shin-1さんの日記

○人間牧場の畑を耕す

 今日は一日中、忙中閑ありのお休みです。久しぶりに「人間牧場」へ出掛けました。空は澄み渡りどこまでもどこまでも青い空と海が眩しいくらいに見えました。今日は少し風があったので遠くは九州や山口県、広島県の島々がくっきりと浮かんで見えました。

 今日の作業はチエンソーで切り倒している木を小切りにして冬のストーブ用に薪を作りました。しかし後で気がついたのですが、残念かなマサカリを持って行くのを忘れてしまってがっかりです。それでも随分周辺が片付きました。

 次に畑を耕すことにチャレンジしました。地中深くへ鍬を打ち込み根や雑草を取るのですが、これが結構きつい仕事です。鍬は斜面の上から下に向かって振り下ろし、その鍬で土を上へ上げて行くのですが、地中にはカズラの根や烏瓜の芋が無数にあって中々仕事がはかどりませんでした。それでも要領を得ると早いもので、この分だと夕方までには小さいながら畑一枚は開墾できると思っていました。ところが3時になって突然携帯電話がかかり、愛知県から2名のお客様が見えているというのです。しまった朝妻に「今日は愛知県からお客様が来るから」と言っていたにもかかわらず、時間が来たのも忘れて熱中して忘れていたのです。慌ててシーサイド公園へ車を走らせ2月の講演打ち合わせと相成りました。

 我が家へ案内し「今日は天気も良いし人間牧場へでも・・・」と誘ったところ二人は人間牧場行きを希望されたので、狭い道を上がって行きました。

 今日のロケーションはすこぶる満足いくものだっただけに、お二人とも満足されたようですが、途中の道の狭さに身体がこわばっていました。

 さて開墾した畑に何を植えるか只今思案中です。カラスとイノシシ被害を覚悟しなければならないので、何でもという訳には行きませんが、春先まで石灰でも蒔いて畑を寝かせ、ジャガイモを植えてみようかとも思っています。本当は来年この赤土でサツマイモを植えれば美味しいのですが、イノシシ除けの防護策は人間牧場には似つかわしくありません。

 エンドウやソラマメはどうでしょうかねえ。

 「どっこいしょ大きな声で掘り起こす出るはミミズと夢のまた夢」

 「赤土の中からい出し手拭にトメ子母の名懐かしきけり」

 「母ちゃんが掘ったであろう赤土の畑に鍬の涙溢れて」

 

 

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shin-1さんの日記

○昔の九州場所は寒かった

 一年収めの九州場所が一昨日開幕しました。どちらかというと野球より相撲が好きな純日本人的私としては、これから2週間は楽しみです。それにしても相撲がテレビ画面に映る度に不人気を地でいく客の不入り姿が気になって仕方がありません。昔は満員御礼の垂れ幕など当たり前でした。子どもの頃散髪屋さんの入り口にはテレビ観戦のお客が黒山の人だかりをつくって、栃錦や若乃花を応援していた懐かしい姿が思い出されます。

 相撲も変わったと思うのは外国人と学生出身力士が増えたことです。高見山以来日本の相撲は外国人の入門を受け入れてきました。しかし足腰の強い日本人力士は、体重と馬力こそあるものの足腰が弱い外国人力士は、常に小が大を倒す引き立て役の道具でしかありませんでした。舞の海と小錦の一戦などはその典型で、国民全てが舞の海の投げに拍手を送ったものです。しかし今は足腰も日本人より強いモンゴル相撲で鍛えた鋼のようなモンゴル勢が多数を占め、しかも彼らは日本人より経済的に恵まれないハングリーを持っているのですから、モヤシみたいな現代日本人力士は逆にモンゴル勢を引き立てる道具に成り下がっているのです。

 横綱の次に強いはずの大関は8度目のかど番などと報道されても、大関の特権である2場所連続負け越しをしないと下に落ちないことを武器に、相変わらずゴロゴロと土俵に転がされいるのです。学生出身は幕下付け出しという特権を与えられているから、土俵上より土俵外でのスキャンダルや話題で相撲を取らずに人気を得ようとしているようにも見えます。結局日本の国技といいながら時代の流れ敏感に取り込み、不易なものまで流行に流された先読みの甘さが、今の相撲人気に反映されているのだと思います。貴花田・若花田の土俵外での兄弟確執は相撲界に暗い影を落としました。相撲びいきな私としては一日も早い相撲界の健全な姿を見たいものです。

 それにしても、最近の九州場所は暖かいです。昨日は扇子で扇ぎながら相撲を見てる人がテレビに映っていましたし、暖冬で秋物が売れず小売業の売り上げが前年比マイナスと報道されていました。また四国88箇所決願の寺として知られる大窪寺の紅葉や楓が、今見ごろととも報道されていました。確かに暖冬を肌で感じます。昔は木枯らしが吹く寒い中で裸相撲は大変寒かろうと、いたわりの気持ちで相撲を見ていました。懐も心も寒いのに外気だけは暖かい皮肉な結果も、せめて外気が暖かいのが救いと思った方が良いのかもしれませんね。

 「北は雪南は菜の花ハッケヨイどちらに軍配綱を引きつつ」

 「チョンマゲに裸で相撲奇妙なり見馴れりゃ普通でもでも奇妙」

 「外国の人にあやかる大相撲足腰財布勝てぬはずだよ」

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shin-1さんの日記

○ガン病棟

 健康診断でひっかかり、軽い気持ちで検査入院したところ、前立腺にガンが見つかり手術することになった義兄の手術を見守るため、今日は午後1時から県病院の個室で、兄弟や親族が半日の長きにわたって待機しました。今は昔のようにガンを患者に隠し通す時代ではないから、本人も自覚して望んだ手術だったのですが、手術室へ送られる義兄の顔はさすがに神妙で、血の気が引いていました。しかしもっと血の気が引いていたのは姉で、さすがにショックを隠せないようで、このところ近所のお地蔵さんにお参りを欠かしませんでした。

 「遅くとも5時くらいには終わるでしょう」と主治医から言われていた手術も、延々6時頃までかかり、終わったと看護婦さんが告げに来たのは6時半を回っていました。執刀した先生から手術後の説明があるというので説明室に出掛けましたが、主治医は手袋にいっぱい血をつけ、今手術が終わったと言わんばかりにトレーに血肉の塊を入れ、ピンセットで開けながら「これがガンです」と単刀直入に言うので、驚いた姉は「先生手術は成功したのでしょうか」と聞き返す慌てぶりでした。広島から帰郷した義兄の息子は、「先生ガンは遺伝するのでしょうか」と自分の将来への不安まで質問していました。容態も安定、転移もしてない、ガンは全て取った、経過がよければ明日の朝集中治療室から病棟へ移す、あと1時間で目が覚める、など矢継ぎ早の質問に丁寧に答えてもらい、病室へ上がりました。

 6階はそんな人が多く入院しているのが素人の私にも分かるほどで、胃ガンだの直腸ガンだのと患者さんのひそひそ話しがよく聞こえていました。兄弟や親族は手術が終わると三々五々引き上げていきましたが、私は不安にかられている姉をいたわるように、姉娘と3人で麻酔から目が覚めるまで病院に留まることにしましたが、以外や30分ほどすると看護婦さんが、集中治療室へ来るよう連絡にやってきました。夢から覚めた兄はいたって元気で、何があったのと言わんばかりのにキョトンとしていました。

 100歳の父親と三つ違いの弟を最近冥土へ送った義兄はにとって、自分のガン発見は相当ショックだったようで、好きなお酒も好きなゴルフも断ち、沈んだ姿は痛々しいほどでしたが、これでやっと平穏な日々の暮らしに戻れそうです。

 同居のマスオさん夫婦の2人の孫が、手紙を書いて励ましてくれたのが余程嬉しかったのでしょう、お守りの代わりに枕元にしっかりと置かれていたのが印象的でした。

 ガン告知という現代の医学は正直言って情報公開の意味からも、また本人や家族の病気への向き合いという意味からも凄い進歩だと思いました。 多分義兄もこの山坂を登りきってくれるに違いありません。一日も早い全快を祈ります。

 「これがガン開けて見せるお医者さん姉の顔から血の気引く見ゆ」

 「麻酔さめ私はだあれここは何処義兄の顔はうつろなるかな」

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shin-1さんの日記

○禿か白髪かどっちを選ぶ

 「あなたの髪は黒々してますが染めているんですか」とよく聞かれます。「いいえこれ生まれたままですよ」「へーお若いですねえ。羨ましい」なんて会話が弾むのも無理はありません。還暦を過ぎたこの歳になると殆どの人が禿か白髪になるのです。事実私の仲間たちや周りの同じ年代の人は、白髪が進んで染めてみたり、中には頭にアデランスなるものを被せてカモフラージュしている人もかなりいるようです。

 酒宴の席で「禿がよいか白髪がよいか」と訳も分からぬばか話に花が咲きました。最後はいずれも嫌で生まれたままの黒々フサフサがいいというみんなの意見一致を見ましたが、その中の禿た人が神妙な顔つきで若い頃の思い出を話してくれました。彼は若いごろから若禿に悩まされ、「このままでは一生独身で終わるのでは」と結婚話がある度に悩み苦しんだそうです。でも「禿が何よ」といった素敵な奥さんと巡り会い、それからは禿のことなどむしろ笑いのネタにして人生を過ごしてきたと話してくれました。

 彼は驚くなかれ「禿の哲学」なる本に出会い、「禿のことなら任せて」というくらい禿の勉強をしていました。彼の禿論によると両側進行型、前方後退型、後方拡散型など禿にも色々なタイプがあって、電車に乗って周りの人の禿具合を自分と比較しながら観察すると、中々面白いとユーモアを交えて話すのです。禿の悩みを笑いのネタにする彼の生き方に大いに共鳴をしました。

 一方白髪になった仲間は、禿の仲間の笑いに負けじと思い出話を話してくれました。子どもを連れて保育園へ行った時、保母さんから「まあ若いおじいちゃん。お孫さんですか」と言われ相当ショックを受け、その足で美容院に行って白髪を染めたと言うのです。以来最近までずっと染め続け、その「白髪頭への投資額は相当なもんだ」と威張ってみせました。一度は自分で染めて原液の量を間違え、顔や体中に湿疹ができたこともあったと述懐しました。でも今は「シルクヘアー」などと冗談がいえるようになったそうです。

 幸せにも髪の悩みに出会わなかった私たちは、やれ禿だのやれ白髪だのと人の苦しみも知らず笑っていましたが、人には言うにいわれる身体的苦しみがあるのです。近頃私も頭に少しずつ白髪が見え始め、鏡を見るたびに「おー、少し貫禄ができたか」と思うようになりました。自分自身の髪に白髪が増えた妻は「そろそろ栗色に染めようかしら」と言いますが、私は「そのままがいい」と言っています。

 「禿の哲学」か「白髪の哲学」か、どっちの料理ショーではありませんが、どっちも素敵な友達の話でした。

 

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○梁瀬杉の器

 日本全国には屋久杉や吉野杉といわれるような名の知れた杉の銘木を産出する地域があります。四国にも梁瀬杉といわれる銘木の産地がありますが、どの産地も残念ながら戦後の無秩序な伐採によって、屋久島の縄文杉などを除いて、銘木といわれるものは殆ど姿を消したといわれています。

 昨日も「森は海の恋人」というキャッチフレーズで知られる、宮城県気仙沼の牡蠣漁師さんが山に木を植えた話を高知県奈半利町でさせてもらいましたが、交流会で梁瀬杉のことが話題になりました。そして友人の坂本さんが梁瀬杉の板で手作りした木の器(皿のような大きな器です)を私に持ってきてくれました。梁瀬杉の板で作った器は「えっ、これ本当に杉ですか」というような素晴らしい鼈甲色をした芸術品でした。

 長い年月をかけて育まれた梁瀬杉の器はまさに自然でしかできない素晴らしい文様が随所に見られ、「これ人間牧場で使ってください」と、惜しげもなく私にくれたのでした。さらに坂本さんは私を自宅の車庫に連れて行き「この梁瀬杉の根元もよかったら差し上げます」と言われました。しかし私一人では動かせないようなものを乗用車に積んで帰ることもできず、「次の機会に必ずトラックで取りに来ます」といって別れました。

 私の友人には色々変わった人がいますが、まだ4回しか会っていない坂本さんは龍馬の血を引いているのではないかと思わせるほどに動き回る面白い人物です。米を作り、鶏6万羽を飼い、朝新聞を1500部配る新聞直配所を経営するなど尋常とは思えない働き者です。さらに40メートルの潜水も平気な平成の仙人なのです。先日いきなり奥さんを連れて「人間牧場」にやってきました。そのロケーションや私の構想に同調し、より深い人間関係が成り立ちました。

 人が人に共鳴すると次々に新しい発想が湧いてきます。百年の時を語る「人間牧場」に百年の時を超えて生きてきた梁瀬杉の年輪を置き、年輪からの教えを集う人たちに伝えたいと思いました。泥にまみれ古ぼけている梁瀬杉の根元をできるだけ早く貰い受け、できるだけ早く命を吹き込む磨きをしたいと思っています。

 さあまた忙しくなってきました。

 「百年の年輪刻む梁瀬杉俺の歳などまだまだまだだ」

 「古ぼけた梁瀬杉株教えてよ日本と俺に足りないものを」

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shin-1さんの日記

○妻の金魚の糞

 このところ、妻と出歩く機会が多くなりました。多くなったと言っても普通の夫婦に比べたら少ない方だと妻は言うのですが、私にとっては35年間の結婚生活でこれほど一緒に出歩くことはなかったため、何かしら人の目が気になって面映い気持ちです。昨日今日と高知県へ講演に行く機会があったので、先方もよく知っている方々ばかりなので、先方の了解を得て一緒に出掛けました。

 高速道路を走って高知県南国インターで降り、そこから国道55号線を通って奈半利町へ着いたのは午後5時頃でした。折りしも綺麗で真赤な夕日が海に沈む時間と重なり、黒潮鉄道終着駅のデッキからドラマチックな天体ショーを鑑賞することができました。勿論妻も「綺麗ねえー」と相槌を打っていました。

 私が講演中妻は隣の会場で誘われるまま友人夫婦の詩吟と吟舞の発表会を見学していましたが、友人たちとの夜なべ談義に合流し皿鉢料理を食べながら楽しいおしゃべりをし、宿舎のホテルへ11時頃入りました。明くる日は早起きして室戸岬の札所にお参りし、高知市の日曜市で買い物をして、もみじに染まる国道33号線を帰って来ました。

 まあこんな具合で、急ぎもせずのんびりと二人だけの休日を楽しみましたが、世の中は狭いもので行く先々知り人にあい、「何と珍しい奥様とご一緒ですか」と皮肉られる始末です。妻の買った品物を持ってぞろぞろ後をついて歩くのは嫌だと思っていたのに、今日はそんな風な一日でした。

 それにしても妻はよく買うしよく食べてました。これが女性の元気の秘密かと思わせるように・・・・。お蔭様で帰る頃には腹も満杯、トランクの中も満杯になりました。

 私は2時間の講演と妻のアッシー君、それに荷物持ちとまるで妻の金魚の糞の2日間でしたが、妻は「お父さん今日は楽しかった」と満足そうに言うのです。私が相槌を打とうものならまたこの次も「私を旅行に連れてって」てなことになるに決まっています。「少し頭を冷やして考えてみる」とその場の会話を打ち切りました。ここだけの話ですが一人で行くより数倍疲れた二日間でした。

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shin-1さんの日記

○腰の調子がおかしい

 毎朝の日課である隠居で暮らす親父の所へ機嫌伺に行き、サロンパスを腰に張ってあげて帰る時、親父から肥料を3袋納屋へはこんでおくように頼まれました。一輪車を引き出し3つの袋を持ち上げた瞬間、ギクリと腰にきました。「しまった」と思ったのですが時既に遅しでした。ぎっくり腰の兆候です。私は年に3~4回くらいぎっくり腰をやります。長期出張や慣れない労働の後に起こるものですから、最近h忙しさの中でも柔軟体操をしたりして気をつけていたのですが、その時は突如としてやってきました。普通はその場に座り込んで動けなくなるのですが、その度に隣町の整体さんに揉んでもらって1週間ぐらいで完治するのですが、今日は軽い方なので歩けるようです。今日は長浜と高知県奈半利町でそれぞれ大事な仕事が待ち構えています。

 妻に腰の具合が今一だと言うと、「今日は仕事が午前中で終わるので運転手をしてあげる」と嬉しい言葉が返ってきました。高速道路を走って高知県までの旅は少々きついと思っていたので大助かりです。夫婦での出掛けは中々思うに任せず、88箇所の遍路参りも香川と徳島がまだ相当残っています。昨夜は妻が納経帳をチェックしていましたが、香川と徳島はそれぞれ宿泊しないと難しいようです。

 それにしても私の腰痛は突如として前触れもなく起こります。腰が悪いと鏡に映った自分の歩く姿がまるで歳をとったおじいさんのようで藁ってしまいます。腰が悪くなっていつも思うのは腹筋と背筋を鍛えなければという反省ばかりです。そういえばせっかく自由人になったのに身体を鍛えなおすという目標をあっさり忘れていました。歩いたり走ったり、時には労働もしながら気になる部分、つまり腰と内臓に特に気をつけて健康でいたいと、今朝思いました。

 腰を良くする特効薬は腰の周りを強くする以外ないようです。

 私は13キロも痩せたのでズボンがダブダブなので腹帯兼用の腹巻をしています。これが身体にあっているのか姿勢も良くなり随分腰痛になる回数も減りました。しかし今朝のように腹巻をせず、ちょいとということでパジャマのままでの作業だったのでこの災難に遭いかけました。腰痛は忘れた頃にやってくるようです。

 「どっこいしょ持った瞬間ギクリきたヤバイと思うが後のまつりだ」

 「腰広げパテンシップの張り薬笑った自分が腰痛とは」

 「イチ・ニイ・サン・シ・イチ・ニイ・サン」。はいこれ私流腰痛体操の掛け声です。「みなさーん、腰痛は日ごろの心がけが大切ですよ」なーんちゃって・・・・・。洒落にもなりませんね

 

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shin-1さんの日記

○きんつばというお菓子

 昨日シーサイド公園の特産品センターで「きんつば」を買いました。私は子どもの頃から何故かきんつばが好きなんです。辞書できんつばを引いても、適当な言葉が出てきませんし、きんつばを作っている地元菓子製造業のおじさんに聞いても「あんたは物知りじゃきん調べて分かったらわしにも教えてや」と、反対に期待されてしまいました。

 私がきんつばが好きになったのは大した理由はないんです。戦後の物のない、とりわけ甘いものに不足していた頃、何処かで父親がきんつばを貰ってきて、酔った親父は真夜中だというのに寝ていた私たち子ども全員起こし、「いいものを貰ってきたから食え」と言うのです。みんな眠い目をこすりながら「美味しい」と言って食べました。私はあまり美味しいので半分を新聞紙に包んで水屋にしまって寝ました。

 明くる日学校から帰って食べようと思いましたが何処を探しても見つかりませんでした。ちゃっかり屋の弟に食べられてしまっていたのです。食い物の恨みは恐ろしいといいますが、あのきんつばの思い出は今も忘れられません。

 きんつばは甘く味付けした小倉あずきがぎっしりと詰まってあずきを薄い衣で包んでいるだけのシンプルな和菓子ですが、渋いお茶で食べるとこれがまた美味いのです。

 きんつばが誕生したのは江戸時代だそうで、うるち米の粉でつくった皮で小豆餡を包み楕円形にして釜の上で焼いたのが始まりで、真ん中をへこませた姿が刀の鍔に似ていることから銀鍔とよばれていたそうです。その後上方から江戸に伝わり銀より金という江戸っ子気質が金鍔に変化させ、浅草馬道に「おかめのきんつば」店が現れ、四角に切った角型六法焼きという現在のきんつばの形が出来上がりました。

 きんつばは決して上菓子ではないのですが、きちんとした桐箱にでも入れられると、まるで献上品のような気品が漂います。

 私の買ったものは発泡スチロールのトレーに5個入れられ、ラップをしているだけの簡単なものでしたが、それでも1個食べて、子どもの頃と同じ水屋にしまいました。妻いわく「そんな所へしまったら忘れるよ。誰も取りゃせんのに」・・・・・・。いいえきんつばだけはしまっておきたいのです。

 でも2~3日経っても誰も手をつけず、結局3個は賞味期限切れであえなくゴミ袋行きとなりました。勿体無い話です。子どもの頃「お金持ちになったらきんつばを腹いっぱい食べよう」と思った若松少年の夢は叶えられましたが、半分食べられたきんつば時代とは何故か幸せ感は薄れていました。

 親父にこの話をしたら覚えていないとけんもほろろでした。

 「きんつばを腹と水屋にしまい込む妻さえ太ると見向きもされず」

 「きんつばを前にゴクンと唾を飲む子どもの頃の懐かしきかな」

 「耳元できんつば食うか親父さん鍔は食えぬと唾を飛ばして」  

 きんつば私の思い出記」でした。

 

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shin-1さんの日記

○富士山

 「人間牧場」に連れて行った孫が双眼鏡を見て、いきなり海の向こうに浮かぶ興々島を指差して「おじいちゃん富士山だ」と言うのです。私は驚きました。だって興々島を伊予の小富士と呼ぶのを知っている人も現代人では殆どいないのに、孫が知っているのですから・・・・・・。

 孫の富士山の話は飛行機で東京へ行ったとき、飛行機の窓から眼下に富士山が綺麗に見えるのをお父さんが教えたからだそうです。だから富士山に似た山を見るとどれでも「富士山だ」と騒ぐのだそうです。

 サクラ・フジヤマ・ゲイシャといえば外国人がかつて持った日本のイメージ3だそうですが、外国人がフジヤマに出会ったときの驚嘆は彼らの日本滞在記からもうかがい知ることができます。

 飛行機の中でスカイワードという雑誌を拾い読みしていたら、旅する目で斉藤さんがイザベラ・バードの「日本奥地紀行」という本を紹介していました。この本は「ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た」という甲板での光景から始まっています。船旅の時代、富士山は東京湾の船上で最初に目にする光景だったらしいのです。

 実は私も43年前にこれと同じような光景を三浦半島の沖から見ていたのです。それは18歳のときでした。南太平洋珊瑚海にマグロを求めた愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸はマグロを腹いっぱい抱え帰国の途についていました。ところが母港でである三浦三崎漁港を前に思わぬ時化に遭い、苦難の末たどり着きかけた朝ぼらけの水平線の彼方に富士山の姿を見たのです。まさにイザベラ・バードの言葉そのままでした。感激の余りに私たち実習生は涙が止まりませんでした。そして日本人としての誇りが蘇ってきたのです。「富士山」と聞いただけで不思議な思いに駆られます。何年か後に青年たちを連れて富士山に登ったときもそうでした。勿論孫が「あっ富士山だ」という声に私の心は43年前へとタイムスリップしていました。

 人は誰でも思い出の彼方に夢のような出来事を隠し持っているものです。私の富士山もそうした思い出の一コマなのです。愛媛丸の沈没という悲しい出来事は記憶に新しい出来事ですが、富士山が愛媛丸と結びつくのは私だけかも知れませんが、いつか孫にこの話を大きくなったら聞かせてやりたいと、イザベラ・バードの記事を読んで懐かしくなりました。

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shin-1さんの日記

○何故パックは安いのか分からない

 私のように一年中全国を旅していると、結構旅上手になって色々と知恵を働かせて旅をします。昨日・今日と二日間熊本へ行ってきました。9月に東京丸の内の東京フォーラムで開催された全国町村監査委員研究大会で記念講演したのが話題になって、是非熊本でも聞きたいという提案で、球磨地方の義会議員さんの研修会に招かれました。普通熊本へは松山ー熊本の空路があるのですが、地図を見ると熊本でありながら宮崎や鹿児島に近いことから鹿児島空港を選びました。松山から鹿児島へは僅か一時間、公用車で空港まで迎えに来てもらって、という手順でばっちり、いい講演会が終わり、先ほど帰って来ました。

 霧島や球磨地方では深まり行く晩秋のたたずまいを堪能しながら、昨夜は町村の議会議長さんたちと美味しい球磨焼酎を傾けました。と言っても飲めない私はもっぱら民宿桜の女将さんが作ってくれた美味しいお茶を飲みながら、イノシシ焼肉、鹿刺し、鮎塩焼きなど田舎料理に満腹の腹鼓を打ちました。また水上村の議長さんには焼酎の蔵元とあって、美味しい焼酎や、ウイスキーボンボンならぬ焼酎ボンボンという世にも珍しいチョコレートを食べさせてもらいました。焼酎ブームとあって、飲むほどに酔うほどに盛り上がり、味岡議長さんにはクマ蜂の焼酎付けを味見までさせていただきました。

 湯山という地名にある水上温泉はいい湯で、私は妻に電話したら「羨ましい」「お父さん温泉には3回入って帰りなさい」と言われたので美人女将にお願いして朝風呂まで入ってしまいました。また早朝には大石議長さんの焼酎蔵まで案内いただき、コニャックの酒樽に入った幻の焼酎を見せていただき感激しました。お土産の焼酎は親父に飲ませてやりたいと、孝行息子ぶっています。

 ところで、何時も思うのですが、飛行機代とホテル代が一緒になったパックの方が飛行機代単品より何故安いのか、合点がいきません。誰が考えても同じだと思うのですが、まか不思議です。今度も東京へ行くのにパックだと随分お得なようで、妻から「何で」と聞かれても、知恵者の私にも説明ができないのです。

 旅は新しい心の発見があります。今回も様々な発見がありました。36人乗り満席のJAC飛行機は雨模様もあって揺れにゆれましたが、お蔭様で小腹が減りました。今晩の食事が楽しみです。

 「美人湯と言われて温泉入ったけど男のわしにはとんと効かぬわ」

 「猪と鹿を食べたよ馬かったそれもそのはず共食い大馬鹿」

 いい旅でした。

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