人間牧場

〇明日は雨でしょうか

 今日は家を出るとき妻が、「お父さん今日は天気予報だと夕方から雨になるかも知れないから傘を持っていったら」と折りたたみ式の傘を持たせてくれました。あ雨が降らない時の傘は邪魔くさいものです。ましてや飛行機に乗ると検査に引っかかる危険性もあります。でももし明日雨が降ると多分私は今朝傘を持たせてくれた妻に感謝することでしょう。人間とはこのように勝手なものだと、今晩降り出した雨を見ながら思いました。

 今日は三重県多気町に来ています。私の講演の出番は明日なので、この項目をホテルのロビーで書き込み、早速チェックインした3階の部屋に入ってゆっくり風呂に入り休みたいと思っています。この続きは明日帰ってからにしたいと思います。お休みなさい。

 こんなことを書いて、続きを書くことを予告していたのにその続きを書かず、そのままにしていました。一週間以上も過ぎた今日11月18日、過去に書いたブログを読んでいて、知り切れトンボなこの文章を見つけました。多分読者も自分のことが忙しく、私のブログなど忘れているのでしょうか。だれも文句も言わず指摘もされずそのままになっていました。

 私を含めた人の記憶とは曖昧なもので、たった一習慣ほど前の出来事なのに、もう記憶の彼方に去っていて、思い出すことは断片的で、文字にすることすらできないのです。私は小まめにお世話になった方々にお礼のハガキを書く方でなので、どっちが先か分かりませんが、現地で出会った方々から返信のハガキをいただいたり、メールのやり取りをしていましたが、ハガキやメールもやっと一段落したようです。ひょっとしたら過去の経験だと、これからハガキやメールを重ねる人が本当の友だちになる人なのかも知れません。
 まあ旅先のホテルのロビーで書いたブログ記事なので、この程度に留めておきたいと思います。

  「旅先の ホテルロビーで 立ったまま ブログ記事書く これも思い出」

  「旅先の 思い出過去に なりにけり 首をかしげど 思い出されず」

  「今頃に なって返信 ハガキ来る 書いて良かった 安堵の胸を」

  「メモしたが メモの所在を 度忘れし 何の役にも 立たず終わりぬ」

 

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人間牧場

〇全国地域リーダー養成塾の現地調査

 一ヶ月ほど前、東京の地域活性化センターから、全国地域リーダー養成塾山下ゼミの皆さんが、双海町へ現地調査に来るので、人間牧場で話が聞きたいと連絡が入りました。私のの予定表は6日~7日は岐阜県多治見市青年会議所での講演、8日は愛媛県商工会連合会会長会での講演、10日~11日は三重県多気町での講演、12日~13日は社会教育交流集会と、まあ目白押しのスケジュールが立て込んでいて気を揉みましたが、9日は骨休めのつもりで引き受けました。
 地域事務所の松本さんから11時ころに到着するので、お昼は翠ピザ釜工房でピザ昼食を一緒にしようとお誘いがあり、少し早目の10時30分ころに出かけました。一行は少し早めに前日の研修先高知県梼原からバスで到着したようで、明治大学大学院の山下茂る先生に引率されてやって来ました。
 山下先生といえば日本消防大学校の校長や和歌山県の副知事を歴任した大物の先生なので、出会いを楽しみにしていましたが、噂にたがわず気さくながら凄い人でした。

 ピザ釜工房ではゼミ生8人と事務局2人、それに山下先生と私たちを含めて15人ほどがピザ作り体験をしながら、翠地区を中心としたグリーンツーリズムについて学習しました。その間にピザも色々なソースやトッピングを重ねて焼き上がり昼食となりました。私も皆さんが作ったピザのお裾分けを食べさせてもらいましたが、満足の行く美味しさに舌鼓を打ちました。
 私は公民館の赤石主事さんの車に便乗して一足早く人間牧場へ行き、ロケ風呂や水平線の家の掃除をして皆さんを待ちました。一行はシーサイド公園のじゃこ天のお店へ立ち寄って、ラブじゃこ天を食べたため多少遅れての到着となりましたが、それから約2時間私の話を中心に研修会をしました。参加者の中には私が何度か訪ずれた北海道美幌町の佐久間さんという職員や、先日地域づくり団体全国大会プレシンポで先日お邪魔した、鳥取県の北村さんという職員もいて、また先日地域活性化センターから原稿執筆依頼があってメールで何度かやり取りした、奥原さんも事務局として参加していて、ラッキーな出会いとなりました。

 研修が終って一時帰宅し、赤石さんと二人で私の軽四トラック、通称田舎のオープンカーで交流会が予定されているウエルピア伊予へ向かいました。午後7時から伊予市の職員や翠ピザ釜工房の岡田さん、西岡さんも加わり、かなり大掛かりな交流会となりました。2時間ほどの交流会はお国自慢の話しも出てとても有意義でした。塾生の皆さんはそれぞれのテーマに沿って、今後卒論を書かねばならないので、私の所へも入れ替わり立ち代わり足繁く足を運んで、酒を飲まない私を相手に論陣を張りましたが、皆さんどの人もリーダーと呼ぶに相応しい立派な意見の持ち主でした。
 飲むほどに酔うほどに皆さんの心も打ち解け、別室で二次会が予定されたようですが、私は今朝一番の飛行機で、中部国際空港へ旅立つ予定があるので、皆さんを置いて9時過ぎ、再会を約束して帰宅しました。
 昨日は残念ながら曇り空で、期待した日本一の夕日を見ることが出来なかったようですが、山下先生はシーサイド公園恋人岬のモニュメントの穴に13夜の月を入れた裏側から見た写真を、ちゃっかり撮影していて、さすがと感服しました。あの写真は多分先生からメールで送ってもらえることでしょう。

 

恋人岬のモニュメントの穴に入ったお月様(山下先生撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「視察来る 人を相手に 話する 失敗事例 顔を赤らめ」

   「ああ俺も あんな時代が あったなあ 若いはつらつ 意見を聞いて」

  「楽しみに していた夕日 雲隠れ 今度来るまで 隠しておこう」

  「わが町に 視察来る度 駈り出され 過ぎし日語る これも役目だ」 

 

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人間牧場

〇思い出の岐阜県多治見

 私は請われるままに講演等で年中日本全国を駆け巡っています。今までに47都道府県行っていない県はありませんが、行っていない市町村はまだまだ多くあります。そんなまちや村から講演等の依頼がある度に、淡い期待を抱きながら、今ではすっかり便利になったインターネットという優れもので、調べたりして淡い想いを募らせて出かけるのです。
 この度出かけた岐阜県多治見というまちは、美濃焼という焼き物の有名な人口12万人ほどのまちですが、このまちを一気に有名にしたのは夏の猛暑の、40.9度という信じ難い記録がマスコミによって、全国に向けて報道されたからでした。埼玉県熊谷市なども猛暑の常連ですが、まるで焼き物を焼く炎のような暑さはやはり異常で、住む人にとっては厄介な気象現象のようです。

 名古屋からJR中央本線の快速電車に乗ると、僅か30分余りで着く便利なまちで、高架の駅もモダンで、改札口に出るといきなり駅の壁面に、多治見の特徴を現す大きな陶板のモニュメントがド迫力で迫ってきて強いメッセージを発していました。
 今回の講演は多治見青年会議所の招きでしたが、その窓口となった委員長の前田直樹さんが駅まで出迎えに来てくれました。商店街のシンボルである河童と商工のまちならではの鰻屋をヒントに漫画家やなせたかしさんが生み出した、男の子のキャラクター「うながっぱ」は何とも楽しい漫画チックな雰囲気を醸していました。鰻とくれば昼食は鰻で、前田さんは澤千という名店へ案内してくれました。名店らしく店内はシンプルながら和食店らしく落ち着いた雰囲気のお店でした。うな丼を食べましたが気がつけば旅先のこと、朝食を忘れていて小腹がすいていたこともあって、忘れられない味となりました。

本堂の前に立つ樹齢700年の大銀杏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭の池にかかった太鼓橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後は多治見といえば焼き物とお寺といわれるほど有名な場所へ案内してもらいました。まず虎渓山永法寺という鎌倉末期に夢窓国師が開創した国宝の寺へ行きました。平成15年に漏電が元で全焼したというお寺は、立派に新築復元していましたが、開山の仏徳禅師お手植えの樹齢700年の銀杏が堂々と立っていました。深まり行く秋で間もなくこの銀杏は緑色から黄金の衣に身を包むことでしょう。四季折々の表情が美しい中庭やかかった太鼓橋も立派で、思わず見とれてしまいました。
 境内の庭では修行僧たちが作務衣を着て、コケの中の草むしりをまるで這い蹲るように、ただ黙々とやっていました。その姿やこの寺の様子を見て、つたないながら私も一句浮かびました。
  禅僧の 這いつくばりし もみじ寺
  乳いちょう 七百年の 衣着て

 続いて数ある身の焼きの窯元の中で、昔ながらの登り窯で美濃焼をしている窯元のところへ案内してもらいました。窯元の荒川さんは運よく工房にいて、作業の手を休めて案内してもらいましたが、おじいさんが人間国宝だったらしく、中々の人物とお見受けしました。私も梅を画いたぐい呑みを一個記念に買い求めました。酒も呑まない私が何故?と思うでしょうが、私は全国の焼き物産地を旅した時々に、ぐい呑みを集めています。何故ぐい呑みなのと尋ねられますが、値段が安いというただそれだけなのです。もう50個や60個は集めたでしょうか、いつかこの日本全国から集めたぐい呑みで、お酒をたしなみたいというささやかな夢も、お酒を止めた今となっては夢のまた夢に終ってしまうことでしょう。

僅か4千円で買い求めた水月窯のぐい呑み

 

 

 

 

 

 

 

 

  「うながっぱ うなぎと河童 掛け合わせ 漫画するとは これはおもろい」

  「値札見て ゼロの数字を 数えたる 貧乏人は どこかえげつな」

  「伝統を 守るがゆえの 宿命を 運命に変え 工夫凝らして」

  「この池は 心という字 現すと ガイドの話 聞きつ何処何処?」

 

うながっぱのキャラクター
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人間牧場

〇天下の名城名古屋城を表から裏から横から

 日本三名城といえば城づくりの名手藤堂高虎と加藤清正が造った名古屋城・大阪城、熊本城がありますが、諸説はまちまちで、大阪城等はエレベーターがついた鉄筋コンクリートなので名城とはいえないという人もいます。その人の話では名古屋城、姫路城、熊本城だともいいます。ただし姫路城は池田輝政が築城したもので、別の意見もあり、またのひとつ意見として姫路城、熊本城、松本城だという人もいるのです。私のように松山城を殆んど毎日見る人間には松山城もまた捨てがたい味があるのです。
 昨日名古屋を経由して多治見に行く所用がありました。私たちのように四国に住む人間にとって名古屋は余程のことがない限り行く機会もそんなに多くはなく、かなり縁遠いまちなのです。ゆえに名古屋=金のしゃちほこの名古屋城や名古屋=中日ドラゴンズ、名古屋=きしめん、味噌煮込みうどんなど等暗いしか思いつかないのです。それでも久しぶりの名古屋なので、ホテルを少し早くチェックアウトして名古屋城へ向かいました。

 

名古屋城の正面門

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正面門の菊人形

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前日の雨が噓のように秋の高い空が見られる朝でした。JR名古屋駅から朝の散歩を兼ねて名古屋城までかなり遠い距離を木になるカバンを提げて歩きました。地図でだいたいの当たりをつけていたので、ほぼ間違うことない方向に名古屋用を見つけました。城門の前に立つと、城門は菊花展の最中で搬入のために門は開いていましたが残念なことに午前九時から出ないと中に入ることが出来ないことが判明しました。仕方がないので正面の門から時計回りに名古屋城の外堀・内堀を一周するような形で歩きました。さすが天下の名城だけあって、堀に映る天守閣は威風堂々とし、見る角度ごとに赴きのある風情を見せてくれました。やがて陽は高く上り、風が少しあったものの汗ばむほどの温かさで、両手に荷物を持っていたので少し汗をかいてしまいました。

樹幹からの間からやっと見えてきた名古屋城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「名古屋城秋より高し天守閣」とでも、正岡子規の句を盗作したくなるような、いい天気も味方して、私の下手糞な腕でも綺麗に写真が撮れていました。さすが天下の名城と納得するお城の外観をたった一人で楽しみました。昨日の朝はこの秋一、二番の冷え込みになっていて、強い風が柳の葉を揺らし何とも風情のある光景を見せていました。
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人間牧場

〇断わりきれないこと

 この一ヶ月ほど少し気が滅入ったり、喜んだりする二つの出来事がありました。一つはある顔見知りの方から借金の話が持ち込まれました。その人には過去にも何度か少ないながら、お金を貸したことがあるのです。最初は几帳面に返済してくれていましたが、この2~3回返済が滞っていて、それなのに借金を申し込む図太さは、私にも理解できなかったものですから、「前回の借金を返せば貸す」と突っぱねてしまいました。大した額でもないので貸そうかと心は傾きましたが、心を鬼にして一応は断わったのです。
 その人が帰ってから色々考えましたが、人にお金を貸して欲しいと借金を申し込むことは余程のことなので、仕方がないと諦め取りに来るよう電話を入れてあげました。その人はあっという間にわが家にやって来て、封筒に入れたお金を、地べたに頭をつけるほど感謝し涙を浮かべながら受け取って帰って行きました。私はいいことをしたと少し気分が楽になりました。

 私の妻の実家は海産物屋でした。何度か印かずきにあって身代を根こそぎ持っていかれたことがあったようです。妻と結婚する時今は亡き妻の母親が、「印は滅多につくな」「貸した金は戻ってこないと思え」「金を借りる時は神仏、金を返す時は地獄の悪魔」と、くどいほど口を酸っぱくして教えてくれました。これまではその言葉が耳に残って、そういう憂き目には会いませんでしたし、「貸した金は戻ってこない」程度のお金なのでと諦めていました。
 ところがどうでしょう。昨日その人は一ヵ月後返すという約束どおり、前2回分も含めて私のところへ返済に来てくれたのです。しかも私を地獄の悪魔とも思わずに、自分の家で採れたという野菜を利子のつもりと持って来てくれたのです。人を信じることの大切さを垣間見ましたが、全てがこう上手くいくとは限らないようです。

 もう一つの話は、ある人に離婚話が持ち上がったことです。その人は妻も子も二人いるのに、奥さん以外に好きな人ができたらしく、離婚したいので中に入って欲しいと言うのですが、そんな難しい話に私が入る必要はないと、これまた突っぱねました。しかしその奥さんからも頼まれては嫌とも言えず、仲裁に入りました。弁護士や家庭裁判所の裁判官でもないので、条件などの詳しいことは分かりませんが、人間としていかに生きるかということ、子どもの将来のことを第一に考えることなどなど、忙しい合間を見つけてお互いの話を聞きながら、復縁をベースに話し合いました。残念ながら夫婦の関係は既に氷のように冷めていて、ついに離婚を決意したようですが、子どもの親権や養育など、素人の私では片付けられず、法律に詳しい人の仲介を仰ぐことになりました。

 「女房妬くほど亭主もてもせず」ほどの私には、妻一人さえ精一杯で、人の奥さんなどに手を出す余裕等さらさらありませんが、世の中は「蓼食う虫も好き好き」で、人の奥さんが気になる人もかなりいるようです。でもこの離婚を決意した夫婦のように自分たちはいいとして、犠牲になるのはやはり子どもです。今の社会は恋愛結婚が多いため50点ずつを持ち合わせて100点からスタートするような気がするのです。そしてこんなはずではなかったと1点また1点と減点させ、気がつけば化けの皮やメッキが剥がれて失望してしまうのです。そこへ行くと見合い結婚の私たち夫婦のように結婚時0点ずつを持ち合わせてスタートし、長い年月をかけて加点していく夫婦もいるのです。結婚とは何か、離婚とは何か、考えさせられる出来事でした。

 

 

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人間牧場

〇松山工業高校の文化祭

 このところ三週連続で週末になると天気が崩れ、秋の屋外イベントを計画実施している人たちをやきもきさせているようです。私もこれまで公民館13年、産業課4年、企画調整室10年、地域振興課9年の殆んど全てで屋外イベントを手掛けたため、天気を気にして生きてきました。今ほど気象予報が充実していなかった時代でしたから、天気予報に詳しい漁師さんに天気を占ってもらったりもしましたが、過ぎてしまえば人間の力ではどうすることも出来ない天気に一喜一憂したことが、何だかばかばかしく感じられるのです。
 私は「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」を持論に生きてきました。そのお陰で、例えばボランティア活動で「無人島に挑む少年のつどい」を企画実行した時、台風襲来で生きるか死ぬかという難儀にも会いましたが、逆にその難儀が大きな感動を与えてくれたのです。そのように悪い天気をネガティブでなくポジティブに捉えれば、思わぬ禍福だって転がり込むのです。

雨の中の松工文化祭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日は県立松山工業高校の文化祭に出かけました。「何であなたが高校の文化祭に?」とお思いでしょうが、私は息子3人が松工に進学したので、PTA会長を6年間務めました。その後は今も学校評議員などをしているため、学校の運動会や文化祭、入学式や卒業式など学校の恒例行事の案内が学校からあるのです。案内があれば時間の許す限り役目がら学校へ出かけているのです。
 昨日は昼から降るであろうと予想した雨が朝早くから降り出し、出足が危ぶまれましたが、文化祭が始まるころには雨も降ったり止んだりの小康状態で、私が訪れた昼ころには高校生の熱気が小雨の中庭に溢れていました。PTAの方々は玄関先で農産物を直売したり、校長室の隣の教室で喫茶店を開いたり、また百錬館の一階でバザー、二階でリサイクルショップを開いたりしていて、一応顔を出しました。会長さんや副会長さん、理事さんたちも忙しく働いていましたが、世代交代しているので殆んど知る人もなく、馴染みの女性の副会長さんからバザー券をいただいたので、バザー会場でうどんをいただきました。
 校長室で校長先生に挨拶してお暇をしましたが、北岡校長先生にはいつもながらのパワフルな笑顔で迎えていただきました。

百錬館二階で開かれたリサイクルショップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は声ばかりかけて食い逃げするのも気が引けて、農産物直売テントでキャベツ、レタス、リンゴ5個、〆て1020円の買い物をしました。あいにく小さいものの持ち合わせがなく1万円札と20円を言われるまま差し出し、お釣りを9千円いただきました。ところが相手が少し早とちりだったようで、120円のリンゴ5個で600円、キャベツ150円、レタス120円を合わせると870円で、間違いに気付いて130円をいただきました。何か得をしたような感じもしましたが、これが正しかったようです。
 自宅に持ち帰ると妻は「安い買い物をしてくれた」と喜んでくれ、早速リンゴを3時のおやつに皮を剥いて出してくれ、キャベツとレタスは夕食の食卓に並びました。
 先日の11月3日は下灘地区公民館祭り、今日11月6日は上灘地区の公民館祭りと文化イベントが続いています。今日も雨が心配ですが、曇りのち曇りの天気が何とかもって欲しいと願っています。
 下灘では米湊、浜田、松本さんがパットライスを、今日上灘でも松本さんがみかんジュースの実演をするようなので、賑やかしや冷やかしにちょっとでも覗こうかと思っています。今日は明日は岐阜県多治見市の青年会議所に招かれているので、夕方から名古屋に向かう予定です。帰りは明後日の朝になるようです。

下灘公民館祭りドン豆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「この三週 土日になると 雨が降る 気を揉む姿 昔と同じ」

  「リンキャベを 買って帰って 妻褒める 私買い物 珍しきこと」

  「そこここに 馴染みの顔が 見え隠れ 私一役 ギャラリーなりて」

  「昨日今日 汗ばむような 陽気にて 誰も口々 何か変だと」

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人間牧場

〇沈んだ気持ちの一日

 このところ親しい友人数人が相次いで体の不調を訴え、入院したり手術をしたという話が風の便りで届いています。その話を聞く度に年齢ゆえでしょうか、自分の身に置き換えて何か沈んだ気持ちになるのです。私も十年前に胆のう摘出手術をしてから13キロも体重が激減して、あれ程好きだったビールを一大決心して止める羽目に追い込まれました。不調を訴えている友人の殆んどは、かつては私の飲み友達で、飲むほどに酔うほどに二次会・三次会と夜の巷に繰り出し、今にして思えば暴飲暴食を繰り返していたのです。飲酒後の〆のラーメンの味は格別で、馴染みのラーメン屋の暖簾を酔った勢いで何度もくぐったものでした。

 私は意思が強く酒をきっぱり止めましたが、友人の殆んどは入院したり手術をしても退院して、何ヶ月かすると酒もタバコも復活していて、入院時に誓った禁酒禁煙の誓いは一体何だったのか疑いたくなるのです。人は人、自分は自分と思いつつも、酒やタバコを何故止められないのかも、不思議といえば不思議な話です。先日出会った友人の奥さんは私に、「胃を全部取ったというのに、『酒やタバコを止めるくらいなら死んだ方がましだ』と減らず口を叩き、私がいくら言っても酒もタバコも止めようとしません。そんな時お酒を止めたあなたのことを引き合いに出して、止めるよう説得するのですが、『若松さんは若松さんだ』などと聞く耳を持ちません。あなたの力で何とか酒とタバコを止めるよう言ってくれませんか」と頼まれました。私は「最愛の奥さんが言っても止めないので、私では無理」と突っぱねました。

 その友人が体の不調を訴え再入院したようです。風の噂によると胃ガンが他の場所に転移していて、コバルト照射の治療を続けているようですが、脱毛等のため見舞い面会を拒んでいるようなので、少し落ち着いたら見舞いに行こうと思っています。
 昨日別の友人に所用があって電話をかけたところ、電話口に奥さんが出て久しぶりに長話をしてしまいました。肝心の友人は検査入院しているとのことで、携帯番号を聞き電話をかけましたが留守着信でした。夜遅く着信履歴を見た友人から電話がかかってきました。病院のロビーからでしょうか、少し静かな雰囲気でした。聞けば腎臓疾患での入院のようでした。留守中の奥さんとの話をダブらせながら話をしましたが、病気が病気だけに若いころ袂を分かち合って酒を飲んだ楽しい語らいの場は、もう望めないようです。

 人は必ず老いるし必ず死にます。健康などどこ吹く風と暴飲暴食しても病気にならない若い時代もあれば、いくら健康に注意をして暮らしていても病気になることもあるのです。考えれば考えるほど人の体は得体の知れないことばかりです。私など18歳の時宇和島水産高校の実習船愛媛丸で遠洋航海帰航時、低気圧の洗礼を受け死を覚悟しながら奇跡的に生還したり、25歳の時の大病で転職を余儀なくされたり、台風による土砂崩壊の片付け時チェンソーで大怪我をしたり、また胆のう摘出手術をしたりと、まあ健康に生きて今日を迎えているのが不思議なくらい、数々の出来事があり、それを見事に乗り越えてきたのです。
 これからも多分幾つかのハードルが待ち受けていることでしょうが、しっかりとした気持ちで人生を生きていこうと思っています。

  「無茶しても 体壊れぬ 若き日々 懐かしきかな 〆のラーメン」

  「お互いに 酒も飲めない ようになる も一度酒を 鱈腹飲みたい」

  「酒タバコ 止めるのならば 死んだほう ましだと豪語 まだまだ元気」

  「人間は 何故に老いたり 死ぬのだろ? 俺も老いたり 死ぬかも知れぬ」 

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人間牧場

〇11月3日文化の日の夕日

 前日の夜松山南高校の高校生H君からメールで、取材も申し込みがありました。H君たち4~5人はこの一ヶ月余り、自分たちのサークル活動で製作しようとしている自作映像の取材テーマに双海町の地域づくりを取り上げていて、これまでにも人間牧場や私設公民館煙会所などで私へのインタビューに加え、町内各地を回っているようなのです。詳しい話は聞いていませんが、多分作った作品は県大会等に出品し、認められれば次のステップに進むのではないかと推測されるのです。
 昨日は下灘地区公民館まつりがあり、昼間H君たちと会場でばったり会いました。聞けば今回は前回や前々回のように先生の車で来ずJRの列車で取材に来たようでした。「夕方夕日の見えるころシーサイド公園でよろしく」とその場は別れましたが、曇り空だったため果たして夕日が見えるかどうか心配していました。

シーサイドに降りてきたパラグライダー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し早めの夕方午後4時30分ころシーサイドへ到着すると、いきなり空からパラグライダーが気持ち良さそうに風を受けて舞い降りてきました。そのころからだんだん雲が晴れだし、夕日が鮮やかになり始めました。H君と携帯電話が繋がり恋人岬で落ち合い、急いでカメラの準備をして取材が始まりました。昨日の取材は「夕日を見ながら語る若松進一さん」という設定だったようです。私は沈み行く11月3日の美しい夕日を気にしながら手持ちのデジカメで何枚か写真を撮りました。風もなく11月としては珍しい暖かい夕暮れ時、そかも祝日なので夕日を見ようとギャラリーが沢山集まっていました。若いカップルも沢山いて、彼ら彼女らは夕日の前で一体何を語っていたのでしょうか。

恋人岬のモニュメントに綺麗な夕日がかかりました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

季節が進んだため丸い穴にスッポリではありませんが、砂浜からはこんな夕日も見えました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恋人の聖地選定記念碑のハートにも夕日が・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どアップな自慢の夕日
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

今頃夕日はもう随分西の端に沈むようになりました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これが日本一の自慢の夕日です
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 同じ夕日でも、そして同じ場所からでも、見る視点や写すアングルによって様々な表情を見せてくれます。これもカメラという人間が発明した文明の道具使うからこそ記録できるのです。もう永久に2011年11月3日の夕日を私はこの写真以外見ることは出来ないのです。 記録しか記憶されないって本当ですね。
 数字を並べながら今月11日だと2011年11月11日だと1が6つ並ぶなあと思ったりしましたが、その日は残念ながら三重県多気町へ出張予定で、中部空港辺りで夕日を眺めていることでしょう。それにしても松山南高校のH君たちのお陰で、いい夕日を写真に収めることができ、夕日に少しパワーをいただいたような感じがしました。
 
 私のもう一つのブログ ameblo.jp/shin-1 もご覧下さい。
 
  「高校生 私の取材 するために 列車に乗って 秋を訪ねに」
  「見てご覧 これが私の 自慢する 夕日ですよと 得意になりて」
  「わあ凄い 思わず感嘆 声上げる 日本一だと 自慢の夕日」
  「あの夕日 今朝は早くも 衣替え 朝日となりて 窓の向こうに」
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人間牧場

〇早生みかんの収穫

 わが家は4代続いた漁師の家でしたが、4代目の私が後を継ぐべく7年間漁師をしたものの、病気になって漁師を断念し転職を余儀なくされたため、3代目で漁師を廃業してしまいました。初代・2代は漁船のエンジンすら導入されていない人力櫓漕ぎの古い時代ですから、漁業=貧乏のトロ底だったようです。3代目の親父は若いころの一時期戦争のため大陸に出兵し、戦中戦後は日本全国の家庭がそうであったように、かなり苦しい生活を強いられたようでしたが、それでも漁船、エンジン、漁具、漁法それぞれの近代化をいち早く取り入れて、それなりの暮らしが出来るようになり、親父は親父としてわが家のしっかりとした基礎を築いてくれたのです。親父のそんな頑張りの上に私も胡坐をかくことなく、私流の頑張りをしたつもりでいますが、ある部分は評価されても、はてさて親父の頑張りに比べたら見劣りがするのです。

 見劣りの一つは財産の保全です。わが家は半農半漁でした。母は女性ながら漁船に乗組員として長年乗船し、双海町下灘名物夫婦舟の走りでした。当時は珍しい小型船操縦士の国家試験を取得したり、漁協婦人部長として東京まで発表に出かけたりする傍ら、5反近くもの畑を殆んど一人で耕し、まるでロボットのように働きました。今私が人間牧場として使っている場所もそのひとつですが、転職して私が地元の役場に勤めるようになったため、母の死後は荒れるに任せて一時期は放任園になってしまい、母親が大事に育てていたみかんの木は、全て枯らしてしまったのです。そのことは亡き母にすまないと今でも心が痛みますが、それでも人間牧場を造って、いささかな活動をしているのが救いだと、自画自賛しているのです。

 家の横には1反余りの家庭菜園に隣接して甘夏みかんの果樹園がありますが、甘夏みかんに混じってみかん類が母親の手によって植えられていますが、その中に早生系のみかんの木が1本あって、働き手だった母親に似てこの木は、毎年休むことなく沢山の実をつけてくれるのです。
 昨日の朝親父が、「そろそろ熟れたみかんを収穫しないといけないので手伝って欲しい」と言いました。午前中は薄曇りながらも穏やかな天気だったので、原稿書きが一段落した10時ころから親父と二人で取入れを始めました。

鈴なりといった表現がぴったりの早生みかん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鈴なりといっても私の背丈ほどの木なので、93歳の親父と二人で採果鋏で30分ほどで終りましたが、何とキャリー3箱も収穫しました。大豊作です。早生みかんは完熟しているのでとても甘く、口に入れるととろけるようですが、その分追熟も早いので、早く食べたり処分しないと腐ってしまうのです。生食は勿論今日から妻が生ジュースにして、朝食に出してくれるのを楽しみにしています。
 みかんを食めば今は亡き母を思うこのごろですが、今年の秋は一度寒波が来たもののその後は暖かく、過ごし易い日が続いていますが、もう間もなく寒い冬がやって来ます。冬支度をしなければと思うこのごろです。

収穫した早生みかん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  「母植えし 早生のみかんを 収穫す 親父と二人 母思い出し」
 
  「一本の 木から三箱 豊作の みかん摘み取る 秋の一日」
 
  「早生みかん 皮剥き口に 頬張りぬ 甘き自然の 恵み味わう」
 
  「わが家でも みかん収穫 冬支度 間もなく寒さ 山と海から」
 
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人間牧場

〇ビジョンとは

 私が双海町という小さな町の役場に勤めていたころは、今にして思えばとてもいい時代で、地方公務員でありながら自分の心に望み(ビジョン)を持ち、その望みを実現するために思い切り羽ばたくことができ、勿論よく働き苦労はしましたが、それなりの成果を収めることができました。私のソフトビジョンは「夕日・ほたる・花」というアメニティであり、ハードビジョンは「3つの公園」づくりで、それらを実現することで結果的に住む条件と訪ねる条件が整備され、この町で豊かな心で生きたいという願いからでした。公民館時代に私が提唱した「仲間・健康・生きがい」という3つの目標も、企画調整室時代に提唱した「人づくり・拠点づくり・住民総参加のオンリーワン(日本一)づくり)も全て、住民にビジョンを示すまちづくりだったように思うのです。

 日産自動車の再生に取り組んだカルロスゴーンが、「ビジョンは退屈ではダメだ。船を建造するとは人を集め、木材を用意し、人に個々の作業を割り当てることではなく、大海原を目指すという目的を与えることだ」と言っています。彼が言うようにまちづくりも分かり易くて明確なビジョンを示さなければ、市民の心を捉えることはできないのです。
 若いころ城の石垣の話を聞きました。城の普請場で石垣を積んでいる石工さんに、「なたたは何をしているのですか?」と聞くと、「わしは石を積んでいる」と答えたそうです。傍にいた親方に聞くと、「私たちは石垣を積んでいる」と答えました。現場監督のような人に同じ質問をすると、「個々に石垣を積んで立派なお城を建てる」と説明しました。家老に聞くと、「ここに立派な城を建て敵が攻めてこないようにして、領民の暮らしが豊かになるようにする」と答えたそうです。石工・親方・現場監督・家老それぞれに、持ち場でしっかりと役割を果たしていることは分かるのですが、家老のビジョンが現場監督から親方に、親方から石工に伝えられていないことに気付くのです。

 城を築く上位下達の封建時代ならこれでも命令一下済むのでしょうが、現代はそうは行かず、いかにビジョンを共有できるかが成功のカギとなるのです。ビジョンのない小手先だけの方法で人を集め、木材を集め、個々に作業を割り当てたところで、海原を航海できる立派な船もできないし、船が海原を越えて目的を果たすこと等到底できません。
 人は誰も幸せになりたいといという願望を持っているし、健康で長生きがしたいとも思っています。また程ほどのお金も欲しいし、心に持っている望みも叶えたいとも思うでしょう。自分の人生においても「どう生きたいのか」という明確なビジョンがあれば、一日一日の努力の積み重ねで、そのビジョンに近づくことができるのです。さあ明確なビジョンを持って歩きましょう。

  「ビジョンなき 人生何の 意味があろ 大海原を 目指す気概を」

  「石を積む 石垣を組む 城建てる もっと大事は 何のためにぞ」

  「人は言う ビジョン語るにゃ 遅過ぎる そんなはずない 年齢じゃない」

  「俺にゃまだ 残り火赤々 燃えている これからですよ 俺の人生」 

 

 

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