shin-1さんの日記

○第二のふるさと宇和島

第一があるのだから第二、第三はあって当然です。結婚が第二の人生なら私は目下世にいうリタイアによる第三の人生に足を踏み入れたことになります。第三の人生はこれまでの縛られた人生から解き放たれて自由な人生ですが、残念なことに給料が出ないという事実も抱えています。毎月何の疑いもなく給料を貰ってその給料で35年間も生活してきた私にとっては、生活の原資となる丘陵を断たれることはまさに死活問題ですが、幸いなことにチャップリンのライムライトを絵に書いたような少しばかりの蓄えと退職金によって年金生活の始まる62歳まで飢えと寒さをしのいできました。そして目出度く今月始めに満62歳となり、いよいよ来年から念願の年金暮らしが始まるのです。年金暮らしはいわば老いとの協働暮しですから、健康や生きがいなど今まで他人事と思っていたことが自分の身に降りかかる人生の仕上げの時代なのです。

 3日前宇和島市で開かれ話に出かけた「年金受給者」の集会も、そんな同類人種の集まりでした。この日は立派な弁当が出ることがあるいは魅力なのか、会場は立ち見ができるほどの盛況ぶりでした。しかし中には私の指摘どおり、講演など何処吹く風、受付で弁当を貰ってそそくさと引き上げる不心得者もいて、そのことを冒頭に話して一同爆笑の渦となりました。

 私の人生にとって第一、第二、第三があるように、私のふるさとも第一、第二があるのです。勿論第一は私が生まれ私が育ち、私が暮らしている双海町です。私は多分この町で一生を終えるでしょうがこのかけがえのない双海町を心から愛しています。さて「あなたのの第二のふるさとは?」と聞かれたら私は間髪を入れず「はい私の第二のふるさとは宇和島市です」と答えるのです。何故なら私は高校時代の3年間をこの宇和島で過ごしました。自分の人生の殆どを過ごした双海町を除けば3年間という短い期間ながら私にとっては長い期間を過ごした場所は他にないのです。しかも高校3年間という極めて純粋な青春時代を過ごしたのですから、自分の人生観が変わるほどの影響を受けたのです。

 宇和島には鶴島城という天守閣を持った城山が町の中心に聳えています。その真下にある枡形町の民家に下宿して高校に通いました。2006年2月10日、アメリカ原子力潜水艦グリ-ンビルに衝突し沈没した実習線えひめ丸の所属する愛媛県立宇和島水産高校漁業科に学び、初代の愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海に出かけたことも私にとっては大きな出来事でしたが、それもこれも宇和島という地域に帰属しての出来事でした。

 当時宇和島まではSL蒸気機関車で半日もかかりましたが、今は道も整備されて僅か2時間足らずで行くことが出来るのです。それでも宇和町、今の西予市を越え法華津峠のトンネルから出ると眼下に法華津湾が見える光景は、何時見ても青春のあの頃にタイムスリップして心が騒ぐのです。半世紀がたった今でも・・・・・。

 宇和島には知人友人も多く、何かと結びついては訪ねるのです。それは私のDNAの中にしっかりと宇和島が入っている証なのでしょう。その宇和島でじゃこ天の祭りをするからと先輩から相談がありました。第一次産業以外とりたてて産業のない宇和島は将来の方向を見出せないまま苦悩しています。海の駅を作る計画もあるようですが何から手をつけたらいいのか、賛否両論の中で揺れています。明治維新に活躍した大村益次郎も宇和島ゆかりの人であり、伊達政宗ゆかりの地でもあります。歴史的には古いのですがその歴史をどう未来と結びつけるかがキーワードのような気がしてなりません。

 第二のふるさとに思いを寄せて生きる人間にとって宇和島は輝き続けて欲しい地域なのです。

  「第三の ふるさとなんて あり得ない 第二で留まる 俺のふるさと」

  「只今は 第三人生 真っ最中 第四死ぬとき まだまだ先だ」

  「食いつなぎ やっと年金 気がつけば 後がないなと まるで他人事」

  「宇和島の じゃこ天吾を 助けたり 今では双海 じゃこ天名物」

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shin-1さんの日記

○熊本へのひとり旅③

 熊本入りする前、私宛に数本の電話がかかってきました。先日私の元へ視察にやって来た前原村の村会議員さんです。彼らはシーサイド公園で私の話を聞いて帰りました。インスピレーションでアドリブ話をする私が彼らに何を伝えたかはもう忘れました。でも私の話で心の扉を開いた議員さんは帰り際、「私の村のミルク牧場の経営についてアドバイスを」と耳打ちして帰りました。私のような田舎者があんなでかいミルク牧場の経営についてアドバイスすることはありません」と断ったのですが、彼は帰って私の話をミルク牧場の支配人に話したそうです。早速支配人から電話があり、私の話をわざわざ会場までかけつけて聞いていただきました。そして帰りの道筋を寄り道してミルク牧場を見て欲しいといわれ、明日からの三宅島行きの混んだ日程で先を急ぐのでと前置きしながら、少しの時間お邪魔することにしました。渡邊さんの案内で国道57号を大きく迂回して阿蘇ミルク牧場へ行きました。

 阿蘇ミルク牧場の正面玄関です

 入場ゲートです

 阿蘇ミルク牧場へのアクセスを示す観光案内図です

 阿蘇ミルク牧場のサインです

 乳製品から肉製品や農産物まで様々なアイテムが販売されていました

 安くて美味しいバイキング方式の食事です

 コーディネートも行き届いた清潔感漂う店内です

 小学生が牛乳を使ってアイスクリームの体験学習をしていました

 ウッドデッキから見える原風景は熊本市街や遠く海まで見える最高のロケーションです

 時間がなかったので詳しい園内の状況や、経営の詳細については聞けませんでしたが、年間25万人程度の入場者を持つ畜産体験型テーマパークのような感じを持ちました。園内で働く人の数も50人弱ということですが、ここの欠点はご多分に漏れず天候と季節に左右されることだと直感しました。幾らいい品物を持っていても、幾らいいプログラムを用意しても天候と季節に左右されると宝の持ち腐れです。さらには馴れによるマンネリで右肩下がりの入場者をいかに食い止めるかも知恵の出しどころです。さらには職員のコスト意識や職員の知恵をどう引き出すか、支配人の腕の見せ所でしょう。

 幸い大消費地博多と熊本を2時間圏内に控えているので対象者の心配はないようです。

 お見受けした所では産物はとてもいいもので、特に都会の消費者が喜びそうなものが沢山用意されていました。来た人にだけ売るのでは右肩下がりの入場者という現状では限界があります。「作った商品をどう売るか」が大切なポイントのようです。

 さて私だったらどうするか。少し整理をして提案したいものです。ビジネスの基本は「物を売る」から「本物と感動と真心を売る」に変化しています。そのことに気付いて方向転換しない限りはこの牧場もどこかのテーマパークと同じゴーストタウンへの運命を辿ることになるでしょう。それは前原村の運命とも合致します。企業城下町は夕張市のように石炭がなくなれば衰退します。幸い夕張市は国際映画祭などのソフトで見事に復活したように見えました。しかし残念なことに市の放漫経営といわざるを得ない失態によって再び暗いトンネルに入っています。世の中は失敗が強力なバネになることだってありますが、高度成長時代と違い失敗の救済や再生は中々厳しいものがあります。心して頑張りましょう。それにしてもタイムリーな熊本へのひとり旅でした。

  「この村に 爽やかな風 吹かそうと 知恵を出し合う 人に誘われ」

  「熊本が 遠くにありて 近くなる 人の思いで 更に近くに」

  「多目的 何でもあるが 無目的 何を売るのか それが分らず」

  「牛乳が 美味いだけでは 人が来ず 家で飲んでる 何処が違うの」

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shin-1さんの日記

○熊本へのひとり旅②

 ご多分に漏れず市町村合併で私の訪ねた熊本県でも社会教育は瀕死の危機に直面していると聞きました。社会教育の中心となるべき職員が合併でやる気や熱意を失ったばかりでなくネットワークがズタズタになっているようです。加えて社会教育委員もその数は激減、予算の一律カットや社会教育施設の効果効率運営という名の下に施設の運営までも指定管理者制度という訳の分らぬ検討が行われているのです。かつて社会教育に情熱を燃やした会教育関係者は、「ふざけるな」といいたいけれどその力も行動もないのです。

 そんな中でまちづくりを生涯学習の中心にすえて活動してきた私の話を聞きたいと、熊本県からお誘いがあり出かけたのです。

 私の話は約2時間にも及びましたが、熊本県社会教育委員連絡協議会会長さんから後日届いたお礼のハガキが全てを物語っているようなので、あえて紹介します。

 「昨日は熊本の社会教育の発展のため、貴重な体験を語っていただき、誠にありがとうございました。ご承知かと思いますが、市町村合併で社会教育委員数は激減し、財政も危機に陥り、お願いするのも弾られました。しかし快くお受けいただき感動しました。講演は大好評、これだけで大会は大成功となりました。来るときとは違ったキラキラ光り輝く表情で帰られる人を見て、しみじみ思いました。「よし、俺の町は、俺が背負ってやる」「社会教育委員は町の最高デザイナーたれ」、きっとそういう思いを強くされたのだろうと思います。閉会まで全員が残るという、今迄になかった現象が起こりました。人間感動すればこうなるの証左です。会長ありがとうと感謝のことばまでいただきました。本当にありがとうございました。

 嬉しい便りです。私の講演で熊本の社会教育が変わることはないかも知れません。でも社会教育は結局人がするのですから、人の心に温かいやる気の種を蒔くことだって必要なのです。私はその種蒔きのお手伝いをしたにしか過ぎないのです。私も社会教育在任13年+2年=15年しかやっていませんが、それでも私の心の中に潜む暖かい血は紛れもなく社会教育の現場で育ったものなのです。

 金がない、行政の理解がない、住民が集まらない、社会が大きく変化していると、社会教育の現場で働く職員から様々な言葉が帰ってきます。私流に言わせれば「そんな話は昔もいっぱい聞いた。だから社会教育が必要じゃないの」なのです。「金がなければ知恵を出せ、知恵が出なけりゃ汗を出せ、汗も出なけりゃ辞表出せ」は私の言葉です。行政に理解がないのではなく理解させていないだけなのです。社会教育には住民という立派な後ろ盾があることも忘れてはいけません。住民が集まらないのではなく集められないだけのことです。社会が大きく変化しているというけれど人間はそんなに変化していないのです。「やらないことをやれない」と言う間は、社会教育の大きな発展は望めないのです。

 「熊本から、熊本へ」、私は数日前の講演による肉声と、こんな小さな名もなきブログで熊本の社会教育への熱い熱いメッセージを送っています。さて熊本の社会教育関係者の誰がこのメッセージを受け止めたり拾ったりしてくれるでしょう。ハガキで私にボールを投げ返してきた社教連の会長さんはさすがつわものです。市民に向き合わずパソコンに向かって仕事をしている愚か者が多いのであれば、わたしのこのデジタルメッセージはひょっとしたら見ているかもしれません。パソコン愚か者がパソコン賢者になるにはアンテナを高くしていい情報をキャッチし情報を処理する能力を持つことなのです。

  「今頃は パソコン向かって 仕事する 何をしてるか 市民に向かえ」

  「一枚の ハガキに感動 書き綴る 五十円だが 金では買えぬ」

  「文化とは 立派な会館 だけじゃない より良く生きる 営み大事」

  「熊本へ ブログで小さな メッセージ はてさて誰が 受けてくれるか」

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