○私を育ててくれた青年の家の名前が変わりました
私は青年の頃、青年団に入って様々な活動を行ってきましたが、その活動拠点は地元の公民館であったり全国に散らばった国立・県立の青年の家でした。とりわけ青年の家では全国の仲間と知り合い、自らの知的能力を高めてくれたように思います。ゆに私にとって青年団・公民館・青年の家は恩人といわなければなりません。その青年団がどの町や村でも殆ど潰れ、公民館が人の集まりにくい生涯学習センターと改名し、青年の家も国立では独立行政法人青少年交流の家などと、舌を噛みそうな一辺では覚えられないような長ったらしい名前になって、果たして国は利用者のことを考えているのかしら?と疑いたくなるような変化が随所に出始めているのです。社会の変化や効果効率を考えなければいけないことは百も承知ですが、何だか仏を作って魂を入れないような、人間の心を無視したやり方に、憤りを通り越して諦めすら覚えるのです。農業の現場を指導する普及所が普及センターに改名し、農協もJAなどと名前を変えて近代化を図ろうと目論みましたが、営農指導を忘れたJAや普及センターは殆ど地域の農民から信用されなくなって、農業の需給率は下がる一方で、農業の行く末に暗い影を投げかけているようです。
青年の家の目まぐるしく変わる方針と魅力のない指導に嫌気がさして青年の家から少しの間遠ざかっていましたが、人が変わり指導方針が変わって、何かの拍子に復縁を迫られ、今は少し深みにはまり込んでいるのが現状です。今日も「大人を考えるフォーラム」の実行委員会が開かれ、ご依頼のままに2年も続けて委員長に祀り上げられ、出掛けて行きました。大洲青少年交流の家は、私たちが若い頃青春のエネルギーを燃やして誘致した曰く因縁のある施設です。何もない雑木林だった場所に当時の坂田道太文部大臣を呼んで来て誘致した物語を思い出すと今でも胸が熱くなるのです。
つい最近青少年交流の家と改称した看板がかかるこの施設はかつてないほどの危機感を持って、いやひょっとしたら文部科学省直系の本部からの指示を受けて、様々な変化に翻弄されながらも生き残りをかけて努力しています。その苦しみが分るだけにこちらも恩返しのつもりで努力をしているのです。施設の外の交流広場では、そうした厳しい内情を知ってか知らずでか今も昔も変わらない若者たちの歓声が聞こえていました。
大洲盆地に秋の気配が漂い始めていました。昨日までの雨が嘘のように晴れわたり、山並みと肱川の悠然とした流れが私の心を癒してくれたようです。
「看板の 名前が変わり 何処となく 戸惑いがちな 自分発見」
「ああ昔 ここに大臣 呼んで来て 一席ぶった 懐かし日々が」
「♪青い空 聳える富士は♪ 大声歌った 昔懐かし」
「振り返る 俺もその歳 迎えたか 気構えだけは 若いつもりだ」