shin-1さんの日記

○自転車乗りの練習の結果孫朋樹は乗れるようになりました

 昨日から家族で泊まりに来ている娘たちに、今日は息子家族も加わり賑やかな日曜日となりました。孫朋樹はあと一週間もすればいよいよ小学校へ入学です。既にランドセルも買って入学の準備も着々のようです。昨日は隣から貰った補助なしの自転車を引っ張りだして、自転車に乗る練習につき合わされました。昨日はサドルの高さを調節して足がつくようにした後、近くの保育園の駐車場まで自転車を運び練習を開始しました。

 自分の家には自転車も買って貰ってヘルメットまで用意しているのですが、娘婿が忙しいのかまだ補助なし自転車に乗る練習はしていないようです。最初は怖わそうでてんでダメでした。自分の場合もそうですが、転げる怖さが先に立って中々乗れないのです。昨日は何度となく練習したにもかかわらず結局は様になることなく諦め、また明日も練習しようと約束をしました。


 今日は練習をしようと約束をしていたのに、乗れなかった不安からでしょうか、朝からしり込みをしていました。それでも約束だからと昨日と同じ場所で練習を始めました。30分もした頃でしょうか、手を離したスキに一人で走っていました。本人は私が後ろを持っていると思っていて全く気が付きませんでした。朋樹君乗れた乗れたと言った途端ドスンと転げてしまいました。「おじいちゃんも最初は転げてスネから血がにじんで乗れるようになったのだから」と諭すと、少し泣きべそをかいていたのに歯をくいしばって練習をしていました。やがて様になって何度か一人で乗れる場合が出てきました。しめたものです。もう少しで乗れるというところでお昼のチャイムが鳴って時間切れとなりました。

若松進一ブログ(親類で貰った補助車のない自転車で練習した結果やっと乗れるようになりました。Vサインです)

 「もう一度練習しよう」と夕方誘いました。すると少し自信ができたのか今度は近くの空き地で練習再開です。教えた通りペタルを器用に靴で跳ね上げ、自分で発信して乗る練習をした結果、まあ60点の出来でノロノロ走りながら何とか乗れるようになりました。子どもは早いものです。僅か二日間の2時間程度の練習で乗れるようになるのですから嬉しいことです。余程うれしかったのかわが家へ母親やおばあちゃんおじさんまで呼びに帰って連れて来て、自分の雄姿を見せびらかしていました。孫にとってはこれからの長い人生を、自分足で歩く以外に人間の発明した道具を使って移動できるのですから、これほどうれしいことはないのです。

 私が子どもの頃はわが家に自転車はありませんでした。ゆえに親類の造船所にあった営業用と思われる重くて太い自転車を借りて練習しました。何度も何度もひっくり返し、ハンドルまで曲げて叱られたことを思い出します。それでも突然自分の体が急に軽くなって自転車に乗れた時の感動は、少年のころの忘れられない思い出なのです。わが家の自転車族は親父と妻で、妻は自動車と併用のため、正式には親父だけです。私も今は自転車には殆ど乗らず車優先になりましたが、エコの時代ですからもっと自転車を利用したいと思っています。

 何はともあれ孫にとっては今日は自転車に乗れるようになった記念すべき日なのです。


  「この二日 孫と二人で 自転車の 練習成果 ついに達成」

  「嬉しくて 爺婆に 叔父までもも 皆来い見てと 孫は胸張り」 

  「何回か 転んで起きて するうちに やっと自転車 乗れるようなる」

  「そういえば 自分も昔 嬉しくて 脛の擦り傷 痛さ忘れて」

  

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shin-1さんの日記

○少し早い花見と少し遅いひな祭り

 昨日は妻の勤める歯科医院が院長先生の都合で午後休診となったため、妻は中山町犬寄に住む友人たちが開いているひな祭りを見学に出かけました。私も誘われたため男の身でありながら参加しました。途中で友人の赤尾さんを東峰で乗せ三人での見学です。この日は寒の戻りのような少し肌寒い、そしてあいにくの曇り空でしたが風もなく、外歩きにはまずまずの天気でした。このところの寒さで全国の桜前線もストップしているようで、北の国からは雪の便りも届いているのに、そして私たちの住む海岸線ではまだ桜が1~2分咲きというのに、標高300メートルもあるような犬寄では沿道の桜がもう満開なのには驚きました。

若松進一ブログ (峠道は満開の桜が咲いていました)

 創作工房を持っておられる高市礼子さんは多芸な方で、ご夫婦でお母さんの実家の近くに移り住み、お母さんが住んでいた家を工房にして様々な創作活動を行っています。息子さん二人は東大出の優秀な方だったそうですが既に亡くなっておられるようです。

 
若松進一ブログ (抹茶の接待を受けました)
若松進一ブログ (春を告げるコウゾウミツマタの可憐な花)
若松進一ブログ (庭先で見つけた花の変わったピンクのコウゾウミツマタの花)

 高市さん宅へは夫婦で2度ばかりお邪魔しているので、すっかり顔見知りで愛想のいい笑顔で迎えていただきました。庭先には小さな茶席が幾つも用意され、既に来客が数組あって野立て抹茶を召し上がっていました。接待は近所友人たちで、殆どの人が顔見知りとあって、交わす言葉も懐かしい田舎弁丸出しで近況を話し合いました。来客の殆どもテレビやラジオで聞いたという近隣の方たちで、面識がある人が多かったようです。見学者の中にメル友の谷岡さんがいたことは驚きでした。谷岡さんたちも伊予市の中心商店街でひな祭りを開いていて、ご一緒している人たちはいっぷく亭で活動している人たちでした。

若松進一ブログ (艶やかな吊し雛)
若松進一ブログ (紙粘土細工の和尚産の姿もユーモラスでした)

 早速高市さんのご主人の案内で創作工房の展示場へお邪魔しました。まあ凄いもんです。普通であれば廃品回収のゴミとして出されそうなジョロさえ、庭の隅に置いて花を差し込むと、まるで生き物のように生き生きとして主張するなど、高市さんの腕にかかるとお宝に変身するのです。入口の部屋はみの虫やモグラの皮を使った創作品や珍品展示、あとの3部屋は吊し雛やパッチワークなどそれは艶やかに、それは見事に所狭しと展示してありました。

 年始めにお邪魔した時鶴と亀のわら細工を見せていただきましたが、その見本を探していたようなので、島根県旧吉田村の松島さんから頂いてわが家の玄関先に飾っていたものを持参して差し上げましたが、大層喜んでいただきました。

 高市さんの工房にお暇して、松浦千枝子さんが開いている近くのゴリラハウスという太鼓の練習小屋へ立ち寄りました。そこにもこじんまりとしたお雛様が飾られていました。コーヒーとケーキを買い求めしばし休憩しましたが、ここは双海町と中山町の境になるため、庭から見える遠望は双海町の山々でした。

 その後3人で初めて走る山道を赤海(あかさこ)などの桜を見ながら走りました。海もないのに赤海とは?と思いましたが、遠望に瀬戸内の海や島々が見えて納得しました。桜の下で記念撮影をしました。妻と赤尾さんをモデルにして満開近くの桜も困惑気味のようでした。

若松進一ブログ (赤海の満開の桜の下で)
若松進一ブログ (眼下に大平の市街地と瀬戸内海の見える山道)

 伊予市大平に抜け、そば吉で遅い昼食をしました。抹茶やお菓子を食べていましたが小腹が空いていて、ぜいたくご膳というメニューのそばを美味しくいただきました。国道⑤6号沿いの赤尾さんを送って別れ、高見経由で帰路に着きましたが、途中久保の武田さん宅の見事な花桃を通りすがりで見学していると、折しも帰られたご夫婦と出会い、石工をしてご主人が手作りという見事な庭や庭樹の数々を説明つきで見学しました。いやあ見事でした。帰りに花桃の苗までいただき、一足早い身近な春を満喫しました。

若松進一ブログ (桃の花が咲き乱れる武田さんのお庭にて)

  「早いのか 遅いのかさえ 戸惑いつ 桜の下で お雛様見ゆ」

  「犬寄と 言えば昔は まばら人 峠の難所 今は車で」

  「凄いねえ ただただ感心 しきりなり これも生き方 俺にゃ越えれぬ」

  「赤い桃 競って咲きし 人の庭 余り見事に 思わず見とれ」  


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shin-1さんの日記

○忘れられたギター

 「私は音楽が苦手です」とハーモニカを吹く度に前置きして吹いています。そうすることで、「音楽が苦手な人でも練習すればあれくらいは吹けるのか」と安心して聞いてもらえるからです。しかし本当のことを話すと、確かに小学校頃の私は音楽の通知表は常時2だったのですが、中学校になると私の音楽は急成長を遂げたのです。多分そのきっかけは音楽担任に西岡圭造先生という新採先生が受け持ちになってからでした。先生は音楽を「音を楽しむ」と説明し、それまでと一変した音楽教育をしてくれたのです。学校のピアノなどは大切な備品なので先生以外は弾いてはいけないとばかりに鍵がかけられていました。西岡先生は弾きたくなったらいつでも弾くべきだと主張し鍵はかけませんでした。貧乏な家に育った私を含めた生徒たちは、それまで触ったこともないピアノをやたらと遊び道具にしました。その結果だろうと思うのですが音楽の授業が面白くなり、いつの間にか通知表は2の倍の4になっていました。私たちの時代は高校受験は9科目でした。英語や数学ができなくても、職業家庭や音楽で点数が取れれば十分頭のいい子に太刀打ちできたのです。私もその一人でした。

 やがて中学を卒業するとそれぞれの高校に進学したり家業を継いだりと進路は変わりましたが、水産高校にす進んだ私は同郷の5人とともに宇和島で下宿生活をしました。そこには知人友人先輩も沢山やって来て、恋の話は勿論のことギターなども持ち込まれ、下手糞ながら楽器に触れる生活は続いたのです。私もドレミファソラシドくらいから、「酒は涙か溜息か」くらいまでいつしか弾けるようになっていました。

 青年団に入団したころ、ギターは絶頂期で、多くの仲間がバンドを組んで田舎芝居にスター気取りで出演して課っしを浴びていましたから、いつしか私もなけなしの小遣いをはたいて安物のギターを購入し田商熱中した時代もありましたが、丸ではやり病のように冷めて、ギターは書斎の隅にお飾り程度の役割で埃まみれになって置かれているのです。まさに今では「忘れられたギター」という表現がぴったりなのです。

若松進一ブログ

 今朝ふとその忘れられたギターに目が移ったので、卸して布で埃を拭き取り、家族が留守であることをいいことにそっと弾いてみました。ドレミファソラシドを弾きながら少しだけ調律し直し、何曲か挑戦しましたがもう左の指と右の指がバラバラで動かず、断念してしまいました。

 しかしこのままだと勿体ないので、少し手入れをして少しだけ挑戦をしてみたいと思っています。ハーモニカのように木になるカバンに入れて持ち運びもできないので、人様の前で披露するなどという大それたことはできませんが、それでも自分の暮らしを豊かにする手立てとして使って行きたいと思っています。

 私たちの身の回りにはこのように、何気なく置かれているものの中には使えば十分役に立ったり、感性が磨かれるものが結構あるものです。放っておいたらゴミかインテリア、使えば心が豊かになります。ギターが再び弾けるようになりたいものです。

  「忘れられ 書棚の隅で ひっそりと 埃被りし ギターつま弾く」

  「青春の 思い出詰まる ギター抱き つま弾きながら 過ぎし日思う」

  「もう何年 触らぬギター 手と指が 下手くそながら 曲を奏でる」

  「ナツメロか 知らぬ私は もう古い 幸田未来など 顔や名前も」  

 

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shin-1さんの日記

○ブログが一冊の本になる

 「毎朝一本、毎夜一本」と聞けば何を連想するでしょう。お酒の好きな人はビールやお調子、愛煙家であればたばこを思い出すかも知れません。またドリンク剤や、糖尿病の人のインスリン注射だってあるのですが、私の場合は酒も煙草もドリンク剤も、ましてやすこぶる健康ですので注射の必要もないのです。私が勝手に決めている「毎朝一本、毎夜一本」というはブログを書く数量のことなのです。2005年9月8日から始めたブログは最初のころ一日一本の日もありましたが、その後朝夜2本となってパソコンの中に蓄積しています。

 元々の発端は娘婿が「パソコンで日記を書いてみたらどうか」と勧めてくれたことでした。てっきりお金がいると思っていた私は、合併でリタイアしていたこともあって、「そんなお金のいることはしない」と言いましたが、娘婿は「アメーバブログというサイトだったら無料だ」と聞き、興味本位もあってとりあえず書いてみることにしました。しかしブログの書き方も間違った文字を編集訂正する仕方も分からないまま始めたため、最初の頃は変換ミスや誤字脱字がやたらとあって、忙しい日々の合間に書かなければならない朝夜2本の記事は、むしろ面倒くさい時期もあり少し重荷になっていました。途中で止めるのもどうかと半信半疑の朝夜2本は、いつの間にか自分の日課に組み込まれ、ブログを読んだ方からの感想が返信で送られてくる度に、止めるに止められなくなってしまいました。とりあえず1年、とりあえず3年という当面の目標はあっという間に過ぎ去り、今は4年目の半分まで進んでいるのです。

 今はこのままとりあえず5年の目標に向かって肩肘を張らず、つとめて平常心を基本に書いています。元々記事を書くことは、役場の仕事で広報ふたみを10年間にわたり書いていたこともあって、そんなに嫌いではなかったの長続きになったのだろうと思っています。

 最近はデジカメで撮った写真を取り込む方法を教えてもらったため、随分カラフルになって読みやすくなりました。またアクセスも多くなり、誰がどんな目的でアクセスするのか、昨日は私のような人間のブログに一日だけで3000件もあるのですから驚きです。ブログは加入者のアクセス数が毎日ランクされる面白さもあるようですが、私の場合は内容が地味なためそんなに高くなく、総合は15000台、日記は4000台を上下しているようです。まあ自分の日記に順位などつけようがないと思っていますから、一応の目安くらいに思っています。

若松進一ブログ

 先日地域づくり団体交流研修全国大会の事務局を務めてくれた谷本さんから、耳寄りな話を聞きました。「どうやらブログを本にするソフトが出たようだ」というのです。「えっ、何のこと」と問い直しましたが、そのソフトに入力するとブログが加工されて製本さえすれば、目次までついた一冊の自著本になるという優れ物なのです。谷本さんはその方法を私に伝授してあげるととのことでしたが、私のパソコン技術が余りにも未熟なため、結局はその作業を忙しい合間を縫ってやってくれました。そしてPDFファイルにして昨日送信してくれました。またその見本本も二冊制作して送ってくれました。

 いやあ凄い、この世界はどこまで進化するのでしょう。谷本さんから送ってもらったものを製本さえすれば、世界に一冊しかないオンリーワンの本が出来上がるのです。

 昨日はそんな新しい発見に一日ルンルンでした。毎月一冊自分のプリンターでプリントアウトして作っていた片面プリントのファイルとは、一味もふた味も違ったブログの進化を見ながら、誤字脱字の訂正を早く終わらせ、本にしたいと思いました。この世の中はこのようなことを考える凄い進化をした人がいるものですね。驚きました。


  「うそ本当 私のブログが 本になる ソフトここまで 凄い進化だ」

  「駄目ですね ソフトあっても 使えない 友の手助け 分業作業」

  「入力を すれば目次や ページまで 記憶するとは 俺にゃ分らぬ」

  「これからは 見直し作業 書く度に 誤字と脱字は 致命傷なり」


  

 

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shin-1さんの日記

○エコー検査の結果まだ賞味期限はあるようです

 「若松進一さ~ん、病室へお入りください」。偶然にも子どもの頃から顔見知りの看護婦さんに呼ばれ病室へ入りました。一年に二回のエコー検査をもう10年もやってきているのでこちらも馴れたもの、脱脱いだ衣類を脱衣籠に入れ、上半身裸の状態でベットの上に横になりました。やがて検査技師さんがやってきて、「少し気持ち悪いかも知れませんが、直ぐに終わりますので我慢してください」といって、早速検査を始めました。

 ベットに横たわった私に検査技師さんは、パソコン画面に映し出される映像を見ながら、「はい、大きく息を吸い込んで~。はい、そのまま息を止めて~。はい、息を吐いてください」と、何度も繰り返すのです。腹にはゼリーのようなものが塗られ、エコーのカメラが何度もその上をこする度にヌルヌルとした気持ち悪さに、検査技師さんが最初に断ったように少し不快な気持になりました。

 横になったりしながら何ヶ所か検査をしていましたが、やがて検査技師さんは「エコーでは悪い所も見つかりませんでした。後は主治医の診察を受けてください」といわれ、看護婦さんは熱いお絞りで丁寧に腹の部分に付着したゼリーを拭きとってくれました。看護婦さんは私と出会ったのが余程嬉しかったのか、「進ちゃん、実は私おばあちゃんになったのよ」と唐突に小声で話しかけてきました。「ほうそりゃあ、おめでとうございます。孫は男の子?」「えっどして分かるん?」「そりゃああんたの話を聞いただけで分かるがね」「「進ちゃんは凄い眼力じゃねね」などと、当てずっぽで言ったことが本当に当たってしまっただけなのに、会話は弾みました。

 やがて内科受付を済ませて待っていると、エコー10時、内診10時30分なのに、10時20分にはもう診察室へ呼び込まれたのです。先生とは長い付き合いなので、雑談の方が多く、肝心の健康診断の話など殆どしないのです。「大学の講義は上手くいってますか。私などはお話ししても中々上手くいかず、少し早く講義を終わって学生の点数を稼ぐくらいしか芸がありませんが、その点若松さんは話がお上手だから」と持ち上げれれました。

 次回は5月29日午前8時30分に予約を入れますが大丈夫ですか。次回は血液検査を予定します。血圧も62と102ですから申し分ありません」「ありがとうございました」「はいお大事に」であっけなく終わりました。別れ際「あと2ヶ月は賞味期限がありますからご安心ください」と笑って別れましたが、楽しい先生で思わず噴き出し笑ってしまいました。私にとって二ヶ月に一度の定期健診は、胆のう摘出手術以来やっている恒例行事のようなものなのです。胆のうの周辺には様々な臓器が集中しているため、検査が必要なようですが、今のところ異常は見つかっていないようです。

 ロビーで支払いのため呼び出しを待っていると、私の顔見知りの方が何人か声をかけてくれました。「若松さん、どこが悪いの?」とか訪ねるのです。私はその都度同じような話をしなければならず、顔の広い(笑い)のも善し悪しです。それでもロビーで出会う人の中には糖尿病だとか肝臓が悪いとかいう人が何人もいて、深刻そうに自分の病気のことを話してくれるのです。その人たちの話を聞くにつけ病気にならないようにしなければと肝に銘じるのです。

 「健康は自分が自分に送る最高のプレゼントである」と、鈴木健二元NHKアナウンサーが言っていた言葉を思い出しました。確かに病気は不可抗力的なものもありますが、大体は自分で注意をして暮らさないと健康は保てないものなのです。少し運動不足の感じもしているので、注意したいと思っています。

  「二ヶ月は 賞味期限が 切れないと 医者の言葉に 少し安心」

  「エコー撮る 見えない腹の 中までも 見てきたように 異状なし言う」

  「俺の腹 エコーの画面じゃ 腹黒く 写っていたぜ 妻は納得」

  「おばあちゃん なったと聞きも しないのに 笑顔で話す 破顔一笑」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道

 先日久しぶりに時間があったので、海岸国道沿いに車を止めて人間牧場まで歩いて登ろうと思い、歩き始めました。普通人間牧場へ行くのは奥西周りと下浜周りの道があって、いずれも車で奥西周りは15分、下浜周りは

10分程度かかります。どの道もつづら折りのため急峻な山肌を縫うような狭い道です。今回たった一人で登った山道は下浜周りの山道をさらに縫うように直線で延びる昔の間道なのです。登り口で顔見知りの近所の人に会いました。「まあお珍しい。若松の進ちゃんじゃないですか。何をしているの」と声をかけられ、「はい、久しぶりにこの坂道をあることと思いまして」と答えると、「さあ歩けるかねえ。道も荒れていますから」と不安な言葉が返ってきました。

 JR予讃線海岸周りの下の隧道トンネルを抜けるともういきなりの急な坂です。斜面にはカタバミのような正式名前も知らない黄色い花がいっぱい咲いて春を演出していました。少し上がると高台を走る予讃線の線路に出ました。運よくそこにマッチ箱のような列車が通りかかりました。普段は遠目で見る可愛らしい一両だけの列車でも傍を通るとまるで黒い鉄の塊のような迫力でした。この辺りから下灘小学校辺りまでの線路は急峻な地形のこの町では珍しく一キロ以上にわたって一直線の線路が続いているのです。子どもの頃はここを蒸気機関車が走りましたが、急峻な地形なので列車もタジタジで、私たちは悪ふざけて、列車が速度を落とすと後ろに回ってすがりながら一緒に走ったり、時にはレールの上に耳をつけて列車の走る音を聞いたりしたのです。また線路沿いの斜面には野イチゴやイタドリがやたらとあって、食い物の少なかった少年時代は線路近くが恰好の遊び場でした。

 少し登るとお地蔵さんがありました。地元の人がお祀りしていて、下から登っても上から下っても、ここは丁度いい具合な大きい石がまるでベンチのようにあるので休憩地点なのです。かつて労働のために同行して何度となく一緒に登った祖母や母は、ここで荷物を降ろしてひと休みする間、お地蔵さんに手を合わせてお参りしましたが、私は傍の大きなクヌギの木の穴を見つけてクワガタやカブトムシを探していました。

 肩や腰の疲れが取れると再び歩くのですが、体のなまっている私には、背中に何の荷物も背負っていないのに額にはもう汗が滲み息遣いが荒くなってきました。この辺りの斜面の上には私の家の畑が沢山ありましたが、母亡き後は荒れるにまかせて、すっかり雑木に覆われていて少しばかり心が痛みました。


 やがて車道と交わる最初の地点が見えてきました。ここにもわが家の農地があり、4年前耕作目的で全て下刈りしたものの断念せざるを得なくなった畑が、同じように雑草に覆われていました。10年前にこの地に弟や従弟などが許可を得て墓地を造りましたので、見違えるような変身ぶりです。この辺りから見返ると眼下に海が開けて登りながら汗を拭く度に嘘炉の景色を楽しめるのです。

 2度目の車道と交わる所まで登ると人間牧場はもうすぐで、水平線の家の建物が見えてきました。歩くこと30分でやっと到着です。昔は大間道で荷車も通ったし通学路だったのですが、最近はこの道を歩く人も殆どなく荒れるにまかせているようでした。

 でもこの道は母と歩いた、いわば「この道はいつか来た道」なのです。「♭この道はいつか来た道 ああそうだよう お母様といつか来た道♯」という歌の文句ぴったりの道なのです。わずか30分でしたが、歩きながら久しぶりに母の思い出に浸ることができました。人間牧場で少しの間過ごし再び元来た道を下山開始です。あれほど難儀をして急な坂道を登ったのに、同じ道だというのに、まるでウサギや子犬が走るがごとくぴょんぴょん跳ねるように僅か10分足らずで下山しました。

 少しくたびれましたがいい経験をしました。またいい母の供養にもなったと満足です。せめて年に一回くらいは歩きたいものですが、この日の自分より若い自分はないのですから、危ないかも知れません。春のいい一日でした。

  「春の日を 楽しみながら 登り来る 母の思い出 随所にありて」

  「この坂は 背中に背負子 荷をかるい 汗かき幾度 往復したか」

  「道脇の 地蔵菩薩は 今もなお 昔変わらず 微笑みたたえ」

  「この坂の ような人生 過ごしたが 今は下りの スピード早く」

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shin-1さんの日記

○気恥ずかしい夫婦二人の散歩

 「お父さん郵便物を出したいので上灘中学校前のポストまで歩かない」と妻に誘われ、いつになく早めに夕食を済ませた後、夕暮れ時の道を夫婦で散歩することにしました。私のような歳の人間というより、私自身のわだかまりかも知れませんが、夫婦である歩くのはどこか気恥ずかしいような気がするのです。「何をいまさらその歳になって」と言われそうですが、私は人様のように手をつないだり手を組んだりするすることができない性分なのです。

 夕暮れ時の県道は田舎の道とはいいながら仕事を終えて帰る車や自転車が結構頻繁に走り、顔見知りなどは夫婦で歩く見慣れない私を見つけてクラクションで「プープー」と鳴らし合図をして去って行くのです。ポストに郵便物を投函し、別の道を歩いて帰ろうと私が誘えば、妻は「元来た道を帰りたい」とこれまた意見が合わず、「黙って歩け」と私がへそを曲げるとしぶしぶ川沿いの道を一緒に歩いてくれました。左様に何かと意見の合わない二人ですが、決して仲が悪い訳ではないのでご安心ください。


 今日は朝から冬に学戻りしたような寒い一日でした。東京や横浜では雪が降り、先日訪ねた美幌町辺りでも雪が舞う厳しい寒さになったことでしょう。わが町も数日前から桜がほころび始めましたが、この寒さで一向に開かず足踏み状態のようです。桜は開花が確認されてから1週間で満開を迎えると言われているので、今週末の日曜日は花見をと意気込んでいた人たちをがっかりさせているようです。昨晩道後のメルパルクで会合と飲み会があり道後に出かけましたが、道後公園の花見の準備は着々進んでいるようですが、肝心の桜が開かないしこう寒いと人の出足が鈍るかも知れません。

 既に満開を迎えた九州地方からは花見の便りがちらほら聞こえてきますが、咲くのが寒さで遅れる年の桜は長持ちすると言われていますので、桜の残り花が入学式には見えるかも知れないのです。

 妻と散歩しながら、妻が「お父さん今年はどこの桜を見に連れて行ってくれるの」といいました。そういえば昨年は内子石畳のしだれ桜を見に行きました。旅のつれづれに「私の町の桜は有名で、一度是非見に来て下さい」と行く先々で聞いてはいるものの、殆ど見に行ったことはありません。今年こそはと思って見ても年度末・年度始めの忙しさにかまけてなかなか見る機会もなく過ごしてきましたが、私の人生設計では後21回しか桜を見る年は巡って来ないのですから、もっと桜の季節を惜しむように目に焼き付けておきたいと思っています。

 高知県と愛媛県の県境に位置する旧吾川村にも確か立派なしだれ桜があることを聞いていました。妻にその桜を見に行くか?と聞きましたが、「泊まりがけで行きたいね」と何時になく積極的な答えが返ってきました。足を延ばしてみたいものです。


  「久し振り 二人で散歩 恥ずかしや 俺は案外 初なとこあり」

  「夕暮れの 道を二人で 散歩する 桜の話題 話ししながら」

  「また今年 桜の季節が やってきた 指折りみれば 二十一回」

  「俺こっち 私はあっち 違う道 強引従え 夫婦で歩く」

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shin-1さんの日記

○第26回地域づくり団体全国研修交流大会最後の実行委員会終わる

 私はこの2年間、第26回地域づくり団体全国研修交流大会の実行委員長を務めてきました。小さいながらも全国大会の実行委員長ともなると、様々な仕事が舞い込んで結構忙しく、それでいて結構楽しく取り組みました。まず全体会や分科会を引き受けてくれる候補地を探し、手の上がった団体の代表と団体の所属する自治体職員で実行委員会を立ち上げました。幸いそのための必要予算は県が確保して順調に立ち上がりました。実行委員会が中心とはいいながらその原案を作る事務局は大変です。研修プログラムの素案を作成して実行委員会にかけるのですが、それぞれの思惑の違いもあって一進一退でした。それでも茨城で行われた直前大会までには何とかペーパーになり、それとPR用のポンジュースを持って茨木年大会には総勢50人を超える人たちで乗り込みました。それぞれがそれぞれの視点で全体会や分科会をチェックして、ある意味とても有意義な一年目の準備と研修を終えたのです。

若松進一ブログ

 2年目に入った実行委員会は分科会と全体会それぞれに役割分担に沿って準備をしました。全国への案内状発送は期待と不安が交錯しました。何せこの種の大会の全体会を南予宇和島という地方でやるのですから、期待はあるものの知名度は低く、かなり工夫をしました。私は事務局が作ってくれた私の似顔絵名刺の裏に大海のPR文字を印刷した名刺をわずか半年間で千枚も全国の人に時ある度に配り歩いたのです。その効果?もあって参加者は350人近くになり、締切当日の嬉しさは格別でした。全国大会の分科会会場を引き受けた各市町では運営委員会を組織し、何度となく打ち合わせの会合を持ち、それぞれが様々な思考を凝らして準備を進めてきましたが、目に見えぬ不安もあったようでした。

 何とか準備を終えて、11月13日の前夜祭、14日の全体会、14日と15日の分科会を、好天という幸運に恵まれ思い出に残る大会を開くことができました。その模様は100ページにも及ぶ素晴らしい報告書にまとめられていますが、多少悔いは残るものの今となっては後の祭りです。


若松進一ブログ

 形式的には昨日の今年度第5回目の実行委員会は、実行委員会解散手続きのための召集でした。事業報告も決算見込み書も全て満場一致で承認され、実行委員長としての私の役目をやっと終わりました。思えば長くも短い2年間でした。この大会は事務局体制がしっかりしていたこと、県や愛媛政策研修センター、それに私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議の全面的な協力があったこと、それに分科会を受け持った県下15市町の運営組織の努力とキーマンたちの活躍という総合力の成果だっと思うのです。

 私はその上に胡坐をかいて楽をしてしまいましたが、これも役得と思って甘んじてしまいました。昨日は最後の懇親会もあって皆さんと楽しい思い出話をしました。この大会がなければ出会わなかったであろう人たちや、痕がも出会わないかも知れない人たちと、これからのことについて話し込みました。

 今後はこの大会をスタートにして全県下で活気のある地域づくりが展開されるよう祈っています。

  「またひとつ 重荷を降ろし 一休み 帰りの道は 背中軽々」

  「二年間 あっという間に 過ぎ去った 思い出多く 悔いなく終わる」

  「この二年 助けられたり 助けたり 貰った恩を どうして返そう」

  「飲むほどに 苦い思い出 かき消され 主役のような 輝き見せて」

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shin-1さんの日記

○肥えるのは簡単だが痩せるのは難しい

 私はこれまでの人生で最も体重が増えた時は68キロありました。身長が168センチですから少し肥え過ぎていました。元はといえば60キロ前後の体重だったのに、第10回総理府派遣青年の船に乗って2ヶ月余り太平洋を横断したとき、船内や寄港地で肉を中心にした西洋料理を食べたからでした。帰国した私を見て妻は「別人かしら?」と思ったそうです。それでも元の生活に戻って日本食を食べ始めると元に戻りましたが、一度膨らんだ風船が中の空気を抜くとしわしわになるように、どこかたるんだような体になってしまったのです。これは危ないと一念発起して筋力アップに取り組んだお陰で逞しいほどではないにしてもそれなりの体系を維持するようになりました。ところが10年前健康診断で胆のうにポリープが見つかり、胆のう摘出手術を行いました。それから体重が減り続け、今では55キロから56キロの間を往復するほど体重が激減したのです。

 田舎のことゆえ口の悪い人は「若松さんは痩せてしまってどうやらガンらしい」という噂を立て始めたのです。特に田舎のおばちゃんの口に戸はたてられませんから、噂はまたたく間に町十に広がってしまいました。今でもそのことを信じて遠回しに「ガンには○○という薬が聞く」などと勧めてくれる人もいるほどです。

 私の友人には胃を摘出した人や肝臓が悪い人、糖尿病予備軍のが沢山います。でもその人たちはいつの間にか好きだったタバコを吸いお酒を飲んでいるのです。私は元々たばこは吸いませんが、お酒はビールを浴びるほど飲んでいました。胆のう手術を機にきっぱりとお酒を止めました。胆のう摘出手術後は肉や天ぷら、お菓子類が好きでなくなってそのことが原因かどうか分かりませんが、体重はこの10年近く微減微増を繰り返して今の体重を維持しているのです。

 私は風呂が大好きで、今は暇ができればリフレッシュするため温泉に出かけます。温泉は全員が裸で入浴するため皆さんの体型をよくよく観察してみると、以外とお腹の出た体型の人が多いことに驚くのです。私のようにリフレッシュするため温泉に来る人もいますが、概して痩せたいという願望を持った人が多いようです。サウナに入って汗を流しては体重計に乗って自己満足しているのに、早くも休憩室で缶ビールを自動販売機で買ってのでいる人をよく見かけるのです。それほどしなくてもと思うのは当然、でも酒のみだった昔を経験した私には風呂上りのビール一杯の味を知っているだけに理解もできるのです。

 あるお医者さんの話によると人間の体は風船のようなもので、最初膨らませるのにはかなりの力が必要ですが、ある程度大きくなると案外軽い息で風船は膨らむのです。また一度膨らませた風船は次に膨らませるとゴムが伸びて最初より簡単なのです。人間の体もまったく同じで、せっかく源流を試みて細くなってもリバウンドし易いのだそうです。温泉での会話は楽しいもので、政治やスポーツなど様々ですが、健康に関する会話も沢山聞くことができます。まるで医者のように詳しい人のほとんどは一度や二度重い病気にかかった人が多いようです。

 痩せたいが中々痩せないというのはオンネの話のようですが、痩せるためにはサウナや温泉もさることながら食生活の改善や運動をしなければならにのは当然のことです。私もただ今少し筋力アップを推進中です。

  「そういえば ふとった人が 増えてきた メタボほどでは ないとはいうが」

  「最近は 新聞折り込み 痩せ話 サプリくらいで 痩せるものかと」

  「痩せ薬 飲んで命が 縮まった よくある話 百害一利」

  「痩せたねと 言われて皮肉 思う人 嬉しい反面 辛い一言」

 

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shin-1さんの日記

○ああ定年

 リタイアして4年があっという間に過ぎました。普通の人であればこの4年間は本当の意味での社会人になるためのフライト訓練みたいな時期なのでしょうが、私の場合社会人としてフライトする訓練は50歳代の10年間をかけて訓練していたので、リタイアと同時に即独立フライトでした。それでも十分時間をかけて臨んだフライトも慣れないことがいっぱいあって、最初は戸惑うことばかりでした。給料が入らなくなった家庭の経済的組み立ては、妻の涙ぐましい努力によって乗り切りました。毎日出勤する生活リズムの狂いによる健康的生活習慣もサンデー毎日に多少の戸惑いもありましたが、すっかり板についてストレスがないだけむしろ以前より健康になったように思います。それまでおろそかにしてきた社会的付き合いは、一気に自治会長などの想い役職を持たされましたが、社会への恩返しと思い誠心誠意努力して、地域に深く溶け込むことができました。こうしてみるとこの4年間は私にとって、むしろ以前より充実した暮らしができるようになっているのです。ある意味誰もから羨ましがられる理想のリタイア生活をしているようです。

 数日前、この春定年退職する友人から相談を受け、リタイア生活のイロハを教えてくれと言われました。彼には多少の批判はあっても天下りという再就職の道が開かれているようですが、彼は常々「天下りだけはしたくない」と言っていました。しかし現実的に彼のような一般的な人間に、天下り以外の仕事が見つかるほど世の中は甘くないと話してやりました。奥さんもそのことを理解していて何とか年金が満額出る年齢まで、例え細々とでも働いてほしいと言っているようでした。

 退職後のイロハについて例をあげて話しました。

  ①地元の役職は進んで受ける。

  ②健康には特に注意して体力づくりをする。

  ③見栄や無駄を省いて経済的自立を図る。

  ④酒と賭けごとはほどほどにする。

  ⑤遊び心と趣味を持つ

  ⑥これからの生活設計を立てる。

  ⑦家族と向き合って生きる。

  ⑧情報手段を持つ。

  ⑨旅をする。

  ⑩これまでの人生をまとめる。


 もう一週間もすれば、彼の役職も名刺もなくなります。元の役職や名刺は前だとか元をつけないと使えないのです。しかし前や元などつけて過去の栄光を見せびらかせても何の役にも立たないことを、これからしばらくの間は身にしみて思うことでしょう。そして役職の重みですり寄っていた人たちは冷たく去って行くのです。

 私は退職後のイロハで書いていることを今も実践しています。地元の役職は学校の評議員や少年少女おもしろ教室の実行委員長に至るまで楽しくやっています。健康に留意して自分でできる体力づくりや、人間牧場の草刈り、家庭菜園などに汗を流しています。大学や講演などに出かけかろうじて経済的自立をしています。酒も賭けごとも一切していません。遊び心と趣味は旺盛で人間牧場を舞台に活発に活動しています。85歳まで生きる生活設計に基づいて生きています。リアイアしてこの4年、疎遠だった家族との関係は随分改善されました。インターネットも、毎日2本ずつ書いているブログも、また年輪塾ネットも情報の広がりを見せています。旅は言うに及ばず北海道から沖縄まで楽しい旅を続けています。これまでの人生は折にふれ自著本でまとめています。

 私の人生を彼に押し付ける気持ちは毛頭ありませんが、やはり自分がどう生きたいのかというポリシーが、自分の生きる支えにならねば生きている意味がないのです。


  「今年また 迷える羊 野に下る 生きる手だてを 考えないと」

  「四年過ぎ 五年目突入 ゆるぎない 決めた想いを 一つ二つと」

  「この三日 夜は地元の 集会に 俺やこれやと 楽し出会いが」

  「わが財布 そっと満タン なっている 妻の配慮が 嬉しこのごろ」

 

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