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〇昨日は良い日か悪い日か?②

 昨日の昼、妻が勤めている近所の歯科医院から昼食のため帰宅しました。いつものことなので昼ごはんの準備をしているのだろうと無視していると、「お父さん、ちょっと来て」と大きい声で呼ぶのです。「何?」と居間へ行って見ると、テレビが突然「バシッ」と大きな音を立てて、音声がまったく聞こえなくなってしまったようなのです。二人がかりで色々とリモコンなどをいじくりましたが、結果的には修復できませんでした。画面は鮮明に映るのに何故だろうと考えました。

 このテレビは妻の記憶によると購入したのは11年前でした。そのときの値段は30万円もする、当時流行の横長35インチの大型テレビでした。しかしその後画面右上隅に「アナログ」という烙印の表示が出て、今ではいかにも時代遅れといった表現がぴったりのテレビなのです。時折やってくる孫朋樹がテレビゲームをするためにコンセントを差し込んだり、妻は録画した番組を殆ど毎日見るなど酷使したための故障でしょうが、わが家の唯一の情報源として八面六臂の活躍をしてくれただけに故障は相当ショックでした。

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 アナログ放送終了の来年7月までは何としても持たせたいといつも言っていたのに少々寿命が早過ぎると、二人とも少し落胆し納得をしました。早速洗濯機の修理の時お世話になった電気屋さん恩義があるので妻が電話をかけ滋養を話したようです。「修理には二日ぐらいかかる」「保障期間はとっくに過ぎているので2万円程度架かるかも知れない」「それだったらエコポイント制度もあるし、いっそのこと新しいものに変えたら如何でしょう」と迫られ、トントン拍子に話が進み、昼休みを利用して二人でその店へ出かけました。

 大型電気店に比べれば品揃えも少ない店の中には、何台かの今流行のテレビが置かれていました。店員さんの案内でその中から、財布資金と省エネ、それに目に優しいという条件に見合った42型で薄型のテレビを見つけ、お届けや取り付けの段取りまで約束して家へ帰りました。

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 やがて妻が仕事に行くためテレビを消そうとした瞬間、あろうことか音声が復元し復旧回復したのです。二人で「あの騒動はいったいなんだったのだろう」と大笑いをしましたが、夜寝て今朝起きるとまた音声は聞こえなくなってしまいましたが、今晩も聞こえたり消えたりとめまぐるしい変化を見せました。

 はてさて私のような年金暮らしの生活者にとっては10万円を越えた臨時の出費はかなり痛手ですが、これで心配していたレジたる放送への対応も無事出来たことを思えば何はともあれまずは一安心です。わが家もいよいよデジタル放送時代の幕開けです。説明書を読んでしっかりと使えるようにしたいと思っています。

 「昨日は良い日か、悪い日か」と訪ねられたら多分、「良い日で悪い日」としか堪えられない一日でした。こうして一日一日は過去となり、思い出のかなたに消えてゆくのです。


  「11年 使ったテレビ 故障して 買い換え手はず 高い買い物」

  「修理する 金があったら 買い換えろ 言わんばかりに 店員誘導」

  「このテレビ エコポイントが 付きますよ 色々引いて 金額10万」

  「順ならば テレビの次は 私かも 少々高い 私の値段」

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〇昨日は良い日か悪い日か?①

 一日一日を積み重ねてゆく一年はかなり長く感じるものです。熱かったり寒かったり、時には幸運に恵まれたり不運に見舞われたり、一喜一憂を繰り返しながら65年間、秒息で命を落とすこともなく、とにかく井今日まで生き長らえてきました。

 昨日一日をとっても朝4時に起床して夜123時に床について眠るまで、様々な出来事がありましたが、まあ何とか一日を終え、今朝はまた日の出を迎えようとしているのです。

 昨日は朝起きトイレを済ませて書斎に入り、いつものようにパソコンのスイッチを入れて、Gメールを呼び出しました。前日夜遅くまでかかってメールの整理をしていたので、迷惑メールや受信メールは殆どなく、アメーバブログを書くため画面を呼び出しましたが、残念ながらアメーバブログは午前2時から午前7時まで、メンテナンスの時間のようで、呼び出すことも出来ず少々落胆してしまいました。


 ふと昨日のことを思い出ました。昨日は原稿の締め切りが迫っていて、強風と大雨で人間牧場での予定していた作業が出来ないため書斎にこもって原稿書きをしました。原稿書きが行き詰ったところで、時々いたずらのように自分の昨日一日のアクセス数やランキングを見るのですが、そのデーターを呼び出して驚きました。普通私の一日のアクセス数は1000~1400程度で、ランキングもたまに10000位より上へ行くものの、大体1200位~1500位をキープしているのです。

 機能は何が原因か分かりませんが、アクセス数が4500件にはね上がり、私の順位も2929位まで上がっていました。アメーバブログの会員は200万人近くもいるのですからその中での2000位台は驚異的な数字なのです。有名人でもない私のような田舎者のブロガーにとっては、もうこれ以上の位置につけることはまず考えられないので、自分のブログの右端の【総合ランキング】デイリー2929↑、月間ランキング12218↑のついた若松進一ブログを記念にプリントアウトしました。

 人に自分の書いたブログを読まれた数などどういうこともないのに、人間は不思議なもので、「ああ今日はいい日だ」と一瞬思い、そのことを忘れた昼ごろ原稿会は終了しました。


  「いつの間に ブログを書いて もう五年 内容さておき ランクはアップ」

  「物好きな 人もいるもの 俺ブログ 呼んでくれるか 読み人知らず」

  「跳ね上がる ランクの数字 驚嘆し 今日はいい日と 勝手に思う」

  「書くネタが 良くあるものと 人は言う 多分死ぬまで ネタは尽きない」

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〇ひとり未来の森を訪ねる

 昨日はせっかく今治へ行くのだから奥道後~水が峠~玉川~今治の山周りを走ろうと思いました。というのも昨年、コープえひめの理事会で環境活動の一環として植林運動をしている森の名前を決める投票に参加したので、一度玉川にある「未来の森」を見てみようと思い立ったからです。山周りの道は先日の大雪で通行止めになった爪痕のように、道端にはまだ雪が残っていて、その季節はずれの重い大雪で道沿いの畑にはパイプハウスが幾つも潰れて無残な姿を見せていました。

 玉川には伊予三名湯の誉れ高い鈍川温泉があります。玉川ダム湖畔の山坂を下り右に曲がると間もなく鈍川温泉郷に入りました。山の中の温泉なので7~8軒の温泉宿もひなびた雰囲気は否めませんが、休日朝の旅立ちの時間だったため結構人や車の姿が見られました。


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 温泉郷を通り過ぎてしばらく行くと鈍川渓谷が見えてきました。今は冬枯れの季節なので彩りはありませんが、春特有の息吹のようなものを瀬音に感じながら奥へ進むと、予定通り涵養の森に着きました。この奥には知人の森さんが温泉つきの別荘を持っていて、何度か泊めてもらったことがあるため、見慣れた道を思い出しながら安心して森へ入ることが出来ました。

 「未来の森・コープえひめ」と書かれた看板が見えたので車をUターンさせて路側に止め、そこら辺を散策しました。春まだ浅い森の中ゆえ通行する人や車はまったくなく、冷え冷えした森の空気を独り占めするような気持ちで胸いっぱいに吸い込み森林浴を楽しみました。

 看板の奥にはコープの植林運動に応えてみんなが植えたであろう苗木がいっぱい植えられていました。そんな名も告げず植えたであろう木々の向うには、いかにも「私が植えました」と言わんばかりの白い名前の入った木柱が幾つも建っていました。

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 道端の植えられた苗木が2~3本何が原因なのか支柱の竹ごと倒れていました。植林運動に参加しなかったお詫びの印に、車のトランクに積んでいた小さな鍬を取り出し、勝手に倒れた苗木を補修させてもらいました。そうこうしていると、通りかかった山仕事に行くのであろう軽四トラックが、私の姿を見て怪訝そうな顔つきで通り過ぎて行きました。多分盗掘でもしているのではと思ったに違いないのです。

 個々に植えられた木々は全てが成長するとは思えません。私が手直しした苗木のように落石や鳥獣の被害に遭うかもしれませんが、願わくばしっかりと大地に根を張って成長し保水や環境保全に一役かって欲しいと願っています。いつか私も暇を見つけて植林運動に参加したいとも思い、ほのぼのとした気持ちで「未来の森」を後にしました。


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  「春浅き 未来の森を 訪ねけり 鍬持ち倒れし 苗木を補修」

  「鍬持った 私じろりと 批判目で 軽四叔父さん 通り過ぎ行く」

  「いい名前 ついたと自慢 したくなる 自分が植えた 訳でもないに」

  「この苗木 大地しっかり 根を張って 大きく育て 独り言言う」  

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〇地域福祉推進ミニフォーラムに参加して

 昨日は今治市清水地区社会福祉協議会主催による地域福祉推進ミニフォーラムに招かれ参加しました。清水公民館で行われるミニフォーラムですから、参加者は50人そこそこの小さなフォーラムで、私の基調講演「福祉でまちづくり」と3人の実践活動報告を基にした討論会の2本立てでした。

 私は行く道々「福祉でまちづくり」について色々考えましたが妙案が浮かばず、結局は思いつくまま1時間喋り続けました。

 昨年愛媛大学法文学部総合政策学科で60時間の講義を担当した折、学生たちが「どんなまちに住みたいですか?」という問いかけアンケートに答えたのは概ね次のような項目でした。

 ①活気あるまち(働く場所がある・遊ぶ場所がある)

 ②便利なまち(病院・学校・買い物・交通)

 ③綺麗なまち(環境)

 ④夢のあるまち(未来)

 ⑤安心で安全なまち(防犯・防災)

 ⑥ひとりひとりが主役になれるまち(協働と参画)

 ⑦自然豊かなまち(海・山・街・川)

 ⑧みんなが仲の良いまち(コミュニティ)

 ⑨行政サービスが行き届いたまち(税金・子育て・社会保障・高齢者福祉など)

 ⑩歴史と文化があり住み続けたいと思うまち

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 学生たちが考えた理想のまちの条件を思い出しながら、こんなまちなら私も住んで見たいと思ったものですが、はてさてこんな「青い鳥」的なまちは本当にあるのでしょうか?。答えは残念ながらないのです。ないばかりかむしろ今の世の中はこれらの項目の満足度がどんどん低下しているのです。

 みんなの力でこれらの項目を勝ち得る運動や活動をすること、それがトータル的な広い意味での「福祉にまちづくり」なのですが、学生と同じように誰もがこれらの項目を他力本願で求め続けているのですから、まちは良くなるはずはないのです。これまでのまちづくりは豆腐型のまちづくりだと思います。大豆をすりつぶしてにがりをいれ、既成概念の四角い枠に無理やり入れて固めようとしてきました。これからは納豆型のまつづくりです。大豆個々の個性を生かしつつ粘々のようなネットワークで結んで行かねばなりません。

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 発表では清水児童クラブなかよし会長の井出早苗さんと清水地区老人クラブ会長の本宮森一さん、それに清水地区コミュニティ推進会理事の益田厚美さんがそれぞれ発表し、社会福祉協議会の島崎義弘さんがコーディネーターを勤め議論を深めました。

 私も請われるままに議論に加わりましたが、皆さんの意見を要約すれば福祉のまちづくりのキーワードは、子ども・環境・文化・スポーツ・高齢者・食などのようでした。参加した皆さんの熱心な議論の輪をこれからどんどん広げてゆけば青い鳥は必ず見つかるのです。

  「福祉など 門外漢の 私だが いつもやってる ことも福祉だ」

  「このまちに 生まれて暮らし 死んで行く いいまちつくろう 福祉のまちを」

  「青い鳥 あなた任せで いるものか ひとりひとりが そのこと自覚」

  「あちこちで 地道取り組み 進んでる うんとうなずき 話聞き入る」

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〇下灘中学校惜別の会②

 昨日は午前中下灘中学校の閉校式に出席し、1時間余り余裕があったので久しぶりに人間牧場へ行きました。来週の火曜日に今治市玉川町で旧友井出サツミさんを介して講演を頼まれている準備のためです。玉川町へはもう何度も講演に行っているので、今回は思考を凝らして落伍風の話をしようと思っています。そのための七つ道具であるめくりや裂き織の羽織、それに拍子木などが必要なのです。

 人間牧場界隈もこのところの寒さでいまいち春が足踏みしているようですが、ミツバチの巣箱には何匹かミツバチが出入りするのが確認できたり、蕗が芽を出して春近しを感じさせてくれました。帰りに西嶋さんに大きなポンカンをキャリーにいっぱい貰いました。

 閉校式第二部は惜別の会と銘打って、下灘コミュニティセンターの大ホールで12時から行われました。受付で会費3千円を支払い正面に向かいって右側の指定された席に着きました。隣は5級年上の梶野和幸さん、正面は一級年下の忽那明美さん、右前は山本学園の校長だった村井淳子さんで顔も気心も知れているため、色々な話をさせてもらいました。後で気がついたのですがこの席はどうやら白鴎という今回の記念誌にそれぞれの卒業期ごとに依頼されて寄稿した人たちの席のようでした。

 まず今回の閉校記念事業の若松良樹実行委員長があいさつし、市長さんやPTAの歴代会長さんたちの代表が思い出を一人一分という約束で始めましたが、皆さん思い出が多過ぎて、10分ほども喋る人がいるほどでした。

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8ジーンとくるような挨拶をした若松良樹さん)

 この日は歴代の下灘中学校長さんも何人か見えていましたが、直前校長の松尾先生も見えていました。待つ先生は現在港南中学校の校長先生をしていますが、この春めでたく定年を迎えるそうです。会場で高知大学大学院に通う堀川奈津さんにも久しぶりにめぐり合いました。彼女はもう直ぐ卒業して就職するそうですが、在学中にインターンで奈半利町に行っていた折、まちづくりで随分とお近づきになった学生なのです。彼女も私と同じように第53期卒業生として寄稿していました。

 先日送られてきた記念誌には、私の寄稿文が「宿直室での学び」と題して146ページに紹介されているようです。

 ともあれ、わが愛する母校は数々の思い出を残して、永遠の眠りに着こうとしています。お疲れ様でした。

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(松尾校長先生と堀川奈津さん)

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(私の寄稿文が載った146ページと寄稿文全文)
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  「閉校と いう日立会う 幸運に 恵まれ私 歴史承認」

  「このことを 記録する人 いないかも 消え行く記憶 記録残して」

  「懐かしき 人が集まり 懐かしく 記憶たどりて 懐かし話」

  「大声で 歌う校歌の 懐かしく 思わずぐっと 胸が詰まって」

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〇母校の閉校式に出席して①

 昭和22年4月に愛媛県伊予郡下灘村立下灘中学校として、下灘小学校内で産声を上げた中学校が62年の学校史に幕を閉じることになり、昨日閉校式があって一般卒業生として出席させていただきました。居並ぶ来賓関は埋め尽くされていましたが、一般席はまだ席に余裕があったようで、先輩・同輩・後輩と席を同じくして昔を懐かしみながら在りし日の学校を偲びました。

 学校は閉校式を行いましたがこれから先在校生の卒業式や終業式があって、学校を閉じるのは16日後の3月31日ですが、セレモニーには市長さんも見えられ式辞を述べられました。

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(市長さんの式辞)
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(議長さんのあいさつ)
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(校長先生のあいさつ)

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(生徒代表の挨拶あいさつ)

 これまでに3489人の卒業生を世に送り出してきたこの学校は私の母校です。私がこの学校を第13期生として卒業したのは昭和34年のことでした。昭和37年には378人の生徒数を誇ったこの学校も、今では10分の1にも満たない32人に生徒数が減少したようで、今更ながら少子化の怖さをかみしめるのです。市長さんの式辞、議長さんの挨拶、校長先生の挨拶、PTA会長さんの挨拶、生徒代表の挨拶と続いたそれぞれの挨拶には閉校やむなきにいたった経過とこれまでの思い出、それに閉校後への危惧や希望の言葉がちりばめられ、心えぐられるような気持ちで聞きました。多分学校が存続しているならこの学校はただあるだけで、スポットは当たらなかったであろう過去や現在、そいて未来を考えたのですから、正直皮肉な話です。

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(校長先生から市長さんへ校旗の返還)
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(記念碑の除幕)

 閉校式後校庭で除幕式がありました。「ここに学校があった」という足跡を残すために建てられましたが、私は旧双海町最後の教育長時代私の発案で、かつて学校があったことを示す富貴小学校跡地、閏住小学校跡地という二つの小さな記念碑を建てました。昨日立ち会った記念碑と合わせるとこの町から既に3校目の学校が消えることになるのです。二見町には0人に満たない翠小学校があり、その将来が心配されていますが、翠小学校を閉校4校目にはしたくないと妙案もないまま強く思いました。

 学校の跡地は社会体育や社会教育に使うそうですが、数年前に建設した体育館はさておき、はてさて過疎地の人たちが学校の運動場に草の生えないように足繁く使うこととが出来るかどうか、これも疑問の残るところです。

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(記念碑の前で)

 学力を保証し、部活を活発にしなければならない中学校の統合は、地域のコミュニティよりも優先するテーマなのでやむを得ませんが、学校の灯が消えるこの厳しい現実を重く受け止めて、これからもこの地域が発展することを祈りながら、折りしも降り出した雨の中を学校に別れを告げました。私の立志の礎となったこの学校を私はこれからもずっとずっと生きている限り忘れないでしょう。ありがとう下灘中学校。



「わが家では 子ども四人を 製造す だのに少子化 不思議でならぬ」

  「白い布 除幕の下に 校歌歌碑 カガスの底に 永遠眠る」

  「川向こう 早咲き桜 閉校に 合わすが如く ひっそり咲きぬ」

  「山の色 少しも過去と 変わらねど 社会の変化 見えぬ形で」 


追伸

 昨日3月14日の地元紙愛媛新聞9面地方欄にその模様が掲載されていました。

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〇道端に春を見つける

 3日前高知で桜の開花宣言が発表されました。勿論日本で一番早い開花宣言ですし、この日の開花宣言は史上タイの最も早い記録のようです。これまで愛媛県宇和島市や熊本市が桜の開花が早い所としてお互い競い合ってきました。ゆえに日本一の開花宣言を勝ち取ろうとして宇和島市では、標準木の監視員を増やして対応しましたが、残念ながら今年は高知に一歩先を越されたようです。開花宣言は標準木の桜の花が5つ以上咲くことが条件のようで、昨日のニュースによると昨日は一輪咲いていて、今日にも待ちに待った開花宣言が出されるようです。「宇和島が何故このように早く桜が咲くのか」は色々な説がありますが、やはり豊後水道に流れ込む黒潮や越冬条件など、気象条件によるものだと思われます。高校生活を3年間宇和島で過ごした私ですから、そこらの体験から納得するのです。

 昨日は久しぶりに散髪に出かけました。一昨日の真冬並みの季節風が一転し、昨日は南西の風が吹き荒れていました。散歩のつもりで約1キロの道を歩いて行きました。先日の雨で川は増水し勢いよく瀬音を立てて流れていました。畑中の道を行くと菜の花が満開で、畑には早くもレンゲソウの可憐なピンクの花が見え隠れして、いよいよ春近しといったところです。

 顔見知りのおばあさんに出会い声をかけました。「まあ進ちゃん、おめずらしい」と立ち話です。三叉路で出会ったのもおじいさんでした。そういえば出会う人の殆どはお年寄りで、高齢化社会を垣間見ましたが、人のことを言えた義理ではありません。かく言う私も65歳の高齢者なのです。

 近くの藪からウグイスの鳴き声が聞こえてきました。遠い牛の峰連山には3日前の残雪が見え、雪とウグイスのアンバランスを感じながら歩きましたが、山も海も空までも春の色に変わろうとしているようでした。上灘川に架かる長い鉄橋を音を立ててマッチ箱のような列車が走りました。そういえば列車にも長い間乗っていないと思いました。確か列車に乗ったのは岡山県へ講演に出かけた1月18日~19日だったと思うのです。退職したらのんびり駅弁でも食べながら列車で旅をしたいと思っていた夢も、夢のまた夢になっていますが、そろそろその夢を実現したいと思っています。はてさていつのことになるのでしょうか。

 馴染みの散髪屋さんで色々な世間話をしながら1ヶ月ぶりの散髪をしてもらいました。散髪屋の鏡に映った自分の姿をまじまじと見ながら、少し元気が出てきたようだと実感しました。体の調子もよくて食欲もあり今のところ健康だとの思いが顔の表情に表れているようでした。散髪屋のご夫婦も「お元気そうで」と顔色を見てお世辞を言ってくれました。男前を上げて散髪屋を出て、今度は別の道を歩いて山道をめぐり少し汗ばむほど歩きました。健康は足元からです。92歳の親父に負けないように運動を続け、快食・快眠・快便で快調な健康を維持し続けたいと思っています。

 

  「何気ない 散歩で春の 足音を レンゲ菜の花 笑顔で揺れる」

  「遠くには 雪をいただく 牛の峰 里は早くも 春の足音」

  「元気そう 顔色伺い 声をかけ 通り過ぎ行く 年寄り二人」

  「ウグイスの 鳴き声未だ 下手糞で 俺とよく似て 思わず苦笑」

 

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〇孫から目が離せない

 いつものように週末になると家族総出でやってくる孫たちには心癒される思いがしますが、週末が来ると孫の顔が見える喜びと裏腹に、帰ったあとは疲れがどっと出るため、特に勤めている妻は日曜日しか休みがないのに、多少疲労が蓄積しているようです。昨日病院で検査をしてもらったところ、前回のコレステロールの高さは少し改善したものの血圧が少し高めのようで、早速血圧計を買おうという話に発展したようです。お互いそんな心配をしなければならない年齢になったようだと納得しつつ、娘と息子に母親の体のことも心配するように話そうと思っているのです。

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 孫の小さいのも手が焼けるものです。一番上の孫朋樹は小学校一年生になってから殆ど手が要らなくなりましたが、真ん中の孫尚樹は5月で満3歳、孫希心は8月で満3歳、孫奏心はまだ10ヶ月です。奏心は伝い歩き出来るようになって目が離せなくなりましたが、相変わらず私に抱っこを要求します。10k余りの孫を抱くとその時は何ともありませんが、帰ったあくる日などは腰が重くて、ぎっくり腰にならないか心配するほどですが、体力づくりの意味を込めて可愛い孫を前三人の孫と同じように目いっぱい抱いてやるのです。

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 2歳の孫二人はやんちゃの限りを尽くし、お互いが我を張り合うのでいつも喧嘩ばかりして泣いたり笑ったりしながら遊んでいますが、この二人が実は問題児なのです。長い棒や動くものが特に好きで、アンパンマンや仮面ライダー、ゴレンジャーなどの漫画に影響されて、Tシャツなどはキャラクター入りがお気に入りで、この服を着せるとご機嫌だし、主役になりきって「変身」などと声を張り上げて「勝負だ」と襲い掛かってくるのです。こちらはいつも負ける怪獣役に徹しなければ期限が悪いので、「やられたー」とひっくり返ってやるのです。

 先日はちょっとした騒動がありました。いつものように4人を風呂に入れ、最後に風呂から上がると甲高い声で希心が泣き始め大騒動となりました。風呂上りにパジャマで玄関まで廊下を走って滑り転げ玄関の木の置物に顔面をぶち当てて、顔が血だらけになったのです。両親は蒼白になり、夜のことゆえとりあえず松山の病院へつれて行きました。生き返りと診察で往復3時間ほどかかりましたが、その間9ヶ月の孫奏心を抱いて寝かせ布団に入れて寝かせる役を私が引き受けました。これも腰にかなり負担がかかったのか、あくる日は腰が重く感じられました。

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 幸い顔の怪我も大したこともなく、毎日のように電話をかけてやりますが、片言で「じいちゃん」と読んでくれるのでホッとしています。この頃の子どもは動く凶器、動く危険物と思わなければなりません。ちょっと目を離すと何をするか分からないのです。これから水がぬるみ戸外へ出る機会が増えてくると余計目を注がなければなりません。今回の小さな怪我を教訓にしたいと妻と話し合いました。

 そんなことを言いつつ、「孫はどうしているだろう」と思うと、ついつい私たち夫婦の目じりは10時10分から8時20分に下がってゆくのです。

  「週末に なると心配 増えてくる 危険人物 やって来るから」

  「怪我をせぬ ようにしようと 言いつつも 強く育てと 反する遊び」

  「十キロの 孫を抱っこし 腰に来る 俺も歳だな 思いつつ抱く」

  「来て欲しい 来て欲しくない どっちなの やっぱり孫の 顔が見たいな」

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〇鄙を照らした儒者の生涯(遠藤石山物語)

 一昨日、新居浜市泉川町づくり協議会の招きで泉川公民館に出かけました。その折一冊の本をいただきました。内藤雅行著「鄙を照らした儒者の生涯」という泉川まちづくり協議会が発行した本です。この本の主人公である儒者遠藤石山も、この本を著した内藤雅行さんも知らぬまま、また発行した泉川まちづくり協議会がどんな目的なのか知らぬままページをめくりながら読んでいるところです。

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 はてさて読んでいるうちに凄い人だということだけは分かりましたが、紙面の都合で詳しく書けないため遠藤石山という人について記念碑の漢文を著者が分かり易く解読しているので紹介したいと思います。

 先生の幼名は徳蔵。字は石山、号は璞玉又は六顛という。遠藤氏は予州小松の人、天保三年壬辰七月十三日をもって生まれる。父は清左衛門と曰い、本姓は永井氏。入りて遠藤氏を継ぐ。泉川村山内氏の女を娶り、四男一女を生む。先生はその四男なり。山内氏は嘗て小松藩近藤篤山に師事し、夙に賢を以って聞こゆ。児女を教養するに方有り。先生は天稟温厚、幼にして学を好み、殆ど寝食を忘る。年十有九にして江戸に遊び、昌平黌に入る。卒業して教職に任ぜられる。尊攘の議起るや京都に入り、頗斡旋する所あり。明治維新、塾を風早、竹原、尾道、泉川の諸処に開き、稽崇館と称す。従遊するもの前後数百人。旧藩主一柳公も亦其の門に入る。其の宇和島に遊ぶや、藩主春山公礼遇すること甚だ厚し。石鉄県学務取締及び第三学区取締を歴任す。四十年丁未十一月十八日、家に病没す。享年七十有六。山内氏の女徳子を娶り、男を生む。長は菊太郎と曰い、出でて山内家を継ぐ。次は芹次郎と曰い、次は枸杞三と曰い家を嗣ぐ。先生は経書に精通し、常に竺墳を愛読し、深く其の理を究む。作る所の詩文は篇什極めて多し、又書画を善くし、茶道を好み、晩年京阪を歴遊し、復家事を顧みず、超然として物外に逍遥せり。某等久しく教えを門下に奉ず。感恩実に深し。頃、石を建て其の墓に表す。銘に曰く。流風余韻 南海の浜 猗歟先生 其の名泯びず

 著者の書き下ろし文には全てふり仮名がつけられているのに、漢字の一つ一つをパソコン画面の部首で探すのに中々見つからず、凡人の私はひと苦労をしました。

 さて表紙の題字に書かれた「鄙」という字も、私は本をいただいたとき正直読めずに、「何と読むのでしょうか?」と聞いてしまいました。お恥ずかしい話です。広辞苑を紐解いて見ると、鄙とは都を離れた土地、田舎と書かれていました。なるほどと相槌を打ち、遠藤石山という人物の奥の深さや著者の洞察を垣間見た次第です。

 人の偉さは自分で決めるものではなく人が決めるものです。今の世の中はややもすると自分で決めたがる人が多いようです。遠藤石山のように死してなお威徳を偲ばれる人はそんなに多くはありません。これからこの本を折に触れじっくり読んで、その教えにあやかりたいと思いました。いい本をご贈呈ありがとうございました。


  「いや凄い 人がいたもの 本読んで 威徳あやかり 読書にふける」

  「この本を 編した人も 偉い人 思いつ漢字 鄙意味探す」

  「書いたゆえ 本書く苦労 よく分かる ノンフィクションは 嘘が言えない」

  「一冊の 本を編纂 まちづくり よくぞやったと 心で拍手」

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〇モブシ(コブダイ)の調理に挑戦

 今朝6時に下灘で漁師をしている叔父から電話がかかってきました。先日叔父は胃がんで入院して手術を受け退院して間もないため、漁は当分休むと聞いていましたが、働き者の叔父は退屈なので建て網漁に出かけたようで、その建て網にモブシという大きな魚がかかったので、食べるようなら取りにこないかという連絡でした。

 今日の朝は天気は良いものの放射冷却現象の影響でしょうかとても寒く、手がかじかむほどでした。行って見ると既に船から引き上げられてプラスチックのトロ箱に氷詰めされていましたが、蓋を開けて見ると私もかつては漁師をしていたこともあって、この手の魚は自分で獲ったりお目にかかったことがありますがかなり大物でした。

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(長いトロ箱の中に入りきらないようなコブダイ)

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(まるで恵比寿大黒様のようなユーモラスな顔をしたコブダイ)

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(料理を前にデジカメを取り出して自動シャッターで一枚撮りましたが、手に応えるほどの重さでした)

 往復30分で自宅へ帰り、早速調理をしようと思いきや、背広の仮縫いのために洋服屋さんがやってきたり、友人の稲葉さんがやってきたり、はたまた親父が剪定枝を畑で焼却処分するから手伝うようにとかで、結局調理に取り掛かったのは9時を回っていました。

 あらかじめ妻が用意をしてくれた出刃包丁やまな板、鱗引き、パレットなどを使って裏庭に設えている流し台で格闘を始めました。退職後魚の調理は折に触れ妻の求めに応じてやっているのですが、別名ブダイやコブダイといわれるこの魚は、鱗の大きさも半端ではなく、冷たさで手がかじかむこともあって悪戦苦闘の連続でした。

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(出刃包丁でコブダイの調理に挑戦しました)

 それでも使い慣れてる出刃包丁の力を借りて何とか40分ほどでかたがつきました。身も分厚くアラや頭、それにヒハラも半端な量ではなく2つのパレットにいっぱいになりました。身は刺身、アラは煮付け、ヒハラや頭は鍋物にして食べようと思っていますが、今晩の夕食がとても楽しみになってきました。量が多いので姉や友人におすそ分けしてやろうと思っています。

 料理をする前にやって来た稲葉さんに見せたところ是非写真に撮らせて欲しいと言われ、お互いがお互いのデジカメで記念写真を撮り合いました。形あるものは壊れたり消えたりしますが、この大魚も私の手によって形は消えうせ、冷蔵庫へ入ってしまいました。今夕は妻の手で料理され私たち家族の胃袋に納まるものと思われます。その点記念に写した一枚の写真はほんのさっきが、すでに過去となった生き証人として残るのですから凄いものです。

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(稲葉さんが撮ってくれた記念写真)

  「コブダイを 叔父から貰い 調理する 海の中には 凄い奴いる」

  「今晩は 刺身に煮付け 鍋物と 頭に描き 包丁使い」

  「漁師名は モブシというが 学名は コブダイ・ブダイ 色々あって」

  「かじかんだ 指を暖め 調理する 俺も立派な 役立ち亭主」

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