shin-1さんの日記

○原子力と源私力

 今日は久しぶりに四国で唯一原子力の町である伊方町を訪ねました。生涯学習講演会に招かれたのですが、私の町から海岸線の夕やけこやけラインを走り、三崎半島根元にあるゴゼ峠の長いトンネルを抜けると、何と1時間程で着きました。かつては国道197号、別名イクナ国道といわれた難所も頂上線とトンネルの開通によって随分近くなりました。

 このところの寒波で紅葉は葉っぱを落として寒々としていましたが、名残のツワブキや野菊が咲いていました。

 もう10年も前のことですが、私は伊方町の公民館大会に招かれお話をしましたが、その時「伊方町原子力取ったらタダの町と言われないよう努力してください」とお話したら、当時の町長さんにこっぴどく叱られたのを思い出しました。「町外から来て、しかも役場職員の分際でこんな発言をするとは何事か」とのことでした。私も反論したのですが平行線のままでした。私の言い分は「言われないように」に重きを置いたつもりでしたが、若かったのでしょう、舌足らずだったと今も反省しています。

 今日の話は原子力を源私力に変えるという話をしました。「源私力」はレ点をつけると「力の源は私である」という意味です。合併によって人口が増えたような錯覚を覚えがちですが、一人が1馬力だったら普通の町です。でも一人が2馬力か3馬力持ったら2倍、3倍の人口規模に匹敵する町になるというのが私の持論です。全国にはそのような馬力ある町がいっぱいあるのです。今日の会には町長さんも同席してお話を聞いていただきましたが、かつて青年団活動を共にした同士だけに叱られることもなく熱心に私の話に耳を傾けてもらい、無事役目を終えました。

 伊方町は田舎の町でありながら原子力発電所の恩恵もあってか立派な庁舎、立派な生涯学習センターが建っており、町の入り口にはコンビにまで出来ていました。私が常々述べているようにその町のレベルをテストすれば「①人が集まり時間が守れあいさつが出来るまち。②公衆トイレの綺麗なまち。③まちの入り口から出口まで綺麗な花が咲いている町。」の三つ全てにまあまあ満足いくいい町でした。

 今年はみかんが安いと控え室で出会った人も言っていましたが、みかんを文化に変える努力がこれからの佐田岬半島を活性化するキーワードになりそうです。

  「原子力文字を変えれば源私力馬力を集めていいまちつくろう」

  「日本一富士の山だと思いきや余り高くて寝かす半島」

  「モグラより太いトンネルくり貫いて平家の谷は寂しかりけり」

  「双海出て峠登れば二海あり下に二見の家並み見えつつ」

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shinn-1さんの日記

○母の写真

 母が亡くなったのは2001年10月4日のことでした。肺がんと分かってから約10ヶ月、父と二人で穏やかな余生を送っての旅立ちでしたが、最近父の隠居に母の写真が何枚か飾られている中に、奇妙なのを発見しました。それは母存命の皐月の頃に写した皐月咲く隠居の風景ですが、その隠居の窓を切り取ってそこへ母のスナップ写真をはめ込んでいるのです。最初気付きませんでしたがあたかも母が皐月の花を愛でているように見えるのです。その発想に驚くやら感心するやら、ただただ敬服しています。

 人は身近なものをなくして始めてその存在に気付くのでしょうが、亭主関白だった父の場合も痒い所に手の届く母の存在は余りにも大きかったに違いありません。

 私にとっても妻の存在は大きいはずなのに、側にあるがゆえにその存在の大きさには気付いていないのが正直な所です。もし仮に私が父の立場になった時果たしてそんなことが出来るだろうかと考えましたが、そんな心からなる愛し方は出来ないような気がしています。

 たった今、一間置いた台所から「お父さーんご飯ですよ」と妻の声、「ちょっと待て、今大事な所じゃけん」とブログを作成している私、「私は用事があって出掛けにゃあならんので早く食べてください。片付きません」と妻、「も少し待てと言いよろうが」と私反論、まあこんな具合に口喧嘩ならぬ口相撲をとって日々の暮らしが成り立っています。妻も私も分かっちゃいるけどやめられない自分の主張を繰り返しています。でも正直、相手の立場に立って考えるような出来た人間にはまだ成長していないのです。でもでもせめて父の写真に登場する母への想いのように、少しずつ方向転換して行きたいと思っています。

  「この写真母が窓から花見てる父の想いが伝わるように」

  「隠居家の居間に座りて父ポツン母の写真と今日も二人で」

  「十円を落とせば音に振り返る千円札だと落とし気付かず」

  「母の夢見たと親父の嬉しそう話す言葉に安堵しつつも」

 

 

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shin-1さんの日記

○私のサイン

 私はこれまで共書を除くと自著4冊の本を出版しています。最初の本は10年間で240号もの町の広報をたった1人で作りましたが、広報の巻末に「こちら編集局』というコラムを書きました。広報マンを終えるに当ってまとめてみようと「町に吹く風」のタイトルで出版しました。当時私の年齢は42歳の厄年でしたからもう19年も前のことで、その本は残部もなく絶版となっています。その後55歳で「ミレニアム2000年その日私は」56歳で「昇る夕日でまちづくり」、57歳で「今やれる青春」と足早に出版を続けていますが、肝心の資金や整理が追いつかずまだ3冊分の原稿が未出版のままなのです。

 本を出版してその本が多くの人に読んでもらえる幸せは存分に味わって来ましたが、出版の度に私を悩ませるのは著者のサインを求められることです。そんなに有名な、いや無名な私にとってまるで有名人のようなサインは出来ませんから、最初は丁重にお断りしていたのですが、3000部売れ2版目を出した「昇る夕日でまちづくり」ではそんなわがままも通らず、筆不精や乱筆も省みずサインをするようになったのです。

 サインの末尾に自分の名前を書きますがその下に落款印を押すと黒文字と朱肉が絶妙のバランスで配置され、それなりに見えてくるから不思議です。

 サインは相手の名前、自分の好きな言葉、日付、自分の名前を書くよう求められますが、多いときは10人もが列を作った時などは、10人全部に違った言葉を書くパフォーマンスをやって、アッと驚かせたこともありました。また30冊もの送付本に全てサインを求められたこともありました。

 本好きの人は必ずといっていいくらいサインを求めてきますが、私の本棚にも作者の署名の入った本が何冊か置かれています。再読した時などはその風景が思い出せて嬉しいものです。でも今でも自分のサインには自責の念に駆られています。「昇る夕日でまちづくり」の出版間もない頃は新聞紙によく練習をしましたが、一向に上達しない自分に腹立たしく途中で止めてしまいました。今は綺麗に見せようではなくありのままの自分を書こうと肩の力を抜いて、あくまでも自然体でやっています。ちなみに私の好きな言葉で好んで書く言葉ベスト3は、「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」「逢う人も逢う人もまた福の神」「ボウフラも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」のようです。

  「恥ずかしや下手が自慢のこの腕にサイン求める人がいるとは」

  「サイン書く姿は格好いいけれど出来た文字見て×○△・・・・」

  「文届くサインした本送ってと書籍扱い覗かれヒヤリ」

  「文字下手に今度生まれて来る時はあんな字書ける腕の男に」

  

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shin-1さんの日記

○腕時計が止まった

 私の手に巻きついて常に時刻を刻み続けてきた時計がついに止まりました。私は何処ででも時計を外す癖があって、先日も自分のこの腕時計が見当たらないと思って探していたら、愛車の助手席座布団下に置かれていたのを発見しました。アッあったと喜んでその時計を持って講演会場へ入ったまでは良かったのですが、いくら話しても話しても時計が進まないのです。動いていないことに気がついて携帯電話を取り出し確かめたら何と終了5分前でした。たまげたたまげた、結局は気がついて事なきを得たのですが、講演会が終わって腕にはめて家へ帰ると、時間こそ違うもののちゃんと動いているではないですか。日付と曜日、それに時刻を合わせて使っているのですが、今のところ正確に時を刻んでいますから大丈夫のようです。要は腕を動かさず自動巻き機能が働かなかっただけと分かり一安心しました。

 私の腕時計はシンプルです。最近若者が持っているデジタル時計ではなく文字盤も明らかに小学生向きといった方が良いかも知れないものですが。、私のように決められた時間を決められたように動かなければならない者にとっては便利なものですが、私はどの会でも時計を外して机の上に置いてにらめっこしながら話を組み立てて行くこれまた癖があり、そのことが原因で時計をうっかり忘れることがあるのです。こうしたハプニングの度に探すことを強要される妻は「自分の時計くらいは自分で管理してください。私も忙しいんですから」と手厳しくも冷たい声が返ってくるのです。

 この時計のお陰で私は5分前・10分前行動が取れるのです。最近の若者は時間的観念がないというかルーズで、大学の授業にも遅れてくる学生が何人かいます。その都度何気なく諭すのですが遅れてくる学生はいつも遅れ、早い学生はいつも早いところをみると、心がけ一つで習慣は変わるものなのです。

 私は始める時間も正確ですが止める時間も正確にするようにしています。そうしないと待ち時間を相手に強要することになって、時間のロスが出来るからです。そんな態度でやっていると徐々にではありますが時間が守れるような集団が育ちますから、今後も止める時間に気をつけたいと思っています。

  時計が止まったショックは失敗経験ですからまた一つ利口な実践が増えそうです。

  「腹時計もうそろそろと飯時か思った瞬間昼のチャイムが」

  「飯喰をや一杯飲もやその次は明日にしょうやこの3つしか」

  「寝ずに打つ時計の刻みコツコツと俺はそんなに働きゃしない」

  「ご主人と同じくらいにいい加減時計遅れて本当に遅れ」

 

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○田舎の面白い話

 昨日車の中で田舎の面白い話に花が咲きました。

 「おらの親父は口癖のように『おらはもう長生きしたって仕方がない』と毎朝いいますが、そんな口の下テレビで覚えたんじゃろか、サプリメントなる横文字を知ってて、栄養剤を買って飲んどります」

 「おらの隣のじいさんは『おらの人生下り坂』といっとりますが、『登りきってもいないのに何で下り坂ぞ』と返したら『そらそうじゃあ』と大笑いしました」

 「うちの隣のばあさんは少々耳が遠い。『ばあさん、この野菜消毒しとるんか』と聞いたら『消毒液は余るほどかけとらん』と答えました。消毒しとるんじゃろうか、してないんじゃろうかそれでは分からんのです」

 「こないだ老人が集まってクロッケーしとりました。ばあさんの持っているクロッケーの玉に、愛子、小百合などとええ名前が書かれてありました。『ばあちゃん昔の人にしてはええ名前ですな』と尋ねたら、『えっへっへ、これは私の名前じゃありません。これは若嫁の名前です。この玉を足で踏んづけ木槌で叩くとスーとしますらい』というのです。田舎では嫁姑の関係も難しいものです」。「でもこのおばあちゃんが悪いのではありません。時代が悪いのです。このばあちゃんは嫁に来た頃姑に散々いじめられました。私が姑になったら若嫁に仕返しせんと死んでも死に切れんと思とったら、今度は若嫁に『ばあちゃんは古い』といじめられるのです。仕方がないから長男の嫁になったばあちゃんたちが相談して、せめてクロッケーの玉に若嫁の名前を書いて憂さ晴らししようと考えたのだそうです。考えてみれば、旦那は戦争に行き、子どもは育てにゃあならんし、ましてや喰うものにも着る物にも事欠く貧乏暮らし、ええこと一つもありませんもんなあ。せめてクロッケーぐらいはさせてあげましょうや」

 「うちのじいさんが『最近は耳が遠くなって困る」というのです。俺はじいさんに言ってやりました。『耳が遠くなっても近くなるものもあるんじゃきんこらえないかん』『そんなもんあるんか』と聞き返しましたんで『じいさん小便が近くなっとろうが』いうたら、納得しました。

 どうですか、こんな話聞いたら面白い話どころか同情する感じませんか。こんな村のひそひそ話は山ほどあります。今思いつきましたが、まるで人情落語話とでもいえる「進ちゃんのひそひそ話」を一冊の本にしたら面白いと思いました。何時の日にか必ず・・・・・と考えました。

  「言っちゃダメそう言いいながら口の下絶対言うなと次々人へ」

  「スピーカー名前のついたおばあちゃん今日もせっせとあることないこと」

  「厚化粧誰に見せるかおばあちゃん三途の川が近いというのに」

  「ロボットが歩いているよな歩き方笑っているけどやがてあんたも」

 

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shin-1さんの日記

○お寺のコンサート

 普通お寺といえば葬式や供養のために出掛ける場所であり、88箇所のような札所を除けば、檀家の人以外には滅多に行く場所ではないのですが、最近は世の中が変わったのか、いや人間が変わったのでしょう、様々な催しがお寺であって随分あちらこちらのお寺へ行くようになりました。昨晩も伊予市に栄養寺というお寺でモンゴル国立民族音楽団のコンサートがあるというので、誘われるままに出掛けました。まるで健康を考えるにはピッタリのようなその名も栄養寺へは、伊予市の文化活動「宮内邸を守る会」の拠点となっているので、これまでにも何度も足を運んでいますが、昨晩のコンサートはモンゴルの民俗音楽で、物悲しい、そして力強いメロディや声に久しぶりに感動を覚えました。

 モンゴルといえば今話題の大相撲朝青龍のふるさとです。冬にはマイナス20度以下に下がるという厳しい気候、遊牧民やゲル、何処までも広がる大草原、ジンギスカンなどを連想するだけで、その国の知識は何ら持ち合わせていませんが、人口220万人の小さな国であったり数年前の大寒波で家畜が死んで都会へ移り住む人が増えたことなど、出演したハスバートルさんの流暢な日本語レクチャーで始めてその国のことを知りました。

 民族衣装に身をまとった出演者はハスバートルさんとエンフバットさんの二人だけ、それに伊予高校へ留学で来ている女子高校生一人の友情出演という少数でしたが、お寺の本堂に響く馬頭琴やリンベ(笛)、それにホーミー(裏声)は人間ののなせる業とは思えない素敵なものでした。

 特にリンベと呼ばれる笛は、笛自体特別なものではないものの、演奏方法は不思議そのもので、口から息を吹き出して笛を吹くと同時に鼻から息を吸い込むという常識では考えられないものでした。したがって何分でも笛を吹き続けられるのです。自分で試しにやってみましたが出来ませんでした。またホーミという不思議な声も水の音や風の音を表して何とも奇妙な声なのです。私は目をつぶり耳を澄まして馬頭琴や笛の音色を聞きながら、まだ見たこともないモンゴルに思いをはせてみました。自然と動物と人間の織り成す何かが感じられました。多分それは私の少年の頃の思い出のような、ゆったりとした時の流れだと思いました。家族愛、謙虚さ、風や水の流れ、太陽の輝き、野辺に咲く花など忘れられた日本の原風景が蘇ってきました。同じアジア民族でありながら、まるで生き馬の目を抜くようなあくせく社会に生きる私たちが、もう一度思い出したい「何か」がそこにあるようでした。

  「悲しくも強くも響く馬頭琴瞼閉じれば少年の頃」

  「吹いて吸う同時に出来る笛の音が寺の本堂涼しく流る」

  「あの顔もこの顔も見た同じ顔顔々集まる田舎のお寺」

  「ストーブの横に陣取り馬頭琴柱が邪魔して側耳立てる」

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shin-1さんの日記

○セイパチ・ウパチ

 「セイパチ・ウパチ」というこの言葉、何を意味するかご存知ですか。はいこれは私が作った新語です。それももう20数年前に作ったのですが、流行らないことをみると大した言葉ではなかったようです。よく使われる「晴耕雨読」という言葉をご存知でしょう。まさに職から離れた私の今の心境を述べるぴったりの言葉かも知れません。実はこの「セイパチ・ウパチ」という言葉、農山漁村に住む若者への警告の意味を込めて作ったのです。最初は少々馬鹿にした言葉なので叱られないか心配しましたが、当の本人たちはあっけらかんでした。

  「セイパチ・ウパチ」とは、晴れた日にはパチンコ、雨の日にもパチンコにうつつを抜かす若者を指しているのです。まちづくり草創の当時第一次産業に従事する若者たちは雨でも晴れでも暇さえあればパチンコにうつつを抜かしていました。「パチンコは百害あって一利なし」と若者に諭すのですが一向に効き目はありませんでした。それでも若者のエネルギーをまちづくりに生かそうと、あの手この手の方法を試みました。お蔭様で夕焼けコンサートを皮切りに夕日のまちづくり、花咲くまちづくり、人づくり、イベントづくりなどに積極的に取り組んでくれるようになり、双海町輝きの原動力になってくれました。

 あれから長い時が流れ双海町では若者がパチンコにうつつを抜かす光景は殆ど無くなりました。

 出会い国道沿いには大きなパチンコ屋さんが沢山出来ています。つい最近の傾向なのでしょうか、外から見るとまるでパチンコ屋には見えないような立派な造りで、しかも中はまったく見えないように美人の写真で囲われています。寒空になびく幟がまるで手を振ってこまねいているようにも見えます。そして駐車場には真昼間だというのに沢山の車が満車の状態で集まっているのです。「もしや、あの中に双海町の若者が?」と遠目横目で通りすがるのですが、嬉しいことに出会うことはありません。ある意味わが町には「セイパチ・ウパチ」と呼ばれる若者はもういないのかも知れません。

  「青年にセイパチウパチ言いました怒るどころか笑っていなされ」

  「博打とは場で朽ちるからいうのです何時の時代も止められぬもの」

  「タバコ吸う煙もうもう目に涙取られて涙自分に涙」

  「熱中し熱中症で子ども死ぬ三日覚えて四日目忘れ」

 

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shin-1さんの日記

○遊び半分の旅をしました

 これまで旅といえば近い所、遠い所と様々な場所へ出掛けていますが、これまではどちらかというと仕事柄講演や視察など、ネクタイをきちんと締めスーツ姿が主流でした。今回仲間から誘われて高知県馬路村へ6人一組の旅をしました。車が満杯でのちょっと窮屈な旅でしたが、車内は馬鹿話に花を咲かせる心を許しあった人ばかりでしたので、カジュアル軽装の久しぶりにリラックスした楽しい旅となりました。

 馬路村といえば「ごっくん馬路村」といわれるほどユズを使った加工品で全国に名をとどろかせている村です。ユズの村を仕掛けた馬路村農協の東谷専務さんはいわずと知れた高知県の名物男です。

 この夜は葉っぱ産業でこれまた全国級の知名度を誇る徳島県上勝町いろどりの横石副社長さん、それに内子町のからりを立ち上げた森本さんも加わり、夜のふけるのも忘れて話し合いいつにないオオボラを吹きあいました。

 えひめ地域政策研究センターが来春開くシンポジウムに、私も含めてこの4人が顔を揃える企画が進行しているものですから、その打ち合わせがてらの旅となりました。加えて新聞社がこれらを企画物として連載するそうなので、新聞記者とはいいながら偉いデスクという肩書きの方が同行したものですから、話題のやり取りのバリエーションが広くて深くて、実に面白い話ができました。

 丁度私たちが村を訪れるというので、馬路村の若い職員が二人自主的に参加をしてくれましたが、私は今回の旅で、この若い職員を相手に色々な議論を12時半ごろまでやったことが何よりの収穫でした。かつての私の若い頃を見ているような彼は、歯に衣を着せぬ高知弁丸出しで、酒を飲みながら熱っぽく私に話すのです。

 ユズの村として知名度抜群の村の、どちらかというと農協主導の産業が主流を占める現状の中で、限りなく100パーセントに近い林野率と魚梁瀬杉の産地として栄えたかつての歴史を対比しながら、林業を振興したい彼の気持ちは痛いほど分かりました。多勢に無勢の集中砲火にも似た議論を終えて、彼は爽やかに馬路村の深夜の闇の中に消えて行きました。

 早朝宿泊代の清算をするためフロントを訪ねると、支配人さんから一通の封筒を渡されました。若松さんへと表書き、木下という裏書、彼は朝早く昨日の思いを一通の手紙にしたためて届けてくれていたのです。

私は涙が出るほどの嬉しさを覚えました。今時の若者にもこんな人がいるのかと・・・・・。

 3年を目途に彼は林業振興策を何か考え村を活性化したいと決意を述べていました。また双海町へ来たいと書き、今回の私たちとの出会いをカルチャーショックと感じたようです。第2の東谷さんの出現を心から望んでいます。

  「長閑なりごっくん馬路の湯につかり湯気の向こうに夕日が沈む」

  「ユズ香る宿の鍋物フウフウと話し肴に夜更け忘れて」

  「若かりし頃を重ねて議論する眠れず書いた文今朝届く」

  「ユズだけで結婚せずに村残る見上げたものよ俺も真似たい」

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shin-1さんの日記

○いらなくなったパソコンの行方

 「何と勿体無い」、数年前だったら誰もが思うでしょうがパソコンは今や使い捨ての時代となりました。私は地元の自治会長をしていますので、毎月一回不燃ごみの回収をやりますが、あれほど徹底をしたつもりでも、何処から誰が出すのかパソコン類が出てきます。その都度放送して厳しく言うのですが一向に改まらないのです。結局は不法投棄ということで高いお金を出して処分するのですがこれがまた手続きが面倒くさくて、捨てる人の気持ちも理解できるのです。

 私の家にも息子が使っていて使われなくなったパソコンが納屋の隅に堂々と陣取っています。早く処分をしたいのですが、電気屋さんや役場や郵便局へ処分方法を相談に行きましたが結局はたらい回しでメーカーへ連絡するよう指導され、面倒くさくなってそのままになっているという算段です。正月までには何とかしたいと思うのですが、不燃ごみに出された人のパソコンを処分して自分のパソコンが処分できない逆ザヤに少々うんざりしているところです。

 昨日海岸を掃除していたら何と海岸にパソコンが漂着していました。メーカーは中国製のようでしたが、遠い中国から流れてくるはずはなく、誰かが捨てたのだろうとお見受けしました。

 昨日テレビで、こうした電子ゴミが実は大きな倉庫に集められ、海外市場へどんどん流れているという現場が放映されました。その人たちはゴミ同然で買い取り修理して使用可能とし、外国のバイヤーが群がるように買って自国へ送るのだそうです。この姿を見て日本もいよいよ使い捨てで破滅の一歩をたどっていると思いました。

 東京の電気店などへ行くと新品から中古品まで様々なパソコンが所狭しと並べられ、あの手この手の客引きがマイク片手にお客の財布を開けさせようと懸命です。

 私もパソコンが欲しいのですが今は人間牧場に集中し余分な資金はないので諦めています。

  「パソコンの中は一体どうなっていじり分からず結局パー」

  「高かったパソコン今は電子ゴミ引き取る人なく雨に打たれて」

  「パソコンで家計簿つけてるおばあちゃん飛んでいますがあなたの余命は」

  「パソコンの一つも使えぬ課長さん古いパソコン同じ価値しか」

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shin-1さんの日記

○あなたは歌を何曲知っていますか?・歌えますか?・弾けますか?

 「あなたは歌を何曲知っていますか?・何曲歌えますか?・何曲弾けますか?」と尋ねられたらどう答えるでしょう。ベートーベンの運命やチャイコフスキーの白鳥の湖は知っていても、歌えないし楽器で弾くことも出来ません。この3つの回答を出すには逆の質問に答えた方が早道かも知れません。つまりあなたはどんな楽器でどんな曲が弾け、どんな曲が歌えるか考えた方が早いということです。

 私たちの身の回りには沢山の楽器があります。わが家にですら弾かなくなった娘のピアノ、私のギター、ハーモニカ、息子たちが学校で習ったリコーダーなどがありますが、残念ながら家族の誰もその楽器を弾こうとはしないのです。

 勿体無いと思いつつ孫がやって来た折など、せがまれて遊び半分に弾いてみるのですが中々上手く弾けないものです。若い頃ギターは何度か挑戦し、ナツメロや禁じられた遊びをかじる程度弾いていましたが、これもいつの間にか忘れて、ギターはわが書斎のインテリア程度になり下がり埃を被っています。ピアノも娘が習っていましたから、時々悪ふざけで弾きましたがこれも成就しませんでした。私たちの時代にはリコーダーは習っていませんから、子どもたちのリコーダーも押入れの片隅にずっとしまわれたままの状態です。

 残りはハーモニカ、今私はこの小さな持ち運びできる楽器に凝っていて、通知表の音楽2でありながら、無謀にも楽器演奏に挑戦しているのです。元々のきっかけは息子の学校教材との出会いが始まりでしたが、妻の買ってくれたメイドインチャイナ製ハーモニカ2本をカバンにしのばせ、今では全国演奏旅行?(笑わないで下さい。本人はいたって真面目にやっているのですから)をやっています。相手が要求しようがすまいが、夕日の話となると必ずといっていいくらい「夕焼け小焼け」と「赤とんぼ」2曲を吹くのです。不思議なものでハーモニカを吹きはじめると、ざわついたり眠っている会場も目を覚ましてしっかり聞いてくれるのです。時にはアンコールにも似た大きな拍手だっていただきます。

 ちなみに先日パソコンで自分の弾ける曲をリストアップしてみると160曲以上になりました。通知表音楽2の私としては大きな大きな進歩です。余り上手い方ではありませんが、人間牧場へはスズキ楽器製の4本一組セットのハーモニカを置いていて、畑仕事の休み時間に吹いています。先日も澄み切った初冬の空と海に向かってウッドデッキで吹きました。気持ちよかったです。この分だと落成式の私の出し物披露に間に合いそうです。みんなあっと驚くでしょうね。

  「通知表音楽2なのに何故吹ける小さな楽器ハーモニカなら」

  「同窓会せがまれ吹いた上野駅涙して聞く彼にも苦労が」

  「拍手する音をてっきり間違えてアンコールだとさらに一曲」

  「夢に見た私が主役のコンサート気がつきゃ鳥まで逃げるありさま」

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