○熊本への早朝ひとり旅①
愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師をしている私にとって毎週水曜日は講義の日です。したがって余程のことがない限り水曜日の夕方6時からは浅知恵を働かせて大学生22人の前でまちづくりを熱く語るのです。先週の水曜日に講義が終わると車を走らせ三崎半島旧三崎町付近にあるフェリー乗り場まで行き、フェリーに車を乗せて旧佐賀関で降り、愛媛から大分へ海の上をつながっている国道378号や国道57号を走って熊本県の城南町まで行きました。三崎には塩崎君、佐賀関には渡辺君と旧友がいるので会いたいのですが、深夜でしかも急ぎ旅だったので後ろ髪引かれる思いで両町を後にしました。
今回の旅は熊本県社会教育研究大会の記念講演なのですが、大学の講義の穴を空けることも出来ず、前夜の講義と午前中の講演を両方可能にするためについついこんなハードな日程となってしまいました。何せ朝の9時までに到着しなければならないので、深夜の道をひた走りに走りました。途中道の駅などで仮眠をとりながらのユックリズムだったにもかかわらず、カーナビゲーションのお陰で、目的地の電話番号を入力するとルートまで選んでくれる念の入れようで、一度も迷うことなく目的地に到着しました。
時間があるので少し散歩でもと思ってあちらこちらを回っていると、私にとってはすごい発見をしました。まず、会場となっている火の君文化センターの敷地内にある駐車場の片隅に小さな記念碑を見つけました。この辺りは戦争中隈庄という飛行場だったようですが、何とその主力機は爆撃機の飛竜だそうです。私は思わず縁の不思議を感じました。実は私の町にもこの飛竜のプロペラが保存されているのです。私の町の飛竜のプロペラは私の町の漁師さんが佐田岬沖で底引き網の操業中に網にかかったのを曳航して取って帰りましたが、当時はそのプロペラの付け根の部分が今飛行機の本体と外れたのではと思わせるような光沢があったことから一時はマスコミが取り上げ、捜索隊まで出る騒ぎとなりました。私は当時教育委員会で町の広報を担当していたので、取材に同行したり飛竜のご遺族の方や戦友の来町に対しお世話役をしたことを覚えています。この飛行機は飛行機内で火災が起こり不時着したという事実が判明しており、町では遺族のこともあって保存塔を建てて保存することになり、その仕事も私がやりました。今はすっかり忘れ去られたようになっていますが、戦争の形見だけに平和への祈りを込めてこれからも見守りたいものだと胸が熱くなりました。
「碧空に祈る」と書かれた裏碑文の下に山本さんの名前を発見し又驚きでした。山本さんは毎年終戦記念日の日にお供えを持って飛竜のプロペラ保存塔に慰霊の祈りに来られた方です。戦後60年もたっているのに、ああここにもまだ戦争という傷跡が残っているのです。私たちはこの人たちのためにも平和でいい日本をつくなればと心に誓いました。
城南町は古墳の町だと聞いていたのでカーナビをアップにして歴史民族資料館の居場所をつきとめ、車を走らせました。川の向こうまでの道を進んで行くと高速道路の側道に沿ってなだらかな丘が続いていました。入口には竪穴式住居と高床式住居が復元され、弥生人の祭事風景が石仏で再現されていました。
かつて私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループは、無人島由利島にカヤ1500束を運び直径10メートルの竪穴式住居を造ったことがあり、感慨深げに中を見学させてもらいました。そして驚いたことに、その裏山の丘陵地にはすごい数の古墳群が整備されていたのです。
その数やおびただしいもので、私も色々な所を見て回りますが、この塚原古墳公園の大きさと行き届いた整備にはただただ驚きの目を見開きました。傍で高齢者がゲートボールのような計スポーツに興じていましたが、彼らの目には古墳公園の価値などアカデミック過ぎて分らないって感じの笑い声が秋空に響いていました。
それにしても、早起きは三文の得といいますが、この日の朝も思わぬいい得でいい徳を積ませてもらいました。
「四日間 だのに早くも 度忘れし 思い出せない 俺も歳だな」
「早起きし 散歩の途中 発見す 歴史の重み 心にずしり」
「得をした だから私は 徳を積む 納得人徳 ささやかながら」
「人寝てる 間に俺は 人儲け 凡人だから スピード上げねば」