shin-1さんの日記

○言うは難し行うはなお難し

 古いことわざに「言うは易し行うは難し」というのがあります。言うことは簡単だがやることは難しいのだそうです。しかし私流に考えれば「言うことは難し行うはなお難し」です。私は最初人の前で5分の挨拶が難しいくらい靴下手でした。ゆえに何とか人前で話せるようになりたいと念じて、人前で話す時は手間暇かけて原稿を書きあげ、その原稿を宙で話せるように覚えたのです。でも結果は覚えたことを忘れないようにすることだけに集中して、結局は余裕のない味気ない話になって、他の人の話術に比べながら自分の愚かで浅学な能力を悔んだものでした。それ以来私の心の中は「上手く話したい」「上手く話すためには」がグルグル回り、結局はその場の雰囲気で話す術を身につけ、やっと人前で話す苦難から解放され、今日を迎えているのです。そんな私ですから言うことはさして苦にならなくなりましたが、さて自分の行動に対比した話をする、つまり自分のやるべきことを言葉にすることは容易なことではないとしみじみ思うのです。

 たとえば私は「人間牧場を作りたい」と友人たちに漏らしました。その言葉は仲間から仲間へ口づてに「若松さんはどうやら人間牧場を作るらしい」と噂話が広がるのです。もし私が人間牧場を作らなかったら、「若松という男は口ばかりだ」と悪評が広がるでしょう。私は公言どおり人間牧場を作りました。結果的には「若松さんは凄い」という話になっているのです。また高知県馬路村産魚梁瀬杉の年輪にあやかった創作落伍150話への挑戦も、ある意味「言うは難し」ともいえる話でしたが、公言しているゆえに止めるに止められず、タダ今夕やけ徒然草地の書・水の書と60話まで作り、今後の行方に暗雲が立ち込めているものの、「行うはなお難し」を実感しつつ何とか目標どおり歩んでいるのです。

 言うことの難しさ、行うことの難しさを合わせて感じる今日この頃ですが、最近友人から「若松さん、あなたの今後の望みは何ですか?」と挑発的な言葉をかけられます。その挑発に乗ってうっかり喋り、行動を起こしそうな雲行きを見ている妻は、「お父さん、もう余り無理をしないように」とか、「私を巻き込まないように」と先手を打ってきますが、自分でもそのことは心得ていて、気力と体力のバランスを考えた言動をしなければならないと肝に銘じているのです。

 私の当面の目標は、85歳まで生きることですから、そのためには心も体も鍛えなければなりません。そのためには体にいいことはやるが体に悪いことは止めるよう心がけています。これだと「言うも簡単やるも簡単」とばかり思っていました。ところがこれも中々難しいことが分かりました。私は余り外食が好きではありません。つまり妻の作った家庭料理が一番と思って暮らしていますが、この数日夜の集会が続いて食事の門限を9時と決めているにもかかわらず、10時過ぎに帰宅して食事をする日が一週間続きました。自分でも可笑しいと思いつつ背に腹変えれぬために夜遅く食事を取ったのです。お通じや体の調子が今までと少し違ってきたようなので改めましたが、そんな小さな隙間を病気は見逃さず、下痢になったりジンマシンが出たり散々でした。今は元の体に回復しましたが、生活のリズムを狂わさないようにしたいと深く反省しました。

 明日から徳島県・新潟県・島根県と長旅が続きますが、体調だけは管理して望みたいと思っています。

  「言うことも やること更に 難しい 幾つなっても 奥行深く」

  「公約を 自分に科して 生きている 約束多く アップアップで」

  「もし俺が 有言実行 しなければ ただのおっやん 相手にされず」

  「偉い人 みんな言うこと やっている だから偉いと 誰も認める」

 

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shin-1さんの日記

○国際ワーキングキャンプ交流会に参加しました

 愛媛県の西端に13里(1里が4キロですから52キロ)の細長い三崎半島があります。かつては陸の孤島といわれ、松山や八幡浜から連絡船で行かねばならないほど遠い地域でした。しかし今は三崎半島の背骨にあたる頂上に、潮風メロディーラインが抜けて、私の町から旧三崎町の中心地まででも1時間半も走れば簡単に行けるような便利な世の中になったのです。

 余談ですが、私の祖母は三崎半島の中ほどにある旧瀬戸町小島の出身で、私が三崎半島やここに暮らす人たちにどこか愛着を覚えるのは、私の体内に流れるDNAのせいなのかも知れないと、密かに自分で思っているのです。

 先日友人でえひめ地域づくり研究会議事務局の松本宏さんを誘って、旧三崎町平磯地区で行われた喜久家国際ワークキャンプ交流会に参加しました。三崎町を知り尽くしているような顔をしている私ですが、釜木地区や平磯地区は若いころ船で沖合いから何度となく眺めているものの、陸道で尋ねるのは初めてとあって、国道から瀬戸内海側の入り江に続く4キロの道は釜木や平磯の集落、瀬戸内海の海が見え隠れし興味深々でした。
 

 平磯は一口で言うと青石に囲まれた生活文化漂う村という感じでした。かつて私は三崎町の名取という集落を訪ねたことがあります。青石分館を研究する集会に招かれ参加しましたが、宇和海に面した名取地区は、仙台伊達藩が宇和島に分家した時仙台から一緒にやってきた人たちの暮らしが色濃く残る飛び地のような集落だったと記憶していますが、名取の背中合わせのように瀬戸内海側に位置する平磯も同じように青石に囲まれた地区でした。夕方7時からのご案内だったのですが、知らない土地なので5時に着くよう出かけましたが、この日は土曜日だからなのか国道は空いていて、4時前に出たのに1時間余りで到着しました。杉や槇の防風垣はどこも気持ちがいいくらい立派に剪定されていて、ホ来その人たちの勤勉さが分かりました。道端の狭い場所に車を止め、携帯電話で連絡を取り迎えに来てくれた浅野洋海さんのお家にお邪魔しました。そこでこの日のチームリーダーにお目にかかり、興味のあった喜久家という、外国人が暮らす古民家を訪ねました。そこここに海岸から背負子に背負って海岸から上げて積んだと思われる石垣に沿ってやはり石張りの細くて急峻な道を登って行きました。この地区は民家へは車道が殆どなく、歩かなければならないのです。

若松進一ブログ (民家を縫うように歩いた細い石段)
若松進一ブログ (塀は殆どがこのような緑色変石の青石が見事に積まれていました)
若松進一ブログ (古民家を利用した喜久家の玄関、玄関脇には道祖神が祭っていました)
若松進一ブログ (民家の中庭は石垣で囲まれ、平たい石が敷き詰められています)

 集落の中ほどに目的の民家はありました。石垣に囲まれた門付きの立派な家です。中に7~8人の外国人がいて、丁度夕食時でしたが、愛想よく出てきて、チームリーダーや洋海さんを介して紹介を受けたものの、残念ながら名前を覚えるほどの余裕はありませんでした。彼らはここで集団生活をして農作業をしたり日本文化に触れたりしながら約1週間の国際ワークキャンプというプログラムをこなしているのです。共通の言語は英語だそうですが、まるで地球各国の代表選手が集まったような感じのワーキングホリデーとも思えるキャンプでした。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
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 夕方からの交流会は地元や遠く松山からも30人もの知人友人が集まり、かなりバラエティに富んでいました。しかし嬉しいことに合併して伊方町になった伊方町の田舎へ伊方町の都会(笑い)から何人もの若者が集まって、それは賑やかな交流会でした。私はふと青年の船に乗ってアメリカやメキシコに出かけた時の千ないキャビンでの交流を思い出しました。まさにあの時と同じで人種や言葉や年齢が違っても若者同士はボディランゲージですぐに理解しあえるのです。残念ながら私たちは明くる日の予定もあるので9時半ごろにお暇しましたが、後ろ髪惹かれる思いの交流会でした。

 この交流会を仕組んだのは平磯で農業を営む浅野洋海さんと、三崎中学の教員である浅野長武さん兄弟です。兄さんの浅野長武さんとは国立大洲青少年交流の家に勤務していた時に知り合い、浅野洋海さんとは特産品開発の会議で知り合い夜遅くまで話し込んだ旧知の間柄です。彼ら兄弟はこのままだと自然消滅しそうな限界集落を何とか活性化しようと喜久家プロジェクトを発足させました。そして様々な人を巻き込み様々な活動を行っているのです。彼ら兄弟に完敗、乾杯です。


  「佐田岬 胸が騒ぐは DNA 祖母はこの土地 生まれて育ち」

  「石垣の 一つ一つに 先人の 生きた証の 血と汗にじむ」

  「若者は 国や言葉が 違っても すぐに打ち解け 笑顔で話す」

  「ああ今日も 出会いの人の 多くあり ほのぼの帰る 頂上の道」

  

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