shin-1さんの日記

○青年団のかつての愉快な仲間たち

 今日は宇和島市高光公民館の50周年記念式典の記念講演に招かれ出かけました。昭和28年に産声をあげ、昭和30年の市町村合併で私立公民館になったそうですが、奇しくも平成の大合併で新宇和島市となり、半世紀を振り返る集会となりました。かつて愛媛県公連会長の河野常正さんもご列席で顔見知りの人が沢山いました。その中に顎にひげを蓄えた西平一生さんの姿もありました。彼は私の前の愛媛県青年団連合会の会長として一緒に活動した仲間です。寝食をともにした彼とはまだパスポートがいる時代に沖縄へ海外派遣で一緒に出かけましたし、国立大洲青年の家の誘致運動にも大きな功績を残しています。

 25歳前後の若かった頃の思い出は切がないほどあって、どれから喋ってよいやら戸惑うほどですが、その時の活動が肥やしとなって今があるのですから感謝しなければなりません。

 私は青年団で大きく分けて4つの道具を手に入れました。一つ目は仲間です。西平さんを始め、全県下、全国至る所に多くの仲間がいます。二つ目はふるさとです。私のまちづくりの原点はやはり青年団活動で輪が住む町を良くしようと取り組んだことがきっかけでした。夕日によるまちづくりもその伏線上にあるのです。三つ目は主張です。私は若いごろとても口下手でした。いまもその謗りは免れませんが、青年団で努力し青年団で学んだお陰で人の前で堂々と主張が出来るようになりました。四つ目は感動です。自分が感動する人間になったことは勿論ですが、人に感動を分け与えるような心に育ったことは嬉しい成長です。

 集会が終わって誘われるままに近所の西平さんのお家へお邪魔しました。西平さんの奥さんとは顔見知りですが、忙しいのに昼食まで用意してもらい、食事をしながら四方山話をしました。かつての青年団の仲間が病気で亡くなったり、定年退職や転職で音信が途絶えたりしていますが、こんな温かい家庭を持っておられる西平さんに敬意を表し、再会を約束してお暇しました。

 お互いが青年団に別れを告げてから35年の歳月が流れました。人それぞれの35年であったと思いますが、西平さんも、勿論私も菊田一夫ではありませんが「第一の山を登れば第二の山がある。第二の山を登れば第三の山がある。第三第四山は続く。何処まで続くか山々々。偉人とは最後まで登り続けた人なり」でしょう。私にもまだ山がたくさん立ちはだかっています。あせらずゆっくり次なる山を登らねばなりませんね。

  「変わんないそりやそう一緒に歳をとる何時の間にやら白髪禿ゆく」

  「俺も歳昔はこうだ話する横で聞いてる息子席立ち」

  「人の嫁綺麗に見えるだけれどもやっぱりわが妻変えれぬ女」

  「青年団四つの道具くれました恩を戻さにゃバチが当るぜ」

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shin-1さんの日記

○夕べは寝れなんだ

 同じ敷地内に住む親父の隠居へ毎朝出かけ、ストーブの前の座椅子に座って待っている親父の背中をめくり、サロンパスを張るのが日課になっています。母亡き後一人暮らしの親父の元へは妻が毎日一汁一菜の夕餉の膳を運んでいます。私は血を分けた親子ですから何ともない日課なのですが、妻は母が死んでからずっと、「硬い、柔らかい、甘い、辛い」などと文句を言いながら食べる老人のわがままな言葉にも耐えながら日課として食事を運んでくれていて、頭が下がる思いです。

 元気な親父も88歳の年齢を超えるとさすがに老域というのか、最近親父の動きが鈍く、親父の体が小さくなったような感じがします。それでもみんなに迷惑をかけまいと、暇さえあれば畑を耕し、暇を見つけては散歩を心がけています。

 親父の朝は早く、もう4時には起き6時には身支度してスタンバイです。ところが今朝は親父の隠居を覗いても電気もストーブも、テレビも点いていないのです。おかしいと思って親父のベットへ行ってみましたが、昨晩は夢を見て寝れなかったらしく、朝方二度寝したらしくてゆっくり起きてきました。「まさか死んでいるのでは」とよからぬ取り越しな考えをした私を恥じました。親父の話によると『最近夢を見て寝れない」と言うのです。妻の言うのには「午睡をたっぷりとって、夜も7時頃にはもういびきをかいているのだから大丈夫」と観察の状態を説明してくれたので安心していましたから、「じいちゃん眠れんで死んだ人はいないから大丈夫」というと「そんなことをいっても眠れんことは死ぬほど辛い」とこぼすのです。

 私ははっと気がつきました。起きてこない親父を見てもしや「死」、この悩みを聞いた妻も「死」、親父自身も「死」、私の受け答えも「死」なる言葉を平気で使っているのです。私は親父の周りにいる親父を含めた全ての人間が「死」なる存在を意識し始めている事実に驚きました。

 人の死は仕方がないと思うのですが、いざ最も身近な親父のこととなるとまだまだ心の整理がつきません。こんな文章を書くことすら不謹慎で、この文章を見れない世界に親父がいることを少しだけ安堵します。

今年もまあまあの元気で寒い冬を乗り切った親父さん、更に元気で長生きしてください。

 昨日孫がやって来て親父の部屋へ連れて行きました。おじいちゃんと並んで煎餅を食べてる姿は何とも幸せそうでした。

  「子の孫と並んで煎餅食いながらさも幸せな笑顔満面」

  「無意識のうちに使っている言葉はっと驚き口に飲み込む」

  「この冬も元気乗り切り春が来た親父偉いぞしっかり生きろ」

  「寝てるのか死んでいるのか分らない遅い目覚めに心動揺」

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shin-1さんの日記

○パソコン修理の名医

 先日来、私の言うことを聞かなくなったパソコンにはほとほと手を焼いていて、叩いても叱ってもイライラするばかりで、自分の非力を嘆いていました。ところがこの週末、パソコンに詳しい娘婿が孫と一緒にわが家へ遊びに来たものですから、お願いして診てもらいました。娘婿は私のパソコンの前に立って両手でまるで魔術のように触っていましたが、あっという間にブログの画面が元通りに回復したのです。私が10日間もかかって直せなかったのに僅か数分で直すなんて、私はあっけにとられてしまいました。娘婿はパソコンの名医だと直感しました。これまでにも私のホームページを作ってくれたり、ブログの楽しさを教えてくれたり、はたまたトラブル続きの私に付き合ってくれてメールで指示を送ってくれていたのですが、今度ばかりは誰に聞いても直らなかったので、正直パソコンがいかれてるのではとパソコンのせいにしていました。しかしいかれていたのは私の技術だったと気がつき、パソコンを恨んだことを後悔しました。

 10日ぶりに赤色の文字が、ほらこのように美しくも読みやすく画面を飾っているのです。文字は黒一色の時代に育った私たちにとってはカラー文字はとても魅力的で、これでまたブログの文章書きがまた楽しくなりそうです。10日間も見にくい文字を画面で読んでいただいた読者の方々に感謝の意を表します。

 しかしここだけの話ですが、この10日間は読みにくいはずの私のブログの愛読者が増えて、訪問者ランキングが上がるという珍現象が起こってしまいました。この珍現象には私も首を傾げるばかりです。

 それにしても最近はブログ人口が多くなっているのか、はたまた私がブログに記事を書いているからなのか、ブログを介した話題が日常の会話にもたくさん出てくるようになりました。

 先日も知らない人からいきなり「88歳のおじいちゃんのテーブルは完成しましたか」と問われました。『えっ、この人我が家のことを何で知っているの」と一瞬考えました。『圧そうか、私がブログで親父のことを書いていたんだった」と思い起こしました。左様に私のブログは身近な話題を書き過ぎるのかなあと反省もしたりする今日この頃です。

 しかし、何はともあれパソコンが復旧しブログを書く楽しさも復旧しました。愛読者の皆さん。またよろしくお願いいたします。

  「パソコンの病気治すは手先だけ完治しましたウイルスさえも」

  「パソコンも今では私の手と頭知らぬ調べて知るを入力」

  「パソコンは凄いと思うこともある言うこと聞かぬと何だこれさえ」

  「黒文字が綺麗な色に変身し読みたい気持ち自然起こりぬ」

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shin-1さんの日記

 ○二次会三次会 

 酒をこよなく愛した頃は、よくもあんなに酒が飲めるものよと自分に感心するほど梯子酒を繰り返していました。そのことだけが原因ではないにしても、そのことが病気原因の一部であったと深く反省し、酒を断ってもう6年が経ちました。今にして思えば二次会や三次会へ繰り出したあの頃が楽しくも懐かしく思い出されます。

 昨晩は沖縄研修の反省会という都合のいい理由をつけて4人で酒宴を催しました。兵頭君が沖縄料理のお店を探す徹底ぶりでまるで沖縄を髣髴するような楽しい宴会となりました。海ぶどうや固い豆腐、チャンプル料理に舌鼓を打ちながら飲むほどに酔うほどに饒舌は留まるところを知らないほど盛り上がり、一次会だけでも有に4時間の長丁場でしたがあっという間に時間が経って、午後6時に始めた主演が10時になっていました。何せウーロン茶での対応なので時間が幾ら経っても素面は私だけ、結局はそこで割り勘を計算してタクシーで車を置いた場所まで行き帰る準備をしたのですが、清水・門田・兵頭の三人は目配せをして暗闇の中に消えて行きました。私も内心はついて行きたい想いでしたがそこはぐっとこらえて一人帰路に着きました。 

?こじんまりした一次会のお店で意外な人にお目にかかりました。かつて若いごろ無人島に直径10メートルもある大きな竪穴式住居を造り、若者たちが集まって『語り部の集い」というのをやりました。無人島で約一週間徹底討論しようと20人ほどの若者で無人島に渡ったのです。古代食への挑戦では一日中小鳥のように粟やヒエだけを食べた日もありました。また一日中水とお茶だけの飢餓体験もしながらの語らいは、今にして思えばよき企画だったと思うのです。

 その時縁もゆかりもない一人の青年が応募に応じ参加しました。当時は時事に精通した一人の若者って感じの人でしたが、今はれっきとした政党団体の代表を務める県会議員さんなのです。彼はあの時のことをしっかり覚えていて席を交えての宴席となりました。毎年私の所へ政党の活動報告書を送ってくれる律義者の彼もいい年齢になって立派に活躍をしている姿を目の当たりにして人の出会いの不思議さを感じずにはいられませんでした。無人島の議論は彼の潜在能力の何ほどもないかもしれませんが、青春の思い出として何時までも記憶の底に残ることでしょう。

 それにしても二次会、三次会が懐かしいですね。すっかりご無沙汰しているあの店のママさんはお元気でお過ごしのことやら・・・・・・。

  「二次三次若い頃にはよく梯子それでもわが家忘れず帰り」

  「トンネルを抜けて出合った人ありて昔語りつ盃交わす」

  「それぞれにそれぞれの道たどり着くこれからそれぞれ別の道行く」

  「あの時の私あなたも若かった夜を徹して夢を語りぬ」

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shin-1さんの日記

 ○菜の花は「雑草」・鯉は「雑魚」

 最近の田舎の風景を見て思うことがあります。そのまちの土地事情によって田舎の風景は一変します。田舎といっても田畑が広がる平坦な地域は田園風景が何処までも広がり穏やかな暮らしをイメージします。一方私たちのまちのように急峻な地形では、猫の額ほどの土地でも耕されているものの厳しい暮らしをイメージするのです。ところが田舎は過疎で高齢化なのでしょうか、最近その風景に異変が起こりつつあります。田畑は荒れ田畑を囲っていたイノシシ除けの波トタンが吹き飛んだままになっています。住まなくなった家は崩れお墓さえも雑草に覆われています。また周辺には無造作に使わなくなった車や農機具が風雨に寂しく晒されているのです。田舎を連想する草家、柿の木、カラス、小川、棚田、段畑、農夫、牛、子ども、おばあさんといった原風景の条件は次第に姿を消そうとしているのです。

 先日ある人と話していたら『菜の花は雑草」『鯉は雑魚」だとといきなり言うのです。「えっ」と多分感じるでしょう。黄色い菜の花は早春の代名詞だし鯉だって清流を思い出すはずです。でも菜の花は雑草であり鯉は雑魚だと彼は言い張るのです。私もそのことに同感な一人ですからその話で多いに盛り上がりました。

 最近菜の花が重信川の河川敷にたくさん生えているのをご存知でしょうか。この菜の花は人間が植えた訳ではありません。何処かではじけた種が河川敷に流れ込み、自然のなすがままに増え続けているのです。こうなると菜の花はもう完全に雑草です。私の町がJRの斜面に菜の花を作っていますが、観光客がたくさん来ることを見て、『私の町にもあんな菜の花畑を作りたいから種子を分けてください」と頼みに来る人がいます。私はその人にいつも『菜の花は雑草」の話をして種子を差し上げます。近所のある町ではそんな警告を無視して公園に菜の花の種を無秩序に蒔いたために原風景を壊しています。他所の成功を真似した結果の悲劇でしょう。こうなると菜の花は帰化植物化してどんどんその勢力分野を広げ田畑に広がり、油菜ですから雨の日などは濡れて滑るから危険さえもはらんでい丸のです。

 鯉も雑魚です。島根県津和野町の川に泳ぐ鯉は何とも優雅です。でもこれは生態系を無視したやり方だと思います。琵琶湖にブラックバスが増えて在来の魚が少なくなったことでも分るように、放流当時は釣りで脚光を浴びましたが、今は大きな環境問題となっているのです。セイタカアワダチソウもキンケイソウも人間のエゴが作る出した結果なのです。

  「菜の花も無秩序植えれば雑草になると警告ある人言うた」

  「メダカさえ川に勝手に放してはいけない理屈分って下さい」

  「風景を宝と思える人間を育てゆくよな教育大事」

  「竹が増え松が枯れ減るこの国を誰が救うか未だ策なし」

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shin-1さんの日記

 ○人間牧場入塾生第一号にすべきかどうか 

 2月は何故か滅茶苦茶忙しく、北や南へ日本列島を旅していたため、今日は久しぶりに日程が空いていたので人間牧場へ行きました。畑を耕して春の植えつけ準備をしなければならないので鍬をふるっているとポケットに入れた携帯電話が鳴りました。昨日予約の浜田さんです。彼とは宮本常一の研究で何かと意気投合し出会うのですが、船会社に努めるいわば得体の知れない不思議な男です。しかし身元のしっかりした人なので、人間牧場へも案内していますが、今日はどうしても会いたいというので畑仕事の手を休めて海岸まで送り迎えしました。本当はこんなに天気の良い日はまたとないので畑仕事を優先したいのですが、たっての頼みを断ることも出来ず海岸まで迎えに出て軽のマイカーで案内しました。

 今日の人間牧場は時折名残の雪がちらつき北西の寒い風が吹いていたので、ストーブに火を入れ、ストーブを囲んでの会話となりました。彼に私の人間牧場構想を話していたこともあって、人間牧場の塾生にして欲しいと、彼の55歳の誕生日が昨日だったこともあって決意を書いた封筒をいきなり手渡されました。

 人間牧場はこれまでのフロンティア塾のようにみんなで集まって勉強会をすることもありますが、基本的には概ね一年を区切って自分でテーマを掲げ、そのテーマを研究する場所の提供と人の縁を手助けすることに加えて、塾長の私が浅学ながら指導するというスタイルをとりたいと思っていたものですから、彼はそのことを頼みにやってきたのです。宜しく頼むと深々と頭を下げて帰ってゆきましたが、さてこの願書の扱いをどうするか、畑を耕しながらずっと考えていました。

 私には師匠と仰ぐ人がいます。その人を目標に今日まで生きてきましたが、人間牧場が人間の自立を目指す場所であれば、人間牧場らしくその機能を発揮するためには、浜田さんのように希望に燃える人を迎え入れることも考えなければいけないのではと今のところ思っています。

  「入塾の願書届けに登り来る人間牧場いよいよ始動」

  「鍬を打つ土の中から春が出る雑草根と目を力の限り」

  「春近し三寒四温巡り来る明日はゆるむと天気予報で」

  「梅の香は隣の畑風運ぶ遠くウグイス下手な初鳴き」  

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shin-1さんの日記

 ○それがどしたん

  まちセンでの立ち話の続きです。主任研究員の井石さんが「この職場へ出稼ぎに来て(行政からの派遣ですから出稼ぎといえるかどうか)いつも不思議に思うのは、まちづくりの議論は『なぜ』『それがどしたん』という基本的なことをいつも議論している事に不思議さを覚える」と言うのです。それまで気付かなかったのですが、そういえばまちづくりという業界(業界と言えるかどうか)では、コンセプトワークとでもいうのでしょうかこの議論が大半を占めているように思います。おっしゃるとおり普通行政のシナリオは出演者の看板は誰で、何人集める、何処にその人数を割り振る、人が何人集まったから成果があったなどなどに神経が注がれ、本来の目的である「何故この集会を開くのか」「そのために何をすべきか」「その目的は達成されたのか」なんてことは二の次のような気がします。

 双海町でほたる祭りをやろうと20数年前思いついたとき、隣の町がそうしているようにほたるを集めて会場に擬似自然をつくり蚊帳の中で飛ぶほたるを見学してもらおうという話になりました。その時ある人が「ほたるは二週間の短い命、何で人間のエゴでほたるを集めるのか、そんな自然やほたるを無視したイベントだったら止めちまえ。ほたるが見たかったらほたるの飛んでいる所へ行って見ればいい」と大見得を切ったのです。みんなびっくりしましたが、その発言がきっかけになって「ほたるを一匹も登場させない」というユニークなほたる祭りが誕生し、今もその精神を守り続けています。

 これも私の経験ですが、夕焼けコンサートが軌道に乗り青年たちの要望は「さだまさしや南こうせつを呼んで欲しい」でした。私は「確かにさだまさしや南こうせつを呼ぶと彼らの人気で人は来るかもしれないが、そんなコンサートなら大阪や東京や松山でやればいい。このコンサートは夕日が主役だから夕日に似合う、夕日を引き立たせてくれる人がいい。無名な人でもいいじゃあないか」と説明したら分ってくれ、それ以来金をかけないながらも20年間コンサートは続いているのです。

 井石さんがいうように、確かにまちづくりの社会ではいつも「何故」「どうして」という議論に大半の時間を費やします。無駄と思えるこの議論こそまちづくりなのです。そういう視点から考えると先日の「地域の自立を考える」シンポジウムは議論の絡みという点で多少の反省が浮かび上がります。でもあれ程の時間をかけて議論し、あれ程の準備をしてもなお悔いは残るものなのです。人間のすることですから・・・・・・。

 井石さんいい事に気がつかれ、私たちの立ち話に石を投げてくれました。さすが主任研究員、まるで井戸の中に石を投げた波紋のようです。姓が井石さんか、なるほどなるほど・・・・・・。

  「石を投げ石受け止めて議論する伸びるはずです私たちは」

  「何のため聞かれて言葉詰まるよねも一度聞くよ何のためにと」

  「二十年やっても未だ極めれぬ奥の深さに未熟を恥じる」

  「議論するとにかくやろうと一歩出す歩きながらのまたまた議論」

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shin-1さんの日記

 ○時計はアナログに限る 

 今日所用でえひめ地域政策研究センターへ立ち寄り、立ち話をしました。長ったらしい名前の準役所ですが私たちはこの場所をまちセンと呼んで、もう20年間もまるで寄生虫のようにええ餌にありついています。最近は「地域の自立」のシンポジウムがかなり高い評価と成果を得たものですから、活気がみなぎっているようで特に遠い市町村から出稼ぎに来ている研究員とは楽しく会話が弾みます。勿論他の研究員とて同じですが、政策部門は殆どパソコンがお客様で忙しいのか、私たちが行っても何処吹く風って感じです。

 私は何か調べものがあると決まってこのセンター研究員にお願いして資料を用意してもらうのですが、彼らはまるで私の秘書のようにこまめに気配りをしてくれます。ここに事務局があるえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしているため、嫌といえないようでいつもこんなに使って悪いと思っています。はい本心からです。

 さて今朝は隣の日銀松山支店で会議があるので何と顔の効く日銀に車を止めてセンターで立ち話と相成りました。今朝の話題はアナログとデジタルでした。私のように人の前で話す機会の多い人間はアナログの時計が最高です。時間を管理しなければならない人間にはやはりアナログの時計は必需品でしょう。最近はデジタルの時計が重宝がられていますが、時間は正確なのですが、「あと何分話せばいいのか」なんて考え時計を見ても、現在の正確な時刻だけで、時間(時の間)は中々分らないのです。

 今日の立ち話の話題提供者である清水さんはバリバリのデジタル人間で、いつも意見が食い違うのですが、こと時計に関しては同感でした。 私は腕時計を重宝するのに腕時計が手にはめられるのが苦手で、酒を飲んでいた頃はやたらと何処ででも外す癖があって何個時計を紛失し、妻に叱られたかません。今の腕時計はもう10年も長持ちしているので、あれは酒のせいだったと思うのです。

 時間は携帯電話の付属品としてついているので不便を感じることはありませんが、やはり時間の計算が出来るのはアナログでしょう。 昨日電車に乗ったら吊り下げ広告に「いよいよ10月1日からデジタル放送開始」の広告が張り出されていました。日本もいよいよデジタル放送の幕開けです。我が家のテレビもそれまで賞味期限が持つかどうか、いやもっと心配するのはアナログで育った私たちの賞味期限のほ方が心配なのです。それにしてもアナログ放送用のテレビを買い換えなければならないなんて、なんて不経済なんでしょう。儲けるのは電気屋さんなのですから。

  「講演は外して使う腕時計何度うさして妻に叱られ」

  「千円で立派な時計が手に入る防水自動に保障までついて」

  「立ち話会話弾んでいいもんだ人の悪口言わねば最高」

  「溜まり場は酒と会話と女ありおっとセクハラ冗談禁句」

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shin-1さんの日記

 ○今日も160キロ走りました

  車とは便利なもので、私の手足となって西や東、北から南へ自由に走ってくれます。奥の細道を歩いた松尾芭蕉や日本全国を測量して歩いた伊能忠敬は自分の足で歩いて目的を成就したのですから偉いという他はありませんが、私が公共交通機関や車を使って移動する距離は、松尾芭蕉や伊能忠敬なんて比べようもないほどの距離になるのです。そういう意味での優位性はあっても、さて松尾芭蕉や伊能忠敬のように後々の世の中が評価する仕事となると、私の存在などまるで天と地ほどの差なのです。でも諦めずコツコツと潜在能力を膨らませて行きたいものです。

 今日は貯蓄広報委員会の推進員研修会と社会保険事務所の研修会がダブってしまい、結果的には双海-松山-宇和島-双海と160キロの道程を走りました。中予から南予に至る国道沿線には菜の花や杏、梅などの花が咲き、街路樹のベニカナメモチは真赤な新芽を覗かせていました。しかし宇和盆地では小雪がちらついて、遠望の山々はうっすらと雪化粧するほどの戻り寒波に、道行く人は寒そうに足早に通り過ぎていました。それでも黒潮の恵みか、法華津峠を越えると春風のような爽やかな風が吹いて、ああ春が近いなあと感じました。

 今日の集会で懐かしい人に会いました。私は余り覚えていませんが、私の友人の友人で「若松さん、あなたの話は直接聞かなくても、友人がいつもあなたの話をしていますので、もうタコが出来るぐらい聞いています」と言うのです。私の仲間は私のことをこんなにも話してくれているのかと思うとついつい嬉しくなりました。その人の話によるとその仲間も今年の春、つまりあと一ヶ月で退職だと伺いました。彼も私と同じでご多分に漏れず大酒飲みの部類でしたが、数年前に体調を崩し酒が飲めない体になっているそうです。人それぞれの人生があるのでしょうが、あと一ヶ月を大過なく過ごされ円満な退職をと願っています。

 あと30キロの所で長浜町に出て海を見ました。落ち着くというのでしょうか、血が騒ぐというのでしょうか、私はやっぱり土の人ではなく、風の人のDNAが体内に埋め込まれているのではと思うほど、海を見ると心が安らぎます。特に子どもの頃から見慣れた瀬戸内の海はやはり私の母なる海なのでしょう。 かつて私がデザインして立てた「双海へようこそ」の看板も、長年の風雨や潮風に晒され随分くたびれているように見えました。多分こんな看板なんかに心を動かす市役所職員もいないだろうと思いながら時速60キロで菜の花畑あたりを通過しました。太陽は西に傾き、強まった北西の季節風の白波が容赦なく防波堤を越えていました。希望に燃えてまちづくりをしていた10年前とまったく変わらない風景であるはずなのに、何故か心がときめかないのは歳のせいか、それとも想いのせいか・・・・・。とにかく無事160キロを走行して妻の待つわが家へ帰って来ました。

  「宇和島も近くなったよ半日で往復仕事できるのですから」

  「われ語る友あり人の口伝えご無沙汰詫びて電話するなり」

  「町示す看板風雨に晒されて時の流れを知るは我のみ」

  「半日で百六十キロを走っても汗もかかずに文句も言わず」

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shin-1さんの日記

 ○130円の買い物

  私の町に数年前コンビニができました。私の発想で造ったシーサイド公園に人が来るようになり、表通りだった商店街が国道バイパスの完成とともに裏通りとなってしまったため、地元の酒屋さんがコンビを開店したのです。このコンビには深夜は閉まる青少年にとっては余り好ましくないコンビにですが、私たち大人からすれば健全なコンビニなのです。そのコンビニに行ってお目当てのものを探しましたが、店長さんは何も買わない私にまで丁重に「またお越し下さい」と声をかけ深々と頭を下げてくれました。コンビニができただけで何かこの街もすっかり都会化した雰囲気になるから不思議なものです。仕方がないので隣の伊予市までと思いきや、「あっ、そうだ。私の町も今は伊予市だったっけ」と思う有様です。

 昨日コンビニに行き130円の買い物をしたのは朝日新聞なのです。先日の「地域の自立を考える」シンポジウムの模様がシリーズも含め都合7回載りました。その都度朝日新聞さんへの儀礼も込めて7回もコンビニへ走りました。結局同じコンビニへ足を運び、「朝日新聞下さい」となりました。 私たち田舎に住むものは新聞を買うという習慣はなく、新聞は届くものと思っていました。ですから新聞が130円で買えるという実感も、新聞が130円の値打ちであるということも分らず読んでいるのです。私たちのように新聞記者と知り合い、この記事がどんな想いや取材を経て書かれたのか分る人間はそういう目で読めるのですが、何も知らない人はそのことすら分らず読んでいる、いわばチラシのようなものかも知れません。「何気なく過ごせる幸せ」は結局、「何気なく過ごす傍観的な人」を作っているのです。

 130円の買い物で買った朝日新聞はハサミで切り取り無造作にまtダンボールの中それにしても、あれだけの量と質を保ちながら毎日紙面を送り続ける新聞はあれでたった130円とは安いものだと思いました。隅から隅まで丹念に読めば私は凄い物知り博士になるものを、読んでも分らないと決め付けて政治や経済など斜め読み見出し読み、いや実際には読むこともなく目を通すだけで終わっているようです。 私の書斎にはこれまで新聞や雑誌に載ったり書いてもらったスクラップされた記事が山のように積まれています。いずれ暇が出来たら整理をと思いつつその整理も出来ぬまに納まりました。

  「新聞が百三十円とはこりゃ安いそんなにするのいつも分らず」

  「俺の顔まるで三面記事のよう手配写真で使われるかも」

  「新聞を読んだとメールで文届く愛媛の果てから瞬時感想」

  「九時間に及ぶ話を十行によくぞまとめる記者さん偉い」

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