shin-1さんの日記

○タオルを着こなす若者たち

 わが家の脱衣場には何本ものタオルが洗濯され定位置に置かれています。タオルの収納でその人の清潔感が分かるといわれるほど、主婦にとってタオルは洗濯の対象物として大きな位置を占めているのです。毎日家族が使うタオルは半端ではありません。救いなのはアイロンを当てないで済むくらいです。

 朝顔を洗って顔と手を拭く、トイレから出ると手を洗って拭く、水仕事をして手を拭く、ふろに入ると身体を洗う専用のタオルで洗い、出ると大きなバスタオルで体全体の汗や水気を拭き取るなどなどタオルは私たちの生活になくては鳴らない存在なのです。そのためでしょうか、盆や正月には買い物をする馴染みの店はささやかな感謝の気持ちを込めて、自分の店の名前を刷り込んだタオルを粗品として出して喜ばれています。ある主婦はこんな時代遅れの粗品に『何だタオルか」といいたげに、拒否をするといいますから世の中分からないものです。妻に言わせればタオルは何本貰っても重宝で、洗い晒しで古くなればお下がりして雑巾にもなるし、おすそ分けのお礼にしても喜ばれるしと言っています。粗品拒否の主婦と私の妻、どちらも女性なのですが私は妻の方の意見に分があるように思うのです。

 最近タオルが見直されてきました。若者たちが何か作業をするとき器用に頭に巻いて帽子の代わりをしています。ある意味で格好よいので私も昨年の夏人間牧場の作業で見よう見まねやってみました。若者のような格好よさはないと思いましたが、これが案外涼しく頭にフィットしました。今年の夏は絶対あの格好をしてやろうと心に決めています。

 今年の冬は人間牧場にもうっすら雪が積もり寒かったのですが、畑仕事ではもっぱらタオルを首に巻いて仕事をします。首筋が温かいし草や土の侵入を防ぐだけでなく汗だって拭けます。昔の人はタオルを腰に吊るして作業をしていましたし、鉢巻や冬の頬被りは田舎のおじさんの代名詞のようでした。

 今やタオルはファッションです。様々なデザインのカラフルなタオルが登場しています。近くに今治という全国有数の産地があるからタオルは否応なしに暮らしの中に溶け込んでおりますが、このタオル業界も景気のよいころ賃金の安い東南アジアに進出して、今は逆にその東南アジアが競争相手になるというかつての日本とアメリカのような関係になり、業界全体の大きな問題となっているようです。

 私には黄色いお気に入りのマイタオルがあって、何かにつけてこのタオルを使います。自分の身体にフィットする何かを持っています。イベントの時は必ずこのタオルを首に巻く習慣が身についています。そのタオルも『お父さんもうそのタオル止めたら」と妻に言われますが、くたびれたタオルの行く末は雑巾か車洗いしかありません。もう少し働いてください。黄色いタオルさんご苦労様。

  「ひいふうみい干したタオルを数えると何と多いか洗濯干し場」

  「風呂上り妻の差し出すバスタオルふかふか拭い体休まる」

  「お気に入りタオル首巻きよし行くぞ野良の仕事の気構えだけは」

  「車拭くタオル見覚えあの店でガソリン入れて貰いし一枚」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○芋菓子貰う

 鳴門金時、土佐金時といえば言わずと知れたサツマイモの銘柄です。勿論それ以外にも西宇和郡瀬戸町(現伊方町)にも瀬戸金時なるサツマイモが存在します。昔はサツマイモを貧乏食の代名詞のように言われていました。事実私たちが少年だった戦後の物不足の頃は、サツマイモを常食のように食べていましたからそれも当っているのかも知れません。しかし今は食物繊維の多い健康食品として持てはやされ、高価な食材となっています。

 高知県へ小旅行に行った友人から芋菓子をいただきました。「芋菓子は孫がすきでねえ」と口を滑らせたばっかりに届いたのです。言ってみるもんだと内心ホクホクです。

 最近までは高知へ行くのに国道33号線という山中コースを3時間かけて行きましたが、今は高速道路を使えばわざわざ香川県境辺りまで東進するにもかかわらず僅か2時間で高知市内へ行くことが出来ます。殆どの人は短時間コースを選ぶのですが、その人はあえて山中コースを選んで行ったそうです。

 その高知県よりの中ほどに芋菓子の製造販売所があって、私も高知へ行った時は行きか帰りかその店へ立ち寄るのですが、高知では芋菓子とはいわずいもケンピと呼んでいます。芋を細長く切って油で揚げ熱々に砂糖湯をかける独特の製造方法がオレンジ色の美味しい芋ケンピを作るのです。

 芋ケンピは普通細長いのですがきちんとピンとしている芋ケンピは品もよく高価なのですが、半分以下に折れたものは特用袋に入れられて3分の1の値段で売られているのです。どうせ食べるときは折って食べるのだからと、特用袋を買う私はやはり貧乏人の末裔でしょうか。でも何といわれても見た目より実を取ったほうが得策だとは思いませんか。徳用徳用。徳用に限ります。

 貰った芋ケンピは早速金属製のお菓子箱に入れて乾燥剤を入れ、孫の来宅を待っています。「おじいちゃん乾杯」と何故か孫は芋ケンピで乾杯をして食べるのです。おっといけない。孫の顔を想像すると目尻が下がってしまいそうです。しゃきっとしましょう。

 昔は芋菓子も家で作りました。美味かったですね。

  「母生きしころに作った芋菓子を思い出しつつガリリ音立て」

  「人は皆そんなに急いで何処へ行く昔通った山道忘れて」

  「徳用の芋菓子買いしわが友も貧乏人の子沢山なり」

  「芋食えばパンツ破れる屁の力そんな一句を言いつつ食った」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○人間牧場が雑誌に載る

 雑誌といえばいいのか機関紙といえばいいのか分かりませんが、人間牧場のことを意識的に情報発信しているため、これまで3回もその種の情報誌に人間牧場が載りました。2回は自分で書いた記事ですが今回は観光をテーマの「舞たうん」という機関紙に観光カリスマとしてのインタビュー記事に添えられる形で2枚の写真が掲載されたのです。一枚は水平線の家で私が笑顔で話すスナップですが、もう一枚の写真が実に素晴らしいのです。11月に取材に訪れたえひめ地域政策研究センターの研究員である脇田さんが、室内から海に向かって張り出したウッドデッキに立つ私と、同行した鵜野さんの二人が海を見つめる姿をバックから激写しています。

 今日所用で出会ったある舞たうんの愛読者から、「あの写真は誰が撮ったですか。素晴らしいですね。」と賞賛の言葉をいただきました。確かに私は取材の日あのカメラの位置に脇田さんと鵜野さんを座らせ、「どうです。いい眺めでしょう。ここに座ると海と水平線と空しか見えません。これをここ人間牧場ではコスモス牧草と考えています。こんなロケーションはありませんよ」と自画自賛したのです。脇田さんは私と鵜野さんをウッドデッキに立たせ何枚か狙っていました。

 校正ゲラの段階で写真を見せてもらったのですが、出来上がった写真は実に素晴らしく一目瞭然でした。

写真に添えられたキャプションも「人間牧場に建設中の『水平線の家』。牧草に見立てた海や水平線を望み、新たな『コト』おこしを構想する若松氏(左)」とありました。スライド全面開放のサッシ窓からは雄大な伊予灘の海と空がパノラマ風に見えていました。

 これで人間牧場もやっとデビューしたことになるでしょう。風誘う春が待ち遠しいワクワク感が身体に湧いてきます。早速インターネットでメールが入ってきました。「舞たうん読んだ。また新しいことに挑戦する姿に感動」なんて褒め殺しもありました。『あそこで焼肉食ったら最高でしょうね」なんて馬鹿げたメールもありました。即座に『焼肉は晩餐館。焼肉焼いても家焼くな。焼肉を食べたい人お断り」と皮肉たっぷりのメールを送り返しておきました。おっと、このブログはあの人も読んでいる。しまった。しまった島倉千代子でした。

 一枚の写真はどんな巧妙な記事よりも雄弁にその意図することを物語ります。あの写真はそんな一枚だと確信しました。

  「一枚の写真が語る物語誰が写したはいWです」

  「雑誌見たあそこで焼肉食いたいとメールよこした大馬鹿者が」

  「人は皆二つのまなこ持っているある人見えて何故に自分は」

  「CGで消せる電線消さずとも心眼持てば要らぬは消える」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○分厚い時刻表

 日本各地を年中旅する私にとって、交通新聞社が毎月発行している分厚い時刻表はなくてはならない重要な旅の友だちです。しかしたかが400円程度ですが毎月購入することも適わず、未だに2004年12月版の古い時刻表を使っています。そんな古い時刻表で大丈夫かと言われそうですが、正確な時刻はインターネットで調べるので、どの路線を経由して目的地に行くのか旅の組み立てには重宝なのです。時刻表を見ていつも思うのですが、日本中の隅から隅まで陸地と海と空をこんなにも多くの列車や船や飛行機が行き交い、人々の足を確保しているのです。しかも大した事故もなく毎日繰り返して正確に運行されているのですから感心するほかありません。

 巻頭に出てくる全国の駅と路線地図は、合併して地名がグチャグチャになった道路地図と違い、ある意味で普遍的な駅名が載っており、ページをめくると降り立った駅や訪ねた土地の思い出が蘇ってくるのです。

 双海町の下灘駅が3回、串の鉄橋が1回青春18キップのキャンペーンポスターに取り上げられ、巻末グラビアに載った一冊は大切に保管していますが、夕焼けトロッコ列車や菜の花トロッコ列車の運行記事も時刻表で取り上げられ、全国からファンが訪れたのもつい昨日のことのようです。

 時刻表は時刻数字の羅列で虫眼鏡で見ないと判読つかないような細かい文字が並んでいるだけのごく単調なものなのですが、これが結構奥深くまるで火曜サスペンスの世界でもあるかのように、様々な旅のルートが見えてきます。新幹線のような早い列車もあれば鈍行列車のような遅い列車もあるし、じょうずに組み合わせると目的地もさることながら道中がまた楽しいのです。

 山梨県甲府市へ行くのに東京から行かず逆ルートで入ると感じ方がまた違います。これまではより早く目的地に到着して目的を済ませ、より早く家や職場に帰れるか考えたものですが、今はどうすればゆっくり楽しむことが出来るか考えるようになりました。

 時刻表は私の旅が終わることなく、「まだまだ旅の途中です」よと訴えているようです。私の妻はトワイライトエクスプレスに乗るのが夢だそうです。大阪から日本海沿いを北上し札幌までの約1500キロの旅は、新幹線では味わえない夢と楽しさがあるはずだと言うのです。昨年は退職記念でカナダの旅でしたが、今年は早くそれを計画し実現したいと思っています。P943には料金表が、P283には大阪発12時の列車時刻がP586まで続いており、終着駅札幌に9時07分に到着とあります。4月14日に北海道の招きで講演が予定されており、時刻表を見ながら夢が広がりました。

  「夢誘う捲るページの時刻表あの街訪ねあれも見たいと」

  「乗り継げば特急料金半額にその分高めの駅弁口に」

  「同じ線乗り換えすれば何故余分食って掛かるが車掌私じゃ」

  「分厚くてこれ程安い書籍なし何が基準か分からぬ本代」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○平成7年1月17日その日私は

 早いもので阪神淡路大震災から今日で11年目を迎えました。平成7年といえば今ではすっかりお馴染みとなった「ふたみシーサイド公園」のオープン年ですから、私にとっては記憶も一入です。平成17年1月17日の震災が起こった時間、私はオープンを目指すシーサイド公園イベントホールの、何と水槽の中にいたのです。水槽は一週間おきに中に入って汚れを落とす汚くてきつい作業があるのですが、私はその日も早朝5時からその作業を行っていました。西の空も白んで水槽の掃除も一段落しようとしたした時、5本ある水槽の一つに飼っている多きな西洋ナマズが外に飛び出しました。私は急いで水槽の外へ出たそのナマズを元の水槽へ戻したのですが、再び水槽の中のバケツを出そうと中に入った瞬間グラグラときたのです。「地震かな?」くらいでさほどの体感はなかったのですが、家へ帰って風呂を浴び出勤準備をしながらテレビを見ていると、長田町の惨事が大きく映し出され事の重大さに気付いたのです。

 あれから11年が矢のように過ぎ去り、人々の記憶も薄れ阪神淡路地域は見た目は立派な復興を遂げました。しかし今なお水面下では大きな後遺症に悩んでいるようで心が痛みます。その後起こった新潟地震や今冬の大雪災害を見るにつけ、非常時の備えの大事さやボランティアの大切さ、それに地域コミュニティの意義を感じます。

 それにしても、あの地震がもう少し近くで起こっていたら、私は水槽の中で人生を終わっていたかもしれないと思うとゾッとします。水槽の掃除はあれから退職するまでの10年間ずっと続けてきましたが、水槽に入る度に阪神淡路大震災のことを思い出したものです。

 それにしても地震の度にいわれる「ナマズと地震の因果関係」は私の見た限りでは当っているのではないかと思います。地震の直前に西洋ナマズが水槽から飛び出したのをこの目ではっきりと見たのですから。

震災の日にふしだらな発想も慎むべきとは思うのですが、もしナマズに地震予知能力があるのであれば、あちらこちらにナマズを飼って予知させるのも一考かと・・・・・・。

  「水槽のナマズ地震を予知してか外に飛び出すわが目で見たり」

  「天災は忘れた頃にいうけれど忘れちゃ困る阪神淡路」

  「復旧の阪神淡路バスで行く時の流れの何と速いか」

  「南海は何回来るか分からない難解地震予知のすべなし」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○「ブログやってるんだって」

 最近色々な人からブログについて聞かれます。「ブログやっているんだって」なんて質問です。その言葉の裏には「まさかあなたが最先端のブログなど」とか、「その歳で」と少し私を見くびっての質問のようにも受け止められますが、当の私は「ええこの歳でもしっかり独学で勉強し進化を続けています」と少しだけ胸を張って答えるようにしています。

 それにしても私自身パソコンがここまで使えるとは思っても見ませんでした。パソコン嫌いだった私はパソコンのことを聞かれると、トンチンカンな答えに終始していました。多分自信がないのと不得手が生んだ結果だろうと思うのですが、まだまだ未熟ながらブログだけはマスターして先へ進みつつあるようです。

 先日友人仲間にブログの面白さを話ました。幸い友人の中にはブログをやっている人が数人おり、談義は楽しい方向に向かったのです。「ブログって何?」もいれば、「ブログをやってみてつくづく思うのだが、人のを読むと面白くて自分の書くのを忘れるくらい」とか、「毎日書いているがあれほどの情報を覚えているパソコンは偉い」、「ブログがあれば今まで三日坊主だった日記帳はいらない」などなどでした。

 ある友人が「それほど面白いんだったらやり方を教えてくれ」というのです。「今は教える時代ではない。参考テキストも本屋に行けばいっぱいある。やろうと思えば学ぶ時代だよ」と名言をはいたお陰で、私は難を逃れました。私は自分が面白くても人に教える自信はないのですから・・・・・・。

 数日後、私の元に一通のメールが届きました。あの友人からです。「ブログを書いたのだが読んで欲しい。登録してから誤字脱字に気がついた。どうすれば直すことが出来るか教えて欲しい」でした。私は知ったかぶりでメールを送りました。手直しが成功したかどうかは再信がなにので知る由もありません。

 私が加入しているブログはAmeba by CyberAgent で無料です。時々変なコメントやトラックバックが入りますが、それも余興でしょう。

 ブログのもう一つの楽しみは読んでいる人の人数が分かりその数がランキングが毎日表示されることです。60万人の最低から始めたのですが、目標としていた10万人目を軽く超え、今は1万人を越える勢いです。また日記では3千近くまで到達しました。ワクワクです。

  「三日しか持たない過去の日記帳なのにブログは続いて不思議」

  「あの人のブログ読んだか話題なる母さん集会時代変わりぬ」

  「この記事は読んで欲しいと発すれど無しのつぶてに少々落胆」

  「六十の手習いブログ私でも出来るのだからやろう思えば」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○いい湯だな

 人間牧場の畑の開墾も新しく買った地掘り鍬のお陰で順調に進み、この分だと春の植え付けには何とか間に合いそうです。今日は弁当と温かいお茶を持参して開墾に望みました。今日は温度も左程下がらず、ジャンバーを脱ぎ捨てシャツ一枚で汗だくの作業となりました。10時と3時の休憩は近所のおばさんがくれたポンカンを食べ、お昼は車の中で食べました。弁当は昨日妹から届いて食べ残っていた大きな稲荷寿司を二個とりんごをタッパに私が積めたもので、妻が魔法瓶に入れた熱い玄米茶をフーフーしながらたった一人の昼食です。

 いそしそと弁当を詰める私を見て「まあ珍しい。雨でも降るのじゃないかしら」と妻にからかわれ出発しましたが、妻の予言は的中して4時に雨がポツポツ降り出しました。雨が最初に当る人は野良だそうですが、私もその一人です。今日の目標であった一番下の畑の開墾作業が少し残りそうでしたが、雨にも負けず急いで作業を続行し4時10分に終了しました。耕した後の掘り起した雑草や根っこはおびただしい量で、石ころもかなり出ており、いい天気になったら焼却処分したいと思っています。

 雨が降り出したのを良いことに早仕舞いをして軽四の愛車で帰ると中、急な思いつきで由並小学校を訪ねました。昨年まで教育委員会で一緒に仕事をしていた中尾先生の顔が急に思い出されたからと、この学校の評議委員になっていながら疎遠になっているので、校長先生にもお会いしたかったのです。運良く校長先生や教頭先生、それに中尾先生もいらっしゃって、短い時間でしたがお茶を飲みながら楽しいおしゃべりをしました。昨年の今頃は双海町誌の編集が追い込みで寝る間もないほど忙しく働いて貰った中尾先生も、今は本職の先生に復帰していい仕事をしているようで安心しました。

 学校を出るごろには本降りとなりましたが信号を右折すればわが家なのに、何故か愛車は直進し松前町の温泉にまっしぐら、浴場の人となりました。今日のように慣れない労働をした後は温泉で全体をゆっくり暖め、身体をほぐしておかないと腰痛が心配なのです。サウナで汗を出し、お馴染みの風呂友と談笑して「いい湯だな」の雰囲気です。

 風呂はカラスの行水だった私が、最近は何と1時間半も温泉気分を味わうのですから世の中も変わったものです。お蔭様で今日はゆっくりリラックスして休めそうです。

  「最近は風呂友できて長湯する余裕できたか俺の暮らしも」

  「あれ程にひっつきもっつきした人が今はまったく別の道行く」

  「海見える小高い学校訪ね来てホッと息つき休まる覚ゆ」

  「校長の顔見りゃ分かる内事情冗談飛び出す余裕がいいね」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○暦は薮入り

 読んで字の如く余り「迷信」は信じないようにしているのですが、妻や親父は暦を見て「今日は大安で日がいい」などとよく言います。長男の結婚式も妻の見立てで大安吉日を選びましたが、その支払いに式場へ出かけたところ、「多分今日は仏滅だから結婚式はないだろう」と予想して行ったのに、仏滅ながら何組も結婚式があってびっくりしました。式場の人に聞くと「今の若い人は暦なんか信じず、仏滅はかえって空いていたり格安なので逆にそこを撰ぶ人が多いようです」と言うのです。「世の中も変わったものですね」と驚いたのは妻でした。

 しかし大安や仏滅は別として旧暦が少しずつ見直されようとしています。現代の暦は太陽暦ですが旧暦は陰暦といわれるように太陽の明るさに比べたら月の明るさは比較にならないほど暗い月の満ち引きによって暦が作られています。その旧暦は自然をなりわいとする農業や漁業にとって極めて大切な暦なのです。百姓さんが米を作る作業も漁師さんが網を入れるのも全て旧暦が使われているのです。

 旧暦の仕組みは勉強すれば面白いことがいっぱいあるのでしょうが、そんな知恵も余裕もないので勉強はしていません。でも寒の入りや大寒はおおよそ寒さのピークを言い表せているのですから信じないわけには行きません。

 今日1月16日は新暦の薮入りです。私が若いごろはといえばさも古い人間のようですが、結婚した頃は薮入りという風習があって、妻の実家へ里帰りに行きました。長閑な時代だったのでしょうか、この日は役場も気を使って昼からは最低限の人を残して半ドンにしていました。妻の実家は街の中で藪などないのに何故薮入りか不思議に思いつつ、今もその謎は解けていませんが、妻の両親が亡くなった今では薮入りもなく、また母の亡くなった我が家へも薮入りに来る兄弟はいなくなりました。

 二日前、突然にわが家へ電話がかかってきました。「お父さん」と聞きなれない若い女性の声が電話口から聞こえてくるのです。聞きなれた長女娘の声でもなく一瞬たじろきましたが、その声の主は長男の嫁の声だったのです。いきなり言われた「お父さん」の声に正気を取り戻すのに少々時間がかかりましたが、お母さんに代わってくださいと言われ代わると、「明日は日曜日なので行ってもいいですか」だったようです。妻曰く「薮入りのつもりかねえ」。私はすっかり薮入りのことなど忘れていました。

  「藪から棒言われて薮入り思い出すどちらの藪を目指すか息子」

  「今朝の月まるで昼間の明るさで庭先照らす息子出てゆく」

  「ジャガイモを植える準備の忙しさ暦めくりて種芋頼む」

  「餅を焼く昔は七輪今レンジ膨れっ面は今も昔も」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○わが家の掛場帳

 私たちが子どもの頃、背中に大きな風呂敷包みを背負って置き薬の行商人が各家々を回っていたのを覚えています。玄関先で大きな包みを開け、神棚の横に大切に置いている薬箱を母が下ろすと、その人は世間話をしながら中身を点検して、無くなったものを入れて仕切り書を渡し、代金を受け取って何処かへ去っていったのです。近くにはキッチン宿があって学校へ行くときその人が出入りするのを見ましたから、多分この宿を拠点に売り歩いていたのでしょう。

 富山は当時遠い国でした。薬売りは一年を通じて旅をしながら薬を各家に届けるのですが、子供心に「あの人は他所の県の人だのに何であんなに家々を知っているのだろう」と不思議に思ったものです。ある日薬屋さんにそのことを尋ねたら、そのおじさんは「長年やっていると家の位置やその家に何人人間がいるかくらいは頭と体が覚えているので、目をつぶってでもその家に行けますよ」と言うのです。私はその薬屋さんを偉い人だなあと思ったものです。

 ところがある日、この薬屋さんは私の母に隣の家のことを詳しく聞いているのを見てしまいました。薬屋さんはカバンの中から何やら大切な分厚い帳面を出し、そこへ記入しているではありませんか。それが薬売りにとって命より大切な「掛場帳」であると知ったのは、テレビで薬売りの特集を見たからでした。親から子へ、子から孫へ代々受け継がれた「掛場帳」は薬業界の革命によってその価値をなくしたそうですが、絶対人に見せないといわれる「掛場帳」の存在は、薬売りの命だったのです。

 わが家にも個人情報と言われる「掛場帳」が2冊存在します。一冊は年賀状用の筆王というソフトに組み込まれた住所録です。これは長年の出会いや縁を頼りに作成した私にとって大切な交遊メモなのです。もう一冊は妻が保管の祖母、母の葬儀、法要に使った香典名簿と入院、出産、建前、入学、卒業、結婚など、わが家の節目ごとの祝儀の状況が詳しく書かれています。新聞のお目出度お悔やみ欄や知人からの情報の度に、わが家の「掛場帳」はめくられ大きな効果を発揮するのです。最近はパソコンが普及したので、入力しておけばよいと妻からは整理を頼まれているのですが、いっこうにラチがあきません。

  薬屋さんが来ると四角や丸い紙風船をくれたりするので、遊び道具とてなかった少年の頃のことゆえ嬉しかったことが昨日のことのように思い出されます。今は農協が置き薬運動をやっていますので、やはり同じように薬屋さんがたまに詰め替えに来ますが、薬箱の薬は幸か不幸か余り減ってはいないようです。

  「見ず知らず顔も覚えぬ薬売り玄関座って風船くれる」

  「亡くなった噂が我が家の掛場帳開け値踏みの香典包む」

  「香典の中身で決まる縁深さケチすりゃ明日から挨拶そこそこ」

  「旅先にあの人亡くなる連絡が香典送れと妻に指示する」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○早くも水仙祭

 今年の冬日本中では大雪だというのに、四国の双海町では早くも春の使者ともいえる水仙が咲きそろい、芳しい香りをあたり一面に漂わせています。その様子を観察しながら「花はどうして季節を感じるのだろう」と不思議に思うことがあります。凡人の私にその回答はありませんが、一年に一回しか出番のない花ですから、自分が一番咲きたい時に咲くだけの話かも知れません。

 水仙の名所は北陸越前海岸や淡路島などが有名ですが、いずれの地も北向き急斜面という決して好条件でない所に咲くようです。水仙も外国から輸入されたり交配によって今では500種類ともいわれるくらい多くの水仙を見ることが出来ますが、やはり何と言っても日本人に愛されるのは、花といい香といい、容姿といい日本水仙といわれる在来種ではないでしょうか。

 私の町の水仙も在来種の日本水仙ですが、中には金管が八重の在来種がありますが今一人気がないようです。私の町の水仙は金山泰森さんという人がみかんの廃園に植えて世話をして水仙畑を作ってからすっかり有名になりました。私もその片棒を担ぎまちづくりの一貫としてPRに努めました。金山さんから広報部長と言われるほどにお互いの信頼関係を密にしながらやって来ましたが、今は高齢化した金山さんに代わって息子さんがその世話をしています。

 また、地元に誕生した花の会が水仙の圃場を作って管理しながら水仙祭りを計画実行しています。昨日はあいにくの雨でしたが、今日は心配された雨もあがり、多くの観光客で終日賑わいました。

 今日は微風で空には色とりどりのパラグライダーが長閑に飛び、シーサイド公園の観光客はパラグライダーが降りる度に驚いた様子で見守っていました。

 ちょっとしたきっかけですが、冬の何にもない季節にこれだけの観光客を呼ぶのですから、わが町にとって水仙は次に咲く菜の花と共に、まるで救世主のようなものです。水仙を仕掛け売り出した私としてはうれしい出来事ですが、イベントは続けることも意味があります。でももっと大切なことは高めるというアイディアも大切だと思うのです。そのためには今年の反省に立ってお互いが知恵を出し合うことが大切です。携わっているある職員が「残念なことにこれまで深く関わってきた職員も、他に異動すれば姿を見せなくなることです」とぼやいていましたが、「仕事だからまちづくりに関わる」のではなく、たとえ異動しても一人の町民として参加協力するような人間になりたいものです。

  「今年また水仙咲いたとテレビ言う寒さ我慢の坂道登る」

  「水仙は私の推薦する花で清楚な姿誰かに似たり」

  「北向きの急な斜面に咲き誇る白き水仙誰が植えたか」

  「水人と山を合わせりゃ花になる花守おばちゃん今年も元気」

[ この記事をシェアする ]