○隠岐牧畑シンポジウム(西ノ島旅ルポ④)
私は年間を通して様々なシンポジウムに参加したり関わったりしていますが、量と質のバランスは中々難しいものです。中身の量と質もさることながら、参加者の量と質もまた追い求めなければならない永遠の課題だと思うのです。今回のシンポジウムには北は北海道から九州まで様々な人が参加していました。牧畑という特異なテーマがそうするのでしょうか、大学の研究者もいて質の部分では予想以上の深みを感じました。しかし一方では欲を言えば切りがないのですが地域の参加者の数は今一歩という感じでした。それでも牧畑というアカデミックな産業文化シンポジウムに100人もの参加があるということは立派なもので、今後の波及が期待できそうです。
今回の目的が、「牧畑に代表される隠岐独自の文化遺産を活用し、町おこしを図るとともに、世界遺産登録の可能性を探る」とあるため、世界遺産というとてつもなく大きな目標とのギャップが生じてしまいました。多分島根県では石見銀山の世界遺産登録に刺激を受けたのでしょうが、世界遺産となるとそれなりの学術調査による権威も必要であり、それなりの覚悟が必要だと思うのです。私も四国八十八ヵ所を世界遺産にしようと取り組むひたむきな人たちの輪の外で見ていますが、世界遺産化は並大抵ではできない大事業なのです。それでも身近にある牧畑という農法がそれだけの価値があると認識しただけでも価値のあることかも知れません。
まず今回のシンポジウムであいさつに立った広島大学の三谷教授が、牧畑の文化的価値についてふれられ、続いて私が「新しい風を起こすまちづくり」と題して基調講演をしました。潜在能力でしかなかった何処にでもある夕日を地域資源として地域づくりを行い、年間55万人を集客するようになったプロセスとアイディアや行動力について熱弁をふるいました。ディスカッションでは牧司と呼ばれるお年よりも参加して牧畑の将来性を探りました。私はこの半世紀の時の流れの中で①変わったこと、②変わってないこと、③変えてはならないこと、④変えなければならないことの整理が必要と話しました。その仕分け作業によって先人が残してくれた文化的遺産に気がつくことから始めるのです。そうすれば結果的に次世代に何を残し何を引き継ぐべきか見えてくるのです。その後は行動という作業によって始め、続け、高め、止めるのだと話しました。
その夜は近くの料理屋で懇親会が持たれました。料理もさることながら夜なべ談義はことの他盛り上がり、交流の輪があちこちに出来て楽しい時間を過ごさせていただきました。特に角市会長さんの子ども3人姉妹と奥さんの妹が随分会を盛り上げてくれました。3女の三味線や奥さんの妹さんの民謡は絶品で、沖縄や宮古島と同じく暮らしの中で育った音楽や歌に、酒を飲まない私ままでがお面を被ってひょうきんにも踊る羽目になってしまいました。前日が中秋の名月とかで楽しみにしていましたが、懇親会が終わった頃、中秋の綺麗な月を見ることが出来て幸せでした。
あくる朝角市会長さんは早起きして船着場まで見送りに来てくれました、。時化で心配したレインボーという高速船も3日ぶりの運行で、北海道大学の秦助教授とともに乗船しましたが、やはり外海はうねりの余波が大きく、時折ヒヤーとするような時もあったようでした。何はともあれ2時間ほどで無事境港へ到着し、再び自家用車でわが家への道を急ぎました。
「シンポした だけでも進歩 しましたね これから先は 誰にも分らず」
「牧師かと 思えばじいさん はい牧司 朴訥口調 されど説得」
「カメラ撮る 人を撮るとは 何事か これぞあ・うんの 呼吸ピッタリ」
「レインボー 虹ではなくて 船名前 波を追い越し 境港へ」