shin-1さんの日記

○第二のふるさと宇和島

第一があるのだから第二、第三はあって当然です。結婚が第二の人生なら私は目下世にいうリタイアによる第三の人生に足を踏み入れたことになります。第三の人生はこれまでの縛られた人生から解き放たれて自由な人生ですが、残念なことに給料が出ないという事実も抱えています。毎月何の疑いもなく給料を貰ってその給料で35年間も生活してきた私にとっては、生活の原資となる丘陵を断たれることはまさに死活問題ですが、幸いなことにチャップリンのライムライトを絵に書いたような少しばかりの蓄えと退職金によって年金生活の始まる62歳まで飢えと寒さをしのいできました。そして目出度く今月始めに満62歳となり、いよいよ来年から念願の年金暮らしが始まるのです。年金暮らしはいわば老いとの協働暮しですから、健康や生きがいなど今まで他人事と思っていたことが自分の身に降りかかる人生の仕上げの時代なのです。

 3日前宇和島市で開かれ話に出かけた「年金受給者」の集会も、そんな同類人種の集まりでした。この日は立派な弁当が出ることがあるいは魅力なのか、会場は立ち見ができるほどの盛況ぶりでした。しかし中には私の指摘どおり、講演など何処吹く風、受付で弁当を貰ってそそくさと引き上げる不心得者もいて、そのことを冒頭に話して一同爆笑の渦となりました。

 私の人生にとって第一、第二、第三があるように、私のふるさとも第一、第二があるのです。勿論第一は私が生まれ私が育ち、私が暮らしている双海町です。私は多分この町で一生を終えるでしょうがこのかけがえのない双海町を心から愛しています。さて「あなたのの第二のふるさとは?」と聞かれたら私は間髪を入れず「はい私の第二のふるさとは宇和島市です」と答えるのです。何故なら私は高校時代の3年間をこの宇和島で過ごしました。自分の人生の殆どを過ごした双海町を除けば3年間という短い期間ながら私にとっては長い期間を過ごした場所は他にないのです。しかも高校3年間という極めて純粋な青春時代を過ごしたのですから、自分の人生観が変わるほどの影響を受けたのです。

 宇和島には鶴島城という天守閣を持った城山が町の中心に聳えています。その真下にある枡形町の民家に下宿して高校に通いました。2006年2月10日、アメリカ原子力潜水艦グリ-ンビルに衝突し沈没した実習線えひめ丸の所属する愛媛県立宇和島水産高校漁業科に学び、初代の愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海に出かけたことも私にとっては大きな出来事でしたが、それもこれも宇和島という地域に帰属しての出来事でした。

 当時宇和島まではSL蒸気機関車で半日もかかりましたが、今は道も整備されて僅か2時間足らずで行くことが出来るのです。それでも宇和町、今の西予市を越え法華津峠のトンネルから出ると眼下に法華津湾が見える光景は、何時見ても青春のあの頃にタイムスリップして心が騒ぐのです。半世紀がたった今でも・・・・・。

 宇和島には知人友人も多く、何かと結びついては訪ねるのです。それは私のDNAの中にしっかりと宇和島が入っている証なのでしょう。その宇和島でじゃこ天の祭りをするからと先輩から相談がありました。第一次産業以外とりたてて産業のない宇和島は将来の方向を見出せないまま苦悩しています。海の駅を作る計画もあるようですが何から手をつけたらいいのか、賛否両論の中で揺れています。明治維新に活躍した大村益次郎も宇和島ゆかりの人であり、伊達政宗ゆかりの地でもあります。歴史的には古いのですがその歴史をどう未来と結びつけるかがキーワードのような気がしてなりません。

 第二のふるさとに思いを寄せて生きる人間にとって宇和島は輝き続けて欲しい地域なのです。

  「第三の ふるさとなんて あり得ない 第二で留まる 俺のふるさと」

  「只今は 第三人生 真っ最中 第四死ぬとき まだまだ先だ」

  「食いつなぎ やっと年金 気がつけば 後がないなと まるで他人事」

  「宇和島の じゃこ天吾を 助けたり 今では双海 じゃこ天名物」

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shin-1さんの日記

○熊本へのひとり旅③

 熊本入りする前、私宛に数本の電話がかかってきました。先日私の元へ視察にやって来た前原村の村会議員さんです。彼らはシーサイド公園で私の話を聞いて帰りました。インスピレーションでアドリブ話をする私が彼らに何を伝えたかはもう忘れました。でも私の話で心の扉を開いた議員さんは帰り際、「私の村のミルク牧場の経営についてアドバイスを」と耳打ちして帰りました。私のような田舎者があんなでかいミルク牧場の経営についてアドバイスすることはありません」と断ったのですが、彼は帰って私の話をミルク牧場の支配人に話したそうです。早速支配人から電話があり、私の話をわざわざ会場までかけつけて聞いていただきました。そして帰りの道筋を寄り道してミルク牧場を見て欲しいといわれ、明日からの三宅島行きの混んだ日程で先を急ぐのでと前置きしながら、少しの時間お邪魔することにしました。渡邊さんの案内で国道57号を大きく迂回して阿蘇ミルク牧場へ行きました。

 阿蘇ミルク牧場の正面玄関です

 入場ゲートです

 阿蘇ミルク牧場へのアクセスを示す観光案内図です

 阿蘇ミルク牧場のサインです

 乳製品から肉製品や農産物まで様々なアイテムが販売されていました

 安くて美味しいバイキング方式の食事です

 コーディネートも行き届いた清潔感漂う店内です

 小学生が牛乳を使ってアイスクリームの体験学習をしていました

 ウッドデッキから見える原風景は熊本市街や遠く海まで見える最高のロケーションです

 時間がなかったので詳しい園内の状況や、経営の詳細については聞けませんでしたが、年間25万人程度の入場者を持つ畜産体験型テーマパークのような感じを持ちました。園内で働く人の数も50人弱ということですが、ここの欠点はご多分に漏れず天候と季節に左右されることだと直感しました。幾らいい品物を持っていても、幾らいいプログラムを用意しても天候と季節に左右されると宝の持ち腐れです。さらには馴れによるマンネリで右肩下がりの入場者をいかに食い止めるかも知恵の出しどころです。さらには職員のコスト意識や職員の知恵をどう引き出すか、支配人の腕の見せ所でしょう。

 幸い大消費地博多と熊本を2時間圏内に控えているので対象者の心配はないようです。

 お見受けした所では産物はとてもいいもので、特に都会の消費者が喜びそうなものが沢山用意されていました。来た人にだけ売るのでは右肩下がりの入場者という現状では限界があります。「作った商品をどう売るか」が大切なポイントのようです。

 さて私だったらどうするか。少し整理をして提案したいものです。ビジネスの基本は「物を売る」から「本物と感動と真心を売る」に変化しています。そのことに気付いて方向転換しない限りはこの牧場もどこかのテーマパークと同じゴーストタウンへの運命を辿ることになるでしょう。それは前原村の運命とも合致します。企業城下町は夕張市のように石炭がなくなれば衰退します。幸い夕張市は国際映画祭などのソフトで見事に復活したように見えました。しかし残念なことに市の放漫経営といわざるを得ない失態によって再び暗いトンネルに入っています。世の中は失敗が強力なバネになることだってありますが、高度成長時代と違い失敗の救済や再生は中々厳しいものがあります。心して頑張りましょう。それにしてもタイムリーな熊本へのひとり旅でした。

  「この村に 爽やかな風 吹かそうと 知恵を出し合う 人に誘われ」

  「熊本が 遠くにありて 近くなる 人の思いで 更に近くに」

  「多目的 何でもあるが 無目的 何を売るのか それが分らず」

  「牛乳が 美味いだけでは 人が来ず 家で飲んでる 何処が違うの」

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shin-1さんの日記

○熊本へのひとり旅②

 ご多分に漏れず市町村合併で私の訪ねた熊本県でも社会教育は瀕死の危機に直面していると聞きました。社会教育の中心となるべき職員が合併でやる気や熱意を失ったばかりでなくネットワークがズタズタになっているようです。加えて社会教育委員もその数は激減、予算の一律カットや社会教育施設の効果効率運営という名の下に施設の運営までも指定管理者制度という訳の分らぬ検討が行われているのです。かつて社会教育に情熱を燃やした会教育関係者は、「ふざけるな」といいたいけれどその力も行動もないのです。

 そんな中でまちづくりを生涯学習の中心にすえて活動してきた私の話を聞きたいと、熊本県からお誘いがあり出かけたのです。

 私の話は約2時間にも及びましたが、熊本県社会教育委員連絡協議会会長さんから後日届いたお礼のハガキが全てを物語っているようなので、あえて紹介します。

 「昨日は熊本の社会教育の発展のため、貴重な体験を語っていただき、誠にありがとうございました。ご承知かと思いますが、市町村合併で社会教育委員数は激減し、財政も危機に陥り、お願いするのも弾られました。しかし快くお受けいただき感動しました。講演は大好評、これだけで大会は大成功となりました。来るときとは違ったキラキラ光り輝く表情で帰られる人を見て、しみじみ思いました。「よし、俺の町は、俺が背負ってやる」「社会教育委員は町の最高デザイナーたれ」、きっとそういう思いを強くされたのだろうと思います。閉会まで全員が残るという、今迄になかった現象が起こりました。人間感動すればこうなるの証左です。会長ありがとうと感謝のことばまでいただきました。本当にありがとうございました。

 嬉しい便りです。私の講演で熊本の社会教育が変わることはないかも知れません。でも社会教育は結局人がするのですから、人の心に温かいやる気の種を蒔くことだって必要なのです。私はその種蒔きのお手伝いをしたにしか過ぎないのです。私も社会教育在任13年+2年=15年しかやっていませんが、それでも私の心の中に潜む暖かい血は紛れもなく社会教育の現場で育ったものなのです。

 金がない、行政の理解がない、住民が集まらない、社会が大きく変化していると、社会教育の現場で働く職員から様々な言葉が帰ってきます。私流に言わせれば「そんな話は昔もいっぱい聞いた。だから社会教育が必要じゃないの」なのです。「金がなければ知恵を出せ、知恵が出なけりゃ汗を出せ、汗も出なけりゃ辞表出せ」は私の言葉です。行政に理解がないのではなく理解させていないだけなのです。社会教育には住民という立派な後ろ盾があることも忘れてはいけません。住民が集まらないのではなく集められないだけのことです。社会が大きく変化しているというけれど人間はそんなに変化していないのです。「やらないことをやれない」と言う間は、社会教育の大きな発展は望めないのです。

 「熊本から、熊本へ」、私は数日前の講演による肉声と、こんな小さな名もなきブログで熊本の社会教育への熱い熱いメッセージを送っています。さて熊本の社会教育関係者の誰がこのメッセージを受け止めたり拾ったりしてくれるでしょう。ハガキで私にボールを投げ返してきた社教連の会長さんはさすがつわものです。市民に向き合わずパソコンに向かって仕事をしている愚か者が多いのであれば、わたしのこのデジタルメッセージはひょっとしたら見ているかもしれません。パソコン愚か者がパソコン賢者になるにはアンテナを高くしていい情報をキャッチし情報を処理する能力を持つことなのです。

  「今頃は パソコン向かって 仕事する 何をしてるか 市民に向かえ」

  「一枚の ハガキに感動 書き綴る 五十円だが 金では買えぬ」

  「文化とは 立派な会館 だけじゃない より良く生きる 営み大事」

  「熊本へ ブログで小さな メッセージ はてさて誰が 受けてくれるか」

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○熊本への早朝ひとり旅①

愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師をしている私にとって毎週水曜日は講義の日です。したがって余程のことがない限り水曜日の夕方6時からは浅知恵を働かせて大学生22人の前でまちづくりを熱く語るのです。先週の水曜日に講義が終わると車を走らせ三崎半島旧三崎町付近にあるフェリー乗り場まで行き、フェリーに車を乗せて旧佐賀関で降り、愛媛から大分へ海の上をつながっている国道378号や国道57号を走って熊本県の城南町まで行きました。三崎には塩崎君、佐賀関には渡辺君と旧友がいるので会いたいのですが、深夜でしかも急ぎ旅だったので後ろ髪引かれる思いで両町を後にしました。

 今回の旅は熊本県社会教育研究大会の記念講演なのですが、大学の講義の穴を空けることも出来ず、前夜の講義と午前中の講演を両方可能にするためについついこんなハードな日程となってしまいました。何せ朝の9時までに到着しなければならないので、深夜の道をひた走りに走りました。途中道の駅などで仮眠をとりながらのユックリズムだったにもかかわらず、カーナビゲーションのお陰で、目的地の電話番号を入力するとルートまで選んでくれる念の入れようで、一度も迷うことなく目的地に到着しました。

 時間があるので少し散歩でもと思ってあちらこちらを回っていると、私にとってはすごい発見をしました。まず、会場となっている火の君文化センターの敷地内にある駐車場の片隅に小さな記念碑を見つけました。この辺りは戦争中隈庄という飛行場だったようですが、何とその主力機は爆撃機の飛竜だそうです。私は思わず縁の不思議を感じました。実は私の町にもこの飛竜のプロペラが保存されているのです。私の町の飛竜のプロペラは私の町の漁師さんが佐田岬沖で底引き網の操業中に網にかかったのを曳航して取って帰りましたが、当時はそのプロペラの付け根の部分が今飛行機の本体と外れたのではと思わせるような光沢があったことから一時はマスコミが取り上げ、捜索隊まで出る騒ぎとなりました。私は当時教育委員会で町の広報を担当していたので、取材に同行したり飛竜のご遺族の方や戦友の来町に対しお世話役をしたことを覚えています。この飛行機は飛行機内で火災が起こり不時着したという事実が判明しており、町では遺族のこともあって保存塔を建てて保存することになり、その仕事も私がやりました。今はすっかり忘れ去られたようになっていますが、戦争の形見だけに平和への祈りを込めてこれからも見守りたいものだと胸が熱くなりました。

 「碧空に祈る」と書かれた裏碑文の下に山本さんの名前を発見し又驚きでした。山本さんは毎年終戦記念日の日にお供えを持って飛竜のプロペラ保存塔に慰霊の祈りに来られた方です。戦後60年もたっているのに、ああここにもまだ戦争という傷跡が残っているのです。私たちはこの人たちのためにも平和でいい日本をつくなればと心に誓いました。

 城南町は古墳の町だと聞いていたのでカーナビをアップにして歴史民族資料館の居場所をつきとめ、車を走らせました。川の向こうまでの道を進んで行くと高速道路の側道に沿ってなだらかな丘が続いていました。入口には竪穴式住居と高床式住居が復元され、弥生人の祭事風景が石仏で再現されていました。

 かつて私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループは、無人島由利島にカヤ1500束を運び直径10メートルの竪穴式住居を造ったことがあり、感慨深げに中を見学させてもらいました。そして驚いたことに、その裏山の丘陵地にはすごい数の古墳群が整備されていたのです。

 その数やおびただしいもので、私も色々な所を見て回りますが、この塚原古墳公園の大きさと行き届いた整備にはただただ驚きの目を見開きました。傍で高齢者がゲートボールのような計スポーツに興じていましたが、彼らの目には古墳公園の価値などアカデミック過ぎて分らないって感じの笑い声が秋空に響いていました。

 それにしても、早起きは三文の得といいますが、この日の朝も思わぬいい得でいい徳を積ませてもらいました。

  「四日間 だのに早くも 度忘れし 思い出せない 俺も歳だな」

  「早起きし 散歩の途中 発見す 歴史の重み 心にずしり」

  「得をした だから私は 徳を積む 納得人徳 ささやかながら」

  「人寝てる 間に俺は 人儲け 凡人だから スピード上げねば」

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shin-1さんの日記

○大根の成長

 久しぶりに行った昨日の東京は雨と風が吹いて、そこここに貼ってある紅葉見ごろのポスターが寒そうに感じるほどでした。「ああ関東は冬遠からじ」と思わず勘違いするほどでした。それでも都会の人、特に若い女性はへそや腰周りの素肌をちらつかせ、若者ならぬ男どもの視線を引き付けようとする懸命な姿に「遠慮ひだるや(お腹が減ること)伊達寒や」という諺があるのを思い出しました、。多分昨日の寒さはお尻の割れ目まで、パンツの色まで見せていた女性には堪えたのではないかと思うのです。それでも雨傘の列が何時までも何処までも続く辺りはやはり都会の賑やかさでしょう。今朝地元に帰って街中を歩くと、出会った人の殆どが中年以上で高齢者も多く、この落差は何なんだと少し落胆したのですが、それでもこんな田舎にどっぷりつかって暮らしていると、また東京へ行った時のあの喧騒がたまらなく耳障りになるのですから、慣れるということは恐ろしいものなのです。

 今日は久しぶりにわが家の食事を食べました。仕事から昼休みで帰った妻は早速手早く私のために色々と料理を作ってくれました。よく見ると大根の途漬物、納豆にすり大根、大根のおでんとまあ食卓には大根を素材にしたシンプルな料理がならんべられているではありませんか。勿論私は自分のペンネームが「大根心」というくらいですから、大根は事のほか大好物ですが、「ここまでやるか」といわんばかりなのです。

 

 久しぶりに車を洗ってワックスをかけ、気分転換に上の横の家庭菜園に行って見ました。私と親父が、いや親父と私が蒔いた大根の種は既に秋祭りも終わって立派に成長し、市販の大根に負けないような出来栄えです。今年は種を蒔いて1週間くらいして突風が吹き荒れ、芽が出て間のない間にかなりの量が吹き飛ばされてしまいました。親父の落胆は相当なものでしたが、それでもそのことが間引き状態となって大根がよくできるという皮肉な結果となりました。大根は親父の手入れがよいため根元の草も古葉も処理され見事に育っています。一緒に植えたカブは病気にやられましたが、消毒を一回したので随分回復し、今は浅漬けとして食卓に上っています。

 先日高知県へ仕事で行った帰り、無人市で籾殻を3袋買ってきました。一袋200円でしたが親父へのプレゼントとして渡したところ、先日ほうれん草の苗床にしっかりまいていたためほうれん草の芽は順調に育っているようでした。

 口ばかりの私と、口も出すが汗と知恵も出す親父とでは野菜の出来も一目瞭然で、忙しかった言い訳を差し引いても、私の今年の農作物収穫は散々でした。特に人間牧場などはイノシシにまで知恵負けしたのですからどうしょうもありません。まあ親父が元気なうちは」親父に肩を持たせようと、手のいい言い訳をしているこの頃なのです。

  「大根が 美味い季節と なりました 食卓大根 あれもこれもだ」

  「もみがらを 種の上場に そっと撒く 暮しの知恵か しめりけありて」

  「親父ほど 根の続かぬ わが身にて 思いやられる 老後の畑」

  「この畑 親父の性格 よくて出てる 草もはやさず 畝は真っ直ぐ」

 

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shin-1さんの日記

○群馬は空っ風ならぬ雨でした

 中曽根さんや福田さんなどの総理大臣を輩出している群馬県へ群馬県町村議員研修に招かれ出かけました。群馬県は上州国定忠治、上州といえば「かかあ殿下に空っ風」と話題に事欠かない地域ですが私は何度か訪ねており、今回の会場となった玉村町は地域づくりの研修会に招かれたことのある懐かしい地域です。

 群馬県は東京から新幹線で僅か1時間足らずで高崎に着きます。会場までは約40分ほどかかり、これたいった公共交通機関もないことから事務局の上田さんがわざわざ高崎駅まで貸切タクシーで迎えに来ていただき恐縮しました。

 会場となった玉村町文化センターは約千人も収容できる立派な建物で、合併して69の町村が26町村になったとはいえ議会事務局職員も合わせると約500人の人が参加して、さすが議員さんだけあってど迫力の研修会でした。

研修会に先立ち昼食をとっている控え室へ川場村の村議会議長さんはじめ4名の方がお見えになりました。聞くところによると何年か前私の町へ視察に見えられたとのこと、はっきりは覚えていませんが群馬県のある村だったことだけは記憶の糸を手繰り寄せました。早速名刺交換をしましたが砂山議長さんから何やら祝儀袋を手渡されました。見ると「目録、川場村議員会と書いて、中には「りんご一箱(十キログラム)、りんご名ふじ、収穫時期がきましたらお送りいたします」と書かれてあるのです。なんという優しい心でしょう。私は思わず目が潤んでしまいました。傍で見ていた県の事務局長さんがすかさず上毛かるたを引用され「雷(らい)と空っ風義理人情」と評されました。まさに義理人情の世界でした。一度きりの出会いをしっかり覚えていただいたことを肝に銘じ、これからも視察者に対してしっかりと礼節をわきまえなければならないと思いました。

 それにしてもこんな会場の壇上に上がるのですから、田舎物の私としては何だか気恥ずかしい感じもします。それでも与えられた仕事ですから壇上に上がると臆することなく堂々と話さなければなりません。この日はジャーナリストの有名な方が私の後に控えていて、どとらかというと私は前座のようなものなのです。前座は真打登場までのつなぎのようなものですから、しっかりと会場の雰囲気を保たねばなりません。

 綺麗な花の飾ったこの壇上で私は90分間思いのたけを喋らせてもらいました。音響といい、会場の反応といい最高でした。

 帰って私のパソコンのメールを開けると、参加した議員さんから何人も感謝と感動のメールが届いていました。「よっしゃー」と思わずガッツポーズをするほど嬉しい出来事なのです。失礼ながら議員さんという職種は数と年功の序列、それに大きな声がまかり通る世の中なので正直いって好きなタイプではありません。でも最近は合併による議員の整理整頓が進んだのか、やる気に満ち溢れた方々も沢山いて、私の先入観を覆さねばならなくなりました。地方自治にとっては嬉しい出来事なのです。

 それにしても私のような人間が何で群馬県くんだりまで呼ばれるのだろうと、妻ですら不思議がるのです。そもそもは東京丸の内のフォーラムAで開かれた全国監査委員研修会に記念講演を頼まれ、その参加者の口伝えがこんな結果を生んだのですから世の中分からないものです。分らないついでに、各県の町村議会議員研修会の話題がまた町村に広がってゆくという核分裂、いやねずみ算とでも言うべきか、面白い方向へと発展しているようです。

 それにしても約90分食後の眠たくなる時間をよくぞ眠る人もなく聞いていただきました。感謝感謝です。

  「国定の 義理人情が 今に生き リンゴ目録 わざわざ届けに」

  「メールなど 縁なき世界と 思いきや 議員メールで 感動感謝」

  「音響も マイクも全て 一流で 俺の話は さて何流か?」

  「風ならぬ 秋雨濡れて 上州の 人情出会う ふれあいの旅」

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shin-1さんの日記

○宵祭り

 10月22日と23日はわが町の秋祭りです。自治会長をしている私としては神輿運行の準備などでこの1ヶ月は忙しい日々を過ごしました。長い間の伝統とでも言うべきか、これらの仕事は全てアバウトながら、何の問題もなく何年もくり返されているのが不思議なくらいです。私は昨年そのアバウトさに翻弄されたので、任期2年の2年目はその徹を踏まないために昨年祭り終了時、気がついた自治会長の仕事をメモにして残していたので、今年は随分助かりました。でも集会を開いたり、警察の神輿運行許可をもらったり、また神輿の役員を決めたりととにかく忙しいのです。

 宵祭りの昨日は1時から神社の総代会が行われ、2時から秋祭りの祭礼が行われました。神社に拝殿 幣殿 本殿と三つに仕切られていますが、普通は一番手前の拝殿までしか揚がることが許されませんが、春と秋の祭礼には幣殿で総代さんが集まって、本殿を拝みつつ、宮司さんの所作を無言で眺めながら粛々と進む式典を眺めて、宮司さんの言う通り頭を下げたり、二礼二拍手一拝したりするのです。宮司さんの祝詞奏上などはまったく意味不明で、庶民の私たちには知るよしもなく、正座による足のしびれの方が気になって仕方がないのです。

 そのうち宮司さんは榊に御幣のついたものでお払いを始めます。私たちもうやうやしく頭を下げてその上を御幣が通り過ぎてゆくのを待つのです。最後はお神酒をいただいて一通りの神事を終え直会となるのです。

 その前に鈴神楽というのがあって、宮司さんの太鼓に合わせて、綺麗に着飾った稚児が鈴を持って本殿前の幣殿で優雅な舞を舞うのです。シンプルな舞ですがこんな田舎の神社にこんな文化が残っているなんて驚きですね。

 すでに前日私たち総代の手によって30数本の幟が境内や門前に立てられ、どことなく祭りの雰囲気が漂ってきました。拝殿には大人神輿一体とと子ども神輿二体がそれぞれで番を待っています。

 直会終わった4時頃、地元灘町の子どもたちがやって来て子ども神輿が町を練り歩きます。子ども神輿は自治会の副区長と会計の3人が担当しますが、私も責任上夕方までの1時間一緒に町内を練り歩きました。灘町という私たちの地区にも少子化の波が押し寄せ、小中学校合わせて僅か20人なので、今年から小学生は3年生から繰り下ろして1年生からにしたため、小さな小学生は私に言われたとおり、大きな声でワッショイワッショイ掛け声をかけて練り歩きました。近所の人からは「今年の神輿は元気だ」と褒めていただきましたが、さて明日までこの元気が持つかどうか気がかりです。

  「兄ちゃんに なったら神輿 担げると ささやかな夢 今年は成就」

  「鈴神楽 少女あでやか 舞を舞う 神主太鼓 思わず間違い」

  「神主の 祝詞何だか 分らぬわ だからいいのか 神の言葉は」

  「神輿など どうでもいいよ ご祝儀が 本当は気になる 中学生は」

 

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shin-1さんの日記

○名古屋の金の時計と銀の時計

 私のように全国の都道府県は全て制覇した全国を飛び回っている人間でも、まだ行っていない市町村はいっぱいありますから、狭いといわれる日本も考え方によっては随分広いものです。人間には好みや仕事柄行く場所がかなり固定化されているのでそのような偏りが見られるのかも知れませんが、縁のない地域はほとんど縁がなく、多分縁なしで人生を終わってしまう可能性すらあるようです。

 数日前名古屋へ行く機会がありました。三大都市といわれながら東京や大阪から比べるとどういう訳か札幌、仙台、広島、博多などよりもはるかに縁の少ないのが名古屋です。それでもこれまで10回以上はお邪魔しているもののこの3年では3回、つまり1年に1回程度なのです。私のように目的地と自宅を移動するだけの人間にとっては、町並みや特長ある出来事に触れることも少ないので、殆ど土地勘をつかめないままの地域も多いようです。

 名古屋の駅まで大阪から新幹線のぞみだと約1時間あまりですが、私は大河ドラマ功名が辻に出てくる関が原の辺りを体感したく、少し余裕の時間があったのであえて時間のかかる快速電車に乗りました。快速電車もかなりのスピードで走りますが、並行して走る新幹線はそれよりもさらに速い速度であっという間に追い越して行きます。

 早朝京都駅より手前の駅付近で水平線から出た綺麗な朝日を車窓から拝むことができました。一点の曇もない澄み切った空に昇る朝日は神々しく思わず両手を合わせて祈りましたが、その姿を見て隣の席に座っていた見ず知らずのおばさんが「信心深いのですね」とポツリ。「いえいえ、ただ美しく心が洗われるようで」と返しました。

 関が原は列車が止まったものの降りることもなく駅にかかった看板でのみしか天下分け目といわれた古戦場を体感することは出来ませんでしたが、それでも何か分らぬ歴史の重みのようなものは感じ、ドラマを見るのが楽しみになってきました。

 名古屋の駅には在来線の改札と新幹線の改札があるのですが、待ち合わせ場所は金の時計か銀の時計です。今回は主催者側から銀の時計という待ち合わせ場所の指示があったので、改札を出た前なので直ぐに迎えに来られた担当者と面談することが出来、迎えの車に乗り込みました。

 これが銀の時計ですが、ちなみに反対方向の入り口には金の時計というのがあって、どちらも甲乙つけがたいお洒落な時計なのです。名古屋地方の人はこの二つの時計を待ち合わせ場所にする人が多いのか、どちらの時計も回りに多くの人がたむろし、お目当ての人を見つけた人はそそくさとその場を離れていました。それにしても誰が考えたか分かりませんが名古屋の駅は中々お洒落ですね。

 名古屋の駅前は方向音痴なのでどちらが正面玄関か分りませんが、東京や大阪に比べるとビルの高さが少し低いものの、交通の要所だけあって賑やかで、特に今年は中日が野球でセリーグ優勝で日本シリーズを日本ハムと戦う快進撃もあって何処となく活気が感じられました。

 この日の集会は「2006農村整備推進セミナーin東海」という水土里ネット愛知が主催するもので、愛知、岐阜、三重の3県から200人もの人が集まってすごい迫力でした。特に漫才家の大介花子さんが漫才をやったとき使ったという集音マイクはいい音響で、とても話しやすく、多分私の声も聴衆には素敵な声として響いたことでしょう。

  「待ち合わせ 銀の時計の 前と聞く 何かドキドキ 胸がときめく」

  「関が原 駅前看板 のみしのぶ 功名が辻 テレビ拝見」

  「中日が 優勝セール した名残 そこここ残る 街中歩く」

  「朝日など まばゆいばかりで 得もなし そういいたげに 誰も見向きも」 

 

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shin-1さんの日記

○南海放送のラジオ出演

 昨日の午後、南海放送のラジオに出演しました。「イキイキ夢見人」を(ユメミスト)というのだそうですが、面白い番組です。時々車の中で聞いたことのある番組なので興味を持ちました。最近はラジオの番組も放送局のスタジオと思いきや銀天街の真ん中にあるグリップというお店の2階で放送するのですから世の中も変わったものですね。スタジオは喫茶店の横にあって、喫茶店にお茶を飲みに来た人も気軽に参加できるようになって、時には雑談もマイクには入るのでしょうが、それがまたリアル感があって心地よいのです。

 宇都宮アナウンサーと寺尾アナウンサーに囲まれて、3人でお喋りをする僅か25分の短いトーク番組でした。お二人のアナウンサーは何度か出会っている方で、私のこともよく知っているため何のリハーサルもなく始まりました。内容は夢の実現についてでした。これまでの夕日によるまちづくりについて一通り流した後、話はもっぱら「人間牧場」の話題に集中しました。「人間牧場って何ですか?」から、何をどうしてと様々な質問攻めに合いました。

 お二人の質問でふと気がついたのですが、私はこの「人間牧場」なる夢をどのようにして手に入れたのだろうと思いました。形なき夢を形にする作業は容易なことではありません。夕日を日本一にしたいという夢を形にした話は余りにも有名ですが、それは役場という信用される看板と公費という財源があってのことで、私はその二つを上手く使わせてもらって仕上げただけの形なのです。

 私が「人間牧場」という形を作るためには夕日と同じように夢を見ることから始めました。50代の10年間でその夢の実現に向けて様々なことをやりましたが、基本は夕日によるまちづくりと一緒で、夢を形にするため具体的な絵に書くことと資金の調達をしました。10年間で高めたスキルを絵に書くためには設計士の長男が私の分身としてよく働いてくれました。瀬戸内海に向かって大きく開く窓や急峻な地形を生かして突き出たウッドデッキなどは、まさに私の考え以上のアイディアでさすが専門家と、親バカぶりもいいとこです。

 そして何よりも苦労したのは資金集めでした。自分の夢の実現にわが家の資金を使えるほどわが家に余裕のないことは百も承知ですから、自らの楽しみを断つしか方法はありませんでした。酒を一ヶ月に10日間止め、その日には飲んだつもりの千円積もり貯金を10年間やりましたが、これが体の健康という思わぬ副次効果も生んでくれました。また何冊か本を自費出版した収益金や講演で得た謝金も小まめにストックしました。塵も積もれば山となるという例えのように、最後は妻に頼み込む一幕もありましたがアップアップながら資金の殆どを調達できたのです。

 幸いわが母が耕していた畑が用地として利用できたり、地元の人のご好意で水が引けたりしてどうにか完成にこぎつけましたが、後は私お得意の物語づくりで楽しいお喋りはあっという間に終わってしまいましたが、それでも車の中でよく聞いている人がいるもので、昨夜はメールや電話で問い合わせや感想が寄せられました。

 退職によりマスコミから遠ざかって1年半余りが過ぎましたが、このところの人間牧場はちょっと目立ち過ぎかなと思うほどにマスコミに追いかけられています。でもマスコミ効果は一時のことですので、そんなに長くはないでしょうから、意の向くままに誠意を持って対応したいと思っています。

 最後に言いたかったことは、私たちに続く団塊の世代の皆さんへのメッセージとして、夢を諦めないでという言葉です。「鮮やかに想像し、熱烈に望み、心から信じ、魂を込めた熱意を持って行動すれば何事もついには実現するという言葉どおり、夢は必ず叶うということでした。

  「ラジオ向き そんな顔する 私にも 本当にラジオ 出番がありて」

  「団塊の 世代退職 間近なり もう一度夢に チャレンジしよう」

  「酒止めて 一日千円 貯える そんな努力が 牧場作る」

  「リハーサル なくても平気 馴れたもの 楽しい喋り 電波通して」 

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shin-1さんの日記

○山梨県笛吹市での出会い

 子どもの頃、「鳥も取らぬに鳥取県」、「山があるのに山梨県」などと面白半分に言っていた私にとっては遠い県だった所が、最近は何だか近い県になって様々な出会いの場所となっています。山梨県もその一つで、観光カリスマ百選に選ばれている舩木上次さんと東京の高輪プリンスホテルで開かれた日本観光協会主催の観光カリスマ集会でひょんなことから知り合いとなって、今では肝胆相照らす仲として色々な出会いを繰り返しているのです。特に彼は関東圏の人だけあって物事の歯切れがよく、田舎者の私にはその小気味よい波長がたまらなく面白いのです。

 彼の紹介で突如として山梨学院大学で何の前触れもなく講演したり、今回は笛吹市での青年会議所主催による講演会とシンポジウムも彼の声かけで実現し出かけました。

 私は約1時間の基調講演の後シンポジウムに出演したのですが、舩木さんのコーディネーターぶりは、行政の域を超えにくい私たちと違って単刀直入にズバッと直球のような質問が投げかけられるのです。特に相手が少し弱音を吐くと「そんなことでどうする」と冷たくも温かい言葉が飛んでくるのです。その矢は行政関係者や学者には特に厳しく、何時だったか壇上に上がった首長さんが「住民の意見をよく聞いてなどと「住民の参加参画と協働」を唱えれば、「そんなにあなたの仕事は暇ですか?。首長は政策や公約を支持されて選ばれたのだから、4年という短い任期は自分が言ったことをどんどんやればいい。4年後に選挙で選ばれたい何てことを考えず全力投球すべし」などときついお灸をすえるのです。参加者のみならず同じく壇上に上がった私でさえ納得するのですから痛快です。また学者には「するべきだなんて自分がしたこともなくできそうでもないことを提案しないで下さい。そんな理論でなく、論理を参加者は求めている」とバッサリなのです。

 近隣の町村が合併して誕生した「笛吹市」という響きは素敵な名前だと思います。会議のまとめで、ブラックユーモアの得意な私は、「ただし笛吹けど踊らずにならないように」とジョークを一発かまして参加者の爆笑を誘発してしまいました。

 考えてみれば笛吹市は私たちにとって羨ましい町です。沢山の人が住む日本の中心地東京から1時間半という絶好の場所にあり、中央本線でトンネルをくぐると平地が広がる盆地に出ます。アルプスを遠望する肥沃な農地には日本一と自認するモモやぶどうなどの果物が一年中獲れ、石和温泉という観光地を懐に抱えているのです。ですから何もしなくても何不中なく快適な暮しが出来るのです。青年会議所の皆さんはこの街をさらに活性化しようと励んでいて活気を感じました。しかし市民のアンケートをとったり夢を形にすべく野外ステージなどの絵を書いて参加した人に見てもらう展示スペースを設けていましたが、その様子に苦言を呈するなら少々空回りかもしれないと思ったりもしました。

 音楽によるまちづくりは、今はもう全国あちこちで行われさして珍しくもなくなりましたが、コンサートで沢山の人を集めようと意気込んでハコモノ造りから始めるととんでもない失敗をしかねません。四国のある町にも似たような失敗事例があって、莫大な予算を投入した野外ステージは立派過ぎて年に1回か2回しか使えず、結局は稼働率年3回なんて結果をマスコミが税金の無駄遣いと厳しく断罪していました。

 私の町だって夕焼けコンサートを21年もやっていますが、未だにハコモノにこだわらず日本一海に近い下灘駅のプラットホームを使っており、あくまでも夕日が主役の「何のために開くのか」という究極のコンセプトをしっかりと守っているのです。ハコモノはないよりあったほうがいいに違いはありません。でも市民の合意形成という点では首をひねりたくなるのです。

 この日青年会議所は「子どもたちに夢を」とアドバルーンを揚げました。企画したメンバーは予想以上の反響に驚いたようでしたが、夢のアドバルーンはこの程度でいいと思いました。

  「秋空に ふわりふわりと アドバルーン 乗った子どもは どんな思いで」

  「企画した 本人たちは 口開けて 空を見上げる ただそれだけでは」

  「今回が 二回目となる このまちは 市長若くて 期待できそう」

  「若者が 親の比翼を 抜け出して 更に成長 するの楽しみ」


 

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