人間牧場

〇よく喋る孫娘
 松山に住む次男の家のチャイムを鳴らし玄関に入ると、「花菜ちゃ~ん、おじいちゃんとおばあちゃんが来たよ~」と、若嫁がドアの向こうにいる孫娘に声をかけました。孫娘は「ちょっと待って~、今大事なテレビを観ていて、私も忙しいから~」との返事でした。まだ4歳なのに「私も忙しいから~」とはまあこましゃくれて・・・と思い部屋に入りました。

 さあそれからが大変です。前もって訪問予約をしていたので、孫娘はおじいちゃん、おばあちゃんに料理を作ってもてなしたいと、クッキングのままごと道具を使って、お菓子を作ってたようで、レストランに行った時店員さんが使う言葉で、「お料理をどうぞお食べください」、「お味はいかがですか」とか、すっかりその気になっておままごと遊びに付き合わされる羽目となりました。

 丁度昼食時間ころで、普通ならどこかのお店で会食をしたいと思っていましたが、新型コロナの感染拡大でそれもできず、途中のスーパーで握り寿司弁当を買い、若嫁の作ってくれたお味噌汁を添えて会食をすることにしました。その間会話の中心は孫娘で、孫娘は2時間余りず~と喋り続けていました。これまでは内孫2人、外孫2人全てが男の子だったので、初めて生まれた女の子のお喋りには戸惑うばかりでした。孫娘を思い出す度に顔がほころびます。

「普通なら 『来たよ』の声で 玄関に 迎え出るはず 取り込み中とは」
「まだ4歳 『テレビ観てるから 忙しい』 
                こましゃくれてる 参った参った」
「約2時間 喋り続ける 女孫 感心するやら 驚くやらで」
「喋る孫 成長証と 思いつつ いつの間にやら 笑い輪の中」 

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〇お宝箱
 親・子・孫などわが家は4代にわたって貧乏な家系ゆえ、家中探してもお宝など出てくるはずはありませんが、昨日親父の暮らしていた隠居で探し物をしていたら、何やら見覚えのある、大箱・中箱・長箱の木の箱3つが親父の茶箪笥の上で見つかりました。親父が大事にしていたもののようで、親父が亡くなって8年になるというのに埃も被らず綺麗なままでした。

親父のお宝箱

 その一つ中箱には親父の写真類が入っていました。親父の生きた時代は晩年を除けば、庶民ゆえ写真など余り縁のない時代でしたから、それほど多くの写真は残っていませんが、中には親父が一番大事にしていた戦時中の写真が出てきました。戦争中2度にわたって中国へ陸軍兵として出生し、傷痍軍人となり日本各地の陸軍病院を転々とした頃の、セピア色に変色した写真は、親父の形見のようなものです。

 さてこれらのお写真をどうするか、棄てる気にもならず、12人兄弟姉妹の結婚式記念写真とともに綺麗に封印して、海の資料館の資料として残すことにしました。ふともし私が死んだら、私の撮った膨大な写真や写真はどうなるのだろうと思いました。私にとっては貴重でも、息子にとってはタダの紙ごみでしかありません。そろそろ終活や断捨離をして、しっかり整理をしておかなければならないと思いました。さてこの写真の大箱と長箱に何が入っているか?、楽しみは次回。

「茶箪笥の 上に置かれた 宝箱 3つもありて 興味津々」
「中箱を 開くと中に 写真類 親父にとって まさにお宝」
「この写真 親父亡き後 価値もなく それでも戦争 当時ありあり」
「ふとわが身 死んだら写真 どうなるか? 紙ごみ扱い 息子は捨てる」

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〇「勇魚」と書いて何と読む?
 「『勇魚』と書いて何と読むか?教えてください。」という面白い話が、町内に住む私の友人から持ち込まれました。その人は私が水産高校を卒業していることを知っている元漁師のおじさんで、これまでにも色々な得体の知れない魚が網にかかって上がる度に、「これ何という魚?」とか、「魚偏」のつく漢字の読み方を尋ねられるのです。学者でもないし水産高校を出いるからといって、別に特別な知識がある訳でもないので、その都度一緒に考えて、一応の結論を出してきた経緯もあるので、今回の質問と相なりました。

 さて皆さんはこの字を何と読むか、またそれはどんな魚なのかご存じですか。これは私が水産高校で学んでいた60年前、国語の先生に秋田忠俊先生という民俗学研究の県内第一人者がいて、国語に時間に教えてもらった「魚と漢字」という話を今も覚えているので、即「この漢字は『いさな』と呼びます」と言うと、そのおじさんは怪訝そうな顔をして「何で『いさな』と詠むの?」と不思議そうに質問しました。「勇は新選組隊長の近藤勇という人がいたが、『いさむ=いさ』で、太平洋に面した地域では鯨のことを『いさ』、魚のことを『な』というので、『いさな」は『鯨』のことです。」と説明すると、「進ちゃん、あんたは賢い」と褒めてくれました。「エヘン、どうだ参ったか」でした。(大笑い)。

 海には色々な魚がいます。魚も大きくなるにしたがって鰤のように名前を変える出世魚もいます。また魚偏に当て字を書いたような紛らわしい名前の魚もいます。私たちの町の前に広がる海にも沢山の魚がいますが、この海の水温がこの10年ほどで年間1~2度高くなっているそうです。1~2度は100㎞南の水温と同じだそうで、最近は地球温暖化を感じさせるように、たまに見たこともないような南の海にしかいないはずの魚が獲れたり、ハリセンボンのようなフグが海岸に漂着したりすると、その元漁師さんはついで話をしてくれました。海岸に漂着するプラスチックゴミも気になる今日この頃です。

「元漁師 勇魚と書いて 何と読む 私にいきなり 聞かれ戸惑う」
「60年 前に水産 高校で 国語の先生 授業で話す」
「覚えてた 鯨別名 読み方を さすが利口と お褒めの言葉」
「気になるが どうすることも 出来ないと 嘆きの海を 見ながら話す」 

 

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〇猿か人間か?
 昨日パソコンの画面にいきなり8年前の写真が現れビックリしました。8年前にパソコンを使ってブログに書いた記事に沿え、アップしたと思われる見覚えのある写真ながら、自分ですら忘れていたものを、パソコンという人工知能が記憶しているのですから、その記憶力の凄さにはただただ感心するばかりでした。

猿か人間か分からぬ写真

 人間牧場の梅林隅に大きなクヌギの木が生えていて、梅の影になり、近くの墓地にも影響を与えそうなので、思い切って伐採することにしましたが、根回り一抱えもある大きなクヌギの木ゆえ、切り倒した折梅の木や墓石を傷めると大変なので、大洲市田処で酪農を営む親友亀本さんに仲介を頼んで、山仕事のスペシャリストに切ってもらうことにしました。

 その人は長い脚立をかけまるで猿のように、チェンソーを持って木の上にスルスルと登り、上の梢、枝を切り始めました。下で見ている私と亀本さんはその人の指示するまま切り落とした枝を、ロープで縛って指示する方向へ落として行くのです。その後徐々に木の下へ下りては切り、最期は大きな木の根元にチェンソーを入れて切り倒しました。思いのままの方向に切り倒される作業にただただ感心するばかりでした。

 先日わが家に猿が出没し、庭に植えている大きなクロガネモチの木の梢を揺らしながら、下で見ていた私たち人間をあざ笑うように遊んでいました。威嚇すると猿は器用に下に降り逃げましたが、その後脚立を立てて木に登って梢を切った瞬間、私は3m下の地面に落下し、体を嫌というほど打撲し、10日ほど寝返りもできないほどの痛さでした。今思うとあの8年前の人に頼めばよかったしみじみ思いましたが、後の祭りでした。

 洒落にもなりませんが私は申年です。猿が落ちずに人間である申年の私が落ちたのですから、これこそ笑い話です。でもこの写真を見て餅屋は餅屋、下手に前をするととんでもない災いを招くことを肝に銘じた次第です。

「8年も 前にアップの この写真 猿か人間? 見まがうほどに」
「8年間 パソコン内に 眠ってた 写真再び 人工知能」
「感心し 口開け樹上 見ていたが プロのやること 寸分狂わず」
「能力も ないのにやると 怪我をする 拳々服膺 戒め写真」

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〇風力発電風車
 わが家の車庫の屋上には、息子が趣味で取り付けた太陽光発電パネルと風力発電用の風車を設置しています。いずれも取るに足らない家庭用の小さなもので、バッテリーに充電して家庭用機器に使う程度で、とても家計の足しになるようなものではありません。それでもエコなどがそれほど話題になっていなかったもう10年も前に、こんな小さい冒険をしていたのですから褒めてやりたい心境です。

 今朝未明から北西の季節風がかなり強く吹き、風力発電の風車は時折ブンブンとうなり声をあげて回っていました。この分だとバッテリーの充電もかなりできるのではないかと思われます。もう一つの太陽光発電パネルは、わが家の位置が北向きで南は裏山が家のすぐそばまで迫っていて日当たりが悪く、晩秋から早春にかけては一日中太陽が当たらないので、あと1ヶ月余りは開店休業といったところです。

 息子は承水路発電、つまり水力発電も計画していて、水車型の発電機を既に試作していますが、家の裏から流れ出ている清水の水量や水力が弱く、家庭ではできないので、上灘川のどこかで試してみたいと思っているようですが、まだ構想段階のようです。もしどこかの水路に取り付けてバッテリー充電すれば、イノシシ除けの電気柵に使えるかも知れないと馬鹿げた夢のようなことを言っています。誰に似たのでしょう?。もう間もなく50歳だというのに、少年のような遊び心をいつも持っている長男息子です。

「車庫の上 風力風車 太陽光 パネル取り付け 格好はエコ」
「小遣いを はたいてやって いるようだ 資金回収 とてもじゃないが」
「間もなくに 50歳だと 言うのにな 未だに少年 気分が抜けず」
「誰に似た 次から次へ 考えて 遊び心で 余暇を楽しく」

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〇会話が通じない
 昨日ウォーキングの途中、同じ組内に住む元役場職員とバッタリ出会いました。かつては一緒に仕事をしたり、飲み会で打ち解けて交流していた親しい仲だったのに、またお互いの家が100mほどしか離れていないのに、退職後は住む世界が違うのか殆ど出会わず、「長い間出会わないが元気かい?」と、まるで珍しい人に出会ったようなあいさつから会話が始まりました。

 「まあお座りや」と促され、彼の家の縁側に腰掛けて話をしました。昔の話、最近の話、元同僚だった人の音信などなど、話は多岐に及びましたが、彼は退職後人との付き合いも余りなく、また私のような社会活動やボランティア活動もしていないためちぐはぐで、全く会話が通じないのです。

 彼は手書き文字が上手かったため、在職中からインターネットに余せずず、今もネット情報は、最近スマホデビューはしたものの電話の受発信程度で、ラインやfacebookといったデジタル情報を持ち合わせていないため、私が毎日のように書き込んでいるfacebookなど「それ何?」ってあり様でした。

 デジタル情報が全てではありませんが、これから生きなければならない未来のことを考えると、デジタルツールを持つことは大事なことだと彼に勧めましたが、その気はないとの反応でした。彼とは生きる世界が違うと思いながら、「また会おう」と別れましたが、積極的に会いたいとは思わず別れました。

「超近く 住んでいるのに 出会わない お互い別々 生き方違う」
「久方に 会ったというに お互いが 話歯車 かみ合わぬまま」
「私にも 彼にも未来 同じよに あるがこれから どんな人生」

 

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〇成人の日の懐かしい思い出
 私が成人になった頃からつい最近まで、成人の日は1月15日と固定日でした。この日は国民の祝日で、日本全国で成人式が行われ、多くの若者が大人になった自覚をしたり、国民も国旗を立てて成人の日を祝いました。私は13年間教育委員会に勤め青少年教育を担当していたので、成人式を主催する側として企画をしたり運営をしたりして成人式に関わりました。成人式には自分の成人式、青年団長として祝辞を言うための成人式、各地の成人式で記念講演を10回近くやった成人式を含めると、多選の首長さんや教育長さんなどを除けば、成人式への出席参加は多分圧倒的に多いように思うのです。

 成人の日は、午後からNHKで「青年の主張」という特番が組まれ、全国の予選を勝ち抜いた若者がNHKホールで主張し、覇権を争っていました。実は私も23歳の時第14回NHK青年の主張の県代表に選ばれているのです。当時私が青年学級委員長をしていた頃、学級で「ラブレターの書き方」という講座が開かれました。スマホや携帯もなかった当時の愛の告白手段の一つはアナログなラブレターで、文章の書き方をしっかりと学びました。講座が終わった次の週、青年学級主事さんの勧めで、全員が青年の主張に応募するため原稿用紙3枚に自分の主張を書いて提出し、100人もの学級生の原稿はNHK松山放送教へ届けられました。やがて2週間後学級生の元へそれぞれ1枚のハガキが届きました。「あなたの主張は素晴らしい。来年もまたどうぞ」という落選の通知でした。ところが私の元に届いた1枚のハガキだけ、「原稿審査にパスしました。〇月〇日県大会を行いますのでNHK松山放送局までお越しください」と書かれていました。

 さあそれからが大変です。降って湧いた出来事を受けて、小学校にあるオープンリールのテープレコーダを借り受け、仕事を終えた私は毎夜原稿読みの練習を始めました。最初は5分間という時間ばかりが気になって、中々進みませんでしたが、物覚えが悪いながらもどうにか宙で言えるようになりました。発表のその日私は原稿をトイレに持ち込み、「よっしゃあ覚えた。これで大丈夫」と意を決しトイレを出ましたが、こともあろうかその原稿をトイレに置き忘れたまま、列車に乗ってNHKへ行きました。いよいよスタジオで発表大会が始まりました。原稿審査をパスした他の10人が次々と登壇し、素晴らしい発表をする度に胸の高鳴りを覚えました。やがて私の順番がやって来ました。何ということでしょう私はメモを書き込んだ原稿用紙をわが家のトイレに忘れて出場してしまったのです。

 「しまった」と思いましたが後の祭りでした。仕方なく開き直って原稿もなく諦め、宙でしたダメ元での発表が終わり、やがて審査員の別室審査を経て結果発表があり、司会のアナウンサーから、「第14回NHK青年の主張愛媛県大会の県代表は『私の訴えたいこと』と題して発表した双海町の若松進一さんです」とコールされました。あの時の感激は今も忘れられない懐かしくも恥ずかしい思い出で、一生忘れることは出来ません。以来私は何度も人の前に立ち何度も話す機会を得ましたが、未だに内気で口下手ながら原稿に頼らず、アドリブで話をするようになりました。この時の経験は私の人生を大きく変えた出来事でした。

「その昔 成人の日には NHK 毎年特番 青年の主張」
「100人の わが町青年 応募した 青年の主張 今も忘れじ」
「原稿を トイレ忘れる 大失態 開き直って 見事乗り切る」
「あの時の 経験あるから それ以来 アドリブ話す 癖が今でも」

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〇今年最初の講演
 日本国内ではオミクロン株という新型コロナが急激に広がり始め、沖縄や山口、広島には昨日からまん延防止法が適用されたり、平静を保っていた県内もオミクロン株の感染に加え、鳥インフルエンザによる養鶏場の鶏の殺傷処分が行われるなど、新年早々その対応に追われています。思い出せば昨年のこの頃も、講演依頼を受けて予定されていた八幡浜市公民館研究大会が急遽中止となったり、色々なことがありました。

 そんなドタバタがあったので、今年こそは大丈夫そうだから再びの講演依頼が年末にあり、病後で多少心配はしましたが、一も二もなく引き受け昨日は12時ころに家を出て、海岸国道378号を走り八幡浜へ向かいました。八幡浜は妻の実家のある町なので、病後の付き添いのような形で妻も同行してくれました。道の駅みなっとで妻を降ろし、会場である市民活動文化センターへ到着しました。用意してもらっていた前庭の駐車場に車を止め、センター内楽屋控室に案内され、教育長さんなど沢山の方々と次々名刺交換しながら、開会式が終わるのを待ちました。

 大きな大会は昨年松山市民会館で行われた公民館全国大会でインタビューダイアローグのインタビュアーを務めてい以来で、少し戸惑いも感じましたが、やがてステージに案内され講演が始まると、マスクをして立ったまま、スライド操作をしながら90分間お話を続けました。あいさつに訪れた市長さんまで前座席に座って聴いていただくなど、ステージへの反応は上々で、無事役目を終えることができました。

 去年から私が委員長を務めている県公連専門委員会では、「社会の大転換期における公民館活動」について諮問を受け、答申案の作成に向けて知恵を絞っていますが、その一端を披歴するような内容の話をしました。今月20日に答申を出す予定なので、まだその全容を語ることができず、入り口までの話で終わりましたが、今年は公民館版SDGsの答申が終わればその普及に向けていよいよ動き出す予定です。

「昨年の 全国大会 以来にて 少々戸惑い ながら何とか」
「ホールにて マスクをしての 90分 立ったままにて 喋り続ける」
「それなりに 思い伝えて ホッとする 会場あちこち 顔見知り人」
「今年は 公民館版 SDGs 普及する 思いを込めて やろうと誓う」 

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〇海の資料館「海舟館」の展示室掃除
 昨年秋から、海の資料館「海舟館」の展示品がどれほどあるのか、調べてデーター化しようと思い立ち、facebookに一日1品づつ写真付きでアップし、100日で100品程度のリストアップを、居ながらにして終わらせようと思い立ちました。しかしやればやる程この作業は意外と難しく、仕事で忙しかったり体調を崩して入院したこともあって、中々思ったようには進みませんでした。

掃除を始めた第一展示場

 しかし積小偉大とはよく言ったもので、積小偉少ながら今では目標の100品を越え、倍の200品に迫る勢いです。そんな小さなことを積み重ねていると、ガラス張り展示室内の展示や汚れが気になり始め、展示の工夫を凝らしたり、身動きができないほど狭い展示室に入って掃除をするようになりました。そう言えば親父が存命中一手に引き受けていた、展示室内の掃除や展示物磨きを、余りやっていないことに気が付きました。

 全ての展示品を取り出して掃除をすればいいのでしょうがそれもできず、折に触れ区画ごとの掃除や手入れをやろうと思い立ち、昨日はまず旧日本軍の紫電改という戦闘機の機銃を中心に展示している場所を中心に、2時間ほどかかって大掃除ををしました。若嫁から貰ったサイクロン式掃除機も狭くて入らないので、とりあえずシュロで出来た小さな手ホウキと塵取り、それに手ぬぐい雑巾を使ってやりましたが、まずまず綺麗になりました。思いついたものの中々時間と手間がかかる骨の折れる仕事です。

「海舟館 何を展示して いるのだろう? リスト作ろう 思いついたが」
「一日に 一品ずつを 取り上げて Facebookで 紹介始める」
「忙しく 加えて体調 今一で 思うようには 中々進まず」
「気がつけば 掃除疎か なっていた 親父亡き後 手入れもせずに」

 

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〇足長おじさんに変身~
 昨日の夕方、シーサイド公園の砂浜を一人のんびり歩きました。入院や退院、それに正月準備で何かと忙しかった年末でしたが、手術後ということもあって正月からは、ウォーキングに出かけたり手紙やはがきを出すため郵便局へ行く以外は、さしたる用事もなく外出もせず、術後の回復を願ってのんびり自宅で静養を続けていたため、元気が回復しそうな予感がしました。

足長おじさんとなった私の影

 砂浜を夕日に向かって歩き、少し日が西に傾いたので戻ろうと振り返ると、私の影が砂浜に長~く伸びていました。典型的な日本男子ゆえ若い頃俳優石原裕次郎のように足が長かったらいいのにと、馬鹿げたことを思ったりしたことを思い出し、タブレットで自分の影を「面白い」と思いながら写真に収めました。虚像ながら私は足が長かったのです。

 何年か前、交通事故遺児のために寄付をする「足長おじさん」募金に、ほんの少しだけ寄付をしたことを思い出しながら、影に気を良くして歩きました。誰も歩いていない渚の砂浜に、私の靴跡が綺麗に並びましたが、足の長い影に満足して気を取られ、靴跡の写真を撮り忘れてしまいました。

「このところ 術後の体 気遣って 外にも出ずに ずっと静養」
「久方に 渚砂浜 のんびりと 夕日に向かい 波の音聞く」
「見返ると 私の影が 砂浜に 足長おじさん なってて嬉しく」
「短足で 77年 生きて来た 持てなかったが 不都合もなく」

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