人間牧場

〇声が出ない!!、致命傷かも!!

 2~3日前から喉の調子が悪く、声が出にくくなっています。異変に気がついたのは年輪塾へ参加をする土曜日の朝でした。いつものように朝4時に起きて布団体操を10分ばかりやって書斎へ入り、パソコンでブログを書き始めると、少し咳が出始めましたが別段体調が悪いということもなく、「お父さんご飯よ」と妻が呼びに来てくれ、言葉を交わすと声が殆ど出ず会話にならなくなって、初めてのどの異変に気がつきました。「お父さん風邪かも知れない。薬を飲んだら」と勧めてくれましたが、風邪薬を飲むと眠くなるからと断わって軽い食事の後、荷物をまとめて伊予市まで妻に送ってもらいました。
 合流した松本さんや浜田さんが、「ちょっと声がおかしい」といち早く察知してくれましたが、私「大したことはない」、松本・浜田「若松さんが声が出なくなったら何の値打ちもない」などと笑いのネタとなりました。

 高知では3分間スピーチ程度の話だったので、その場はうまくしのぎましたが、明くる日帰宅してから今日まで、妻の用意してくれた風邪薬を飲んだお陰で幾分声は出るようになりましたが一向に治らず、講演が間近に迫っているので気が気ではないのです。このところ朝晩の気温差があって、体調を崩したのかも知れないと思いつつ、喉の異変で体力の衰えを感じました。
 私は殺しても死なないほどタフな人間です。それは常日頃から妻が食事に気を配ってくれるし、体調維持のために毎日散歩や体操を心がけているからです。特にインナーマッスルという言葉に出会ってから、その思いは強くなりました。私は年に2~3回程度ぎっくり腰になっていました。ぎっくり腰になる度に行きつけの整体院に駆け込んで直してもらいましたが、その時ぎっくり腰になるのは背筋や腹筋が弱っているからなるのだと、腰痛体操を勧められました。

 忙しさもあってそんな助言も上の空でしたが、5年前ぎっくり腰が酷くなり、5日間も動けなくなりました。以来インナーマッスル、つまり内側の筋肉を鍛えることを思いつき、毎朝夕僅か一回10分~15分程度ですが、布団体操をやるようになりました。腹直筋、腹斜筋、大腰筋、腹横筋などのインナーマッスルを鍛えたお陰で、あれから五年ぎっくり腰になることもなく、整体院へはこの五年一度も行かないのです。まあ筋肉のコルセットとでもいうべきもので体調を維持しているのです。
 私たちは得てしてアウターマッスル(外側の筋肉)を鍛えようとダンベル等を使って運動し、中には高いお金を出してジムに通ったりしていますが、インナーマッスルはテレビを見ながら、あるいは布団の上で簡単にできるのでお勧めです。私は人間牧場と家庭菜園の農作業でアウターマッスルはできるので、むしろインナーマッスルに重きを置いて体力保持に努めようと思っています。
 さて喉のインナーマッスルトレーニングは、一体何をすればいいのでしょう。まさか「咳・声・喉に浅田飴」か「龍角散は真面目な喉のお薬です。いい薬です」を信じて浅田飴や龍角散トローチをいつもなめる訳にもいきませんね。

  「覚えたぞ インナーマッスル 内筋と それじゃどうする これが難し」

  「声出ない 私にとっては 致命傷 使い過ぎたと 笑いのネタに」

  「喉や声 鍛えるために 歌手たちは どうしているか そこが聞きたい」

  「浅田飴 龍角散の トローチを 幾らなめても 声は治らず」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇年輪塾学習会の後の宿泊交流会(その4)

 私たちは土佐清水市中央公民館での学習会を終え、宿泊交流会の会場となっている四万十市西土佐を目指して、それぞれの交通手段で出発しました。私たち一行はカーナビに道案内を頼んだため、その後国道とは名のみの、とんでもない九十九折続く山道を走ることになりました。四万十の下流域中村から中流域の江川崎までは、何度も通り熟知しているはずなのに大失態で、交流会の始まる午後6時になっても私たちの車だけが到着せず、皆さんに心配をかけてしまいました。

 四万十市に隣接する四万十町の十和を経由して午後6時10分に、会場となるヘルスセンターに到着すると、既に酒盛りが始まっていました。テーブルの上には中脇裕美さんが和田修三さんに頼まれて作ったという、土佐流皿鉢料理が沢山並んでいました。極太の鮎塩焼きや山菜野菜の天ぷら、イタドリの和え物、野菜サラダ、そうめんなどどの味も超逸品で、酒を飲まない私はもっぱら食事に専念し満腹となりました。地元の地域おこし協力隊の三木さんや中脇裕美さんも加わり、お国自慢も飛び出して賑やかな交流会が、高知らしく延々と続きました。途中馬路っくクラブの木下さんがリクエストに応えてマジックを披露、酒の勢いも借りて最高に盛り上がりました。

四万十川はどこへ・・・
四万十川はどこへ・・・?
四万十川はどこから・・・?
四万十川はどこから・・・?

 私は寄る年波もあり早々自室に引き上げ風呂に入った後、テレビを見たり本を読んだりしなが、西土佐の夜長を楽しみました。同室の松本さんが帰ったのは11時ころでしたが、電気を消し疲れたいびきをかきながら眠りにつきました。
 明くる日はいつものように朝4時に目が覚めましたが、身支度を整え外が明るくなった5時頃に宿舎を出て散歩に行きました。四万十川に架かる西土佐大橋を渡り役場付近まで行って歩いて引き返し、カヌー館周辺の公園を一人でのんびり散策していると、散歩している見知らぬおばちゃんから、「もしや愛媛県双海町の若松さんじゃあないですか?」といきなり声を掛けられ、びっくりしました。聞けば西土佐の集会所や文化ホールで私の講演を2~3度聞いたことがあるというのですから驚きです。立ち話をして再び歩き始めましたが、朝の約一時間余りの散歩で万歩計は1万歩近くになっていました。

川岸に見える星羅四万十周辺
川岸に見える星羅四万十周辺

 みんなで朝食を取った後解散し、それぞれのふるさとを目指しましたが、天気予報どおり西土佐を出る頃から雨が降り始め、三間の道の駅を経由して伊予農協へ妻に迎えに来てもらった頃には、少し強い雨になっていました。松本さんの車にカメラを忘れ、いつものようにお粗末な結末となり、松本さんの奥さんの実家で心春ちゃんと再会できた幸運にも恵まれ、今回の二日間の旅を締めくくりました。

 今回は新しい出会いは少なかったものの、仲間との交流が深くなり、ジョン万次郎にもまた一歩近づきました。出会いや小さな旅は日ごろの疲れを癒し、新しい活力を与えてくれます。さあ次はどこを目指しましょうか。

カヌー館周辺の案内マップ
カヌー館周辺の案内マップ

「西土佐の 夜を挟んだ2日間 出会い重ねて 楽しからずや」

「風誘う 風に誘われ 風になる 一万歩き 心爽やか」

「散歩する 見知らぬ人が 声かける いやはや驚き こんな所で」

「振り出した 雨もまたよし2日間 次にはとんな 出会い待ってる」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇年輪塾第三回目の学習会(その2)
 日本を変えたジョン万スピリッツ2

足摺岬に建つジョン万次郎の銅像
足摺岬に建つジョン万次郎の銅像

 四国の最南端足摺岬には灯台と四国霊場八十八ヵ所のお寺があります。その中ほどに今回の集合場所となっている、ジョン万次郎の銅像がありました。私はこれまでにも度々この地を訪れ銅像を見ていますが、高知県には室戸岬に中岡新太郎、桂浜に坂本龍馬、足摺岬にジョン万次郎の銅像がそれぞれ建っていて、これ以外にも多くの偉人や歴史上の人物の銅像があるようで、その一部始終がジョン万次郎の銅像の横に紹介されていました。今回は年輪塾のテーマが奇しくもジョン万次郎であるだけに、出会いも一入で、各地から集まった年輪塾参加のメンバーは、銅像を見上げながらしばし紹介文を読んで納得したようでした。

白亜の足摺岬灯台
白亜の足摺岬灯台

 そのうち全員揃ったところで、高知県の今回の世話役である和田修三さんの案内で、足摺岬の灯台見学に出かけました。高知県馬路村から参加していた木下さんは、ヒザの不自由な西田和子さんの手を引いて優しいところ見せてくれました。足摺岬は高知県でも一・二を争う観光地ですが、高速道路が延伸したとはいえ、さすがに遠く、かつての賑わいは殆どなく、土曜日だというのに散閑としていました。ツバキも既に散っていましたが、黒潮の恵みとでも言うのでしょうか、断崖絶壁のあちこちには早くも、夏の花である白百合が可憐に咲いていました。眼下に見える穏やかな太平洋の海の色も紺碧で、沖合いを貨物船が何隻か航跡を残して走っていました。

黒潮踊る太平洋
黒潮踊る太平洋

 白亜の灯台はやはり足摺岬のシンボルで、初夏の晴れ渡った青い空に、すっくと立っている姿は何ともいえない姿でした。お寺へもお参りして元来た道を引き返し土佐清水の市内にある中央公民館2階のホールを借り受け、本番の年輪塾を開講しました。過去2回に引き続き講師を務めてもらっている青野博さんから一時間ほど、①江戸幕府の鎖国政策と海外事情に関する情報収集、②ペリー来航時に万次郎の果たした役割、③万次郎のアメリカでの足跡とアメリカでの万次郎に対する評価について、レクチャーを受けました。その後参加者からクジ順に沿って、一人3分ずつスピーチを行い、青野講師が様々な角度から指導のレクチャーをしてもらいました。最後は私が前回質問した④万次郎の宿命と運命についてまとめも講義を受けました。

 私が前回の年輪塾で青野講師に送った質問は次のとおりでした。
 「万次郎が漁に出て、漂流したのは1841年、私も122年後の1963年(昭和38年)1月、愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸に乗船して遠洋航海の帰路途中、伊豆半島沖で大時化に遭い、死を覚悟しました。万次郎の人生は漂流によって宿命が運命に変わりました。私もこの航海が宿命から運命に変わったような気がするのです。万次郎の運命と宿命についてみんなで議論したいと思っています」。

                           平成24年12月15日 第2回ジョン万塾

  ①14歳までの万次郎は漁師の長男、貧乏、僻地漁村という宿命を背負っていた。
  ②漂流、鳥島漂着、捕鯨船救助、ホイット・フィールド船長との出会いが宿命を運命に変えた。
  ③漂流から帰国までの9年と帰国後隠居までの20年は自らの力で運命を切り開いた。
  ④隠居から71歳の生涯を閉じるまでは、家柄もなく、学歴もなく漁師出身のなり上がり者として自由  
   平等とはいながら、大都会東京社会の冷遇で宿命の28年の晩年を送ったのではないか(私の推測)

  「ジョン万を ただひたすらに 研究す 講師のち密 だだただ感心」

  「宿命を 運命にした きっかけは 漂流流れ 着いた鳥島」

  「足摺の 岬に立ちて 紺碧の 海を見ながら 先人思う」

  「歴史上 生きた人とは いいながら 自分ダブらせ 生き方学ぶ」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇面白い話と難しい話

 昨日は日本銀行松山支店の3階会議室で午後2時から、金融広報アドバイザーの研修会があり出かけて行きました。前半1時間は松山はいくガイドローゼン千津さんという方の「もし正岡子規がスマホを持っていたら!? ~松山はいくコースにみる松山の歴史&文学ふしぎ~」という講演を聞きました。名前からして「国際結婚?」と思いきや案の定、アメリカ人ナサニエル・ローゼンさんというチェロストの奥さんでした。千津さんはご存知俳人として大活躍の、夏井いつきさんの妹さんだそうで、夏いいつきさんと顔見知りなこともあって、親しく話を聞いたり名刺交換をさせてもらいましたが、中々の博学で聞きごたえのあるお話でした。正岡子規に若松進一を置き換えると、私はこれほど進んだ文明の世の中に生きているのに、まだスマホの恩恵に浴しておらず、時代遅れだと思いました。

 後半一時間は事務連絡と白塚重典日本銀行松山支店長さんの「最近の金融政策の運営について」というお話でした。金融広報アドバイザーをしている私としては基本的に分からなければならない話だし、興味のある話でしたが、量的・質的金融緩和、デフレ脱却、消費者物価上昇率、マネタリーベースの目標、波及メカニズム、フィリップス曲線、アベノミクス、政府・日銀の共同声明、高齢化・人口減少への対応が急務、長期金利、為替レート、株価、経常収支、景気・物価の見通し、中心的なシナリオ、民間エコノミスト予想との乖離、当面の景気面ポイント、世界経済の見通し、当面の物価面のポイント、まとめというパワーポイントで表示された、全て理解できるほど優秀でないだけに、理解し難い専門用語も沢山あって、コンセンサスならぬ混線さすの様な感じもしましたが、門前の小僧習わぬ経を読むので、難しがらず何度も聞けば少しは理解できるようになるだろうと、メモを取りながら熱心に聞かせてもらいました。

 面白い話と難しい話のコラボレーションは、私に異文化ギャップを味合わせてもらい、久しぶりのカルチャーショックでした。この年齢になると好きなことはどんどん興味を示すものの、嫌いなものは得てして門前払いをしてしまいがちですが、新聞の政治や経済も読まなければと心を新たにしました。
 今日から2日間は、私が塾長を務める年輪塾高齢の学習会が高知県土佐清水市と、四万十市を会場に行なわれる予定で、間もなく待ち合わせ場所の伊予農協前へ、妻に送って行ってもらう予定です。足摺岬に建つジョン・万次郎の銅像にも久しぶりに出会う予定だし、講師の青野博さんの講話や塾生との再会も楽しみです。こうして少しずつ老いの坂道をブレーキを踏みながら下れる幸せを、噛みしめながら生きています。

  「軟と硬 織り交ぜながら 生きている ショック療法 ボケる暇なし」

  「マネタリー アベノミクスと 言われても 中身も知らず 頓珍漢です」

  「ジョン万の 銅像会うを 楽しみに 今日は土佐行き 仲間とともに」

  「四時間も 走って四国 まだ不便 それゆえ文化 残っています」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇孫たちの遠足と弁当

 遠足と言えば戸外へ出るため、決ったように気になるのはお天気です。天気が悪く雨になると「園長先生が雨女だから!!」などと揶揄されたりしますが、昨日は何の疑いや心配もなく、前日から好天予想が立ちました。孫たちにとっては今年最初の遠足なので楽しみなのか、夕方からその話で持ちきりでした。
 私「明日の遠足はどこへ行くの?」、孫希心「松山総合公園」、孫奏心「お母さんと一緒に地域事務所の前からバスに乗って行く」などと大はしゃぎです。二人ともいつもは「急がんと遅れるよ」とせかされれているのに、昨日は余程楽しみだったのか朝早く起きて準備に余念がありませんでした。

お母さんの作った弁当に手を出す孫希心
お母さんの作った弁当に手を出す孫希心

 お母さんも昨日は少し早起きをして、台所でお弁当の準備をしていたようです。やがてお弁当ができたと言うので息子たちのダイニングへ、見学がてら入ると、台の上にそれは見事なメルヘンタッチの弁当が出来上がっていました。孫たちもその弁当を見て満足そうで、ちゃっかりつまみ食いをして叱られていました。孫の希心は少し嗜好が変わっていて、大人の私たちが好んで食べる梅干や、フキの佃煮がなぜか好物で、前日私が人間牧場の畑から採集してきて皮を剥き、妻が灰汁抜きをして炊いた梅干し入りのフキの佃煮を、入れるように注文があったそうなのです。私が子どものころはフキも梅干しも、余り好きでなかったのに何故?と、家族みんなが首をかしげて不思議がっているのです。

 孫たちはお母さんに連れられて遠足に出かけ、午後3時頃に大汗をかいて元気に帰って来ました。「僕は今日園長先生と二人でバスの一番前に座ったんよ」と希心、「お弁当が美味しかった」と奏心、二人の孫それぞれに楽しい思い出ができたようでした。
 孫希心は保育園の年長さんで、来年はいよいよ小学校へ入学です。私たち爺や婆は普通に育って欲しいと願っていますが、親は人より少し上を目指すものです。息子と若嫁を足して2で割ると子どもだと思えばいいので高望みはしませんが、折角私たち爺婆と同居しているのですから、せめて心の優しい子どもに育ててやろうと、当たり前のことですが靴を並べること、あいさつをすること、言葉遣いを注意することなどに気を配って、少しだけ誉め、悪いことをしたらお仕置きを繰り返しています。3歳の孫奏心は早くも反抗期で、何かにつけて私と遣り合っています。これも同居の楽しみの一つです。孫って良いものです。

  「孫たちの 遠足天気 絶好調 リュックに弁当 行ってきますと」

  「朝早く 起きて弁当 作る嫁 中々出来栄え 孫つまみ食いする」

  「先生と バスの一番 前の席 座ったんよと 思い出話」

  「おじいちゃん 割ることして 叱られる 爺の役目は これくらいなもの」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇四年ぶりの耕運機再始動

 人間牧場の農場に、サツマイモのつるを植える季節が今年もやって来ました。10日後には子どもたちがやって来るので、何かと準備をしていますが、一番の仕事は畑の中耕です。これまでは担当者だった木曽さんや松原さんが、自分の耕運機を持参して中耕してくれていましたが、二人とも他部署に異動したため思うに任せず、結局は前任の松原さんに無理を言って、先週の金曜日に中耕する予定でしたが、あいにく雨に見舞われ中止となりました。代替日を探すものの相手や私の予定もあり、結局別の方法を考えることになりました。
 人を当てにし過ぎると多少もやもやが募ります。そこで考えたのが古い耕運機の再始動です。人間牧場の倉庫には古い耕運機が眠っています。私の友人で大洲市田処に住む亀本幸三さんが人間牧場用にタダでくれたものですが、最初は巧く始動していたものの故障で動かなくなっていました。亀本さんにそのことを告げると、早速持ち帰って修理をしてくれ動くようになっていたのですが、今度はガソリンが漏れ始め、こに4年間使わずに倉庫に眠ったままでした。

四年ぶりに始動した耕運機と中耕した畑
四年ぶりに始動した耕運機と中耕した畑

 昨日は草を刈ったり宮領先生とのトラブルで作業手順が狂ったため、倉庫の耕運機の修理を思い立ち、引っ張り出してパッキンに水道工事用のシールを巻いて応急の修理をしたところ、何とか油漏れは収まりましたが、素人の修理ゆえ動くかどうかは心配でした。5~6回始動の紐を引っ張ると、四年ぶりにエンジンの軽やかな音が蘇りました。
 さてこの耕運機を急な斜面からどのようにして下の農場まで降ろすか、たった一人の力では不可能なようにも思いました。ふと私の友人で大洲市長浜町豊茂に住んでいた菊地邦求さんが、二年前耕運機の下敷きになって亡くなったことが頭を過ぎりました。菊地さんの二の舞になっては大変と、倉庫からロープを取り出し、安全策を講じながら慎重に畑まで無事降ろすことができました。思いついたついでに、試運転のつもりで中耕を始めましたが、中々の出来栄えに嬉しくなりました。

 中耕した畑は赤土で芋の作付けには最適ですが、中耕の度に多少石が出てきます。それらの石を丹念に拾い上げました。耕運機の作業も炎天下なので麦藁帽子を被っていても久しぶりに大汗をかいてしまいました。一通りの中耕を終えたところで担当の赤石公民館主事さんに電話を入れました。赤石さんは昨日休みを取って人間ドックに行っていましたが連絡がつき、今日は耕運機の手配をしなくてもいいと伝えました。
 今日は予定通り中耕した畑、にビニールのマルチをかける作業をする予定です。親父の調子が少し悪く気にかかっていますが、何とか作業を進めたいと思っています。
 晴耕雨読とでも言うのでしょうか。最近は天気がいいことを理由に寸暇を惜しんで人間牧場へ出かけ、農作業に汗を流しています。昨日は中耕作業が一段落した余勢を借りて、梅林の下草を刈りました。そこには立派なフキも沢山生えていて、摘み取ってじゃこ天のおばちゃんたちに、帰る途中立ち寄りお裾分けをしてあげ、大層喜ばれました。気温が急上昇したため人間牧場界隈には既に薮蚊が出始めました。そろそろ蚊取り線香にお役にも立って貰わねばと思っています。そうそう、4日前空き家だった蜜蜂の巣箱一つに入居が確認されました。これで人間牧場の巣箱は、6つ全てに入居したようでホクホクです。家の裏の巣箱は2つしか入居せず、少し心配ですが・・・。

  「四年ぶり エンジン始動 耕運機 何とか中耕 間に合いました」

  「大汗を かいて晴耕 力こぶ 人に頼らず 何とかできた」

  「油漏れ 応急修理で 止まったが やはり中古 私と同じ」

  「薮蚊出て 体の周り うろうろと 蚊取り線香 そろそろ準備」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇久しぶりに県庁と地方局へ行きました

 現職を退くと県庁や地方局のような官公庁に行く機会が減り、余程のことがない限り前を通っても、「何かご用」と言われそうで顔を覗かせません。そういえば今年度に入ってから、県庁や地方局へはまだ一度も足を踏み入れてないなあと気がつき、昨日は仕事がらみもあって、あいさつのつもりで県庁と地方局へ行きました。かつての友人たちもそれ相応の年齢になって、それ相応の重職についているため、権力の象徴として個室が与えられている人も沢山いますが、格式の嫌いな私はどうも敷居が高くて、ついついドアの前で入るのを躊躇してしまうのです。
 昨日は中予地方局の7階大会議室で開かれた、松山地区生活研究協議会のリーダー研修会の講演を頼まれ出かけました。少し早く到着したので、この春地方局長に就任した松森さんを訪ねました。松森さんはまちづくりセンターで主任研究員をしていた頃知り合いましたが、今は私などとは格の違いとでもいうのでしょうか、会うことすら躊躇するのです。昨日は出張中だったようなので秘書の方に名刺をお渡しして出ようとすると、隣の部長室から「若松さんお元気ですか。どうぞ中へ」と勝田部長さんから気軽に声がかかり、お茶を飲みながらお話をさせてもらいました。いやはや驚きました。

 リーダー研修会は午後2時からでしたが、会場の入口付近のソファーに腰をかけ、産業振興課長の藤田さんと久しぶりにお話をすることができました。藤田さんもかつて、まちづくりセンターの主任研究員だった頃知り合いましたが、藤田さんには特別親しくしてもらい、双海町の山の上で開いたフロンティア塾に毎回参加し、特に私が執筆し21世紀えひめニューフロンティアグループが出版した、「今やれる青春」という本には巻末へ寄稿までしてもらっているのです。今も変わらぬ謙虚さに、ただただ感心しながらお話をさせてもらいました。
 研修会にはかつて私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた頃、副会長として活動をともにしたことのある、東温市の藤井由紀恵さんも参加されていて、懐かしく話をさせてもらいました。藤井さんは生活研究協議会の県の会長を永らく務めたり、どぶろく特区で地域づくりをやっている立派な方で、何年か前県政発足記念の表彰を一緒に受賞して以来の出会いなので、懐かしさ一入でした。帰りにはどぶろく特区で造ったどぶろくをお土産にまでいただきました。

どぶろく由紀っ娘物語
どぶろく由紀っ娘物語

 講演は「心豊かに生きる」と題した話をしましたが、参加者の中には顔見知りも多く、アドリブながら楽しい話をすることができました。昨日のように、失礼ながら田舎のおばちゃんに話をするくらい楽しい事はありません。生き方を共有し、話に共感・共鳴してくれるのです。時には笑い転げ、時には吹くハーモニカの音色に合わせて口ずさんで歌ってまでくれるのです。
 世の中が混沌とし、田舎に生きる人たちは、足腰が痛い、年金が減る、過疎だ高齢化だ、学校がなくなるなどと、不満をタラタラいいながら人生を過ごしていますが、そんなに今を嘆き将来を不安がっても、何にも変わらないのです。どうせだったら田舎暮らしに満足し、田舎を見せびらかせて生きる方が得策なのです。私はその見本のような生き方をしていると、自負し生きています。空気は美味い、食べ物は美味い、水も空気も美味い。安全で安心な野菜は作って美味しく食べているし、魚だって沢山貰うのです。夫婦や家族や近所や友人といった、人間関係もすこぶるよく、たまに都会へ出かけれる、これ以上何の不足があるでしょうか。
 今日も朝が待ち遠しく、いつものように早朝4時に目覚めて一日がスタートしました。間もなく朝日が昇ります。

  「久方に 県庁訪ね 人に会う それぞれ出世 個室いただき」

  「何をしに 来たのと問われ 後ずさり しそう心に わだかまり持つ」

  「久方に 会った女性に どぶろくを 土産に貰い 在りし日思う」

  「水美味く 空気も美味い 食べ物の 田舎暮らしに 満足しつつ」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇無線ランで繋がっている優れもののプリンター

 私たちの身の回りには、私のような生まれつき低能な人間には理解し難いことが、余りにも多過ぎます。子どもの時代であれば、「なぜ?」「どうして?」と聞くこともできるのでしょうが、さすがにこの歳になると、「それも知らないの?」なんて、冷たい視線や言葉が返って馬鹿にされるようで、知ったかぶりのうやむやで、やり過ごしてしまうのです。
 私が若い頃不思議に思ったのは、愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸に乗って、南太平洋の珊瑚海まで遠洋航海に行った時、海の上で正月を迎えた時でした。日本ではコタツに入り雑煮を食べてるであろうに、実習船の船上では暑く、パンツひとつで過ごしていました。無線長さんに頼んで遠く離れた日本の親元へ、「ハッピーニューイヤー・はるか南太平洋の洋上から新年のお喜びを申し上げます」と電報を打電したのです。その頃の無線はまだ「トン・ツーツー・トントン」の時代でした。赤道直下から基地局を経由した電報は確かにわが親元へ届いていました。「なぜ、どのようにして電報が届いたのか」は、おおよそのことは分かっていても未だに闇の中なのです。

 電話やマイクがコードレスになったり、文字や画像がFAXで送れるようになった時も、ワイヤレスマイクが普及した時も、同じような想いだったと記憶が蘇るのです。そして今私の書斎で使っているパソコンもコードは電源だけで、電話の傍に置いているルーターから電波が飛ばされ無線ランを使って、疑うことなく何の造作もなくこうしてパソコンの操作ができ、日々を過ごしているのです。
 先日久しぶりに1か月分まとめてブログ記事をプリントアウトしていると、パソコンとコードで接続されているプリンターの調子が悪くなり、インクの残量を示す警告表示がやたらと画面に出て、プリント不能になってしまいました。最初の内は何度もスイッチを押したりしてプリントしていましたが、そのうちプリントした色がおかしくなってしまったのです。私のプリンターはエプソンの風船6色インクを使っていますが、先日友人の谷岡和美さんから、「自分のプリンターが故障して新しいのに替えたので、芙蓉になったインクを差し上げます」と送られて来たインクを、ラッキーとばかりに受け取ったばかりでした。

新しく買い換えたコードレスプリンター
新しく買い換えたコードレスプリンター

 息子にプリンターの調子が悪いことを話すと、色々クリーニングをやっていましたが、一向に回復の兆しがないので、迷うことなくプリンターを2万円ほどで購入してきました。新しく届いたプリンターを息子は馴れた手つきで箱から取り出し、ソフトを入れて使えるようにしてくれましたが、今回のEPSON/EP-775AWという機種は、最新型コードレスでパソコンとケーブル接続しなくても利用できる、優れもののようでした。まだ殆ど使っていませんが試験的にプリントアウトしてみましたが、中々の優れもので、デジカメのSDやMSもパソコン経由しなくても直接プリントできるのです。「なぜ?、どうして」と言われても、マニュアルどおりに使っているだけなので説明はできませんが、いやはや便利になったものです。
 純正のプリンターインクを6色揃えて買えば5千円程度ですが、そのインクが付いて2万円ということは、プリンターの本体価格は1万5千円なのですから、プリンターはもう備品ではなく消耗品といったところです。私のプリンターは若嫁も息子も、時々やって来る娘も自由に使って、子どもたちの細々をプリントしているようですが、消耗品といえど今度は少し長持ちさせないと、たとえ2万円でも年金暮らしの私には財布の中身が軽くなって、ドルショックです。

  「コードなく なぜに繋がる プリンター 説明できず うやむや終る」

  「プリンター 昔は備品 今消耗 時代変わって 安く購入」

  「プリンター 安いがインク 高過ぎる これが味噌かも 企業戦略」

  「故障すりゃ 直す手間より 買い換える これが現代 首をかしげつ」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇夕日とレモン

 今年はいつまでも寒さが取れず、朝晩はひんやりするような気候ですが、昨日は一日中雲ひとつない好天に恵まれ、さすがに初夏を感じ、夏の近さを感じる一日でした。法事の帰りに母の日ということもあって、妻がリクエストした鷹ノ子のお風呂へ出かけ、たっぷり汗を流しました。鷹ノ子温泉も昨日は、母の日ということで女性はタダだそうで、妻は大喜びでした。帰りの途中、私は1年ぶりに松前町のエミフルへ、妻と二人で立ち寄りました。昨日はどの店も母の日一色で、プレゼントを買い求める人で多少込み合っていました。二人とも少々厚手のカジュアルを着ていたため、洋服店を見て回り一着ずつシャツを買いましたが、買い物に付き合うほど疲れるものはないようです。

夕日と風車
夕日と風車

 帰宅途中、同居の長男息子から電話が入り、「帰りにホームセンターへ立ち寄ってレモンの苗木を買って帰るよう」頼まれていたので、いつも立ち寄る松前小学校前の種苗店へ入り、顔見知りの店員さんにレモンの苗木について相談しました。苗木を植えるのは3月か11月の休眠期と決っていますが、今でも大丈夫だと言うので、棘なし1本、棘あり2本をそれぞれ買い求めました、昨日から始まった大相撲を午後6時までテレビ観戦しました。この時期は夜明けも早くなりましたが夕暮れも遅く、大相撲を見終わって外に出ると綺麗な夕日が西の空を茜色に染めていました。

 

 

 

 

 

 

 

植えた棘なし夕日レモン
植えた棘なし夕日レモン

 夕日を見ながら畑に出て、甘夏柑の果樹園の空白地に鍬とスコップで雑草を取り除き穴を3つ掘りました。その間綺麗な夕日を写真に収めながら夕日観賞も怠りなくやりました。昨日は少し芸術に凝った気持ちで、息子が設置している風力発電用風車を、夕日に取り入れて見ましたが、中々の景観、十分間に合いました。これからしばらくの間は水遣り等養生に努め、大切の育てレモンをせいぜい食べたいと思っていますが、夕日が沈む頃に植えたので、「夕日レモン」とでも命名しようかな?。
 息子たち家族も昨日は若嫁の実家へ遊びに出かけたようで、午後9時頃に帰宅しました。若嫁は妻へ母の日のプレゼントとして、綺麗な花の寄せ植えを買って帰りおめでとうと言いながら手渡ししていました。有難いことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  「母の日で 温泉入浴 タダと聞き 妻は喜び 父の日タダかと?」

  「ああ綺麗 夕日見ながら 穴を掘り レモンを植えて 一日終わりぬ」

  「屋上に 上り夕日の 写真撮る 風力発電 絵になる光景」

  「母の日に 母を意識し プレゼント 普通の日には 母と思わず?」  

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇弟の帰省

 前日、和歌山県古座川町(奥さんの実家)と奈良県大和郡山市(自分の家)の二つの家を二地域移動生活している弟から、「明日の午前中親父の顔を見に帰る」と電話が入りました。そのことを前もって話すと親父が嬉しさのため、ワソワして体調を崩してはいけないと二人で相談気配りし、親父へはその日の朝直前になって話しました。妻はこの日あいにく仕事だったので、昨日の夜弟夫婦のために、昼食の準備をしてくれていました。冷蔵庫に入れた料理を出すこと、お味噌汁は時間が来たら温めること、近所のお寿司屋さんへ頼んでいる握り寿司と巻寿司を11時に取りに行くこと、お茶葉はキウスに入れているのでお茶をヤカンで沸かすこと等など、仕事に行く前耳にタコができるほど私に準備手順を説明し、妻は仕事に出かけて行きました。

久しぶりに和歌山から帰省した弟夫婦
久しぶりに和歌山から帰省した弟夫婦

 弟は午前10時の到着だと言っていましたが、9時30分に到着しました。9時に「忠行が弘美さんと二人で帰ってくる」と親父に告げると、親父は驚いた様子でしたが、私が食事の準備をかいがいしくやっている様子を見て満足したのか、嬉しそうに弟の到着を部屋の中で待っていました。
 弟は定年後5年が過ぎたようですが、奥さんの実家の和歌山県古座川町で晴耕雨読の暮らしを続けています。自分の家は奈良県大和郡山市ですが、その家を息子たちに譲っているものの、警察官としてこの春の人事異動で東京の警察庁へ異動が決り、家族全員で東京へ引っ越したため、時々掃除に帰っているとのことでした。また5年間晴耕雨読の生活をしていたようですが、土木ゼネコンでトンネル工事のスペシャリストとして働いた、実績が買われたのか声を掛けられ、今年から田辺に通って週4日ほど働くとのことでした。

 妻の用意した料理を食べながら久しぶりに積る話をしました。私より3つ年下なので65歳になり、白髪も目立つようになりましたが、体調はすこぶる元気で、奥さんと仲良く暮らしているようで一安心です。今年は母親の13回忌で法事をしなければなりませんが、仕事に赴いているので帰れないかも知れないと言っていました。僅か3時間余りの短い滞在で午後1時前、親父や私たち夫婦、息子たち家族に見守られて帰って行きましたが、「もうわしも老い先長くはない」と寂しく言って弟夫婦を見送った、親父の寂しそうな背中が印象的でした。
 子どもを産んで育てても、弟のように高校を卒業して直ぐに都会に就職すれば、親子で過ごした時間は僅か18年です。その後50年は親元を離れ、望郷の念に駆られながらも、気がつけば自分もまた同じように自分の子どもが自立して、夫婦だけに戻るのです。幸いなことにできの悪い私のような長男息子ながら、同居できる親父はまだ幸せだと思いますが、人間の一生とは考えてみれば、はかないもののようです。

  「弟が 久方ぶりに 帰省する 喜び束の間 親父落胆」

  「わが子でも 一緒に暮らす 時短か 五十年間 別れて暮らす」

  「兄弟は いいものなれど 同じ時 過ごす時間は 余りに短し」

  「長男の 嫁の気配り さすがだと 親父喜び 歓待食事」

[ この記事をシェアする ]