〇50年前と20年前の記憶(その2)
20年前の2月10日、ハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦グリーンビルと衝突して沈んだ愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸は4代目の船です。私は初代愛媛丸に乗船して赤道を越え珊瑚海へ遠洋航海に出かけています。今思うとお粗末な214.5tの小さな船ですが、当時はロランや自動操舵装置を搭載した最新鋭のマグロはえ縄実習船でした。当時は日本を出港し日本に寄港するまでどこへも立ち寄らない無寄港航海でしたが、私たちが乗船した船は船倉に貯蔵した餌となるサンマがスカッパーに詰まって使えなくなり、イギリス領ニューへブリデス・エスピリッツ・サント島へ緊急入港しました。
私たち生徒にとっては緊急入港とはいえ初めての海外旅行なので、船長や漁労長の心配をよそにピザもなく、限られた区域以外外出できないながら、あちらこちらに出かけ大いに楽しみました。その後出港した船は漁場でマグロはえ縄漁実習を行い、満船となって再び日本に向けて北上を続けましたが、伊豆半島沖で1月15日頃低気圧の洗礼を受け、SOSを出すほど大時化の海をやっとの思いで母港となっていた神奈川県三浦三崎港に無事辿り着きました。三角波の向こうの水平線に富士山の姿を見た時の感動は今も忘れることのできない思い出です。その後初代愛媛丸は2代目から「えひめ丸」と名前を変え、船籍も神奈川県三浦三崎から宇和島に移し、3代目、4代目、5代目と航跡を引き継いでいますが、沈没した「えひめ丸」は4代目の船でした。
私は南予宇和島方面へ所用で出かける時、折に触れ水産高校の玄関先に設置されている慰霊碑を訪ねています。9人の犠牲になった人たちを慰霊し、二度とこのような痛ましい事故が起こらないよう祈っています。海底から引き揚げられ展示されているえひめ丸の錨に怒りを覚えた時期もありましたが、風化しつつある20年という節目を迎えあらためてえひめ丸事故の色々を思い返しています。今朝の新聞に、原子力潜水艦グリーンビルの元船長さんが綴った英文手記が載りました。
「半世紀 前の出来事 愛媛丸 遠洋航海 珊瑚海まで」
「無寄港の 航海なれど ハプニング 南洋の島 訪ねビックリ」
「わが人生 あれやこれやが 重なって 事故の記憶も 心に深く」
「忘れない 忘れちゃいけない あれやこれ 肥やしにしつつ これから生きる」