shin-1さんの日記

○隠岐牧畑シンポジウム(西ノ島旅ルポ④)

私は年間を通して様々なシンポジウムに参加したり関わったりしていますが、量と質のバランスは中々難しいものです。中身の量と質もさることながら、参加者の量と質もまた追い求めなければならない永遠の課題だと思うのです。今回のシンポジウムには北は北海道から九州まで様々な人が参加していました。牧畑という特異なテーマがそうするのでしょうか、大学の研究者もいて質の部分では予想以上の深みを感じました。しかし一方では欲を言えば切りがないのですが地域の参加者の数は今一歩という感じでした。それでも牧畑というアカデミックな産業文化シンポジウムに100人もの参加があるということは立派なもので、今後の波及が期待できそうです。

 今回の目的が、「牧畑に代表される隠岐独自の文化遺産を活用し、町おこしを図るとともに、世界遺産登録の可能性を探る」とあるため、世界遺産というとてつもなく大きな目標とのギャップが生じてしまいました。多分島根県では石見銀山の世界遺産登録に刺激を受けたのでしょうが、世界遺産となるとそれなりの学術調査による権威も必要であり、それなりの覚悟が必要だと思うのです。私も四国八十八ヵ所を世界遺産にしようと取り組むひたむきな人たちの輪の外で見ていますが、世界遺産化は並大抵ではできない大事業なのです。それでも身近にある牧畑という農法がそれだけの価値があると認識しただけでも価値のあることかも知れません。

 まず今回のシンポジウムであいさつに立った広島大学の三谷教授が、牧畑の文化的価値についてふれられ、続いて私が「新しい風を起こすまちづくり」と題して基調講演をしました。潜在能力でしかなかった何処にでもある夕日を地域資源として地域づくりを行い、年間55万人を集客するようになったプロセスとアイディアや行動力について熱弁をふるいました。ディスカッションでは牧司と呼ばれるお年よりも参加して牧畑の将来性を探りました。私はこの半世紀の時の流れの中で①変わったこと、②変わってないこと、③変えてはならないこと、④変えなければならないことの整理が必要と話しました。その仕分け作業によって先人が残してくれた文化的遺産に気がつくことから始めるのです。そうすれば結果的に次世代に何を残し何を引き継ぐべきか見えてくるのです。その後は行動という作業によって始め、続け、高め、止めるのだと話しました。

 その夜は近くの料理屋で懇親会が持たれました。料理もさることながら夜なべ談義はことの他盛り上がり、交流の輪があちこちに出来て楽しい時間を過ごさせていただきました。特に角市会長さんの子ども3人姉妹と奥さんの妹が随分会を盛り上げてくれました。3女の三味線や奥さんの妹さんの民謡は絶品で、沖縄や宮古島と同じく暮らしの中で育った音楽や歌に、酒を飲まない私ままでがお面を被ってひょうきんにも踊る羽目になってしまいました。前日が中秋の名月とかで楽しみにしていましたが、懇親会が終わった頃、中秋の綺麗な月を見ることが出来て幸せでした。

 あくる朝角市会長さんは早起きして船着場まで見送りに来てくれました、。時化で心配したレインボーという高速船も3日ぶりの運行で、北海道大学の秦助教授とともに乗船しましたが、やはり外海はうねりの余波が大きく、時折ヒヤーとするような時もあったようでした。何はともあれ2時間ほどで無事境港へ到着し、再び自家用車でわが家への道を急ぎました。

  「シンポした だけでも進歩 しましたね これから先は 誰にも分らず」

  「牧師かと 思えばじいさん はい牧司 朴訥口調 されど説得」

  「カメラ撮る 人を撮るとは 何事か これぞあ・うんの 呼吸ピッタリ」

  「レインボー 虹ではなくて 船名前 波を追い越し 境港へ」 


[ この記事をシェアする ]

shsin-1さんの日記

○西ノ島の風景(西ノ島の旅ルポ③)

 西ノ島は実に美しい自然が残っていて、何度訪れても、何時見ても飽きない素晴らしいものです。特に国賀海岸やその周辺地域はまるで夢の国のような雰囲気なのです。私が前回商工会の招きで訪ねたのは昨年3月26日でしたから山肌一面が茶褐色でした。今度はその茶褐色が一変し初秋とはいいながら放牧した牛馬が緑の芝生を丹念に食べたお陰で一面が手入れの行き届いた草原のようでした。しかも台風と低気圧が合体した天気の悪戯によって要らないものが全て風に吹き飛ばされ、まるで掃除の後のすがすがしさを感じました。流れる雲も足早で、じっとたたずんで風景を眺めていると刻々と変化してえもいわれぬ美しさでした。

 私は手持ちのカメラで口村さんの車を何度か止めてもらいアタックしましたが、思わず息を呑むような光景でした。日ごろ気候温暖な瀬戸内海に暮らす私にとってこんな荒々しい光景は久しぶりの感動ものでした。ご覧下さい。人を寄せ付けない断崖絶壁は足がすくむほどです。上の写真はこの看板の赤い現在地という所から狙ってみました。

 この看板に写っている写真は反対側から写したものであり、私が撮ると下の写真になります。やはりプロの写真に比べると子どもが撮ったような写真で腕の未熟さとデジカメの悪さを悲観しています。

 国賀海岸は本当は船で真下から見るとド迫力があるのですが、今回は海が荒れて行くことが出来ませんでした。この日も風が強く飛ばされるのではないかと錯覚するような大風でしたが、それでも口村さんはしっかりと私を案内してくれました。

 新婚旅行でも撮れなかった、いや撮らなかった写真を口村さんが撮影してくれました。

 ここに放牧されている牛や馬は人にかなり慣れていて、近くへ寄っても平気でです。特に驚いたことに牛は人間の嫌がるカラスを平気で背中に止まらせてカラスに体についたダニを食べてもらっているのです。牛とカラスの共存とはこれまた絵になる風景なのです。それにしても馬はじょうずに草を食べますね。周辺に生えている毒草だけがちゃんと残っていて地面すれすれの短い日本芝をしっかりと食べていました。そのためでしょうかどの牛も馬もいたって健康そうでした。

 昨日まで海が大荒れだったせいでしょうか、驚いたことにこれほどの観光地でありながら、そして行楽シーズンの三連休にもかかわらず観光客の姿は殆ど見られませんでした。眺望のよい丘の上も港も散閑としていたのが気がかりでした。

  「絶景と 折り紙つける この地さえ 客はまばらで 苦悩ありあり」

  「牛馬のみ 長閑な秋を 楽しげに 草食みながら のそりのそりと」

  「断崖の 上から首を 突き出して 覗き見る下 怒涛逆巻く」

  「あの辺り 過日訪ねし 朝鮮か 目には見えねど 胸の騒ぎが」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○隠岐牧畑って何?(西ノ島旅ルポ②)

 島根県の沖合い日本海に浮かぶ歴史の島隠岐島諸島では、1960年頃まで放牧と畑作を組み合わせ4年で輪作する「牧畑」という聞き慣れない農法が行われていました。この農法は島の急傾斜地を有効利用すると同時に人間と牛馬が一体となった世界的にもユニークで珍しい農法なのです。始まった時期は不明だそうですが、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」でも紹介されているくらい古い歴史を持っています。高さ1~1.5メートルの石垣で「牧」と呼ばれる四つの区域を作り、それぞれに麦・大豆・小麦・粟などの雑穀類を一年ごとに栽培し、4年目に牛を放牧して一巡するというものです。牛の糞を肥料にし、同じ作物を2年連続で耕作しないことで、土地が痩せたり連作障害を起さないよう工夫されていて、中世のヨーロッパで広まった冬作物・夏作物・休閑を繰り返す「三圃式農法」よりもはるかに高度で、海外の研究者からも高い評価を受けているそうです。

 食物に不自由した戦中戦後を経て物が豊かになりその農法はすっかり消えて、現在は放牧だけが続けられていますが、自然と生き物が共生する牧歌的で雄大な自然景観は大山隠岐国立公園選定理由のひとつに掲げられています。

 「牧畑って何?」と地元でもすっかり風化したこの牧畑の歴史的価値をを掘り起こして、後世に伝えようという動きが角市さんを中心に起こり、「牧畑を後世に伝える会」が発足し今回のシンポジウム開催にこぎつけたのです。まちづくりや観光を含めた地域振興をテーマとして活動している私としても、歴史に裏打ちされた牧畑の保存伝承は興味があり、お手伝いすることになったのですが、その前途は容易なことではないようです。

 今回のシンポジウムに合わせるように牧と呼ばれる区域を分けるための石垣が発見され、その全容が明らかになりつつあるようです。シンポジウムの明くる日の日曜日にはエクスカーションが行われるようですが、私は日程の都合で参加できないので、町議会議員口村さんの案内でその石垣を含めた現場を案内していただきました。この場所は3回目ですが過去2回は国賀海岸やその原風景に目を奪われて、牧畑や石垣の存在さえも分らず通り過ぎていました。口村さんは地元の中学校の校長先生を最後に教職を去り、お寺の僧侶でありながら町会議員になった変わった人です。俳句や短歌、川柳をたしなみ、植物にも歴史にも詳しい島のマルチ人間なのです。口村さんの車で、前回登りたかった草原の頂上へも四WDで登り、革靴と背広という出で立ちながら、牛馬の糞を足元に気にしながら石垣のある場所まで、野ばらを掻き分けて進みました。高さ1.5メートルもある石垣は歴史の長さを物語るように風化が激しく、所々には石垣から楡の木が大きく成長していました。でも西ノ島の万里の長城ともいえる長い石垣が谷の上下に伸びていました。多分先人たちはこの石一個一個を積み上げたに違いないと思うと、人間のすごさに改めて敬意を表しました。

 牛や馬が日本芝を食糧として食べる行為はまるで芝刈り機のようで、こんな綺麗な草原が天高く続いていました。

 今も残る見事な牧の石垣です。石垣の中から楡ケヤキの木が大きく成長していました。

 口村さんが記念に写真を撮ってくれました。

お返しに口村さんの写真を撮りました。

 これが口村さんの愛車で、ぬかるみをものともせず、頂上まで草原の中を風を切って走りました。

 この石垣を見てふとわがふるさと愛媛県の宇和島市にある水が浦の段々畑を思い出しました。耕して天に至る水が浦の段々畑程ではないにしても、この石垣と牧畑農法は紛れもなく歴史的景観なのです。世界遺産にと角市さんたちは考えているようですが、それは別の話としてまずはこの景観を含めた歴史の全容解明が待たれるところです。口村さんの案内は面白くて、道端の草花や日本の歴史認識まで実に幅広いものでした。もう一度会いたい人でした。

  「知夫村や 遠く大山 三瓶山 望む頂上 神々しくて」

  「この石の 一つ一つに 人の手が 想い込めたる 先人ゆかし」

  「道端の 花に心を 移す人 優し心根 島を愛する」

  「牧畑と いう意味さえも 分らずに シンポに参加 恥をしのんで」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○島根県隠岐・西ノ島へは難儀な旅でした(西ノ島旅ルポ①)

 昭和46年に結婚した私たち夫婦は、新婚旅行の目的地として島根県隠岐の島を選びました。選んだといっても私が一存で決めたことなので、妻は期待と不安に胸を躍らせて同行しましたが、結果的には妻の満足を得るような旅ではなかったと、あれからもう357年も前の出来事なのに妻は新婚旅行を思い出しては不平や不満をいうのです。それは目的地が悪いのではなく、新婚旅行を安上がりにしようと目論んだ私の目論見が外れただけの出来事なのです。たった5分の見合いで結婚を決意し、愛媛県の青年団連合会長をしていたこともあって結婚までに僅か5回程度しかデイトもしなかった上、新婚旅行が安上がりとあっては誰でも不満は出るのでしょうが、その罪滅ぼしもあって一昨年島後と昨年島前を講演のため相次いで訪れた折、思い切って妻を同伴したのでした。島後では教育委員会の斉藤さん、島前では町議会議員の角市さんと教育委員会の原さんという島人の温かいもてなしや案内に感激し、最近は妻の機嫌もすっかり雪解けになったのです。

 そんな折、西の島町の長会議会議員をしている角市正人さんから「隠岐牧畑シンポジウム」の基調講演とパネルディスカッションのパネラーとして参加して欲しい旨の依頼が飛び込んできました。私との出会いもこの計画の引き金になったとおだてられればその気にならない訳にもいかず結局は引き受けて今日までの3日間その催しに付き合いました。

 私の出番は10月7日だったので、前後の日程が積んでいるため最初一泊二日の予定で計画を立てましたが、二つの台風と低気圧がトリプル合体し発達するという珍しい天気の悪戯で大荒れの天気となり、日本海の荒波を越えなければならない交通事情もあって今回は大変難儀な旅になりました。

 角市さんから直前になって、「あくる日の高速船レインボーという船便の欠航が予想されるので、一日早めに来て欲しい」と連絡が入り、その日の会議をキャンセルさせてもらって、しまなみ海道を通って米子を経、境港に着いたのは出航30分前の午後2時でした。米子から境港に至る松並木の向こうには吹き付ける雨風とともに白波が押し寄せ、瀬戸内であれば完全に欠航するであろう雰囲気でしたが、冬の日本海の時化に慣れている人たちにとってはどういうこともないらしく、急いで乗船名簿に名前や住所を書いて切符を買いました。

 離島行きの船ながら沈香もそれなりにある大きな島だし、丁度祝日の関係もあって3連休のためか結構船内は込み合っていました。やがてドラの音とともに出航しましたが、境港の船着場がある内港を外に出ると海は大時化で、左右に激しくローリングを繰り返しました。この季節は北東の風が吹く程度で、まだ本格的な北西の季節風には程遠いのですが、発達中の低気圧の影響で

波は気象情報によると有に5メートルは越えているらしく、私たちの目から見るとまさに大時化の状態でした。

 まるで酒に酔った人が歩くようにトイレへ行くのにも足元はよろよろとふらついて、真っ直ぐ歩けない状態で、客室に横になっていても体が転げるような雰囲気でした。私は昔は船乗りでこのくらいの波は平気なのですが、若い女性は気分が悪くなったのか青ざめた顔でトイレへ駆け込んでいました。船が20分も遅れて到着したのですから、余程の時化に違いありません。

 港にはあらかじめ電話連絡していたので、角市さんが出迎えに来ていて、強風の中を同じ会に出席するであろう見知らぬ人とともに迎えの車に乗りました。すでに秋の陽は暮れかかり、少し肌寒い風がネクタイや背広を盛んに吹き飛ばすように吹き付けてきました。

 宿舎となった国民宿舎くにが荘に到着すると角市さんが「見晴らしのいい部屋をキープしていますので」ともったいぶったが、風当たりが強く、この日に限っては貧乏くじという意識になったのも無理からぬことなのです。それでも部屋に入ると2面総ガラス張りの部屋からは色々な景色が見えて、角市さんの心配りに随分感謝しました。

 岬の上に建つ国民宿舎国賀荘

 部屋から見える総ガラス張りの絶景

 部屋から見える広場のゲートボール風景

 別府から浦郷へ通じる島の大橋

 国民宿舎国賀荘から見える浦郷港周辺の景色

 室内から見える風景は思わず見とれるような美しさでした。大広間で他の宿泊者同席で夕食をいただきましたが、カニや刺身など日本海の荒海の恵みに大満足でした

  「難儀して 時化海越えし 隠岐の島 時の流れに 翻弄されつつ」

  「予測した 通りに船は 欠航し 早め旅立ち 先の杖なる」

  「日本も こうして見ると 広いねえ 家から一日 かかるのですから」

  「宿の窓 自慢の風景 広がりて 疲労を癒す 妙薬なりぬ」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ブログの空白日

 私はよく旅に出ます。したがってよく家を空けるため今一番の悩みは家にいない日にブログが書き込めないことです。そんな場合ビジネスマンなどはマイパソコンを携帯して旅先や旅の途中で対応しているようですが、私はそこまではやる意欲もなく、むしろ旅を楽しむ方に重きを置いています。人間牧場へパソコンを持ち込まないのもある意味で情報化社会と断ち切った非日常を作りたかったからなのです。

 しかし、旅が長引くとブログのことが何となく気になり、行く前と帰った後では堰を切ったように書き貯めをするのです。読む人にとって見れば多少窮屈かもしれませんが、私はブログを目には見えない読者に読んでいただくという側面と同時に、情報化社会にあって自分の記録を残すというまさに日記風的な活用に軸足を置いているのです。ですからブログの空白日はまるで気の抜けたサイダーのような感じがしています。

 私にも皆さんと同じように密かな記念日があります。二日前の10月3日は私の62歳の誕生日でしたし、昨日は母の命日でした。ところが10月3日は家を空けていないにもかかわらず、大学のフィールドワークの受け入れなどで忙しかったため、記念日なのに残念ながらブログの空白日になってしまったのです。勿論明くる日誕生日の花束などについては記録したのですが、その日の記事はそんなに大袈裟なことではないものの永久に書けないのです。

 ブログを書きながら感心するのは、過去のデーターが全て検索できるという点です。時々思い出して検索して見ますが、便利で月々の原稿の数までデーターとして記憶されているのは、私のようにパソコンの情報を整理整頓することが下手糞な人間にとっては、パソコンソフトも必要なく極めて便利な道具であり、改めてブログを勧めてくれた娘婿に感謝する今日この頃です。

 去年のこの頃まで私はアンチパソコンでした。人の顔の見えない部分でやり取りする情報手段は無責任で非人間的だと一途に思っていました。しかしパソコンがなければ私の仕事も成り立たなくなって、仕方なく最低限の仕事が出来るような情報アクセスが必要となり、手を染めたのです。しかしやってみるとバーチャルの世界はどんどん広がって、今まで電話やFAX,図書に頼っていたことがいとも簡単に検索できたり対応出来るようになったのです。たった一年でこれぐらい意識が変化した人間も珍しいのではないかと自分自身が思うのですから相当な変化です。と同時に人間の意識も当てにならないと思っています。

 昨日旧友に会いました。旧友はまだ昨年の私と同じようにアンチパソコンで、私がブログの話をすると「ブログって何?」ですし、ブログの話題で盛り上がっても話題についてゆけず蚊帳の外って感じでした。「少しばかりパソコンをするからって大きな顔をするな」って旧友は言い残し会場を去りましたが、速いスピードで技術革新が進む時代の流れに、ついてゆけない私たちの年代を垣間見るようで少し同情もしました。でも同情されても何の解決にもなりません。要は必要の論理ですから必要のないものまで手に入れる必要はありません。猫も杓子もみんな携帯電話を持ち遊ぶ現代の高齢者を見ると滑稽にも思えてくる現実が、日本の田舎にもあるようです。

 ブログの空白日は私にとって日記を書けなかった少年時代の思い出と同じです。今も何冊か持っていますが、白いまま残るページは一体どんなメッセージを私に伝えているのでしょう。

  「真っ白な ページのような 空白日 ブログ書きつつ 振り返りつつ」

  「ブログ何 友の一言 胸を刺す 去年の私 同じ質問」

  「時を経て 画像に映る ブログ読み あんなこんなと 思い出新た」

  「パソコンに 横文字入り 大慌て 読んでも分らず ゴミ箱処理す」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○トリプルヘッター

 昨日は水曜日で、本当は夏休み明け第一週目の大学授業日なのですが、前日にフィールドワークの現地研修を済ませていたため日程が込み合いダブルヘッターならぬトリプルヘッターで忙しい一日を過ごしました。午前中は道後はなゆづきで四国青色申告会女性部の講演、午後は八幡浜市役所で民生児童委員会の講演、夜は自治会長を務める灘町組長会で秋祭りの打ち合わせ会と三つも会議をこなし、少々お疲れモードです。若い頃はどういうこともなかったハードスケジュールのようなスケジュールを入れると身動きが出来ずあたふたするのです。でも何だか充実しているような気分になってすがすがしい気分になるのですから不思議です。

 青色申告会女性部の会場となった道後はなゆづきは素敵な会場で、ロビーにはホテルの感性が分るような季節のしつらえが随所に見られ、見ているだけで秋の気配を感じさせてくれました。ススキと紅葉、障子格子と行灯に赤い毛氈、人々は立ち止まることもなくその前を通り過ぎますが、私は思わず息を飲むように見入りながら写真に収めました。これぞ安部総理が提唱する「美しい国日本」だと思いました。

 女性部の伊藤会長さんとは旧来のお付き合いなので「新しい発想で生きる」という演題で思い切って話しました。会場は1時間足らずの短い時間でしたが爆笑の渦で、講演が終わると沢山の人がロビーにあいさつに見えられ、お世辞にもせよ「よかった。楽しかった。ためになった」と連発でした。

 講演が始まると写真が撮れないので、講演前のコーヒータイムに会場の雰囲気を写真に収めましたが、会場は満席で女性のド迫力とでもいうのでしょうかやる気がビンビンと伝わってきました。

 会場を出ると12時近くになって急いで国道を引き返し、今度は双海町経由で八幡浜市へ向かいました。マイカーだから出来ることで、移動のロスは僅か2時間弱です。最初八幡浜市からお話があった時には先約があるのでお断りをしようと思いましたが、私の間に合う時間に合わせて会議を組み立てるというたっての希望で実現したものですから、手を抜かぬよう心に決めて会場入りしました。

 開会まで少し時間があったので新町商店街を散策しようと出かけましたが、水曜日はあいにく商店街の休日とあって、ただでさえ散閑としている商店街は人影もなくひっそりとしていました。時折私と同じ会場へ行くであろう何人かの人に呼び止められて立ち話をしましたが、活気のないことを嘆く人が多かったように思います。

 落差とでもいうのでしょうか、人通りの多い午前中の松山市道後と違い八幡浜市のまばらな人通りも気になるところです。市役所の入口の八百屋さんで柿を見つけました。平無柿というのだそうですが渋抜きをして人カゴ180円です。みかん所八幡浜市だけあって早くも店先には青切りみかんが無造作に置かれ、安いなあとお百姓さんの顔を思い浮かべながら店番のおばちゃんと雑談しました。「不景気ですねえ」と言葉にも力のなさを感じました。

 会場は120人もの民生児童委員が集まり賑やかでした。かつて青年団活動を共にした田原さんや二宮さんとも出会い、旧交を温めました。彼らもいい歳になって民生委員として地域のお役に立っているようです。

 演題は「心豊かに生きる」でしたが、社会の変化をベースに色々1時間半話しました。生玉さんなど顔見知りの友人は手を振ってくれたし、妻の実家もある地域なので面映い感じもしましたが、まあそこはしっかりと踏まえてお話しました。

 谷口助役さんを訪ねて談笑して外に出ると、講演中に雨が降ったのか路面が濡れていました。秋らしい静かな雨が降る中ゴゼゲ峠のトンネルを越え再び瀬戸内海側に出て帰宅、急ぎの夕食を済ませて集会所で組長会の準備、会合が終わった頃に本降りとなって長くも充実した一日が終わりました。いい一日でした。

  「トリプルの 会議をこなし 今日もまた 一日終わり 明日の予定を」

  「店先で 少し早めの 柿見つけ 一カゴ求め 母の墓前に」

  「木のカバン 提げてあちこち 旅に出る まるで寅さん 幸せセールス」

  「手を振って 私はここよと 存在を 示す友人 沢山おりて」 






[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○忘れていた誕生日と覚えてもらっていた誕生日

 私は昭和19年10月3日に生まれました。したがって昨日は私の62回目の誕生日です。でもさすがこの歳になると自分の誕生日など忘れてしまってるのですが、先週の日曜日長男夫婦が花篭とプレゼントを持ってお祝いに駆けつけてくれました。その時は感激し覚えていたのですが、このところの忙しさで2日後の昨日も愛媛大学フィールドワークの授業のことで頭がいっぱいでついつい忘れていました。ところが昨日フィールドワークで学生の対応をしていた9時半ころ、子どもを抱いた若い女性が何やら大きな花束を持って私の目の前に現れたではありませんか。とっさに「えっ、西岡真由美さん」と昨年、一昨年ともう4、5年も続いている彼女からの誕生日の花束プレゼントを思い出しました。「今日は緒方さんが来れなくて」と詫びながら立派な花束を私に渡してくれる誕生日セレモニーは、数年前偶然にもシーサイド公園でハプニング的に起こったのでした。緒方二三子さんと西岡真由美さんという二人の女性と私が何処でどうつながったのかは未だに不明なのですが、南予、しかも三崎半島の出身者であることだけは知っているし、西岡さんは嫁いで松山市に、緒方さんは合併した伊方町瀬戸にそれぞれ住んでいて、私の生き方に想いを寄せていただいていることだけは知っています。でも自分さえも忘れる誕生日をよくもまあと、妻ともどもしみじみ感心しました。でもこれは涙が出るほどの嬉しさで、居合わせた愛媛大学の学生からも「凄いねえ」と感嘆しきりでした。

 この方が花束を贈ってくれた西岡真由美さんと可愛いい子どもさんです。

 居合わせた学生さんと一緒に撮影です。学生のピースが気になります。

 いただいた花束を抱えたツーショットならぬ嬉しいスリーショットです。

 「誕生日 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」をある意味で感じる誕生日なのですが、私の誕生日を覚えていてくれた人が5人もいます。一人目は元県議会議員の俊成薫さんです。県議会議長も務めた偉い人ですが、もう二十年にわたって私の誕生日には素敵なハガキの祝詞を届けていただいています。二人目は妻です。私は忘れていますが、「もうそろそろお父さんの誕生日じゃねえ」と、「あなたのお父さんではない」と言いたい様な言葉で予告をしてくれます。三人目は子どもたちです。それぞれの懐具合を見計らってプレゼントをしてくれます。学生の次男などの誕生日プレゼントは少し長めのマッサージ、まさに現物支給なのです。四番目は妻の同級生が電話をかけてくれました。そして今年山猿こと馬路村の木下君から漫画チックな祝詞が届きました。多分私のブログを見ての反応でしょうが嬉しいですね。その他ブログでのお祝いメッセージが数通ありましたから、昨日の大学生の祝福拍手を含めると相当数の祝福になりました。

 私は年齢的に61歳という還暦を迎え緩やかな曲線ながら老化へと進みつつあります。気力も体力も、ひょっとしたら知力までもこれからは緩やかな曲線を描いて限りなく死というゼロへ向かうに違いありません。しかし体力は別として、いや体力も気力も知力も努力によって動力になり現状を維持し続けるかもしれないのです。その念力こそが若さを保つ秘訣なのでしょう。

 力のつく言葉を並べてみましたが、力持ちとはそういう人のことであり、山猿木下藤吉郎の祝詞を見て思い直しました。私に誕生日の祝意をいただいた皆さんに約束します。もう少し進化し続けることを・・・・・・。

  「ああ俺も ここまで来たか 誕生日 夢よも一度 若さ下さい」

  「今年また 花束届き 嬉しさに 少し涙の 六十二歳」

  「金がない 学生息子 マッサージ これも一つの プレゼントです」

  「えっそんな 歳では?若く 見えますよ お世辞空々 それでも嬉し」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○愛媛大学フィールドワーク双海町へ

 私の担当する愛媛大学法文学部総合政策学科の授業の一環として、昨日21人の学生が双海町へやって来ました。今治市・松前町・内子町と続いた4回目でこれが最終現地研修です。2ヶ月間の夏休みというブランクがあったため、あるいは10月3日のことを学生たちは忘れれているかも知れないという不安がありましたが、一人だけその不安が的中して欠席しましたが、その他は全員元気で参加してくれました。責任もあるので7時に家を出て大学まで迎えに行きました。早朝の大学生門前は授業に向かう学生や先生、それに事務局の人が行き交い、まるで何処かの大きな会社工場の入口のような混雑ぶりでした。その中には顔見知りの人もいて、あいさつや言葉を交わして校内へ消えて行きました。

 今回は交流会もあるので大学にお願いして25人乗りのバスを借り上げましたが、目的地のひとつである人間牧場までバスが行くかどうか不安でした。シーサイド公園内夕日のミュージアムで双海町のまちづくりについて1時間余り私がレクチャーし、ガイダンスの時に約束していた250円の夕焼けソフトクリームを私の自腹でサービスして食べてもらいました。総額5千円は少々痛手ですが学生たちは美味しそうに食べていました。

 一昨日は雨だったため天気についても少々心配していました。心配をよそに昨日は爽やかな絶好の日和で、内心は自慢の夕日を見て欲しかったのですが学生たちは5時限・6時限の授業があるので、16時までに大学へ送らなければならず少々急ぎの案内になってしまいました。

 バスは国道378号・県道内子双海線・町道を走り、カーブの多いだんだん狭くなる町道に不安を抱く学生たちはバスの中でキャーキャー言いながら登って行きました。バスを町道に停めてみんなで農道・私道を5分ほど歩いて第二研修目的地の人間牧場へ到着です。人間牧場からの雄大な眺めに学生たちは一応に感心し、ロケ風呂やツリーハウスに感心しながら楽しいひと時を過ごしました。彼ら学生にとって人間牧場はお気に入りの様子で、背もたれ椅子に寝転がる人、蔵書に目をやる人、冷蔵庫のビールに目をやる人、ロフトに上って物思いにふける人、様々な手合いで束の間の時間を過ごしました。人間牧場については多くを語らず彼ら学生の空想に任せて再び元来た道を引き返しました。

 第三の目的地は木造校舎の翠小学校です。翠小学校の校庭には早くも銀モクセイの大木が花をいっぱい開かせて、芳しい香りを漂わせていました。「この木何の木気になる木」とで言うべき町の天然記念物に指定されている銀モクセイの花咲く姿を、ラッキーにもカメラでとらえることができました。

 直前に電話したにもかかわらず、鹿島校長先生が校舎を案内してくださり学生たちはまるで少年時代にタイムスリップしたような雰囲気で見学して回りました。

 学校を後にするとき、門扉の閉まった校門の内側から3人の顔見知りの子どもたちが手を突き出して見送ってくれた姿がとても印象的で、翠小学校の行き届いた心育ての教育を垣間見るようでジーンときました。

 

 第四の目的地はわが家です。昨日はわが妻も休暇を取って朝早くから学生のために料理を作りもてなしました。年に一度とはいいながら21人分の料理を作るのですからそれは大変で、私も朝から掃除や魚の料理を少しだけ手伝いましたが、1時過ぎにわが家へ帰ってみると凄いご馳走が出来ていて、学生たちは感嘆の声を上げていました。日ごろ学食程度で済ませている学生にとって見ればまるで盆と正月が一辺に来たような雰囲気で、食べるわ飲むわの大騒ぎです。折角手間暇かけて作った料理なので妻も大満足の様子でした。海の資料館海舟館や煙会所を見学し2時間のゆったりした時間を過ごした学生たちは、アルコールに少し顔を赤らめ元気にバスに乗って大学へ帰って行きました。

  「若者に 教えられつつ 教壇に 相互の学び これぞ教育」

  「先生と 言われ見渡す? 俺のこと しっくりゆかない 呼び名未だに」

  「手料理に 盆と正月 来たと言う 学生日ごろ 何を食ってる」

  「一年に 一度のもてなし 妻奮闘 喜び笑顔 こちらも安堵」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○私を育ててくれた青年の家の名前が変わりました

 私は青年の頃、青年団に入って様々な活動を行ってきましたが、その活動拠点は地元の公民館であったり全国に散らばった国立・県立の青年の家でした。とりわけ青年の家では全国の仲間と知り合い、自らの知的能力を高めてくれたように思います。ゆに私にとって青年団・公民館・青年の家は恩人といわなければなりません。その青年団がどの町や村でも殆ど潰れ、公民館が人の集まりにくい生涯学習センターと改名し、青年の家も国立では独立行政法人青少年交流の家などと、舌を噛みそうな一辺では覚えられないような長ったらしい名前になって、果たして国は利用者のことを考えているのかしら?と疑いたくなるような変化が随所に出始めているのです。社会の変化や効果効率を考えなければいけないことは百も承知ですが、何だか仏を作って魂を入れないような、人間の心を無視したやり方に、憤りを通り越して諦めすら覚えるのです。農業の現場を指導する普及所が普及センターに改名し、農協もJAなどと名前を変えて近代化を図ろうと目論みましたが、営農指導を忘れたJAや普及センターは殆ど地域の農民から信用されなくなって、農業の需給率は下がる一方で、農業の行く末に暗い影を投げかけているようです。

 青年の家の目まぐるしく変わる方針と魅力のない指導に嫌気がさして青年の家から少しの間遠ざかっていましたが、人が変わり指導方針が変わって、何かの拍子に復縁を迫られ、今は少し深みにはまり込んでいるのが現状です。今日も「大人を考えるフォーラム」の実行委員会が開かれ、ご依頼のままに2年も続けて委員長に祀り上げられ、出掛けて行きました。大洲青少年交流の家は、私たちが若い頃青春のエネルギーを燃やして誘致した曰く因縁のある施設です。何もない雑木林だった場所に当時の坂田道太文部大臣を呼んで来て誘致した物語を思い出すと今でも胸が熱くなるのです。

 つい最近青少年交流の家と改称した看板がかかるこの施設はかつてないほどの危機感を持って、いやひょっとしたら文部科学省直系の本部からの指示を受けて、様々な変化に翻弄されながらも生き残りをかけて努力しています。その苦しみが分るだけにこちらも恩返しのつもりで努力をしているのです。施設の外の交流広場では、そうした厳しい内情を知ってか知らずでか今も昔も変わらない若者たちの歓声が聞こえていました。

 大洲盆地に秋の気配が漂い始めていました。昨日までの雨が嘘のように晴れわたり、山並みと肱川の悠然とした流れが私の心を癒してくれたようです。

  「看板の 名前が変わり 何処となく 戸惑いがちな 自分発見」

  「ああ昔 ここに大臣 呼んで来て 一席ぶった 懐かし日々が」

  「♪青い空 聳える富士は♪ 大声歌った 昔懐かし」

  「振り返る 俺もその歳 迎えたか 気構えだけは 若いつもりだ」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二回目の子ども未来塾

 昨日は久しぶりの朝からどんより曇った雨模様で、松山考古館での第二回の子ども未来塾も、戸外で予定したプログラムが消化出来ず、さてどうしようかと思いつつ会場へ行きました。松山公園への進入口は二つあって、正面玄関が閉まっていたため守衛のおじさんに裏口を案内されてのですが、細くて曲がりくねった住宅や学校付近も不案内で裏口も閉まっていて、結局元の正面入口まで帰ってしまいました。カーナビでも見つけることが出来ず、田舎者であることの自信を益々深める結果となりました。

 会場では既に集会が始まっていて、前回の私の話した話の要約レジメの発表をしている最中でした。私はレジメに沿った話が苦手で全てアドリブでやるものですから、「こんな話ししたっけ」なんてことがあり思わず苦笑や汗顔でした。それにしても私の話をメモしてちゃんと資料として使うのですからお見それいたしました。

 昨日の作業はこれまでの集会で出た参加者の意見を基にした「楽しい公園づくり」がテーマです。参加者一人一人に公園の「夢」を発表してもらいました。そしてその中から多かった「ブランコ」をテーマに「どんなブランコが欲しいか」夢を絵に書いて発表しました。この作業は大人も子どもも同格で、むしろ子どもたちの発想に軍配が上がる大事なものです。私は皆で手お上げて決める夢グランプリと夢準グランプリに、持参していた竹トンボを贈呈することにしたのです。子どもたちの目の輝きが俄然と違ってきて、グランプリも準グランプリも子どものアイディアが選ばれました。

 グランプリは「三段式ブランコ」、準グランプリは「ハラハラドキドキブランコ」でした。子どもたちの発想は素晴らしいと思いました。さてこの二つのブランコ案を整理して①どんな公園を作りたいか(夢を見る・夢を描く・知恵を出す)、②何をテーマにするか(自然・植物・動物・遊び・過去・未来)という導入部分を話しました。そしていよいよその夢を実施に移す手順として③何処を使うか(場所・予定地マップ)、④誰と誰がするか(人数と組織・自分の役割・ボランティア)、⑤何が必要か(材料と予算・指導者・それは何処から確保するか)、⑥何処の許可を誰が得るか(許認可・周辺景観とのマッチ)、⑦工期と行程、⑧安心と安全の確保(強度とメンテナンス・事故対応)、⑨完成の確認と微調整などについて話し、最後は⑩造った公園を使ってどんなイベントを考えどんな情報を発信するかについて、6W2Hの作業に入りました。

 ①WHO(誰が)、②WHY(何故)、③WHOM(誰に)、④WHEN(いつ)、⑤WHER(何処で)、⑥WHAT(何を)、⑦HOWTO(どのように)、⑧HOWMUCH(いくら)などを考えると面白いアイディアや具体的な作業がどんどん見えてきて、子どもも大人もみんなが年齢を忘れて楽しいディスカッションとなりました。

 そしてその内容についてその都度発表しあい、人の意見や自分たちの作業について確認しあいました。

 最後は余り時間がなかったので深く踏み込めませんでしたが、公園とアートというアカデミックな課題にも挑戦し、夢描きで終了です。9時30分から12時30分まで延々3時間、トイレ休憩もせずにあっという間に終わった感じがしました。この作業を通してまちづくりへの「参画と協働」という極めて大切なことを若い人たちに学んでもらいました。県内各地でこんな身近なまちづくり学習をどんどん増やして行きたいものです。

  「大人より 子どもの方が 豊かです 柔軟発想 グランプリ得る」

  「三段の ブランコ絵に書く 子どもの目 キラリ輝き 褒美嬉しく」

  「いい人に いい人集まる まちづくり キーマンあなた 嬉しじゃないか」

  「長旅の 果てに着いたる 目的地 一から出直し 新たな気持ちで」  

[ この記事をシェアする ]