人間牧場

〇大きな鯛が届きました

 昨日の夕方玄関先から、「おじいちゃん大変大変!、大きな鯛が届いた」と、甲高い孫希心が家中に大声を響きわたらせながら、台所横の部屋にいた私の元へ走って報告にやって来ました。私は孫に手を引かれて玄関に出てみると、5キロもあるような立派な鯛が置かれていました。息子嫁の話によれば長男息子の仲の良い漁師さんの和田さんが、持って来てくれたそうです。孫の声に釣られて妻も出てきましたが、家族全員が立派な鯛を見ながら、「ここはおじいちゃんの出番ですね」と、妻も若嫁も私に鯛の調理を頼み、妻は「今晩はこの鯛の刺身で握り寿司をしよう」と決め込み、準備のためさっさと引き上げてしまいました。

大きな鯛が届き大騒動の孫たち

 私は少し肌寒くなったため着ていた、薄手のジャンバーを脱ぎ、早速調理の準備を始めました。調理の前に鯛を持った孫たちの写真を撮ってやろうと、デジカメを持ち出し、鯛の尻尾付近に手が汚れないようキッチンペーパーを巻きつけて持たせましたが、3歳と5歳の孫には重過ぎて、用意した発泡スチロールのトロ箱の上に何度も落として終いました。また二人が動くためピントがずれましたが、まあ何とか鯛の姿だけは記録に留めました。
 さあ私の出番です。裏の調理台にまな板と魚専用の出刃包丁、それに鱗取りを用意し、鱗が極力飛ばないよう水を掛けながら、まず鱗を取りました。これくらいな鯛になると鱗も半端ではなく引いた鱗が四方八方に飛び散りました。

 次の作業は頭と胴体を切り離すのですが、鯛の骨は硬くて中々です。ましてや切り離した頭部分からエラとカマを外し、頭を真っ二つに割る作業は、馴れた私でも一番難儀な作業なのですが、とりあえず順調に二つに割れホッと一息です。内臓には食べたであろう大量のイワシが胃袋に収まっていました。それらを潰さないように丁寧に取り除き、三枚に下ろしました。そしてパレットに二つに分けて、妻と若嫁に渡して流し台を洗い、汚物を猫に食べられないよう、頑丈なゴミ箱に入れて電気を消し、私の役目を終えました。
 孫たちも新鮮な鯛の刺身はご馳走だったようだし、わが家でも妻が酢飯を作って、握り寿司を食卓に並べてくれました。いやあ実に美味しい握り寿司で、思わぬご馳走に夫婦の顔もほころびました。

 田舎は漁師や百姓のの知人や友人、親類が沢山いて、かように豊かな食生活ができるのです。秋の実りの季節を迎えているため、サツマイモ、ジャガイモ、みかん、野菜、秋刀魚、鱧、煮干、ブドウ、梨、柿、新米などなど、もう食べきれないほどの農産物や海産物が、居間の横のローカに海産物を除いて置かれていますが、これらを早く食べなければならないので、近所や友人にお裾分けしながら、味覚の秋を楽しんでいます。
 一昨日は友人に頼んでいた極早生みかんが届き、妻は第一便を全国に発送したようです。早くも届いた旨の電話やメールが届いているようです。深まり行く秋の中で、妻も私も少々馬肥ゆる秋のようです。

  「おじいちゃん 鯛が届いた 呼びに来る 孫も私も みんな興奮」

  「この鯛は じいちゃんお願い 視線向く 私も心得 調理始める」

  「ダイニング 鯛の刺身が 握り寿司 美味い美味しい 二人連発」

  「鯛兜 今日の夕方 妻の手で 鯛めし炊いて 昨日の続き」

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人間牧場

〇祭りも忘れて働く私

 昨日は私たちの町の年に一度の秋祭りでした。4~5日前からそのことを知らせるように、氏神様の天一稲荷神社の境内や氏子集落の辻々には、4メートルを越すような大きな幟が、氏子の手によって何本も立てられ、秋風にはためいていました。秋祭りといっても私たちの地方では、大人の神輿と子どもの神輿、それに唯一ある両谷の獅子舞が出る程度で、南予の牛鬼や、東予の太鼓台・だんじりのような珍しいものもなく、比較的特徴のない静かな地域です。
 それでも運悪く前夜来から降り出した雨と風の中を、午前6時半に宮出しした神輿がワッショイワッショイという掛け声も勇ましく、町内を練り歩いて祭りの雰囲気を盛り上げていました。

 わが家では祭りの前日、22日の宵祭りに孫たち二人が、上灘保育園の可愛らしい花神輿を担いで、町内を練るというので、息子嫁がビデオカメラを持って出かけたようです。妻は仕事場である歯科医院の前を花神輿が10時頃に通るというので、仕事の合間を縫って見たようです。私も息子嫁から見に行かないか誘われましたが、昨年から間の拍子が合わず、今年も運動会や花神輿を見ることができず、孫たちにすまなく思っています。来年は孫希心も保育園の年長組になるので、何としても見に行きたいと思いながら、楽しかったと話す家族の神輿守の話に聞き入っていました。

 昨日は祭りだというのに、それさえ忘れて私は、金融広報委員会から請われるままに、講演の予定を入れてしまいました。その講演先が少し遠い東の端の四国中央市土居町にある土居高校なので、「雨が降っているので事故のないようくれぐれも気をつけて」という、妻に見送られてお昼過ぎに出発しました。目的地が新居浜インターと土居インターの真ん中にあるため、新居浜インターで降り、国道11号線を走りました。
 途中土居町のJA直売所に立ち寄り、市場調査をしました。土居地方はサトイモとツクネ芋の産地だけあって、サトイモやツクネ芋が所狭しと並んでいました。サトイモも産地らしく安い値段で売られていましたが、私は妻が大好物の大きなツクネ芋を2個買い求めました。妻はこのツクネ芋をすり下ろしてとろろにしたり、うどんや蕎麦に山かけして食べるようで、とても喜んでくれました。

 土居高校では校長先生が、県教委の生涯学習課に勤務していた顔馴染みな人で、驚いてしまいました。3時40分から体育館で開かれた講演会には3年生100人が集まっていました。金融教育関係の話はどちらかというと硬い話になるので、生徒の6割が高校を卒業後就職するという進路事情も察して、生徒たちの関心を引くため、むしろ生活設計に重きを置いたお話をさせてもらいました。
 授業時間に合わせた50分という講演時間は、あっという間に終りましたが、生徒たちは熱心に耳を傾けてくれました。50歳も年齢的に離れた私の話は、生徒たちにとって時代錯誤かも知れませんが、これからの人生の一助にして欲しいと願いました。

種田山頭火の句碑の前で

 玄関先に種田山頭火の句碑が建っていました。種田山頭火はこの学校へぶらりやって来て句を残しているようです。自由律詩なので少し型破りな句ですが、若者に贈る句としては最適ではないかと思いながら、講演が終わって帰る途中、手持ちのデジカメを取り出し写真に収めました。お世話くださった進路課長さんから勧められて、私も句碑の前で記念の写真を撮ってもらいました。
 山頭火は昭和14年に旅の途中、宇摩実業学校と称していた土居高校を訪ね、「湧いては 消えては 山の高さと 雲の」という句と、「競技を見たり 或いは山を眺めたり」という句を残しているようです。

  「秋祭り それさえ忘れ スケジュール 入れてしまって 後の祭りに」

  「孫たちの 担ぐ神輿も ワッショイと 町内練って 祭り盛り上げ」

  「高速道 使えば遠い 土居町も あっという間に 世の中便利」

  「高校の 前庭辺り 山頭火 句碑を見つけて 写真納まる」

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人間牧場

〇思い出の宇和島を訪ねる

 果敢な青少年時代に大きな漁師になるため3年間、親元のふるさとを離れて3年間遊学した宇和島市は、私にとって第2のふるさととでもいうべき場所なので、西予市宇和町から宇和島市吉田町に通じる法華津湾を見下ろす国道辺りを通るといつも、何故か郷愁のような胸騒ぎがするのです。当時はふるさとを離れ宇和島入りするのは蒸気機関車でした。急勾配な法華津峠のトンネルを幾つも出入りする時感じるときめきも、もうすっかり過去のものになりましたが、何時通っても変わらぬ懐かしい風景を、昨日も横目で見ながら自家用車を運転して、講演を頼まれ宇和島入りしました。

正面玄関横のえひめ丸慰霊碑

 講演会は午後2時からでしたが、講演に招かれた宇和島市青少年補導委員連絡協議会長の藤田光弘さんから、前日電話が入り、昼飯でも食べようとお誘いを受けました。少し早い時間に宇和島へ入ったため、とっさの思いつきで、母校の宇和島水産高校を訪ねました。校門に入ると穏やかな秋の日差しを受けて、えひめ丸事故の慰霊碑に祈りを捧げました。2001年2月10日にハワイ沖で起こった事故で、9人の尊い命が奪われましたが、さすがに10年を超えると人々の記憶も遠ざかりつつありますが、慰霊碑の前には今も綺麗な花が飾られていました。

私が乗船した初代の愛媛丸

 正面玄関から学校校舎の中へ入り、窓口で名刺を差し出し校長先生に面談を申し込んだところ、運よく校長先生も在校していて校長室へ通されました。この学校の漁業科の卒業生であること、実習船愛媛丸で遠洋航海に珊瑚海まで出かけたことなどを一通り説明し、和やかにお話をしました。校長先生はわが町に住む磯田先生のことをよく知っていて、縁の不思議を感じました。正面玄関の脇には宇和島水産高校の顔とも思える実習船の模型が、5隻並んで展示されています。アメリカの潜水艦グリーンビルと衝突して沈んだ船は4代目の船で、現在は5代目の船が活躍していますが、私が半世紀50年前に乗船した愛媛丸は、初代の214.5tの小さな船なのです。この実習船で赤道を越え、南太平洋を航海したのかと思うと無性に懐かしく、船首部分にあったキャビンでの生活や、甲板後部にある延縄倉庫を食い入るように見つめました。この船での体験は私の人生観を大きく変えたのです。

ハワイ沖で沈没した4代目のえひめ丸

 学校を出て待ち合わせ場所のかどやというレストランに行き、藤田さんと日替わり定食を食べながら色々なことを話しました。その後藤田さんは準備があるというので一旦別れ、私は腹減らしの散歩に出かけました。宇和島市体育館や造船所、市場や築地、港の風景を見ながらのんびり歩いていると、フォークリフトに乗った野本さんに偶然出会いました。かつて私と一緒の時代に青年団活動をしていた頃の野本さんは、真珠養殖業をしていましたが、長引く不況で生業を断念し、今は秀長水産に勤めているそうでした。40年も逢っていない人に、行きずりで逢うなんて奇遇だし、ましてやお互いが一発で顔と名前を思い出すのも嬉しいことでした。

 講演会場となっていた福祉センター駐車場へ明神教育長さんたちの案内で車を止め、エレベーターで4階まで上がりましたが、伊予銀行上灘支店の田中元支店長さんと義兄弟姉妹という人に声をかけられたり、何年か前この場所で、パネラーとしてご一緒したという女性と出会ったり、現在愛媛新聞カルチャスクールに来てくれている脇谷さんと出会ったり、まあ沢山の人たちと出会い、会話を交わしました。
 講演は80人ほどの前でどうにか楽しくお話しすることができ、会場を出て即高速道路に乗り、大洲から地道を長浜回りで走り、夕方無事自宅へ帰って来ましたが、私にとって忘れられない一日となりました。

  「久方に 半世紀前 住んでいた 宇和島訪ね 思い出浸る」

  「玄関の 慰霊碑頭 深々と 下げて合掌 感慨深く」

  「この船で 南太平洋へ 行ったのか 模型見ながら 在りし日思う」

  「宇和島は かけがえのない 土地ゆえに これから先も 見守り続けて」

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人間牧場

〇蜂蜜の商品化

 人間牧場でのアウトドア学習プログラムには、人間牧場の農場で育った農産物を使うことが大事と考え、梅・スモモ・ブルーべりー・フキ・サツマイモ・コンニャクイモ・野草、日本ミツバチ蜂蜜等を利用して様々な物を作ってきました。既に梅干しと梅酒はその域に達し、スモモもブルーベリーも生食やジャムを作り、フキも佃煮にして結構楽しんで、何とか四季毎のプログラムが軌道に乗りつつあります。ただサツマイモだけは思わぬイノシシの被害にあって、発展途上といったところだし、イノシシがその灰汁どさから、見向きもしないコンニャクに至っては、茎の太り具合から考えれば、芋は太っていると思われるものの、まだ一度もそのプログラムを実施していないのです。これら全ての成果物は只今のところ、参加者や人間牧場来訪者へのお裾分けに留まっていますが、人間牧場の維持管理のサポートしてくれている長男息子は、これらを製品から商品へワンランクアップする目論見をしているようです。

 そのひとつが蜂蜜です。日本ミツバチの養蜂は息子の発案で始めましたが、巣箱を構えたり設置したり、その世話は言い出しっぺなのにまったく関わらず、今のところは師匠である井上登さんの絶大なる協力を得て、私が全てを引き受けていますが、私の目論見どおり1年で1升、2年で2升~5年で5升の目標を達成し始めると、がぜん収穫した蜂蜜の商品化に向けて研究するようになり、さも自分が収穫したような顔をして、糖度計を買ってまるで科学者のように水分量を飛ばして、糖度を80パーセント以上にしたり、漉し器で漉して純度を高めたり、蜂蜜を採集してから殆んど毎日、仕事から帰るとその作業を楽しそうにゴソゴソとやっているのです。
 日本ミツバチの生態を書き記した本を読んだり、インターネットで知識を吸収したり、また蜂蜜を詰める小瓶・中瓶までネット通販で購入して、熱湯煮沸するなど準備をしているようです。

ラベルを貼った試作第1号の瓶詰め蜂蜜

 昨日の朝息子が小瓶に詰めた蜂蜜を、「試作第一号完成」と言って私の所へ持って来ました。見ると小瓶には琥珀色の蜂蜜が入り、ゴールドの蓋にはセロファン封印までして、「はちみつ-haney ninngen bokujo-人間牧場」、反対側には友人エリザベスさんのミツバチのコミカルな挿絵が、印刷されて貼ってありました。それを見た妻は、「ここまでしなくても」と開口一番言っていましたが、私は妻の意見に同調しつつも、「さすが設計を仕事にしているだけのことはあるな」と感心したのです。
 若し私が蜂蜜を商品化しようとすれば、もう少し大きな中瓶に採蜜した蜂蜜を、純度や糖度も考えずに入れ、外から読めるような大きな文字で、「人間牧場産・蜂蜜」などと、中身も見えないように貼るだろうな」と少し感心しながら見ました。息子は私のOKのサインが出た商品1号を、早速自分のダイニングにあるわが家の仏壇に供えて、収穫の感謝をしていました。

 今年はお陰様で蜂に刺されることもなく、目標の5年目5升をはるかに超える9升7合の蜂蜜を採蜜し、スズメバチの攻撃にも負けず、4つの巣箱に種蜂を残してシーズンを終えました。そして息子の協力によって採蜜した蜂蜜も製品から商品へワンランク格上げすることもできました。人間牧場の蜂蜜は商品化したからといって売るのが目的ではなく、自家消費と活動消費に重きを置いていますが、こうしてレベルをアップしようとする活動そのもののプロセスが、地域づくりにとってはとても大切なことだと実感しました。
 先日も人間牧場で開かれたふるさと子ども体験塾で、野草グランプリの賞品として子どもたちに差し上げたりしましたが、商品が出来上がったらお世話になった人たちに、一瓶づつでもお裾分けをして、収穫の喜びを分かち合いたいと思っています。

  「採蜜を した蜂蜜を わが息子 純度高めて 商品作る」

  「蜂蜜を 小瓶に詰めて ラベル貼り お洒落に作る 息子中々」

  「瓶詰めを した蜂蜜を 仏壇に 供え収穫 感謝の祈り」

  「何につけ レベルアップで 完結を 目指す活動 大事にせねば」

 

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人間牧場

〇子どもふるさと体験塾「秋の収穫祭」

 双海町内の子ども40人が参加して、いるふるさと体験塾の「収穫祭」が、昨日人間牧場でありました。人間牧場では前日、地域づくり人養成講座が開かれ、交流会の延長として宿泊組も何人かいたので、少し早めに飲料水用のポリタンクに水を入れて、軽四トラックに積み込み出かけましたが、宿泊組は働き者が多いため、既に早起きして後片付けや掃除もきちんとして、私たちの来るのを待ってくれていました。
 子どもたちは8時30分に下灘コミセンに集合して受付を済ませ、9時10分には人間牧場へ向けて出発したと、担当引率の赤石さんから携帯電話が入りました。約40分の人間牧場までの山歩きは、要所要所にクイズの張り紙があり、また食べられる野草を探しながらグランプリを競うとあって、子どもたちは結構楽しそうに山道を登って来ました。

芋畑の後片付けをする子どもたち
猪汁と芋飯の注ぎ分け

 今年も周辺に出没するイノシシに、5月26日に植えたサツマイモは、周囲を魚網で囲っているのに、食べられて全滅となりました。2年続きの収穫ゼロなので、収穫祭はどうすればいいのか、再三再四検討を加えましたが、畑の後片付けもあるので、思い切って実行することにしました。
 今年は事前に人間牧場周辺に出没したイノシシを、罠で捕獲した近所に住む西嶋さんから、猪肉5キロの提供があり、サツマイモもわが家の家庭菜園で掘ったものなどを使い、何とか食材の準備はできました。また野草の天ぷらにも挑戦し、子どもたちが取ってきた芋の茎やサツマイモ、私が採ってきたミョウガやヨモギなども食材にしました。昨日は前日に引き続き風もない穏やかな天候に恵まれ、水平線の家の下の広場に、大小3つのかまどが並べられ、大釜では猪鍋、小釜では芋飯が炊かれました。また松本さんと浜田さんがピザ釜で、水元さんと和田さんが焚き火でそれぞれ焼き芋をするなど、芋にこだわった美味しい料理ができ、子どもたちもお代わりをするほどの食欲でした。

ウッドデッキでのんびり食事をする子どもたち
ウッドデッキに展示された観賞用カボチャ

 昨日は、北海道佐呂間町の武田温友さんから送られてきていたカボチャを、収穫祭の雰囲気を盛り上げるため、ウッドデッキに行儀よく展示しました。子どもたちは初めて見る珍しい観賞用のカボチャを手にとって見ていましたが、ジャンケンゲームでの勝者に、好きなカボチャが貰えるとあって、ジャンケンゲームは大いに盛り上がりました。

足湯を楽しむ子どもたち

 食後は、私が沸かしたロケーション風呂で足湯のサービスをしました。各班ごとに5分程度の短い時間でしたがしたが、子どもたちは靴下を脱ぎ、ズボンをスネまでめくり上げて、車座になって風呂釜の回りに座り、のんびりと足湯を楽しみましたが、どの子どもも「超気持ちいい~」などという言葉を連発していました。前日沸かした風呂の残り湯の温度が風呂釜に残っていて、少し温めでしたが、子ども喜色満面な姿に私も大いに癒されました。
 それにしても、今回も10人を越える多くのスタッフが子どもたちのために働いてくれました。準備から当日の運営や後片付けまで、本当によく手伝ってくれました。みんなが帰った後一人細々した片づけと見回り施錠をして、人間牧場を後にしましたが、スタッフは地域事務所の裏で、使った道具類や食器類の水洗いをやってくれました。
 今年も天候に助けられ、いいプログラムを消化することができ、多少反省点はあるもののホッとしました。

  「サツマイモ イノシシ食われ 意気消沈 だけど人間 イノシシ食って」

  「気持ちいい~ 連発足湯 長閑なり 喜色満面 見ているだけで」

  「スタッフの 努力でできた 収穫祭 主役の子ども 大いに喜ぶ」

  「この歳に なっても進ちゃん 愛称で 子どもたちから 呼ばれて嬉し」

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人間牧場

〇私の苦手なもの(その1・コーヒーが苦手)

 私には得意なものと苦手なものが沢山あります。暇を見つけて少し苦手なものをブログに書いてみようと思い、先日滋賀県米原へ行く手持ち無沙汰な列車の中で、いただいた名刺の裏が白いことをいいことに、名刺をいただいた人には大変失礼ながら小さな文字で、苦手なものを20ばかりメモしました。しかし健忘症とでもいうべき私は、そのメモしたことすらすっかり忘れていましたが、昨日の夜名刺の整理をしていたら、その名刺が出てきました。
 メモのトップは「コーヒーが苦手」でした。私はこれまでコーヒーを口にしたことは余りありません。最初にコーヒーを飲んだのは高校3年生の時、宇和島水産高校の実習船愛媛丸でオーストラリア近くの珊瑚海へ遠洋航海に行った折、寄港したイギリス領ニューへブリデス・エスピリッツ・サント島で、初めてネスカフェのコーヒーを口にしましたが、18歳の若松青年は苦くて思わず吐き出してしまったのです。これが私の後にも先にもコーヒーを飲んだ一回限りの経験なのです。

 以来私はコーヒーが飲めないというよりは飲まなくなって50年の時が流れました。青年の船で30歳の時、建国200年のアメリカを訪問したアメリカでは、コーヒーが日常的に飲まれている場所に何度も出くわし、コーヒーを勧められましたが、「ノーサンキュー」で通しました。
 コーヒー通の人から「あんな美味しいものを何で」といつも言われますが、コーヒーの匂いが嫌いなのではなく苦味が嫌いなのですから、まあ飲まず嫌いといったところでしょうか。最近は和食を食べた後でも食後のコーヒーを飲むのは常識とばかりに、飲む人が多くなっているようですが、こればかりはどうにも理解ができないのです。自分では純日本人だと自慢していますが、コーヒーも飲めないようで、はどうやら国際社会では生きて行けないようです。
 コーヒーが嫌いあこともあって、私は喫茶店に入ることは殆んどなく、コーヒーを飲むための小銭も要らないのですが、喫茶店で1時間も2時間も過ごす人の気心も分かたないのです。

 世の中は面白いもので、私のようなコーヒー嫌いな親の長男息子が、好きになって結婚したのは、何と喫茶店を経営する家の長女娘なのですから、私の顔が苦味ばしるのも当然だと思うのです。息子嫁は最近になって孫たちが少し大きくなって保育園に通うようになり、出里の喫茶店でパートで働いています。そんなこんながあるものですから、私も時々友人を連れて行ってコーヒーをご馳走したりしますが、私はその喫茶店でブラックならぬホワイトを飲むのです。カウンターに座るとマスターを務める息子嫁のお父さんが、何も言わなくてもホットミルクを用意して出してくれます。これはまるでブラックユーモアのようです。
 私は温かい緑茶党で、食事の度に妻が用意してくれた温かい緑茶をすすっていますが、多分死ぬまでコーヒーは飲まないでしょう。妻はカフェインに弱いのに、コーヒーや濃いめの緑茶が好きですが、寝る前に飲むと目が冴えて眠れないので寝る前には控えているようです。

  「コーヒーを 飲まない理由 聞かれると 飲めば女性に 抱きつく癖と」

  「コーヒーを 飲まない俺の 息子嫁 何故かコーヒー 縁あり不思議」

  「コーヒーを 飲まずに生きた 50年 理解できぬと 愛飲仲間」

  「コーヒーが ガンにいいから 飲めという ガンになっても コーヒー飲まぬ」

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人間牧場

〇旅は私にとって精神の若返りの泉である

バラ公園で見たバラの色と香りは忘れられない思い出です

 私は時々県内外へ小さな旅をします。旅といっても講演を頼まれて出かけることが殆んどなので、家と目的地を往復するだけなのですが、最近は歳をとったからなのか、旅に出かける時プラスワンを心がけ、講演会場へ行くと途中や近場で見ておきたい場所を探し、寸暇を惜しむように立ち寄るのです。
 今月に入って広島県と愛媛県の県境にある上島町、滋賀県米原市、広島県の福山市などへ講演に出かけましたが、因島では村上水軍城、米原では雅な曳山まつり、福山ではバラ公園など、何度も訪れているのに見ることができなかった場所や機会を捉えることができました。

 ご存知、デンマークの童話作家アンデルセンが「旅は私にとって精神の若返りの泉である」と言っているように、私も旅先で見たり聞いたりすることが、心の若さを保つ上でとても大事なような気がするのです。昨日も葬祭場で久しぶりに何人かの友人に会いましたが、みんなそれなりに歳をとり、私と同年代なのに失礼ながら少し歳をとっているような感じがしました。それらの懐かしい人たちから見れば私もそれなりに歳をとったと感じられたことでしょうが、異口同音に私の元気はつらつとした姿に感心して、お世辞にせよ「若松さんは変わらず若いなあ」と連発されました。嬉しくなって「そりゃあ名前も若松ですから」と笑いを誘いましたが、私にとっても旅は精神の若返りの泉のような気がするのです。

福山市緑地公園のバラ園

 因島で見た水軍城も、米原で見た曳山まつりの山車も、また福山で見たバラも私に束の間の癒しを体感させてくれました。今月はまだ鳥取県岩美町や広島県三原市への講演旅行が控えています。岩美町といえばジオパークの海岸や鳥取砂丘の直ぐ近くだし、また三原三原城など見所一杯で、講演はさて置いて今からワクワクしています。昨日栃木県から11月14日の講演講師依頼状が届き、インターネットで周辺を調べましたが、近くには世界遺産の日光東照宮もあると夢が少し広がり、11月には高知県土佐清水市、鳥取県日野町へと県外の旅が予定されています。土佐清水市足摺岬に建つジョン万次郎の銅像にも逢いたいものです。
 「あなたはいいねえ、色々な所へ行けて」と妻を羨ましがらせていますが、そろそろ妻も何処かへ連れて行ってやりたいと殊勝なことを考えながら昨晩は、ネットで栃木県をあれやこれやと調べて楽しみました。

  「若いねえ お世辞の言葉 間に受けて 俺は若いと 過信しきりに」

  「プラスワン ただそれだけで 面白く 小さな旅を 一人楽しむ」

  「アンデルセン いいこと言って いる同感 私も旅は 若返り泉」

  「さて次は 世界遺産の 日光を 色々策を 練るのも楽し」

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人間牧場

〇広島県公民館大会(その2)

 私の携帯電話も相手たる公民館担当の携帯電話も、知らず知らさずのまま講演依頼の文章を信じて出かけた私のいい加減さを、深く反省しましたが既に後の祭りでした。とりあえず時間が迫っているので市役所の位置をカーナビで呼び出し、僅かの距離にあることを確認し走ることにしました。ふと近くに何度か講演で行ったことのある生涯学習センターの存在を思い出しました。記憶を頼りにカーナビの案内言葉を無視して走ると、右手に生涯学習センターの入った建物が、ラッキーにも見えてきました。路側に車を駐車し急いでエレベーターで生涯学習センターのある4回まで行き、受付で訳を話すと、私の顔を覚えてくれていた女性職員が問い合わせをしてくれ、公民館大会のある場所が市役所の隣の、広島県民文化センターふくやまであることが分かり、急いで車に戻り走らせました。

 急ぐ時はこんなものかと思うほど、幾つもの信号の待ち時間がやたらと長く感じました。幸運にも立体駐車場3階に車を止めることができ、エレベーターで一階まで降り講演30分前に何とか会場入りすることができました。案内されたステージ裏の楽屋で担当の方は、最初の企画段階で使うはずだった会場がその後変更になったのを買いなおさなかったと詫びられましたが、まあ済んだことですが講演前のドタバタで身も心もすっかり動転してしまいました。
 私の講演は10時40分きっかりに始まり、12時10分まで淀みなく話すことができ、何とか責任を果たすことができました。夕方の会議スケジュール予定が入っていたので、用意してもらった昼食も取らず引き上げ、やや強くて時折激しく降る雨の中を松山まで帰り、ゆっくり間に合った会議を済ませて夕方往復300キロの講演小旅行を終えました。

楽屋の化粧台の上にそっと飾ったバラが私の心を落ち着かせてくれました

 思い返せば講演が終わって直ぐに、広島県公蓮の城戸常夫会長が、事務局長さんとともに楽屋へあいさつに見えられ、少しの間懇談ました。会長さんは県議会議員なので直ぐに帰る予定だったそうですが、私の話に共感共鳴して、最後まで聞いたそうです。私の話の中で述べた「行政に当てにされない公民館」のくだりには特に同感だったようで、コミュニティ行政という名の元に、公民館を自治振興センター化しようという動きが全国に広がっていて、危機感を抱いて全公蓮や文部科学省へアプローチするものの、色よい返事は返ってこないそうです。
 私の友人の高松市三谷コミュニティセンター長の溝渕さんともこの話は折に触れ話していますが、行政が教育に介入し過ぎたり、公民館がそのことに無頓着で何の対策もしないことが、大きな大きな問題だと思うのです。まあこの話はいつか文章化したいものです。

 今回はマイナス的ハプニングとプラス的幸運が重なったものの、結果的には私の強運に助けられました。家を出るとき妻が、「台風の影響で天気が荒れているので気をつけて」と注意を受け出発しました。念願だったバラ公園のバラも雨に逢うこともなく、見学することができたことはラッキーでした。秋の深まりを感じる10月17日水曜日の一日は、私にとってとても長く感じる思いで深い一日となりましたが、そんな一日も私の過去となってしまったのです。
 昨晩書き残したブログを書こうとPCにスイッチを入れると、早速私の講演を聞いた府中町府中公民館の折出さんはじめ、3人の参加者から感想めいたメールが届いていました。嬉しい反応に目を細め、今朝にでも返信のメールを送ろうと思っています。

  「幸運と 機転が利いて 何事も なかったように 講演終える」

  「慌てるな 化粧台上 バラが言う 危機な時ほど 性根を据えて」

  「降り出した 雨も私に ほほ笑んで 鼻歌交じり しまなみ海道」

  「車ゆえ 一日往復 300キロ 物ともせずに 仕事を終える」

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人間牧場

〇広島県公民館大会の記念講演(その1)

 今日は広島県福山市で開かれる公民館大会の記念講演を頼まれているので、間もなく朝5時にわが家を出発し、しまなみ海道を渡って広島県へ向かいます。講演は午前中なので少し早い旅立ちですが、その分早く帰れるので、帰りはのんびりゆっくりしまなみ海道を帰ろうと思っています。さてまだ外は暗いので天気が気になりますが、車の洗車も終わって綺麗になっているので、携帯電話、腕時計、名刺入れ、木になるカバン、電光掲示板に加え、二宮金次郎のブロンズ像も持って、忘れ物のないようこれから出かけます。帰りは夕方です。お急ぎの方は携帯電話へお願いします。ただし運転中は出ませんので留守電をよろしくお願いします。

 こうブログに6行の文章を書いて家を5時過ぎに出ました。外はまだ暗く、街中の信号も黄色の点滅信号が殆んどで、注意しながら少しだけスピードを上げて国道196号を松山~北条~菊間~大西と進み、今治北インターからしまなみ海道を走りました。
 自宅を出る時既に小雨が降り出していましたが、しまなみ海道や国道2号線はまだ雨は降っていませんでした。尾道と福山の境界辺り②車線道路部分では早くもイライラしそうな朝のラッシュが始まっていて、巻き込まれましたが、家を早く出たので目的地近くまで随分早く着くことができました。

朝のしまなみ海道来島大橋
見事に咲いた真っ赤なバラ

 今回の旅のプラスワンは、福山のシンボルであるバラの見学をすることに決めていました。福山へはもう何度も講演に来ているのに、まだ一度もバラの咲いている姿を見たことがないのです。バラは春先のバラも美しいのですが、この次期のバラも趣きがあって美しいとある人から聞いていたので、何としても百万本のバラ運動のシンボルと思われる、バラ公園と緑地公園のバラを見たかったのです。緑地公園に車を止め、朝の散歩のつもりでそこここのバラを見ましたが、綺麗なバラにすっかり目と心を奪われ、香しいバラの匂いの漂う中、至福のひと時を過ごさせてもらいました。

白バラも美しい

 

黄色いバラも綺麗でした

 そろそろ、駐車場での待ち合わせの時間が来たと、9時25分にカーナビに電話番号でセットした、ふくやま芸術文化ホールリーデンローズへ到着するように向かいました。駐車場の入り口に、電話で打ち合わせした、それらしき人も見えず、とりあえずガードマンに訳を言って、主催者が入る駐車場へ入りましたが、長蛇の列ができていたものの、どうも公民館関係者ではないようなので、ホールリーデンローズに電話を入れて確認しましたが、公民館大会等知らないと言われました。さあそれからが大変です。私の講演時間は10時30分スタートなので、まだ間に合う時間ながら、私への講演依頼文書に書いている会場が違うとなると何処なのか、相手の携帯も私の携帯もお互い知らないので、大慌てとなりました。

  「久方に しまなみ海道 十の橋 渡り福山 講演旅行」

  「指折りを 数え福山 来た回数 数えてみるが バラは一度も」

  「気品ある バラの姿に 魅せられて 朝の散歩を 一人楽しむ」

  「会場に 行ったけれども 間違って 右往左往の 一日でした」

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人間牧場

〇地域づくりへの興味は遺伝かも?

 日曜日(10月14日付)の愛媛新聞朝刊1面「今日の紙面」という目次に、「伊予市中心部に移住を・4面」が大きな見出しで載っていました。地元関係者でつくる協議会が移住促進を考えて協議会を設立し、勉強会を開いていることは風の噂に聞いて知っていましたが、新聞記事を読んでいると掲載された写真に、何やら見覚えのあるわが息子の顔が写っているのです。
 「えっ」と思いつつ、隣で食事をしていた妻に「これ一心じゃないか?」と尋ねると、妻は眼鏡をかけた上にさらに虫眼鏡を用意して、写真に写っている息子の姿を確認し、「やっぱりカエルの子はカエルだわね」と、感心するというより呆れた顔でつぶやきました。

10月14日付愛媛新聞朝刊4面の記事

 息子は松山の設計事務所に勤めていて、建築士たちで組織する伊予支部にも加入して活動しているようです。住吉祭りにはウチワを配ったり、空き店舗を借りて展示会をしたりしているご縁もあり、伊予市の中心市街地のまちづくりに加わっていて、商店街の方々や行政の方々から、息子の話を漏れ聞くのです。
 私のような素人的なまちづくりと違い、息子は建築的な観点から街づくりをやっているので、殆んどの活動はすれ違いですが、時々ニアミスを起こしそうになってハッとしたりします。最近は息子もそれなりの年齢になったからか、親の私に発表のために作ったスライドショーを見せて感想を聞くなど、ある部分で歩み寄りを見せているようです。

 妻がいうように「カエルの子はカエル」かも知れないと思いつつ、息子の行動を無視もできないので見ていますが、息子が自分の住んでいる地域に関心を示し、少しでも良くしようと活動することはいいことなので、これからも仕事の許せる範囲で大いに活動して欲しいと願っています。
 私のホームグランドは旧双海町であるのに対、し息子のホームグランドは旧伊予市のようで、少々違和感は感じますが、ローカルな私とグローバルな息子も同じ伊予市民だと思えば、それも納得いくのです。
 息子は新聞に書いていた27日に開催予定のモニターツアーで、町並みガイドをするそうですが、はてさて上手くガイドできるのでしょうか?。老婆心ながらまだまだ子どもと思う、親としての不安が少し過ぎりました。

  「新聞に 見覚えのある 顔写真 見つけてそれが 息子と確認」

  「カエルの子 やはりカエルと 妻が言う 納得しつつ それも良きこと」

  「子どもだと 思っていたが いつの間に 一人前の ような顔して」

  「ローカルな 行動せよと 注意する 分かっていると さらりかわされ」 

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