shin-1さんの日記

○ムカデに刺される

 私たち夫婦は仲がいいのか悪いのか測定器がないのでその度合いは測りかねますが、結婚してから今日まで40年近く一緒の布団に寝ています。一緒といっても子どもが小さいごろは三本川、四本川とその数を増し、多い時は六本川の字になって寝ていました。そのうち子どもたちが大きくなるに従って、一抜け、二抜けと抜けて行き、今は元の二本川の字で夫婦だけとなってしまいました。

 友人たちに聞いたり、家庭学級などで講演の折手を挙げてもらって聞いたりするのですが、最近の人は夫婦であっても別々の布団に寝るのだそうで、ひどくもないひどい人は夫婦別々の部屋、もっとひどくもないひどい人は一階と二階に別れて寝ると聞いて、ひょっとして夫婦が同じ布団に寝る私たちが可笑しいのではないかと思ったほどです。

 私の両親も同じ布団に寝ていたため、私たちはそれが当たり前だと思っていたのに、夫婦同床は少数派と聞いて私は考えました。私たち夫婦が可笑しいのではなく一緒に寝ない人が可笑しいのではないかと思うのです。人間は人生の三分の一を寝て過ごすといわれています。しかもその寝ている時間の殆どは夢を見たりはしますが殆どの時間は無意識に過ごすのです。ですから一緒に寝ても、隣に相手がいることを感じるのは僅かな時間なので、別に同じ床に入らなくてもいいと、夫婦別床派は科学的に分析していいますが、人間は化学で推し量れない何かがあるから面白いのです。

 先日妻にその話しをしたら、「お父さん私たちも○○さんや××さんのように別々に寝てみる」と大笑いをしながらひょうきんな提案があり実践してみました。ところがどうでしょう。長年の馴れとは不思議なもので横に妻がいないと寝れないのです。妻も私と同じようだったそうで、一日だけで止めてしまいました。

 酒を飲んでいた頃の私はいびきをかいて眠れなかった夜もありました。また子どもが夜泣きをして眠れない夜もありました。その思い出の一つ一つがわが家の、そして夫婦の思い出なのです。

 前夜の朝方の出来事です。もうそろそろ起きようかと両手を布団の外の畳に伸ばした瞬間二回蚊に刺されたようなチクリとした違和感を覚えました。豆電球の下だし、まさかそれがムカデだとは思わなかったのでそのままにしていましたが、起きて手の甲と腕を見ると二ヶ所虫に刺されたような跡があり、少しかゆくなってきました。虫刺され用のウナクールを塗りましたが、少し腫れてきたので妻が「お父さん、ひょっとしたらムカデかも知れないので病院へ行ったらどう」というのです。朝のあいさつに行ったら親父も「それはムカデだからアロエをつけろ」と庭の隅にあるアロエの葉っぱを割いて塗ってくれました。

(ムカデに刺され大きく腫れ上がった左手)
(正常な私の右手)

 昨日は妻の自転車が故障したため、トラックに積み込んで買った伊予市のお店に修理に出かけたり、締め切り原稿を送ったり、細々した身の回りの仕事で対外的なこともなかったので助かりましたが、夕方日が翳り始めて涼しくなった時間を見計らい、裏庭の草引きや畑の横の畦刈りをしました。それがいけなかったのか、今朝私の左手は別人の手と見紛うほどに大きく腫れて、妻は昨晩からタオルで湿布をしたりてんやわんやです。

 もし夫婦別床だとこんな心配や湿布はしてくれなかっただろうと苦笑しました。痛む訳でもないし、これまでの経験だと2~3日すれば治るので病院には行かないつもりです。ふって湧いたムカデ騒動でしたが、その憎いムカデは果して何処へ消えたのか、謎は深まりどうやら犯人は特定できず迷宮入りで完全犯罪になりそうです。

  「百の足 数えてみたが 百もなし 百足と書き ムカデ読むとは」

  「刺した奴 今はどうして いるのやら 犯人見えず 完全犯罪」

  「同床の 妻は時々 手を撫でて 痛さ分ちて 感謝感激」

  「左手は まるで横綱 腫れ上がり 右手はまるで 御仏のよう」  


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shin-1さんの日記

○私のブログ記念日

 私には私だけの様々な記念日があります。例えば(1944年)昭和19年10月3日は私の誕生日ですから最も大切な記念日で、これまで63回も記念日を迎え、間もなく64回目を迎えることになるのです。これ以外にも(1986年)昭和61年6月30日は下灘駅で夕焼けコンサートをやって大成功を収めた夕日記念日であったり、(1076年)昭和51年4月21日第10回総理府派遣青年の船の班長に選ばれて建国二百年のアメリカへ行くことが正式決定した、旅立ちの記念日であったりと様々です。

 そんな中で私のブログ記念日は(2005年)平成17年9月8日と定めています。この日私は初めてパソコンでブログを書きました。パソコンで検索すると2005年9月8日22:3:37と書いた時間まで正確に記録されているから驚きです。その時は娘婿や息子に勧められるままブログの意味も分らず、書いた文字を訂正するすべさえ分らぬまま書き始めたのです。しかし少しずつなれてくると文字の色を変えたりテーマを文章の頭に書いたり、また写真を取り込んで表現したりしながら、中々奥が深いことを感じました。私がブログを書き始めた頃、私の町でブログを読んでくれる人など殆どいませんでしたが、今は「犬も歩けばブログに当る」ように普及して、特に人気のある人のブログは凄くアクセスが多いようです。私のブログはそんな人とは比較にならないほど低いレベルなので、そんなにアクセスは多くないものの、時には千人を超えてアクセスがあってその意外性に驚くのです。

 ブログを書くようになってパソコンの前に座る時間が以前よりはるかに長くなりました。妻は健康への影響を心配していますが私はいたって平気で、今は朝起きて一本、夜寝る前に一本と書くことが毎日の日課になっているのです。

 「よくそんなに書くことがありますね」と時々人に聞かれますが、私のブログのネタは日常の暮らしの中で感じたことを書いているだけなので、汲んでも汲んでも枯れることはなく、むしろもっと書きたい心境ですが、読む側と書く側の理論をしっかりと弁え、適当な作品に仕上げなければいけないのです。

 最初は一年のつもりで書いたのに次の目標であるとりあえず3年までも手に入れました。一年で月毎まとめると12冊、3年で36冊もの日記風ブログ本が出来ました。それらはまとめて人間牧場の広くて大きい書棚の一角に置かれて、来客の暇潰しに読んで貰っているのです。「石の上にも三年」という言葉がありますが、まさにブログ三年の積み重ねは、私自身の生き方を文章を通して見直す大きなきっかけになりました。また毎日文章を書くことで文章を書くスピードが少しばかり早くなったことも大きな副産物となりました。さらにブログを呼んだ方たちとメールでの双方向交流に発展しています。

 私は凡人です。凡人ゆえにやることも凡事です。しかし毎日やることが凡事でも続けると非凡になると信じています。ハガキを毎日3枚書いていることや毎日海岸清掃を12年間やったことと同じことだと思っています。

 人間は得てして見果てぬ夢を見ます。私たちが子どもの頃そうであったように、時代こそ違え、夢こそ違うものの、現代の子どもがサッカー選手やアイドルになりたいという夢はまさに見果てぬ夢でしょう。しかし夢を勝ち得るためにどれ程血の滲むような努力が必要かは余り語られることはありません。ゆえに夢に破れ夢が叶わなかったのは社会や回りの責任だと思って人生を狂わせる人は沢山いるようです。親父やお袋の家業を継ぐという平凡なことでも、誇りを持って凡事を徹底すれば、非凡な人生が歩めるのです。

 毎日人より少しだけ早起きをして人の寝ている間に一本のブログを書き、毎日人より少しだけ夜更しをして人が床についている間に一本ブログを書く、何気ないことですが続ける価値はあったと3年間を振り返るし、これから続ける意味もあるだろうと心に決め4年目のスタートを切りました。

  「三年も 書きも書いたり パソコンで ブログ足跡 しみじみ思う」

  「さて俺の やること凡事 だとばかり 思っていたが 気がつきゃ非凡」

  「千人を 超えるアクセス どう見るか 期待されてる 独りよがりだ」

  「ペーパーに しないと不安 過ぎります 賞味期限の 過ぎたアナログ」 

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shin-1さんの日記

○中学校の運動会

 地元中学校の学校評議員をしているため、運動会の案内状が届きました。日曜日ということもあるし、歩いて5分の近場に学校があるため、孫を伴って見学に出かけて行きました。私が中学生頃の通学校とは随分様変わりしていて、迫力という点で少し拍子抜けする感じは否めませんでした。少子化の影響で生徒の数が極端に少なくなっているのです。運動会といえば自分の少ない出番を前日の夜プログラムに丸をつけ、必ず見るよう父母に頼んだ記憶がありますが、今はまるで全員が全種目出場のようで、演技が始まると生徒の控えに用意されたテントの中は、病気で出場できない生徒が残っているだけで人影が殆ど見えないのです。

 それでも小学校と違った少し子どもながら、少し大人の片鱗を見せて一生懸命演技をしていました。何年か前高知県西土佐へ行った折、酒を飲みながらある友人が「俺はこれまでかけっこが得意で、3番以下になったことがない」と腕をまくって強がりました。「へえーあんたは早かったんだねえ」と感心すれば、「過疎の村、過疎の学校なので3人以上で走ったことがない。だから三番以下にはならなかった」と大笑いしたことがありますが、上中も4人と3人以上のかけっこはないのですから、当時人ごとと笑っていましたが、いつの間にかわが町わが中学校でも人ごとではなくなっているのです。

 先生たちから話を聞けば二言目には必ずといってよいほど、小規模校の嘆き節が出てきます。競争意識や積極性に欠けるというのです。少し大きな学校に先日お邪魔しましたが、生徒の名前も顔も覚えられないようなかんな大きな学校は学校ではなく、目が届かないのが実情だといっていました。確かに小規模校には小規模校の、大規模校には大規模校の悩みがあることは事実ですが、小規模校にも大規模校にも見方を変えればいい点が沢山あるのです。やらないことをやれないといって言い訳をしているようにも感じるのです。やれないとやらないは違うのです。

(縄跳びは小規模校ならではの団結心をいかんなく発揮していました)
(校長先生と並んで最前列で運動会を観戦する孫朋樹)

 校長先生の勧めるままに、私と孫朋樹はこともあろうに校長先生と並んで最前列の席で見学させてもらいました。孫と私は大きな声を出し、大きな拍手をして心からなる声援を送りました。中でも孫が喜んで大きな声を出したのは、縄跳びでした。後の席にいた方が「僕数がかぞれれるの偉いねえ」と褒められたものですから、「ひい、ふう、みい・・・・・」ととんだ数を数え、失敗するとずっこけて悔しがりました。

 孫は後の席で観戦していた翠小学校和田校長先生、由並小学校吉田校長先生にもちょっかいを出して、楽しいお喋りをしていました。「吉田と和田でダブル田ー」とおどけて見せるお二人に興味を示したのは言うまでもありません。どうやら孫も私に似て中年の女性が好きな癖があるようです(笑い・笑い・大笑い)

 午後の予定もあって早々に引き上げましたが、夜来の雨でぬかるんだ運動場の水をスポンジで取りながら行った運動会は、孫にとっても忘れられない思い出になったらしく、帰って母親に「校長先生が日曜日に運動会があるので来なさいといわれ、約束したので行くよ」と屈託なくいっていました。はてさて来週の日曜日、私の予定はどうだったか、気になるところです。

  「子も孫も 通わないのに 学校の 運動会へ 孫と二人で」

  「日曜日 うちにもおいで 校長が 言うものだから 孫はその気に」

  「女好き 俺に似たのか 校長に ちょっかい出して 私赤面」

  「三位以下 なるはずはない 三人で 走った結果 それでも三位」



 

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shin-1さんの日記

○人間牧場へ相次いでお客様

 夕焼けコンサートの日は、夕焼けコンサートに来る目的の人が、折角だから人間牧場へ来たいと来訪者が相次ぎ、午前二組、午後3組と人間牧場へ上がったり下りたりの対応でぐったりしました。それでもどの人も大事なお客様なので、しっかりと対応させてもらいました。

 最初に来られたのは双海町出身で太陽石油から石油備蓄に移られた佐々木克敏さんの案内で、太陽石油四国事業所長の見元さんと、四国経済産業局資源エネルギー環境部長の石渡さんの三人です。佐々木さんが何かの折に私や双海町の話しをし、その後私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本を読み、夕焼けコンサートと人間牧場をセットにしたのです。

 私の生き方を自著本でしっかり予備学習しているだけあって、かなり期待を持って来られました。話し合いも微細にわたり見学も念入りでした。

(左が見元所長さん、右は石渡部長さん、真ん中は運転手さんです)
(左が佐々木さん、右は見元所長さんです。

 所長さんも部長さんも単身赴任らしく、初秋とはいいながら真夏のような暑さの中、木陰に入って軽く喉を潤しながら積もる話をしました。

 昨日の午前中、昨年度まで宇和島地方局長だった四之宮さんが訪ねて来られました。今は松山観光港に勤務されていますが、海に面したシーサイド公園の経営に携わった私の経歴から学ぼうとやって来たのです。シーサイド公園で待ち合わせをして、人間牧場へ行きました。私が通常通る狭い近道を通ったため驚いた様子でしたが、年代もそれ程変わらないので、積もる話しをしました。この日もガスがかかって沖合いに浮かぶ芸予や周防の島々は望めませんでしたが、初秋の天気は爽やかで最高でした。

(四之宮さん)

 私は役場の職員でありながら第三セクターを立ち上げ、苦労も多かったのですが赤字になることもなく次の人にバトンをタッチした貴重な体験をしていますが、貸借対照表や損益計算書など複式簿記から見えてくる様々な視点を随分学びました。そのことは役場職員や公務員という仕事からは殆ど見えてこないもう一つの世界でした。お陰で随分違った目が肥えて、異業種の経営者に会ってもそれなりにものが言え、それなりに理解が出来るのです。まちづくりは遊び心という視点は大事ですが遊びではありません。損得勘定が働かなければ経済には結びつかないのです。行政は住民の求めがあろうがなかろうが、またそれが経営上どうであろうが見通しも立てずシミュレーションもしないままハードへの投資をします。赤字になれば平気で公的資金を投入し単年度で赤字の上塗りをして連結しないのです。説明責任も結果責任も果たさぬまま大きな負担を結局行き着くところ住民に負わせて平気な顔をしているのです。

 人間牧場を下りながら、わが家と翠地区のグリーンツーリズムを案内しながら求めに応じ雑談の中でそんな話をしました。この日は今治市玉川町公民館の生涯学習講座の一行がバス一台でピザ釜の見学にやって来ていました。渡部妙子さんや森保子さん、山本加代子さんなど懐かしい顔々に、短い時間ではありましたがお会いしました。嬉しい限りです。

 何気なく過ぎて行く日々の中で色々な人と出会い旧交を温め、新しい縁をいただける幸せを、忙しい思いをしましたが実感している最近です。

  「人に会い 人に何かを 学びつつ 自分の気付かぬ 何か発見」

  「現職も リタイア組みも 入り乱れ わが生き様を 覗きに来おり」

  「秋来ぬと 目には見えねど そこここに 気配漂い 少し焦りて」

  「ああ俺も 間もなくひとつ 歳加え 前期高齢 グッと近付く」  


 

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shin-1さんの日記

○夕焼けプラットホームコンサート

 何だかんだといいながら、夕日にまつわることについては現場の第一線を離れていても相談があって、それなりに関わっていましたが、意識的に距離を保ち後方支援に回って自立・自律を促してきました。ここにきてやっと皆さんの気持ちもそれなりに高まり、そこそこでそれなりの歩みを始めていて頼もしく思っています。

 先週の土曜日、恒例の夕焼けコンサートがありました。このコンサートは早いものでもう23回目を迎えたのです。さて私は23年前、どんな思いでこのコンサートを立ち上げたのでしょう。あの当時私はまだ40歳でした。若かったせいもあって、下灘駅のプラットホームを舞台にするという奇抜なアイディアを思いつきました。しかし100のうち99人までが反対して「止めた方がいい」といいました。「落ちる・沈む・没する」というマイナスイメージを連想させる夕日など地域資源にはならないと誰もが思いました。でも夕日をテーマに無人駅のプラットホームでコンサートをしたのです。大方の予想を裏切って好天に恵まれた当日は、約千人の人で駅の構内は埋まりました。

夕日によるまちづくりの第一歩でした。以来時ならぬ台風の襲来で一度だけ中止になったことがありました。でもその他は天気に一喜一憂し雨風に翻弄されながらも着実に実績を積み重ねた 夕焼けコンサートは小林真三さんの手助けなどもあって、今日まで続いているのです。

 今では予讃線海岸周りの風物となってすっかり定着し、最初は反対していたJRも夕焼けトロッコ列車を走らせるなどの全面協力で、参加した人に感動を与えているのです。少し当日の模様をカメラで追ってみました。

この日は開会の午後5時前にあいにく夕立が少し激しく降りました。椅子に陣取っていた人たちは一斉に自転車置き場やプラットホームに雨宿りです。運営委員の人は布椅子を濡らさないようにまとめてブルーシートをかけました。やがて15分ほどで雨も上がり、西の空が赤くなり始めいよいよコンサートはスタートしました。

 雨が会場を整理したようで、いつになくきちんと席が埋まり、後のフェンスにはかなりの人が立ち見です。カメラも沢山設置され、参加者は吹き抜ける雨後の心地よい風を受けながら音楽に聞き入っていました。わが妻も孫や友人と連れ立って、楽しいおしゃべりをしながらの鑑賞です。


 孫は近くの売店でジュースやソフトクリームを買ってもらい、目や耳よりも口を動かしているようでした。私が現役の時妻は殆ど姿を見せず、家で留守番をして、コンサートの打ち上げの二次会に沢山の人を連れて帰るための、料理や飲み物を準備するのに追われていたと述懐し、「本当は私も今のようにお父さんと一緒にコンサートを見たかった」そうです。

 この日は私のお客さん、つまり私が講演などで知り合った方々や知人友人を含めると約100人もの人が集まってくれたのです。中には先日職員研修に招かれた東広島からわざわざ来てくれたり、双海町出身の石油備蓄会社の佐々木さんや太陽石油の所長さん、それに資源エネルギー環境部長さんなどが顔を揃えてくれました。何といっても嬉しかったのは先般講演に招かれた高松市三谷地区の皆さんがバス一台でやって来てくれたことです。縁とは不思議なもので感謝せずにはいられないのです。

 

 メインプロゲストのガズルが歌う頃には夕闇が迫り舞台に設えたススキも風に揺れて最高潮で、そこへスーと夕焼けトロッコ列車が入ってきました。会場から大きな拍手が起こりました。ガズルのメンバーの中には愛媛県松野町出身のアーティストもいて、これまた地元の方々が応援に駆けつけ最高に盛り上がり、アンコールの拍手に応えて「♭ギュッとして・・・・♯」を感情を込めて歌ってくれました。

 最後は恒例の下田逸郎作詞作曲である「双海恋歌」を全員で合唱して来年の再会を誓い合いました。運営委員持ち寄りの特産品やガズルのサイン色紙が当る抽選会も大盛況で、列車でやって来た人を見送る頃には頭上に綺麗なお月様が顔をのぞかせ、アーティストの歌に変わって虫の音の大合唱が始まっていました。

  「今年また 元気で聞けた コンサート 来年もまた 会おうねと」

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shin-1さんの日記

○数学は先人の文化の伝承である

 毎日色々な人に出会い、色々な人から色々なことを学ぶのが人間であり、生きている証です。しかし人間は歳を重ねたり様々な役職を経験すると、プライドが許さないのか人の言葉が耳に入らず、ついつい傲慢になるものです。特に相手が自分より目下や役職が下だとその傾向は顕著で、端から相手にしないものなのです。

 私などは学歴もなく、浅学非才なものですから持つべきものや見栄や外聞もないので、吉川栄治の「人みなわが師」という言葉どおり生きていて、むしろ人から生きざまの智恵を学ぼうと心がけているので、案外すんなりその人の何気ない一言が耳に入るのです。

 今日は朝からある採用試験の試験官を頼まれて出かけました。朝から夕方まで拘束された試験官としての仕事は、緊張している受験者に質問をして、その的確性やその人間の特徴を探ろうとするのです。私などは何を質問したらいいのかさえも分らず、思いつくままに質問をしましたが、慣れている私以外の3人は極めてシンプルに、それでいて的を得た質問をしており、受験生よりも私の方が質問の仕方、受け答え方を学んだ一日でした。

 私は理系ではなく文系だと先日もブログに書いたとおり、どちらかというと国語が得意、英語や数学が苦手と自分で思い込んでいある所があるのです。

 ある百戦錬磨の試験官が「数学」について質問しました。受験生は分らず右往左往していましたが、助け舟を出したその試験官は「数学は先人の文化の伝承である」と明快に教えていました。その時私は「えっ」と思ったのです。数学にそんな意味があろうとは凡人の私には分りませんでした。だとしたらある意味で文系も理系も目指す所は一緒ではないかと思われ、今までの心のモヤモヤが晴れたような気がしました。

 私は忘れ丈がいいので、小さな付箋にそのことをメモし、ワイシャツの胸ポケットに締まってわが家へ帰りました。家へ帰るんと妻はまだ仕事から帰っていないようでしたが、家に入るなり電話と宅配便が届きバタバタしているうちにそのメモのことをすっかり忘れてしまいました。食事が終って妻が洗濯をするためポケットを点検して、「お父さんはまたワイシャツのポケットの中にメモを入れたのを忘れている」と叱られてしまいました。「このメモ要るの?」というので我に返り「それは今日一番の大事なもんだ」といって、見つけてくれたことを感謝し、早速今晩のブログネタにした次第です。

 若し私がブログを書くことを日課にしていなかったら、この言葉は試験会場で「ああいい言葉だなあ」と感心しただけに留まっていたでしょう。僅か5時間前の気付きもこうしてどんどんと過去という川に流されて行くに違いないのです。メモを取る、そのメモをもう一度考えて文章にして残す、願わくばそのブログを読み返し知識を智恵にして生かすならこれほど大きな効果はないのです。

 「数学は先人の文化の伝承である」という言葉の直ぐ後に、子どもたちが授業を通して新しい発見をしたと感じるような数学授業をすることが必要だとも付け加えられました。なるほどなるほど奥は深くて広いものです。子どもたちの理数科離れというけれど、数学者の秋山仁先生の話しを聞いたことがありますが、先生の話は数学嫌いな私でも分りやすい話だったと、一変に数学のとりこになったことを覚えています。難しいことを分りやすく話す人は奥義を極めた人だと思います。得てして奥義を極めていない人は分りやすい話を難しくしたがるものです。

 さてさて私はさしずめ、分りやすい話を分りやすく話す部類だと自分では思っていますが、人の耳にはどう聞こえるのでしょうか。

  「数学は 文化の伝承 聞いた時 世の中達人 いると感心」

  「ちょっとした 言葉一つも 奥深い 聞く耳持てば 心開いて」

  「ああ俺は あんな言葉は よう吐かぬ も少し修行 心せずんば」

  「数学が 苦手な人は 多いはず どこで階段 間違ったのか」

 


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shin-1さんの日記

○眠れない夜

 昨晩は孫たちが3日間も逗留してその対応に疲れていたため、夫婦が早めに床に着きました。早めといっても妻は台所の片付けや洗濯物もあるので10時半を回っていましたが、私は10時に床に入って寝ながらテレビを見ていたのです。やがて妻が電気を消し夢の世界へ入りましたが、あることが気になって2時頃に目が覚め、疲れているはずなのにどうしても眠れないのです。

 あることとは友人の病気のことです。昨夕知人がやって来て外の夕観所の椅子に座り色々な四方山話をしました。その知人の従兄弟に当る人は私の友人というより、私より三歳年上の先輩なのです。私は若い頃青年団に入団していましたが、その方も青年団で団長を勤め、一歩先行く人として私をリードしてくれました。その後も仕事柄酒を飲んだり交流したりしていましたが、最近健康が優れないというのです。先日会った時にも小柄な体が少し太り気味になったいたので尋ねると、リュウマチの治療で飲んでる薬の副作用だと聞いたのです。妻もよく知っている人なので妻ともその話しを台所で食事をしながら話し案じておりました。

 従兄弟の知人の話によると最近体調が思わしくなく、抗がん剤を打ったというのです。リウマチの治療とばかり思っていたのに抗がん剤とは驚きです。その友人はもともと酒は弱いのですがタバコはめっぽう好きで、私が「陸蒸気」とあだ名をつけたほどヘビースモーカーでした。そんなにタバコを飲んだら今に肺がんになるぞ」と注意しても「タバコを止めるくらいなら死んだ方がましだ」とか、「タバコを吸って死ねるなら本望」と強がっていました。しかし最近「タバコを止めたい」と何度か思い挑戦しているようでした。禁煙パイプを口にくわえ、いらだたしそうにしている姿を見て、「命が惜しくなったの?」と茶化してみたりしました。でも長続きせず、最後の言葉は「タバコを止めれないなんて可笑しい。私はもう7回も止めた」とまるで落語や漫才のネタのような話しを笑ってしていました。

 彼は今農業をやっています。長い間勤めに出て家を留守にしたため、農業はもっぱら奥さんがやっていました。その奥さんも少し健康が優れなくて最近は奥さんに代わって農業をしていて「俺は最強の熟年農業後継者だ」と、すっかり日焼けして逞しくなった腕をまくって酒席で胸を張って豪語していました。その彼が抗がん剤とはと思うと、人毎ながら顔がちらついて眠れなかったのです。

 今朝は午前3時という早めに起きました。そして彼宛にハガキを一枚したためました。病気のことなど書けないので、近況の報告をしてさりげなく近々会おうと書きました。元々人とのコミュニケーションは苦手な方でしたが、私には家族のこと、人生のこと、これからのことなど、何でも話してくれたので、気分を一新すべく会いたいとおもっているのです。

 身近な人が病気になったり、私より若い人が死んだりと、加齢とともに親父が毎日愚痴る気持ちが少しずつわが身に降りかかってくるようになり、どこか気持ちが湿りがちになるのですが、人を思いやる気持ちだけは大事にしたいものの、自分自身は健康に生きるために、常に明るく前向きに生きてゆきたいと思っています。

 知人の健康回復を心より祈っています。

  「抗がんと 聞いてはてさて 困ったな ハガキしたため 一度会おうと」

  「無理をして 農業するな 愚か者 いってやりたい だけどいえぬな」

  「人のこと 言えぬわが身で ありながら 人を気遣い 眠れぬ夜を」

  「これからだ 楽しいはずの 人生を 楽しく生きろ われも生きるぞ」

 

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shin-1さんの日記

○勉強に来ました

 かつてまちづくりセンターに出向していた西予市の三好誠子さんから電話があり、人間牧場で勉強会をしたいので伺いたいと申し出がありました。市役所の女性職員だけで勉強会を立ち上げたらしく土曜日の休みだというのに午前10時に総勢6人でやって来ました。自己紹介をしてから始めましたが、旧城川町や旧三瓶町、旧宇和町などの役場職員として採用され、その後の合併で市役所職員になった人が殆どで、合併後4年が経ちましたが、話のあちこちに合併前と合併後の戸惑いや、ぎこちなさを感じつつ、私が色々な話しを1時間30分ほど話ました。

 この勉強会は差し当たりのテーマが観光とのことでした。観光やまちづくりは私のオハコなのですが、先日まち並みゼミプレシンポで西予市にお邪魔した時もお話したように、西予市の観光資源は正直手では数え切れないほど有り余っているのです。それを共通のテーマでくくるとかなりいびつな観光になるので、昭和30年の町村合併促進法で合併してからどの町も五十年という長きに渡って培った観光資源を点として、点と点を線で結び面的集積を図っていくべきだと助言をしました。昭和の大合併は旧町村の色を混ぜ合わせて混合色を作ろうと努力しましたが、平成の大合併は旧市町村の色を混ぜずに包含する方が得策だとも話しました。

 それにしても、女性だけで勉強会を立ち上げることはかなり勇気のいることです。近代日本になったとはいえ未だに男性優位の社会が多く、特に田舎にはそのことが顕著なようです。これから勉強会や勉強会で出た意見はかなり厳しい抵抗が予定されるでしょうが頑張って続けて欲しいと願っています。

 三好誠子さんは私が「ミレニアム200年その日私は」という限定10冊の手づくり本を出版したとき、ちょうどセンターに出向していて知り合いました。そしてプライベートなお願いをしてその本の校正を一年間に渡って毎月やってもらいました。2000年には毎日A4一枚の原稿をタイトルをつけて書きました。一ヶ月の原稿が溜ると三好さんに送りまとめて校正して送り返してもらい訂正をしました。私の訂正ミスもあって誤字脱字も時折見られますが、お陰様でその本は見事に校了し、私の手づくり綴じで世に出ました。その当時は前年に「昇る夕日でまちづくり、後年に「今やれる青春」いう2冊の本を出していますから、3年間で三冊もの本を出したことになるのです。今は思考も働かずあの頃のように筆は進みませんが、それでも何とか進化は出来なくても退化だけは防ごうとブログに挑戦しているのです。

 人のご縁とは不思議なもので、こうしてあの時の深いご縁がまた縁になるのです。三好さんはこれまで2回人間牧場へ来ていますが、絶えず次なる人を連れてやって来ます。自分の育てたい人を意識して育てないと人づくりは出来ないものです。私がそうであったようにフライと出来るまではしっかりと育てなければなりません。やがてフライと出来るようになったら自律・自立へと導けるのです。

 西予市の綺麗どころの来場で人間牧場は初秋ながらコスモスにも似た花が咲いたような雰囲気になりました。この日の研修をきっかけに、新しい人生や新しい発想で仕事に取り組んで欲しいと思います。

  「コスモスの 花が咲いたよ 牧場に そんな錯覚 するよな女性」

  「ミレニアム 二千年期し 執筆の 本を校正 あの時世話に」

  「早八年 過ぎたか互い 若かった 一昔前 そんなになるか」

  「空青く 白雲ポッカリ 流れ行く 初秋の風が 優しく頬に」  

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shin-1さんの日記

○孫に好かれて

 この週末は孫二人を連れた娘家族がやって来て、賑やかな3日間となりました。5歳になるブログ常連の朋樹はもう完全に自立していて、大人の私と話や行動の波長が随分合うようになり、色々なことに挑戦できるのです。昨晩は妻や妻の友人と一緒に夕やけコンサートに出かけ、最前列で2時間もしっかりコンサートを見学していました。帰り際にはアンコールに応えて歌った「ギュッとして・・・・」という歌を口ずさんで帰る有様です。

 昨晩コンサートから帰えり際、私の車で帰るという朋樹と暗い夜道を歩きながら、賑やかな初秋の虫の音を楽しみました。森林組合前に止めていた私の車のフロントガラスに大きなバッタが留まっているのを朋樹が見つけました。ライトを点けて車はそのまま発進しましたが、バッタは必死になってガラスにしがみついていました。朋樹はそのことが気になって車に乗ってからも少し興奮気味で、振り落とされないバッタに「頑張れ、頑張れ」と大きな声援を送りました。結局そのバッタは家へ帰るまでフロントガラスにしがみついていたのです。わが家へ到着するなりそのバッタは余程疲れたのか、あっさり地面へ飛び降り何処かへ去って行きました。

 風呂に入ると風呂場の中にコオロギが一匹迷い込んでいました。朋樹は大騒ぎをして追いかけていましたが、私が捕まえて外に出してやりました。歯を磨き寝る準備が出来ましたが、興奮気味の朋樹と私は妻の用意した

二つの懐中電灯をそれぞれ持って、暗い庭先に出ました。しっとりと夜露の降った草むらを、懐中電灯で照らしていると何やら怪しげな物体が灯りの向こうに見えました。かなり大型のバッタのようで、体や羽根を震わせた鳴き声は、懐中電灯の灯りで一瞬消えたように見えましたが、その後はまた鳴きはじめ、朋樹は感激の様子でした。昼とは違い夜にも楽しみ方はあるものです。

 「僕は男だから男同士でおじいちゃんと寝る」といって私の布団で寝ることにしました。私は朋樹にその日のミスたちとの出会いや出来事を創作話にして話してやりました。朋樹は始めと終わりには必ず拍手をしてくれるのです。おじいちゃんと孫の息もぴったりで楽しい夜となりました。

 一方孫尚樹は5月生まれですから一歳三ヶ月が過ぎ、ヨチヨチ歩きが出来るようになって、盛んに外へ連れて行ってくれとせがむのです。まだ言葉は「ワンワン」しかいえませんが、かなり自己主張が強くなって、「ワンワン」といいながら犬を飼っている近所のお家の方向を指で指すものです。今朝も6時前には起きてスタンバイOKです。ぎっくり腰の癖がある私は用心をして抱っこするのですが、何処で誰に教わったのか今は「好き好き」ポーズといって首に手を回してギュッと抱きしめるのです。このポーズでおじいちゃんはメロメロです。母親の娘はわが家に来るとのんびりゆっくりを決め込み、私と妻がその分疲れます。

 今晩も妻の作ったコロッケや餃子、野菜やお米などを例の如くどっさり車に詰め込んで帰って行きました。まあこれがしあわせというものでしょうか。

 お陰様で昨日は朝から晩まで絶え間ないお客様と孫たちに翻弄されてブログを書くことさえ出来ない空白の日となってしまいました。愛読者の皆さんご免なさい。

  「孫が来る 朝から晩まで 振り回し 疲れはしたが 何処か幸せ」

  「孫朋樹 誰に似たのか アウトドア 暇さえあれば 虫を追いかけ」

  「疲れたね 妻は朝から 休む間も なきに働き 夜はヘトヘト」

  「土日来る 孫に翻弄 わが家では 土日来るのが 少しおっくう」

 

 



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shin-1さんの日記

○エコー検査

 「若松さん、次回はエコー検査をしましょうね。ご飯を食べないで来て下さい」と医者に言われ、9月5日の午前10時をパソコンに入力されました。「ああ、2ヶ月後か、ずっと先の話だなあ」と思っていたら、2ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいました。昨晩自分の予定表と居間にかけてある大きなカレンダーに書いてある「定期健康診断受診日」と言う文字を見つけ、夜9時以降は食べないよう注意をしていました。最近はえひめ地域政策センター清水研究員の食育に関する影響もあって、まず9時以降は余程のことがない限り食べないようにしています。そもそもは舞たうんの食育に関する特集号で、私たちがこれまで信じて疑わなかった常識がいかにあやふやかを思い知らされました。

 清水さんから教わったことをメモにして暮らしの参考にしています。

  病気知らずの3原則

 第一の原則  「命の水を豊富に含む食べ物」を食べること

 第二の原則  「食べるにふさわしい時間帯」に食べること

 第三の原則  「正しい組み合わせの原則」に従って食べること

  常識破壊の「超健康革命」10ヶ条

 第1条  バランスのとれた食事をとらないようにすること

 第2条  朝食はしっかりとらず果物だけを食べるようにすること

 第3条  果物は毎日たっぷり食べて血糖値を正常に保ち血液をさらさらにする

 第4条  牛乳は骨粗そう症の原因になるので飲まないようにすること

 第5条  肉を食べるときは山盛りの野菜をいっしょに食べること

 第6条  ファーストフードは死に急ぎたい人のための食品なので利用しないこと

 第7条  油はできる限り使わないようにすること

 第8条  白砂糖、薬、サプリメントの摂取には十分注意すること

 第9条  病院にはできるだけ行かないようにすること

 第10条  適度な運動を励行し、必ず十分な睡眠をとること

 この話しを聞いた時、第1条、第2条、第4条は嘘だと思いました。だって日本の常識ではバランスの取れた食事を取りなさい、朝飯はしっかり取りなさい、牛乳はカルシュームだから一日一本飲みなさいと教わったし、そう心がけてきたのです。でも牛乳が本当にいいのであれば、アメリカなどの酪農大国では骨粗そう症など少ないはずだのに、ワースト3は酪農大国だというのです。なるほどと信じがたい話を信じようと努力していますが、未だに信じられないのです。

 さて今日の健康診断は前回の血液検査の結果と、今日のエコー検査結果を元に先生からお話がありました。血液検査の結果は肝機能が前回より少し改善、エコーも問題なしという結果でホッとしました。

 エコー検査の時、検査技師が研修生のような方で、色々いじくっていましたが私の体に異変があるというのです。最初は小声で話すその話しを聞きながら不安になりましたが、それが「胆のうを取ったため」と自己申告して納得のようでした。その後顔見知りの検査技師がもう一度しっかりエコーで検査し、異常がないと結論付けました。やれやれです。

 総合判断で異常なし、「あと2ヶ月は太鼓判」と何時もながらのジョークを飛ばした先生と、次は11月7日午前8時で予約を取り、支払いを済ませて病院を出ました。急に腹が減りましたが、わが家へ一直線、まず名残のスイカで腹を充たしました。「命の水を豊富に含む食べ物」だからです。

  「二ヶ月に 一回必ず 病院で 診察受けて 二ヶ月保証」

  「9時以降 食べない誓い 守りつつ 体の調子 自分で守る」

  「牛乳は ホントに粗しょう 効かぬのか? 未だ凡人 分らぬままに」

  「日本の 常識誰が 言い出した 信じることは 恐ろしいもの」

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