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○世界遺産を巡る旅(その1)

 世界中には私の知らない自然や文化といった世界遺産が沢山ありますが、日本にも知ってはいてもまだ行っていない世界遺産が数多く残っていて、一度は訪ねて見たいと思っているものの、小笠原のように余りにも遠過ぎて行っていない場所だってあるのです。
 何年か前、私が代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループでは、世界遺産を巡る旅なるちょっと変わった旅をシリーズで計画、少しでも若いうちに少しでも世界遺産を見て、少しでも知的エネルギーを吸収しようとやり始めました。お陰様で広島原爆ドーム・安芸の宮島・石見銀山・熊野古道・平安遷都1300年にちなんだ奈良京都周辺の神社仏閣・姫路城などを順調に制覇して、今回は少し遠出の富山県五箇山と岐阜県白川郷の合掌造りを目指すことになりました。
 今回は雪の中でもあり遠出のため、愛媛新聞観光社のツアーにメンバー13人がまとまって応募しました。幸い2月5日(日)と6日(月)の2日間、合掌造りのライトアップという珍しいイベントに便乗することが出来、メンバー一同ワクワク・ドキドキしながらの参加となりました。

 今回のツアーは松山空港に集まり、飛行機で大阪伊丹空港まで飛び、そこからバスで名神高速道や北陸自動車道を乗り継ぎ、五箇山・白川郷へ入り飛騨高山で一泊、二日目には飛騨高山を見学した帰り道、長野県妻籠の古い町並みを見学後大阪伊丹空港を経て松山に帰ってくるという、少し贅沢な旅でした。
 私は先月岐阜県白川村の招きで新春講演会に参加したため、石川県金沢市から白川村に入り、白川村のご好意で白川郷荻町の合掌造りを見学し、十右エ衛門という合掌造り民宿に泊めてもらい、その余韻がまだ残っているこの時期の旅だったため、ライトアップなど違った味わい方が出来るという、大きな期待に胸を膨らませていました。
 今回のツアーに参加する2~3日前から日本列島はこの冬一番の寒波に見舞われ、沖縄を除いた全ての県庁所在地の最低気温がマイナスを下回るという寒さでしたが、二日目の6日はあいにく雨が降ったものの5日はこの上ない穏やかな好天に恵まれ、心配もどこ吹く風といったいい思い出を作ることが出来ました。

 私たちと同じように世界遺産白川郷のライトアップを楽しみにツアーに参加した人たちは総勢43人でしたが、その殆んどは夫婦か友だちとの参加で、私たちのようにグループでの参加は少なく、約三分の一強の勢力を誇る私たちのグループは大いに気を吐きました。
 私たちがツアーに参加した5日は愛媛マラソンの日で、私たちの仲間の浜田さん、近藤さん、真鍋さんなども参加したようでしたが、マラソンのことも気にしながら自宅を6時30分に軽四トラックで出て、コナンパーキングに駐車し、松山空港までリムジンで送ってもらいました。7時30分に空港ロビーにツアーに参加する人たちと共に集合し、添乗員の水田さんから色々なインフォメーションをしてもらいました。空港で雪道を歩くための滑り止めを800円で購入しました。雪の中へ行くため皆さんは予想以上の重装備で、まるで南極に行ったり海外旅行に行くのか?と見まがうほどでした。予定通り飛行機に乗り予定通り伊丹に着き、予定通り大阪ハトバスで名神高速を走りました。フロンティアグループのメンバーの中には久しぶりに会う人もいて、バスの中では大いに世間話に花を咲かせていました。

  「久方に 世界遺産を 巡る旅 仲間懐かし 話に花を」

  「ツアーゆえ 見知らぬ顔の 人多く どこか余所行き おすまし顔で」

  「元気かい 俺も元気と お互いが 近況伝え うとうとしつつ」

  「今頃は 愛媛マラソン 走ってる だろうと友の 姿気にしつ」 

 

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○この2日間世界遺産を巡る旅に出ていました

 この2日間、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループのシリーズ行事である、日本の世界遺産を巡る旅に出かけていて、先ほど帰って来ました。空港では少し小腹が空いていましたが、妻から夕食を用意しているとの連絡があったため我慢して、10時頃帰宅して夕食を食べると、少し疲れが出たため、今日はブログの記事を書いていないのでどうしようか迷いましたが、結局は妻の勧めもあり詳しく書くのは明日にして、風呂にゆっくり入り安みたいと思います。お休みなさい。

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○下灘駅の快挙

 思い返せば27年前ですから、もう四半世紀も前の出来事でした。いつとはなしにアマチュアカメラマンの間で「日本で一番海に近い駅」という名前が、噂話程度あった下灘駅のプラットホームを舞台にして、夕焼けプラットホームコンサートを思いつきました。フーテンの寅さんシリーズ「寅次郎と殿様」の映画ロケ地としてワンカットシーンに登場していたものの、まだ当時はそれ程知名度は高くありませんでしたが、約千人を集めたコンサートはテレビで取り上げられたこともあり、下灘駅はバックに沈む夕日と共に一気にスターダムに上ったのです。その後夕焼けプラットホームコンサートは多くの心ある人たちに受け継がれ、紆余曲折や様々な話題を提供しながら今日まで続いているのです。その間、青春18キップのキャンペーンポスターに3度も取り上げられ、今では日本全国行きたい駅の常連として名を連ね、何もない無人駅ながら多くの若者たちが訪ねてくれているのです。

 この駅に来る人たちの心を慰めようと、地元の人も清掃や生け花、掲示板、落書き帳設置などを通して惜しみない支援をしてくれ、また最近はノジ菊やコスモス等を植栽し癒される駅となっているばかりでなく、演劇やシンポジウムフォーラムなどの交流イベントを次々に企画実施し、下灘駅そのものをフィールドミュージアムにしようと運営委員会が立ち上がり頑張ってくれているのです。
 その功績が認められて、下灘駅フィールドミュージアム運営委員会がこのほど、第7回JTB交流文化賞を、また美化活動に貢献した伊予農業高校が環境大臣表彰をそれぞれダブル受賞しました。草創期にいささかなりとも下灘駅にかかわった私としてこの快挙はこの上ない喜びであり、これからの発展を期待しているところです。

2月3日付愛媛新聞8面に紹介された記事
 こうした活動は、活動主体であるメンバーの虫の目的な元気もさることながら、鳥の目的に方向性を決めてメンバーを誘導する指導者の存在が必要です。表彰はそのプロセスを支える大きな活力ですが、指導者は次なる目標を掲げて難易度が次第に高くなるハードルを用意して、それらを越えて行かなければならならず、活動はまさにエンドレステープなのですから、クリエイティブな指導者のバトンタッチも必要不可欠なのです。
 双海町が伊予市、中山町と合併して7年が過ぎました。一方では下灘中学校が廃校になって双海中学校が誕生したり、多少の右肩下がりを寂しく言う人もいますが、今回の快挙は嘆くよりやれば出来るという大きな励みになったことは事実です。これからも地域の自立に向けてお互い頑張って行きたいと意を新たにしました。
  「何もない 無人の駅で コンサート 四半世紀前 よくもやったな」
  
  「心ある 人がバトンを 受け継いで ここまで来たか これから先も」

  「シグナルを 出す人なけりゃ 続かない 黒子に感謝 次は何する」

  「表彰を 素直に喜び おめでとう メール次々 嬉しいですね」

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○花束を貰うなんて

 昨日は節分でしたが夕方豆まきをする暇もなく、今治市菊間町から夜の集会での講演を頼まれていたので、夕闇迫る海岸国道196号線を走り菊間町を目指しました。館長さんの電話での話によると、2月3日は厄除けのお寺として知られる菊間町にある遍照院の縁日で、周辺の道路が交通渋滞をするかも知れないというので、海沿いにある海賊うどん屋付近で午後6時に待ち合わせし、裏道である農面道路を走ろうという相談が出来ていたのです。私は午後5時40分にうどん屋の前に到着しましたが、館長さんは既に田舎のオープンカーで到着して車の中で待っていました。
 聞けば昨日の寒さの影響でしょうか、多少平常よりは車の交通量が多いものの混雑するほどではないと判断し、そのまま遍照院の前を館長さんの車について走りました。遍照院付近では交通整理をするガードマンが道沿いに何人も立って交通整理をしたり、境内周辺には出店も出て裸電球の光が鈍く光っていました。

 太陽石油のコンビナートを通り過ぎ、旧大西町はもうそこという所に目的地の亀岡公民館はありました。特急しおかぜに乗って岡山や高松へ行く時、列車が対向するため時々止まる亀岡駅の直ぐ裏なので、列車の停車や発車する音が、案内された公民館の応接室の中まで時折聞こえてきました。
 教養部長さんや館長さんたちと開会までお茶を飲みながら雑談に耽りました。夕食をとっていなかったため、少し小腹が空いて出されたお茶請けの美味しいロールケーキまで食べてしまいました。やがて何人もの顔見知りの方が応接室にごあいさつに見えられ、中には市会議員で私の町の上田さんを知っている人まで来られました。
 昨日は沖縄を除いて日本中の県庁所在地は全て氷点下以下という珍しい大寒波に見舞われ、日本列島がまるで冷蔵庫の中に入っているような寒い日でしたが、会場の席は満席で、暖房に加え幾つかのストーブが用意されていたため、演台で立って話をするとまるで汗ばむほどの暖かさでした。昨日のテーマは「まちづくりと子育て」という少し難しいタイトルでしたが、持ち前の持論を熱弁で話しました。反応もよくあっという間に90分を終えました。

贈られた花束

 

 講演と質疑が終って講師席に戻ると、立派な花束を贈られました。今年になって始めてのサプライズに多少照れましたが、講演をしてくれた人に花束を贈ろうなんて、粋なことを考えて花束を用意した人は、一体どなたのでしょう。そのことを考えるともう舞い上がってしまいました。
 寒い夜道を1時間半かけて走り、午後10時30分自宅に帰りましたが、玄関先へ迎えに出た妻は花束を持って帰った私を見て驚き、「明日の朝ご好意を玄関先に飾ろうね」と言ってくれました。長年講演等で各地の集会を訪ねると、懐かしい人に再会したり、その後お手紙をいただいてお付き合いしたり、また縁もゆかりもないのに、特産品を送っていただいたりすることがあります。花束をいただくこともたまにありますが、やはり嬉しいものです。
 私のささやかな話でも聞きに来てくれる人がいるし、熱心にメモを取る人だっているのです。その人たちのためにも更なる研鑽を積んで、いいお話が出来るようにしなければと、進化の誓いを新たにした夜でした。

  「花束を 美女から贈られ 舞い上がる 年甲斐もなく 顔を赤らめ」

  「誰だろう? 粋な計らい する人は 思い巡らせ ほのぼの帰る」

  「節分に 厄除け飾り 飾ったが 早速縁起 舞い込み福が」

  「厄除けの 寺前通る 車中にて こころで祈る 家族安全」  

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○今日は節分

 節分といえば立春の前の日と思われがちですが、立春、立夏、立秋、立冬という季節の変わり目の前日に当たる日ですから年に4回あって、そのことを知っている人は意外と少ないようです。私が子どものころはおやつ等殆んどなかった貧しい時代でしたから、節分の日にホーロクという素焼きの大きな鍋の中に大豆を入れ、豆まき用の豆をパリパリ柴で混ぜて煎り豆を作ってもらうのがとても楽しみでした。母親が煎ってくれた豆は一升升に入れて神棚に供えられ、夕方外が暗くなると、「鬼は外、福は内」など大声を出して辺り構わず撒き散らしました。鬼も福も架空のものなので、その存在に子ども心の疑問を持ったりしましたが、自分の歳の数+一つなどと決められていたため、少し余分にごまかして食べたりもしました。自分の家で炒った豆は少々硬かったようですが、一生懸命食べていました。大人たちは豆のことをまめに生きるようにとか、豆は魔を滅するとか色々な理由をつけて私たち子どもに説明していたようです。

オニグイの節分飾り

 節分といえば私たちの地方ではオニグイという刺のあるタラの木を10cm程度に切り、四つ割りにして、割った木片の上に切り込みを入れ、そこにパリパリ柴を挟み込んだものを厄除けのために玄関口や神棚、仏壇、かまど、トイレ等に置いて無病息災を祈る風習があるのですが、今ではその風習もわが家のように年寄りのいる家庭では残っているものの、殆んど廃れてしまっているのです。
 幸い私は賞味期限の切れかかった古いタイプの人間なので、今年も裏山に生えているオニグイの木を取りに行って節分飾りを作ることにしました。最近はオニグイもタラの芽と称する山菜で人気が高く、辺り構わず取られるため、おいそれとは見つからないのです。幸い私は人の気が付かない場所にあることを知っていて、日ごろの散歩の途中で目をつけていたのです。

 今朝は散歩に鎌を持って出かけました。そして山の斜面に降りて頃合なオニグイを1本ゲットして持ち帰り、庭先で鋸で小切りして、鎌で四等分に割って切れ目を入れ、パリパリ柴を挟んで仕上げました。そして親父の隠居と私の本宅のあちらこちらに供えて回りました。
 今朝新聞の折込に、明日シーサイド公園で節分祭りというイベントをする予告チラシが入っていたので、じゃこ天のお店と特産品のお店に飾るものも余分に作り持って行ってあげました。ついでにこのところの寒波で値上がりしていると聞いていた大根等も、家庭菜園から引き抜いておすそ分けしてあげました。御礼にといつもながらじゃこ天のお店ですり身を沢山いただきました。今夜は鍋物と天ぷらにでもして楽しもうと思っています。お陰様で今日は思わぬすり身の福が舞い込んできました。

  「オニグイを 山より切り出し 節分の 飾りを作る 古き風習」

  「オニグイの 飾りのお陰 福の神 すり身を貰い 夕食楽しみ」

  「今晩は 六十八個 豆食べる 挑戦したいが 残念ながら」

  「遍照院 厄除けの寺 偶然か 今夜その町 講演予定」

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○いっぷく亭にて

 伊予市の中心市街地灘町に、「いっぷく亭」という立ち寄り集会所があります。軒を並べた集会所界隈の商店街はかつて多くの買い物客で賑わったそうですが、色々な活性化の試みはするもののご多分にもれず、今は少し閑散として寂しい感じの否めない商店街なのです。
 この商店街を守っている商業協同組合の徳本理事長さんは造り酒屋の社長さんで、合併前の旧伊予市、旧双海町の時代ひょんなことから知り合いとなり、お互い何かにつけて付かず離れずの関係を保っていますが、徳本さんの周りには本屋、肉屋、写真館などの比較的若い大将が集まり、色々と知恵を絞って活動しているようです。その際たるものは県下のトップを切って行なわれる土曜夜市や五色姫復活祭、ひな祭り、住吉祭りなどですが、伊予駅前に道の駅的な交流拠点「町家」を造り運営も手掛けているのです。

 徳本さんは研究熱心な博学な方で、本来市役所がやらねばならない限界集落問題や、移住促進等にも目を向けて勉強会を立ち上げ、全国の先進地へ視察に行くなどしていますし、空き店舗を利用した「いっぷく亭」という立ち寄り集会所を造り、谷岡さんたちとワイワイガヤガヤやっています。私も何度か徳本さんに誘われて「いっぷく亭」でお話したことがありますが、昨日はその「いっぷく亭」でまちづくり講演会をして欲しいと頼まれ出かけました。昨日は朝から北西の季節風が吹き荒れ、時折みぞれ交じりのしぐれも降るあいにくの天候でしたが、狭いながらも用意したパイプ椅子が満席になるほど、沢山の方に集まっていただき、午後1時30分から一時間半に渡って私の四方山話を聞いてもらいました。
 私も色々な所へお話に行きますが、昨日のような額と膝をつき合わせるおばちゃん相手の講演会は大好きで反応も上々、時間を短く感じるほど大いに盛り上がりました。玄関先の窓越しからは行き交う通行人が見え、その通行人も講演会場内の楽しそうな雰囲気を珍しそうに覗き見しながら通り過ぎていました。

いっぷく亭での講演会

 

 講演終了後は谷岡さんの指図で意見交換が行なわれ、前回話した私の話に触発されて「ハガキを書くようになった」とか、「今日の話で自分にも何か出来そうな予感がした」などの意見が寄せられました。合併し新生伊予市が誕生してから早くも7年が終ろうとしています。集まった人に手を挙げてもらったところ、約半数もの人が私の顔を知っているのですから驚きです。徳本さんから昨日の講演会の手応えがいいようなので、来年度は春・夏・秋・冬と都合4回講演して欲しいと、昨晩お礼の電話と共にオファーがかかりました。私のような何ら値打ちのない人間にも、声をかけてくれるのですから、有難いと思い快く承諾しました。
 「合併はひとつもいいことはない」という言葉を巷のあちこちで耳にします。しかしもう後戻りできないのですから、一人ひとりの市民が合併したまちをいかにいいものにして行くか考え、行動しなければならないのです。私は合併したお陰で、伊予市の徳本さんや門田さんなどと一緒の市民になり得をしたと思っています。これからもたくさんの市民と知り合いになり、いい市民になるよう努力したいと思っています。

  「いっぷく亭 外は大荒れ 風吹くが 中は和やか 楽し雰囲気」

  「嬉しいね 寒いながらも 集まって くれる人あり まくりて話す」

  「話し聞き ハガキ始めた 言う主婦や 元気貰った 声が寄せられ」

  「面白き こともなき世と 言うけれど 考え一つ 面白くなる」  

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○学校が間もなく廃校に

 数日前大洲市立櫛生小学校の教頭先生から、「今年の三月末で学校が廃校になります。ついては最後のPTA講演会に来て講演してほしい」と電話がありました。この学校の森田校長先生は私の町の出身だし、教頭先生も前任校はわが町の下灘小学校だし、断わる理由もないので喜んでお引き受けすることにしました。
 講演会は午後2時40分からなので、昼食を終えてしばらくしてから家を出て、久しぶりに海岸国道378号、通称夕やけこやけラインをのんびり走りました。昨日は伊予路に春を呼ぶといわれる椿さんの縁日最終日で本来なら寒風吹きすさぶころでしょうが、気温は寒かったものの春近しを予感させるような穏やかな日和で、伊予灘の海も凪いで、長浜を過ぎると遠くに伊方原子力発電所の姿が見え、今更ながら原発の身近に住んでいることを実感しました。
 須沢を過ぎて櫛生の集落に入り、かつて講演で訪れたことのある公民館の前を通り過ぎ、川に沿って少し奥に入ると学校の建物が見えてきました。長浜の町に入った所で教頭先生から携帯電話が入り、「学校では縄跳び大会をしているので、校長室で待っていてください」と連絡があったので、校門近くに駐車して学校本館に入りました。

今年度で廃校が決まっている櫛生小学校

 

 校長室は内鍵がかかって中へ入ることが出来ませんでしたが、間もなく校務員さんが帰って来て内鍵を開けて校長室の中へ案内してくれました。お茶をいただきながら、校務員さんとお話をしました。私の話を聞いたことがあるとのこと、その時も木になるカバンを持っていたとのことなどを話していると、教頭先生が帰られ、そのうち校長先生も帰られて懐かしい話をしながら、それとはなしに子どもの数が10人、保護者家庭は8人、学校はこの3月で閉校などの話を聞くことができました。教職員も5人と小さな学校でしたが、学校が消えてなくなるとは思えない実に明るい雰囲気で、多少安心して講演会場へ入りました。
 会場には15人ばかりが集まり、和気あいあいでした。私に与えられた時間は約一時間でしたが、「子育ての失敗談」という面白い演題に沿うように面白い話をさせてもらいました。
 来年度から子どもたちは長浜の統合小学校にスクールバスで通うそうですが、学校がなくなると地域が寂れるという心配の声が多く寄せられているそうです。でも殆んどの人はこれも時代の流れと受け止め、他地域のように統合や廃校に抵抗することもなく今日を迎えているようでした。

 私たちの身の回りには少子化と高齢化、過疎化の影響で縮む社会の荒波が押し寄せてきています。それはこれまでの成長が止まり、下り坂を一気に転げ落ちるような大きな不安なのです。しかし縮む社会は田舎嘆きの十ヶ条のように工夫や努力をすれば解決できる問題ではないのですから、不安を通り越して諦めにも似た心境です。
 人間も地域も希望を失うと閉塞感が漂い、容易なことで立ち直ることは出来ません。学校が閉校になろうとしているのに学校の跡地利用についても、何ら明確な方針も示さない行政のやり方は、やはり大きな疑問が残るのです。地域の自立や自発を声高に述べてみたところで、このままほおっておくと、地域は完全に希望を失い廃墟と化すのです。これが近代化したと世界に誇る日本の姿でしょうか。「小学校は歩いて行ける距離」として明治以来地域の拠点となった学校が今消えようとしています。校庭に学校の歴史を見続けてきた学校のシンボルと思える楠の木が、印象的に立っていました。「学校とは木が交わって学ぶ」、「家は木の癖組み」など、誰かに教えてもらった言葉を思い出しながら最後の学校を後にしました。

  「来年は この学校も 消えるのか 落胆しつつ 楠の木見上げ」

  「学校は なくなるけれど 人は住む へこたれないで エールを送る」

  「学校は 木が交わって 学ぶそう コンクリートの 校舎空しく」

  「終わりなら 始まりだとも 思えよと ポジティブ生きる 方法学べ」 

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○せいよ再発見地域づくりグランプリ講演会・パネルディスカッション(その2)

 講演会の講師は地元学の第一人者吉本哲郎さんでした。吉本さんは熊本県水俣市役所に勤務され、在職中から国土庁地域振興アドバイザーや熊本大学非常勤講師などをされていましたが、2008年に退職してからも精力的に活動しているようです。
 私と同じような経歴を辿り、私と同じような活動をしていますが、私が地域づくり研究会議の代表運営委員をしていた頃、年次フォーラムに招いた折知り合い、その後出会いは殆んどないものの、お互いがお互いの存在や活動を認め合う数少ない心を許しあえる仲間のひとりなのです。

 地元学ネットワーク主宰という肩書きを持つ吉本さんは、水俣病とう過去の忌まわしい事実を受け入れた上で、水俣市を生まれ変わらせようと頑張った人です。この日はスライドを使い、分かりやすく参加者に語りかけるような彼独特の語り口で、講演というよりは議論のように約一時間話をされました。スライドにちりばめられた写真や言葉一つ一つに重みがあって、私も久しぶりにいい勉強をさせてもらいました。お土産に全紙大の大きな資料をいただきましたが、地域づくり応援隊の富田さんや支所の松本さんに差し上げたいと思っています。

土俵上でのパネルディスカッション

 

 講演が終わると土俵上でパネルディスカッションが始まりました。大相撲呼び出しに扮した乙亥会館の富本武夫館長さんの先導を受け木の音と共に入場し、土俵の上に設えられた力士用座布団に座っての討論です。ファシリテーターは前田審査委員にお願いしていたので、言われるまま私、門田さん、吉本さん、三好市長さんの順でそれぞれのテーマに沿って、ショートコメントのお話をさせてもらいました。
 こんな立派な土俵に上がることすら滅多にないのに、土俵の上に座って議論する粋な計らいは冥利に尽きる感じがしました。

 私は親類の従兄弟の葬儀が13時30分から伊予市ルミエールであるため、用意していただいた昼食も食べず、野村から内子まで出て、内子から伊予まで高速道路を走り、10分前にルミエールに着くという忙しい離れ業で、何とか故人や親類への面目を保つことが出来ました。「お父さんそんなことしていたら、親の死に目にも会えん」と妻を呆れさせましたが、世の中は前向きに生きていれば何とかなると、思った次第です。吉本さんが別れ際、「あんたも若くないのだから、体にはくれぐれも気をつけてね」と、握手しながらいたわりの言葉をかけてもらいました。吉本さんとは同じくらいの年齢とお見受けしましたが、私も人から見れば吉本さんのように、少し老けた(吉本さんには失礼)感じに見えるのでしょうか?。いや私は若松といわれるようにまだ若い!とも思いました。

  「久方に 出会った友と 旧交を 温めながら 若い日語る」

  「朴訥と した口調にて 淡々と 語る講演 何ともほのぼの」

  「土俵上 力士座布団 座りつつ パネル討議に 花を咲かせる」

  「鼻水が 出るほど寒い 会場で 思いを語る 熱気ムンムン」  

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○せいよ再発見地域づくりグランプリ(その1)

 3年前西予市より、「せいよ再発見地域づくりグランプリ」というコンテストの審査委員を、愛媛新聞の門田さん、邑都計画研究所の前田さんと私の3人で引き受けました。平成21年度は「祭り」、平成22年度は「食」、平成23年度は「地域づくり活動」とテーマを変えながら、市内の団体や個人から応募のあった事例について審査を行なってきました。
 過去2年間の実績を踏まえ、今年度は応募24団体の中から第一次審査で選ばれた11団体に集まってもらい、昨年末12月14日にそれぞれの団体の代表者からプレゼンテーションを聞き、それぞれの団体の代表者も審査に参加する新しい方法で2次審査を行ないました。その結果グランプリ1団体、準グランプリ2団体、審査員特別賞3団体の計6団体が選ばれました。

 一昨日その表彰式と記念の講演会、それにパネルディスカッションが西予市乙亥会館で行なわれました。8時30分までに会場入りしなければならないため、家を朝早い7時前に出て、双海~中山~内子~肱川~野村を通って、ほぼ予定通り乙亥会館へ到着しました、乙亥会館は昨年11月に開かれた乙亥大相撲を松本小番頭さんと二人で見学に行き、大相撲横綱白鵬や大関琴欧州などを見た馴染みの場所なので迷うこともなく一発でした。この日の野村盆地は放射冷却現象による白い霜が降り注ぐ寒い朝でした。東京の両国国技館を模して造ったという乙亥会館は、天井が高い体育館のような造りをしているし、あいにく暖房が故障というアクシデントに見舞われ、まるで冷蔵庫の中のような寒さでしたが、向う正面の座席を使った会場設営からあふれた参加者が隣の席に陣取るほど沢山集まって、まるで大相撲のような盛り上がりでした。

せいよ地域づくりグランプリ表彰式

 

 表彰式は審査委員長を務めた私がマイクで、審査員特別賞の「卯のほたる実行委員会」、「エコグループたんぽぽ」、「ごるぽっこ」の順に受賞団体を発表し、吊天井の下にある土俵の上で、まるで大相撲の表彰さながらに、市長さんから表彰状が手渡されました。ついで準グランプリの「筝・絹の会」「宇和わらぐろの会」が表彰され、いよいよグランプリ受賞団体の発表となり、「川津南やっちみる会」が晴れのグランプリを受賞し、賞金10万円を獲得しました。
 ついで「川津南やっちみる会」の戎さんが土俵の上に立って、日ごろの活動をスライドで紹介しながら弁舌巧みに発表しましたが、審査の時のプレゼンテーションといい今回の発表といい、とても素人とは思えないほど堂々として、皆さんの受賞納得となったようです。

 その後私も審査委員長として土俵に上がり、審査の経過や受賞団体の特徴、今後の活動への注文等を、与えられた15分ばかりの時間かいつまんでお話をさせてもらいました。「西予市は宇和町、野村町、城川町、三瓶町の5町が合併して8年前に誕生しました。海抜ゼロメートルの海岸から標高1400メートルの高知県境にまたがる、広くて高低差の大きい町となりました。それぞれの旧町の個性ある特徴はそのまま合併後の西予市に引き継がれていますが、せいよ再発見地域づくりグランプリ事業を通して見えてきた。輝きの部分は県内はもとより全国的に見ても素晴らしい誇りであり、大いに発展伸張させなければなりません。それと同時に見えてきた高齢化や少子化、限界集落等の影の部分も意識しながら、住民の自立に向けた協働と参画のまちづくりを力強く進めて欲しいと願っています。
 西予市が名乗りを上げているジオパーク構想も期待の持てる将来への構想であり、是非実現して欲しいと願いつつ、簡単ですが講評に変えたい思います。三年間お世話になり、ありがとうございました。」と締めくくりました。

  「三年間 審査のために 西予市へ バランス取れた いいまちですね」

  「合併後 着々成果 出している 首長リード お見事見事」

  「グランプリ 取った川津の 南地区 やっちみる会 自信溢れて」

  「嘆くより やるべきことを しっかりと やれば成果は ついてくるもの」   

 

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○飛び出す公務員(その2)

 1月28日の土曜日は、松山市内のあちこちで色々な集会が持たれていました。えひめ地域づくり研究会議恒例の年次フォーラムもその一つで、研究会議の運営委員をしている松本さんたち友人はそちらへ出席し、袂を分かつ格好となりました。私も4年前まで研究会議の代表運営委員をしていた義理もあって、そちらのフォーラムへ出席すべきでしたし、多少気になっていましたが、案内は先着順なので飛び出す公務員でのゲストコメンテーターを頼まれていたので、そちらへの出席となりました。地域づくりのこれらの集会は膨らんだ風船みたいなもので、対象となる参加者が同じよう顔ぶれのために、どちらかが膨らむとどちらかが萎む力学が働くので、研究会議の案内が多少遅かったり、強力な誘導をする人が少なかったため、飛び出す公務員のプログラムやパフォーマンスメンバーの興味もあって、明暗を分ける形となってしまいました。

野志松山市長さんと

 

 飛び出す公務員には、今話題の古川佐賀県知事さんも見えられるとあって、中村愛媛県知事さんや野志松山市長さん、井原市国中央市長さん、白石松前町長さんに加え、全国の首長さんも出席されるなど豪華な顔ぶれとなりました。別にこの人たち全てが偉い分けではありませんし、へつらうことはありませんが、日ごろは雲上人でこの人たちとお目にかかる機会が少ないので、私たち地域づくり人にとっては、絶好の名刺交換の機会となりました。
 私くらい長い間地域づくりに関わっていると、それら首長さんも親しくなっていて、無位無官なリタイアして値打ちの殆んどない私にでも気軽に声をかけてくれるのですから有難いものです。野志松山市長さんは南海放送在職中に人間牧場に来ているし、白石松前町長さんに至っては、ご自宅に招待されて美酒を味わっているのです。また中村愛媛県知事さんに至っては松山市長をしていたお父さんと親子二代に渡ってご厚誼をいただいているのです。

 この日は、かつて公民館がご縁でわが私設公民館煙会所を訪ねたことのあるまんのう町の竹林さんや、私のことを雑誌に記事として書いてもらった椎川総務省自治財政局長さんにも、久しぶりにお目にかかりました。ゲストコメンテーターとして発言した私の話を聞いて首長さんから早速口頭で講演を頼まれたり、まあ初期の目的は大いに達することが出来ました。
 この日司会進行をした県庁の真鍋県民活動推進課長さんや、中心になって運営した県民活動推進課の河上さん、地方局地域政策課の前神さんの奮闘ぶりも見事で、飛び出す公務員として大いに気を吐いていたようです。
 公務員が飛び出しただけで地域がよくなるほど甘いものではありません。でも飛び出す勇気を持った熱い人がこんなにいるのですから、日本は少しずつ替わるはずです。私のような田舎町の公務員でもその気になってやれば、町が変わったのですから不可能ではないのです。一転突破主義で大いに頑張って欲しいと念じながら、心を熱くしして会場を後にしました。

  「飛び出して 何をするかが 問題だ やる気になれば 一つや二つ」

  「久しぶり 握手求める 首長さん 私のように 値打ちなくても」

  「なせばなる 一点突破の 気概持つ さすれば人は ほおっておかない」

  「人生は やる気になれば 面白い 公務員でも 何か残せる」

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