shin-1さんの日記

○エコー検査の結果まだ賞味期限はあるようです

 「若松進一さ~ん、病室へお入りください」。偶然にも子どもの頃から顔見知りの看護婦さんに呼ばれ病室へ入りました。一年に二回のエコー検査をもう10年もやってきているのでこちらも馴れたもの、脱脱いだ衣類を脱衣籠に入れ、上半身裸の状態でベットの上に横になりました。やがて検査技師さんがやってきて、「少し気持ち悪いかも知れませんが、直ぐに終わりますので我慢してください」といって、早速検査を始めました。

 ベットに横たわった私に検査技師さんは、パソコン画面に映し出される映像を見ながら、「はい、大きく息を吸い込んで~。はい、そのまま息を止めて~。はい、息を吐いてください」と、何度も繰り返すのです。腹にはゼリーのようなものが塗られ、エコーのカメラが何度もその上をこする度にヌルヌルとした気持ち悪さに、検査技師さんが最初に断ったように少し不快な気持になりました。

 横になったりしながら何ヶ所か検査をしていましたが、やがて検査技師さんは「エコーでは悪い所も見つかりませんでした。後は主治医の診察を受けてください」といわれ、看護婦さんは熱いお絞りで丁寧に腹の部分に付着したゼリーを拭きとってくれました。看護婦さんは私と出会ったのが余程嬉しかったのか、「進ちゃん、実は私おばあちゃんになったのよ」と唐突に小声で話しかけてきました。「ほうそりゃあ、おめでとうございます。孫は男の子?」「えっどして分かるん?」「そりゃああんたの話を聞いただけで分かるがね」「「進ちゃんは凄い眼力じゃねね」などと、当てずっぽで言ったことが本当に当たってしまっただけなのに、会話は弾みました。

 やがて内科受付を済ませて待っていると、エコー10時、内診10時30分なのに、10時20分にはもう診察室へ呼び込まれたのです。先生とは長い付き合いなので、雑談の方が多く、肝心の健康診断の話など殆どしないのです。「大学の講義は上手くいってますか。私などはお話ししても中々上手くいかず、少し早く講義を終わって学生の点数を稼ぐくらいしか芸がありませんが、その点若松さんは話がお上手だから」と持ち上げれれました。

 次回は5月29日午前8時30分に予約を入れますが大丈夫ですか。次回は血液検査を予定します。血圧も62と102ですから申し分ありません」「ありがとうございました」「はいお大事に」であっけなく終わりました。別れ際「あと2ヶ月は賞味期限がありますからご安心ください」と笑って別れましたが、楽しい先生で思わず噴き出し笑ってしまいました。私にとって二ヶ月に一度の定期健診は、胆のう摘出手術以来やっている恒例行事のようなものなのです。胆のうの周辺には様々な臓器が集中しているため、検査が必要なようですが、今のところ異常は見つかっていないようです。

 ロビーで支払いのため呼び出しを待っていると、私の顔見知りの方が何人か声をかけてくれました。「若松さん、どこが悪いの?」とか訪ねるのです。私はその都度同じような話をしなければならず、顔の広い(笑い)のも善し悪しです。それでもロビーで出会う人の中には糖尿病だとか肝臓が悪いとかいう人が何人もいて、深刻そうに自分の病気のことを話してくれるのです。その人たちの話を聞くにつけ病気にならないようにしなければと肝に銘じるのです。

 「健康は自分が自分に送る最高のプレゼントである」と、鈴木健二元NHKアナウンサーが言っていた言葉を思い出しました。確かに病気は不可抗力的なものもありますが、大体は自分で注意をして暮らさないと健康は保てないものなのです。少し運動不足の感じもしているので、注意したいと思っています。

  「二ヶ月は 賞味期限が 切れないと 医者の言葉に 少し安心」

  「エコー撮る 見えない腹の 中までも 見てきたように 異状なし言う」

  「俺の腹 エコーの画面じゃ 腹黒く 写っていたぜ 妻は納得」

  「おばあちゃん なったと聞きも しないのに 笑顔で話す 破顔一笑」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道

 先日久しぶりに時間があったので、海岸国道沿いに車を止めて人間牧場まで歩いて登ろうと思い、歩き始めました。普通人間牧場へ行くのは奥西周りと下浜周りの道があって、いずれも車で奥西周りは15分、下浜周りは

10分程度かかります。どの道もつづら折りのため急峻な山肌を縫うような狭い道です。今回たった一人で登った山道は下浜周りの山道をさらに縫うように直線で延びる昔の間道なのです。登り口で顔見知りの近所の人に会いました。「まあお珍しい。若松の進ちゃんじゃないですか。何をしているの」と声をかけられ、「はい、久しぶりにこの坂道をあることと思いまして」と答えると、「さあ歩けるかねえ。道も荒れていますから」と不安な言葉が返ってきました。

 JR予讃線海岸周りの下の隧道トンネルを抜けるともういきなりの急な坂です。斜面にはカタバミのような正式名前も知らない黄色い花がいっぱい咲いて春を演出していました。少し上がると高台を走る予讃線の線路に出ました。運よくそこにマッチ箱のような列車が通りかかりました。普段は遠目で見る可愛らしい一両だけの列車でも傍を通るとまるで黒い鉄の塊のような迫力でした。この辺りから下灘小学校辺りまでの線路は急峻な地形のこの町では珍しく一キロ以上にわたって一直線の線路が続いているのです。子どもの頃はここを蒸気機関車が走りましたが、急峻な地形なので列車もタジタジで、私たちは悪ふざけて、列車が速度を落とすと後ろに回ってすがりながら一緒に走ったり、時にはレールの上に耳をつけて列車の走る音を聞いたりしたのです。また線路沿いの斜面には野イチゴやイタドリがやたらとあって、食い物の少なかった少年時代は線路近くが恰好の遊び場でした。

 少し登るとお地蔵さんがありました。地元の人がお祀りしていて、下から登っても上から下っても、ここは丁度いい具合な大きい石がまるでベンチのようにあるので休憩地点なのです。かつて労働のために同行して何度となく一緒に登った祖母や母は、ここで荷物を降ろしてひと休みする間、お地蔵さんに手を合わせてお参りしましたが、私は傍の大きなクヌギの木の穴を見つけてクワガタやカブトムシを探していました。

 肩や腰の疲れが取れると再び歩くのですが、体のなまっている私には、背中に何の荷物も背負っていないのに額にはもう汗が滲み息遣いが荒くなってきました。この辺りの斜面の上には私の家の畑が沢山ありましたが、母亡き後は荒れるにまかせて、すっかり雑木に覆われていて少しばかり心が痛みました。


 やがて車道と交わる最初の地点が見えてきました。ここにもわが家の農地があり、4年前耕作目的で全て下刈りしたものの断念せざるを得なくなった畑が、同じように雑草に覆われていました。10年前にこの地に弟や従弟などが許可を得て墓地を造りましたので、見違えるような変身ぶりです。この辺りから見返ると眼下に海が開けて登りながら汗を拭く度に嘘炉の景色を楽しめるのです。

 2度目の車道と交わる所まで登ると人間牧場はもうすぐで、水平線の家の建物が見えてきました。歩くこと30分でやっと到着です。昔は大間道で荷車も通ったし通学路だったのですが、最近はこの道を歩く人も殆どなく荒れるにまかせているようでした。

 でもこの道は母と歩いた、いわば「この道はいつか来た道」なのです。「♭この道はいつか来た道 ああそうだよう お母様といつか来た道♯」という歌の文句ぴったりの道なのです。わずか30分でしたが、歩きながら久しぶりに母の思い出に浸ることができました。人間牧場で少しの間過ごし再び元来た道を下山開始です。あれほど難儀をして急な坂道を登ったのに、同じ道だというのに、まるでウサギや子犬が走るがごとくぴょんぴょん跳ねるように僅か10分足らずで下山しました。

 少しくたびれましたがいい経験をしました。またいい母の供養にもなったと満足です。せめて年に一回くらいは歩きたいものですが、この日の自分より若い自分はないのですから、危ないかも知れません。春のいい一日でした。

  「春の日を 楽しみながら 登り来る 母の思い出 随所にありて」

  「この坂は 背中に背負子 荷をかるい 汗かき幾度 往復したか」

  「道脇の 地蔵菩薩は 今もなお 昔変わらず 微笑みたたえ」

  「この坂の ような人生 過ごしたが 今は下りの スピード早く」

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