○ミニ四国八十八ヵ所(資料編)
双海より
○ミニ四国八十八ヵ所遍路(その5)
上灘四国八十八ヵ所の最後は大栄地区です。県道のとんでもない直立岩の上にある80番の石仏は、県道の改修工事で移転したとの話を聞きました。戦後から今日まで、八十八カ所の散在する地域では、徒歩から車に交通手段が変化したため、道路の拡張工事や付け替え工事がしばしば行われていて、その度に石仏が勝手に動かされているようです。石仏を動かすとたたりがあるとか、動かした人が病気になったとかいう移転にまつわる話は、枚挙に暇がないほどです。そのため関係者は動かす度に、お坊さんを呼んでお経を上げたり、移転先を立派に整地してねんごろにお祀りしているようで、お供えやシキビを上げたりしている姿を見ると、近郷の人の信仰心の厚さにただただ驚くばかりです。
75番石仏は奥大栄に続く往還道路が、あったであろう岡田義秋さん宅から上流へ20mほど進んだ畑の隅になりました。県道がぐるっと回っているため、この地を不思議に思いましたが、80番の石仏は直線的には直ぐ上のようでした。76番石仏は岡田常夫さん宅上方新道大カーブを上がりきった墓地の傍にあり、お参りをして大栄公民館の前に車を止め、山本彊さん宅奥南側の、急な坂を上がりきったカーブに77番、78番、79番の三体の石仏がありました。この上付近は県道の拡幅工事が盛んに行なわれていて、その影響もあって石仏を囲う石積みが崩れかかっていて、心ある人の手助けでしょうか、腕首ほどの丸太でつっかえ棒をして崩壊を止めていました。
ここの石仏は珍しいことに77番が奥、78番が手前と、左右でなく前後に配置していました。多分前述のような土砂崩壊などの理由でこうなったのでしょうが、八十八ヵ所を巡ると何ヶ所かでは、台座や屋根石、側石柱が悼んでいるものもあって、修理が必要な場所がありました。赤石さんとも相談したのですが、地元やお祀りしている人と相談しながら、修理をするための何らかの行動を起こさなければと思いました。しかしこの作業も宗教が絡んでいるだけに難しそうです。
大栄公民館の敷地の中にも81番と82番の石仏がありました。ここには横に常夜灯や石舟型の手水もあって神仏混合ながら風情がありました。森岡繁夫さん宅横の83番、川向こうに渡った坂の上の旧大上長太郎さん宅奥に84番の石仏がそれぞれありました。入り口付近にある安田さんの庭で安田さんや小谷峰子さん、森岡敏雄さんの三人が談笑していて、伊予柑とポンカンのお接待を受けました。この時期の雑柑類はどれも美味しく、6人で石仏の話やかつての賑わい、今の寂しさ、将来の不安など沢山の話を聞くことができました。
西口光雄さん宅前の85番、大栄入り口分岐点の86番と、いつの間にか石仏の番号も80番の大台を数え、残りは出発した正光寺境内の87番、88番の石仏となりました。正光寺に戻って結願のお祈りをし終ると住職さんと出会い、本堂に案内されて立派な庭や、住職さんの書いた龍の絵、修行僧の絵巻物など色々と珍しいものを見せてもらいました。
午前中は歩き遍路、午後は車遍路でお茶を濁したものの、私の携帯電話付属の万歩計は2万1千歩を記録していました。上灘八十八ヵ所の存在を赤石さんから一昨年聞いた時から、一度は遍路をしてみたいと思っていた願いは、赤石さんや宮栄館長さんの協力によって、無事実現することができ、今はとても清々しい気分です。本物の八十八ヵ所は一度だけ妻と回っているものの、高野山へのお礼参りはまだなので、今回の上灘八十八ヵ所参りのお礼参りも含めそうだと内心喜んでいます。
いつの頃にこの上灘八十八ヵ所が起こったのか、これも調べてみたいものです。今回の遍路で正光寺、本覚寺、地蔵寺とそれぞれ宗派の違う三ヶ寺を参拝することもできました。願わくばもう一度今度は本当の歩き遍路で全てを回って見たいものです。それにしても嬉しいのは毎日1万歩のウォーキングをやっているお陰か、2万1千歩歩いても足腰共に全然平気で、体力に自信が持てたことは何よりの収穫でした。
「一日で 地四国遍路 巡る道 車手助け なければできぬ」
「地四国を 復活させて 歩こうと 誘いかけるも 足腰嘆く」
「あれこれと 世間話に 花咲かせ やっとの思い 決願叶う」
「二万歩を 歩いてなおも 元気とは 老いて益々 体力自信」