shin-1さんの日記

○銀河鉄道が走った頃

 その昔、といってもつい20数年前わが双海町に銀河鉄道なるものが走っていました。それも銀河鉄道一番の見所は私の家の私設公民館「煙会所」の窓からでした。山周りにその座を奪われすっかりローカル線となってしまった海岸周りですが、上灘川にかかる長い鉄橋とえん堤を走る特急宇和海や通学通勤列車がまるで空中を走っているように見えたのです。

 先日ある雑誌社が一冊の写真集を出版しました。写真のキャプションとリード分の執筆を依頼されたお礼に一冊贈呈されのですが、生まれてから60年間この町に生きてきて自分の記憶の中にある風景がいっぱい集められたページをめくると、インクの匂いと共に懐かしさが蘇ってきました。

 銀河鉄道こそありませんでしたが、鉄道の写真は随分収録されています。下灘駅開業の頃、串駅の鉄橋敷設風景、下灘駅の賑やかな昇降風景などなど、数えればきりがないくらいの写真が伊予・上浮穴の100年と題して載っています。

 一冊が11,550円もする高価な本ですので、誰もが買うようなものではありませんが、執筆という形で手に入れた一冊です、蔵書として大切に使いたいと思っています。本には熟読・乱読などの方法がありますが、積読というのもあるそうです。せめて読書を積むにして、本を積むだけにはしたくないものです。

 昔は自分の名前が活字になって出ると喜んで切り抜いてスクラップブックに収集したものですが、今では多すぎてそんな余裕はありませんし、余り意味がないので止めています。でも今回の一冊は今春私が編纂責任者で発刊した「双海町誌」とともに大切にしたいと思ってます。

  「あっあれはあそこのおばさん知っている古い写真を指差しながら」

  「知っているつもりでいるが知らぬこと多い世の中思い出消されて」

  「昨日今日変わらぬ風景10年前比べてみれば大きな変化」

  「駅降りる娘のスカート短いね当時流行ったミニにニヤニヤ」

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shin-1さんの日記

○こりゃあ便利だねえ

 私の旅の企画立案はこれまで、もっぱら分厚い時刻表に頼っていました。飛行機や新幹線、バスを乗り継ぎながらどうすれば早く安く目的地に着けるか、まさに知恵を絞ったものでした。時刻表をめくりながら空想の世界で風景や食べ物などを思うのも時刻表の魅力でした。

 ところが時刻表は毎年ダイヤ改正によって更新されていくものですから、少なくとも一年に一回は時刻表を買い求めなければなりません。特に分厚い対時刻表の殆どのページは見ることもなく紙ゴミに変わってゆくのですから勿体無いといえば勿体無いのです。

 私のパソコンの腕が少しだけ上達したのか、今はヤフーで時刻表の検索が出来るようになって、明日向かう福井の芦原温泉へのアクセスもいとも簡単に画面に表示され、しかも時間や金額までプリントされるという、考えられない影の味方が出現したのです。

 しかし、悲しいかなページをめくった時刻表ほどのワクワクは残念ながら味わうことができませんでした。

それでも行きも帰りも乗り換えや金額までも分かったのですから、列車の中はのんびりと車窓に映る雪景色を楽しみながら本でも読もうと思っています。勿論駅弁も食べたいのですが残念ながら列車の中は行きも帰りも午前中なので、今回は残念ながら車中での味覚は味わうことが出来そうにありません

 福井といえば越前海岸は水仙の名だたる名所です。私の町にも水仙畑があって早咲きの水仙が早くも咲いていますが、越前は雪に埋もれて水仙が咲くのは春になるのでしょうね。一度だけ水仙の咲く頃に列車に乗って通りましたが、急峻な北向きの地形は私たちの町とよく似ていました。本当は水仙を切って持って行きたいのですが、長旅なのでそれも適いません。でも清楚な水仙の咲く地域の人との交流を楽しみにしています。

  「水仙の香りほのかに漂いてわが町一足早い春来る」

  「雷鳥という名の列車乗り込んで北国目指すわれは旅人」

  「雪降ると文字がメールに書き込まれ頭の中に銀の世界が」

  「寒いからパッチに下着とうるさくもバックに詰める妻の優しさ」  

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shin-1さんの日記

○机の上の貯金箱

 私の机の上にかなり大きな昔のポスト型をした貯金箱が置いてあります。この貯金箱は役場に勤めていた頃からの愛用で、つり銭や小銭をその都度入れてきましたが、毎年年末になると底の蓋を開けて中のお金を出し、計算して歳末助け合いの義援金に送ってきました。今年もそうしようと思っているのですが、学生の三男が目ざとく見つけ「この貯まったお金の使い道は」と聞くのです。「歳末助け合いに毎年協力しているので今年もそうしようと思っている」というと、「お父さん人を助けるのも大事だが、自分の息子を助けるのはもっと大事」と、さもそのお金を自分に回すことが当たり前ような言い分をしました。

 言われてみれば三男の言い分にも一利あるかも知れないと思ったのですが、ブログをご覧の皆様はどんなご意見をお持ちでしょう。「お前にはお母さんを通じて毎月ちゃんと小遣いを渡している。お前より恵まれない人は世の中にいっぱいいる」と息子に反論すべきか、「お前の言う通り今年はお前にこのお金を全部やる」と言って息子の喜ぶ顔を見るべきか、はたまた』自分の夢に使うか、今のところ悩んでおります。正直な話人間牧場の資金が少々不足しているので、薪ストーブの購入資金に回そうかとも考えています。毎年金額にして3万円くらいはあるようですので、歳末助け合いを10年以上続けてきた努力に免じて・・・・とも。

 私は子どもの頃から貯金箱が好きでした。竹筒に鋸目を入れて投入口を作った自作貯金箱は、割らない限り中の物が取り出せない仕組みになっているのに、小遣いが不足するとハガキをハサミで切り、そっと逆さまにして取り出したことも何度かありました。

 私にとって貯金箱の一番の思い出は青年の船でアメリカへ行く時、ある集落の子供会指導をしていて、その子どもたちみんなが相談してそれぞれの貯金箱を持ち寄って割り、そのお金を餞別にくれたことです。あの時は涙が出ました。私はその子どもたちの写真を撮ってアメリカへ持って行きました。船長さんに頼んでにっぽん丸の舳先で子どもたちの写真を掲げ「これがアメリカだ」と叫んだこともありました。

 その後昭和51年から日本銀行の貯蓄広報委員会でアドバイザーとして活動してこれたのも貯金箱のお陰かも知れません。物が豊かな時代でも貯金箱精神は立派な金銭教育だと思います。

  「年末になると必ず貯金箱開けて中身を贈る喜び」

  「一円や五円十円ザクザクと塵も積ればこんなお金に」

  「俺にくれいきなり息子ごもっとも御託並べて虎視眈々と」

  「今年また妻一億の夢を見る当るものかと言いつつ当れば」

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shin-1さんの日記

○もがり笛の鳴るころ

 いよいよ冬将軍がやって来ました。例年だと正月前は以外と穏やかな日が続くものですが、今年は例年になく寒く、もがり笛が良く聞こえます。「えっ、もがり笛って何ですか」といわれそうですが、この言葉は俳句の季語にもあるのですから方言でなく共通語だと思うのです。冬になると海は白馬が走ると表現するくらい季節風が吹き荒れますが、その様子を海が「もがる」と表現します。「もがる」とは海の上と下をひっくり返えすような状態をいいます。

 もがり笛は風がヒューヒュー鳴ることです。特に強い北風が電線や木に吹き付けると様々音に聞こえるのです。

 普通風は微風だと吹いていることすら感じませんが弱風になると爽やかさを感じ、強風は物体の揺れを伴うので風の動きを余計体感します。もがり笛は側耳を立てて聴くと何か物悲しくも感じられ、その様子はこれまでにも多くの人が詩や歌、俳句などで詩情豊かに表現してきました。

 わが町は東シナ海の季節風が関門海峡を越えて広い伊予灘に入って強さを増幅するので風が強く、冬の体感温度はとても冷たく感じますし、もがり笛は一際高く聞こえるのです。

 この風をまちの活性化に役立たせてはどうかと、私の町でも色々と考えました。最近日本全国に設置されている大きな風車で発電をする案も検討され、色々な人が色々な場所へ視察研修に出掛けたりもしましたが、結局は実りませんでした。しかし当時は珍しかった風車も日本全国にこうも沢山できると珍しくも何でもなく、今にして思えば原風景を壊すものだから、よくぞ止めたと一周遅れのトップランナーであるわが町を褒めてあげたい気持ちにすらなるのです。多分風車の回る音は人工のもがり笛として住民の安眠を阻害したに違いありません。

 日々あくせく生きる私たちですが、せめて風の音やささやき、それに冬の風物であるもがり笛を聴くくらいの余裕は持ちたいものです。

  「もがり笛ひゅーひゅーひゅーと音が鳴る風の大声何と聴くか」

  「強弱く音楽奏でるもがり笛作曲すれば滝廉みたいに」

  「冬来れば夏が好きだとわれ思う芯の弱さ気になりながら」

  「旅立ちの明日は晴れてと祈りつつもがり笛聞き床につくなり」

 

 

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shin-1さんの日記

○おばちゃんの悲しい死

 隣のおばちゃんが亡くなりました。一人暮らしのおばちゃんですが風呂場で死んでいたのです。妻が民生委員をしているため何かにつけて注意をしていたのですが、残念な出来事が起こってしまいました。私より一回り上だけのまだ73歳です。人生80年の現代では若い死だと思います。

 最近認知症の症状が出始めたので隣町に住む娘さんも気になって度々覗いていたようですし、私もわが家でやっているお地蔵さんのお接待のため毎月21日には赤飯を炊いて近所の独居老人に配っていたので、私か妻が毎月訪問していました。認知症になると外にも出ず、話相手もいない一人暮らしでは足腰が弱くなるのか、トイレに行くことすら大変のようで、男性なのに失礼ながら2~3度玄関へ上がって下のお世話をしてあげた事もありました。余程嬉しかったのでしょう何処かで貰ったタケノコを自分で提げて届けてくれたこともありました。

 このおばちゃんには娘が3人います。娘や孫が度々訪ねる優しいご家族で、来た時はわが家へも近況報告する礼節を忘れませんでした。故にまるで身内のおばちゃんのことのように悲しいのです。翠小学校横に水車を作った時も玄関先に置いていた石臼をタダ同然で快く差し出してくれましたし、若い頃は民生委員も長らく務められました。

 人はいつか必ず死にます。死ぬ前の生き方は自分でコントロールできますが、死ぬ時の死に方は自らが自らの命を絶たない限り自分でコントロールできない悲しい運命を持っています。昨晩の通夜に駆けつけた見覚えのある酒好きなおじいさんも既に老域に達して、私の手を取って涙を流していました。

 人は誰でも老いを迎えます。最近はわが町でも高齢化率が高くなって、子どもの姿は少なくなりましたがお年寄りを多く見かけるようになって来ました。「来た道行く道」といいますが、戦争という時代の流れに翻弄されながら生きたであろうおばちゃんのあの世の人生に幸多かれと祈ります。

  「昨日声かけたばかりのあの人が今日はあの世へ一人旅立つ」

  「銭や地位あの世じゃあ何も役立たずせめて葬式涙だけでも」

  「今日一人また人口が減ってゆく寂しき冬の棺桶担ぐ」

  「近づいた今度は俺の番かもと年寄り予定の顔描く」

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shin-1さんの日記

○民営化の波

 三位一体の改革や郵便局の民営化など、最近は何かと政治の世界も騒々しく感じます。これまで政治や行政などは別世界と感じていたり、別に暮らしには影響がないものと思っていましたが、改革が直接暮らしに響くとあっては黙ってもおれないし口を出したくなるのも当然でしょう。結局は先の衆議院議員選挙のように小泉劇場が注目を集めて投票率がアップしたり、自民党の大勝に拍車をかけたのではないかと思われます。

 色々な人の意見を聞きますが、結局は「老後の年金」がどうなるのか、「郵便貯金の利子」はどうなるのかなど、直接自分の暮らしに響くことに関心があることは当然といえましょう。私のように退職間もない無給暮らしの者にとってみれば、満62歳から始まる年金満額支給を一日千秋の思いで待っているに違いありませんし、その年金だって多いに越したことはないのですから・・・・・・。

 郵便局の民営化が決まりました。郵便局にとって民営化は民間との競争を意味します。郵便局の対応がものすごく変わりました。郵便局の入り口には飲料自動販売機が置かれ一円でも儲けることはやるという姿勢が伺えますし、これまで年賀状の発売に合わせて11月だというのに作って違和感を囲っていた門松が消えました。また宅配物も電話一本で愛想よく自宅まで取りに来てくれるのです。

 しかしこうした民営化のいい成果が出ている所があるかと思えば、私が長年勤めていた役場は三位一体の改革で合併したはずなのに、行政サービスは不便になり、逆に負担は段々重くなって成果どころか悪くなっていると感じるのです。合併の時約束した伊予方式なる地域事務所もあるにはあるのですが何故か支所化の方向に向かって、数年後にはその行方もあぶないとささやかれています。首長も議員も選挙という4年に一度のイベントをどう乗り切るか、わが身が大事のようで困ったものです。

 民営化は自らの失策の痛みを国民に押し付けるようで何かしら割り切れない感じがします。財政難は政治や行政が自ら招いた失策です。「住民の自治」などと格好よくいいますが、何もできない市民に負担だけさせて何をしろというのでしょう。昨日私の所に勉強をしにやって来た高知県梼原町の若き職員たちのテーマもそのことでした。こうして悩む職員がいるまちは素晴らしいです。殆どのまちの職員は悩むことすらないのですから・・・・・・。

  「合併をしてみて思う愚かさはしないで迷うまちへの警告」

  「村民で始まる人生出世して町民超えて市民で死ねます」

  「お悔やみの電報殆ど政治家の売名行為有難くなし」

  「言うこととやること違う人たちが投票来いと言ったところで」

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shin-1さんの日記

○来たいのに来れない人と来なければならないのに来ない人

 集会は様々な団体や個人にお願いし人を集めるのですが、中には来たいのに来れない人がいると思えば、来なければならないのに来ない人がいるなど様々です。

 今日の講演会を前に一枚のはがきが私の元に届きました。綺麗な絵葉書には「今日の講演会をまちの広報で知りました。行きたいのですが息子の学校の学芸会があり、たとえ行ったとしても終わりの5分くらいです。仲間にちゃんと話を聞いて伝えてねと約束しました」と書いてあるのです。

 一方役場へ勤めている旧友から一本の電話が携帯に入りました。「今日は久々の天気なのでみかん収穫に妻と二人で畑に行きます。本当は役場職員なので行かなければならないところなのですが行けません。悪しからず」と言うのです。

 私はこの二人の意味を照らし合わせて考えてみました。ハガキをくれた普通の主婦にとって講演会に参加する義務はまったくありません。むしろ悩むことなく息子の学芸会に行くべきでしょう。片や役場職員も日曜日なので講演会に参加する義務はまったくないのですが、役場職員である自覚と積極性があったら参加する方が賢明かもしれません。午前中の講演会なので昼からみかんの収穫だって出来るかも・・・と考えるのは私の勘ぐりでしょうか。

 講演が佳境に入った頃、見覚えのある主婦が一人会場に入ってきました。そうですあのハガキをくれた人なのです。彼女は明らかに急いで来たような雰囲気で一番後ろで立ったまま私の話を終わりまで聞いていました。そうです。彼女は学芸会を終えて来てくれたのです。事務所で講演の後のお茶をいただいて見送りを受け、駐車場に行ったら彼女は寒風の中で私を待っていてくれました。嬉しかったです。本当は抱きしめたかったのですが、人目もあるので止めましたが少し目頭が熱くなりました。

  「来たくても来れない人あり講演会お役所仕事と昔言われた」

  「吉本と同じ笑いが会場に木霊す話涙流して」

  「あちこちに手を振る人あり講演会ふんどし締めて話さなければ」

  「入れ歯落ちそっと差し込むおばあちゃん私だけしか見えぬ裏技」

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shin-1さんの日記

○原子力と源私力

 今日は久しぶりに四国で唯一原子力の町である伊方町を訪ねました。生涯学習講演会に招かれたのですが、私の町から海岸線の夕やけこやけラインを走り、三崎半島根元にあるゴゼ峠の長いトンネルを抜けると、何と1時間程で着きました。かつては国道197号、別名イクナ国道といわれた難所も頂上線とトンネルの開通によって随分近くなりました。

 このところの寒波で紅葉は葉っぱを落として寒々としていましたが、名残のツワブキや野菊が咲いていました。

 もう10年も前のことですが、私は伊方町の公民館大会に招かれお話をしましたが、その時「伊方町原子力取ったらタダの町と言われないよう努力してください」とお話したら、当時の町長さんにこっぴどく叱られたのを思い出しました。「町外から来て、しかも役場職員の分際でこんな発言をするとは何事か」とのことでした。私も反論したのですが平行線のままでした。私の言い分は「言われないように」に重きを置いたつもりでしたが、若かったのでしょう、舌足らずだったと今も反省しています。

 今日の話は原子力を源私力に変えるという話をしました。「源私力」はレ点をつけると「力の源は私である」という意味です。合併によって人口が増えたような錯覚を覚えがちですが、一人が1馬力だったら普通の町です。でも一人が2馬力か3馬力持ったら2倍、3倍の人口規模に匹敵する町になるというのが私の持論です。全国にはそのような馬力ある町がいっぱいあるのです。今日の会には町長さんも同席してお話を聞いていただきましたが、かつて青年団活動を共にした同士だけに叱られることもなく熱心に私の話に耳を傾けてもらい、無事役目を終えました。

 伊方町は田舎の町でありながら原子力発電所の恩恵もあってか立派な庁舎、立派な生涯学習センターが建っており、町の入り口にはコンビにまで出来ていました。私が常々述べているようにその町のレベルをテストすれば「①人が集まり時間が守れあいさつが出来るまち。②公衆トイレの綺麗なまち。③まちの入り口から出口まで綺麗な花が咲いている町。」の三つ全てにまあまあ満足いくいい町でした。

 今年はみかんが安いと控え室で出会った人も言っていましたが、みかんを文化に変える努力がこれからの佐田岬半島を活性化するキーワードになりそうです。

  「原子力文字を変えれば源私力馬力を集めていいまちつくろう」

  「日本一富士の山だと思いきや余り高くて寝かす半島」

  「モグラより太いトンネルくり貫いて平家の谷は寂しかりけり」

  「双海出て峠登れば二海あり下に二見の家並み見えつつ」

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shinn-1さんの日記

○母の写真

 母が亡くなったのは2001年10月4日のことでした。肺がんと分かってから約10ヶ月、父と二人で穏やかな余生を送っての旅立ちでしたが、最近父の隠居に母の写真が何枚か飾られている中に、奇妙なのを発見しました。それは母存命の皐月の頃に写した皐月咲く隠居の風景ですが、その隠居の窓を切り取ってそこへ母のスナップ写真をはめ込んでいるのです。最初気付きませんでしたがあたかも母が皐月の花を愛でているように見えるのです。その発想に驚くやら感心するやら、ただただ敬服しています。

 人は身近なものをなくして始めてその存在に気付くのでしょうが、亭主関白だった父の場合も痒い所に手の届く母の存在は余りにも大きかったに違いありません。

 私にとっても妻の存在は大きいはずなのに、側にあるがゆえにその存在の大きさには気付いていないのが正直な所です。もし仮に私が父の立場になった時果たしてそんなことが出来るだろうかと考えましたが、そんな心からなる愛し方は出来ないような気がしています。

 たった今、一間置いた台所から「お父さーんご飯ですよ」と妻の声、「ちょっと待て、今大事な所じゃけん」とブログを作成している私、「私は用事があって出掛けにゃあならんので早く食べてください。片付きません」と妻、「も少し待てと言いよろうが」と私反論、まあこんな具合に口喧嘩ならぬ口相撲をとって日々の暮らしが成り立っています。妻も私も分かっちゃいるけどやめられない自分の主張を繰り返しています。でも正直、相手の立場に立って考えるような出来た人間にはまだ成長していないのです。でもでもせめて父の写真に登場する母への想いのように、少しずつ方向転換して行きたいと思っています。

  「この写真母が窓から花見てる父の想いが伝わるように」

  「隠居家の居間に座りて父ポツン母の写真と今日も二人で」

  「十円を落とせば音に振り返る千円札だと落とし気付かず」

  「母の夢見たと親父の嬉しそう話す言葉に安堵しつつも」

 

 

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shin-1さんの日記

○私のサイン

 私はこれまで共書を除くと自著4冊の本を出版しています。最初の本は10年間で240号もの町の広報をたった1人で作りましたが、広報の巻末に「こちら編集局』というコラムを書きました。広報マンを終えるに当ってまとめてみようと「町に吹く風」のタイトルで出版しました。当時私の年齢は42歳の厄年でしたからもう19年も前のことで、その本は残部もなく絶版となっています。その後55歳で「ミレニアム2000年その日私は」56歳で「昇る夕日でまちづくり」、57歳で「今やれる青春」と足早に出版を続けていますが、肝心の資金や整理が追いつかずまだ3冊分の原稿が未出版のままなのです。

 本を出版してその本が多くの人に読んでもらえる幸せは存分に味わって来ましたが、出版の度に私を悩ませるのは著者のサインを求められることです。そんなに有名な、いや無名な私にとってまるで有名人のようなサインは出来ませんから、最初は丁重にお断りしていたのですが、3000部売れ2版目を出した「昇る夕日でまちづくり」ではそんなわがままも通らず、筆不精や乱筆も省みずサインをするようになったのです。

 サインの末尾に自分の名前を書きますがその下に落款印を押すと黒文字と朱肉が絶妙のバランスで配置され、それなりに見えてくるから不思議です。

 サインは相手の名前、自分の好きな言葉、日付、自分の名前を書くよう求められますが、多いときは10人もが列を作った時などは、10人全部に違った言葉を書くパフォーマンスをやって、アッと驚かせたこともありました。また30冊もの送付本に全てサインを求められたこともありました。

 本好きの人は必ずといっていいくらいサインを求めてきますが、私の本棚にも作者の署名の入った本が何冊か置かれています。再読した時などはその風景が思い出せて嬉しいものです。でも今でも自分のサインには自責の念に駆られています。「昇る夕日でまちづくり」の出版間もない頃は新聞紙によく練習をしましたが、一向に上達しない自分に腹立たしく途中で止めてしまいました。今は綺麗に見せようではなくありのままの自分を書こうと肩の力を抜いて、あくまでも自然体でやっています。ちなみに私の好きな言葉で好んで書く言葉ベスト3は、「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」「逢う人も逢う人もまた福の神」「ボウフラも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」のようです。

  「恥ずかしや下手が自慢のこの腕にサイン求める人がいるとは」

  「サイン書く姿は格好いいけれど出来た文字見て×○△・・・・」

  「文届くサインした本送ってと書籍扱い覗かれヒヤリ」

  「文字下手に今度生まれて来る時はあんな字書ける腕の男に」

  

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