shin-1さんの日記

○三崎から佐賀関そして日田へ

 宇和島での講演が終わったのは10時30分でした。三崎発のフェリーは12時30分、前を行くノロノロ運転の車に苛立ちを感じながらの移動時間は何ともハラハラドキドキの2時間でした。フェリーは遅れた人や車を待つことなく出航するものですから、私は宇和~八幡浜間を走る予定を変更して宇和から高速道路に乗りました。一見遠回りのような感じもしましたが、夜昼峠のトンネルを越えて八幡浜へ入ったのは丁度11時30分でした。そこから先は三崎までメロディーラインを1時間、楽勝と思ったのですがノロノロ紅葉マークのトラックの餌食となったり三崎の入り口の交互通行止めをくらいやっとの思いで10分前にフェリー乗り場に到着しました。もし予定通り海岸の道を選んでいたら多分間に合わなかったと思うと、正しかった判断力を自画自賛せずにはいられませんでした。

三崎半島は霧に霞んでいましたが、何時見てもいい景色です。最近は突端にある灯台へも行っていませんが旧友塩崎さんの住んでいる土地でもあるので近々訪ねてみたいと左の井の浦海岸、右の串漁港をデッキから眺めながら1時間10分の船旅を楽しみました。やがて船は豊後水道の速い流れを乗り切り、関さば関あじを釣る漁船が群がる中を横切って佐賀関港に着きました。東洋一といわれる佐賀関の巨大な煙突が出迎えてくれましたが、この煙突は子どもの頃は私たちの町からも年に何回か遠望することができましたが、今はそんなこともなくなりました。佐賀関にはこれまた三崎の塩崎さんを介して知り合った渡辺さんが住んでいる土地でもあります。

 「俺の町を勝手に歩くな」と渡辺さんにいつも怒られるし、佐賀関に来たら必ず連絡するように言われながら、急ぎの旅なので国道197号を突っ走り、カーナビの情報表示どおり高速道路に乗ってひたすら日田市を目指したのです。途中日出ジャンクション辺りから降り出した猛烈な雨は雷を伴い、50キロの速度制限です。ワイパーも効かないほどの雨で前方のテールランプも雨にかすんで危険なほどでした。少しの余裕を感じながらパーキングエリアで遅い昼食を済ませ、日田のインターに到着したのは公園開始1時間前でした。あれほど激しかった雨は日田では一滴もなく控え室のテレビが今日の全国の暑さを報じる一番上のランクに「大分県日田37.7度」とありました。どうりで暑いはずです。

 今日の会議は日田市と天ヶ瀬町の観光協会が合併した設立総会とのこと、その記念講演なのです。日田や天ヶ瀬の全国的な観光地に乗り込み、観光カリスマ百選に選ばれているとはいいながらよくも強心臓だと自分でも思いつつ壇上に立ちました。旧友大山町のひびきの里の支配人緒方英男さんも駆けつけてくれ、自分でいうのも何ですが饒舌な話しというよりはいつも変わらぬ漫談調の話しに会場は爆笑の渦で、眠る人は一人もいませんでした。

 日田は天領のふるさと、筑後川の上流域にあたる三隅川を使った屋形船観光はどこの街にも負けない独特の雰囲気があります。これまで別府温泉や湯布院温泉それに黒川温泉などに隠れていましたが、高速道路の開通によって北九州との距離も縮まり裏から表へと変貌を遂げつつあるようでした。

 宿は江戸時代の町割りが残る豆田町の風早という僅か7室だけの隠れ家的な宿に泊めてもらいましたが、細やかなサービスの行き届いたお洒落な雰囲気は、洗練されたもてなしの心を感じました。筑紫哲也さんが泊まるという一室をあてがわれましたが、いい雰囲気でした。

 昨日の朝早く宿を抜け出し豆田の街を散策しました。

 早朝の豆田の街は人通りがないだけ素敵で、途中花に水をやる薬屋の奥さんと話しこみました。今度はゆっくりと散策をしたいものです。

  「ゆっくりと 時が流れる 豆田町 そこここ感じる 歴史の重さ」

  「夏暑く 冬も寒いと 人はいう 風土は人の 心育てて」

  「三隅川 ぼんぼりちょうちん 屋形船 船頭棹差す 夏の夕暮れ」

  「大山に 若者連れて 昔来た 神社の祭り 今も脳裏に」 


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shin-1さんの日記

○第二のふるさと宇和島

 人にはそれぞれふるさとがあります。私のふるさとは合併して自治体としての地名は亡くなりましたが、紛れもなく愛媛県双海町なのです。最近は伊予市双海町という紹介も随分慣れましたが最初は随分戸惑いました。「あなたにとって第二のふるさとは何処ですか?」と問われたら、私は何の疑いもなく「宇和島」と答えます。何故なら私は高校生活3年間をこの宇和島で暮らしたのです。

 3日前、宇和島市議会事務局長の佐々木さんからお声がかかり県下の市議会職員の研修会に招かれました。前日の交流会から参加するよう指示があったものですから何の疑いもなく出掛けました。

 梅雨明けは聞いていませんが宇和島への道すがら大洲市長浜辺りで肱川の上流付近で夏を告げる逞しい入道雲を見つけました。空の青さと雲の白、それを映す肱川の流れはまさに夏の色を感じさせ、思わず路側帯に車を止め写真を一枚撮りました。後続の車が「何事か」と横目で見ながら足早に通り過ぎて行きました。その夜の宇和島は旧友佐々木さんの配慮で正副議長さんや昨年まで議長をしていた旧友で同窓の土井議員さんも駆けつけ、二次会まで付き合いすっかり甘えた楽しい交流となりました。佐々木さんの行きつけのスナックではママさんが私の下宿していた松原さんの同級生ということも縁の不思議さを感じました。

 一昨日の明くる日、私は朝5時に宿泊先のクレメント宇和島をそっと抜け出し、たった一人で久しぶりの散歩を楽しみました。意の向くままに足の向くままに港付近を歩いていると懐かしい光景に出会いました。『宇和島橋」です。学生の頃何度もこの橋は渡っているのですが、これまで気付かなかった橋に思わず立ち止まりました。モダンな橋なのです。

 橋のたもとに碑文がありました。何でもこの橋は大阪にあった宇和島藩ゆかりの橋を大阪から貰い受け移築した年代ものの橋だと読んでびっくりしました。ここにも歴史の生き証人がいるのかと思わずカメラを向けましたが、多分宇和島市民の殆どはこのことを知る由もなく毎日あくせくとこの橋を渡っているのでしょう。

 私の足はその向こうに伸びる一本道へ向いていました。思い出の彼方にあるこの道の端にはガス会社の丸いガスタンクや軒を並べた造船所、その周りにはレンコン畑が広がっていました。しかし今はその姿はすっかり様変わりして高規格道路の高架橋が時代の移り変わりを象徴しているようでした。

 私の母校である宇和島水産高校に行きました。早朝なので学校の門は全て閉ざされていましたが、悪いと思いつつ卒業生のよしみで通用門から校内に入らせてもらいました。

 正門玄関の趣きは今も昔も変わらず、正門横には「海を怖れず海を愛し海を拓け」という石碑が堂々と建っていました。

 その横には日本中に衝撃を与えた、忘れもしない2001年2月10日の愛媛丸沈没事故記念碑がひっそりとありました。

 愛媛丸事故の追悼慰霊碑

 事故の状況を知らせる碑文

 ハワイ沖階梯00メートルから引き上げられた愛媛丸の錨(9個の鎖は犠牲者の人数)

 この事故で沈んだ実習船えひめ丸は4代目の船で、私が高校3年生の時に乗った船は初代の愛媛丸(214.5トン)でした。もう6年も前の出来事で、人々の悲しみも風化しつつありますが、愛媛丸で育った私としては決して忘れられない出来事ですし、2001年2月10日は私の自費出版本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティと重なった因縁もあるだけに衝撃的な出来事でした。

 慰霊碑に深々と頭を下げて追悼した後私は下宿をしていた枡形町界隈を散策しました。この辺りもすっかり様子が変わり45年という時代の流れの早さを感じつつ、青春の思い出に浸りました。

 西側の登山口から城山に登りました。入り口には宇和島出身の児島の記念碑が建っていました。

 宇和島城はそんなに高くはないのですがうっそうと茂る登山道は昔見え隠れしていた市街の様子をすっかり隠してまるで緑のトンネルの中にいるようでした。

 修復工事のためでしょうか至る所に立ち入り禁止のロープが張られ、城の全容は山頂付近にしか見ることが出来ませんでした。山頂の鶴島城は夏の朝日に輝き美しく見えました。

 僅かな

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