○田舎の変化の中で
田舎のあちこちに空き家が目立つようになりました。私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、貧乏ながらみんな純朴で、人の活気が村々に満ち溢れていました。私たちが過ごした青年期もやはり同じようにみんな楽しい日々を将来の夢を見ながら暮らしていたのです。
あれからそんなに時間は経っていないと思うのに、今の社会には不景気や閉塞感が漂い、自分の住んでいる町でさえ何か縮んで行くような感じがするのです。人口が減って過疎化が一段と激しくなり、高齢化が進んで手押し車を押して歩く老人が増えてきました。また子どもの歓声が聞こえなくなり、学校は空き部屋が目立って来年度からは、わが母校である中学校が廃校になろうとしているのです。商店街はまるで歯抜けで買い物や食事すら満足にできないようになりました。街の中心であったはずの役場や農協、商工会も合併支所化して、この町に住むことの不安や将来への不安をを誰もがブツブツ「町が潰れる」と、諦めの言葉を述べているのです。
数日前えひめ地域政策研究センターの出向研究員が、この春出向元へ帰るにあたって、研究の成果や心情を発表する会に参加しました。その席で考えさせられる話を聞きました。
〈豊かさと幸福を問い直す〉
第二次大戦後、わが国は豊かな国となり、人々が繁栄と呼ぶ状況を生みだした。
私たちは、あまりに簡単に幸福になりすぎた。
人々は、それは公平であるか否かを議論した。
私たちは戦争を回避し、工場を建設し、そこへ農民の子どもが働きに行った。
農業社会は解体され、私たちの国は新しい国になったが、人々が本当にわが家にいるといった感覚をもてたか
どうかは確かでない。
1950年から60年に至る10年間に、毎日30戸の小農家が閉業するというスピードで、わが国の農業が終焉し
た。
人々は大きな単位、大きなコミューン(市町村)を信じ、都市には将来にわたって労働が存在すると信じた。
私たちは当然のことながら物質的には豊かになったが、簡単な言葉でいえば、平安というべきものを使い果たし
た。
私たちは新しい国で、お互いが他人同士となった。
小農民が消滅するとともに、小職人や小商店が、そして、病気のおばあさんが横になっていたあの小さな部屋、
あの小さな学校、あの子豚たち、あの小さなダンスホールなども姿を消した。
そういう小さな世界はもう残っていない。
小さいものは何であれ、網けが少ないという理由だった。
なぜなら、幸福への呪文は〈儲かる社会〉だったからだ。
スティーグ・クレッソン(Stig Claesson)
この文章を読んで私はショックを受けました。外国の状況を書いた文章なのに今の日本の現状に、余りにもぴったり当てはまるからです。私の住んでいる田舎は最早自助努力で地域が活性化できるような余力はもう殆ど残っていないのです。にもかかわらず政府や自治体は、相変わらず参画と共同などと言葉では言っていますが、こんな田舎を見捨てようとしているかのように見えるのです。
私は小さな町の小さな役場に35年間も勤めました。そしてこの町を何とかしたいという思いからその大半をまちづくりという仕事に深くかかわってきました。私が役場を辞めてからまだ4年か経っていないのに、地域はこのあり様で縮んでいるのです。
焦る気持ちと諦めの気持ち、そして私だけでも何とかしなければという使命感の交錯する中で今を生きています。私に残された時間はあまりないかも知れませんが焦りや諦めよりも使命感に燃えてもう一度アタックしたいと、清水さんの話を聞いて思いました。
「ふるさとが だんだん縮み このままじゃ おいおい細り 消える待つのみ」
「平安を 使い果たして 平気なの? 子や孫今後 何を縁に」
「日本人 儲かることを 追い求め 心を捨てて 生きてきたかも」
「不幸だと 言葉じゃ言うが 幸せよ 飯も食えるし 年金だって」