となっていて、誕生日とかなりの開きがあるようですが、祖母も亡くなった今ではその詮索も叶わず、今は戸籍に書かれた誕生日をを信じる以外ないので90歳にしておきます。

 親父は私が高校を卒業して専攻科に進むと決まっていた若い頃、突然ガンにかかりました。鼻ガンというかなり難しい難病でした。顔の形が一変するほど頬骨とあごの骨を取り、手術後3ヶ月間は喉に開けた穴から流動食を入れていました。見舞いに駆けつけた集落の殆どの人が、「あの様子じゃあ正月が越せない」と噂をしていました。勿論医者も長くて1年と本人には知らせず、こっそり私や母に告げていました。食事が喉を通るようになると毎日家族の誰かが親父の好きな「鯛の刺身」を入院先の県立中央病院に差し入れしましたが、何がどう良かったのか、同じような病気で入院した他の患者が次々死んで行くのに、親父は主治医も驚くほどの回復をみせ、無事退院しました。しかし目を支えている台座の頬骨を削っているため片方の目が見えず、片目ゆえ遠近が分らず何度も転んで足や手には無数の擦り傷が出来ましたが、病気は順調に回復し1年、3年。5年、10年という再発の目安もクリアして、何と手術後45年年間も生き延びているのですから驚きです。

 数年前おやじの手術をしてもらった主治医の佐藤先生にロータリークラブの例会でお会いしました。例会の卓話を頼まれてお話に行きましたが、私と親父のことは先生はよく覚えておられて、不思議なご縁や親父のガンの完治についてもお話をしたものです。

 親父は12人兄弟の長男に生まれ、子どもの頃から漁師として働き続けてきました。また2度も戦場に赴き辛酸をなめています。昔はどの家も貧乏で、ご多分に漏れずわが家も赤貧洗うが如き貧乏だったようで、若くして亡くなった祖父に変わって長男の親父は全ての兄弟を嫁がせたり独立させたしました。

 70歳で生業の漁業を辞めて陸に上がるまでは腕のよい鯛網漁師として活躍し、陸に上がってからは母と二人でつつましやかな隠居生活を営み、生来の器用な腕を生かして船の模型を造り、わが家の敷地内に私設海の資料館「海舟館」まで設置して多くの人を迎え入れているのです。

 親父は今も私たちと同じ敷地内に一戸建ての隠居を構え味噌汁の冷めない距離で暮らしています。90歳になったとはいえまだまだ元気で、その元気さは7キロ先の診療所まで自転車で往復する健脚ぶりで、周りの人を驚かせています。

 親父は仕事しで毎日欠かさず家の横の家庭菜園に出て野良仕事をしています。几帳面な性格そのままに家も菜園もきちんと片付いていて、野暮な性格の私はいつも叱られています。

 多少耳が遠いだけの親父で、腰が悪いとか色々いっていますが、まあ元気で卒寿を迎えたのですから親父には感謝しなければなりません。

 問題はこれからです。今のところ親父の食事の世話は妻がしていますが、やがて足腰が弱ると寝たきりになることも覚悟しなければなりません。その予防として毎朝往復2キロの散歩を欠かさないようですが、最近はさすがに「歩くのが疲れた」と弱音を吐くことがあります。それでも歩かないと寝たきりになると思っているのか、今朝も元気に散歩から帰って、朝飯はパン二切れですから食欲も旺盛です。

 親父は身体障害者なので扶養していますが、私の所得税はいつも親父のおかげで減税で随分助かるのです。私の車も親父の病院通院に使う回数が増えてきました。そろそろ身障者用のステッカーを貼らなければならなくなりました。

 いると口うるさいように感じる親父ですが、何時までも長生きして欲しいと願っています。

  「長生きが 信じられない ほど生きて ガンを克服 卒寿迎える」

  「親父まで 生きるとすれば 先長く これからどんな 生き方するか」

  「九十の 年輪刻み 生きてきた 名もなき等し 親父に勲章」

  「喜寿米寿 卒寿と生きて さて次は 白寿目指して 頑張れ親父」 


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shin-1さんの日記

○月に一度の男前

 私は物心ついてから高校を卒業するまで、頭は丸刈りで通しました。時代背景がそうだったからかも知れませんが、子どもは丸刈りというのは当たり前だったので、何の疑いもなく丸刈りにしていました。頭の髪を伸ばそうと思ったのは高校を卒業した時で、当時は石原裕次郎などに憧れたこともあって、若者の殆どが短めの角刈り風だったようです。私はそれ以来髪を伸ばしたといっても短めの角刈り風を貫き通してきました。妻は少し伸ばしたらと勧めてくれたこともありましたが、結局は角刈り風の頭が自分には似合うと思い込んでいたのです。

 髪が長いと髪が伸びても余り感じませんが、実は髪が短いと必ず毎月一回散髪に行かなければなりません。私の場合も多少の早い遅いはあっても毎月一回のペースで決まった散髪屋さんに行くのです。ところが先月はお盆が入り、散髪に行けば散髪屋さんが休みだったり、月曜日の定休日だったり、また私の日程が空かなかったりしてその結果、ついに1ヵ月半も延び延びになってしまったのです。

 「散髪に行く」といったら妻が「まだ早い」と口癖のようにいうのに今回に限っては、「髪が少し伸びたようなので、出張の前なので散髪に行ったら」と勧めてくれるほどでした。

 先日久しぶりに散髪屋へ行ったら、「進ちゃん、何処か具合でも悪かったの?」と聞かれました。「いやあ散髪に来たら休みだったり、ついつい忙しくて時機を逸してしまいました」と大笑いです。早速三つある席の真ん中に座り散髪屋の大将にバリカンで裾を刈り上げてもらい、その後はハサミ刈りをしてもらいました。顔剃りは主に奥さんの役目で二人がかりで私の男前をあげてもらいました。歳を取ると髪の伸びるのが遅くなるのか、刈り取られ床に落ちた髪は幾分少ないようにも感じられましたが、それでも僅か1時間で頭をすっきり整え、3400円を払って散髪屋を出ました。

 帰るなり妻が「何処を散髪したの?」と、相変わらずの減らず口です。「男前になっただろうが、ほらあぜ道カットだ」と、バリカンで刈った襟元を手で触らせてやりました。「まあ、タワシみたい」とはこれまた面白い表現でした。これでこれから1ヶ月は顔のヒゲさえ剃れば何の問題もなく身だしなみが整うのです。

 私は毎日風呂に入り、毎日髪を洗います。若い頃は髪を洗った湯上りにヘアーリキッドを振りかけていましたが、今は何もつけません。ドライヤーもかけずただ洗うだけで十分ですからこれくらい便利な頭はないのです。

 この歳になると頭は白髪か禿か二通りありますが、私は「若松さん頭は染めているのですか」と時々聞かれますが、頭を染めたことはまだ一度もありません。でもお陰様でまだ黒い部分が多いのですが、やはり近頃になって少しずつ白髪が目立つようになってきました。「顔は悪いがメガネはかけたことがなく髪も黒々」などと自慢めいた会話をしていますが、白髪になればなったで、これは自然の成り行きだと思って意の向くままに生きて行きたいと思っています。

 久しぶりに散髪した私の顔でなく頭を見に双海町の人間牧場へ遊びにお越し下さい。

  「まだ早い いつも口癖 いう妻が 散髪したら なるほど伸びた」

  「散髪屋 鏡に映る 自分見て あらあら不思議 男前なる」

  「風呂に入り 毎日洗う 手軽さよ 角刈り頭 何と便利だ」

  「染めたのか 見まがう程に 黒々と 白髪や禿と 呼ばれぬ私」  


 

 

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