○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その4)
日尾野の西岡猪夫さん宅に入居している福島県出身の渡辺さん家族と黒豚に見送られ、車で出発した私たちは、宮栄館長さんに車を運転してもらい、しばらく二手に分かれることにしました。私と赤石さんは田口裕一さ宅より少し急な柆野坂を歩いて登りました。途中左手に54番と55番の石仏が順番にありました。更に進むと柆野の集落が見えてきました。柆野公民館の横の広場に茶堂があり、その中に56番石仏が安置されていました。ここには天然記念物に匹敵するような大きな樹木が茂っていました。残念ながらその木の樹種は分かりませんでしたが、かつて青年時代に盆踊りの盛んだった頃、この地に仲間と共に踊りに来たことがあり、県道を通行止めにして盆踊りを踊っていた長閑な時にこの木を見た記憶が蘇ってきました。
柆野集落のほぼ真ん中の道を進むと井川仁さん宅裏に57番が、金井稔さん宅より明神山方面へカーブした内側に58番の石仏がありました。特に58番は四国八十八ヵ所を世界遺産にしようと頑張っている今治仙遊寺の親友小山田憲正さんを思い出しました。58番は何の囲いもなく野ざらし状態で少し可哀想な気がしました。
ここで車に乗った宮栄さんと合流しそこから更に進むと、年末に子ども体験塾でスカイツリーと同じ高さ634mの明神山に登った登山道入り口土俵を越え、大平への分岐点に差し掛かりました。この場所に59番石仏がありました。宮栄館長さんと赤石さんが事前調査で88体の石仏を探して唯一見つかっていないのが60番の石仏です。59番の横にある石仏がそれらしい気もしましたが、台座の構造が少し違っていて、真偽は後の調査に委ねることにしました。
私たち一行は犬寄峠の旧道を通って国道56号線に出ておき世の池入り口にある、61番、62番、63番の石仏を拝みました。その後中山との境にある信号を右折して高見集落へ入りました。急な坂を車で旧高見公民館跡まで登りました。私が公民館主事をしていた最初の頃に、この公民館には再三主に夜の集会に訪れましたが、今は公民館は下の県道に移転しています。私の記憶が正しければこの新しい公民館には、私が仲立ちして落成記念に講師として招聘したご縁で、大洲の松田寿雄さんの書画掛け軸が飾られているはずなのです。
ここには64番、65番、66番の石仏が綺麗に安置されていました。この地付近は中山との町境の高台にあるにもかかわらず、隧道水路のお陰で美田が広がっているのです。高見にはいよと書かれた65番石仏とさぬきの66番石仏が同居していました。
上灘川の支流に沿って県道を下り、途中からもう一本の上灘川本流に沿って奥大栄を目指しました。この集落への道は度重なる山津波で付け替えられていますが、残念ながら急激な過疎化の波に翻弄され、今は数軒しか住む家もなく、住む人絶えた家が寂しく崩れかかっていました。
奥大栄公民館前に69番、72番、少し下の永木に通じる往還道路脇に67番、68番、70番、71番、73番、74番の石仏がありました。私が日ごろ飲んでいる飲料水は、この先が上灘川の源流域となっていて、何年か前子ども体験塾で源流探しに出かけた場所なのです。
私たち一行は元来た道を県道まで下がり、県道の上のとんでもない場所にある石仏を下からお参りしました。残念ながら上に上がることができず、下から一円玉の賽銭を投げ入れ、運よく止まって事なきを得ました。私たちの一行はやっと最後の大栄集落まで辿り着きました。
「本当は 歩き遍路を するはずが 道程長く 車で参る」
「六十番 石仏未だ 見つからず 八十八ヵ所 思い残して」
「道もなく 崖っぷちゆえ 賽銭を 投げて運よく 石仏前に」
「住む人も なくて崩れし 家の前 郵便受けに カズラからまり」