人間牧場

〇畜生、またやられた!!

 畜生とは人間が飼っている動物のことをいいますが、怒りを顕わにする時にも使います。私が今回思った「畜生、またやられた!!」の畜生は後者で、怒り心頭の意味です。2日前の土曜日、明くる日お客さんを招く準備のため、人間牧場へ出かけました。国道・私道・農道と次第に狭くなる山道を登って、人間牧場の私道に入るとコンクリート舗装した道幅の半分に、道の側面の土が崩れて行く手を塞いでいるのです。

イノシシに崩された畦畔
          イノシシに崩された畦畔
大汗かいて土を跳ね上げ
          大汗かいて土を跳ね上げ

 いつものことなので、これがイノシシの仕業であることは容易に理解できましたが、同じような出来事が一週間前にもあり、難儀をして大汗をかきながら土をスコップで跳ね上げて片付けたばかりなので、誰に当たるでもなく目に見えぬイノシシに向けて「仕方がない」と思いつつも、行き場のない怒りが込み上げてきました。イノシシが斜面を荒らしている姿を見た訳ではありませんが、察するにイノシシは昨日の夜出没し、闇に乗じて両足と鼻で土を掘り返し、餌となる大好物のミミズを食べたに違いありません。

 この日の私の作業予定は草刈と水平線の家の掃除で、午後から雨が降るという天気予報だったので、道を塞いでいる土を除ける余裕はありませんでした。でもそれら全てをやるしかなく、とりあえず草刈りと掃除を休まず、昼食を食べるのも伸ばしてやりました。午後1時頃天気予報どおり小雨がポツポツ降り始めました。急いでスコップを倉庫から取り出し、土除け作業に取り掛かり、少し雨に濡れたものの片づけを終わりました。今回はイノシシが暴れ回ったのか、落ちている土の量も半端でなく、足腰・腕に堪えるほどの難儀さで、大汗をかきヘトヘトになりました。

 子ども体験塾で作っている芋畑は金網柵で囲っているため、今のところ大丈夫のようですが、この時期山は端境期でイノシシの食べ物がなくなる時期だけに、少し気がかりです。今年3度目の被害で、私の体力ももう限界です。いっそ道の出口と入口に、「イノシシさん、どうか悪さをしないで下さい・人間牧場主」と書いた看板を立てようかとも思いますが、残念ながらイノシシは学校を出ていないので、文字が読めないのです。警察に被害届を出すことも出来ず、当分はイノシシと私の知恵比べが続きそうです。嘆かわしいことです。

  「こん畜生!! 怒り心頭 また被害 道の半分 土を落として」

  「スコップで 土をエッチラ ほり上げる 大汗かいて 州に2回も」

  「崩すなと 看板立てても 効果なし 文字の読めない イノシシさんには」

  「知恵比べ、勝ったつもりが いつも負け イノシシ軍配 上がりっぱなし」

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人間牧場

〇私はホラ吹き?

 昨日人間牧場の水平線の家の掃除をしながら、板壁片面に設えている木製書棚も少し整理をしました。家の書斎書棚から移した本で書棚はこの10年間で完全に埋まり、小型の本は置き場がないので二重三重に置かれて窮屈そうでした。書棚のあちこちには小道具類も置かれていて、背もたれ椅子で休憩する際、ハーモニカなどは時々練習のつもりで吹いて気分転換をしています。

見つけた外国人から貰った角笛
         見つけた外国人から貰った角笛
大ボラを吹く私
           大ボラを吹く私

 昨日はその中に水牛の角でできた角笛を見つけました。何年か前外国人のお客さんが来た折、お土産にいただいたものですが、いつ誰に貰ったかは記憶にないのです。早速白いテッシュペーパーで表面や口が当たる場所を綺麗に拭きました。早速ほら貝を吹く手合いで吹いて見ました。最初は息を吹き込む要領がつかめず、まるで屁のような音しか出ませんでしたが、そのうち段々馴れて上手くなり、雨のため窓全てを締め切った部屋の中に響き渡りました。

 私は奇想天外なことを発想し言うので、仲間は多分私のことをホラ吹きだと思っているに違いありません。「ホラ吹き」という本当の意味は出来もしないことを言う人のことなので、出来そなことを言い、それを実践し実績を上げてきた私のそれとは少し違いますが、まあ大差はない小さなホラ吹きでしょう。そういえば年齢を重ねるとさすがにホラを吹くことも少なくなって来たような気がします。多分それだけ夢がなくなったのかも知れません。夢なき民は滅びます。もう少しホラを吹いてみようと思いました。

 何年か前人間牧場のご存知切り株高座に上がり、落語ならぬ落伍をやった折、この角笛を演目に加えて演じた記憶があります。結果的には上手く角笛を吹くことができず、落ちで「私はホラ吹きではありません」と公言し爆笑を誘いました。近々この演目で再びやってみようと思っていますが、昨日は雨で湿り気があったためでしょうか、大ホラ吹きとなりました。お後が宜しいようで・・・。

  「掃除する 手と足止まり 角笛を 見つけて座り 吹くが吹けずに」

  「何回か やってるうちに 音が出て 窓閉め室内 大いにホラ吹く」

  「多分だが 私のことを ホラ吹きと 思っているに 違いないかも」

  「演目に 加えてホラを 吹こうかな 歳をとったか 夢も萎んで」

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人間牧場

〇明日の準備のための一日

 今日は明日、私が会長をしている公民館OBで組織する公友会の夏の勉強会を人間牧場で計画しているため、掃除や草刈りのため弁当を持って人間牧場へ行きました。天気予報だと曇り後のち雨だったので、何はともあれ屋外での草刈を優先し、朝ガソリンとオイルを混ぜて混合油を作り、草刈機のガソリンタンクを満タンにして、地下足袋を履いて早速作業を始めました。まずウッドデッキ下のアジサイ園とブルーベリー園を、それぞれの花木を傷つけぬよう注意しながら刈って行きました。

 曇り空で秋の気配が漂う絶好の草刈り日和でしたが、まだまだ日中は暑く夏の名残の蒸し暑さで作業着は瞬く間に、まるで水を浴びたように汗と飛び散る草汁が衣服に付着し、体中にまとわりつきました。今日は渦巻き蚊取り線香を腰にぶら提げたため薮蚊に悩まされることもなく、午前中で草刈り作業を終えましたが、12時30分頃から雨が降り出しました。急いでスコップを倉庫から持ち出し、人間牧場の両側にイノシシが落とした土を1時間ほどかけてハネ上げ何とか片づけを終えました。

 汗で濡れた作業着を着替えようとしましたが、着替えのシャツを持参するのを忘れたため、裸になって妻の作ってくれた弁当を食べ、お茶で喉を潤しながら休憩しました。雨は降ったり止んだりを繰り返していましたが、昼食後は部屋の掃除を掃除機で少し念入りにやりました。特に2階は日ごろ使うことも殆どないので、この半年一度も掃除機をかけていなかったので良い機会となりました。昨日年輪塾筆頭塾生の浜田さんから電話が入り、10月3日に予定されている人間牧場10周年の集いのために、9月2日に少し大掛かりな掃除を私と2人でやることを決めたので、今回はワッコスを塗ることもなく終えました。

 午後3時にテレビ愛媛の秋本ディレクターがやって来て、8月31日の取材打ち合わせをやりました。今回は少し手の混んだストーリーのようで、何かと面白くなりそうです。何はともあれ明日の下準備は何とか済みました。飲み食いの準備万端はいつものことながら、親友の松本さんが手配をしてくれているので、明日は手伝いの妻と二人で9時頃に出かけようと思っています。このところ何かと忙しく、昨日は葬儀に参列するため出張先の広島を朝5時に発ったりして、少し無理をしているようなので、早々に引き上げて自宅に帰り、熱いシャワーを浴びてさっぱりしました。

 

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人間牧場

〇久しぶりの広島(その2)

 昨晩はリーガロイヤルホテルでの研修会が終わり、レセプションパーティがありました。美味しそうな料理が並んでいましたが、講演を聞いた参加者が次から次へと私の元へ訪れ、名刺交換しながら楽しいお喋りをしたため、食いっぱくれてしまいました。講演の反応があるという事は少しお世辞がかっていても嬉しいもので、特に私の「斬新なアイディアと行動力に感心した」と言ってくれました。青年団活動も含めると今日まで約50年、半世紀も地域づくりやボランティア活動に関わり、また様々な人の前で自分の過ぎ越し人生を話してきました。

 私の人生を語るのにピッタリな言葉に、ポール・J/マイヤーの「鮮やかに想像し、熱烈に望み、心から信じ、魂を込めた熱意を持って行動すれば、何事もついには実現する」というのがあります。若い頃青年学級で学び作った生活設計のお蔭で夢を描き、自分の信念を貫き、しっかりと行動したお蔭で今の自分があるのです。最近経営学の父と言われるドラッガーの本を読む機会がありましたが、ドラッガーの世界は「書く」「教える」「相談に乗る」ですが、私がドラッガーの比でもない凡人ながら、これとよく似たスモールな生き方をしていることに気がつきました。

 ドラッガーは、今の世の中が人類史上初めて個が組織よりも長命になったことを取り上げ、セカンドキャリアをどうするかという、新しい問題が生まれていることに気付き、人間はなるべく早いうちにセカンドキャリアのために助走しなければならないと力説しています。それは40代に突入する前に、仕事とは別の活動を実生活に見つけることのようです。ただの趣味ではなく活動です。活動をし始めるとそれまでとまったく違ったネットワークが生まれ、ネットワークは人に生きる力を与え、気持ちを豊かにする働きがあるというのです。

 私たちはパラレルキャリアだけでなく、セカンドキャリアについても、自分で何とかする術を身につけなければならなくなるようで、どのようにして自分の活動分野を、何歳の時につかみ取るかが人生にとって重要なことのようです。私は30代で21世紀えひめニューフロンティアグループを組織主宰し、様々な活動をしてきました。また退職後は自費で造った人間牧場をフィールドにしてこの10年間、年輪塾を開塾し、学びの活動ネットワークを作ってきました。ゆえにドラッガーが提唱しているセカンドキャリアという概念や意味がよく分るのです。もう少し自分のこれまでやってきたこと、今やっていること、これからやろうとしていることを整理して、理論・論理に組み立てたいと思っています。今回の久しぶりの広島はそのことに薄々気付かせたいい旅でした。

  「講演を 聞いた人たち 集まりて 名刺交換 様々意見」

  「ドラッガー 著した本読み 納得す セカンドキャリア なるほどうなづく」

  「これまでの 人生重ね 本を読む これからどうする 正念場です」

  「本を読み 人に教えを 請うてきた うだつ上がらず 情けないったら」

 

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人間牧場

〇盆踊り終る

 私が青年団活動をしていた50年前は、夏になると町内の各地で盆踊りが行なわれていました。盆踊りは青年たちの社交場だったので、盆踊りの準備も運営も全て青年たちが仕切り、みんな浴衣を着て出かけました。ところが高度成長が終って社会が落ち着くと田舎に過疎化の波が押し寄せ、若者の姿が見えなくなり、盆踊りも一つ減り二つ減りと姿を消し、今町内に残っているのは下浜と池久保、それに灘町の3ヶ所となってしまいました。

昨年の盆の盆踊り
今年の盆の盆踊り
昨年の盆踊り
昨年の盆踊り

 双海町内の盆踊りは沖合いに浮かぶ青島にルーツがあると伝えられていますが、今では猫の島としてすっかり有名になっている青島でさえ、県の無形文化財に指定されている盆踊りも島民15人では支えきれず休止に追い込まれ、今年から長浜から応援が出て、かろうじて開催に漕ぎつけた有様です。私の住んでいる灘町では自治会が中心になって運営していますが、さしたる妙案もなく細々と続けている様で、青島の二の舞になりはしないかと心配しています。

 灘町では盆踊りに合わせて、戦没者や新盆を迎えた人の遺影を飾り慰霊祭をしていますが、わが家でも先月親父が亡くなったため、妻は親父の遺影を風呂敷に包んで、集会所へ持って行って飾らせてもらいました。私はあいにく松山市日浦地区のまちづくり勉強会に出席して留守でしたが、台風接近で小雨がぱらつく中何とか開催できたようです。昨日私のパソコンに何がどうなっているのか分りませんが、昨年の盆踊りの写真をブログに載せていたものがメールに出て来てビックリしました。

 同じくfacebookに灘町の藤岡さんが今年の盆踊りの写真をアップしていて、ビフォーとアフターではありませんが、偶然にも対比することができました。聞けば孫たちも盆踊りに参加して、練習もしていないので踊れぬのに踊りの輪の中には入って、一生懸命踊っていたようで、保育所の先生が誉めてくれました。盆踊りが終ると間もなく長かった夏休みもいよいよ終わりです。今日はそんな暑かった夏の思い出を払拭するように、台風が去って最初の雲ひとつない好天に恵まれています。ぶり返すであろう残暑を気にしながら、今日はこれから広島へ出張するため出発します。

  「盆踊り 思い出一杯 あるけれど 今は残念 見る影もなし」

  「浴衣着て あちらこちらの 盆踊り 渡り歩いて ワクワクしたな」

  「今年は 親父の遺影 慰霊祭 飾ってもらい ことさら意味が」

  「パソコンに 去年の写真 何故か出て ビックリしつつ 今年と対比」

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人間牧場

〇鱧祭りと夕焼けコンサートが近づきました

 3日前、親父の49日の法要に参列してくれた、従兄弟で下灘漁協組合長の若松利光さんが、刷り上がったばかりのインクの匂いのするチラシを持参して、宴会の席でみんなに配り、「イベントに是非お越しください」と宣伝していました。こうしたイベントのチラシは普通観光協会などが作製しますが、特に鱧祭りは組合長が実行委員長をしていることもあって、冨田さんたちの協力を得てチラシ作製にも深く関わっているようでした。

組合長に貰った鱧祭りのチラシ
組合長に貰った鱧祭りのチラシ

 鱧御膳や鱧バーガーもすっかりお馴染みとなっていて、今回は新商品鱧ごはんも登場するようです楽しみです。また同日夕方下灘駅のプラットホームで開催する夕焼けプラットホームコンサートは、今回節目となる30周年を迎えるようで、何はともあれ嬉しいことです。30年前多くの反対を押し切って、金も理解もない中で始めたコンサートですが、双海町の名前を一躍有名にしてくれたのは、無人駅でのコンサートでした。「10年続けると物語が生まれる」と意気込んで、始める活動・続ける活動・高める活動をやった結果、多くの禍福をもたらしました。

 それもこれも30年も続いたのは、多くの人の想いと支援のお蔭だと思っていますが、そろそろ変革の時期を迎えているのかも知れません。しかし私はもう蚊帳の外ゆえ口出しや手出しをする立場ではなく、一市囲の人として参加して見守るしかないのです。幸せなことに下灘駅は無人駅ながら様々な仕掛けによって、年年歳歳多くの話題を集め、沢山の人が集まっています。私の従兄弟の西下芳雄さんもその先頭に立ち、不慮の怪我で腰の骨を折りながら再起して、しっかりと支えてくれています。気がつけば鱧祭りも下灘駅も偶然でしょうか従兄弟の頑張りによって成り立っています。私ももうひと踏ん張り頑張りましょうか。

  「鱧祭り するから来てと 組合長 法事の席で パンフを回す」

  「30年 前に始めた コンサート 多くの人が 続けてくれた」

  「気がつけば 二つのイベント 従兄弟らが 支えてくれて 有難きかな」

  「この俺も 負けてはおれぬ もう少し 馬力をかけて 前に進もう」

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人間牧場

〇思い出の小さい頃の写真

 年老いた人間の、月日の経つ下り坂と思える人生も早く感じられますが、子どもの成長はさらに早いもので、この間生まれたばかりの孫たち4人も中一、小二、小二、保育所年長とそれぞれが、まるで雨後のタケノコのように大きくなり、私と口相撲が取れるまでになってきました。3日前娘のマンションに立ち寄った時、中一になっている孫朋樹の幼いころの珍しい写真を2~3枚見せてもらい、思わずそのほほえましさにみんなで大笑いしてしまいました。私はこんなスナップ写真は撮った記憶はありませんので、多分長男息子一心が撮ってプリントアウトしたもののようでした。

孫朋樹の小さい頃の写真
孫朋樹の小さい頃の写真
人間牧場のロケーション風呂をかき混ぜる小さい頃の孫朋樹
人間牧場のロケーション風呂をかき混ぜる小さい頃の孫朋樹

 孫朋樹は娘である母親が助産師で日勤・深夜・準夜の3謹交代だったため、しょっちゅう預かり、しょっちゅう色々な経験をさせてやりました。虫が怖いと泣く孫を人間牧場へ連れて行って遊ばせたりしましたが、その孫朋樹も今ではカブト虫など虫大好き人間になっているのですから、子どもの思考は分らないものです。この写真は人間牧場のロケーション風呂を沸かし、風呂を楽しんだ時の写真ですが、風呂のお湯をかき混ぜ棒ででかき混ぜている姿もさることながら、風呂に入りながら大好きだった牛乳を身を乗り出して飲んでいるようです。

 ブログ記事にせよ写真にせよ、こうして記録すると記憶となって残ります。残念ながらこの写真のように写真は撮ったが保存の仕方を間違うと、どこへ終ったか、どこを探せばいいのか迷います。これからは自分につながる記録の整理の仕方を考えなければなりません。デジカメでこれまで闇雲に撮ってきた写真の数々、ブログや原稿書きなどこれまた闇雲に書いてきた原稿もその在りかが気になるところです。要らなくなったり使わなくなったデジタル情報もこれからは「捨てる」作業もしなければなりません。考えただけでも憂鬱になってしまいます。

  「面白い 孫の小さい 頃写真 手に取り思わず ほほえましくて」

  「ロケ風呂が 出来て間もない 頃写真 見ながら孫の 成長思う」

  「色々な 写真撮ったが 今どこに 保存や活用 そこが問題」

  「爺ちゃんの ブログの写真 このように すれば見つかる 孫の手ほどき」

 

 

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人間牧場

〇家から見える夕日は間もなく見納め

 さすがにお盆を過ぎると、日中はまだまだ残暑が厳しいものの、朝晩は幾分しのぎやすくなってきました。家の下の田圃の稲も稲穂がたわわに実り、少し黄色く色づき始めたようです。最近は健康志向を反映して減農薬栽培が徹底して、この頃になるとうんかの発生を抑えるため、夕暮れころ真っ白い粉を撒き散らしてた農家の人の姿もすっかり見なくなりました。

色づき始めて田圃の後ろのわが家
色づき始めて田圃の後ろのわが家
わが家から見える夕日
わが家から見える夕日

 秋の訪れは太陽の高度や位置にも変化が現れ始め、上灘川に沿って開けた谷筋に位置するわが家では、家から夕日を見ることができるのが二百十日ころまでなので、そろそろ終わりに近づいていきました。今年の二百十日は9月1日なのでもう一週間もすれば太陽は西の端に沈んでまた来年の四月下旬まで海に沈む夕日を見れるのはお預けとなるのです。昨日は台風16号の接近等微塵も感じさせない良い天気に恵まれました。

 久しぶりに夕方の散歩を終えてから家の裏山に登って、沈み行く夕日を一人観賞しました。家の前の庭先の広場で息子と孫がキャッチボールをしていましたが、夕日を背にした親子のシルエットシーンも中々のものでした。そういえば息子が言うのには「お父さんと僕はキャッチボールなどした覚えがない」そうです。若いころは公民館活動に明け暮れ、その後は夕日によるまちづくりに情熱を燃やし、家庭の子ども等にかまってやれる時間は殆どありませんでした。

 それでも21世紀えひめニューフロンティアグループというボランティアグループを結成し、無人島に挑む少年の集いやモウーモウー塾、丸木舟瀬戸内海航海、竪穴式住居造りなどなどを行い、自分の子どもを含めた巻き込みをやったお蔭で、4人の子どもたちもそれなりに成長しているのですから良しとしなければなりません。こうして初秋の夕日を見届け、平凡ながら平和に暮らせることに感謝して、これからも生きて行こうと思っています。

  「盆過ぎて アカネトンボと ヒグラシが 一緒に初秋 演出をして」

  「秋が来た 家から夕日 見納めと 裏山上り 一人観賞」

  「息子と子 夕日の照らす 中庭で キャッチボール シルエットなる」

  「家の前 田圃の稲も 黄ばらんで 早くも秋が 来たよと告げる」

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人間牧場

〇私の人生に大きな影響を与えた一冊の本(その3)

 私のような凡人は、他の人のように知識を得るため難しい本を沢山読んだ訳ではありませんが、その少ない本の中でも「大学」という本は、私の人生に大きな影響を与え続けています。陽明学の始祖といわれる中江藤樹は、11歳の時この本を読んで感動し、立派な人間になろうと志を立てたそうですが、私は恥ずかしながらこの本を読んで目覚めたのはつい最近のことです。

大阪梅田の古本屋で買い求めた古書大学)
大阪梅田の古本屋で買い求めた古書大学)
二宮金次郎像が読んでいる本に書かれた大学の一節
二宮金次郎像が読んでいる本に書かれた大学の一節

 「大学という本には様々な教えが書かれています。「天子自り以て庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と為す」。つまり天子から庶民に至るまで自分の身を治めることが基本であり、自分を修めるという根本を疎かにして家庭や国家は治められないというのです。また「物に本末有り、事に終始有り、先後する所を知れば、則ち道に近し」は事には必ず終始があって、何を先にし、何を後にするかをわきまえ実行すれば、人の道を踏み外すことはないとも説いています。

 最近中江藤樹を書いた本の中に「当下一念」という言葉を見つけました。今やろうとしている一念を続けるという意味ですが、人の心は弱いもので初志を貫徹しようと思っても、世情や人の言葉に惑わされて心が揺らぎ、ついには何もしないまま終ることが多いのです。大学の本を読んで開眼した中江藤樹も二宮金次郎も当下一念の人であり、その言葉に触発されて人生を生きた人も当下一念の人なのです。

 私たちは文明の世の中に生きているゆえ、大学という本も安易に手にすることができるし、その教えを分りやすく解読した資料だって手に入るのですが、知っているだけでは何の意味もなしません。むしろその教えをどう日々の暮らしの中で具体的に実行に移すかが大事なのです。願わくば実行によって勝ち得たプロセスと成果を多くの人に話し、心の扉を開いて実行に移し成果を得る「知行合一」の人間を育てるような人になりたいものです。

  「大学と いう本手に入れ 朝夕に 読み方解説 紐解きながら」

  「知っている だけでは何の 価値もない 自分の生き方 変える努力を」

  「自分だけ 実践よりも 他の人の 心手足を 動かす人に」

  「鏡見る 写った顔は 本物と 同じだけれど 実は虚像だ」

 

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人間牧場

〇中国の古書「大学との出会い(その2)

 陽明学の始祖として名高い中江藤樹が、「大学」を読んで感動したのは11歳の時です。私が下灘小学校の校庭にあった二宮金次郎の銅像の、左手に持って読んでいる本は何?と不思議に思って台座の上に上がったのは、小学校2年生の時です。小学校2年生といえば8歳なので、私は中江藤樹よりもさらに3年も早く大学の本を読んだことになります。しかし凡人の私はその意味不明な26文字の漢字を読むことができなかったばかりか、「馬鹿たれ。あそきにはいろはにほへとと書いている」と、私を諭すことなく台座に上がったことを叱るだけの凡人校長との出会いで、大学という本との出会いは潰えたかに見えました。

 しかしその後、私と「大学」という本との出会いは意外な方向へと発展して行きました。たまたま出張で北陸へ行った帰り道、夜行高速バスに乗るため大阪梅田のバスセンターに立ち寄った際、待ち時間を利用して近くにある梅田の古書街古書店の入り口に並んだ古書の中に、ノジの抜いた古ぼけた「大学」という袋綴じの本を見つけたのです。値札には1万円の値札がついていました。早速店の中へ入り店番をしていた若いバイトの女性に話しかけ、「私は四国の田舎から出てきました。あいにく持ち合わせがないしどうしても欲しいので3千円にして欲しい」と頼みました。その女性は「お客さん1万円を8千円にして欲しいというのなら分りますが、3千円では話しになりません。社長に叱られますので駄目です」と突っぱねられました。

 「じゃあ中を取って5千円でどうでしょう」と再び話を持ちかけると、「仕方がありません。中を取るということで5百円上乗せし、5千5百円ならお売りしましょう」と商談成立です。私は嬉しさを噛み殺し、新聞に包んでくれた店員の女性の華奢な白い手の平に5千5百円」を手渡し、バスに乗り込みました。その夜はバス内の読書灯の灯りを頼りに、朝まで読めないのに「大学」の本を興奮しながら朝までなぞりました。以来古本の「大学」は手元に置き、金次郎像が読んでいる「一家仁一國仁興~」を反芻し続けていますが、難解な漢文ゆえ読み方も定まらず、ましてや意味などまったく分からなかったのです。のちに私が塾長を務める私塾年輪塾での学びのテーマを二宮金次郎(後の尊徳)、さらには中江藤樹を選んだこともあって、大学は塾頭によって輪読用のルビをつけた台本まで出来、また意味も解説文をつけてネット配信してもらい、念願の「大学」という本の全容が明らかになってきました。

  「校長が いろはにほへとと 言ったこと 手っきり私 信じていたが」

  「北陸へ 行った帰りに 大阪の 梅田古書街 大学見つけ」

  「一万円 値切り倒して 5千円 5百円だけ 上乗せ買って」

  「金次郎 銅像読んで いる本の 一節何度も 繰り返し読む」

 

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