人間牧場

〇紙芝居&ウクレレショーイン下灘駅

 

松本さんから送られてきたチラシ

 10月の初め、年輪塾小番頭の松本さんから下灘駅でのイベント情報に関する、メール配信がありました。私にとって目下のところ地域づくりの情報源は、小番頭の松本さんと舞たうんですから大いに助かり、私のスケジュール表に色々と書き込んで利用していますす。送られてきた情報は10月14日が鉄道の日ということで企画された、「紙芝居&ウクレレショーイン下灘駅」というイベントでした。
 そのイベントにちろりん農園の西川さんや年輪塾の青木晴美さんも出演するというし、まちづくり双海人が餅つきをするというので、私も枯れ木も山の賑わいとばかりに出かけることにしました。

西川さんのウクレレ
晴美さんのオカリナ演奏

 昨日は午前中わが家の家庭菜園で、サツマイモの堀上作業を一人でしていて、急いで昼食を終え狭い駐車場のこともあるので単車で出かけ、開会ギリギリの1時にやっと間に合いました。オープニングを飾る西川さんは既にスタンバイをしていましたが、笑顔で久しぶりのあいさつを交わし、青木さんともお話しすることができました。昨日の下灘駅は風もなく穏やかな一日で、子どもたちが紙芝居に出演することもあって、まあそれなりの人が集まっていました。嬉しいのは西下さんや戸田さんといった馴染みの人も私と同じように顔を見せていたことです。

本物の紙芝居

 駅前の空き地では浜田さんたちを始め、お馴染みの双海人の人が、かいがいしく餅を作っていました。餅つきは先日試作したブルーベリーや、春菊、梅干しを使った珍しいものが、パックに入れられ200円で販売されていました。道を挟んだ片方では前神さんたちがコーヒーやドーナツを販売していました。
 この日のメインは紙芝居で、小川さんの軽快なトーク司会で地元の子どもたちや読み聞かせ隊の手作り紙芝居、松山からやって来たグループの紙芝居など、とても興味が持てる内容で大いに盛り上がっていました。西川さんのウクレレも、晴美さんのオカリナも綺麗に咲いたコスモスの花と共に聞き応え見応えがあって中々のものでした。

 

餅つき

 

西川さんと二人で

 私は夕方、わが家へ講演の打ち合わせにやって来る、お客さんとの待ち合わせ時間があったので、プラットホーム横での餅つきを見てからお暇しました。それにしても下灘駅をフィールドミュージアムにした催しは色々あるものです。老人会や公民館等の地道な活動によって、美化も随分進みましたが、国道から見えるJRのドハはまだ手付かずの状態だし、駅舎の中も何とかしたいものですが、そろそろそういった鳥の目の取り組みも必要かも知れません。折角植えた桜の苗木も葦竹に隠れて一向に育ちません。妙案を作ってそろそろ次へ進むには、力と智恵が揃った今が適期かも知れません。

  ちなみに鉄道の日は、10月14日は新橋・横浜間に日本発の鉄道が開通したことを記念して制定されたもので、下灘駅は今から77年前の昭和10年6月9日に開業しています。

         「親友が 出演すると 言う話 駅に駆けつけ そを聞きに入る」

  「ウクレレや オカリナ音色 澄み渡り コスモスの咲く 駅を彩る」

  「餅ついて イベント足しと 目論むが 客少しだけ 物足りなくて」

  「紙芝居 子どものころを 思い出す 5円握って 手に汗握る」 

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人間牧場

〇一年に一度の懐かしい呑み会

 「市町村職員年金者連名伊予支部双海分会」という会員60人足らずの、私が所持区している小さな団体があります。昨年その総会に出席したところ、副会長が会長に格上げされる申し送りで、断わる理由もなかったため会長となってしまいました。会長といっても年に一度の総会の日程や場所を何処でするかを決めるだけの権限で、後の事務全般は地域事務所の課長さんがやってくれるので、何の造作もなく今年も10月12日に地元の料理屋双楽で総会を開きました。
 総会には18人の方が出席され、私のあいさつや会計報告、監査報告も5分ほどで済み、お楽しみの呑み会となるのです。

 昭和30年に下灘村・上灘町が合併して、双海町が誕生して56年余りが経ちましたが、出席者の中には旧双海町以前の下灘村・上灘町役場時代を経験している人もいて、懐かしい昔話に花を咲かせました。幾星霜を超えた昔話は時として懐かしく思い出されるもので、私も隣に座った戸田さんとかなり長い時間お話をしました。戸田さんはパソコンや携帯電話といった、デジタル情報のない時代に仕事をした人で、勿論私も辞める少し前に仕事がデジタル化されたものの、それらが仕事の大半を占めるまでには至りませんでしたが、辞めてから一念発起して独学でどうにかパソコンや携帯電話を使っているものの、時代遅れな人間であることは自分自身が自認しているのです。

 パソコンは非人間的だと、戸田さんが言う話には私も少なからず同調しますが、だからといって私からパソコンや携帯電話を取り上げてしまったら、まったく情報源を断たれてしまうことになるのです。私が毎日2本書いているこのブログ記事も、戸田さんや集まった殆んどの先輩・同僚の人には伝わるすべもなく、正直なところ時代感覚の差を感じてしまいました。
 集まった人たちのもっぱらの関心事は、集まらなかった会員の音信でした。幸せなことに今年度は会員の訃報を聞くことはありませんでしたが、Aさんが脳梗塞で入院しているとか、Bさんが病気になったとかいう風の噂を聞く度に、悲しい気持ちになるのです。

OB会の記念写真

 元気で過ごしているのに、この会に顔を見せない人も何人かいて、余り大きな声では言えませんが、「あいつは付き合いが悪い」と悪口を言われていました。まあ価値観は人それぞれで、昔を懐かしむだけで何の特典もない呑み会ですから、ほかの事を優先する気持ちも分かりるのです。でも進み行く社会の中で、人生の殆んどを費やして共に職場で生きてきた人たちと出会って、束の間にせよ当時を懐かしみながら酒を酌み交わすのも悪いことではないと、私はこれからも許せる限り参加しようと心に決め、「来年も元気で」と再会を誓い合い散会しました。

  「デジタルな 時代だからこそ 逢うことに 意味があるんだ 集まり呑もう」

  「人生の 大半共に 過ごしたる 先輩同僚 あの日あの時」

  「進めども 少し遅れた 人たちと 感じながらも 時間共有」

  「来ない人 悪口肴 これもまた 楽しきことと 盛り上がり呑む」

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人間牧場

〇幼稚園の運動会そして人権同和参観日講演会

 このところ秋晴れの日が続き、雨らしい雨が降らないため、家庭菜園に植えた冬野菜の苗が少し萎れそうなので、夕方暇を見つけてジョロで水を掛けています。それでもこのころ、は朝になると白露とでもいうのでしょうか、夜の間に畑に露が降りてしっとり濡れているよな感じがして、野菜の苗も次第に元気を取り戻しているようで、ホッと一息ついています。
 今日は松山に住む孫尚樹の幼稚園の運動会でした。午前8時に近くの病院に診察予約していた妻を連れて行きました。病院の入口にはかなりの人が開門受付の始まるのを、行列を作って待っていましたが、予約制なので悪いと思いなが、ら診察室へ呼び込まれ診察を受けていました。私は外で車のフロントガラスや側面ウインドーを、専用のタオルを使って拭き掃除をしました。そういえば最近車を洗っていないことに気がつきました。今日は運動会の後石井北小学校へ公園に行く予定なのに、この車ではた思いつつ拭いたお陰で幾分綺麗になったようでした。

愛媛幼稚園の運動会

 足を怪我している妻を、とりあえず星岡の愛媛幼稚園入口で降ろし、私は近くの駐車場へ入れて、歩いて行きました。運動会はもう始まっていて、娘や娘婿、それに妻や小学校4年生の孫朋樹を直ぐに見つけ、私は立ったまま、園児のかけっこを見学しました。そして園児の群れの中に孫尚樹を見つけて声援を送ってやりました。6人が走って2番でしたが、一生懸命走る姿はどの子も同じような格好をしていて、見つけにくいのですが、孫朋樹も同じ幼稚園に通って、同じ場所で見学していることもあって、どの子が孫尚樹なの直ぐに見つかりましたが、隣で見学していた比較的若いおばあちゃん二人は、自分の孫を見つけ出すことができず、がっかりしていたようで、少し可哀想な気もしました。

石井来た小学校からいただいた花束

 私はひと足早く愛媛幼稚園にお暇し、駐車場から車を出して、カーナビに石井北小学校への道順を案内してもらい、少し時間が早いようでしたが、学校内に入りました。このところ学校へはよく講演に出かけますが、学校の何処が正門なのかがよく分からず、右往左往することがあります。今日も入口は分かったものの何処へ駐車していいか迷いましたが、まあ何とか駐車することができ、教頭先生の案内で校長室へ入りました。教頭先生から昔松山工業高校のPTA会長をしていた頃、同じように他校のPTA会長をしていた朝村さんが逢いたいと伝言があり、呼びに行ってもらって懐かしく再会しました。
 講演は11時20分からでしたが、少し早めに進行していて、予定より5分前に体育館で講演は始まりました。私の持ち時間は50分ほどですが、会場には知り人の山口信行さんも話を聞きに来られていて、少し赤面の感じでしたが、何とか「思いやりのある心を育てる」というタイトルの、話を終えることが出来ました。講演終了後花束までいただき恐縮してしまいました。人権同和参観日だったこともあり、余り砕けることもできませんでしたが、まずまず反応は良かったようです。

  「運動場 どの子も同じ 背丈にて 孫を見つける 至難の業だ」

  「かけっこで 2等賞なり 得意顔 みんな主役で みんな金メダル」

  「元気かと 何年ぶりか 再会す お互い歳を とった実感」

  「講演が 終わり立派な 花束を 顔を赤らめ 穴があったら・・」 

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人間牧場

〇ススメバチの襲撃

 秋も次第に深まって、全国各地から紅葉の便りが届くようになりました。県内では松山祭りを皮切りに秋祭りの話題も、新聞紙上や友人ブログに書き込まれていて、昨日の夜は伊方町三崎二名津の秋祭りの模様を、親友浅野長武さんのブログで興味深く読ませてもらいました。浅野さんのブログはまるで動画のように、写真を連続して紹介してあり、私には真似のできない芸当だと、いつも感心して見ているのです。
 秋といえば最近何処からともなく、香しい金木犀の香りが漂ってきます。散歩の途中でその香りの木が隣の家の庭にあったことを始めて発見して、昨日の朝は小さな驚きでした。

 昨日散歩から帰って裏山に置いてある、ミツバチの巣箱を見に行きました。するとどうでしょう。巣箱の前でスズメバチが5~6匹群がって、ミツバチを襲っているようでした。これは大変と虫取り網を持ち出してスズメバチを捕獲して、虫取り網の上から刺されないように踏み潰しました。生き物を殺すことはたとえ悪態を重ねるスズメバチでも、心が痛みますが、それでも夏の間一生懸命蜂蜜を集めてくれた、ミツバチに少しでもご恩返しをしなければと、心を鬼にして次々と飛来するスズメバチを10匹以上捕獲して殺しましたが、巣箱の入口にはスズメバチに噛み殺された無数のミツバチが無残な姿をさらけ出していました。

巣箱の中の蜂球の様子

 ついでに巣箱の掃除をしようとステンレスのヘラを持参して、そっと巣箱の下板を抜き、ミツバチの糞やスムシを取り除きました。そしてデジカメのストロボをONにして差込み、巣箱の中の様子を覗いてみましたが、2つの巣箱の中上に蜂球が確認されひとまずホッとしました。しかしスズメバチの襲来を受けた2つの巣箱はその後ミツバチの出入りがなくなり、残念ながら蜂の越冬はなくなってしまいました。今年は採蜜も、その後の蜂の出入りも順調だっただけに、残念ですが仕方のないことと諦め、とりあえず残った2つの巣箱を大事に見守りたいと思っています。

 今朝息子が、最近愛読している日本ミツバチという本を読むよう勧めに、わが書斎へ持って来てくれました。ざっと目を通しましたが、その本の結びに、「在来種は(日本ミツバチ)日本の宝だ」という言葉に惹かれました。「その土地にしか存在しないミツバチ、在来種は地域の宝である。そんなミツバチが地域の花々から集めたハチミツはそこに住む人々の食の財産でもある。人間もまた在来種なのだから・・・」と書かれたくだりは同感なのです。また「垂れ蜜は滋養豊富で、ある人から肝臓の数値が改善されたと喜ばれた」という言葉にも納得しました。さあ来年も養蜂を大いに楽しみたいと思います。来年の目標は?・・・・。

  「スズメバチ 巣箱の前に 陣取って ミツバチ襲う 私撃退」

  「あちことに 噛み殺された ミツバチが 転がり無残 可哀想にと」

  「袋網 使って捕獲 スズメバチ 可哀想だが 殺さなければ」

  「ミツバチも 私と同じ 在来種 食の財産 蜂蜜なめる」

 

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人間牧場

〇わが家の思わぬハプニング

 昨日の朝、わが家ではちょっとしたハプニングが起こりました。昨日は毎週一回のプラスチックごみの収集日でした。妻は朝ご飯を作りながらプラスチックごみを集めてゴミ袋に入れ、10メートル以上離れた県道沿いの収集場所にゴミ袋を持っていった帰り道、スリッパの先が少し段差のある道に引っかかって転倒したようです。スネと手の平を怪我し、リバテープで応急処置をしたものの所々血が滲んで、見るも無残な痛々しい姿になっていましたが、仕事があるので痛みを堪えて自転車で500メートル向うの職場へ出かけたようです。

 私は昨日の午前中、前日の草刈りの後片付けやコンニャク畑の草引き作業が残っているため、人間牧場へ出かけて作業に汗を流しました。弁当も持っていないし、携帯電話で講演依頼があったものですから、その確認もあって12時過ぎにわが家へ帰りました。
 家の居間には昼食に帰った妻がいましたが、どうも様子がおかしいのです。聞けば自転車に乗って職場まで出かけて、自転車を降りた瞬間スネに激痛が走ったようで、仕事を続行するのが困難と判断し、勤務先である歯科医院の若先生が自宅まで運んでくれたそうでした。

 早速着替えて近くの病院へ行こうとしましたが、私の介助がないと歩けないため、玄関先に車を回しやっとの思いで車に乗せ、たけます医院へ運び車椅子を借りて診察室へ入りました。12時30分だったので午前中の診察に何とか間に合い、診察をしてもらいましたが、レントゲンの結果骨に異常はないものの、打撲衝撃で内出血してかなりの溜まった血を、注射器で取り出したようでした。肉離れと診断されたようで診察室から出てきた妻は松葉杖をついて、少し歩けるようになっていました。

 近くの薬局で薬を貰い、自宅へ帰ったものの動くこともできず、私が用意した椅子に座らせ、布団を敷いて寝かせました。事の重大さに疲れたのか昼食も食べず妻は眠っていたようでしたが、トイレに行くのも一苦労のようで、はてさてこれからどうしようと内心困ってしまいました。
 とりあえず夕方仕事先から帰った若嫁が、私たちの夕食と親父の夕食を作ってくれました。私も何かをしなければならないのでしょうが、日ごろ何もしない私にはなすすべもなく、結局松葉杖をついた妻の指導で、冷蔵庫から鱧の骨切りしているパレットを取り出し、小切りにしてフライパンで鱧の付け焼きをすることにしたものの、容量が分からず妻の言うままに醤油や砂糖を入れ、言うがままに付け焼きをしました。

 少し時間が早かったものの、食事の準備できたので、二人で若嫁の作ってくれた煮物や焼き飯に鱧の付け焼きを加えて、美味しく夕食を食べました。降って湧いた妻の怪我で、わが家の暮らしの歯車は大幅に狂ってしまい、私はただ右往左往するばかりでした。若し妻が倒れて私が介護する身になったらどうしようと、正直なところ思いました。家庭では文句ばかり言いながら、自立できていない自分を情けなく思いましたが、「これを機会にあなたも自立してね」と憎たらしくも正直な言葉を妻に言われ、少しだけ考えさせられた一日でした。妻の怪我が早く全快することを祈っています。

  「ゴミ出しで スッテンコロリン 妻転ぶ スネに怪我して 立ち上がれもせず」

  「病院で 手当て受けたが 松葉杖 頭かすめる 寝たきりの妻」

  「妻の怪我 私は動転 何もせず 右往左往と 言われるままに」

  「松葉杖 ついてトイレへ 行く妻の 不自由見つつ 同じ布団で」

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人間牧場

〇人間牧場での修行

 修行は、仏教における精神の鍛錬を意味する用語です。財産や名誉、性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から開放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することをいいます。人間牧場は財産や名誉・性欲から開放された人間的平等社会をうたっているのであるなら、ある意味人間牧場での様々な活動は何の報酬もないので修行だとも思えるのです。
 数年前人間牧場を造った時、その構想を新聞で見た浜田久男さんが人間牧場建設現場を訪れ、「人間牧場で修行したい」と仰々しい申し込み書面を持ってやって来ました。7年も前の出来事ですが、私は今でもそのことをはっきり覚えているのです。人間牧場の建設だけに目と心が向いていた私にとって、この一枚の書面は「何のために人間牧場を造るのか」といった、目的(基本コンセプト)を考えさせられる、ある意味大きな衝撃でした。人間牧場へやって来る人はどうであれ、少なくとも自分にとって人間牧場は「人間修行の場所」でなければならないと思ったのです。

小豆色のススキの穂ばらみ

 私は修行の基本を「求心力」に置こうと思いました。自分の外面より心の内面を研くことです。内面を研くには座禅がありますが、私はむしろ静的な座禅手法より額に汗して働く動的な実践を重んじ、汗の代償として何かを学ぶのです。手っ取り早いのは「掃除」です。かつて松下幸之助さんから学んだ「掃除もできない人間は大口を叩くな」という言葉に心を動かされて、これまでにも掃除修行をやって来ました。今では語り草となってしまった、シーサイド公園での毎朝3時間の掃除を役場を退職するまでの12年間、やり続けることができたのも、修行だと思ってやったから出来たことなのです。
 私は浜田さんの修行入門を認め、以来たった二人だけの修行を今も続けているのです。浜田さんは一年に三~四回人間牧場へ修行と称し一人でやって来ます。そして私と二人で水平線の家の掃除をしっかりするのです。昨日は「時間が空いたから」と午前11時頃にやって来ました。私は今年最後の草刈りの最中だったので、とりあえず水平線の家の部屋内の荷物を浜田さんと二人で全部ウッドデッキに出して、部屋を空にしただけで草刈りに専念しました。

一人黙々と掃除をする浜田さん

 浜田さんは空になった部屋を箒で丹念に掃き、掃除機で埃を吸い込ませてから、板間にワックスを刷毛で塗って行くのです。普通は私と二人で分担するワックスかけを一人でするのですから、涼しくなったこの時期とはいえ、額に汗を滲ませて文字どおり孤軍奮闘でした。
 草刈機のエンジン音にかき消されて、昼の音楽サイレンも聞き取れないほどでしたが、ひとまず12時を過ぎたので、エンジンを止めて草刈り作業を中断しました。ウッドデッキに上がってみると、ワックスかけは終わりに近づいていました。その後私が持参していた妻手作りの握り飯弁当を二人で分け合って食べながら色々な話をし、浜田さんは何事もなかったように人間牧場を去って行きました。
 私の修行は、刈っても刈っても直ぐに伸びる草刈り作業です。今年も黙々と草を何回刈ったことでしょう。先日は草を刈ったばかりの人間牧場への進入路を、10メートル以上にわたってイノシシに荒され、車も通れないほどになりましたが、これも天が与えた修行だと思えば、汗をかくことの意味があるとばかりに、黙々と取り除きすっかり綺麗になりました。浜田さんと私だけしか知らない修行はこれからも続きそうです。

  「修行だと 思う草刈り 秋迎え 一段落と 一息つきぬ」

  「小豆色 ススキ穂ばらみ 秋迎え 季節の移ろい 感じながらも」

  「七年も 続いて掃除 する二人 いい汗かいて 人を迎える」

  「北東の 風吹く秋の 一日を 人間牧場 こまごま動く」  

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人間牧場

〇手作りのポストカード

 私は「毎日3枚ハガキを書いたら人生が楽しくなる」という言葉を信じて、毎日ハガキを3枚書いていますが、忙しい時には表書きはさて置き、裏に書く文章にそれほど詳しく書く暇がないので、手持ちのプリンターで、パソコンに入っている写真の中から適当に見繕って、写真入のポストカードを使ってごまかしています。こうすればポストカードの半分を写真で埋めれて、書きスペースが大幅に減り、ハガキを書く時間が短縮できるのです。最初はそんなよこしまな考えで始めた、写真入りのポストカード作りでしたが、最近はこれが馴染んで結構楽しんで使っているのです。

 昨日は夕方食事が終って、ノルマのブログを一本書き終った後、9月の記事をプリントアウトして一冊の綴りを作りました。プリンターから出てくる9月に書いた記事を見ながら、一ヶ月があっという間に過ぎて行く時の流れの早さに、内心驚きながら少しの間時を過ごしましたが、さて手持ちの官製ハガキに、とりあえず夕日の写真を挿入してプリントしようと思い、パソコンの中身を検索したところ、面白い写真を見つけました。多分何処かへ講演で出かけた折見つけたものを、デジカメで撮影したものと思われますが、知人友人に出すハガキくらいならいいだろうと勝手に思い、早速ポストカードを20枚ほど作り、この1週間に出会った人に、何と20枚もハガキを書いてしまったのです。

 「お父さん、疲れているのだから早く寝ないと」と妻から注意を受けましたが、気がつけば20枚のハガキを書き終わった頃には、12時を過ぎて今日になっていました。「1日三枚」を日課にしている私ですが、久々に「一日20枚」のハガキを書いてしまいました。故に昨日は朝書いて投函した3枚を加えると、23枚も書いた計算になるのです。三枚で幸せになるのなら、23枚では大々的な幸せだと勝手に思い込んでしまいました。さて昨日選んでポストカードにしたお目当ての夕日の写真は、珍しい飛行機と夕日の組み合わせでした。

夕日を抱えた飛行機

 私は夕日に魅せられた、いわば夕日の気違いとでも言うべき人間で、これまで沢山の夕日の写真を撮ってきましたが、その殆んどはデジカメで簡易にブログ用に撮影したもので、画質も画素数もそんなに良いものではありません。ゆえに引き伸ばすこともできませんが、まあブログとポストカードくらいなら何とか活用できるのです。昨日作ったポストカードの夕日は掲示された印刷物を、デジカメで撮っているので醜いのですが、まるでメダカが卵を抱えて産み落とす時と同じように、飛行機が夕日を腹に抱えて飛んでいるいる、一瞬のシャッターチャンスなのです。こんな写真は余程の技術とチャンスがないと撮れないのです。いやあ凄い写真です。

  「PCの 中に内臓 した写真 ポストカードに プリントアウト」

  「絵葉書を 作る楽しみ 見つけたり 省エネタイプ 文字半分で」

  「二十枚 ハガキ書いたら 幸せが もっと増えたと 一人喜ぶ」

  「ああ今日も 幸せでした 感謝して ハガキ三枚 ノルマ達成」

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人間牧場

〇松山地方の秋祭り

 10月に入ると県内のあちこちで、五穀豊穣と家内安全を願った秋祭りが行なわれるようになってきました。東予地方新居浜の太鼓台や西条のだんじり、南予地方の牛鬼や五鹿踊りなどのような大掛かりで有名な祭とは違って、私たちの住む中予では、神輿と獅子舞くらいしかない比較的地味な祭りですが、それでも松山の喧嘩神輿や、神輿を海に投げ込む北条の祭りなど、それなりに祭りは盛り上がっているようです。
 県下のトップを切って昨日まで松山では秋祭りが行なわれていました。昔は神輿を担ぐのは男性ばかりで、女人禁制のようでしたが、今は威勢のいいお姉ちゃんが蓮を作って女神輿を担ぐ、勇ましい姿も見られるようです。しかし概して田舎では、祭りが平日では担ぎ手が集まらないため、祭りの日を土日にするなど対応はしているものの、右肩下がりのようです。

孫尚樹

 

神輿を担ぐ園児たち

 祭りに一役買うのが地元の保育園や幼稚園の園児で、可愛らしい子どもが豆絞りの祭りと書いた鉢巻を締め、ワッショイワッショイと掛け声を合わせて、町内を練り歩く姿は何ともほほえましいもので、子どもたちも祭りの盛り上げに一役買っているのです。
 4日前松山に住む娘から、「孫の尚樹が神輿を担ぐのだけど、平日なので私もも主人も仕事で見に行くことができないので見に行って欲しい」旨の電話が入りました。あいにく妻もこの日は仕事で、私も夕方から遠出の出張が予定されていましたが、午前中だというので私がその役割を引き受けました。
 孫は松山の飲み屋街のど真ん中にある、愛媛幼稚園に通っています。わが家から車を走らせても40分はかかります。幼稚園近くの有料駐車場に車を止め、歩いて幼稚園へ行きました。兄の朋樹が同じ幼稚園だったので、先生たちも私の顔を覚えてくれていて、不審者と間違われずに園内に入れてもらいました。

大街道一番町口付近での記念写真

 やがて10時30分になると園児たちが、鉢巻をして教室から出てきました。かなりの人数なので同じような背丈の同じような格好をした園児の中から、目当ての孫の姿を探すのは大変ですが、孫尚樹も私が行くことを知っているので、早速目と目が合いお互いが手を挙げてあいさつが出来ました。近くの大街道まで歩道を歩き、歩行者天国の大街道で、既に運ばれていた神輿に、順番で群がりひと班10メートルほどをリレーするような形で練り歩きましたが、写真が撮りづらいほど人が群がって、私も一緒に歩きました。
 年中組の孫尚樹は意外とクールな姿で神輿を担いでいたようでした。私は娘に頼まれていたのでその一部始終をデジカメに治めましたが、そのデジカメを持ったまま、少し長めの旅に出たので、すっかりそのことを忘れていました。昨晩妻がその写真を見たいというので、デジカメを取り出し見せてやりました。老眼に虫眼鏡という何とも可笑しな格好で、デジカメ写真を見る妻の姿に、思わず吹き出してしまいました。今日あたり写真をプリントアウトして娘の元へ送ってやりたいと思っています。
 私たちの町の地方祭は今月22日・23日の両日に行なわれる予定です。

  「幼稚園 祭り鉢巻 凛々しいが 同じ格好 誰が誰だか?」

  「手を挙げて 私の存在 確認し 孫はほほ笑み 私も笑顔」

  「お神輿に 父兄集団 ゾロゾロと デジカメ・ビデオ まるでスターだ」

  「注連縄と 幟はためく 商店街 歩行者天国 練り歩きつつ」 

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人間牧場

〇滋賀県米原へ講演に出かけました(その1)

 「私を知っている人が日本全国にはどの位いるのだろうか?」と思いつつ、老いのわが身も省みず知人友人からのお誘いの言葉を真に受けて、昨日は滋賀県米原市まで出かけました。何がきっかけでこのまちと出会ったのだろうと、比較的長い道中の間、歳とともに薄れ行く記憶の彼方を必死に探すものの、結局探し当てることは出来ませんでしたが、会場に来てくれた澄子さんとの思い出話で、やっとその疑問の館から抜け出すことが出来ました。
 聞けば澄子さんこと澄ちゃんと出会ったのは、私が双海町役場で地域振興課長をしていた頃、福井県鯖江市で開かれた地域づくり全国大会だったそうです。私と同僚の二人で優秀地域づくり活動団体にノミネートされ、発表で順位を競うという大会に参加していました。学習院大学大学院教授の伊藤滋先生が審査委員長、審査委員にはNHKの山根基世アナウンサー等、そうそうたる人が名を連ねて壇上に居並び、私たちはその前で8団体の一つとして発表をしました。審査の結果は国土庁長官賞、全国地域づくり団体実行委員長賞という最高賞を受賞し大いに気を吐いたのでした。

 その日の夜のレセプションでは私たちの前に長い行列が出来、持参した名刺が一夜で300枚も売り切れたのです。私は多い時は一ヶ月600枚もの名刺を使っていましたが、自分の人生の中で一日の名刺使用量の最高を記録したのです。その時澄ちゃんも300枚の中の1枚を名刺交換したようで、私は澄ちゃんの名刺を見て、「役場のまちづくり担当者になったからまちづくりの仕事をするのだったら、できるだけ早く止めなさい。まちづくりは地域住民である限り一生の仕事にするような気概を持ってください」と言ったそうです。澄ちゃんはそのことをしっかりと覚えていて、役所を辞めた今もルッチ大学の卒業生たちが組織した団体の代表として、指定管理者となってまちづくりに貢献しているのです。
 米原と合併した旧山東町のルッチ大学にはそのことがご縁で、以後何度か招かれ、ルッチ大学の修学旅行先にわが町を選んでもらったこともあって、ルッチ大学生を沢山知っているのです。

駅前壁面を飾る東日本大震災と親子

 

元町長さんと澄ちゃん

 米原駅に1時間ばかり早く着いたので、生涯学習課の担当である長野温子さんに電話を入れ、改札口を出た所で迎えの車を待っていました。正面の壁面に東日本大震災の現場で「親子」というテーマで写真を撮り続けている写真家ブルース・オズボーンという人の写真展が開かれている写真が目に留まりました。陸に打ち上げられた船や漁具、瓦礫の中で親子が写っていました。真ん中には米原市長さんのメッセージがあったので、一通り読ませてもらい、直ぐに紙の裏に走り書きで書き写しました。
 「日本百名山の一つ息吹山を有し、国内最大の湖・琵琶湖の一大水源である「水源の里まいばら」は多くの生き物や農作物を育む水や空気のふるさとであると同時に、「この繁栄した現在に生きる人々の心のふるさとでもあります。しかし、同じように日本の繁栄を支えてきた東北の多くのまちでは、東日本大震災によって大きな被害を受けました。被災地では今も多くの方々が力を合わせ、逆境に耐え、様々な苦悩と懸命に闘っておられます。
 水源の里の理念は、上流と下流の支えあいの中で活動を行い、過疎化、高齢化により地域の活力が低下している集落の、持続的発展を目指すものです。その鍵となるものが、ふるさとを育んだ親子の絆であり、人と人との絆、地域の絆であります。米原市はこの失われつつある絆を再生することこそが、現代が抱える課題の解決につながり、まちの未来を築くためにとても大切なことであると考えています。(以下略)
                      滋賀県米原市長 泉峰一

 

車椅子で面会に来てくれた九十二歳の杉本さん

 

米原の曳山まつり

 いやあ素敵なメッセージでした。私はこのメッセージを午後からの、講演とパネルディスカッションで紹介しようと思いました。米原駅の東口で迎えの車を待っていると、米原曳山まつりの曳山が賑やかに曳かれているのを、ラッキーにも遠目に見ることができました。全国各地にはそれぞれ地域に相応しい祭がありますが、残念ながら近くでは見れなかったものの、いいものを見せて貰いました。
 会場となっているルッチプラザはこれで3度目ですが、施設も人も変わらぬ姿で私を温かく迎えてくれました。特に92歳になる杉本宇エ光さんが車椅子を使って、私のいる控室まで面会に来ていただいたことは大きな驚きでした。杉本さんは高齢のためデイサービスに週に4回通っているようですが、私が吹いたハーモのかの音色を覚えているそうで、硬い握手を交わしてくれました。いやあ何よりも嬉しいことでした。

  「澄ちゃんの 話によれば 福井県 鯖江で名刺 ドラマ始まる」

  「車椅子 九十二歳の おじいちゃん 私に逢いに やって来てくれ」

  「米原の 駅にて曳山 見るチャンス 伝統文化 ここに息づく」

  「駅前の 壁面飾る 写真展 メッセージ読み 走り書きする」 

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人間牧場

〇木になるカバンを提げて明日も全国行脚

 「よく行く所もあるねえ」と妻が感心するほど、この歳になっても全国各地からお声がかかり、その度に愛用の木になるカバンを提げて、全国行脚を続けています。双海町役場を退職してから早いもので7年半が経過しました。訪ねたまちの数はおびただしく、出会った人の数は数え切れないほどです。
 最近スローライフという言葉をよく耳にしますが、田舎に住んでいるからスローライフというのは大間違いで、都会に何となく住んですることもない人から比べると、私の場合に限ってはハイスピードライフではないかと思うのです。とにかく一日が忙しくて楽しいのです。

 昨日は愛媛県だというのに広島県尾道市因島を経由して、講演に出かけました。講演のない日は畑仕事や人間牧場での活動、各種集会への参加などスケジュールはかなり過密です。こうした状況がいつまで続くかは疑問ですが、まあ今が青春と思って楽しく生きたいと思います。
 明日は出張でブログがかけないため、明日の分を今日短か目に2本書いておきます。明日お急ぎの方は私の携帯へお電話ください。

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