shin-1さんの日記

○和歌山に行って来ました

(和歌山城の三分咲きの南高梅)

 この頃、世の中「近くが遠くに遠くが近くになった」としみじみ思います。私のように全日本的に動いていると、ついつい隣近所の人と疎遠になって、近い情報が入らなくなって身近な情報が遠くなったなあと感じる反面、遠い土地でありながら和歌山へちょっと無理をすれば日帰りで仕事が出来るのですから近くなったものです。

 今日も和歌山での講演に招かれ出かけました。講演会は午後からなので急ぐこともあるまいと和歌山城を散策することにしました。和歌山城はもう何度も訪ねていて、知り尽くしているような感じがするのですが、こうした歴史あるものは訪れる季節や気分によってかなり違った捉え方が出来るので、木になるカバンを提げてのんびり歩きました。冬の寒さのせいでしょうか訪れる人もまばらで、時折すれ違う人は健康のためのウォーキングや通勤を急ぐ人たち程度でした。

 堀に映る石垣、コモ巻きをした老松はお城ならではの景観で、城門にかかる太鼓橋や白い塀は歴史の重みを感じさせてくれました。城門の中に入ると冬の寒さの中で水仙の花が咲き、梅の産地らしくそこここに植えられている南高梅が三分咲きながら馥郁とした香りを漂わせていました。

 坂を登りながら見上げる天守閣は場所場所によってその姿や表情が変化し、素晴らしい眺めです。

 沢山撮影した中から以上三枚の写真を選びましたが、御三家紀州徳川の威容を目の当たりにして、高く聳える郷土松山城にはないものを感じました。

 お城にはあちこちにわき道や幾つもの城門があって、上がる路や城門によってその趣きが全く違い、飽きさないのも城山の魅力でしょう。特に急に発見した忍者返しの道や石垣に意味ありげな文字を発見するとまるでミステリーの世界へ迷い込むようなワクワク・ドキドキが感じられるのです。

 民俗学者宮本常一は旅をしたならまず高い場所に登り全体を見るよう心がけたといいます。私も常一の教えに習い真っ先に城山に登って太陽の位置から東西南北を見ました。県庁の直ぐ近くに今日の会場となる自治会館があると聞いていたので、そちらの城門を目指しました。迷うことなく県庁へ到着できたのはそのお陰だと思いました。

 県庁は城山の近くにあり、比較の対象である愛媛県庁を頭に描きながら写真を撮り、正面玄関から中に入りましたが、古さは中々のものです。

 少し時間がるので県庁の前の県民文化ホールで展示物を見学しました。興味をそそったのは若い刀鍛冶の作刀風景の展示でした。わが家にはかつて多い時は10本もの刀がありましたが、兄弟や親類に分配したため今は5本ほどか残っていませんが、刀のできるまでの行程が写真や文章、それに映像で展示されていました。抽象画と一緒の展示だったのですが、絵の分らぬ私はもっぱら刀の展示に集中し、芳名録に署名して館外に出ました。運良く担当の橋口さんから携帯が入り文化ホールの前で無事落ち合うことが出来ました。

 そのご担当課に通され気さくな有田室長さんや愛媛大学を卒業し和歌山県庁に勤めている南出さんや池永さんと面談し愛媛の話しに花を咲かせました。

  「何度でも 来たい和歌山 城あたり 一人散策 嬉し休息」

  「県庁は 古き歴史を そこここに わが県庁と 対比しつつも」

  「梅一輪 咲いて和歌山 春を知る 鼻を近づけ 花の香匂う」

  「玉鋼 鍛えし刀 見る度に 伝統文化の 深き味わい」


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shin-1さんの日記

○健康は習慣

 毎日朝が来て夜で終わる。三度三度のご飯を食べて働き、時には旅行をして遊んだりスポーツで汗を流す。酒やコーヒー、スイーツなど好きなものを飲んだり甘いものを食べたり、友達に会って楽しいおしゃべりをする。一生の三分の一は寝る時間といわれるように睡眠も人並みに取る。まあこんな感じで何気なく、殆ど無意識のうちに一日が終り一年が終る。そんな平凡な暮しを幸せだと意識もせずに63歳の今日まで年齢を重ねて来ました。

 私と四十年近く同伴し、同じ屋根の下に住んで同じ空気を吸い、同じ水を飲んで暮らし、同じものを食べ、同じ布団に寝てきた妻がいますが、どういう訳か全く同じであるはずの妻でさえ、健康状態は私と違うようです。

 40数キロだった妻は小太りに肥え、私が病気したこともあって現在の体重は風呂に入って増えるお湯の量で推測するとだいたい妻と同じくらいです。私の体重は最大67キロくらいの時期がありました。その頃は愛飲家で特にビールが滅法好きで、夏など晩酌はビール大瓶2本などを飲んでいたのです。若い頃は飲んだり食べたりしてもそれは殆ど消費されて後に残りませんでしたが、年齢を加えるに連れて蓄積されていたようです。

 松山市内で飲むことの多かった私は、飲み代は工面しても帰るタクシー代の工面がつかず、もっぱら10円タクシーと称した妻の運転する車に乗って帰り際、小腹が空いたと国道沿いのラーメン屋に立ち寄り、仕上げに大ジョッキを一杯飲んで帰宅したものです。あんな暴飲暴食を今まで続けていたらどうなっていたのだろうと思うと、ゾッとするのです。

 今は病気になった体の都合できっぱりと酒を断ち、これくらい食べ物に気をつけたら病気なんかする訳がないと思えるほど品行方正な亭主になって、妻を喜ばせているのです。特に酒を飲んでいた時は食事の時間がやたらと長く、最後は妻がそっとテレビのある居間へ移動する有様でしたが、今は「エッ、もう終わったの。もっとゆっくり食べて」と、逆に引き止められたりするのです。

 「酒を辞めるくらいなら死んだ方がましだ」と豪語していた私の暮しは8年前の病気、それに退職という大きな節目を経験してからすっかり様変わりしました。酒を飲む習慣から酒を飲まない習慣にまるで180度の方向転換です。私の友人には胃を三分の二取ったという人がいたり、糖尿病だったりで酒を辞めるようお医者さんに言われているにもかかわらず、酒を飲みながら薬を飲んでいる人が沢山います。その人たちの奥さん方から、「主人に体の事を考えてお酒を辞めるように言ってください」と頼まれるのですが、私は「奥さんが言って聞かないのですから私の意見など聞くはずがない」とよく言ってやるのです。そして「もう諦めて葬式代の工面と出来るだけ高い保険に入って、死んだ後自活できるような工面をした方がいい」と悪ふざけで勧めるのです。

 今頃になってしみじみ「健康は習慣」と思うようになりました。新聞の片隅に「お金を稼ぐのは簡単だが体重を落すのは大変だ」と書いているのを見て、なるほどとうなずいたものです。

 日々の暮しの何気ないコツコツした習慣、例えばタバコを飲むことやお酒を飲むことが体を害し、ラジオ体操や野菜・果物・魚を食べる習慣が体を健康にしてくれるのです。

 さあ始めよう。健康に生るための習慣を。

  「健康は 金で買えない ものだから 毎日コツコツ 体にいいこと」

  「始めよう ニコ・ピン・コロの 人生を 見本は長生き している親父」

  「あれ程の 酒を止めたと 人前で 私を褒める 妻の偉さよ」

  「質素でも 妻の手づくり 餃子食う 形違うが 食べれば一緒」 

 

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shin-1さんの日記

○大根の首切り

 昨日外出先の島根県益田市からわが家へ帰り、久しぶりに家の側の家庭菜園に出ました。菜園は殺風景ながらもう春の装いに変わりつつあり、あちこちに緑色の濃いハコベがはびこってきました。その中で一際目につくのが大根の畑です。一瞬何事が起きたのか目を疑いました。先日まで青々としていた大根畑の葉っぱが全て切り落とされてなくなり、まるで髭剃り後の私の顔や首のように、青首だけを寒々とさらしているのです。

 親父の隠居に行くと親父が「もうそろそろ大根もトウが立つので首を落とした」というのです。「トウ」とは花を咲かすための大根の芽伸びのことで、大根は子孫を残す作業として花を咲かせ実を稔らせるのです。しかし大根が「トウ」を立てるには、地中にある養分を吸うのではなく、地中に埋まった自らの養分で「トウ」を立て花を咲かせて実を稔らせるのです。そのため大根に「トウ」が立つと、大根は「ス」が入って繊維だけが残り食べられなくなるのです。葉っぱを落すと大根の成長変化が止り瑞々しいままの大根が春まで食べられるのです。誰が考えたのかは分りませんが、大根の首切り作業はどの家でも行っている春先の作業なのです。しかしこんな田舎でも家族の数がめっきり減って大根をそんなに沢山植える人も少なくなって、今では首切り大根を見かけることも少なくなりました。

 親父はこのところの寒さを利用して切干大根を作ってくれました。最初に作った切干大根は既に仕上がっていて、冬の寒風に晒されたものが沢山出来上がり、ナイロンの袋に入れて収納しました。親類や近所におすそ分けのつもりでしょうか、昨日はまたひとサナ作って干していました。

 この時期しか出来ない切干大根は大根がなくなる春先から秋口まで年中食べることが出来るのでわが家では重宝して食べています。私に時間的余裕が出来たらもう少し作って欲しいと妻は私にせがむのですが、今のところ「そんな暇はない」と言い張っています。というのもこのところの寒さですから正直なところはおっくうなだけなのです。大根を引き抜いて身を切るような寒さの中で水洗いするのも、その大根を包丁で切り刻むのも面倒臭いのです。でもその手作業を親父は誰に恩義を着せるでもなく毎年黙々としてくれるのですから、頭が下がるのです。

 昨日の夜は久しぶりに大根サラダを食べました。この一週間わが家を開けていて、どちらかというと野菜不足の食事になっているようでした。勿論一昨日私のために益田で開いてくれた寺戸さんや大畑さん、岩井さんたちとの懇親会でも居酒屋で大根サラダを食べさせてもらいましたが、「食べた」という感触はやはり妻の作った大根サラダが一番なのです。昨日は新鮮なトラハゼの刺身が食卓に用意され、史談会の定例勉強会が終わり帰ってからの遅い夕ご飯となりましたが、妻と二人他愛のない話をしながら食べました。

 大根心という大根にちなんだ芸名もつけて名実ともに大根のお世話になって日々を楽しく暮らしています。大根の薀蓄をもっと学んで「大根博士」にでもなりたいものです。

  「大根の 首落されて 寒々と これも大事な 作業の一つ」

  「大根の 芸名いただく この身ゆえ 効能あやかり 薀蓄しゃべる」

  「切干は 年中食べる 保存食 手をかじかめて 親父手づくり」

  「大根は 生良し煮て良し 三昧の 食べ方楽し 今夜はおでん」

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shin-1さんの日記

○小さな小石

 小さいから小石というのであって、「小さな小石」という表現は余り適切ではありませんが、先日地域づくり団体全国大会の分科会に参加して、ひたちなか市へ出かけた折、太平洋に面した白亜紀というホテルに宿泊しました。朝日の見学を兼ねて朝の散歩を楽しもうと灯台のある場所から急峻な階段を下りて石ころだらけの海岸に一人下りて行きました。下から見上げる白亜の灯台は威風堂々として、沖合いを通る船舶に行く手を知らせているようでした。ふと子どもの頃に見た「喜びも悲しみも幾年月」という映画を思い出しました。そしてポケットに忍ばせたハーモニカを取り出して、すっかりナツメロとなった歌を吹いてみたのです。太平洋に向って吹くハーモニカの音色は実に清々しく、燈台守の苦闘を描いた映画のシーンが蘇えり、少しセンチメンタルになりました。デジタルや人工衛星を使ったGPSが普及し舟の航海術も随分様変わりしましたが、日本中にはまだまだ沢山の灯台が人知れず活躍しているのです。

 足元には、白亜紀というホテルの名前が連想するように、足元を見やれば無数に穴の開いた石が歩きにくいくらいゴロゴロ転がっているのです。形のよさそうな孫の拳ほどにも満たない小石を一個拾い手の平に乗せてみました。中々味のある格好をしています。本当はもっと大きな気に入った石を採って帰りたかったのですが、泥棒にもなるし、飛行機までの道中が重くて大変だからと小さめに形の良い小石を選んだのです。

 私はよく旅に出ますが、その先々でその都度拳以下の小さい石を拾って持ち帰るのです。そして帰ると90歳になる親父に旅の思い出を話しながら小石をお土産に渡すのです。砂浜や瓦に沢山ある石はそんなに思わないのですが、気に入って一個だけ持ち帰り、座敷の隅の石を置いている場所に置くと何か宝物のように石それぞれが主張し始めるのです。

 私のように毎日旅をしていると、出かけた先々で土産を買うことは余程のことがない限りないのです。親父が妻に「息子がお土産を買ってきたことは殆どない」というほどですから想像通り無駄なことはしないのです。ましてやこのお金をかけないお土産という徹底ぶりは「ケチ」といわれても仕方がないのです。

 名も知らぬ海岸で拾ったこの石は、島崎藤村の「椰子の実」に似たように太平洋に面したひたちなか市の海岸に転がっていました。多分大きな石が波に洗われ他の石に擦られて丸くなり、柔らかい部分がまた波に洗われ無数の穴を開けたのではないかと思われます。これも私の旅の思い出として大切に保管したいと思っています。

 旅に行けば人にはそれぞれ思い出があります。昨日今日は覚えていてもその思い出はいつの間にか記憶の外に消えてゆくことでしょうが、この石を見る度にひたちなか市や茨城県を思い出すことでしょう。

 そうそう、私は63年間生きてきて、茨城県を「いばらきけん」と読むんだという事を全く知りませんでした。無知な人間の不幸は知る事によって避けられるのですから、それを知っただけでもいい旅でした。

  「茨城を いばらぎと読む 愚かさよ 点で駄目だと ギャグいい笑う」

  「虫が食う ような小石を ポケットに しのばせ帰る これが土産だ」

  「石一個 旅の思い出 凝縮し はるかに遠い 茨城思う」

  「また石か 親父不満の 一言を 聞きつつ隠居 座敷に飾る」 

  

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shin-1さんの日記

○久しぶりに夕日パークを訪ねる

 雪に見舞われた昨日とはうって変わって、今朝は穏やかな朝日が眩しく感じられる島根県益田駅裏のホテルで朝を迎えました。寺戸一朗さんの迎えの車が9時という約束だったので、朝シャンならぬ朝風呂に入ったりテレビを見たりして、久しぶりにゆったりとした朝の」時の流れの中で迎えを待ちました。

 やがて館長さんも一緒に広島まで送ってくれるといって、二人があの超豪華なジープタイプの外車に乗ってホテルの玄関までやってきました。

 昨日来る時に通った道は、7人のスキー客が遭難している恐羅漢周りの峠道のため、帰りは別の道を通ろうと、浜田市経由を選びました。浜田に通じる道沿いには私の町と同じように日本水仙の花があちらこちらに、今を盛りと咲いていました。「弁当を忘れても傘を忘れるな」と言われるとおり、浜田に差し掛かった頃には小雪交じりの雨が降り出し始めました。

 途中トイレ休憩のため道の駅の浜田パークへ立ち寄りました。この道の駅関係者とは昔、夕日が縁で何度か行ったり来たりしていましたが、その後は途絶えて何となく気になっていました。赤字が膨らんで経営が立ち行かなくなったというニュースを風の便りに聞いていたためどうしても立ち寄りたかったのです。道の駅はかつての面影は殆どないほどにリニュアールされ、海沿いに面した場所は若者向きのファーストフードの店になり、外観もまるで中国系のお店と見紛うほどど派手な朱塗りに変身していました。

 村おこしやまちづくりという目的で始めた全国の道の駅も、個性を見い出せないまま経営不振に陥ったり、指定管理者制度という訳の分らない法律で迷走を繰り返しています。どの道の駅も出来て10年から15年が過ぎると施設そのものが老朽化し、ましてや市町村合併という大きなうねりの中で人の思いも消え失せて、このままだと道の駅の半分以上が倒産や消える運命にあるようです。

 夕日パークは浜田の港町が一望できる絶好の位置にあり、道路も整備されているのに経営が苦しいとは、一般人から見れば不思議な話のようです。やがて高速道路が西に延伸して行くと、ここも単なる通過地点となる運命にあるのかも知れません。

 寺戸一朗さんの車は優れもので衛星放送テレビが受信できるようで、私の車などはカーナビについているテレビは見れたものではありませんが、凄く鮮明な画像が見えました。その画像に突然、行方不明になっていた7人のスキー客が恐羅漢の反対側である益田の林道で、全員生存が確認されたという朗報が飛び込んできました。2日間の捜索も空しく過ぎ、冬山の厳しい寒さを考えると諦めかけていただけに、わがことのように嬉しくなり、思わず車の中で拍手を送りました。昨日の昼過ぎ広島まで迎えに来てもらった寺戸一朗さんの車でその恐羅漢スキー場の横を通っただけに、気になって仕方がありませんでした。

 益田のホテルを出発してから3時間で高速道路を走り、無事船着場まで到着し、山陰の寒さと違った山陽の穏やかな日差しを三人で楽しみ、別れを惜しみつつ12時30分の高速船に乗り込みました。今日の海は強風波浪注意報の出ていた昨日とはうって変わって穏やかで、立春を過ぎた束の間の春を感じさせました。

 島根への旅も随分重ね、殆どの町や村にお邪魔し、多くの知人友人がいますが、遠い地でありながら思いが深いだけに近く感じています。近いうち益田市真砂地区の人たちが双海町へ遊びにやって来るようです。その日を楽しみにしながら、春を待ちたいものです。

  「雪山で 二日も過ごし 無事帰還 幸運不屈 ただただ驚く」

  「久しぶり 訪ねし陰の 道の駅 まるで中国 ここは中国」

  「その昔 夕日競った 間柄 今は出会いも 途絶えてしまい」

  「港まで 送りし友の あり難さ 山と海とへ 分かれて去りぬ」


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shin-1さんの日記

○今日から雪深い島根県益田へ旅に出ます

 ブログにこう書き記し旅に出ました。今回の旅の目的は二つです。広島県から島根県益田市に通じる191号沿線にある6つの公民館がこれから連携して地域の活性化を図ろうという館長・主事さんの研修会が午後2時から2時間半、さらに夜は午後7時から午後9時まで有限会社真砂という会社の経営会議です。友人寺戸一朗さんが仕掛けた会議なので、喜んで研修に加わる事にしました。

 有り難いことに広島の港まで寺戸さんと館長さんが遠路で迎えに来てくれていました。

 私が益田に行くと何故か天気が荒れ気味です。一回は大雪、もう一回は雷と大雨でしたから、寺戸さんからは「嵐を呼ぶ男」とまるで石原裕次郎のような呼び方をされてしまいました。その呼び名どおり今回も、191号線沿いにある恐羅漢スキー場では7人の人が行方不明になるなど大騒ぎしている場所を横目に見ながらの通り過ぎました。県境付近は大変な雪で、最初は珍しく右や左の窓を開けてカメラで写真を撮りましたが、そのうち同じような光景が続いて、カメラスポットで車を止めてもらい写真に収めました。

(車の中から見る国道191号線、行けども行けども雪道は続いていました)
(途中ロータリー除雪車に出会いました。ガードレールギリギリまで除雪を行い、ロータリーで切取った雪は勢いよく吹き飛ばされて、道沿いには雪の壁が出来ていました。その中を車が走るのですから、まるでスノーモービルの競技のようです)
(寺戸さんの車は優れもので、屋根が開いて外の景色が一望で快適でした。しかし寒さも加わり直ぐに天窓を閉めてしまいました)
(車窓に広がる一面の銀世界です。峠の頂上付近の景色です)

 道川の立派な庄屋屋敷を横目に観ながらやがて温泉センター近くの食堂で遅めの食事を済ませ、会場となる文化ホール会議室へ入りました。500の固定席を持つ田舎には過ぎるほどの立派な建物でした。会議室には4人の女性館長さんを含めた12人の方が勢揃いして、早速会議を始めました。何故公民館が地域の活性化について話沿うとするのか不思議に思いつつ、少しずつ公民館のあるべき姿とまちづくりについて解きほぐしながら話しを進めて行きました。小さな会議なので話す言葉も帰って来る反応も息がピッタリで、こんな会議をこれからも続けて人と情報のネットワークをしっかり取るよう話して締めくくりました。日本全国の公民館が合併によって危機的状況にあるだけに、皆さんのやる気はとても頼もしく思え、これからも支援する事を約束しました。

 それにしても会議で出されたホットユズの美味しかったことは格別でした。女性館長さんの笑顔も素敵で公民館はこの温かさと感動が売り物だと実感しました。

 益田駅の裏にあるホテルでチェックインを済ませ、真砂の公民館に6時過ぎに到着して、おばちゃんの作ってくれた押し寿司と山芋と豆腐の入ったつみれ汁をご馳走になりました。これも人の心の温かさが染み渡る美味しい味でした。

 夜の会議は過去8年間の売上高を示す一覧表を元に参加した出資者と役員が集まって会議を進めました。私も似たような第三セクターの経営を12年間手掛けただけに一目瞭然の指摘が出来ました。地域振興といいながら地域への貢献が不十分な会社が豆腐を主体にして経営することは大変な苦労です。特に食品の安全性や地産地消が問題になる時代ですから、何としても原料となる大豆の生産を地元で耕作しなければならない事を力説しました。米作万能な農家にリスクの大きい大豆を奨励してもみんなは最初から諦めているような雰囲気でしたが、それを動かすのが役員であり職員であり、私のような部外の支援者なのです。

 僅か2時間の短い時間でしたが、企業秘密になることが多く、このブログでは書けませんが、これからも支援する事を約束して会議を終わりました。


 地域には地域の、会社には会社のそれぞれ言うに言われぬ悩みがあるものです。それでも夢や目標をを持って努力すれば必ず道は開けるものです。人の意見に耳を貸し、心の窓を開ければ必ず成功するものです。出来ないのではなくやろうとしなければ道は開けないのです。

  「大豆から 豆腐を作る 村つくる やれば出来ると 心に決めて」

  「目標も ないのに会社 よくならぬ 緩やか成長 願っているが」

  「そりゃ出来ぬ やらない事を やれぬいう そこから先は 進まないかも」

  「俺もやる お前もやれと お互いに 少しやる気の ほのぼの会議」

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shin-1さんの日記

○小さなやかんは直ぐたたぎる

 秋田県へ出かけた折、パネラーとして同じステージに上がったJRの石塚友寛さんは筆まめな方で、時々季節の写真を添えて私の元へ便りを送ってくれます。パソコンが得意なのでしょうが今回は「隣家の屋根に出来た芸術品」と書いて屋根の白い雪をデジカメで撮影した写真をあしらって北国の冬の寒さや楽しみをさりげなく書いていました。石塚さんはとにかく几帳面で、私がどこかで講演した記録をしっかりと手帳に書き込んでいるのですから驚きです。多分今も石塚さんのメモはどんどん膨らんでいることでしょう。ふと送られて来た絵葉書を見ると、旧国鉄マンらしく、切手は列車をあしらっていて、いつまでも保管しておきたくなるような便りなので、早速ハガキファイルに収納しました。

 私の書斎には小さなストーブが置いてあります。冬の訪れとともに昨年の12月頃から使っているものですが、部屋が僅か4畳と狭いため、ストーブを点けると直ぐに暖かくなります。反面灯油の量も少ないため、時々忘れて油が空になることもあるのです。

 このストーブの上にステンレス製のやかんが置いてあります。このやかんは狭い部屋でストーブを焚くと湿度が不足して喉を痛めるため、蒸気を出し湿度を確保するために、年末に小遣い銭をはたいて買いました。三千円程度の小さなやかんです。したがって買い求めた年末から今日まで、まだ3ヶ月しか経っていないというのに、もう3回もお湯がなくなり空焚きをしてしまいました。ストーブの油はなくなれば火が消えますが、やかんのお湯は「少し焦げ臭いなあ」と思った時点ではやかんの中は焼け爛れてしまうので、うっかり物の私にはとても面倒が見切れず、今になって「もっと大きいのを買えばよかった」と悔やむのです。

 「小さなやかんは直ぐたぎる」という言葉を親父から聞いたことがあります。やかんを人間に例えての諺なのでしょうが、今になって思えば、私の事を小さなやかんに例えての諭の言葉だったようです。

 小さなやかん、つまり小さな人間は何につけ直ぐに怒る弱点があるのです。私の場合はその最たるもので若い頃は、仕事から帰って冷蔵庫にビールが冷えていないという理由だけで、妻に食って掛かったものでした。また友だちといい争いをしても直ぐにカッカして、殴り合いのような喧嘩もよくしました。結局は人を思いやったり辺りを見渡し思慮分別ができるだけの心の」余裕がなかったなあと、今頃になってその当時の自分の浅はかさを悔やむのです。

 私たちの身の回りを見渡してみても、そんな小さなやかんに似た人が沢山います。結局最後は自分の未熟さを恥じるのですが、これからは小さなやかんになることなく、大きな度量で生きて行きたいと思うのです。

 今朝も小さなやかんが書斎の隅でたぎり始めました。しかし小さなやかんにもいいところがあって、直ぐに感動するように熱くなるのです。この感動する心だけは見習いたいものです。

  「直ぐたぎる やかんのように 浅はかな 人間なるな 親父の言葉」

  「やかんまた 空焚き中は 空っぽに 蒸気も出ずに 外に出されて」

  「小さくも 感動だけは 忘れまい やかんのように 熱く燃えたい」

  「やかんより 熱湯注ぎ お茶にする 心和みて しばし休息」 

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shin-1さんの日記

○内子へ行く

 昨夜ぐっすり寝たお陰で昨日までの旅の疲れもすっかり取れて、今日は内子町東自治センターで開かれた自治活動発表会に招かれ、車で出かけました。車になって家の直ぐ前の大通りに出てあたりの山々を見てまず驚きました。里には雪がないのですが、何と牛の峰山や付近の山々は雪で真っ白に化粧をしているではありませんか。「しまった。さっき主催者である東自治センターの林さんから確認お電話があった折、雪の具合はどうか聞いておくべきだった」と後悔しましたが、まあ「行き着くところまで行ってみよう」と思い車を走らせました。曲がりくねった峠の道を登るほどに道沿いに雪が目立ち始め正直「やばい」と思いました。折りしも車のラジオは東京始めあちらこちらで雪が降って、飛行機も欠航が相次いでいるとのこと、また川内~西条間も高速道路が通行止めとかを知らせていました。

 しかしこの雪も局地的なもので、中山から内子には山の頂上付近には雪があるものの道筋には雪など降っていないのです。スノータイヤなど持っていないので助かりました。お陰様で要らぬ心配をしただけで30分も早く会場に到着しました。

 会場にはかつて内子町の助役をつとめた森長さんや旧友亀田さん大森さんなど多士済々で、役場の企画課長をしていた大野千代美さんも進行をつとめるなどまるで仲間内の会合のようでした。

 今日のテーマは「まちづくりからコミュニティビジネスへ」という比較的難しい話のテーマでしたが、何とか役目を終えました。合併も一段落しそれぞれの地域がそれぞれの地域づくりを行っていますが、過疎化の進行による限界集落の問題、少子化による学校統廃合の問題、第一次産業の疲弊による地域活力の低下など地方には自分達の力だけで解決できない大きな問題があるのです。にもかかわらず行政は合併という甘い夢や幻影に誘導しながら何ら手を打つこともなくそのまま放置しているのです。

 最早行政に文句を言うほどの気力や体力もなく住民は諦めの境地に入っているようです。でも宮崎県の東国原知事の口癖のように「どぎゃんきゃせんといかん」のです。行政を責めても鼻血も出ないのですから、宿命と考えず運命と考えて、ポジティブに生きる、そうすれば必ず道は開けると話しました。そして自らも金を出し経済活動をすればコミュニティビジネスはきっと生まれるのです。双海町の漁協女性部のおばちゃんも、菜の花の横に小さなお店を作った妹も、「楽しい」「新しい」「美しい」事へ挑戦したからこそ今生き生きと輝いて生きているのです。

 森長さんの奥さん艶子さんは、そのモデルのような方で、ペンション経営をしていますが、この度ペンションの日本のおかあさん百選に選ばれました。いつも笑顔を絶やさない素敵な方なのです。今日は講演後食事に誘われましたが、所用があって先を急いでいたため艶子さんに出会うことは出来ませんでしたが、コミュニティビジネスは、世の中が縮小すればするほどビジネスチャンスはあるものです。20世紀は田舎が都会に憧れてきた時代でした。21世紀は都会が田舎に憧れる時代です。パソコンなどの道具とも思える苦手なものを学習して見方に引き入れることが出来たら、その領域はどんどん広がって行くのです。いい時代になりましたよ。そんな話をしました。

  「雪山を 見ながら越える 峠道 ラッキーでした 降っていなくて」

  「何となく 暗いイメージ 冬の里 春はもう直ぐ 思えば楽し」

  「元酒屋 押し潰されて 悲しげに 泣いているよな 瓦の欠片」

  「この町も やがて消え行く 宿命か 古老寂しく 独り言いい」  


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shin-1さんの日記

○一日のリズム

 この3日ほど出張して、久しぶリにわが家へ帰りました。3日間は全国大会ということもあって、また次期開催県が愛媛県、しかもその実行委員長という大役もあって、用意した200枚の名刺がすっかり空になるほど全国の人に会いました。その都度「来年度はどうぞ愛媛県へお越し下さい」とPRに余念がありませんでした。私にとってこの3日は生活のリズムが狂いぱなしの日々で、非日常な出来事が3日も続くと、そのリズムを元の暮しに戻すにはかなり苦労があるようです。

 旅に出ると毎日の癖で朝4時に目覚めるまではいいのですが、同室の皆さんと同じリズムに合わさなければならないため、布団の中で6時頃まで過ごさなければなりません。約2時間物音も立てず空想にふける無駄な時間は、私にとって相当苦痛なのです。「家にいると今頃はパソコンを開け書斎でブログの一本もかいているかなあ」と思いつつ過ごすのです。

 夜もかなり狂ったリズムになります。酒を飲まなくなったせいもあるのでしょうが、家でいると10時頃から読書とブログの世界が12時まで続き、その後就寝します。旅先は夕食から12時までは完全に交流会です。地元の美味しい料理が出されるのですが、人がどんどんやって来て折角の料理を楽しむことも出来ず、お話に夢中になるため、食べるというよりは空腹を満たすような「餌」に等しい感じで食事を取るのです。茨城県はアンコウ料理が美味しいと聞いていいたので、出されたアンコウ鍋に手を出すのですが、ついつい食べ過ぎたり、その口直しにウーロン茶を何杯も飲むため、すべからくエネルギー超過で、お腹はパンパンの状態です。野菜や果物が不足するのか下のお通じが今一で、何となく不健康な感じがするのです。

 僅か3日間の生活の乱れは、私のような旅馴れた人間でも相当体のリズムが可笑しくなるのですから、同行した人たちのように夜更しをしてお酒を鱈腹飲んだ人たちにとっては、もうギブアップの状態で、顔色がどこか冴えず、疲労の色ありありでした。それでもその余韻に酔いしれて夜の帳が下りかけた空港や飛行機内で酒やビールを片手に過ごしていたようです。

 時間と食事の乱れはもろ体に堪えます。私もこんな暮しを35年もやっていたのですから、体が悲鳴を上げるのは当然だとしみじみ思い「早くリズムを元に戻そう」と、昨日の夜遅かったものの今朝は4時きっかりに起きて書斎のストーブに火を入れ、これまた日課の朝風呂に入って髭をそり、バイオリズムの時計を元に戻しました。

 今朝は昨日の雨が続いているようで、窓から見える外の景色は6時過ぎになった今も真っ暗で、明るくなるにはもう少し時間がかかるようです。明るくなったら隠居へ出かけ親父の機嫌も伺わなければなりません。

 今日は内子町の自治センターで開かれる自治活動報告会に講演を頼まれていて、午前中出かける予定で、更に明くる日は島根県益田へ出かけるなど、狂った時計を元に戻すにはまだまだ時間がかかり、ひょっとしたら元に戻らないような錯覚さえするのです。でも何度か病気をした経験を思い出して、自分の暮らしのリズムをしっかりと意識した生活をしなければならないと思っています。

 昨日の夜帰り際、私の車で双海まで帰り、夜道を三崎半島の突端近くまで帰っていった親友の塩崎さんがしみじみと健康の大切さを話していました。彼も私と同じように昔は大酒を飲んで夜更しをして体を壊し、今は私と同じように酒を断たなければならなくなった一人です。体を壊して健康の大切さを知るとは何とも可笑しな話です。もう若くもなく、もうそんなに長くもない人生ですから、健康で楽しく生きれるようにしようとニコ・ピン・コロの話をして別れました。同行していた妻も盛んに同調していたようでした。

  「旅に出て 暮しのリズム 異変あり 体内時計 元に戻して」

  「ご飯です 妻のコールも 久しぶり 妻の顔さえ 幸せ感じ」

  「トントンと キャベツを刻む 音がする 何気ない音 耳に聞こえて」

  「冬眠の ようだと笑う 厚着した 親父の背中 温もり感じ」

  

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shin-1さんの日記

○旅先の思い出

 「項目を起しましたが、今日は書かず明日整理をして紹介します」。こう書いたのは初日の宿泊場所となった茨城県水戸市の駅前通りにあるみまつホテルのロビーに置かれている利用無料のパソコンを利用してでした。普通は旅先へパソコンなど持参しないため、ブログは書けないのですが、最近はありがたい事にインターネットが楽しめるようにしているホテルがあって嬉しい限りです。この日も食事が終わった出発間際の慌しい中で、項目予約を入れました。こうしておくと帰ってからその日が留守でも後で記事の編集が出来るのですから有り難いことです。しかしそのことが原因でホテルの部屋をチャックもせずに慌しく出てしまったため、デジカメを忘れるというハプニングを起し、同行した松本研究員にその手配やタクシーで届けたカメラを、受け取るなど大変迷惑をかけてしまいました。ただでさえ忘れることの多い年代になったのですから、もっと自分の事をしっかりせねばならないと、肝に銘じた次第です。

 この日の会場は茨城県立県民文化センターです。市内バスで向いましたがそんなに遠くはなくあっという間に着いてしまいました。午前中はポスターセッションとワークショップがあるため、それぞれ決められた役割にそって働きました。私はポスターセッションで愛媛の宣伝をする役目だったので、やって来る人たちに愛媛をしっかりとPRしました。ポスターセッションは分科会を開催している町や団体がその活動を紹介するもので、次年度開催をPRするのは愛媛だけとあって、興味を示した方々と名刺を交換し、深い話をしました。途中この大会の主催者である地域づくり団体全国協議会長である岡崎昌之先生なども見えられ楽しいおしゃべりに花が咲きました。


 受付では愛媛から持ち込んだ500本のオレンジ100パーセントジュースがえらい人気で、これは正直大ヒットでした。


 開会式には橋本茨城県知事も見えられ挨拶がありました。またトークセッションも常磐大学の吉永先生のコミカルな司会がうけて、いい流れで全体会が行われました。最後の締めは時期開催権である愛媛県に10分間の時間が与えられ、愛媛県のメンバー全員が壇上に立ち、私がハーモニカを使って挨拶、その後実行委員会事務局が作ったスライドショーで15の分科会を説明し、来年度に望みをつないだのです。ステージへの感触は相当良かったと自負しています。
 
その後、17の分科会に別れ、バスに乗って分科会場まで大移動です。私はひたちなか市で開かれる「こどものためのまちづくり」分科会に参加しました。ホテル白亜紀までは全体会場から30分程度の所にあって、海の直ぐ側の絶好の場所でした。

 16:00~17:00  活動報告 「こどものためのまちづくり」

 18:00~19:00  歓迎セレモニー

              ・伝統文化日本舞踊子ども教室

              ・東石川小学校陣太鼓

              ・平磯中学校郷土芸能クラブ民謡民舞



 19:00~21:00  夜なべ談議

明くる日は

  8:30~9:00   バス移動

  9:00~9:30   歓迎挨拶

  9:30~10:15  子どものためのまちづくりの在り方講義


 10:15~11:15  ワークショップ 遊びの体験

 11:30~12:30  昼食

 午後          エクスカーション


このようなプログラムが組まれ多くの事を学びました。県外から参加した人は18人、県内参加や地元参加の方々との交流を期待していただけに期待はずれもありましたが、主催したボランティア団体茨城遊びのサポーターの方々の献身的なお世話や茨城大学教育学部の学生さんたちも参加して新しいスタイルの地域づくりの在り方を学んだような気がしました。

 帰りの飛行機の時刻もあってエクスカーションへの参加は出来ませんでしたが、勝田駅から水戸駅に出て、愛媛のメンバーと合流し、水戸駅の黄門様に送られて、名残惜しくも茨城を後にしました。

  

  「少子化と 言われて久し 日本だが 子どものために 一肌脱ごか」

  「ひょっとして この分科会 最先端 子どもをテーマ 当っているかも」

  「若者と 言葉を交わす 面白い 学生相手が 役に立ちます」

  「来年は 必ず行くと 握手して 互いに違う 行き先列車」


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