shin-1さんの日記

○花見の乱れ

 今年の桜は実に長持ちです。普通の年だと一雨一風で散ってしまうのに、朝晩の冷え込みか満開宣言が出てしばらく経つというのにまだ見ごろで、あちこちでは花見を楽しむ人の群れが出来ているようです。昨日私たちの町の桜の名所八景山に登ってみましたが、田舎でもそこここにブル-シートを敷いて小さな酒盛りが開かれていました。そんな中見かけぬ集団が花見をしていました。明らかにルール違反の様子です。何とさくらの樹の下にこともあろうにコンクリートブロックを組んで焚き火をし、その上に金網を乗せ焼肉を焼いているではありませんか。満開の桜の樹は焼肉の煙で燻されているようでした。さらに自家発電機を持ち込みカラオケとボンボリまで付ける周到な準備です。察するに夜まで続けるつもりなのでしょう。

 こんな花見を見たらあなただったらどうするでしょう。多勢に無勢、多分見て見ぬふりをしながらすごすごと去ってゆくことでしょう。私は意を決して酒で盛り上がっている集団に分け入って行きました。「すみませんが、皆さんの責任者はどなたですか」と尋ねると、「おおわしじゃが、何か用か」と顔を赤くして立ち上がりました。「ちょっといいですか」と少し離れた場所へ連れ出して、「お楽しみのところ恐縮ですが、この公園では火を焚くことは禁じられております。また自家発電でカラオケなど他の花見客の迷惑になるので止めてください」と言うと、「あんた誰ぞな。何の権利があってそんなこと言うんぞ」と不快をあらわにして言うのです。「私は先日までここの管理をしていた元役場の職員ですが、公園はみんなのものです。ルールを守ってもらわないと困ります」とまくし立てました。側で見ていたグループの物分りのよさそうな中年女性がやってきて、「まことに済みません」と代表の人の手を引っ張るのです。そして、彼女は賑やかな席に割って入り「みなさんにお知らせします。この公園は焚き火は禁止だそうです。自家発電のカラオケも樹に取り付けたボンボリも除けてください。これからはマナーを守って桜の花見をします。いいですね」と仕切ってしまいました。

 花見に水を差した私、最初は息巻いたのに彼女の一言でしゅんとなった代表、私のはなしを理解してくれた物分りのいい中年女性、花見に水を射された烏合の衆など、それぞれの思いが交錯する結果となった花見を思い出しながら、日本人の花見のあり方に疑問を感じた一日でした。

 花を見てお茶をたしなむもよし、花を愛でながら酒を飲むもよし、はたまた花を季題や季語に一句詠むもよし、花の楽しみ方は人それぞれですが、せめて花の気持ちになることや他人のことを思いやるそんな日本人でありたいと思いました。先日原爆の後遺症を生き抜いた桜を増やそうと植えた広島の桜が何ものかによって折られる被害が出たそうです。常識では考えられない目に余る行動に心を痛めました。桜の花は長くても20日間、せめて散り行く桜の花に思いを寄せるような優しい日本人でありたいものです。

  「花見より 酒や焼肉 目当てでは せっかく咲いた 桜かわいそう」

  「悪いこと 悪いと諭す 勇気あり 何事もなく 済んでよかった」

  「あのおばさん 機を見て敏なり さすがだな 何処の誰だか 知る由もなし」

  「六十年 生きてて桜 これ程に 見たの初めて 少し余裕が」

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shin-1さんの日記

○何故・どうして

 孫の成長は私たちのような歳をとった者に比べ著しく、日々が進化でまるで雨後のタケノコのようです。この1週間、「何故・どうして?」の質問攻めに会いタジタジの毎日でした。「どうしてお空は青いの」とか、どうして花は咲くの」なんて言われても、「空は青いから青いの」、「花は春になうと咲くの」としか答えられないのです。ところがそんな訳の分らぬいい加減な答え方をしると、「何故」と二の矢三の矢が飛んできて丸でお手上げ、挙句の果ては「空は青いから青いんじゃあ」なんて開き直らざるを得ないのです。

 孫への答えは大人の言葉が通じませんから、3歳の言葉で分りやすく答えてやらなければなりません。この「分りやすい幼児語」がまたまた難しいのです。それでも納得したら何時までも覚えていて「人間は暗くなったら寝て、明るくなったら起きるのよねえ」なんて説明を、起きる前や寝る前に言って自分を納得させている姿を見ると、こちらも余程真剣に答えてやらないといけないと思うのです。この一週間昼寝をさせるのにこの説明が孫にはまた納得できない新たな問題なのです。「どうして明るいのに寝なければならないの?」、うんそれはね「・・・・・・・・?」です。

 昨日お絵かきをしていて、孫のリクエストに答えて私が得意顔で鯨の絵を書いてやりました。普通鯨は潮を噴水のように吹き上げる姿を書きます。案の定孫が「おじいいちゃん、鯨はどうして潮を吹くの」と質問しました。私は「鯨はね、人間と同じように昔は陸の上で暮らしとったんよ。ある日海に泳ぎに行って海が気に入って海で暮らすようになったんと。海の中ではイキをすることが出来ないから、時々海の上に浮かんでイキをするんよ。朋樹君もイキを止めてごらん。しんどいじゃろう」、イキを止めた孫は「うんしんどいね」、「おじいちゃん鯨はイキをするのにどうして水を出すの」、「・・・・・・?」です。普通だとここから大人のごまかしが始まるのですが、私は水産学校出身なので鯨の話は詳しく、鯨の潮吹きを何度も見ているのでそのことを詳しく話してやりました。

 鯨は哺乳類ですから肺で呼吸します。ですから定期的に海面に出て息継ぎをしなければならないのです。鯨の鼻孔は背中にあり海中に潜るとそのくぼみに海水がたまり息をするときその塩水を吹き上げるのです。でも鼻孔はそんなに大きくはないので貯まる塩水はそんなに多くありません。ですから勢いよく吹き上げたのは吐く息なのです。鯨の体温は常に38度くらいで人間とほぼ同じです。そのため吐く息は温かく、海水や海上の空気が冷たいと吐いた息が白く見えるのです。人間の息が冬白く鼻から出るのと同じ現象なのです。息継ぎの名人はマッコウクジラで時には水深300メートルまで潜り、1時間くらい息継ぎせずとも海中にいることがあります。しかし子どもの鯨はそんなに息がながくないので海面に漂うように泳いで、潮吹きもへたくそなのです。

 私の書いた噴水のような絵と説明に満足したのか、孫の鯨の絵には必ず噴水が出てきます。「何故・どうして」を繰り返しながら孫はこうして成長するのでしょうね。私ももっと勉強しておじいちゃんとしての説明責任を果たしたいと思っています。

  「どうしてと 言われてみても 言葉出ず ついつい首を かしげる私」

  「孫の書く 鯨の絵には 噴水が 爺の説明 納得したのか」

  「空は何故 青いのかしら 宿題を 貰った私 インターネットで」

  「俺だって どうして何故と 思いつつ 途中諦め 分らず終い」

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shin-1さんの日記

○孫のもりで疲れました

 今日は孫の幼稚園の体験入園とかで、娘の実家であるわが家から、私が孫を幼稚園に連れてゆくことになりました。母親の仕事の都合でどうしてもみんな手が離せないらしく、カーナビに幼稚園の電話番号を打ち込んで指示道理のルートで予定の10時に幼稚園へたどり着きました。孫はこれまで娘が勤める病院の託児所的な保育園で2年間預かってもらっていましたが、年齢が三歳までなので卒園し、新しい市街地にある保育園に移る事になったのです。既に入園も許可され12日から通う事になってるのですが、その準備としての体験入園とかだそうです。入り口の門扉は世相を反映して中からしか開けれないようになっていて、予め連絡しておいたので、11時30分になったら向かいに来て欲しい旨の引継ぎで無罪放免になりました。

 時間が勿体ないので近くにある政策研究センターに新年度のごあいさつ方々立ち寄り時間が来たので迎えに行くと、年配の幼稚園の先生が「何処かでお会いしたですよね」とおっしゃりました。多分市の保育所や幼稚園の先生に講演したことがあるので」と答えたら、あの時の若松さんですか。その節は」と会話が通じました。「僕は00です」なんて自己紹介も出来たので、「しっかりしてますね」と美辞麗句のごあいさつを受け引き取り、午後1時の東京から雑誌社の取材を受けるため一旦わが家へ引き返しました。

 祖rからが大変です。食事は昼休みの妻が作って食べさせましたが、取材の二人が見えてからは孫同伴での取材と相成りました。やはりひとりっ子の寂しさでしょうかおじいちゃんの私にまとわりついて離れようとしないのです。結局はお客の対応で気付かなかったためオシッコを漏らしてしまいました。このところ大も小も漏らすことがなかっただけに、来客に緊張したのかもしれません。

 取材陣が帰った後着せ替えをして、一路松山へ、家を出るとチャイルドシートで夢の世界へと旅立ちました。結局約40分も車内で熟睡です。陽気に誘われて松山上へロープウェーで登り、そこからは二人で手をつなぎ歩いて城山の山頂まで行きましたが、お目当ては歩いたご褒美のソフトクリームで、300円のバニラをさもおいしそうに食べました。桜は満開で大勢の観光客が訪れ、中にはビニールのブルーシートを広げて陽気な花見をやっているグループもありました。早めにオシッコに連れて行きましたが、少し遠目の北の端まで歩いた所で今度はウンチです。慌てて背中におんぶしトイレへ汗だくだくで一目散。事なきを得ました。

オシッコとウンチは孫のもりにはつき物ですが、これには随分骨が折れました。ウンちをしてからははすっきりしたのかすこぶる元気で、「♪海は広いな大きいな♪」を大きな声で歌いながら桜満開の城山の道を手をつないで下山し、車を娘の家の駐車場に止めて孫のリクエストである椿の湯という道後温泉に入浴のため出かけました。温泉にはかなりの人が入浴していましたが孫の年齢の子どもは殆どなく、それから楽しい湯遊びをして約1時間過ごし、やっと孫の家へ入り、娘の帰りを積み木や飛行機遊びをしながら待ちました

 それにしても今日は何て長い一日だったことでしょう。孫もヘトヘトでしょうが、私もヘトヘトです。現金なもので父母が帰ると「おじいちゃん何時帰るの」ですって。でも帰り際握手をして分かれるときは、やはり少し寂しく感じました。また日曜日にやって来るそうです。孫のもりで翻弄されたこの一週間はやっと終わりを告げそうです

  「孫のもり 簡単楽勝 楽しみと 思っていたが ほとほと疲れる」

  「何事も なしに終わった 一週間 役目果たして ほっと一息」

  「満開の 桜バックに はいポーズ 指でサインも 慣れた手つきで」

  「オシッコと ウンチに気配り 城登山 お漏らしせずの 孫と湯船に」

 

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shin-1さんの日記

○shin-1さんも歩けば花に当る

 孫を連れて「くもん」に行きました。驚きました。都会の子どもは三歳になるともう習い事をしているのです。私はそこへ連れてゆくように娘から頼まれただけなので約30分そこへ孫を預けて周辺を散歩しました。道後界隈はあちこちに桜が満開で桜の木に出会う度に足を止め桜の花を見上げては歩きました。松山神社の長い参道を登ると徳川家ゆかりの葵のご紋の入った立派な社がありました。神社の規模としては今まで見たこともないような立派なもので、予期せぬ建築物だったので驚きながら周りを眺めていると、近所の人でしょうか境内に植えているツワブキを獲っていました。誰もいないと思って勝手に取っていて見つかったという感じで隠すように「ツワブキを貰っています」と咎めるように思われた私に言うのです。私も咎めるように「そのツワブキは植えているので獲らないで下さい」と思わず言ってしまいました。二人のおばさんはバツが悪そうにすごすごと下山しました。

 山門あたりには竹の箒がやたらと置いていたので、私は一本を使って無断でそこら辺の落ち葉を集めました。すると登ってきた何人かの人が「ご苦労さんです」と声を掛けて通り過ぎました。風貌から私をてっきり坊さんか寺男に間違ったのだと思いました。

 神社の上から見ると桜のいっぱい咲いてる文教会館の裏あたりが見えました。文教会館も表からだけしか見たことがないので不思議な位置にあると思いつつ歩いてゆくと、立派なお寺にたどり着きました。山門には常信寺と書いてありました。入り口には教育委員会が立てた松山城主松平家ゆかりの寺の来歴が書かれてあり二度びっくりでした。寺の中は歴史の重みというのでしょうか整然とした手入れの行き届いた庭や建物があり、今を盛りと咲く桜の花が一層情緒を引き出させていました。カメラを持った人も数人おり、ここを目当てにきた訳でもない私とは大違いの楽しみ方をしていました。

 目的を持って歩くのもいいですが、私のように無目的な歩きの途中に発見した驚きは言いようのない喜びです。明日は早速カメラを持ってと天候のいいことを祈って先に進みました。歩いたこともない狭い路地を抜け、道後の下り坂に入ると光景は一変します。真昼間だというのに怪しげなネオンが輝いて、入り口には客を呼び込むお兄ちゃんが何人もたむろして行く人に声を掛けていました。昔はトルコ、今はソープランドというそうですが、道後の表と裏を一遍に見たような感じでした。多分観光客は裏通りの文化にはめぐり合うこともなくソープランド街の印象を土産に帰ってゆくに違いありません。悲しいかなです。

 「shin-1さんも歩けば花に当る」の一席でした。

  「知らぬ土地 思いつくまま 歩いたら 凄い発見 目から鱗が」

  「道後には 裏と表の 落差あり 裏を知る人 意外と少なく」

  「桜見る 僅か十日の 命にて 早くしないと 次の年にか」

  「早咲きも 遅咲きもいい 桜花 今が適期と 思えばそれで」

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shin-1さんの日記

○ただいま私は子育て実習

 夕食が終わった頃になると仕事を終えた娘が我が家に帰ってきます。その様子を見ていた隣のおじさんが、「娘さんが帰りよるが何かあったんかい」と朝顔をあわせたときあいさつ代わりに聞くのです。多分このおじさんはわが娘が「離婚でもして帰って来たのでは」と思ったに違いありません。このおじさんの孫も離婚して曾孫を一人連れて帰って来ているのでそう思ったのでしょう。事情を説明しましたが、ふと「そうなったらどうしよう」と一瞬不安が頭をよぎりました。

 夕食が終わるとしばらく遊んだ孫は私と風呂に入ります。こんな風呂では温まらないと思うような温めの湯でないと「熱い熱い」と大騒ぎするので、私が先に入って体を洗い、適当な温度になれば孫を呼んで一緒に入るのです。頭をシャンプーで洗うのも自分の子どもで練習をしているのでなれた手つきでこなします。体を洗って湯船に入れ20の数を2回数えるのですが、15まではすらすら、でもその後がまるで落語のように15、17、19と飛ぶのです。でも「もう一回」といって首までつからせます。

 4・5日前、妻が何処かで貰ってきたのか風呂の化粧台にシャボン玉の容器が置いていました。孫はシャボン玉をしようとせがむのです。石鹸水を容器に溶いて口で加えると大小さまざまなシャボン玉がお風呂の湯気の中に生まれては消えてゆくのです。私は忘れかけていた「シャボン玉」の歌を歌いながら孫のシャボン玉製造にお付き合いです。でも何年ぶりかで童心に帰っておおはしゃぎしました。孫も大喜びで、出る時には「おじいちゃん、また明日もしようね」「うんうん」でした。

 子どもの遊びも随分変わっています。孫は一人っ子で最初の孫ということもあって、おもちゃはおもちゃ箱に入りきれないほどあります。でも遊び方がその既製品のおもちゃを使った一人だけの遊びになって、何かしら変な感じの遊び方なのです。

 新聞の折り込み広告をハサミで切ってお面を作ったり、ままごとの真似をしたりすると、孫の目が生き生きと輝くのです。農協の置き薬屋さんが置いて帰った風船だって飛びきり喜んで遊びます。結局はおもちゃに依存して遊び方を知らないのは大人なのです。

 シャボン玉にしても風船にしても、また折り込み散らしを使った遊びにしても創作の遊びです。家は汚くなるし大人は嫌がります。でもそれを片付けることも子育てなのだと割り切れば、周りには創作の遊びが幾らでもあるようです。そしてそれらに童謡をつけて歌の世界に誘い込めば体も心もバランスよく成長するはずなのです。私は子育て講演会に時々講師として呼ばれます。その時は心理学や子育ての文献などを基に話すことも多いのですが、自分の子育て経験や無人島サバイバル経験などを交えて話します。でも子育ては妻の専権事項でしたし、無人島の生活もどちらかといえば大局的な話に終始していました。ブログに孫のことを書きながらハッと気がつきました。この一週間の孫の面倒が実は貴重な実験だと思えたからです。あと残り少なくなりましたが、積極的に孫から多くのことを学びたいと思っています。

  「ふと思う 孫が私に 教えてる 形勢逆転 子育て実習」

  「折り込みも ハサミ一つで 変身し 金の要らない 遊び道具に」

  「大声で 屋根まで飛んだと 歌歌う 湯気の向こうに シャボン玉三つ」

  「おもちゃ箱 溢れる全て 独り占め 与えて満足 今の親たち」

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shin-1さんの日記

○怒ると叱るの違い

 今日は三歳になった孫のもりも中日で、少々お疲れモードの私と孫は揃って松山の娘の家へ所用で帰りました。昨日の夕食時孫が大泣きをしました。妻が孫の大好物であるハンバーグを作ってやりました。妻でみると熱々のジューシーなハンバーグを食べさせてやりたいと思うのは大人心でしょう。ところが孫は大の猫舌で熱いものが苦手です。「さあおばあちゃんの作った特性の熱々のハンバーグを召し上がれ」と孫の前に出したまでは良かったのですが、湯気の出るハンバーグを見て孫は「湯気が出てるから熱くて食べられない。冷蔵庫に入れて」と泣き始めたのです。さあそれからが大変、「ハンバーグの熱々を冷蔵庫に入れる人はいない」、「そんな熱いの食べれない」という騒動に発展し、泣きじゃくるほどにトーンを上げました。いくらなだめても泣き止まないものですから、「そんなにわがままを言うのだったら押入れへ入れる」と脅してしまいました。孫はそのことも怖かったのか更に逆上、もう手が付けられません。仕方がないのでほおっておいたのですが、相手にしてくれない大人を見て少し気分も収まり、ついには冷えたハンバーグで夕食を終えました。

 私は私たちの子ども時代の怖い「やいと」と「押入れ」と「殴られる」という経験で、「ならぬことはならぬ」を教わりましたから、ついつい「押入れ」を叱る道具に、いわゆる奥の手として出してしまったのです。しまったと思いました。私のやった行為は好意でなく恐怖の何ものでもなく、「叱る」より「怒る」だったと深く反省しました。「叱る」と「怒る」は違います。「怒る」は無意味に恐怖心をあおって服従させようとします。昔の子どもはそれでも良かったのでしょうが、今の子育ては子どもの人権に配慮しなければなりません。「叱る」は言って聞かせて褒めてやる」納得の教育です。子育ての講師などを務める私が何たることかと深く深く反省しました。

 孫も三歳とは言いながら一夜明けた昨晩のことは良く覚えていて、恐怖のあまりか「おじいちゃんは怒ると怖い」というイメージが心に焼きついたのか、車の中で妙に私になつくのです。「おじいちゃん昨日はごめんね」とか、私の言うことは何でも聞き「分りました。もうしません」とはきはきボーイに変身していました。お昼には昨日食べ残したハンバーグを妻が温めて食べさせたのですが、少し熱くてもフーフー言いながら「少し熱いけど僕は頑張る」と言って食べました。でも食べながら下目つかいに私の顔をちらちら眺めながら、まるで水族館のイルカがショーをした後の餌を食べるような服従の面持ちでした。

 自分の子どもならいざ知らず、孫の教育は短い期間ながらあずかる私にも大きな責任があることを教えてくれたささやかな大事件だったようです。

 「誰が好き」、大人は有頂天になって自分をPRします。物を買ってやると「おじいちゃんが好き」となるのでしょうが、私は物を殆ど買いません。いつもは我慢することを覚えさせるために、「今日は買わない。お金を持ってない」と納得させます。孫もそのことを納得します。でも昨日は遊びに行ったシーサイド公園で納得させて600円の怪獣を買ってやりました。怒られた後の「飴」だったから、余計嬉しかったのでしょう。「おじいちゃんが大ー好き」なんて手で大丸を作ってくれました。でも昨日は私も孫も「深く反省」した複雑な気持ちの一日でした。

  「押入れへ 入れると恐怖 あおったが 逆切れ孫の 鳴き声更に」

  「孫のもり 叱るつもりが 怒りすぎ 反省しても 後の祭りだ」

  「昔から 三つ子の魂 百までと 知っているけど 駄目な私」

  「ほお擦りを してくる孫の 匂い好き まるで子犬が じゃれ付くように」  

 

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shin-1さんの日記

○北海道と沖縄では体重計が違う

 毎日毎日何気なく乗っては一喜一憂している体重計、どの家にも一台くらいはあるのでしょうが、最近は狂いやすいアバウトな目盛りのものよりデジタル式が多いようです。わが家の体重計も家族3人と時おりやってくる孫家族の重いと思いを乗せて計り続けているのです。

 ところでこの体重計が北の北海道用と南の沖縄用があることを知っていますか。勿論私も知りませんでした。電気も使わずただ人が乗って重さを量るだけなのに何故変えなければならないのか?、そんな疑問があるのは当然なことでしょう。実はその秘密は南北に長い日本の地形にあるのです。地球は絶えず自転していますがその影響による重力は日本列島の北と南とでは微妙に違うのです。デジタル式や目盛り式の家庭用ヘルスメーターはバネのたわみで量る仕組みになっていますが、北海道と沖縄では緯度の差20度です。それをヘルスメーターで換算すると0.1パーセント程度なのですが北海道の方が下へ引っ張る力が強いという形で表れてくるのです。その差を考慮して家庭用ヘルスメーターは北海道用、沖縄用、さらに中間をとって本州用と三種類の設定で売られているそうです。沖縄の人が北海道に人事異動した折、今まで使っていたヘルスメーターを持参して使うと、誤差があるという事実を知っておいた方がよいかも知れません。

 じゃあ正確なデーターが必要な病院などはどうするんだろうという素朴な疑問が湧いてくるのもこれまた当然なことです。ご安心下さい。病院には病院用というのがあるそうで、日本中を更に細かく16地域に分類して製造販売されているというからただただ驚くほかはありません。2百グラムや3百グラムぐらいと思うのは私たち素人の考えだし、日々の暮らしでもそんなに困ることはありません。私もかつて産業課で計量器検定という仕事に携わったことがありますが、そんなちっぽけな誤差ぐらいと思っても、商売をしている人から考えたり、消費者の監視からするとそれは大きな問題なのです。時々内容量の表示と容量が違って大問題になったことがありました。世の中には暇な人がいるなあと思ったものですが、それは私が間違いで、暇な人が正しいのです。

 さて、今朝の私の体重は本州用で量ると56キロでした。只今妻の方が少し、いえ少し軽いようです?。

さあきょうも孫と少し歩いて元気を維持しましょう。ここまで書いたところで隣の部屋から孫がやって来ました。二人で脱衣場の体重計で量りました。「おじいちゃん僕の体重は何キロ」と聞くので、只今の朋樹の体重は17.5キログラムです」と言ってやりました。

  「体重計 壊れてるのか 言う妻の 重さ微妙に 増えております」

  「いいことを 知ったとばかり 書きました 体重計に 北と南用」

  「増えるのに ヘル(減る)スメーター これいかに 漫才ネタに これ使えそう」

  「体重の 目盛りで一喜 一憂し 贅沢しないで 贅肉何故に」

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shin-1さんの日記

○人のブログを見るのは楽しい

 私は人のブログを見るのは得意な方ではありません。何か勝手に読んだような後ろめたさがあるからです。でも私のブログにコメントがつき、あれやこれやと自動的に意見をもらえるのは有難いことです。でもでもそのコメントに対し「返事はご遠慮下さい」なんてコメントがついて、相手のメール先も分らないと少しガッカリしてしまうのです。

 今朝嬉しいメールが届きました。「ブログを始めたがまだ誰にも知らせていないがあなたに知らせる」とのこと、仕事柄なのでしょうがブログは匿名、しかも中身に教育という文字が大きく見えました。匿名も教育も仕方がないなと思いながら読ませてもらいましたが、これが中々面白く匿名や教育臭くないのです。

 私はかつて役場に勤めていました。役場に勤めている頃も出来るだけ役場臭くない人間になりたいと努力をしてきましたし、役場を離れた後も役場の役場臭さが益々気になって仕方がありません。役場という所は情報と権力が集中します。故に「私は偉い」という特権階級の意識を持ちがちです。「役場に行くのは嫌」という役場アレルギーの人たちは案外多いのです。役場は自己主張はするし色々なことを住民に押し付けます。やった成果は自分のものにしたがるが、失敗の責任は取らず説明はないままです。個人情報が問題になって益々そのガードは固く仕事はしろというのに情報は教えないのですからやりようがありません。

 役場の中にいるとこんな住民のブツブツはまったく聞こえません。パソコンが仕事をするようになるとパソコンに向かって仕事をして人間に向かって仕事をする時間は益々少なくなってきました。これも役場の常識なのでしょうか。

 まあ、こんな具合に時にはやんわり、時には鋭く批判や批評をしていますが、約6ヶ月、これほどパソコンが普及しこれほどブログが普及して誰でも読める時代になっても、未だ一件も私のブログへ役場から文句や批評を言う人がいないのですから、黙認・黙殺としか言いようがありません。お偉い人が市役所の入所式で「市民の声なき声に耳を傾け」なんて新入公務員に言ったそうですが、私流に言わせれば「声ある声に目を傾け」と言った方がパソコン時代には受けるかも知れないと思ったりしました。

 匿名の注意すべきことは「匿名だから何でも書ける」という怖さです。バーチャルの世界はそこが問題なのです。人のものも自分のものも区別が付かなくなって大きな問題に発展することだってあります。また自分ではいいと思っても情報の交流がないと歯止めが利かなくなります。お互い気をつけながらいい情報を流しあい、交流しましょう。

  「嬉しいね ブログを始めた 文届く 同じ話題も 違う目線で」

  「悪くても いい(E)メールとは これいかに まるで漫才 面白ネタだ」

  「音信の 消えた友より 風便り メールで元気か メールで元気だ」

  「お礼状 段々遠のく わが暮らし それでも三枚 限界宣言」

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shin-1さんの日記

○史談会が誕生しました

 双海町という自治体が合併によりなくなって丁度一年が経ちました。双海町という時代に築かれた団体や機関は統廃合の憂き目に会ってあっさりその旗を降ろしてしまいましたが、何とそんな中で生まれるグループがあるのですから世の中は面白いものです。

 合併を記念して改定「双海町誌」が2年間の苦労を経て出来上がったのは一年前のことでした。閉町のタイムリミットも近づいて何かと慌しいなかで、編纂委員さんはそれぞれの立場で努力をしていただき、短い時間にしては立派な町誌が出版されました。そのメンバー数人が、双海町の歴史を語ったり文章化することを考えて好きものを勧誘し24人のメンバーが揃い、今日の設立総会と相成ったわけです。歴史に詳しいいわば双海町の一時代を築いた方ばかりの会員が年会費2千円で会を運営しようというのですから、しかも失礼ながら年齢的に盛りを過ぎた人が殆どですからそんなに大きな期待は持てません。でも金や年齢だけではなく、その心意気は相当なもので、自己紹介では薀蓄を長く短く喋り捲り、凄いパワーを感じました。

 私は退職を機に民俗学の研究を細々と続けています。耳も遠くなった親父との話は主に下灘漁村の民俗学に焦点を絞って、元気な今のうちにとコツコツ聞き取りしたことをまとめています。何年か後にはそれを一冊にまとめてみたいと思っています。そう自己紹介でお話をしたら会の終了後早速一会員から、近いうちに話をしようという申し出がありました。同じ町に住みながらこんな話をしたことも聞いたこともないだけに、ああいい会を通ってくれたなあと、事務局を担当する事になったかつての同僚だった中尾先生の若さと行動力に感謝しています。

 早速家に帰って色々なことを考え、色々な心に浮かぶことをメモしながら下灘の民俗学を考えてみました。多分こんな馬鹿げたことを考えるのは私が最初で最後だろうなあと思いつつ、宮本常一の本を読んで見ました。奥の深かった宮本常一の世界が少し見えてきた感じです。

 明日は孫を連れて人間牧場へ行く予定はないのですが、改めて沖合いに浮かぶ春の周防大島に思いを馳せながら読書の時間を取りたいものです。

 小さな世界から大きな世界へ目を向けた私の人生も、いよいよ大きな世界から小さな針の穴へと回帰しつつあることを感じながら・・・・・。

  「消えた会 多いというのに 出来る会 身をゆだねつつ 意の向くままに」

  「一家言 ある人ばかりで 賑やかに 史談の会は いつまで続くか」

  「えっあの人 既に喜寿という 一緒年とり 私も還暦」

  「歴史とは 人の生き様 語ること 表舞台を 裏の舞台へ」 

 

 

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shin-1さんの日記

○集落が消える

 私の住んでいる集落は300戸余り、旧役場の中心地だけに「集落が消える」なんて話は他人事でしかありません。逆に小さな集落の強固なまとまりのあるコミュニティが羨ましくさえ思うほど、以外と他人事として片付けられることが多いのです。僅か15戸で組織している私の組内ですら葬式以外は殆ど会合もなく、それでも毎年が過ぎてゆくのですから今の時代は、村社会のような封建的な生き方は通用しないのかも知れません。しかし双海町の遠隔地では一戸また一戸と次第に戸数が減って、10戸以下の集落が目立ってきました。多分10年後には、いやひょっとしたら5年後にはその集落は消えていくだろうと思われます。

 合併によって私たちの住む街も新しい伊予市として誕生しましたが、新しいまちでは地域の自立をテーマに掲げているし、合併構想の中でも地域支援センターなるものを明記しています。しかし今回の組織改革ではその名称すら見ることもなく、むしろ総合支所は縮小され後退と言わざるを得ないようです。そしてもう一つ集落の再編という私たちの暮しにとって大変重要な出来事が、住民に周知徹底されないまま行われようとしているのです。自治の再編は大きな自治会と小さな自治会があることを考えれば当然のことであり、何処かに右へなれは仕方がないことかもしれません。旧伊予市の500戸単位と旧双海町や旧中山町の10戸単位では民意の集約もままならないことは分っていても、右へなれの対象が伊予市という都市型に全てを合わせられる農山漁村とでは、余りにも意識や行動が違い過ぎるのです。であれば、「自治会組織は旧市町単位で温存してもいいのではないか」、「何故中央に集めて自治会長会をしなければならないのか」という疑問を持つ現在の自治会長の疑問も説明責任として答えなければならないでしょう。

 田舎の集落には、「村八分」という悪しき習慣が残っています。いかにも集団でいじめをするというイメージに聞こえますが、もともとは村の決まりごとを破った人に対して行う厳格な処罰規定でした。江戸時代の集落の規則では冠・婚・病気・建築・葬・火事・水害・旅・出産・年回忌の10の行事については集落の人々が協力しあって行う風習がありました。しかし集落の規則を破った人には相談してこうした付き合いを拒否したのが村八分です。でも気をつけたいのは村10分でなく村八分なのです。つまり村八分とは火事と葬式は別物として考えられたのです。村八分の語源は村はぶく、村はじくとされていますが、村八分はいかにも義理堅い日本人の心といえましょう。

 今の世の中では葬式も式場でするので、村八分にされたとしても別に困らないし、火事も消防車がいち早く駆けつけてくれます。集落が集落としての機能を果たさなくなった時代に、広報区長などと名前をつけて広報を配ってもらったり、住民の意見は全て広報区区長を通じてなんて持ち上げることより、自治会にどんな自治を担わせるのが本来の目的なのか、もう少し前向きな議論が欲しいものです。

 先日市役所の職員とコミュニティ議論をやりました。私の考えるコミュニティには従来の集落が持っている地域コミュニティと集落を超えて持たねばならないテーマコミュニティがあると、持論を展開しましたところ、そんな難しいことは初めて聞いたと目をぱちくりしていました。

 「集落が消える」この重いテーマをあなたはどう考えますか。

  「この歳に なっても未だ 若い方 嘆く集落 五戸だという」

  「村八分 されても別に 困らない それより役など しない方まし」

  「役所から 身を引き途端 見えてくる 口には出さずに 利口な生き方」

  「指折りを 数えて任期 来るを待つ 自治会の世話 結構きついね」

 

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