shin-1さんの日記

○書いたつもりのshin-1さんの日記

 昨日東京から帰って、眠い目をこすりながら書いたブログの記事が、朝起きて自分のブログを見てみると保存されておらず、朝から落胆しています。私の技術ではその記事を検索することも出来ず、同じ記事を二度書くほどの記憶力も無く、少し思い出しながら昨日にタイムスリップして書いておこうとキーボードに向かいました。

 昨日までの2日間私は東京へ出掛けておりました。段本幸男参議院議員先生からお声がかかり、政経セミナーの講師として全国から集まった方々にお話をしたのですが、その会場は国会の直ぐ側の憲政記念館という凄い所でした。しかも出席者はそうそうたる人ばかりで、小泉内閣にとって大きな影響力を持つといわれる青木参議院議員会長さんまでもが来られてあいさつされました。田舎者の私は失礼さえも省みずチャッカリ青木先生と名刺交換までしてしまいました。その一枚の名刺が手元にありますが、記念すべき一枚ですので大切に名刺フォルダーへ収蔵しました。

 段本先生とは今年の6月、広島県の山奥で開かれた逆手塾にゲスト出演した折知り合いました。農林水産省出身だけあって、全国各地の生の声を国政に反映しようと一生懸命行脚している世にも珍しい国会議員さんです。若松さんの元気と知恵をみんなに分けて欲しいと頼まれ東京での講演が実現しました。私のことですからセミナーでも十分に輝きその役割を果たしたつもりです。仕事を終えた夕食懇談会でも実力者が顔をそろえ、楽しい交流が出来ました。

 私は旅のついでに食べようと、みかんを3個カバンに入れていましたが、セミナーの席上変なアイディアを思いつき実行しました。段本先生、最も遠くから来ている人、一番若い女性の三人にそのみかんを渡し、「みかんを貰った人へ5キロのみかんを送ります」とやってしまったのです。今になって思えば少々やり過ぎかもしれませんが、まあ愛媛みかんの宣伝だと思って、3人に明日でもみかんを送ります。

 今回の旅で感じた東京での印象を5首にまとめてみました。

  「青木さん元はと言えば島根産田舎こやしに大樹となりぬ」

  「人人人人が溢れる東京で人のまばらな田舎思いつ」

  「東京へ来いというからやって来た都会の人へ田舎届けに」

  「都会では散る葉ゴミだが田舎では腐って土の素となるのに」

  「広島の山で出会った議員さん農を守ると気迫みなぎる」

 東京は世界の名だたる都市、そこへ行くことはそれなりの意味があります。流行も早いし本屋を覗けば田舎では見れないたくさんの本があります。少しの時間を割いて「立ち読みちゃっかり知恵盗み」もします。今度は何時行けるか楽しみです。

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shin-1さんの日記

○私のスケジュール帳

 殺人的と表現したいほど真っ黒に埋まっていた3月までのスケージュールも、さすがに5月ごろは白い部分が目立っていましたが、私が職場を辞めたという情報が口コミで全国に流れてからは、随分と埋まって元のスケジュール帳に近づきつつあるようで、午前・午後・夜と相変わらず忙しい日々が続いています。

 年末が近づくこの頃、毎年のことながら一番困るのは新しい年のスケジュール帳が届いていないため、予定が立てにくいことです。私はこれまで愛媛県貯蓄推進委員会が発行する大判のスケジュール帳を20数年にわたって利用してきました。ところが委員会が経費削減で印刷発行を取りやめたため、3年前から愛媛県商工会が発行しているものに変えました。巻末に記載された商工会必読必携の資料は殆ど利用しませんが、以前に使っていたものと体裁が一緒なので結構重宝しています。

 来年度のスケジュール帳は商工会にお願いしていますがまだ届かないため、メモ欄に書いて日程調整を続けていますが、どうも間違えそうで心配です。そのメモによると既に1月・2月は講演依頼や会議で忙しそうだし、4月には北海道への講演まで予定が入りました。「退職して暇を持て余したらどうしよう」なんて考えた私が浅知恵で馬鹿でした。

 この文章を書きながら懐かしくなって、書棚の引き出しから25年分のスケジュール帳を取り出し、感慨深げに目を通しました。「ああ、あの頃あんなことがあったなあ」と、あっという間に駆け抜けた25年の過ぎ越し人生を思い出しました。「まちづくり人は振り返らず前を見て進め」とよく言われましたが、振り返って懐かしむ私も歳なのかと、少しだけ弱気になってしまいました。

 スケジュール帳が黒いのは元気な証拠と思いつつ、可能な限り入れていますが、今月に入って3回も私のミスでスケジュールがバッティングし、相手に迷惑をかけてしまいました。自治会長関連で、役所は思いついたように急な会議を入れてきます。当然3ヶ月前に入っていた予約日と重なります。丁重にお断りをするのですが、人を集める算段をしている場合は相当文句を言われます。でも誤るしかありません。その時はついてよい嘘の理由をつけたりしたこともありました。「親父が急病」そういって断った研修会に再び呼ばれ、「若松さんお父さんの具合は如何ですか」と尋ねられ、恐縮した笑い話も今では時効になった話だから言えるのです。

  「秘書も居ず自分が立てたスケジュールダブって言い訳父急病」

  「あの年はあそこに行ったあの人は元気でいるやら便り途絶えて」

  「暇もなく元気で今日もカバン提げ日本の各地転々々と」

  「土産持ち明日はお上り東京へ三日前より多少ウキウキ」

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shin-1さんの日記

○この寒海に泳ぐ人

 昨日のことです。シーサイド公園のベンチに座ってゆっくり海を見ていると、何やら海面をゆっくりと動くものを見つけました。もしや世間を騒がせているひげアザラシでは?と思ったのですが、それは紛れもなく人間でした。全身赤い水泳用のスーツに身をまとったその人は、急ぐでもなく400メートルの海面を波に漂うように泳いでいました。

 そのうち砂浜に上がったので様子を見に行ってみると、知人だったので二度びっくりしました。彼はトライアスロンの名手です。夏になると毎年中島で開かれるトライアスロン大会に出場して好成績を挙げていましたが、さすがに年を経た今では衰えたのか他の人のパワーがアップしたのか分かりませんが、好成績には至っていないようです。

 向こうは寒い海の中でも平気で泳ぐ達人ですが、こちらは寒風にブルブルの弱者、短い話に終わってしまいましたが、彼のひたむきな姿にある種の感動を覚えました。トライアスロンといえば鉄人レースの異名を取るほどの激しいスポーツです。泳ぎ、自転車に乗り、マラソンをする、しかも炎天下の過酷な条件ですから、自らの体力限界への挑戦なのです。見た目の格好よさとは裏腹なこんなスポーツを志す人の、ひたむきな鍛錬の姿は余り報道されることも見る機会もありませんが、寒い海で鍛える姿に心からなる大きな拍手を送りました。

 人は人知れず陰徳を積むものです。中には陰徳が報われない人もいますし、生まれた時から強運の人もいます。でも殆どの人は陰徳を積んでいるのです。、大相撲横砂朝青龍が7連覇を遂げ年間84勝の最多勝、年間6場所完全制覇など数々の大記録を打ち立てましたが、周りは外国人への偏見や日本人の弱さを論じて、朝青龍への賛辞を忘れがちです。言葉も通じない慣れない国へ来てひたむきに勝ち得た記録は賞賛に値します。行司さんの定年退職に対し、自分の相撲が終わっても花道裏で花束と懸賞金の一部を手渡すあたりの気配りは、並の人では出来ないことだと思いました。

  「報われる当ても無いけど黙々とただひたすらに波間漂う」

  「ヒーローになりたいけれど練習は嫌という人なれないヒーロー」

  「君たちのなりたいものは何ですか殆ど子どもはサッカー選手」 

  「裏山にたった一つの木守柿秋を演出主演賞」

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○私の息子も建築士だが・・・・・・

 「今日本で最も有名な建築士は誰でしょう?」なんて試験問題が出たら、殆どの学生は「姉歯建築士」という答えを書くでしょうね。姉歯設計事務所という名前はこの一ヶ月間、連日のようにマスコミに取り上げられ、流行語にまでノミネートされるほど有名になりました。普通であれば有名になることは極上の喜びとされ、誰もがこぞって知名度アップの作戦を立てるものですが、姉歯さんは悪名として脚光を浴びてしまいました。最初はふくよかそうに見えた姉歯さんも最近では疲労の色が表情に現れ、テレビに映し出される姿は痛々しくさえ感じられます。

 事の発端は建築物の構造計算を施主や建築会社から頼まれて偽証したというのです。構造計算は行政や民間検査機関が絡んでの共同作業なので、「そんなこと出来っこない」と誰もが思いました。しかし現実にはチェック機能が働かず、あるマンションなどは震度5以下の地震でも倒壊の恐れがあると診断される、ずさんな工事が行われていました。入居している人の驚きと不安は怒り以上であることは容易に察しがつくし同情します。

地震頻発の日本は「地震・雷・火事・親父」のナンバーワンに挙げられるほどの怖さですから、眠れないのは当然でしょう。

 最近では姉歯さんの建築士資格剥奪の聴聞会が持たれ、姉歯さんの暴露話によって建築会社が破産宣告したり、国会議員の名前も見え隠れするようになり、何処までこの波紋は広がって行くのだろうと思うほどです。

 私の息子も建築の仕事に携わっていますが、ぺーぺーの駆け出しゆえそんな不正に関われるはずがないと思うのは親の欲目でしょうか。

 人の判断は大きく分けて三つのようです。「損か得か」「好きか嫌いか」「善か悪か」です。飯を喰ってこの世の中を生きていくためには何処かでこの3つの判断を迫られます。姉歯さんは「善か悪か」という判断より「損か得か」を選んだため、自分はおろか多くの人の生命や財産を危険の淵に連れて行ってしまいました。

 今の世の中は連鎖社会です。マスコミは関連する様々な情報を手に入れて国民に知らせます。一つの出来事が国中を騒動に巻き込む大きなうねりへと広がって行くのです。その過程では嘘やでっち上げもあるでしょうが、人がそういうからそうだと決め付けるのではなく、絶えず「真実は何か」を考えなければなりません。

  「芋づるを引っ張り抜くと向こうにも大きな芋がゴロリゴロゴロ」

  「建築士聞いただけでも何かしら悪い人では疑う心が」

  「息子さんどんな職業?問われたらウーン飲み込み建築関係」

  「その時は儲けたつもりの嘘がばれ裸王様今年の寒さ」

  

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○運のいい人と悪い人

 今年は冬の訪れが例年より遅く、わが家から見える本尊山の紅葉はまさに今が見ごろです。ハゼの赤に加え今になってクヌギの黄色が目立つようになり借景は見事な一服の絵のようです。もう3日で師走だというのに何か季節感が変わって、便りに書く季節の話題も一瞬考えてしまうことがあります。そういえば田植えは6月なのに今は5月の皐月と一緒ですし、西日本では師走と紅葉が一緒とは、松尾芭蕉や正岡子規が生きていたらどう俳句を詠むのでしょうか。

 今日鳥取の仲間が旅のついでに双海町の夕日を見に立ち寄りました。彼が双海町を訪れるのはもう3~4回目なのですが、未だ自慢するような夕日に巡り会っていません。故に夜来の雷雨から予知して今日も半分諦めてやって来ましたが、案の定夕方西の空が真っ黒になって見ることは適いませんでした。

 「折角来たのに残念です。でも又来る楽しみが出来たと思えばいいじゃあないですか」と、持ち前のジョークで反対に返されてしまい、かえってこちらが恐縮してしまいました。

 さしずめ彼は運の悪い人でしょうね。昨日みたいに運のよい人は素敵な夕日を見て帰るのですから、運が悪いとしか言いようがありません。かくいう私も宍道湖に落ちる小泉八雲の愛した美しい夕日は、何度訪ねてもまだ見れないのですからお互い様でしょうか。しかし私の場合は「日本一の夕日を見に宍道湖に行きました。しかし全然綺麗ではありませんでした。雨の日でしたから。双海の方が勝ったと思いました」なんて人を笑わせる知恵を身に付けています。

 ともあれ彼は仲間と後ろ髪を引かれる思いで暗闇の中を去って行きました。でもこれで人生が決まるわけではありませんからご心配なく。またお越しください。

  「宝くじ当れば運のいい人と誰もが言うが買わぬ当らず」

  「わが人生運が良いのか悪いのか分からぬままにやがて幕引き」

  「うどん食べいつも親父が言っていた運鈍根ありゃ必ず成功」

  「人生は食うて糞して寝て起きてこれ一休の教えと知りつつ」

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shin-1さんの日記

○えっ、「愛媛県若松進一」だけでハガキ届くの

 昨日私の元に一通のハガキが届きました。埼玉に住む知り人なのですが、裏の本文を読んでから表書きを見て驚きました。何と「愛媛県若松進一様」だけで正式な「愛媛県伊予市双海町上灘甲5391-2」などどこにも書いていないのです。「おっ、わしも有名人になったものじゃわい。愛媛県若松進一で来るんだから」と喜ぶのは早すぎます。今は郵便番号がはっきり書かれているとその住所まではすんなり届くのです。しかし私へのハガキには〒799-33と下2ケタさえ書いていないのですから、多分33の下灘郵便局へ送られ番号違いの烙印を押されて32まで転送されたのだろうと思いきや、そうした形跡はまったくありませんでした。役場に勤めていた頃ならいざ知らず、役場も辞めて一介の自由人になっているのに不思議でなりませんでした。まあこれが田舎のいいところと解釈し、嬉しいハガキに感謝しました。

 ハガキの効能を自他共に認め、はがきの実践を各地で吹聴している私には、何ともあやふやな宛名ではがきが時々届きます。特に高齢者大学などに行った後はそうしたうろ覚えの住所や名前で沢山の便りが届きます。まず住所ですが、双海町はよく二見町や双美町と間違われます。特に多いのはご存知三重県二見町に間違われることが多いようです。三重県二見町は夫婦岩に昇る朝日で有名ですが、ご当地愛媛県双海町は夕日の町なのです。

 氏名は若松を「若林」「岩松」「赤松」などと書く人がいます。「あなたは演題の横に書いた私の名前を覚えてないのか」といってやりたいものが数多くあります。でもイメージ的にはあっているのですから良しとしなければなりません。郵便番号にいたっては書いてなかったり様々、まさに私へのハガキは郵便局員泣かせといわざるを得ません。

 でもハガキ一枚でも感謝の気持ちを書きたいと思う心は涙が出るほど嬉しいものです。ハガキを貰うと返事を書かなければならない苦痛もありますが、それこそ無上の喜びとするところにハガキの醍醐味があるのです。これからも一生懸命ハガキに挑戦します。

  「近頃は切手無くなるスピードが早いと妻の独り言聞く」

  「ハガキ書く人がいるからハガキ来るたった五十円これまた楽し」

  「赤松と間違い書かれたハガキ来るその人の顔想像しつつも」

  「辞めてみてはじめて分かる音信の嬉しき手書き今日も受け取る」

 

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shin-1さんの日記

○雲海を見に行く

 日本の各地には自慢できる様々な自然現象があります。私の町の夕日がそうであるように、隣の長浜町(現大洲市)ではこの頃(晩秋)「あらせ」と呼ぶ朝もやが出て市街地を濃い霧で包みます。また同じ大洲市柳沢ですが寒くなった晩秋から初冬にかけて雲海が発生します。いずれもそこに住む人にとっては厄介者とされてきましたが、見方を変えれば「ひょっとして、これも観光資源になるのでは」と思うのは無理からぬ発想といえるでしょう。だって隣の双海町では何処にでもある夕日でさえ地域資源として生かして、成果を上げているのですから・・・・・・。

 そこで彼らはこれら霧のデーター集めを始めました。去年は、一昨年はと遡って調べてみると、最もよく見える時期が段々特定されて行ったのです。そこで考えたのが初発生の日を当てるクイズです。賞金を用意すれば誰もが関心を持ってくれるだろうと新聞に広告を出しました。まあこのアイディアもそれなりの効果を上げたようです。

 次はいよいよその現象が見える場所の特定と場所の整備です。長浜町では一望できる山の上に行政が嵐公園を整備し、柳沢でも展望台を作りました。結果は?と聞かれるのですが、皆さんはどう思うでしょう。

 このあらせと雲海には大きな欠点が二つありました。一つは特定されたこの場所が道が狭く不便で中々一般の人には馴染めないという事実と、日本人特に車に乗って見に来るであろう若い人の生活リズムが、朝型から夜型になっているという点でした。長浜町も柳沢も残念ながら地元の期待以上の成果を上げることは出来なかったし、今もそのことが重荷になっています。特に長浜町は折角投資した嵐公園に人が来ず、厳しい批判を受けました。しかし雲海展望所は少し違った経緯を辿っているようです。

 雲海展望所を造ろうと考えた「木・林・森夢倶楽部」(ひふみ会ともいう)の皆さんは、その展望所を無謀にも自分たちの力で造ろうと思い立ちました。様々な情報を集め宝くじ助成金や地元の寄付金、自己負担金を捻出しながら、勤労奉仕を続け見事に完成させました。

 昨晩「前夜祭をやるからぜひ参加を」という連絡を受け眠い目をこすりながら出掛けて行きました。聞いてはいたけどここまでやれるかと思わせる立派な施設が整備されていました。雲海展望所名物のイノシシ鍋も準備着々でした。酒を酌み交わすこの指止まれの仲間集団を見て、これぞ地域づくりだと思いました。彼らにとって雲海が出る出ないは二の次、自然の贈り物だから仕方がないと自然の力に畏敬の念を抱いていました。要は雲海を通して地域が元気になったのです。

 会長の平谷さんは私のフロンティア塾の塾生として足繁く塾に通い、交流によって多くのことを学びながら自分のスキルを高めてきました。私は平谷さんのような自立する人間を育てるために塾を開いたのですから、これ以上の喜びはありません。平谷さんにフロンティア塾の優等賞を贈りたいと思うのです。

 風呂も造りたい、花も植えたいと夢を語る平谷さんたち夢倶楽部の人たちに心を暖められ、雲海を見ることもなく未明の山道を一人帰りました。雲海が見れるといいね。

  「雲海を肴に雲海(焼酎)飲む仲間造りし館明かり煌々」

  「狸猫猪までも道案内深夜の山道向こうに灯かりが」

  「想いとは凄いものですこの館みんなの力で花に実がなり」

  「結局は気兼ねせずとも飲める場所造りたかっただけじゃないのか」

 

 

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shin-1さんの日記

○砂に絵を描く

 久しぶりに孫がわが家にやって来ました。昨晩から泊まりに来ていたのですが、私の帰宅が遅かったため孫はもう夢の世界でした。外が明るくなる7時前部屋がストーブで暖かくなったので起こしてやると、色々な話をしてくれました。3日前3歳の誕生日を迎えたのが余程嬉しかったのでしょう。先日までカニチョキチョキと二本の指で「2歳」と言っていましたが、早くも慣れない手つきで「3歳」「お兄ちゃんになったの」と得意顔で指サインをするのです。成長の過程でしょうか何故」「どうして」という質問も日増しに多くなってきました。

 深夜の仕事でお母さんが休眠中なので、孫を公園へ連れて行きました。今ではじゃこ天のおばちゃんや特産品センターの従業員ともすっかり顔見知りとなって、投げキッスをするサービスぶりで、公園は楽しい場所になっているようです。「おじいちゃん砂浜へ行こう」と私を海岸まで誘いました。丁度砂浜は干潮だったので綺麗な砂浜が一面に広がっていました。孫はそこら辺の波打ち際に打ち上がった棒切れを拾って、砂浜をキャンバスに絵を描くことをせがみました。勿論孫との合作です。飛行機、キリン、デンデンムシ、汽車、蛇などなど辺りかまわず濡れた砂キャンバスに絵を描きました。「じいちゃんじょうず」と褒めながら、孫も訳の分からぬ絵を描いているようでした。「これ何の絵」「これはカバ」「フウーン」。そういいながら書きましたが、子どもの想像は面白いと思いつつ約1時間遊びました。

 たこ焼きを買って食べ、「ほっぺたが落ちそう」などと大人顔負けの言葉を言い、小腹が太ったのでしょうか、「トイレへ行きたい」というので急いで連れて行きました。そうですもうオシッコもウンチもしっかりと自分で言えるようになりました。子どもは雨後のタケノコに似て日増しに成長します。私などはもう成長の限界に達し、登りきってもいないのに下り坂の心境です。それでも孫に負けないように少しだけでも成長をしたいと只今頑張っているところです。

 わが家に帰っておもちゃ箱からスコップと貝堀り道具を見つけ、「おじいちゃん砂浜へ行こう」とまたねだるのです。「海は寒い風がピューピュー吹いて風邪ひくからダメ」と、動かぬ身体は嘘をついてしまいました。ごめんなさい。

 「孫誘う濡れた砂浜キャンバスに色々絵を描くやがて波間に」

 「お姉さんそう言うたならいい物をあげると中年孫に強要」

 「何時の間にウンチオシッコ言い出したジジ馬鹿この子ひょっとしたら」

 「コマーシャル何処で覚えた孫言葉よーく考えようお金は大事・・・・」

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shin-1さんの日記

○みかんが安い

 昔わが家でみかんを作っていた頃は、収穫の季節を迎えると憂鬱な感じがしていました。当時わが家のみかん畑は車が入らず、重いみかんをそりに積んで道まで出していました。体力に物を言わせて20キロのキャリーを16箱も積んで引っ張ったことを思い出します。日曜や半ドンの土曜日になると母と一緒に山へ登って汗をかいたものでした。

 みかんを作らなくなってもう10年以上になります。今では近所の農家からおすそ分けのみかんが届き、美味しいところだけ味わい申し訳なく思っています。

 しかし今年は天気に恵まれ美味しいはずのみかんがどうしたことか安いようで、値崩れを立て直すため出荷調整するとのニュースが流れていました。出荷調整されたみかんは加工用に回され缶詰や真面目な愛媛のポンジュースに生まれ変わるのですが、加工用は値段が安く豊作貧乏とはこのことです。油や諸経費が上がるのに、成果物は下がるのではやりきれない思いでしょう。お百姓さんからは「もう百姓じゃあ飯が喰えん」という悲鳴が聞こえてきます。

 みかんはその土地の条件によって味が違いますが、先日友人から貰ったみかんはどれを食べてもほっぺたが落ちそうなくらい甘いものでした。丁度長野県から議員さんが視察に訪れていたので差し上げたところ、その議員さんも「こんなみかん食べたことない」と喜んでいただきました。こんな美味しいみかんが安いなんて信じ難い気がします。ビタミンCと持てはやされ、コタツに入って手が黄色くなるまで食べたのは、もう昔話となってしまいました。でもみかんはやっぱり食べ易い果物で美味しいです。今年も農家から分けてもらったみかんがわが家から、50箱くらいは国内のあちこちへ宅配便で届けられます。農家自慢のみかんをどうかご賞味ください。

 「このみかんひとつひとつを手で千切り手間暇かけてドッコイショ」

 「歌ったよみかんの花が咲いている思い出の道草に埋もれて」

 「聞きました双子みかんを食べたなら双子出来るとあれは迷信」

 「モズ突付くみかんは必ず上手いやつ鳥はどうして知っているやら」

 

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shin-1さんの日記

○わが町の風土と景観

 「風土100年景観1000年」という言葉があるように、風土や景観は長い長い年月をかけて形成されます。しかし1年一昔といわれる現代では風土も景観も100年、1000年といった長い年月どころか数年間で変わってしまう恐れがあるようです。風土はその地方の気候や地質・地形などの総合的な状態をいい、景観は景色、特に良い眺めと辞書には記されています。北国でさえ雪が積らなくなった温暖化や、私たちの町の漁師さんが見たこともないような魚が獲れると不思議がる異変も、まさに風土に何らかの変化が生じたからに他なりません。一年足らずで一山の緑が伐採されて裸山になったり、ブルドーザーが削り埋めて作ったニュータウンなど、地質・地形を無視した結果の災害は、まさに人間の身勝手が生んだ人災としか言いようがありません。変わらないといわれていた風土はこのように、日々刻々と人間の手によって変化しつつあるのです。そうした姿は当然景観にも現れ、遠望する瀬戸内海の島々にはまるでネズミがかじったような痛々しい土砂採取の跡が、無残な姿をさらしています。

 私が私の町の景観を意識するようになったのはそんなに昔のことではありません。20年ほど前夕日でまちづくりを始めた頃からでした。町が汚いことに気付いて花を植えたり掃除をしたり、蛍やメダカに熱中しソフトの部分で努力をしてきましたが、経済優先を旗印にハードな投資も随分考え公園などの人為的な施設を整備してきました。「何でそこまで」と良識ある人からは疑問の言葉をいただきました。確かにこの町は20年前と比べ見違えるように変身を遂げましたが、止むに止まれぬことだったとはいえ、昔の景観を無視したこうしたやり方に役場を退職した今、少なからず心を痛めています。

 まるで空襲警報だと悪評を外部の人から指摘されたサイレンの音は、穏やかな音楽サイレンに変わり、音景観は見えないものの見違えるようになりました。海岸国道の白く味気ないガードレールは16キロの殆どが、「自慢の美しい海が見えない」と難癖をつけてガードパイプに変えてもらいました。国道のあちこちに句碑を建てたり、松並木を造り修景にも気を配りました。またシーサイド公園の味気ないコンクリートの突堤は表面を石張りに変えました。これら全ては私の景観に対する意識の変化といえるでしょう。

 昨日全国街道交流会議が松山であり、私は分科会でこのことをパネラーとして発表しました。多分その分科会に集まった人の中には私の意見を確かめたくて、今日やって来るに違いありません。400メートルの一直線に造った人工砂浜が10年余りの時を経て、ものの見事にS字化している自然の力を私は驚きの目をもって見ています。私にしか見えない景観かも知れませんが、もっともっと景観という視点に磨きをかけて行きたいと思うこのごろです。

 「一の字がS字になつた砂浜を歩きしみじみ自然は凄い」

 「同じ海ガードレールの色だけで違って見える不思議発見」

 「わざわざと遠い町から夕日見に心染め去る仲間数人」

 「ハーモニカ小さいけれど束の間の音の風景心和ませ」

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