人間牧場

〇九州から四国への移動時間中の学び

 前夜の夜遅く関門海峡を渡って小倉入りした私は、小倉から30分ばかり離れた行橋での講演が終わると、主催者に用意してもらったタクシーで行橋駅まで出ました。大分・別府から到着した12時23分発の特急ソニック26号に乗り、僅か15分で小倉へ到着、9分しか乗り継ぎ時間がないホームを足早に新幹線改札口まで行き、12時47分発のJR新幹線のぞみ32号に乗り、関門海峡の下トンネルをくぐって、これまた僅か18分で山頭火のふるさと新山口へあっという間に着きました。

 

立派な高架の行橋駅西口
立派な高架の行橋駅西口

 新幹線のぞみの自由席は1号車から3号車でしたが、私の座った3号車2番の席の前には、「ついていきたいと思われるリーダーになる51の考え方」という、元スターバックスコーヒー株CEO岩田松雄さんの本の一部が紹介されていました。僅か18分の車内で、なるほどと思いながらコートも脱がず背中の荷物も降ろさず、紙片に殴り書きのようにしてメモを取りました。この本は13万部を売り上げベストセラーになったそうです。
 1、「どうして自分がリーダーに?」でまったくかまわない。
 2、人を動かす前にまず自分を動かせ
 3、リーダーが発するべきは「ミッション」
 4、判断は必ずしもスピーディでなくていい
 5、部下は上司の人間性をこそ見ている
 6、挫折の経験が人の痛みを想像できる人にする
 7、権力の恐ろしさを理解しておく
 8、トイレに行く姿まで常に見られているという意識
 9、言葉ひとつで部下のやる気は変わる

 新山口でこれまた6分の短い乗り継ぎ時間を、急いで4番線ホームまで走りJR山陽本線岩国行き、各駅停車14時21分発の列車にやっとの思いで乗りました。車内は空き席が目立つほど空いていましたが、私が座った席はお年寄りや体の弱い人が座る優先席でした。ふと気がつけば私もシルバー割引を受けられる68歳という初老の身なので、納得しながら胸を張って座りました。事務局長さんが持たせてくれたとても美味しい握り寿司弁当を頬張りながら、持参していた「大学・中庸」という、浜田さんから貰ったポケットサイズの本を読みながら、1時間22分の列車の旅を楽しみました。
 柳井港に14時32分に到着、わずか8分という乗り継ぎ時間のため高架橋を走り降り、国道の点滅信号もボタンを押して待たぬまま、車が途切れたことをいいことに他の人に混じって渡り、切符売り場で乗船券を買い求め、防予汽船に乗り本州を離れました。柳井港から三津浜までは2時間半の道中です。広い座敷船室は私一人で、衛星放送番組を何げなく見ました。これが南米コロンビア沖の太平洋上にに浮かぶ周囲100mという小さな島に1200人が暮らす、世界一人口密度の高いイスロテ島の話題で、人間いかに生きるかといった意味で、大いに参考になる番組でした。この話は明日にでもブログで紹介したいと思っています。

周防大島を左に、二神島を右に見て海峡を走るフェリー
周防大島を左に、二神島を右に見て海峡を走るフェリー
思い出のひょうたん型湯利島共和国
思い出のひょうたん型湯利島共和国

 山口県と愛媛県の海の上の県境を越えたころ、夕日に輝く瀬戸内海の島々が目に映りました。二神島や思いで多い由利島、そして西瀬戸に沈む綺麗な夕日を見ながら17時10分に三津浜港に着き、置いていた自家用車で自宅まで帰りました。書斎に入ると私宛の少し大きめの封書が届いていました。長い間ご無沙汰している栃木県那須塩原に住む阿久津一志さんから、自著本「職人を教え・鍛え・育てるしつけはこうしなさい!」という本のプレゼントでした。この話も後日ブログで紹介したいと思います。
 昨日の午後は、九州福岡での講演のための移動時間でしたが、わが親父が「勉強は学校へ行かずともできる」と口癖のようにいっていたことを地で行くような、考えさせられた大きな学びの場となりました。学びの心がけはこれからも大事にしたいものです。

西瀬戸に沈む美しい夕日
西瀬戸に沈む美しい夕日

  「乗り物を 乗り継ぎながら そこここで 色々学ぶ これも意義あり」

  「わが親父 学校行かずも 学べると 常々俺に 諭していたな」

  「青春を たぎらせやった 無人島 今はダッシュに 奪われている」

  「ああ綺麗 航跡はるか 島影に 美し夕日 余韻残して」

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人間牧場

〇今日の夕方から九州福岡へ出張します

 今夜から明日にかけて、九州福岡へ今年最初の出張講演に出ます。帰りは明日夜遅くかあさっての午前中になる予定です。ご用の方は私の携帯電話へご連絡下さい。

 

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〇講演講師欠席の波紋

 今年に入り葬儀が相次ぎ、新年草々の華やいだ気分が一変し、少々×××な気持ちになっています。私などは葬儀に参列するだけで×××になるのですから、葬儀を出さなければならない当事者や家族は、寒さの中で心も体も打ちひしがれ、×××は相当なものだと深く同情するのです。死は多少の前触れはあっても、突然やって来ます。故に死んだ人につながる周りの人々のスケジュールを、待ったなしで狂わせてしまうのです。
 昨日身内の葬儀がありました。僅かの患いで96歳の人生を閉じたおばさんは、私の家から嫁いだ親父の妹叔母の義母なので、通夜や葬儀のためこの二日間の私のスケジュールは、全てキャンセルとなりました。

 私も困惑しましたが一番困惑したのは、講演を明くる日に控えた団体の担当者で、「身近な親類に不幸があって、講演をキャンセルしなければならなくなりました。何とかご理解を・・・」と電話口で口もこわごわ話すのですが、相手の「困りましたが、仕方がありませんね」という困惑反応に、これまた×××になりました。相手から「人を集めているので、誰か代役で適当な人がいれば紹介して欲しいのですが・・・」という真実味を帯びた話になると、昨日今日ゆえ頭に浮かぶ人もなく、「考えて見ますが・・・」と電話を切りました。

 葬儀や精進落としの食事会もずっとそのことが気になって、帰宅後担当者に電話を入れましたが、ビデオ鑑賞したりして、どうにかお茶を濁したようですが、今日も後味の悪い気持ちを引きずっています。
 昨日は午前中の講演をキャンセルしたばかりでなく、2月9日に迫った講演の打ち合わせに、はるばる兵庫県三田市からやって来る人と、同じく2月2日講演に出かける予定のJA担当者が午後やって来る予定でしたが、二つともキャンセルを余儀なくされました。JA担当者は葬儀がJAルミエールだったので、葬儀前の寸暇を惜しんで普及センターの応接室をお借りして、打ち合わせをさせてもらい事なきを得ましたが、兵庫県三田市の人にはすまないことをして終いました。

 昨日の書斎の日めくりカレンダーに「今日の言葉」として「運命は神が考えたものだ 人間は人間らしく働けばそれで結構だ」という、小説家夏目漱石の言葉が載っていました。人の死は神や仏が考えたものかも知れません。私のとった行動もこれ以外はないと思っています。しかし少し割り切れない思いが残ったのも確かです。まあこれはこれとして割り切って、今日から始まる新しい年の初仕事をしっかりとやりたいと思っています。

  「前触れも なく近き人 亡くなりて 講演キャンセル 右往左往し」

  「新しき 年×××の 出来事が 神の考え 俺にゃ分からぬ」

  「葬儀にて 音信不通 皮肉にも 解消されて 懐かし人に」

  「日めくりに 私の心 言い当てる 漱石言葉 少し救われ」 

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人間牧場

〇新春草々の訃報

 今年は新春から訃報が相次いでいます。思い返せば昨年も新春草々叔父と叔母が同じ日に亡くなり、同じ日に葬儀をしたり、その一週間後に従兄弟が亡くなるなど最悪のスタートでしたが、人が生まれたり死んだりするのは世の中の常なので、どうすることもできないのです。
 一昨日の夕方親父の妹の義母が亡くなったと知らせがありました。遠隔地ならいざ知らず田舎は従兄弟やはとこでも親しく付き合っているので、早速妻と二人でお見舞いに駆けつけました。この家では昨年叔父が72歳で亡くなっていて、二年続きで正月草々葬儀を出さねばならない寂しさに打ち沈んでいましたが、昨年の叔父の死で覚悟も葬儀の仕方も分かっていて、96歳という高齢での最後なので叔父の時ほどの涙はありませんでした。

 昨晩は午後6時から自宅でお通夜があるので、午後5時にわが家を出て下灘へ向かいました。冬至も過ぎたこの頃は、日の入りが午後5時15分と随分遅くなって、シーサイド公園から唐崎に通じる海岸国道から、西に沈むそれは見事な夕日を拝むことができました。
 通夜は親類縁者が部屋に入りきれないほど集まって、慶徳寺住職の枕経で始まりました。お経や焼香は30分ほどの短い時間でしたが、通夜式の最後に住職さんの「山鳥の声」という説教がありました。「ほろほろと山鳥の泣く声聴けば父かとぞ思い母かとぞ思う」という歌のお話でした。親というのは生きている間は「あれをしろ、これはしてはいけない」と言い、何かと煩わしいものだが、いざ亡くなったり自分が子どもを育ててみると、いちいち最もなことばかりだったと思うもので、亡くなって初めて親の恩を感じるが、「親孝行したいけれども親はなし」となるものだそうです。通夜は現世で親の顔を忘れないようにしっかり記憶するためにあるので、しっかりと親の顔を覚えて下さいと締めくくられました。

 昨日の夕方通夜に行く前、94歳の親父に叔母さんの死を伝えたところ、叔母さんが一つ歳上だということを覚えていて、「そろそろわしの番だ」と悲しそうでした。親父は12人兄弟姉妹の長男ですが、既に3人の弟と3人の妹が亡くなっています。それでも親父を含めて6人がまだ存命で、大阪に住んでいる叔母を除けば4人の妹が町内で暮らしていて、何かにつけて声を掛け合って、ある意味幸せなのです。
 私が今年の目標の一つに掲げた通り、今年からは今までの不義理を悔い改め、老いた親父の面倒を見る覚悟をしっかりとしたつもりですが、身近な人の死に直面したり、和尚さんの説教を聞けば、「人生とは何か」「死とは何か」を考えさせられるのです。
 今日は納棺や葬儀と急に予定が入り、人に会う約束を延期せねばならず、兵庫県から来る予定の人や松山から来る人たちに、お詫びと延期の電話やメールを入れましたが、あいにく昨日は日曜日とあって連絡がつかない人も何人かいて、今日の連絡に持ち越されています。

  「今年も 新春草々 また訃報 悲しきことぞ これも現実」

  「通夜式で 住職説教 聞きながら 老いし親父に 孝行誓う」

  「人は皆 いつかは死ぬと 心得る 故に毎日 思いを込めて」

  「今頃は 一足先に 旅立った 叔父とあの世で 親子仲良く」

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〇ビッグサイズな入塾願に驚く

img488 自分で言うのもおこがましいのですが、私も人生において様々な修羅場を乗り越えて来た人間なので、少々なことでは驚かないものの、今回は少しドキッとしました。昨日の昼前、郵便局の配達員が自宅へ郵便物を届けてくれました。正月を過ぎたというのに昨日届いた年賀状は、普通の人であれば元旦に届くくらいの量と思える50通を越えていました。その中に見覚えのある達筆な墨字で書かれた封書がありました。封には「俳句で遊ぼ」と猫のイラストシールが張ってあり、送り主は宇和島市に住む脇谷梨花さんからでした。脇谷さんは私が講師を務めている愛媛新聞カルチャースクールの受講生ながら俳句の名手で、地元のコミュニティFMでは俳句をテーマにパーソナリティもしています。宇和島から松山まで月に一回のカルチャースクールに通ってて来ることは大変な労力だと思うのですが、見るからなファイトウーマンとして、出会ってからまだ半年しか経っていないのに、彼女が名を連ねている「花信」という俳句雑誌に、私も2~3度投句して彼女の温情で掲載してもらいました。

ビッグサイズな入塾願
ビッグサイズな入塾願

 封書の中から出てきた俳句雑誌「花信」は、いつもいただく見覚えのある体裁でしたが、今回はかなり分厚いような気がしました。雑誌を真っ二つに割るように開けると、中から何やら茶色い包み紙のようなものが出てきました。表に「入塾願」と書いていました。丁寧にたたんだ十六折を開けると風呂敷一枚もあろうと思われる紙一面に、墨字で巳年にちなんだ巳のイラストで囲んで、「あけましておめでとうございます。昨年はたくさんの元気をいただきありがとうございます。3月で講座が終了とのこと、4月からはぜひとも入塾させていただくことにお願い申しあげます。 2013.1.1 脇谷梨花」と大書していて、見た瞬間あっけに取られるやら驚くやらで、久々に思わず「何だこりゃー」「オー」といった感じでした。
 私は人間牧場で6年前から年輪塾を開いています。常時は30人くらいの集まりですが、二年に一度開く公開セミナーは100人近くにもなるほど活況を呈しています。人間牧場や年輪塾に来ない人には分からないこともあって、辻説法のつもりで「街中の人間牧場移動塾」という世にも珍しいテーマで愛媛新聞カルチャースクールを開いていますが、私のエネルギー負担とスケジュール負担が大きいので、3月には終了する予定にしているのです。

 そんなこともあっての「入塾願」となったのでしょうが、年輪塾への入塾は塾長の私と塾頭の清水さん、大番頭の米湊さん、小番頭の松本さん、塾生第1号の浜田さんの5人で決めることになっているので、早速塾議にかけて入塾を許可すべきかどうか検討したいと思っています。
 人間牧場を造り始めた8年前、「人間牧場へ入りたい」という願書が浜田久男さんから届きました。その頃は人間牧場の整備に夢中になって、年輪塾をまだ計画していなかった頃だったので、はてさてどうしたものか思案しましたが、浜田さんの願書がきっかけとなって年輪塾は生まれ、今日の隆盛を見るにいたりました。人は歩く前に考え、歩きながら考え、歩いた後に考えるものです。年輪塾は多分歩きながら考える部類でしょうが、浜田さんといい、今回の脇谷さんといい、いい意味でやる気の人たちが集まって来ることは、多いに刺激になるのです。カルチャースクールで学んでいる兵頭さんも、既に年輪塾のメンバーとして活動しており、年輪の如き広がりを嬉しく思っています。

  「封書にて 俳句雑誌に 挟み込み 入塾願 届き驚く」

  「たいがいの ことで驚く ことないが 入塾願 ビッグサイズで」

  「広がりは 嬉しいことと 受け止めて 入塾願 受け取りました」

  「また一つ 伝説増えて 面白く 活動の巾 次第に広がる」 

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〇その日の吉凶がわかる日めくり

 私は神や仏を余り信じない現代人だと自負していますが、68年間も生きていているのに、自分の書斎の壁に吊り下げて毎日めくる日めくりカレンダーなのに、そこに書かれている六曜や選日について、何の知識も持たず、また知ろうともしないで今日まで無頓着に過ごしてきたことを、少々恥じているのです。新年に当り書かれていることに少しだけ興味を持ち調べてみました。

その日の吉凶がわかる日めくりカレンダー
その日の吉凶がわかる日めくりカレンダー

 日めくりカレンダーには六曜、選日、行事、二十八宿、九星、六十干支、月齢・潮の名称などが細かく記されています。六曜とは暦法の一種で、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六星を旧暦に定めた日に配し、順次循環させて、それぞれの星に当る日の吉凶を占います。本来は古代中国の占いでした。
 選日とは、古くからその日がどのような日柄であるかということから、あらゆることについて吉凶の判断をするために、意味づけをしたものです。一粒万倍日・不成就日・八専・三隣亡・天一天上・天赦日・十方暮・三伏日(初伏・中伏・末伏)の六選日があります。行事は二十四節気や年中行事、祝祭日等を掲載しています。
 二十八宿は天を四つの方角と七つの宿に分け(計二十八)、各々を月日に当てて毎日の吉凶を占ったものです。九星は九星術にもとづき、五行と方位で運命や運勢、吉凶を占います。六十干支は十干と十二支の組み合わせでおこないの吉凶を判断します。月齢・潮の名称は、月の満ち欠けをイラストで表現、大潮等の名称も掲載しています。

  なるほどと頷く部分はほんの少しで、大部分はまさにチンプンカンプンといったところです。でも時々悪いことが重なると「今日は三隣亡だ」などと選日の中にある言葉を訳も分からずに使っていて、三隣亡が「普請、棟上げなどは後日に災いを招く大凶の日」であることを知ると、やはり避けたほうが無難だったと、あらためて後悔するのです。また大安に結婚式を挙げたり、友引にお葬式をしないという風習は、私たちの暮らしの中に深く溶け込んでいるのです。もっとも最近は仏滅の日に結婚式を挙げると安くするというブライダル産業の悪智恵や触れ込みで、あえてその日を選んで結ばれるカップルだってあるのですから、六曜や選日も地に落ちたものです。

 私の家は代々漁家だったので、暦は旧暦にこだわっていました。それは月齢によって潮の満ち引きが繰り返され、海に生きる動物たちは旧暦で生きているからなのです。潮の悪い時に幾ら頑張って漁をしても魚は獲れないし、大切な漁業道具を破損してしまうのです。旧暦は農業にも大いに関係していて、昔の人は種蒔きや収穫など、今でも旧暦こだわり納得したりしながら利用しているようです。
 言い伝えや迷信などに惑わされたり、過信する必要はありませんが、暦は中国から伝来された部分が多いようで、中国三千年の歴史に基づいている部分も多いことを考えれば現代人は、せめて月齢や潮を科学的に裏づけして、もっと賢く生きるべきだと思っています。そういえば今日は小寒です。寒い。
 今日の日めくりの言葉「種まかずして小判も逸歩も生える例なし」(井原西鶴)

  「今年も 書斎の壁に 日めくりを 掛けて毎日 日めくりながら」

  「旧暦に 基づき野菜 作ってる 家庭菜園 今年あれこれ」

  「これまでに 六十八年 生きたけど 教え習わず 日めくり無知で」

  「今日五日 うかうかすると 日は過ぎて 春の準備が 遅れてしまう」

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人間牧場

〇私のWORD PRESSブログの背景を変えました

 退職し自由人、サンデー毎日な暮らしに甘んじるようになって、真っ先に始めたのが長年の夢であった人間牧場造りと、娘婿から勧められたブログ書きでした。私のホームページを作ってくれたのもブログ書きのお膳立てをしてくれたのも全て娘婿なので、私にとってパソコンの師匠は娘婿なのかも知れません。そのため何かトラブルがあれば真っ先に電話やメールで助け船を出し、時には自宅まで来てもらってトラブルを解決してもらい今日を迎えているのです。
 私がブログを始めたのはアメーバブログでした。変換ミスの文字をそのままアップし、修正するすべすら知らない幼稚な私でしたが、一日2本という驚異的な更新を続け、そのうち子どもたちに誕生日プレゼントして貰ったデジカメで写真を撮り、挿入の仕方を学んでからは、これまた沢山の写真をアップして有頂天になっていたようでした。

 そのうち写真の全体枚数が限界ギリギリまで近づいたのを機に、写真挿入制限のない方法はないものかと娘婿に相談し、アメーバブログ一辺倒だったのを、一本はアメーバブログ、一本はまるで自動車メーカーホルックスワーゲンのマークのような、〇印のWが頭文字となっている、WORD PRESSというブログを娘婿が用意してくれ、一昨年の9月からアメーバブログとワードプレスブログをまるで二足の草鞋のように使い分けて、殆ど毎日それぞれ一本ずつ記事を書いているのです。
 記事を書いた後、校正のつもりで短い時間ながら毎回読み返して、変換ミスや誤字脱字の修正をするようになって、かつてのような書きっ放しは無くなりましたが、それでも急ぐ時には見過ごして思い込みミスが幾つも見つかり、今なお赤面したりもしています。

 ワードプレスのメンテナンスは、師匠である娘婿が時々やってくれているそうですが、画面を少しでも美しく見せたいという配慮から、背景に木目調の画面をあしらってくれていましたが、保存のためにプリントアウトすると、余白の木目調がやけに多く、そのため黄色いインクがやたらと減るので、正月礼にやって来た娘婿に相談し、そのうち修正してもらうことにしました。娘婿は泊まりもせず帰りましたが、昨日の朝起きてワードプレスの画面を見ると、いつの間にか私の記事画面の背景が既に修正されていました。いやはや有難い反応に大いに感謝した次第です。
 アメーバブログは一ヶ月に二回程度火曜日の午前2時から午前8時まで、メンテナンスのため書き込みができなくなるので、その日は多少悶々していましたが、二本立てブログのお陰で多少その問題も、トラブルがある時もとりあえずどちらかで対応できて一安心といったところです。
 私のブログの修正を遠隔操作で手直しできる娘婿の技術能力に、新年早々脱帽しました。そんな訳でこのブログのイメージが多少変わりましたが、引き続きご愛読下さい。

  「プリントを するのに黄色 インク減る そんな理由で 背景変える」

  「背景を 替えただけだが イメージが 変わるブログに 感心しつつ」

  「遠隔で 私のブログ 見守って メンテナンスも してくれ感謝」

  「少しずつ 変化対応 しながらも 八年目春 迎えて新た」 

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人間牧場

〇日本酒は神代の昔から元気の源です

 私が愛媛県立中央病院で胆のう摘出手術をしたのは、今から13年前の2001年でした。その年は私の母校である愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティを開いた2月10日に沈んだり、私の誕生日10月3日の明くる4日に、母が80歳で亡くなったりするハプニングが重なり、胆のう摘出手術後の回復が遅れて、一気に13キロも体重が減りました。これはやばいと思った私は、あれ程好きで飲んでいたビールを断腸の思いではなく、堪能(胆のう)した!と周りを笑わせながらきっぱりと酒を断ったのです。
 以来13年間酒を飲む機会も場所も誘いも断わって、一途に酒と縁のない余生を送っているのです。正月といえばお屠蘇がつきものながら、そのお屠蘇さえ飲まない徹底ぶりに一番感心しているのは、やはり一番身近な妻ですが、わが家では家族や親類縁者が集まった正月もお酒を飲む人が一人もいませんでした。

 それでも妻は缶ビール一本程度をたしなむ長男息子と、帰省する次男や三男、それに正月礼にやって来る娘婿のために缶ビールを一箱、それに神様のお供え用と親父用に清酒を一本ずつ買い揃えていました。しかし次男は正月草々勤務している日赤松山病院オペ室の拘束日、警察官をしている三男も宿直勤務、愛媛大学に勤める娘婿も仕事のため車を運転しなければならず、結果的には長男も飲まず、正月だというのにまったく酒のないわが家となったのです。
 親父は若い頃から酒を飲んでいますが、親父が酒に酔った姿を見たことがないほど酒癖の良い方で、たまに悪酔いして醜態をさらした私の姿を見て、随分叱られたものでした。親父は生業が漁師だったため日本酒一辺倒ですが、酒の飲み方は心得ていて、冷酒の美味さや、母が生存中はお燗つけ方まで注文していたようです。
 今朝の新聞に愛媛の酒の広告が載っていましたが、それによるとお燗の温度は次のようです。
  日向燗(ひなたかん)30度
  一肌燗(ひとはだかん)33度
  ぬる燗(ぬるかん)40度
  上燗(じょうかん)45度
  熱燗(あつかん)50度
  飛び切り燗(とびきりかん)55度

 最近は鍋にお湯を沸かして徳利を肩までつけ、お燗したお酒をお酌してもらいながら、お猪口でちびちび飲むといった風流は、すっかり姿を消しました。今は電子レンジでチンして飲むのが主流だし、日本酒より焼酎やビールが好まれ、日本酒はどこか肩身の狭い思いをしているようです。
 わが町にもつい最近まで「島錦」という蔵元がありましたが、廃業に追い込まれ、大きな白塀白壁の蔵のみが往時を物語っているのです。
 私はもう酒を復活して飲もうとは思わないし、息子たちも酒を殆ど飲まないため、酒の上でのトラブルも考えにくいようですが、日本人にとってやはり日本酒は神代の昔から、元気の出る水のように思うのです。私の友人には蔵元が多く、日本文化の源流である日本酒の復活隆盛を心から祈っています。

  「酒断って 早くも十年 余り過ぎ 体内酒の 音沙汰もなく」

  「正月と 言うのにわが家 酒もなく どこか寂しいく 盛り上がらずに」

  「酒のない 国へ行きたや 二日酔い そんな駄洒落を 言いつ昔は」

  「冷酒と 親の意見は 後で効く 親父口癖 何度か聞いた」

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人間牧場

〇配信が続いている新聞スクラップ「ジョン万次郎物語」

 私は人間牧場で開いている私塾「年輪塾」の塾長をしています。塾長といっても他の塾生に比べると、学歴もなく知識も軽薄で、強いて上げれば年齢が他の塾生よりほんの少し?上であることと、人間牧場を自費で造って持っていることくらいで、胸を張るようなことは一つもないのです。そればかりか現代人が武器として使っている、デジタルに関しては比較のしようがないほど劣っているのです。
 時代の変化が早いと思うのは、今から31年前の昭和56年に21世紀えひめニューフロンティアグループというボランティア集団を立ち上げ、21年前の平成3年にフロンティア塾を開始した頃は、パソコンは出回り始めてはいたものの、デジタルの代名詞のようなパソコンも携帯電話も殆ど普及していませんでした。

脇田さんから配信されているジョン万次郎物語
脇田さんから配信されているジョン万次郎物語

 ところが6年前に年輪塾を立ち上げた時には既にパソコンも携帯電話も広く普及していて、年輪塾の情報手段としてなくてはならないものになっていたのです。フロンティア塾のメンバーは殆どアナログ人間でしたが、年輪塾のメンバーは殆どがデジタル人間で、特に清水塾頭が開設してくれた年輪塾ネットというメーリングリストを利用して、様々な情報がタイムリーに届くだけでなく、メンバーどうしがメーリングリストを使って、近況のやり取りを行なっているのです。アナログ人間を自認する私も、書斎の上に置いたパソコンをまるで三度の食事と同じように毎日開いて、時には誤字脱字を交えながら、楽しみに情報交換しているのですから驚きです。
 12月15日に開いた年輪塾の相前後、ジョン万次郎学習の担当者である愛南町に住む脇田さんから、足繁くメール便に添付した新聞スクラップが届いています。その数はも№.20にも及んでいます。二宮尊徳翁夜話では清水塾頭から一週間おきに、233話届いたことを思うと、№.20など驚くべき数ではありませんが、それでもよく続くものだと感心しながら、毎回届くのを楽しみに拝読しているのです。

 脇田さんは旧内海村の職員で、合併後は愛南町の職員として活躍していますが、旧内海村職員時代にえひめ地域政策研究センターへ出向してまちづくりの勉強をしていたご縁があって、年輪塾のメンバーに名を連ねていますが、デジタル万能青年の活躍に、私も目を見張っているところです。
 人は誰でも若い頃荒削りな部分があって、それは若さの勲章のようなものなのです。夜空に輝く目に見える星はおおよそ三千といわれていますが、月も太陽も星の一種ながら、月と太陽だけには何故か星という名前がついていないのです。星はよく鉛筆で一筆書きをしましたが、星には5つの角があり、月も上弦・下弦の月は二つの角がありますが、満月ともなると丸くなり、太陽の光を受けて夜空に輝くのです。
 私も荒削りながら若い頃のような角が幾分取れて、丸くなったような気がするのですが、塾長や塾頭等上に立って引っ張るべきリーダーは、やはり太陽のように丸くなって、しかも自ら輝いてメンバーを照らしたり道しるべとならなければならないようです。塾生は星、塾長や塾頭は太陽のような存在であれば、年輪塾も発展することでしょう。そのためには私は塾生の何倍も、もっともっと摂生と学びを怠らないようにしなければならないようです。

  「メールにて ジョン万次郎 記事届く 一芸秀で 自立納得」

  「お日様の ようなまん丸 人目指す 中々なれる だけど頑張る」

  「角がある 若さ勲章 俺などは 角さえなくて 引っかからずに」

  「デジタルを 使いこなせる 人目指す 中々なれぬ だけど頑張る」

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〇わが家では戸長の私が正月に雑煮を作ります

 2013年の幕開けです。今年の正月元旦はいつもの年と同じように、わが家では戸長が雑煮を作る習慣となっているので、午前6時に台所へ入って雑煮を作り始めました。雑煮を作るなどと見栄を張って言っていますが、その殆どは前夜に妻が準備してくれているのです。前の晩に作った出汁を小鍋に入れ、そこへ蒲鉾とさいの目に切った豆腐を入れ、煮立ったらお餅を入れます。同時にヤカンでお湯を沸かして仏壇にお茶とをします。
 雑煮が半生程度に煮えたらネギなどの青物を入れて小皿に盛り、神棚と座敷の床の間に雑煮を供え、仏壇に線香、神棚と床の間のローソクに火をつけお光を灯します。今年は同居の孫たち二人と私の3人で、手を叩いて神様にお祈りしました。私は神様に「いつも幸せに過ごさせてもらってありがとうごじます」といった感謝の気持ち程度で、他の人のように「お金持ちになりますように」とか、「幸せになりますように」とかいうあつかましい願い事はしません。神頼みの他力本願人生でなくあくまでも、自力本願を貫こうと思っているのです。
 「悪いことはしません。悪いことをしたら小屋へ行きます」「保育園へ行って友だちと遊びます」など、孫たちも自分の心の戒めを大きな声で願っていました。

 昨晩の内に家族それぞれの雑煮の餅数を聞いていたので、妻2個、長男3個、帰省した次男3個、若嫁2個、孫1個ずつ、私は神棚と床の間の雑煮のお下がりプラス1個の3個と、合計15個を入れました。居間のコタツ台の上に田作り、煮豆・栗煮、お煮しめ、数の子など、妻が昨日一日をかけ丹精込めて作ったおせち料理を所狭しと並べ、お酒はないものの賑やかな宴となりました。そのうち年賀状が山のように届き、長男と次男はそれぞれのあて先に分類して渡したようですが、私の元へも沢山の年賀状が届いているようで、じっくり見るのは明日・明後日の配達分が届いてからにしようと思っています。
 わが家は若松家の本家筋なので、昔は沢山の親類が正月礼に集まり、朝から晩まで賑やかに酒盛りが行なわれていましたが、今はそれもなく近所に住む姉や妹、弟の家族が来るくらいで、私が酒を飲まなくなったこともあって、お茶を飲んで話す程度で帰って行きました。

天一稲荷神社にて
天一稲荷神社にて
三島神社で
三島神社で

私はこの2~3年、一日に1万歩を歩く目標を立てているので、私がウォーキングパラダイスと名付けている、裏山の農道へ散歩に出かけました。そのお陰で私の携帯電話についている歩数計履歴だと、年末で忙しく過ごした昨日は、16407歩も歩いているのです。今日も何もする予定がないので、とりあえず朝の散歩で6500歩程をカウントしたようで、大晦日から始めた今年の目標も一日目草々順調に目標を達成しました。
 息子たち家族が若嫁の実家へ出かけたので、帰省中の次男に留守番を頼み、妻を誘って近所の氏神様である天一稲荷神社と三島神社へ初詣に出かけました。曇ってはいるものの昨日の荒れた天気とは打って変わった、無風の穏やかな天気だったため、両方の神社とも顔見知りの人たちが初詣に次々訪れていました。
 看護師をしている次男は明日は拘束日なので昼ご飯を食べると帰り、替わって警察官をしている三男が仕事を終え帰省しました。次男も三男も仕事が忙しいことを理由にまだ独身なので、妻はそのことを話題にしながら迫っていました。次男も三男も帰省すると必ず94歳の親父の隠居へ顔を出してくれます。勿論私の兄弟姉妹やその子どもたちも必ず親父にあいさつに来てくれます。親父はこれが何より嬉しいようです。
 妻は親父のためにおせち料理を運び、家族全員で親父の長寿を喜んでいます。

  「わが家では 戸長の私 正月に 雑煮を作る 風習ありて」

  「喧騒の 一夜が明けて お正月 予定もなくて のんびり過ごす」

  「神様に 手合わせ祈る 幸せを 今年も元気 過ごす決意を」

  「親類が 親父の長寿 喜んで 訪ねてくれる 有難きかな」

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