shin-1さんの日記

○金融広報アドバイザーという仕事

 「金融広報アドバイザー」。聞き慣れない名前ですが、これは私のもう一つの顔なのです。私は昭和51年に貯蓄推進員という辞令を日本銀区内にあるもう一つの組織、貯蓄推進中央委員会からいただきました。今は貯蓄推進中央委委員会が金融広報中央委員会に、貯蓄推進員が金融広報アドバイザーに名称変更され、金融や経済の時代背景の変化とともに私たちアドバイザーの役割もかなり変化してきたように思うのです。軽い気持ちで引き受けたはずなのにもう30年以上もこの仕事に取り組んできた計算になります。取り組み始めた頃は家計簿記帳や生活設計、それに貯蓄の大切さを各市町村や団体を回って説いてきました。特に思い出深いのは健康・金銭・人間関係・知識を四つの貯蓄と位置づけ色々な場面で話したものです。私自身貯蓄推進運動で学んだ生活設計が人生を生きていく大きな支えとなったのですからこんなうれしいことはないのです。

 金融広報委員会は若年層や低年齢層への金銭及び金融教育の必要性に迫られ、昨年を「金融教育元年」と定めて学校教育現場で金銭・金融教育に重点を置いています。またペイオフの拡大解禁や少子高齢化の進展等を背景にライフプランや資金運用に関する情報ニーズの高まりを踏まえて草の根レベルの金融知識の普及や情報提供にも力を置いており、その普及や啓発を私たちがお手伝いしているのです。

 こうした仕事をしている私にとって最近気がかりなことが二つあります。その一つは最近お金の値打ちや使ったという実感がまるで湧かない時代になった事です。給料を貰っても、買い物をしても携帯電話を使っても、またインターネットで注文をしても、カードや銀行振込み・引き落としでその殆どがお金に触らなくても用を成すことです。一円玉もも1万円札も触らないものですからまるで数字の世界でしかなく10円と100円はゼロが一つ多いだけ、100円硬貨と500円硬貨は1と5が違うだけなのです。ですからお金の有難さや労働の対価などの話をしても今の若者たちにはピンと来ないのです。これらをひっくるめて私は「音のしない大きな落し物」というタイトルで随分話をしてきました。10円硬貨を落とすとチャリンと音がしてみんな振り向きますが、一万円札を落としても音がしないから誰も振り向かないのです。私たちはいつの間にか便利さの裏に隠されたお金の値打ちや働くことの意味を忘れているように思われます。

 もう一つは景気の動向です。最近は景気も上向きだと短観の出る度に政治家や経済人は嬉しそうに自分たちの政策を自慢していますが、庶民の暮らしにおける本格的景気の回復はまだまだ先のようです。さて景気が良くなれば人々の暮しは本当に良くなるのでしょうか。かつて私たち国民はバブル景気を経験しましたが、暮しは本当に良くなったか疑問なのです。国民みんなが中流意識を持つようになってはきましたが、国民間の格差は益々ひどくなるばかりだしセレブやホリエモン、村上ファンドなどの言葉が出る度に「景気などが上向いた挙句のインフレなど御免だ」という声も聞かれるのです。どこか狂った金融を巡る情報をどう人々に伝えればいいのか質問が気になる今日この頃です。

  「総裁が 一千万を 倍にして 俺らはたった 一パー以下とは」

  「三十年 よくも続いた この仕事 そろそろ引き時 俺は古いか」

  「百円を 落とせばチャリン 音がする 万円札は 音などしない」

  「現金に 触らず生きる 世の中に 便利なったが 懐具合は」

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shin-1さんの日記

○何もそこまで

 人間とは得てして勝手な動物です。寒い冬は暖を求め、暑い夏は涼を求めてその快感を得ようとします。また夏に冬のものを食べ冬に夏のものを食べる季節早取りなどは日常茶飯事のこととなってきました。しかし世の中には「何もそこまで」と思えるような度が過ぎたことがいっぱいあるのです。

 冷房は今や常識、動く車の殆どは窓を閉めて冷房し、家だって冷房のない家は「えっ、冷房がない?」なんて不思議がられるのです。しかし不思議な事に私の家では冷房もなく(本当は応接間に一台あるのですが、使い方が分らないほど使わない)陸風と海風の吹く場所にあって日本家屋特有の天然の心地よい風が家中を吹き抜け快適なのです。一昨日娘の勤務の関係で孫を幼稚園に迎えに行きマンションへ連れて帰って子守をしていました。私はどうもないのに孫はやたらと汗をかくのです。「おじいいちゃん暑い」という孫の声に気がつくと冷房を入れるのを忘れていました。慣れないことなので戸惑っていると3歳の孫が「おじいいちゃん冷房はこれ」とリモコンを持ってきました。孫の暮しは冷房が当たり前になっているので、自然は不自然と逆転し冷房が自然で自然の風は不自然になっているのです。私は娘のマンションへ行って部屋の中で過ごすとついつい息苦しくなります。窓を全て締め切り、笑うことも音を立てることも全て上下左右の顔も知らない住人を意識して暮らしてゆかなければなりません。ましてや隙間のない部屋はまるで空気さえも止まっているのです。「こんな空気を吸っていたら今に病気になる」と思うので、娘のいないことをいいことに窓を開けて外気を取り込むのですが、外から入る空気は「美味しい」と思ったりさえすることがあるのです。

 水を容器に入れて一週間ほおって置くと水は完全に腐ります。マンションの部屋の空気もひょっとしたら腐っているのではと思うこともしばしばです。こんな空気を吸うから体調を崩し心の病にかかるのだと思うのです。

 最近の会議は強い冷房で寒くて風邪をひくのではと思うほどです。背広を上に羽織らないと長時間の会議は持ちません。何もそこまで冷房しなくてもと思うのですが、集中冷房ではコントロールが出来ないそうです。昨日視察に訪れた広島の団体の方もバスの前の席は冷房を上げてといい、後ろの席はもっと冷房しろとまちまちで、冷房も百人百様の感じ方があると感じました。

 ハモの美味しい季節がやって来ました。湯引きした純白のハモに梅味のタレをかけて食べる食感は夏だ、旬だと思わず叫んでしまいたいような気がします。でも真夏だというのに早くも新米、早くもみかん、早くもふぐ、早くも梨だと騒いでいます。一番賢い消費者は食べ物の旬を知ってて、その季節に旬を食べる人です。その季節は秋刀魚が安いように美味いものを一番安値で食べられ体にいいのですから、これくらいいいことはありません。セレブだと自認している人は別でしょうが、私たち庶民は少し利口な人間になって自然的で健康な暮しに心がけたいものです

  「お父さん あなたはスイカで 生きている 夏だからこそ 旬が一番」

  「まだ買わぬ まだまだ食わぬ 俺の意地 今旬早速 風流楽しむ」

  「とうきびを 焼いてパチパチ 七輪の はねる音にぞ うちわ似合って」

  「ビール止め 代わりにお茶で 乾杯す 喉はあの味 既に忘れて」

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shin-1さんの日記

○悲しい出来事

 「もしもし若松さんですか」けたたましく感じる携帯電話の呼び出し音で目を覚ましたのは5時ころでした。普通はこの時間起きているのですが、前日の夜が遅くその朝に限ってまだ布団の中でした。「はいそうですが」という聞き覚えのある電話の向こうの声に不吉な予感を感じつつ耳を立てました。「HOさんが亡くなりました」といった途端相手は声を詰まらせました。涙声の話しによるとHOさんが亡くなったのは推定3日前だそうです。推定というのは亡くなって3日目に見つかったのだそうです。奥さんが60歳で亡くなってからHOさんはこの2年ずっと一人暮らしでした。近所の人が回覧を持って行きチャイムを鳴らすが家の中は電気がついているのに新聞受けの新聞も取り込んでおらず、異変に気付いて友人に立会いの下で警察と中に入った時にOHさんは台所の隅で3日前既に死んでいたのです。検死や家宅捜索など慌しい手続きを終えて知人の私への第一報となったのです。

 丁度一週間前、私と妻はHOさんと3人でビアガーデンへ飲みに出かけました。酒を飲まない私たち夫婦ですが酒好きの彼と伊予鉄道後駅で夕方6時に待ち合わせて伊予鉄3階ビアホールの人となりました。奥さんが亡くなってから落ち込みが激しい彼を気遣って年に数回誘うのですが、その度に嬉しそうに参加してくれました。この日もいつになく嬉しそうで、私が持ってくる中ジョッキをさも美味しそうに飲み干しながら過ぎ越し思い出話に花を咲かせました。

 私との出会いのこと、私たち夫婦が仲人した息子さんの結婚式のこと、飲み屋で「ふるさとの灯台」という

歌をカラオケで歌ったこと、下灘漁港の隣に埋め立て造成した公園の下書き絵を書いてもらったこと、奥さんが亡くなってから一人身になって人生を儚んで生きている寂しいこと、奥さんの3回忌法要を先日済ませたこと、広島のお墓の草刈はそれは大変だったことなどなど、少年時代に原爆にあったという彼の思い出まで遡ってまるでドラマを見るようなお話でした。今思うに生前中誰かに聞いてもらいたかったのではないかと思うのです。

 私たち夫婦はほろ酔い機嫌の彼を車に乗せて堀江の自宅まで送り、「まあ上がってお茶でも」といういつものパターンで、彼の入れた麦茶を飲んで「また会おう」と約束し9時ころ彼の家を後にしました。明くる日私は朝早い高知県への出張で留守でしたが、家へお礼の電話がかかってきたと、妻から出張先へ電話をかけてくれました。その電話が最後になろうとは夢々思いもしませんでした。

 彼は几帳面な性格で、家の中はとても男やもめの一人身生活とは思えないほど掃除も行き届き、お邪魔する度にその暮しぶりに妻も私も感心したものでした。

 昨晩の通夜には身寄りが少ないためごく親しい人だけでしたが、私もその親しい仲間に入れていただいて思い出話に花が咲きました。既に棺に納められている彼の顔は残念ながら日数が立っているため皆さんに公開はされませんでしたが、私はご親族と一緒に束の間の涙の出会いや別れをしました。通夜の読経が流れる中で人はばからず一人息子は涙を流していました。母の死も父の死も死に目に立ち会えなかった悔しさが滲み出ているようで、無邪気に遊ぶ子どもさんの声が余計涙を誘ったのです。

 数日前普通見もしない彼の夢を見てビアーガーデンに誘ったことは、いい彼へのはなむけとなったと、妻と二人で話しました。それにしても僅か一週間前の生の土曜日、奇しくも一週間後の死の土曜日、この落差を思うと人生のはかなさをただただ嘆かずにはいられませんでした。

  「通夜の席 カレンダーは 七月で 捲ることなく 人生終わる」

  「今思う 死出の旅路の 予言かな 夢に出てきて 俺を誘った」

  「死んでから 三日も知らぬ 死に方を 仏番人 坊主に文句」

  「今頃は やっと会えたと 手をつなぎ 先行き人と 再会悦び」   



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