shin-1さんの日記

○地元中学校の運動会

 私が子どもの頃は秋祭りの前後だったと記憶している秋季大運動会が、いつの間にか残暑厳しい九月の初旬から中旬になった様な気がします。何の意味を持ってこんなに早くなったのかは定かでありませんが、「こんな遊びみたいな運動会にうつつを抜かすより早く片付けて勉強をすることが大事」とばかりに見えるのです。みかんや稲のように早く作れば高く売れる訳でもないのに何故か早く、秋季運動会なんて代名詞は使えず極早生運動会と改名すればよいのにと思う程なのです。ですから子どもたちも残暑の中で夏休みボケして練習しているものですから身が入らず、結局はやる方も見る方も感動しない運動会になってしまっているようです。運動会が予定されていた日曜日はあいにく秋雨前線の悪戯で順延となり結局月曜日の昨日行われました。

 私は地元中学校の評議委員をしているので、教頭先生が気を使ってわざわざ案内状を届けてくれました。午前・午後・夜間とトリプル会議が予定されていましたが、せめて義理だけはと開会式だけの見学となりました。

 ご多分に漏れずこの中学校も少子化で、加えて町内2校の中学校が統合せずに残っているものですから生徒数も少なく、ご覧のような寂しさです。でも驚いたのは校長先生の開会あいさつに全員の顔と目と心が釘付け凝視されていました。この集中力は余程の訓練がないと出来ないことです。凄いと思いました。また生徒と指導した先生を褒めてあげたい心境でしたが、残念ながら校長先生のお話は出だしにもかかわらずマイクの調子が悪く、父兄のテントまでは届かなかったようで、辛口に言えば前述の夏休みボケのようでした。

 帰り際見覚えのある顔に出会いました。私が教育長在任中に産休に入っていた栄養士の先生が元気な赤ちゃんとこどもをつれて見学に来ていました。あいさつと同時に懐かしさの余りに持っていたデジカメで記念写真を撮りました。娘さんはもみじのような手でVサインをして応じてくれました。

 私はふと自分が中学校時代の運動会を思い出しました。あの当時は生徒数も多かったし、中学校の運動会は取り立てて村に娯楽のなかった頃でしたから村の一大イベントで、学校の2階は全て窓ガラス戸が外され入りきれないほどの観客が大きな声で声援を送ってくれました。花形の分団リレーやマラソンなどは拍手と声援で学校がまるで傷んだスピーカーのようでした。

 私はマラソンが得意でしたが、一年下の従兄弟に心臓の強い早いのがいていつも一番と二番を争いましたが、今考えると他愛のない競争だったと思うのです。

 何年か前、西土佐村へまちづくりの仕事で行った折、「俺はかけっこで3番より下がったことがない」と酒の肴に自慢した若者がいました。よくよく聞いてみるとその学校に彼の同級生は3人しかおらず、結局ビリでも3番と分って大笑いをした話です。その当時は小さな村の小さな話と他人事のように受け止めていましたが、わが町のも少子化の波はどんどん押し寄せ、西土佐村の笑い話が双海町の笑い話になりつつあるのです。人は何故田舎を捨てて都会へ行きたがるのでしょう。人は何故子どもを多く生まないのでしょう。人は何故無意味な競争をするのでしょう。何故の思いが募る中学校の運動会でした。

  「生徒減り 寂しい学校 運動会 雨で順延 さらに寂しく」

  「マイク出ぬ 校長声を 張り上げて 子ども生き生き それに反応」

  「手渡しの 案内届く 運動会 さすが教頭 しっかり頑張れ」

  「三等以下 ならぬと胸を 張る友は よくよく聞けば 三人で走る」

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shin-1さんの日記

○違う道筋を行く・岩間地区(20-13)

 双海町から高知県四万十市西土佐を目指す場合、双海町~大洲~鬼北~松野~西土佐というルート以外に、双海町~伊予市~川之江~須崎~西土佐という高速道路を使うルートがあります。後者は一見逆コースのような感じがしますが、時間的にはそんなに変わらないのですから高速はお金は要っても凄いもんだと思います。しかし昨日は途中の国立大洲青少年交流の家で「大人を考えるフォーラム」の実行委員会があり、思案した挙句時間が切羽詰っていたのでもう一つ別のルートを選んで走りました。それは双海町~大洲市~青少年交流の家~宇和町~歯長峠~三間町~松野町~西土佐というルートです。特に歯長峠の曲がりくねった道は私のような田舎者で狭い道に慣れていない人にはお勧めできませんが、このルートも最短距離のようで僅か1時間20分足らずで、お約束の午後6時には西土佐に到着しましたから今日の判断は正しかったとホッと胸を撫で下しました。

 この10日余り天気が不安定で雨や雷に悩まされ、特に高知県や愛媛県南予では度々大雨警報が出され、前日も江川崎では時ならぬ大雨で列車の運転を見合せたほどでした。それでも季節は秋に向かって確実に進んでおり、朝晩は苦しめた暑さからも開放されて上布団を用意するほどになりました。宇和町では道沿いに沢山のぶどう園が巨峰の即売所を設けて、道行く人の呼び込みに懸命のようでした。この雨で観光ぶどう園のお客も少ないのではないかと、他人事ながら心配しています。

 昨晩はこの仕事の元請けとなって毎回出席している雇用促進センターの石川さんたちと落ち合い、食堂で夕食をともにしながら話し合いをしました。同席した奥野さんの奥さんが似顔絵を書くらしく、私の絵を書いたと届けてくれました。多分この絵はインターネットに出ている観光カリスマ百選の紹介写真を基に書かれたようですが、特徴をつかんで書いており中々の出来栄えのようです。バックには夕日や夕焼けまで書く気配りです。

 それにしても中々いい男じゃあないですか。一緒にいた皆さんは一応に「実物より男前」と言わんばかりの心境でした。

 昨晩の会場は岩間という集会所でした。折から屋根を叩く雨足が強くなって、出鼻をくじかれた格好になったのか客の寄りは今一でしたが、それでも殆どの人がメモを取るなど熱心さでは負けないほどの迫力でしたので、こちらも思わず力が入ってしまいました。昨晩は係長さんが知らせていたのでしょか高知新聞の女性記者が同行取材していました。こうした地道な取り組みを外の目で取材して地域の人に知らしめることは大切な情報発信だと思っています。

 昨日の岩間地区で面白いものを見つけました。地域に住んでいる人の年齢毎の名簿が一覧表のような形で張り出されているのです。最近は個人情報保護とかで名簿の取り扱いに何やかやと言う人が多いようですが、こうして公民館に張り出されると、「あそこのじいちゃんは近頃見んが元気なんじゃろうか」とか、あのじいちゃんはもう96歳か。相変わらず元気で畑仕事をしよる」とか、いつも集落に住む人の話題が出てくるのです。防災組織も大事ですが、過疎の地域でこうした近況の確認が出来ることはとても大切なことだと思いました。

 昨晩は会議が始まるまでイノシシの話で盛り上がりました。せっかく実りを迎えつつあるサツマイモが昨夜被害にあったそうです。ニンジンも根こそぎやられたとお手上げの状態のようで、何か妙案はないものかと互いの知恵を確認しながら話していました。「田舎は過疎で人がいない分、「寂しいからとイノシシや猿や鹿が慰めに来てくれる」という言葉が印象的でした。

 入口に早くから陣取っている人から久しぶりと声を掛けられました。そういえば見覚えのあると記憶を辿ると、カヌー館横の東屋で開いていた男の料理教室で出会った方でした。たった一回の出会いなのにもう10年来のような親しさです。「田舎はいいね」としみじみ思いました。山里にも早い秋が忍び寄って、道端の草むらからは賑やかな虫の声が聞こえていました。「今日はええ話しじゃった。若者にもこんな話は聞かせたい」と戸口を出る背中の向こうでおじさんが皆に向かって話していました。この地区でも計画されている道の駅のことについては関心がおありのようで、質問が出されました。

 午前・午後の会議をこなして、ダブルヘッターならぬトリプルヘッターをこなし、少々お疲れモードでしたが、少し心にブレーキをかけながら夜道を125キロ再び引き返しました。

  「普通とは 違う道行く 土佐参り カーナビ相手に 独り言いう」

  「イノシシが おらの畑の 作物を 何か妙案 ないか尋ねる」

  「やあ元気 いきなり声を かける人 見れば見覚え 田舎はいいね」

  「熱心に メモ取り聞き入る 村の人 学ぶ意欲が ビンビン伝わる」


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shin-1さんの日記

○雷様

 「朋樹君雷が鳴ってるからおへそを取られないようにしっかり抑えていてね」と、先日わが家にやって来た孫に雷様の話をしました。孫は「どうして雷様はへそを取るの」と反対に返しましたが「地震・雷・火事・親父」と怖いものの代名詞に数えられている割には雷について知らないことが多いのです。広辞苑によると「雲と雲、雲と地表の間に起こる放電現象。またこれに伴う音。積乱雲の内部に発生した電位差によって生ずる。雷雲によって生ずる原因によって熱電・界雷・渦雷などに分ける。いかずち」とありますが、私が孫に知ったかぶりで話したのは「雷神」のことで、くものうえにいて虎の皮の褌をしめ、太鼓を打ち、へそを取るという昔聞いた言い伝えを言っているのです。「雷が落ちる」という言葉も実際は金属や背丈の高い物に放電する本当の落雷と、大きな声を出して叱られる言葉と二つのいみがあるのですが、両方とも怖いものの代名詞のように言われています。

 昨日の深夜から早朝にかけて、わが町では時ならぬ雷が延々5時間もなり続け、雷が怖いと思っている妻などは布団の中で眠れぬ夜を過ごし、雷が鳴る度に私の腕をつかむのです。私はその度に目が覚め、結果的には妻の眠れる夜に付き合わされてしまい少々寝不足の感じがしましたが、雷など平気だと言いつつやはり気持ちのいいものではないなと思いました。

 私たちが子どもの頃はよく学芸会があって、学芸会の度に太鼓を沢山背中につけた雷様が出てきたものです。最近はそんなユーモラスな雷様の姿を見ることもなく、またドリフターズの高木ブーさんが、「8時だよ全員集合」で見せたユーモラスでデブっちょな雷様も、大分イメージが違うなあと思いつつ画用紙がないので、菓子の包み紙の裏側に大きな雷様の絵を書いて説明した後、「ゴロゴロゴロゴロ、雷様だー」といって孫を部屋中追い掛け回しながら遊びに講じました。三歳の孫は本当におへそを食べる仕草を私がする度にシャツを上げておへそがあるか確認して「あった、あった」と逃げ惑うのでした。孫の頭にはこの私が書いた雷様のイメージがインプットされたことでしょうが、絵本の中に上手に書いた雷様の絵があったので、私の脚色で更なる雷様の話を面白おかしく話してやりました。

 昨日の朝、私たち夫婦はお遍路さんとして四国88ヶ所参りをするため徳島へ向けて早朝5時に出発しましたが、伊予のインターチェンジを過ぎて間もなく北の空に大きな雷の閃光を見ました。一瞬辺りが明るくなり、高速で走る車にも地響きが伝わる程の大きさで閃光柱が見えました。最近はテレビでもこうしたシーンはよく見かけるのですが実際に見たのは久しぶりのことで、妻は始めて見る閃光に驚いた様子で「引き返さなくて大丈夫?」と聞き返すほどでした。聞くところによるとその閃光の後に激しい雨が降り、近隣の市町村では雷が原因でかなりの地区で停電になったそうです。幸い私のパソコンもわが家のテレビも難を逃れましたが、アンテナを通して雷が落ちると一瞬にしてパソコンやテレビが駄目になるそうなので、雷が鳴り始めると電源コードやアンテナ線を抜くことが肝心と、雷多発地帯の群馬県の人に教わったことを思い出しました。

 お寺を巡っていて、お寺の境内には杉の巨木が黒く焼けた後が多数見えました。お寺の屋根には避雷針が取り付けてあるのも見ました。ゴルフ場で落雷に会い死んだ話も聞きました。自然とは凄いものだと雷の閃光を見て思いました。

  「雷と 呼ばれる親父 いなくなり 日本の雷 母が代役」

  「パソコンを 台無しにした 雷に ツケをやりたい そんな心境」

  「秋雷の 音に驚き へそ隠す 孫の姿や 滑稽滑稽」

  「あの電気 使えぬものか 考えりゃ ノーベル賞を 貰えるかもね」


 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの休日

 サンデー毎日になって早くも1年半になろうとしています。いやー月日の経つのは早いものです。毎日が休みですから、誰に気がねをすることもなく休めるのでしょうし、私自身もそう思っていました。現職の頃の忙しかった日々を反省し、「今日からは誰に遠慮がいるものか」と「自由な休日」を取れる権利を行使しようと思っていました。ところがどっこい、そうは行かなくなってしまったのです。今は夏休みなので大学の講義は休みなのですが、自治会長である区長という仕事が結構忙しくて盆踊りや慰霊祭、それに近づく敬老会の準備もしなければなりません。また人間牧場への取材や来客も多くその対応と周辺の草刈など予想以上の仕事があります。また講演活動も全国展開で、早くも来年の予定が入り始めました。

 「こんなはずではなかった」が正直な話で、しょっちゅう家を留守にする私を見て、妻も親父も呆れて空いた口が塞がらないというのが実態です。昨日も友人から電話が入り、「いつ架けても電話が出ない。あんたの電話は『出んわ』か」などとひねくられましたが、その友人も「退職して声がかかるなんて羨ましいことだ」と羨ましがられました。まあそういえばそうなのですが、自分としては少々オーバーワーク気味なのでセーブを心がけないと、また「昔のように体を壊されては元も子もない」とヤキモキしているのは妻だけではないようです。

 そんな妻への配慮もあって、今日は予定されている学校評議員として案内のあった地元中学校の運動会が中止になりそうな空模様なので、夏の疲れをリフレッシュするため思い切って四国遍路の旅に出かけることにしました。早朝5時に昨夜からゴロゴロなり続ける雷と小雨の中を徳島へと出発しました。伊予インターチェンジから高速に乗り、雨で80キロ速度規制されている速度ぎりぎりにアクセルを踏み、途中サービスエリアで休憩を取りながら順調に徳島へ入って行きました。

 今回の遍路は遠方ゆえ、エアーポケットのような形で残っていた18番から22番の札所を巡るのです。別に高知県に2ヶ寺残っているのですが、そこまでを一日で終えるのは難しいので、帰りのことを考え逆回りで遠い方から回ろうと阿南市を越えて22番から始めました。高知県や愛媛県南予には大雨警報が出ているというのに、徳島県の東部に位置知る海南市付近は大した雨でもなく、時折日傘や帽子が必要なくらい残暑の厳しいお参りとなりました。逆打ちのため看板も見当たらないのですが、カーナビにそれぞれのお寺の電話番号を入力し、衛星放送活用のナビゲーションシステム利用によってほぼ完璧な誘導がされました。

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 スナップ写真写ったこの美人の?おばさんが私の妻です。私の持ち物になって(私は妻の持ち物)36年経ちましたが、たった5分の見合いで一目惚れした?女性なのです。お寺だけを写しても何の意味も無いのでついでに写真に写ってもらいました。

 一番札所霊山寺と二番札所極楽寺、三番札所金泉寺は納経帳に遅れてスタートした掛け軸に落款がないので小松島や阿南が終わってから55号線を引き返して11号線に入り鳴門まで再びお参りに行って徳島のお寺を全て終えました。

 思えば妻の母親が亡くなったのを機に始めた四国八十八ヵ所遍路旅でしたが、その後わが母の供養も加わったものの思うに任せず、何と二十年もの歳月を要してしまいました。これで供養の旅も一歩ゴールに近づき、後は高知県2ヶ寺といよいよ総本山の高野山の旅となりそうですが、せめて年内にはやりたいものと長い一日、車の中で夫婦が何度も口にしたのでした。

  「足掛けで 二十年もの 月日かけ やっとゴールが 見えそな気配」

  「賽銭を 入れて無心に 妻祈る 何を願うか 俺の健康?」

  「ふと浮かぶ 母義母の顔 ありありと 今頃あの世の 何処にいますか」

  「この顔に ひと目惚れした あの頃が なつかしいねと 笑い飛ばして」 

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shin-1さんの日記

○写真に写りたがらない年代たち

 最近ブログに載せるためデジカメ写真を小まめに撮っていますが、妻曰く「私たちの新婚旅行さえ二人で写した写真が一枚も無いのに、何で今頃?」と不思議がっていうのです。ご高説はいちいちごもっともと過去を詫びても過ぎ去ったことなので仕方がありませんが、今朝食卓で新聞を読んでいると面白い記事に出会いました。最近の50代60代のいわゆるおばさん世代の人たちは目立ちたがり屋と思いきや、以外や以外写真に写りたがらないのだというのです。その記事は作家小川由里さんの書いたものなのですが、食卓でこの記事を食事をしながら妻に読んでやると大笑いをされてしまいました。

 「そういえばここ数年、友人たちと旅行しても久しぶりに集まっても、だれもカメラを持参しなくなった。かなりの写真好きだった友人もばったり撮らなくなっている。『いつ、何があるか分らないもん。写真は本人の思い出、山ほど残されても家族が処分に困るだけ、景色は心に残しておけば十分』『未整理の写真を入れた菓子箱が積んである。もういらない』。そしてもう一つ、『写真は正直にトシを見せつけてくれる。嫌い』。若づくりしているのに若くも、綺麗にも、カワユくも写らないという面白くなさがある」。

 「ところが夫は違う。男ばかりの同窓会。同好会の飲み会などでもまめに写真を何枚もとり合い、送りあっている。どうもおじさんたちはおばさんほど先のことや老いを深く受け止めていないのではあるまいか」。・・・・・・・・だとさ。

 妻が大笑いをするはずだと同感しましたが、それは多分世の男性を見ての大笑いではなく、私のことを直感しての大笑いだったのかも知れないと、この文章を読み返しながら思ったのです。そういえばカメラに夢中になって、二人で短い旅をしても、嫌がる妻を入れてハイポーズなどと写真を撮っている私の姿がありました。新婚旅行さえ写真を撮らなかった私のこの変貌ぶりを滑稽に思ったのは当然かも知れません。

 女は化粧や着るもので随分化けることができますが、男は禿ても白髪になってもアデランスや白髪染めというのは若い頃の作業であって、還暦を迎えた私どもの年齢になると、特に男ばかしの集まりなどは特に、髭さえ伸ばしたおじん臭い格好でやって来るのです。でも妻が言うには「幾らお化粧しても、いい洋服や光物を身に付けても首の老化は年齢相応に見えるもの」だというのです。そういえば首の若返り手入れなんてものは聞いたことがないと、女性の首筋を観察して納得したりするのです。

 男も女も若く見えることは大きな喜びです。61歳の私だって「幾つに見えますか」の質問に「55歳ぐらい」なんて返事が帰ってくると、悪い気はしないのです。でもその後で「精神年齢」なんて悪ふざけた言葉が小声でかえってくるとがっくりするのです。

 まあ人間は歳相応の生きればいいのです。別に若いといわれてもそこら辺の若者には適わないのですから・・・・。

   「俺の歳 何ぼと聞くは 野暮なこと 若く言われて 精神がっくり」

   「首だけは 若くなるコツ ないそうな 首を隠せば いいではないか」

   「写ってる 正直者の この写真 みんな同級 みんなそれなり」

   「写真嫌 だって若くも ないんだもん でもこれ以上 若くはならず」

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○残暑見舞いにゴーヤの絵ハガキ

 私の文通仲間に中島町の竹下千鶴子さんがいます。彼女のことは舞たうんにアナログ時代とハガキについて原稿を書いた折、本人の了解を得て永六輔さんとともに実名をあげて文章で紹介しました。彼女とは中島町の婦人会総会に講演に行ったことが縁で知り合い、それからずっとハガキのやり取りをしています。やり取りといっても竹下さんが主で私が従なのです。というのも竹下さんから季節の便りが届くと私がそれに応えて返事を書く程度なのですが、これがまた肩の凝らない文通とでも表現できる長続きの秘訣のようです。

 今月の絵ハガキは多分農家の方ですから自家菜園で獲れたゴーヤを素材に書いたのでしょうが、これがまた瑞々しくて今にもハガキから飛び出してくるようなタッチで書かれており、同じように昨日近所からいただいたゴーヤを妻が料理して食べたにもかかわらず、その表現もしないまま終わっている自分との落差を嘆いてしまいました。「竹下千鶴子さん。毎度毎度季節の贈り物をありがとう」と心の中で叫んでいます。

 「私は文字も絵も下手」と自分で勝手に決め付けています。ですからそれがもろに出るハガキは私にとって悩み多き代物なのですが、私のように人と出会うことの多い人間は「文字と絵が下手」でも書かなければならないのです。私は「書かないハガキは届かない」「たとえ字がまずくても真心は必ず伝わる」をモットーに毎日1日3枚のハガキを性懲りも無く19年間も書き綴っているのですが、その無謀とも思える姿勢が多くの人との縁を得てきたのです。

 竹下さんの絵は豪快で、絵をはさんで「ゴーヤのパワーで夏のりきりました」と書いていました。私もゴーヤは大好きですが、最初沖縄でゴーヤを食べた時、「こんな苦くて不味いもの食えない」と、失礼ながら思わず吐き出してしまいました。しかしちゅらさんや安室なおみさんなどの影響で沖縄が有名になってゴーヤチャンプルなどが紹介され始めると、ゴーヤは健康食品として一躍有名になりました。年齢のせいもあるのでしょうが不思議なもので、あれほど不味かったゴーヤが今では癖になるほど美味しく食べられるのですからこれまた私の賞味なんかもいい加減なものだとつくづく思うのです。わが家でも今年は近所からいただいた2本のゴーヤの苗を植えましたが、残念ながら夏の忙しさと雑草にやられ、見事に収穫ゼロに終わってしまいました。それでも妻が友人から度々ゴーヤのおすそ分けが届き、昨日の夜などはゴーヤの佃煮などまで登場して、息子の不評をかっていました。

 私が元気で夏場を乗り切れたのはゴーヤとスイカとカボチャとナスといった夏野菜であったのかも知れないと思っています。

 残暑もピークのようで、早くも秋雨前線の気配です。親父に頼まれえ蒔いた大根の芽は2~3日の雨で全て出揃いました。余り早く蒔くと病気や台風の強い風にやられる心配もありますが、まずはいい蒔き時を選んだとホッとしています。

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 秋茄子も随分実って近所におすそ分けです。今朝は秋茄子の塩もみで茶漬けといきましょうか。春に収穫し漬け込んだ梅干しも紫蘇で染めて綺麗に出来上がりお茶漬けの上に乗せたいものです。

  「紫の ナス朝露を 身にまとい 秋が来たぞと 主張してます」

  「大根が 芽を出し並ぶ 行列は 行儀いいぞと 褒めてやりたし」

  「二葉から 始まる大根 冬の旅 すられ煮られて 胃袋満たす」

  「もう夏も 終わるか畑 衣替え 隣せっせと 稲刈り響く」 

 

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○○長~い一日と回り道からの学び

 昨日と今日の二日間、ある採用試験の面接試験官を頼まれてその仕事をこなし帰って来ました。講演などは1時間半から長くても3時間までですが、採用試験は次から次と受験生が20分間隔で絶え間なく押し寄せ、受験生が違う人間とは言いながら同じ質問も出来ず、ずっと緊張の連続で「あー疲れた」というのが率直な感想で、昨日は久しぶりにブログを書く気力も使い果たしてしまいました。

 受験会場ではまず最初受験生に設問を渡して朗読させ、その設問を自分流に解説して行くのですが、その解説に対する試験官の質問に対して答えるという形式は、受験生にとって見ればアドリブなのですから、緊張と同時に地金が出て、ついつい答えられなくなる人もいるほどです。先日私の息子も相次いでこのような面接試験を受験したのかと思うと、本当に他人事ではなく、採点も細かくチェックしたことは勿論ですが、セールスポイントに記入している自分の得意な部分を見つけては、答えられ易いように誘導してやることも大切とついつい親心を出してしまいました。

 最近は入試では内部の人の評価だけでなく、私のような部外の第三者的な人に客観的に選んでもらうことを採用している所が随分増えてきました。内間だと温情やしがらみに縛られることが多く、よりよき人材が得れないためです。結果的に会社が生き残ってゆくためにこの選択は賢明な方法だと思うのです。採点票のチェックポイントに面接で探り当てた情報を書き込んでゆく作業も真剣です。結果的には試験官数人の点数を合計し、その平均点で更に公平さや客観性を増減して候補者を絞り込んでゆくのでしょうが、面接されることの殆ど無かった私にとって今回の面接試験官の仕事は、まるで自分が面接されるような初々しい気持ちになれてとてもいい経験だったと思うのです。

 面接に参加した若者の中には大学を卒業する見込みの初々しい人もいれば、別の仕事をしながら何度か挑戦している人や、もう年齢的に後がないと不退転の決意で望んでいる人など様々な人間模様があります。特に長い回り道をしてここまで来た人の中には回り道が故に、自分では気付いていない多くのことを学んでいる人に何人も出会いました。初々しさも大事ですが、転職や挫折といった回り道は相手の目線に立ったり本質が意外と見えているのです。私は自分の経験からそんな生きた学習をしている人がどちらかというと好きな人情派で、客観的でないと言われるかもしれませんがほんの少しだけ加点をしました。

 課長や教育長という小さいながらも職場の管理職を経験した私から言わせれば、回り道は大きな財産です。私だって最初からいきなり役場に入ったわけではありません。水産学校を出て7年間自分の家の漁船で漁師をしました。過労による病気が転職のきっかけでしたが外から見ていた役場と中へ入った役場は見る目がまったく逆なのです。結果的には住民目線という自治体職員が得てして忘れがちな視点を35年間も持ち続けられたり、謙虚さと冒険心を武器に給料に見合った仕事を随分やらせてもらいました。

 何日かすると一次試験の合格通知で喜んだ喜びを天国とするなら、不合格という地獄を味わう人もいれば、二重の悦びが重なって天国を味わう人もいるでしょう。でも天国を味わう人はもう一度原点に帰って自分を見つめなおし新たな気持ちで再出発することを願います。残念ながら地獄を味わう人はリベンジを誓い、再び回り道でしか味わえない人生の教訓を学んで再度挑戦することを願っています。

 日本の各地で行われている学科や実技を経て希望に燃えて面接試験に臨む多くの若者がいます。せめて霧の中で権力者が金や権力で一部の人を採用する卑劣な行為だけはしないで下さい。むしろ回り道をさせる方が本人のためなのですから・・・・。

  「好景気 引き合い多く あちこちを 数打ちゃ当たる 人はいらない」

  「回り道 苦心の跡が ありありと 不退転だと 必死に語る」

  「ああ俺の 息子もこんな 場に臨み 合格通知 貰ってきたのか」

  「秋風が 開けた窓から そっと入り 廊下で待ちし 受験生撫で」

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shin-1さんの日記

○文章の独り歩き

 「shin-1さんの日記」というタイトル、「人間牧場」というサブタイトルで思いつくままに書き始めて丁度1年が経ちました。振り返ってみるとブログの何か分らぬまま、またブログの影響がどんなものか分らぬまま書いて書いて書きまくった感じがします。でもここに来て浅はかな知恵のそしりを得ても仕方がない重大な指摘を受けました。知人・友人のつもりで書いた実名が個人情報にひかかるばかりでなくその人に不快の念を抱かせたりするからです。リタイアして世を捨て始めた私のブログなんてよっぽど物好きでないと誰も読まないだろうと思って始めたのに、以外や以外沢山の人に読んでもらっていることが分り、ここに来て事の重大さに気付き、方向転換をしなければならなくなりました。このブログを借りてご迷惑を掛けた方々に心からお詫び申しあげたいと思います。「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」といいますが、パソコン時代に育っていない私は特にパソコンの持つ奥深い罪の部分を犯罪などの報告では知っていても、いざ自分のことになると余りにも無知過ぎるのです。今後は無知を悔い改め新たな失敗をくり返さないよう努力したいと思っています。

  「読む人が いるから書いて 大失敗 配慮の無さを 悔いる寂しさ」

○ハーモニカで綴る日本の名曲

 昨日新宿西口をブラブラしていて、地下街の一角でCDを売っている店が目に止まりました。立ち止まって色々なディスクの中から「ハーモニカで綴る安らぎの世界」というCDを見つけ、多分海賊版かもしれないと思う安さと、店員の声からしにほだされて、3枚も買ってしまいました。演奏家プロフィールによるとミヤタハーモニカバンドに在籍していたこともある町田明夫さんらしく、4500円の投資をしました。私は残念ながら正確な指導も受けぬまま、また楽譜も読めぬまま車の中で練習し、どうにか体感音楽で何曲かを下手糞ながら吹けるようになりましたが、このCDを講師にして練習をして上達すれば安いものだと思ったのです。早速書斎の娘が嫁ぐときに譲り受けたミニコンポに入れて聴こうとするのですが機械が言うことを聞いてくれず、結局はまだお披露目していないのです。保険所実習から帰った次男に「このコンポ直してくれ」と言ったのですが、「お父さんこのコンポはもう古いので買い換えたら」とあっさり言うのです。「冗談じゃない先日までプロジェクトXno主題曲中島みゆきの「地上の星」をかけた時は聞こえていたのだから、何かの拍子で聞こえないだけなのだ」と反論してみましたが、動かないのですから私の負けなのです。明日は車の中で聴こうと心に決めましたが、何と最早お粗末な話しであります。このCDは宵待ち草、竹田の子守唄などが挿入されている「日本の叙情歌」、夕焼け小焼けや赤い靴が挿入されている「日本の童謡」、荒城の月や浜辺の歌が挿入されている「日本の名曲」の三部作で、いずれも名曲中の名曲で合計42曲が収録されています。

  「ハーモニの 名曲入りし CDを 小遣い集め 買ったけれども」


○私の単車

 来春卒業予定の息子は只今病院実習に明け暮れています。慣れない実習は戸惑うことが多いとかで、かなり神経を使うのか毎日眠たそうな顔をしています。今週の実習場所は車の駐車場が無いため私の50CCのヤマハメイトに乗って25キロもあるのにせっせと通っているのです。今朝はわが家から孫を幼稚園まで連れて行かなければならないため同じ時間帯に出発しました。信号の無い所ではわが愛車がダントツ早いのですが、松前町と松山市に架かる出合い大橋辺りの渋滞地になると、ヤマハメイトは今までの遅れを取り戻して誇らしげに車道横を格好よく走り抜けてゆくのです。孫はそのことが気になるらしく、「おじいちゃん、どうして今車は遅いの」といちいち腹の立つような質問をするのです。それにしても単車は経済的に見ても環境においても安上げりだと思います。500円ものガソリンを入れておくと忘れた頃まで長持ちます。ところがどうでしょう。今朝のラッシュにかかった車の中を何気なく見ても、乗っている人は殆ど一人なのです。先日訪れた韓国では朝のラッシュ時、近郊の高速道路は3人以上乗ると無料で、一人だと通行税がかかるようになっていて驚きました。理にかなった制度だと思いました。

 次男が単車で行き始めると運の悪いことに連日雨模様で、私も8年間7キロ余りの道のりを単車で通った経験がありますが、合羽を着ての単車はやはりしんどいものです。昨日はおまけにパンクまでしたと嘆いていました。

  「晴れた日の 単車快適 雨の日は カッパ濡れ行く さびしかりけり」

 

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shin-1さんの日記

○秋蒔き野菜

 昼間は残暑が30度近くまで上がりかなり暑いものの夏の終わりを告げるように、やけっぱちに鳴いていたセミの声も何時しか遠のき、朝夕は涼しげな虫の声が次第に高まってきました。この頃になると町内のあちらこちらで細い煙が立ち昇ります。秋蒔き野菜の作付け準備のため菜園畑の草を引いて、その草を畑の真ん中で焼却するのです。最近は野焼きは環境汚染につながりCO2が増えるからいけないと、お上からお達しがあるようですが、田舎のことゆえ誰に迷惑がかかる訳でもなくみんな一向に構わないって感じで火をつけて焼くのです。夏草の猛威からこれで少し開放されるのかと思うと、したたる玉のような汗も苦にならず元気が出るのです。

 東京へ上京する前、親父から菜園畑の苗床が出来たから大根とカブの種を蒔いて欲しいと頼まれました。丁度東京行きの準備をしていて在宅時だったので長靴に麦藁帽子、首にはタオルというお百姓さんのスタイルで家の横に隣接する畑に出ました。先日まで夏野菜が植えられていた場所は耕耘機が掛けられてすっかり綺麗な苗床に変身していました。88歳になるというのに老いてなお矍鑠と耕運機まで動かす親父の奮闘ぶりにはただただ感心するばかりです。

 私の家は昔流に田舎流に言えば本家です。親父が3代目、私が4代目ですが、徳川家でも名君は3代目ですから私はさしずめ名君のどら息子といった位置づけでしょうか。わが家には親父の兄弟だけでも12人と、今時の時代では考えられないような若松家の末裔が近所にどっさり住んでいます。したがってその末裔を大切にする義務が親父にも私にもあって、野菜は近所の人が「商売でもするの」というぐらいどっさり作り、出来た野菜はあちらこちらに配るのです。今日も青首大根を2袋とカブを1袋蒔く予定だと言うのです。

 親父は何かにつけて几帳面で、畑に畝を作るのにも種を巻くのにも全て糸で作った定規を使い、丁寧な作業をします。それに比べ私は性格がアバウトなのか子どもの頃からよく親父に叱られてきました。いまも親父と私の関係は一向に変化せず、親父と私の意見の衝突原因はここら辺にあるようです。

 親父は最近目が薄くなり、加えて若い頃の手術で片目の視力を殆ど無くしているため、大根やカブのような種を蒔くことが出来ないのです。アバウトに蒔いても目の不自由な親父には分らないのですが、大根が生えてくると「あんな蒔き方を何故したのか」と厳しくとがめられるので、気の抜けないさぎょうになるのです。今日の作業では大根を12畝、カブを2畝も蒔きました。お陰さまで綺麗な菜園が出来ましたが、鳴れない中腰の仕事なので少々腰が痛くなりました。でも親父は休み休み作業をする私を尻目に休むことも無く一生懸命働くのですから頭が下がる思いです。

 全ての作業が終わると親父は肥料を軽めに振って湿る程度に散水をしました。明くる日から雨が降るという天気予報が当たればいい蒔き時となり、1週間もすれば可愛い貝割れ大根のような芽が生えてくることでしょう。

 大根やカブは来月の秋祭りの頃になると早くも食べれるようになります。これからはキャベツや白菜、ブロッコリーやタマネギとその敵機を選んで植え付け冬から春への準備をするのです。この歳になっても元気な親父が野菜の作付けシグナルを出してくれるのですが、私には自信がありません。

 親父は手入れがよいので野菜がよく出来ます。自家製ですので極力消毒をしないよう注意をしているので、安全な野菜が買うこともなく食卓に上ります。いよいよ気温は上昇から下降へと向かいます。流れる風も南風から東風や西風に混じって北風も吹くことでしょう。大根の美味しい季節はもう目の前です。今年も元気で種を蒔けたことに感謝しながら、種を蒔き終わった畑の隅に竹を差込み、その竹に大根とカブの空袋を差し込みました。

  「大根と カブ種パラリ パラリ蒔く 親父と息子 長閑けき田舎」

  「六十を 越しても未だ 親父指示 自立できない 私恥ずかし」

  「空高く 雑草焼く煙 たなびいて 早くも秋は 始まりにけり」

  「俺んとこ 本家名乗って おすそ分け する分余分に 大根蒔きぬ」

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shin-1さんの日記

○東京とスリランカ

 今回の東京行きは「独立行政法人国際協力機構(JICA)によるTV会議システムを使った「JICA-ネットセミナー」の講師として招かれたものです。JICA本部にある会議室とスリランカの会議室をテレビやパソコンで結ぶという画期的なもので、私をその講師に推薦したのは三菱総合研究所の松永さんでした。

 スリランカにおいて観光振興はスマトラ沖地震の復興事業の中で重要な施策となっており、2006年より国際協力銀行(JBIC)による観光振興を目的とした「観光セクター事業」が開始されています。JICAはボランティア事業を主体に連携を図る予定で、そのボランティアの受け皿かつ持続的な観光振興を行う組織としてスリランカの地方自治体に観光課を設立することが求められています。観光課の設置に向けてスリランカプロジェクト関係者に動機付けを高めるため、遠隔講義を通じて日本の地方自治体の観光事例を紹介しようとするもので、その白羽の矢が私に当たったのです。

 今回のセミナーのテーマは「地方自治体における観光課の役割」と「地方自治体における観光協会の役割」という2本立てです。そのために37枚のスライドを用意しました。しかし私の書いたシナリオを東京へ送り、その添削したものを資料や写真とともにえひめ地域政策研究センターの職員にパソコン処理してもらう作業を行いました。そしてそのソフトを東京で英訳処理してスライドショーが出来るよう教材を作ったのです。

 昨日はJICA本部の研修センター2Fのテレビ会議専用室で入念なチェックが行われ午後1時からスタートしました。前段は観光課の役割について通訳処理した30枚のスライドを基に、総合司会を株パデコの谷口加奈さんと、私の通訳を徳重富士子さんが両横に座ってサポートするのです。

 私は真ん中に座りました。そしてテレビに映し出されるスリランカの参加者に問いかけるような口調で話しかけるのですが、私の話と徳重さんのレクチャーと映し出されたスライドが上手くかみ合わなければ相手に伝わりませんからそれはもう大変な緊張でした。でも慣れてくると次第にアドリブや冗談も混じるようになって手応えは十分感じられました。現地と日本では時差が4時間とか、テレビ会議のため音声と映像に多少の遅れが出て少し変な感じもしました。

 10分間の休憩を挟んだ後段は観光協会の役割について話しました。私は双海町の観光協会の事務局長を20年間もやっているので、観光課と観光協会の住み分けはうまく話せたような気がしました。前段と後段では50分間のレクチャーに続いて質問や意見交換があり、同席した三菱総研の松永さんからいただいた事前資料でスリランカのことについて知ったかぶりで質問を投げかけたりしましたが、反応も上々でいい質問と答えが出て来ました。特に海辺の町ニゴンボの海を守る運動について、テレビに映し出された双海の海が美しいいことに驚いた様子で、どうすれば海を美しく出来るのか関心が集まりました。20年前は私の町でも海に関する意識は低かったが、今で漁協の女性が山に木を植えに行ったりEM菌で海を浄化していると、取り組みを紹介したところ、大変感心していました。またシーギリアロックという山から見る夕日も美しいと聞いていたのでその夕日こそオンリーワンだと気付かぬ地域資源をそれとなく教えました。

 真ん中の画面にスリランカの会場の様子が写ります。左の画面にスライドが写ります。右には真ん中横に置いたカメラで私と谷口さんと徳重さんが発言の度に大写りで写るのです。

 やがて3時間のテレビ会議はまとめとそれぞれの感想を述べて終わりました。スリランカは猫目石の世界一の産地です。最近は内戦も続いているようですが、スリランカは私にとって「遠くて遠い国」から「遠くて近い国」になりました。国づくりは国を愛することから始まります。また観光地づくりはコップの共磨き、国民が内なる資源を磨き、外なる人が外側を磨いて行くことが大切だとエールを送りました。スリランカ、一度は訪ねてみたい国ですね。
  「外国と テレビで結び 会議する 英語も喋れぬ 何と私が」

  「あの私、うんの通訳 息も合い 上手く喋れた 今は安堵に」

  「二ヶ国語 話せる人が 羨まし 俺など日本語 さえもタドタド」

  「俺の顔 俺の町など 輸出する そんな時代に 俺は生きてる」 

 

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