人間牧場

○一日あれこれ

 昨日は前日に引き続き今度は家庭菜園横畦畔の草刈りをしました。草刈というよりは下刈りという方が正しいのかも知れません。何せこの2~3年草刈機で手の届きうる場所までしか草を刈らず、その上は伸び放題になっていたのです。親父はそのことが気になって、畑に竹や木々が覆いかぶさるように見えるのが、何とも見苦しいと私に再三注意をしていたのです。私も気になっていましたが昨日は前日使った草刈機を倉庫に仮置きしたままになっていたので、これ幸いとばかりに始めました。

 先ず畦畔に脚立を梯子替わりにして上り、草刈機のエンジンをかけて竹、木、雑草を手当たり次第刈り払いして行くのですが、これが中々の重労働で、チップソーという優れものの刃をつけた草刈機でも切ることが難しく、時には草刈機のエンジンを止めて鎌と鋸で切ったりしながら進みました。
 私の作業を見かねた親父も落ちてきた竹、木、雑草を近くの自家焼却場付近まで運ぶのですが、これがまた相当な量で、瞬く間に山のようになりました。こうして野積みしたものを何日か乾燥し、燃え易くなったら、少しずつ親父が朝晩償却処分をしてくれるのです。

 親父は最近足腰が弱って、杖がなければ歩くのもおぼつかなくなっていますが、これらの片付けは私以上の能力を発揮して手伝ってくれ、大いに助かりました。途中濡れるほどの雨が少し降り出し、止めようかとも思いましたが、手ついでにと昼を知らせるチャイムサイレンが鳴ってからもしばらく、二人で大汗をかきやっと一通りの下刈りと片づけを終えることが出来ました。
 汗を流すためシャワーを浴び、さっぱりして妻と二人で昼食を食べましたが、労働は食欲が増すのか、腹が減っていたこともあって、不通より少し余分に食べたような満腹感で、食後の午睡を少しの時間貪りました。

人間牧場の眼下に浮かぶ思い出の島由利島

 午後になって今日と明日愛南町と高知県土佐清水市で開く年輪塾で、落伍をしなければならないため、落伍の七つ道具と思われるめくり、拍子木、出囃子CD、半纏、ネタ本夕日徒然草・空の書、扇子などを取りに人間牧場へ行きました。雨上がりの人間牧場から見える瀬戸内海はまるで墨絵を見ているような素敵な、いつ見ても見飽きぬ眺望でした。特に昨日は沖合いに浮かぶ20年余りも通った由利島の姿がくっきり見えて、思わずデジカメに納めました。この島は毎年夏になると子どもたちと一緒に今やれる青春をテーマに、「無人島に挑む少年のつどい」を開催した場所なので、この時期になると懐かしい日々が蘇ってくるのです。

 人間牧場内には仏壇に供えるシキビと、神棚に供えるサカキがあります。息子嫁に頼まれていたシキビとヒサカキを剪定鋏で収穫しました。シキビもヒサカキも新芽が充実して、幾分枯れにくくなりましたが、それでも夏の暑い時期なのでせいぜい1週間が限度といったところです。仏様も神様も日々の充実した暮らしに満足して生きる感謝の意味を込めて、妻と息子嫁が大切にお祀りしてくれています。朝晩お茶やご飯を供えて手を合わせたり手を打ったりして、感謝の意を表するのですが、これだけでも随分心が洗われるような気がするのです。昨日は私生活的にはとても充実した、仕事のはかどった一日でした。

  「年老いた 親父手助け 雑草を 片付け作業 随分助かる」

  「雨上がり 沖合い浮かぶ 由利島に 思いを馳せる 思い出数々」

  「ヒサカキと シキビを切って 持ち帰る 神仏供え 幸せ感謝」

  「大汗を かいて冷たい お茶を飲む 熱中症には ならぬとばかり」

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人間牧場

○人間牧場に雷が落ちる

 人間牧場は標高130メートルの高台にあって、瀬戸内海・伊予灘を眼下に見ることができます。逆に下から人間牧場の存在を見るには、下灘・豊田漁港の沖防波堤まで行かなければ全容は見えませんが、下灘コミュニティセンターや下灘駅からも山の端にチラリ見え隠れしています。建築当初は薄めの防腐剤を塗っただけの真新しい板張りの外観が眩しく輝いていましたが、築7年を経過するとさすがに古ぼけて、周りの自然に同化してよく目を凝らして見ないと、その存在さえ分からなくなってしまいました。ウッドデッキに防腐剤を塗ったりメンテナンスに心がけていますが、建築の仕事をしてる息子の話によると、そろそろ外壁にも防腐剤を塗りたいそうですが、費用と手間暇がかかるので躊躇しているようです。

人間牧場水平線の家のウッドデッキで虫干し?をする孫たち

 先日の海の日、所用で孫たちを伴って本村の慶徳寺へ出かけた帰り、海岸国道へ降りず池久保に通じる中間道を通って人間牧場へ出かけました。孫たちは人間牧場の苗床で、カブト虫を見つけたくて、虫篭まで用意して出かけましたが、残念ながらこの日は苗床の上に張った防虫網が破られて、一匹も捕まえることは出来ず、孫たちを大いに落胆させました。
 それでも孫たち3人はウッドデッキに寝転んだり二階のロフトへよじ登ったりしながら楽しそうに遊んでいました。そのうち孫たち3人が「喉が渇いた」と冷蔵庫を開けました。すると冷えているはずのお茶やジュース類がまったく冷えていないのです。可笑しいと思って冷蔵庫の中を覗き込むとスイッチが入っていないことに気がつきました。

 一瞬「冷蔵庫が壊れたのかも」と疑いましたが、部屋のスイッチを入れても電灯さえ全て点かないのです。急いで部屋の壁に備え付けている配電盤の蓋を開けてスイッチ類を入れたり切ったりしましたが、これまたウンともスンとも言わないのです。困り果てて息子に電話し、電気工事をしてくれた親類従兄弟の若松電設に連絡を取ってもらいましたが、これは電力会社へ連絡した方がいいという話になりました。
 祭日だったこともあって、連絡に時間がかかり、午後4時に四国電気工事の人が修理にやって来ると言うので一旦山を下り、息子家族と午後2時ころ再び人間牧場へ出かけ、息子嫁が冷蔵庫の中身を全て外へ出し大掃除をしてくれました。

まるで啄木鳥のように電柱に登って作業する四国電気工事の作業員

 孫たちが少しぐずるので息子は家族を乗せて下り、私一人が留守番をしていました。背もたれ椅子に座って本を読みながら、明くる日に迫った伊予市いっぷく亭での「笑いの力」という講演の構想を練りました。そのうち息子も、四国電気工事の担当者2人もやって来て、テスターで原因を調べ始めました。まず電源元のメーター、続いて引込み線の電柱と感電防止の服を着た担当者は調べて回りましたが、異常は見つからず、結局はずっと下のトランスの設置された電柱まで車で向かい、その間2時間近くもかかり、帰ってきたのは午後6時でした。聞けばトランスに雷が落ちヒューズが2本切れていたとのことでした。復旧した通電確認のため、あちらこちらのスイッチを入れ完全に復旧していることを確認した担当者は、水平線の家やロケ風呂を見学して帰って行きました。

 そういえば梅雨明け間近なこの最近、よく雨が降り雷が鳴りました。雷鳴が轟く度に、落雷で黒く焼けただれた人間牧場の直ぐ横にある、樹齢200年のヤマモモの木を思い出すのです。ヤマモモの木は落雷の洗礼を受けながら、枯れることなく今も生き続けていますが、電柱で良かったと息子と話しました。お陰で息子と水入らずで色々なことを話すことが出来ました。

  「冷蔵庫 開けてビックリ 冷えてない 喉の渇いた 孫たち残念」

  「原因は 落雷二つ ヒューズ切れ 原因分かり ホッと一息」

  「電柱に 登った姿 啄木鳥に 思わず似てる カメラでパチリ」

  「雷に 悪戯されて 電気消え 冷やしたものは 全て処分す」 

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人間牧場

○仁淀川流域を訪ねる(その1)

 私がよく招かれて出かける高知県は、よく雨が降るせいか大きな川の多い県です。その中でも特に最後の清流といわれる四万十川、つい最近その美しさが脚光を浴びている仁淀川、上流域に私の人間牧場に鎮座している150年生魚梁瀬杉の切り株があるであろう安田川などなど、分け入る度に大河の魅力とでもいうのでしょうか、変わらぬ原風景が懐かしい気持ちにさせてくれたり、一種のパワーを与えてくれるのです。
 昨日は仁淀川の上流域である久万高原町を通って、中流域の仁淀川町へ講演に出かけました。梅雨が明け山の端の向うに青空や入道雲が見え隠れする三坂路は、峠の九十九折の道の下に最近三千メートル級の長いトンネルが貫通し、10分近くも短縮したという話を聞いていましたが、通るのは初めてとあって楽しみにしていました。三坂路の途中から右に折れた道は高規格な道路で、まるで高速道路のような感じがしましたが、三坂馬子唄や笠地蔵の民話でお馴染みだった峠道を通らない寂しさも少しだけ感じました。

 産業廃棄物の処理場問題で揺れ、一応の終息を見た久万の町を抜けると道沿いの川は次第に大きくなり、川面に映える旧美川村の軍艦岩の変わらぬ風景に出会いました。柳谷村の中心は合併してから少し活気がなく、かつて訪ねた公民館や公民館前の宮岡ストアーのお姉さんの顔を懐かしく思い出しました。愛媛県側最後のトイレ休憩の場所であるヒメシャラでトイレを済ませましたが、私の持っているインディアンカヌーを柳谷の連中に一年間貸していたのもこの場所でした。
 県境近くに中野ガソリンスタンドがありますが、青年団活動をしていた顔見知りのご主人は、前回の補欠選挙で町会議員に当選し、今はバッチをつけていますが、今年の春の成人式に講演に出かけた折久しぶりに出会いました。いつもは滅多に客の来ないガソリンスタンドなのでガソリンを入れるのですが、今回は先を急ぐ旅だったので、横目で見ながら通り過ぎました。

大渡の大つり橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大渡ダムの内側
大渡ダムの外側

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発電ダムを過ぎて高知県に入ると仁淀川と名前を変え、渓の深さは一段と深くなり、はるか下に川面を見ながら走るのですが、そこここに立派な橋が架かっていて、茶畑や空と形容される山の彼方に人家を見ながら走りました。大渡橋や大渡ダムはいつ来て見ても魅力があり、時計を見ながら回り道をして橋を渡り、ダムを見に立ち寄りました。橋やダムは人間の造った文明ですが、この文明によってどれほどの人の日々の暮らしが便利になったことでしょう。
 中津渓谷の入口付近に今回の講演会の会場となるゆの森があります。ここのレストランで何年か前玉井恭介さんと二人で講演に来たことがあるし、何度か中津渓谷は紅葉のころに訪ねたことがあるのです。ゆの森の施設に入ると、フロントで顔見知りの二人の女性職員が笑顔で迎えてくれました。講演会は午後2時からなのでそれまでにお風呂に入り、食事をするよう勧められ、真昼間だというのにお風呂を楽しみました。4~5人の地元の入浴客がいましたが、その人たちと「何処から来たの?」「何しに来たの」などと言葉を交わしながら、癒された時を過ごしました。レストランでは湯上りに冷たくて美味しい水を飲み、入浴客が教えてくれた千円のゆの森弁当を食べましたが、美味しくいただきました。

  「久方に 仁淀の川沿い 訪ね来る 懐かしきかな 癒され走る」

  「ダムに橋 寄り道しつつ デジカメで 記憶に残す ためにシャッター」

  「いらっしゃい ゆの森ホテル 女性たち 笑顔迎えて くれる幸せ」

  「講演に 来たのに風呂に 入るとは これも一つの 楽しみ思い」

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人間牧場

○慶徳寺を訪ねる

 人間牧場での活動テーマを漢字の一字に例えると、どうなるのだろうと考えてみました。私が人間牧場を造りたいと思うようになったのは49歳の時でした。その理由を何年か前に書いた原稿に次のようなことを書いているのです。
 「『人間牧場を造りたい』。こんな夢を描いたのには大きく分けて3つの理由がある。ひとつは20年間に及ぶ無人島キャンプの非日常ボランティア活動で味わった、感動を体験する場が身近に欲しかったこと。二つ目は10年で40回開催し開講したフロンティア塾のような自立人間の育成を目指す、常設の修養場が欲しかったこと、三つ目は過疎や高齢化、第一次産業の不振といった様々な負の要因で里山が荒れ続け、このままでは日本の田舎が駄目になるという危機感から、再び村おこし運動を起こそうと決意したからである」

 また別の「人間牧場構想アラカルト」というレジメに、「人間牧場三つのキーワード」として次の三つを列記しているのです。
 ①自分と生きる(人生の仕上げをどう生きるか)
 ②家族と生きる(最も小さな結びとどう生きるか)
 ③地域と生きる(社会へどうお返しをしながら生きるか)
 40代で構想し、50代で構想を具体的計画にするためその裏打ちとなる資金蓄積を行い、60代で施設整備を行ないながら活動をしてきましたが、前述した三つの理由と三つのキーワードは、今も忘れることなく心に刻み込んでいるのです。

 このことから引用して思い出す漢字はどうやら「恩」ではないかと、最近思うようになりました。そこで「恩」を具現化するため、近所に住む慶徳寺というお寺の山口和尚さんに、奥さんを通じて一筆書いて欲しいと頼みました。和尚さんは快く承諾して、文字のデザインを小さな紙に書いて3案送ってくれました。その中から私のイメージする漢字を一字選び、長男息子の名前が一心、孫の名前が希心、奏心なので、心という文字を余り崩さないようにと、知ったかぶりの注文をつけて書いてもらったのです。

お寺の本堂で神妙な面持ちの孫三人
本堂前で和尚さんと記念撮影
慶徳寺の山門で

 先日その書が書き上がったと奥さんを通じて私の元に届けられました。紙代も手間賃も、ましてや文化的お値打ち代もあるだろうと相談しましたが、結局は「差し上げます」となったのです。そこで先日の海の日に孫を伴って、仏前にお供えする粗末なものを持って、慶徳寺を訪ねました。ご夫妻揃って温かく迎えていただきました。書いてもらった書は結局和尚さんに預け、伝を頼って表装をお願いすることにしたのです。
 尚樹を含めた孫たち3人は始めて来たお寺の本堂で奥さんからジュースを貰ったり、和尚さんとお話したりして有意義なひと時を過ごしました。出来上がるであろう掲額は果てさて何処に飾ろうか、これから追々考えてみたいと思っています。

 

 

 

 

 

  「孫連れて お寺に出かけ 説教を 聞かすつもりが 接待受けて」

  「恩という 漢字一字を 書く依頼 送られて来た 見事な書体」

  「これからは 恩の一字に あやかりて 余命を生きる 決意も新た」

  「また一つ わが宝物 手に入れる この字に恥じぬ 生き方せねば」  

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人間牧場

○花火はいつ見ても綺麗だ

 成人式も海の日も、国民の祝日の変更によって「いつだったったっけ?」と、首を傾げたくなってしまい、祝日の意味が多少薄らいだ感じがしています。今年の海の日は7月16日でした。周囲を海に囲まれ海の恩恵に浴して生きている私たち国民が海の存在に気づき、海に感謝することは当然ですが、合併してもなお「双海」という地名のついた地域に住んでいるのですから、余計海へのこだわりを持っていなければならないのです。そんなこともあって役場に在職していた頃は、何かにつけて海を意識して生きてきました。
 海に沈む夕日も、海に一番近い下灘駅のプラットホームでのコンサートも、またウォーターフロントの双海シーサイド公園も全てテーマは海でした。夏祭りというイベントにいたっては、魚のつかみ取りや漁船パレード等まさに海一色の特色ある催しで双海を大いにPRしてきたのです。

恋人岬の特設ステージで行なわれたコンサート

 今年も数日前新聞折込に「双海の夏祭り」のチラシが入っていて、その存在に気がつきましたが、世の中のイベントが「見る」から「参加する」に変化しているというのに、わが町の夏祭りはどちらかというと「参加する」から「見る」「聞く」といった方向になりつつあることに気がつきました。合併したのでこれも仕方がないと思えば思えるのですが、双海らしさという面では多少物足りなさを感じずにはいられませんでした。それでも多くの人の努力があるのですから、感謝しなければならないと思い、孫や家族を連れたりして折に触れて参加を試みました。
 今年は二年に一度になった花火が上がので、夕方夕涼みがてら家族や親類と相談して花火の見学に出かけました。食事の都合で少し遅くなったため、孫たちはひと足早く出かけたのですが、後から出かけた私たち夫婦はみんなとはぐれてしまい、夫婦だけの静かな見学となりました。

 恋人岬の特設舞台では歌手のしびれるような歌声が響き渡り、階段式護岸を埋めた観客から盛んな拍手が送られました。やがて司会者の合図で「10・9・8・7・・・・・・・・・3・2・1」とカウントダウンされ、一斉に花火が上がり始めました。いつもの事ながら双海の花火はすり鉢の上から中を見ているようなシチュエーションなので、どこの花火大会よりも場所的には恵まれていて、夜空と海が一体となって映えるのです。
 実に美しい花火で、横に座った妻と二人で夜空を口を開けて仰ぎ、「うわー綺麗」と何度も感嘆の声を上げながら見学しました。夏の夜の花火を見るにつけ、「これぞ日本の夏」と思うのです。花火を見ていると音と光に何かパワーを貰ったような気がするのです。
 この日は通称「やまぜ」と言われる夏特有の南西の風が強く吹き、花火が風下に流されましたが、その分花火の硝煙雲もなくより鮮明だったようでした。夫婦だけで特等席のような場所で見た花火は、今も心の中と持参したデジカメの中に、余韻となって残っています。

  「夏祭り 肩を寄り添い 夫婦だけ 特等席と 思う場所にて」

  「花火には 何処か不思議な パワーあり 元気いただき 夏を乗り切る」

  「口開けて 上がる花火を 『わー綺麗』 何度も言いつ 音も楽しむ」

  「日本の 夏は花火に 蚊取りだと 線香会社 テレビで宣伝」

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人間牧場

○梅雨明け間近な暑い連休の一日

 九州地方の熊本、福岡、佐賀、大分などでは、降り始めからの雨量が500ミリを超える信じられないほど降って、各地で土砂崩れや堤防決壊が相次ぎ、一時は25万人以上に避難指示や避難勧告が出されました。死者や行方不明者を合わせると30人にものぼり、今年は最悪の悲しい夏となってしまいました。
 昨日は梅雨明けを思わせる真夏の太陽が照りつけ、雨から一転して各地で35度を越す猛暑日となって、これまた各地で熱中症や水の事故が相次いだようで、雨が降れば雨の被害、晴れれば暑さの被害と、人間の弱さを露呈しているのです。

 天候不順は様々な場所に影響が出ています。屋外のイベントは軒並み中止や延期に追い込まれ、雨が三粒降ったら漁に出ないというわが町の漁師さんは、もう長い間操業ができずモヤモヤとしているようです。
 昨日は毎年海の日に開いている双海の夏祭りが行なわれました。平成の大合併から8年目を迎えて、イベント事情もすっかり様変わりして、予算の都合なのか下灘と上灘が一年交代の開催となってしまいました。しかもこのイベントも「双海ならでは」を感じさせにくい企画になって、これも時代の流れと多少思ったりするのです。それでも少しで地域をも盛り上げようと、色々なグループや団体が出店してマルシェを開いていました。

シーサイド公園のビーチ

 昨日は小学校4年生になる孫朋樹が泊まりに来ていて、泳ぎたいと言うのでシーサイド公園のビーチまで連れて行ってやりました。単車の後に乗せて地域事務所裏の駐車場まで行き、そこから海まで歩きましたが、ビーチには涼を求める海水浴客が沢山来ていて、大賑わいでした。朋樹はゴーグルと足ヒレを着け、足の届く渚付近を行ったり来たりしながら1時間近くも泳いでいました。私はその監視役として堤防の上から、泳ぐ姿を確認しながら時を過ごしましたが、麦藁帽子とバスタオルで日除けをしたものの、一番暑い午後2時からの時間帯だったため大汗をかきました。

海水浴を楽しむ孫朋樹

 昨日は弟家族5人や娘家族4人、息子家族4人、私たち夫婦2人の計15人が、中庭で炭火を起こした本格的なバーベキューをやりました。午前中私と妻が伊予市内まで買出しに出かけ、娘・息子嫁・弟息子嫁たち女性群が料理を作ってくれました。6人の子どもたちは大いに喜んではしゃぎ回り、私たちも久しぶりに楽しい野外パーティーで、ご馳走を沢山食べました。酒も呑まず肉を余り食べない私は、もっぱら野菜や魚中心でしたが、西日の当らない中庭は心地よい風が少し強めに吹いてとても爽やかでした。

バーベキュー

 私より7つ年下の弟も、先月で仕事を定年退職しました。若い頃奥さんに先立たれたものの娘も嫁ぎ、息子と同居をして穏やかな暮らしをしているようで、何はともあれホッとしています。梅雨明け間近です。今年も暑い夏がやって来ました。元気にこの暑さを乗り切りたいものです。

 

 

 

 

 

  「大雨が 一転昨日 猛暑日に いやはや暑い 冬が恋しい」

  「久方に みんなが揃い バーベキュー 子ども喜び キャーキャーはしゃぐ」

  「アルコール ゼロと書いてる ビール飲む 大酒飲んだ 昔懐かし」

  「孫連れて 海水浴を 監視する 汗タラタラと まるでサウナだ」

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人間牧場

○福井県公民館セミナー(その3)

 第1日目のセミナーが終ると会場をプラザ万象からニューサンピア敦賀に移して18時30分から交流会が持たれました。研修専門委員会の計らいで出し物が用意され、2時間はあっという間に終りました。その後希望者が和室に集まって、講師の私を囲んだおしゃべり交流会が持たれました。参加者は女性を中心に30人以上が集まりました。私の講義を聞いての疑問や質問、意見が沢山出されました。中身は私の失敗談、私の生き方、家族への向かい合い方などでした。

 

グループ討議

 私は講義では時間がないので余り話せませんでしたが、沢山の失敗をしています。失敗と言えるかどうかは分かりませんが、町の名前が三重県二見町とよく間違われることから、活性化の想いを込めて町名変更に取り組みました。町長がリコールされるほど町を二分する騒動の渦中に巻き込まれ、左遷(本人はそう思っていないが)もされました。その時私に示唆を与えてくれた言葉は、恩師と慕う静岡の朝比奈博さん(故人)から贈られた「ぼうふらも、人を刺すよな蚊になるまでは、泥水すすり浮き沈み」でした。打撃の神様イチローでも100回打って65回は失敗しているのだから、逆に失敗から何を学ぶかが大事です。失敗の10ヶ条を話しました。

 

全体発表会とまとめ

私は毎日12時に寝て4時に起床します。人間は3分の1ずつの8時間を寝る・働く・自由に分けて過ごしますが、寝る時間をへずって自分に投資しなければ、いい人生はありえないと思い生きています。夢を目標として目標に近づく努力をすれば、人間は次第に進化するものです。結果的に「夢はドリームではなくターゲット」なのです。1千万円貯めて人間牧場を造りたいと思っていた夢も本当に実現しました。全てが積小為大な行動の積み重ねです。ハガキを毎日3枚書くこと、ブログを毎日2本書くこと、12年間毎日3時間海岸の清掃をしたことなどのやり遂げたことは、今も私の大きな自信となっているのです。

 公私の区別をあえてせず、家の横に私設公民館煙会所を造って家庭へ公を持ち込んだり、あえて家庭へ仲間を引き込んだりしてきましたが、4人の子どもも無人島に挑む少年のつどいに参加させたりして、仲間たちとの協働で育ててもらいました。私の元気の源はやはり家族なのです。家族に理解されない公民館活動は長続きしたり、成果を上げたりすることはないのです。故に公民館を離れた今も公民館を恩人だと思い、これから先も、恩返しをしようという気持ちで生きているのです。青年団や公民館で得た仲間・ふるさと・主張・夢・感動という五つの武器を、これからも大切にし研いて行きたいと思っています。
 皆さんの質問にまあざっとこんな話を1時間余りして、おしゃべり交流会は盛り上がって終りました。

  「福井には 素敵な女性 多くいて 目移りしつつ 質問答え」

  「そのカバン 中身見せてと せがまれて 恥ずかしながら 取り出し見せる」

  「五十枚 用意の名刺 スッカラに 味噌屋の社長 引き合い出して」

  「人生を 語れば尽きぬ ことばかり あれやこれやと 失敗談を」

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人間牧場

○香川県高松市から福井県敦賀へ(その1)

 昨日までの2日間、福井県公民館連合会の招きで福井県敦賀市プラザ万象という生涯学習施設で開かれた福井県公民館セミナー(前期)に出かけていて、昨日の深夜長い旅の末やっと帰宅しました。初日の7月12日(木)は、香川県高松市での香川県市町職員研修会の先約があったため、福井県公連からの依頼はお断りをしようと思いました。駄目もとで香川県市町職員研修センターの谷本さんに、第一講義と私の第二講義を変更してもらえないか相談したところ、快く変更していただきました。そのため少々朝の早い5時に自宅を妻の運転する自家用車で、松山駅まで送ってもらいました。松山駅発6時15分の特急しおかぜに乗り高松を目指しましたが、先日の天でがけ崩れが起き、列車が土砂に乗り上げ脱線不通となったわが町付近でも、前夜の降雨量が基準値を超えたため運転見合わせ、また高知県側でも降雨の影響で運転見合わせという列車事情の中、私の乗った特急は何とかすり抜けて、予定通り8時45分に高松へ到着しました。

 会場となっている香川県自治会館まではおよそ15分かかるのですが、一週間前も今回も高松市三谷自治センター長の溝渕さんのご好意に甘え、送迎をしてもらったお陰で、雨で渋滞気味の道を走って、自治会館7回会議室前のエレベーターを降りるとジャスト9時、休む間もなく約100人の参加者の前で、「地域活性化のための行政の取り組み」と題して講演を始めました。まったく別の参加者でしたが、1週間前の7月5日に同じ研修会に参加しているので雰囲気もつかめていて、かなり突っ込んだ話を少し早口でやりました。
 90分の講演が終わると、控室へ入ることもなくエレベーターでとんぼ返りで降り、溝渕女史の車に乗り込み高松駅へ向かいました。ここでと何故か上着が見当たらず、結局列車の中の服吊りにかけたまま忘れていることに気がついたのです。早速高松駅の改札口横にある忘れ物コーナーに出向いて事情を話すと、直ぐに担当の女性が上着を用意して、受取証にサインをして手元に戻りホッとしました。実はこの上着に高松から次の目的地である福井県敦賀までの列車チケットを入れたままだったので、大汗冷汗ものでした。

 

会場となったプラザ萬象

 高松駅11時10分発の快速マリンライナーで瀬戸大橋を渡り、岡山まで出ました。途中踏み切りでの確認信号のため親や前気直前で列車が止まり、列車は少し遅れて到着し多少気を揉みましたが、何とか新幹線のぞみに乗り込み、大阪でひかりに乗り換え米原まで行きました。大阪から特急サンダーバードに乗ると15時からの講演に間に合わないため、米原から特急しらさぎに乗って琵琶湖東岸長浜辺りを走り、いつもながらの北陸路に通じる長いトンネルを抜けました。
 敦賀の駅には県公連の西川さんがで迎えに来ていて、早速プラザ万象に到着し、野中事務局長さんとお田を飲んで打合わせをし、休む間もなく15時から講演に入りました。公民館のセミナーながら会場は80人を越える参加者で熱気が感じられました。このセミナーを開くにあたり、15人のメンバーが研修専門委員会を立ち上げ、企画や運営に携わっているだけあって、とてもいい取り組みだと実感しました。
 移動の列車内で休息をとったといいながら、高松と敦賀でのダブルヘッターはさすがに心地よい疲れでしたが、まあ何とか一日目の役目を終え、宿泊と交流会の予定されているニューサンピア敦賀に会場を移し、すっかりリラックスさせてもらいました。

 

プラザ萬象前の緑地帯を耕し、コスモスの種を蒔くボランティア

 

  「高松と 敦賀で二回 講演が できる世の中 便利実感」

  「列車中 急ぐ余りに 忘れ物 冷や汗かいて 旅を続ける」

  「サスペンス 見ているような ダイヤ組む ルート変えれば 時間間に合う」

  「福井県 大飯原発 過ぎりつつ 長いトンネル 抜けて降り立つ」 

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人間牧場

○福井県での思い出(その2)

 1泊2日の福井県敦賀での講演旅行からやっと帰ってきました。帰宅したのが午前0時近くだったため、福井県での思い出は、今日7月14日にこうして書き加えています。
 今回の福井県公民館セミナーの私の仕事は7月12日15時からの講義1、20時30分からの私を囲んでの座談会、そして13日の14時からのまとめの講義2でした。3回も出番がある人使いの荒い(笑い)研修会でしたが、最初の講義1は「地域の期待に応える公民館活動」~地域自立という視点を持つ支援~というテーマでした。最近どの県に行っても公民館のもやもやが目立つようになっています。それは公民館をコミュニティセンターに衣替えしようとする市町行政部局の画策です。これまで市町行政部局は地域づくりのハード面を担当し、ソフト面の地域づくりはもっぱら公民館などに任せ、ある意味住み分けが出来ていたのです。ところが一応のハード整備が終ると、財政難を理由に行政がソフト化・文化化し始め、また防犯や防災といったこれまでどちらかというと放置されていた安心や安全といったテーマに、合併や震災以降取り組まざるを得なくなり、地域づくりを行政部局が協働と参画という名の元に取り込み始めたのです。コミュニティ行政の最前線は公民館でしたが、公民館はご承知の通り教育委員会の管轄です。元々金もなく力もない、ましてや地域づくりについて明確な理念を持たない教育委員会は、教育への謁見だと思っても、首長の方針に逆らえず、公民館という教育機関を行政が乗っ取ろうとしているように見えるのです。指定管理者制度などで社会教育の指導力が衰えた公民館はそのことに強く抵抗する馬力もなく、このままでは日本の公民館が危ないと思うのですが、教育に首長がどんどん口を出す姿は、何とも危険な状態になっているのです。

プラザ萬象で開かれた福井県公民館セミナー

 公民館は元々住民の自治能力を向上させるための教育機関として、戦後の荒廃した社会の中で生まれ、戦後の民主主義の定着に大きな足跡を残してきました。教育と政治や宗教や経済とは分離をしなければならないのに、住民の最も身近な住民自治への支援という手法を使って入り込み、公民館という教育施設から公民館という教育機能や組織まで奪おうとしているように見えるのです。
 この日の話し合いでもそんなジレンマが職員の間から不満として漏れ聞こえてきました。さてこの問題をどう解決するか、それは郡市公連、県公連、全公連という全国を網羅したピラミッド型の組織が実態を把握した上であるべき姿を掲げながら、国の教育を司る文部科学省へ働きかけて正しい方向に導く以外ないような気がするのですそのためには。公民館は生涯学習の拠点、地域づくりの拠点、人づくりの拠点、譲歩受発信の拠点、交流の拠点、地域活性化の拠点、地域の安心安全の拠点となるべき力をしっかりとつけなければなりません。公民館職員の殆んどが嘱託職員となっている現状では、望むべきもないのかも知れませんが、とりわけ指導助言、指導者養成、条件整備という極めて大切な教育行政をやらなければならない教育委員会の能力が試されているような気がするのです。そこら辺を踏まえて講義1ではお話をさせてもらいました。

  「三回も 出番用意の 研修会 それぞれ違う 話し熱弁」

  「公民館 いつの間にやら コミセンと 名前を変えて 行政いいなり」

  「コミセンが 悪いと言うのじゃ ありません もっとしっかり 本質見据え」

  「研修会 持つプロセスに 関わった 多くの人いる これぞ本物」

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人間牧場

○人のご縁をいただいて

 私には社会教育、産業振興、まちづくりなど役場35年間の生活で培った人間関係に加え、ボランティア活動や地域コミュニティ活動などの分野で、多くの知人友人がいます。そのため私のような人間にでも出来ることを、あれやこれやと頼まれることが多いのです。結婚式の披露宴司会などはその際たるもので、驚くなかれ今までに、537組もの司会をやっているのです。また町の便利屋のように、船おろしや建前、結婚披露宴のあいさつ文を頼まれ、ない知恵を絞って原稿を書いてあげたりしてきました。その結果でしょうが今でも色々な所、色々な人からまるで貢物(笑い)のように、海産物や農産物が一年を通して届くのです。

 

松前町北公民館寿大学

 3ヶ月前、松前町北公民館長の和田由美子先生から、「公民館に来て話をしてくれない!」と依頼のお誘いがありました。和田先生は一昨年までご存知町内の翠小学校の校長先生をされ、この学校を最後に退職された校長先生です。ゆえに在職中も、また退職してからも何かと活動を共にしていて、特に人間牧場で開いている子ども体験塾には、町外の人でありながら深いご縁をいいことに、スタッフとして一緒に活動してくれているのです。故をもって青少年の健全育成協議会の講演を先月行い、今月は高齢者を対象にした寿大学の講師を引き受けてしまい、昨日出かけて行きました。

 昨日は雨模様の一日でしたが、会場には入りきれない百人を超えるほどの高齢者が詰め掛けていました。松前町はかつて同じ伊予郡だったこともあったり、何度も訪れて講演をしている地域でもあるので、知人友人も多く、早速講師控室へはかつて上灘中学校の先生だった松崎さんや、県の商工会連合会の専務だった山口さんたちが顔を覗かせ、近況について大いに懐かしい話を交えながら話しました。
 13時30分からの講演は、高齢者ゆえ務めて大きな声で、つとめてゆっくりした口調でお話をさせてもらいましたが、いやはや楽しい雰囲気の講演会となり、どうにか和田先生への義理を果たすことが出来て、ホッとしています。この歳になっても昨日は、徳島県の勝浦町活性化推進連合会の新居正志さんから、丁重なお便りをいただきました。新居さんは徳島県庁の次長さんで、昨年とくしま県民活動プラザ開設10周年フォーラムに記念講演した折、名刺交換をしているのです。

 新居さんからのお便りは講演依頼でした。早速電話をして私の空いている日と先方がご希望の日をすり合わせ9月15日に講演に行くことに決定しました。いやはや嬉しい限りで、勝浦町と言えば「ビッグひな祭りや温州みかんの産地として、よく知られた地域なので今から楽しみにしています。
 このように人のご縁をいただきながら、更にご縁を深めることが出来るのは、何よりも幸せなことなのです。これからも人のご縁を大事にしたいと思いました。「人は人によりて人となる」、そんな気がするこの頃です。

  「ちょっとした ご縁がご縁 産んで行く 人のご縁は 不思議なものよ」

  「昨日また ご縁いただき 九月には 徳島県へ 講演旅行」

  「時々を 熱意を込めて 仕事した 故の結果と 内心喜ぶ」

  「さあ今日も 元気で仕事 重ねたい 日本全国 フィールド広し」 

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