shin-1さんの日記

○追突事故

 それは一瞬の出来事でした。今日は東温市で開かれる緑の少年団の研修会に招かれ、会場を目指して県道伊予ー川内線を走り砥部町交差点に差し掛かった時です。いきなり後からRV車が私の車の後にドスーンと追突してきたのです。交差点近くの渋滞地帯なのでそんなにスピードを上げていない場所であるため、不幸中の幸いというべきか、車の後は大破しましたが外傷もなく直ちに眼鏡屋さんの駐車場近くに私の車と加害者の車を寄せて、ひとまず加害者が110番して事故の報告と事故処理を依頼しました。相手は砥部町の女性でしたが、訪問介護のヘルパーの仕事をしているらしく、急いでいたしわき見をしていたと私に平身低頭で謝りました。ことの重大さに動転して興奮気味でしたので、落ち着いて話すよう諭しました。私は講演が迫っていたし後が痛んだ車では会場へも行けず、妻の職場に電話してつい目と鼻の先にある車ハウス砥部という自動車屋に電話をしてもらいました。私の携帯電話中に救急車が前を通りかかったため、「事故に遭った」と告げると携帯に救急車のけたたましいサイレンが鳴ったため、妻の動転も大変なものでしたが、落ち着くように告げて電話を切りました。

 やがてパトカーと事故処理者が相次いで到着し、聞き取りと現場検証が始まりました。聞くところによるとこの方は最近離婚し車の任意保険もかけてないないようで、気丈に「全ての責任は私にあるのですから」といいつつも、お金のことが気になるようで、おっつけ来た修理やさんに「幾らぐらいいるのでしょうか」と陰で聞いていたようです。私は被害者なので警察の聞き取りも簡単でしたが、私の首筋が少し重たいようなのでとりあえず病院へ行くよう勧められました。病院へ行くと加害者は被害者に障害を与えた事になるので刑事罰は免れないと担当の警察官は厳しくいいました。こんな場合加害者が被害者になる事例は何処にでもあることなので、いっそ何処も悪くないと言いたかったのですが、もしムチ打ちにでもなっていたらそれこそ大変なので、ここはグッとこらえて病院へ行く事を相手に告げました。相手の方も是非そうして欲しいといわれたのですが、私はこれから講演をしなければならないし、加えて今日は週末の土曜日で講演が終わってからだと病院は何処も休診で、病院は月曜日も火曜日も予定が入っているので、2~3日後となってしまいそうなのです。まあ様子を見てみようと思っています。

 代車を借りて講演会場へ向かいましたが、警察官が到着する間と現場検証の間は炎天下で30分もの長い時間となって、汗でシャツもびっしょり汗をかいてしまいました。どうしようかと思いましたが、着替えも持たず、ましてや今日に限って財布も忘れてまさに女時の一日となってしまいました。

 近くのスーパーに飛び込みシャツとパンツを買って近くの温泉に飛び込んでさっとひと風呂、お陰様で汗臭い姿はさっぱりして会場入りしましたが、とんだハプニングでした。

 交通事故は他人事だといつも思っていました。ところが被害者ながら当事者になった気分は最悪です。現場検証を他人事として横目で見ながら通りすがる車の視線の何と冷たいことか、また知り人は私が加害者として事故を起こしたものと勘違いし、節目がちで気の毒そうに走り去って行きました。多分今晩あたりは「若松の進ちゃんは砥部の入り口付近で今朝事故を起こしていたようだ」と酒の肴になっていることでしょう。

 まあ何はともあれ加害者には悪いのですが私としては驚きの一日となりました。皆さんくれぐれも交通事故にはご用心。

  「知らぬ間に いきなりドーンと オカマされ 車痛んで 首筋ちょっと」

  「事故などは 他人事だと 思ってた 後ろに目がない どうにもならぬ」

  「加害者も 今頃被害者 なりにけり 自分言い分 言いたいけれど」

  「都合よく 修理屋近く 来てくれて 代車サービス お陰で間に合い」 

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shin-1さんの日記

○ここだけの話しだけど

 「ねえねえ、ここだけの話しだけど、人には絶対に言わないようにしてね」という言葉を耳にしながら相手から、内緒話を聞くことが時々あります。喋った本人も話を聞いた方も内緒話なので「絶対言ったら駄目」、「絶対言わない」と密約を交わすのですが、これが中々の曲者で言う方も「ここだけの話」には終わらず、言われる方は「言わないように」と言われたら言いたいのが人間の心情のようで、またたくまにそこら辺に広がって、震源地を調べてみると最初の二人だったりして唖然とすることがあるのです。

 先日もある人から「ここどけの話しだけど、あの人どうもガンらしい」という話を耳にしました。その話は近所では周知の事実で私も知っていた情報でした。健康診断でガンが見つかり病院に入院して胃の殆ど全てを除去しましたそうです。「ここだけの話」として聞いたその後、一時退院したものの思わしくなく再度入院したのですが別の場所に転移しているようなのです。普通こんな場合田舎の隣近所組内などは長年のコミュニティ付き合いから、相談して一緒に病院へ見舞いに行くのが慣わしで、うちそろって出かけました。あれ程太っていた体は痩せ細り、頭髪もコバルト治療の後遺症でしょうが全て抜け落ち毛糸の帽子が印象的でした。付き添っている奥さんの悲しみはいかばかりかと察しましたが、私たちはどうすることも出来ず「早く元気になってまた酒でも飲もうや」と話しかけました。ホスピスという言葉は知っていますが、この方も既にガンであることは本人に告知されていて、「もう帰れないかも知れない」と弱気な発言が目立ちました。お見舞いを渡し病院を後にしましたが、「ここどけの話」をした同行の人は、それ以来「ここだけの話」を盛んに吹聴しているようで、私は「余り人には言わない方がいいのでは」と釘を刺したほどです。

 実は8年前この人の「ここだけの話」によって私もガンにさせられてしまった苦い経験があるのです。「ねえねえ、ここだけの話しだけど若松の進ちゃんはどうもガンじゃとなあ」という話がまたたく間に町内に広がったのです。無理もありません。胆嚢の手術で入院し退院してから68キロあった体重が急激に55キロまで減って、痩せこけた風貌はガンと言われても不思議はないような体になっていました。私の耳には入らないのに何故か親類の人や友人が度々やって来て、それとはなしに病状やガンの進行状況を聞いたりするのです。「知らぬは本人ばかりなり」でした。

 一年後お喋りな人が私に「あんたガンじゃとなあ」と明けら様にいうのです。「誰がそんな事を言いよるの」と聞くと、「私はあの人から聞いたけど町民はみんな知っている」というのです。あの人とは、今回の言いふらし張本人のようでした。

 人の不幸は悲しいはずなのに、「言うたらいかん」という言葉から始まると尾ひれがついて面白おかしい噂話に変身します。「言うたらいかんと言われたのだが絶対言わないように」と広がる話は半分ぐらいにしておかないと、私のようにとんでもない方向に向かう危険性があります。くれぐれもご用心を・・・・・・・。

  「ここだけの 話と釘を さすけれど ここだけどんどん 広がる噂」

  「俺だって ガンだと噂 立てられて 余命いくばく ないと告げられ」

  「人の口 戸は立てられぬ 気をつけて あっという間に まるでマスコミ」

  「いるんだよ 人の不幸を 楽しんで 噂を流す 震源地人」

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shin-1さんの日記

○ロハスって何?

 最近は横文字が多くて私のような古い人間は一度聞いてもその意味すら分らず戸惑うことが多いようです。この歳になって「えっ、若松さんそれも知らないの」なんて言葉が聞かれそうなので聞くことも出来ず、メモして帰ってこっそりイミダスや広辞苑で調べるのですが、その調べた意味を忘れるなんてことはしょっちゅうなのです。

 先日まちづくり研修会に参加した帰りの車の中で「ロハス」という言葉を聞きました。聞いたことはあるし健康とか環境に関する言葉だとは分っていても、その正式な意味は分らず終いで、恥をかいてしまいました。その後調べるのを忘れていたのですが、今日偶然にもその言葉が読んでいる本の文中にあって早速読んでみました。

 ロハス(LOHAS)とは「健康と持続可能性」を大切にするアメリカ生まれのライフスタイル。ちなみに「持続可能性とは、「人間の行う様々な活動が将来にわたって健全に維持できるかどうか」という意味だそうです。最近に日本でもロハスへの関心が高まり、効率や便利さの追求よりも、健康的で地球環境に優しい「スローライフ」を重視する人が増えているそうです。時間に追われずマイペースでゆったりと自然と共生する暮しを楽しむことが出来たらこの上ない楽しみでしょう。

 ちなみにスローライフとは「伝統的な食材や食品などを守るために、1980年代にイタリアで始まったスルーフード運動がルーツで、このスローという言葉が後に「ゆったりと自然と共生する暮しという意味でも使われ始めたようです。

 私の暮しは2年前にリタイアし自由人になったのを機にスローライフになったりロハスになったような気がします。特に人間牧場の目指す精神はロハスそのものなのです。最近エコツーリズムという言葉も頻繁に耳にするようになってきました。エコツーリズムとは「旅行者が自然体験活動への参加を通じて地域の自然や文化を理解し、同時に環境保護や地域経済にも貢献するという旅行スタイルです。

 私の暮しはむしろエコツーリズムという旅行スタイルではなく暮らしそのものをロハスに近づけようとするものです。既にその拠点となる人間牧場には水平線の家やロケ風呂、ツリーハウス、農場も出来て日々の暮しに彩を添えているのです。

 団塊の世代の人がよく人間牧場にやって来ますが、その殆どの人が定年後はあなたのようなスローライフやロハスを楽しみたいと羨望の眼差しで私の話を聞いて帰って行きます。私の人生を21歳で4分割すると、21歳までは冒険の時代でした。次の21年、つまり42歳までは仕事の時代でした。そして次の21年、つまり63歳までは仕上げの時代だったように思います。さて今年63歳になる私のこれからの21年間、つまり概ね84歳まではロハスの時代と命名し迷うか。急激に変化する現代ですが、そんな時代だからこそスローな、そしてロハスな人生を楽しんで人生を終わりたいと思っています。

  「これまでは いい人生と 思います これから先は ロハスでありたい」

  「羨まし 誰もが俺に 言うセリフ 目標持った そんな生き方」

  「ナスとまと 消毒なしに 実ってる 安心安全 自分で作る」

  「健康は 日々の精進 積み重ね 金で買えない だから自分で」

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○カマキリとカエルの戦い

夏休みになったので孫がわが家にやって来ました。3日前に足が痛いといって病院に連れて行った時はどうなるかと思いました。明日病院へ連れて行って要観察の結果がよければよいのですが、当の本人はいたって元気でピョンピョン飛び跳ねています。

 来るなり虫かごと虫取り網を持って「おじいちゃん、虫取りに行こう」と誘うのです。午後2時頃の最も暑い頃だったので躊躇しましたが、孫は暑さもなんのその、麦藁帽子を被って庭のそこら辺を走り回って塀にしがみついているアマガエルを目敏く2匹見つけました。そして虫かごの中に入れてわが者顔で家の中へ持って入りました。

 その内私の書斎の大きな網戸にアオカマキリが飛んできて留まっているのが見つかり、私は孫にいわれてそっと手で捕まえカエルと同じ虫かごに入れたのです。するとどうでしょう。さっきまで静に虫かごに入っていたカエルが急にバタバタと動き始めたではありませんか。孫も虫かごの外から異様な雰囲気を察してか、「おじいちゃん、カエルとカマキリの戦いが始まる」と少し興奮気味に話すのです。

 カマキリは背中から尻尾に至る胴体を反らせて臨戦態勢にも見えましたし、右に左に動くカエルはカマキリの獲物のようにも見えました。

 やがてカマキリが逃げ惑うカエルを一匹、前足の鎌で捕まえたのです。それからは無残にもカエルは鎌で切り刻まれ血だらけになりました。「おじいちゃん、カエルが可哀想」と悲痛な声を上げた孫は顔を背けて別の部屋にいるお母さんのところへ泣きべそで助けを求めに行きました。私が気がついたときには時既に遅しで、カエルの体をカマキリは食べていました。私は無残にも食べられたカエルをカマキリの手から離すと同時に脅えているもう一匹のカエルを外に出して逃がしてやりました。カエルはそそくさと草むらに姿を消しましたが、カマキリは餌を食べた口と鎌に多少の血のりを付けて悠然としていました。

 孫に、「このカマキリも逃がしてやろうか」といったら孫は「いかん」といって言う事を聞きませんでした。私は孫に分るような優しい言葉でカマキリとカエルの模様を話してやりました。食べられたカエルが可哀想だったこと、カマキリはカエルのような小さい動物を食べて暮らしていることなどをしっかりフォローしてやりました。4歳の孫には理解し難い出来事でしょうし、食べられたカエルと食べたカマキリの勝者と負け者の関係は分らないようでした。これから孫は大きくなるにしたがってこうした出来事が目の前に現実のこととして見え隠れすることでしょうが、弱者の気持ちを大切にしながら確かな成長をして欲しいものです。

  「カマキリが カエルを食べる 姿見て 孫目をそむけ 悲し顔する」

  「初めての リアル体験 私さえ 驚き虫かご カエル外出す」

  「弱肉の カエル強食 カマキリに 食べられ家中 何時なく興奮」

  「さっきまで 賑やかだった 虫かごも カマキリ一匹 寂しく残り」 

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shin-1さんの日記

○夕日夕焼け物語

 今年も双海町内小学校3年生の児童全員が今日から3日間、潮風ふれあい公園で合宿をしています。今日は牛の峰という町のシンボルとでもいうべき山に登山したそうです。山頂までは10キロ近くの道程で、この暑さの中をテクテク歩いて登ったため、子どもも引率した先生もみんなヘトヘトのようでした。この道の途中にはメダカの学校があって、校長を務めていた川口さんが存命中は、何度となくこの道を通って環境問題を考える集会に出かけたりまちづくり人を案内したものです。また同じような所に若宮さんの立派な廃屋があって、その家を利用したフロンティア塾は10年で40回続き、その度に多くのまちづくり人とこの道を行ったりり来たりしたものです。初めて子どもたちの登山に同行した和田翠小学校長さんの話しだと、車道を歩いて登山したためかなりの時間を費やしたそうです。何年か前福本夏芽さんと魚見真理さんと私の三人でふるさとの名山登山を企画して、海抜ゼロメートルから歩く登山を企画して同じような道を辿って登ったことが懐かしく思い出されました。かつては山や谷の稜線を歩く一直線のような生活道や登山道がありましたが今はその道は荒れるに任せて歩けないということでした。ここにも過疎は廃村の憂き目が見え隠れしているようです。

 今日は合宿研修に参加している子どもたちに夕日の話をして欲しいと学校の先生から頼まれていました。ところがどういう訳か私の予定表には明日の夕方になっていたのです。前日の夕方担当の宮岡先生からお電話があった時も私はてっきりそう信じて予定を立てていました。

 今日は忙しい日で、午前中は生協の理事会に出席して午後1時から県庁で打ち合わせ会があり、午後3時からはホテル大和屋本店で肥料屋さん組合の総会で記念講演を頼まれていました。その後の夜のレセプションにも出席を予定していたのですが、妙に気になって翠小学校の山田教頭先生に電話で問い合わせたところ、私のミスと分り、急遽レセプション出席をキャンセルして急いで帰り事なきを得たのです。

 子どもたちを戸外に連れ出し、私が在任中に作った電柱を利用した長い長いベンチに座らせて美しい夕日を見ながらの夕日の話を話しました。登山で疲れている子どもたちに気を配り出来るだけ早く終わろうと約30分間お話をしました。今日の夕日はとても素晴らしいもので、もやがかかって残念ながらダルマの夕日とまではいきませんでしたが、ドラマチックに沈んで行きました。

 宮岡先生の配慮で子どもの質問に答える形での対話もありました。「なぜ夕日を使ってまちづくりをしようと思ったのですか?」屋、「双海の夕日は何処の朝日ですか?」などなど活発な意見が出されましたが、この夕日をオンリーワンに仕組んだ話を全て話すにはかなりの時間が必要なため、「昇る夕日でまちづくり」という自著本を読むよう勧めました。

 私はこれまで「夕日夕焼け物語」をどれ程の人に話したことでしょう。でもやっぱりふるさとの子どもたちに話すのが一番の楽しみです。この子どもたちの全てがこの町に残るとは思いませんが、ふるさとを離れてもきっと双海の夕日のことは忘れない思い出として心に残して欲しいと思うのです。

 ハーモニカで「赤トンボ」と「夕焼けこやけ」の2曲を吹きました。心に染みる音色でした。

  「この子らに 伝え遺せし 物語 夕日見ながら 郷学教え」

  「夕日など 何処にでもある 資源だと いわれ続けて 二十年経つ」

  「この夕日 どこか国では 朝日だと 思って見てる 不思議なるかな」

  「ハーモニカ 心に染みる 音がする 目で追う夕日 耳追う音色」

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shin-1さんの日記

○セミの一生

 夏休みになると町中が何処かしら賑やかになったような錯覚にとらわれます。子どもたちの声が聞こえるし、町外の知らない顔が海水浴などにやって来て町をわが者顔で闊歩するのです。もちろん人間ばかりでなくあちこちからはセミの鳴き声も賑やかに聞こえています。

 車でラジオを聴いていると、「子ども何でも電話相談」で面白い相談が寄せられているのも夏休みの特長です。「妖怪とお化けは何処が違うのでしょう」とか、「蛇は全部尻尾のようですが何処から何処までが尻尾ですか」とか、私たち大人でも答えられないような質問がどんどん出てきて、それに専門化がアドバイスを込めて答える話に思わず聞き入ってしまうほどです。

 今日松山の会議に出かけるため車に乗ってカーラジオをつけると、この番組でした。「○○君、今日の相談は何ですか?」。「セミは土の中で6年も暮らしているのに成虫になると僅か一週間の命だそうですがどうしてそんなに短いのですか」。普通だと「?・・・・・・・・?」で終わるのですが、「○○君はどうしてだと思う?」何て返されると子どもは「分りません」と即答するのです。

 回答した専門の先生の話しによるとクマゼミは卵1年、幼虫5年の計6年を土の中で過ごすのだそうです。外国には「13年セミ」と呼ばれるような13年間も土中過ごすセミもいるようで、一斉に羽化して木に止るとセミだらけになって木を枯らすことだってあるというのです。こんなに土の中で長く過ごすのに地上で羽化すると僅か一週間とは誰が考えても長すぎるのです。しかしこれはセミの一生という自然が決めたメカニズムなのでどうすることもできないのです。むしろその事を疑問に思うのは受精してから10月10日体内で過ごし、生まれてから80年も生きる人間の一生というメカニズムとの比較で短いとか長いとか言うのであって、セミの世界から考えると人間の一生も不思議といえば不思議なものなのです。多分セミの世界ででも夏休みになると電話相談があって、セミの子どもが「どうして人間は体内に10月10日いるだけなのに生まれてから80年も生きるのですか」何て質問をしているのかも知れません。

 セミを追いかけて遊んだ子ども時代が懐かしく思い出されますが、セミの命ははかないものだと知ってからはむやみにセミを取らなくなったような気がするのです。

 今日もセミたちは「夏が来たよ」と精一杯の力を振り絞って鳴いています。せめてその鳴き声をうるさいなんて思わずに夏の風物詩だと思って聞いてやろうではありませんか。

 週末には虫に請ってる孫がわが家に遊びにやって来ます。セミ取りもカブトムシ取りもねだらればやらなければなりませんが、せめてセミの話をしてやりたいものだと思いました。

  「セミが鳴く 僅か七日の 命にて せめて上手いと 褒めて聞きたし」

  「六年も 土の中にて 暮らすそう セミに生まれず 良かった胸を」

  「抜け殻の 一つにセミの 物語 木の葉止まって 何を語るや」

  「午後三時 暑さ倍増 セミの声 クーラーもなし ウチワ片手に」


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shin-1さんの日記

○徳島県上勝町を訪ねて

 東京から遠く離れた四国の地は、瀬戸内海を挟んでいるためか関東地方の人々にはかなり遠い地域といわれています。故に愛媛・香川・徳島・高知それぞれに地域を売り出そうと懸命なのですが、一向にその知名度は上がらず、東国原知事のパフォーマンスで一躍スターダムにのし上がった九州宮崎のことを考えると、四国は一つといいながらそれぞれバラバラな五十歩百歩を繰り返している四国四県を知恵のないやり方だと批判せざるを得ないのです。そんな実態なのにやれ道州制などと提案し、「わが県が一番」や「わが県に道州制の道州府を」と早くも駆け引きをしているのです。

 昨日徳島県上勝町を訪ねました。多分高速道路を利用しても私たちの町からは四国で最も遠い場所に位置する地域ではないかと思うのです。徳島市から高知県室戸岬に至る地域は高速道路もまだ未開通で列車も少なく公共交通がかなり遅れているのです。

 徳島県上勝町といえば今をときめく葉っぱでまちづくりの地域です。私の話にも度々登場する横石さんがリードする中山間地域なのです。私のと横石さんとの出会いは昨年2月24日に愛媛県松山市で開かれた「地域の自立とは何か」というテーマで開かれたシンポジウムでした。彩という第三セクターを興し、葉っぱを2億円も売っている会社の副社長さんなのです。飾らないがしっかりとした理論に裏打ちされた話は同じ舞台に立った馬路村の東谷さん、内子町の森本さん、私とともに会場の話題をさらったものです。同じ四国にいて四国をリードする横石さんの存在はお互いいい刺激を受けながら日々進化しているのです。

 横石さんから上勝町での講演依頼の電話があってから、その窓口は横石さんが指名した上野あやさんという女性とのやり取りになりました。微に入り細に入りかゆいところに手が届くような気配りを受けての上勝町行きとなりましたが、彼女は只者ではないと直感し、会場となる月ヶ谷温泉で始めて出合ってより一層その感を強くしました。彩という会社は役場の地下からこの点きの宿という温浴宿泊施設の4階に移転をしていましたが、この会社の事務所はバルコニーを活用して中々お洒落な造りとなっていていい雰囲気でした。

 横石さんのご配慮で閉庁間際の役場に町長さんを表敬で訪ねました。環境などに造詣の深い町長さんとは聞いていましたが、初めてお目にかかり短い時間ながら行政の考えを色々聞かせてもらいました。先日内子で開かれた環境会議にも来られていましたが、ミスマッチで案内を受けながら出会うことが出来ませんでしたので、いい機会を作っていただいたと感謝しています。

 町長さんがいきなり夕礼で役場の人に話して欲しいと言われました。どの町も朝礼は聞いたことがありますが、夕礼をここまできちんとしている町村は珍しいと思い請われるままに乗ってしまいました。僅か数分でしたが「役場の常識と非常識」の話をしました。役場で上常識と思っていることが住民からすると非常識なことが多いのです。多分「このよそ者が何を言うか」と怒り心頭に達した方も多いと思いますが、町長さんの急なご指名に応えれたかどうか心配をしています。

(この方が笠松和市町長さんです。凄い人です)

(町長さんと横石さんが町をリードしています)



(会場の雰囲気も最高でした)

 さて夜の集会は会場がいっぱいになりました。えひめ地域政策研究センターが製作した私のプロモーションビデを出囃子に入場するという粋な計らいも横石さんと上野さんのアイディアだと思いますが、少々赤面ながらの90分を面白おかしく話しました。私の町のじゃこ天のおばちゃんに匹敵するほどの楽しいおばちゃんやおじさんが沢山詰めかけ、打てば響く大反響で、講演会に続いての立食パーティでも多いに盛り上がりました。それにしても月ヶ谷温泉の料理長の料理のバリエーションの多さにも目を見張りました。地元の食材の特長を余すところなく生かした料理に、ついつい食べ過ぎてしまいました。満員・満足・満腹・満願・満笑でした。

 明くる日の予定が入っているため9時ごろ、横石さんに見送られ会場を後に一路帰路につきましたが、月の灯りに照らされた月ヶ谷温泉のほのぼのとした印象は私の心に大きな思い出として残りました。シーユーアゲインです。

  「訪ね来し これが噂の 上勝町 葉っぱを売って 二億円とは」

  「葉っぱなら おらの町にも あるはずだ だけどあるだけ それがどうした」

  「葉っぱ売る 狐の世界と 冷やかせば 夕日なんぞは もっと馬鹿げて」

  「イメージを 膨らませたる 人に会う 予想以上の 才媛びっくり」


 

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shin-1さんの日記

○戻ってきた忘れ傘

 えひめ地域政策研究センターの松本さんから徳島県上勝町へ行く途中に携帯電話がかかってきました。運転中に携帯電話を使って違反切符を切られた経験があるので一旦電話を切り、つるぎ町の道の駅まで走り、そこから再び電話をかけました。松本さんは舞たうんの取材で馬路村へ行っていて、何故か電話の向こうで馬路村の木下課長さんの声が聞こえるのです。先日傘の忘れ物についてブログで書いていた文章を読んでいたものですから傘の話題となり、結局は私の傘を松本さんの便で届けるということでした。

 今日は娘の子どもが昨晩から足が痛いというので、テレビ局の取材の時間を変更してもらい、孫を病院まで診察に連れてゆかなければならないことになりました。足が痛いだけで身体はいたって元気な孫の病気見舞いにカブトムシを一匹求めて持参しましたら、孫は大喜びで足の痛さなど何処吹く風のようでした。それでも近所の整形病院に診察に連れて行って看てもらいました。詳しいことは説明を受けても医学用語なのでよく分りませんが、4歳から7歳くらいの子どもがよくかかる病気のようで、少し様子を見ましょうということで飲み薬と湿布薬をいただいて分る範囲で娘に病状を説明、今週の土曜日に再び病院に診察に行くよう促しました。私の子どもも子どもの頃よく足が痛いという症状を聞いたものです。子どもの体の成長と骨の成長バランスが崩れたための痛みくらいな軽い気持ちでいましたが、将来のある孫ですからお医者さんの指示にしたがって早く元気になる事を祈りました。

 帰りにえひめ地域政策研究センターへ立ち寄り松本さんと面談しました。木下さんから預かった忘れ物の傘を松本さんから受け取りましたが、色々な旅の遍歴を経てわが手元に帰ってき忘れ物の傘に出会うのは約一ヶ月ぶりのことなのですが、とてもいとおしい感じがしました。

 使い捨ての時代にあって「傘一本くらいで何でそんなに騒ぐのか」といわれそうですが、物を大切にする私にとっては大きな収穫なのです。帰宅して妻にその傘を見せると「お父さんよかったね」とまるで子どもを褒めるような感じでした。付け加えた言葉も「これを大木流しの木っ端拾いというのでしょう」と冷やかされました。傘のような小さな物を大事にする余りに大きなお金の不始末のある人のことなのですが、「私は違う」と不機嫌そうに言い返してやりました。

 皮肉なもので、愛用の傘が手元に戻るのを見透かしたように四国地方は梅雨明けで、傘を使うのは当分向こうになりそうな雲行きで、今日は最高気温が35度にもなると朝の天気予報で言っていました。

  「忘れてた 傘が手元に 戻るとは 指名手配も してみるものだ」

  「世の中は 使い捨てたる 物多く 勿体ないの 言葉聞かれず」

  「傘一本 旅に出たのは いいけれど 主人忘れて 俺は一人身」

  「雨多い 魚梁瀬の里の 水吸いて 四国山脈 行ったり来たり」

 

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shin-1さんの日記

○今年の雨三題

 ・梅雨明け

 気象庁から昨日やっと四国地方に梅雨明け宣言が出ました。最近は毎日の天気予報で訓練が出来ているのか、私たち凡人でも梅雨明け宣言できそうな雰囲気で、昨日などは「今朝の気圧配置だと今日ぐらいに梅雨明けかもしれない」とか、「梅雨前線が日本海に北上したし、雷も鳴ったのでいよいよ梅雨明け」なんて言葉を随分聞きました。今年の梅雨は水不足という一点に絞って考えれば、「恵みの雨」でした。私たちの町は全てが簡易水道で水不足を表現するデーターはありませんが、松山の石手川ダムや今治の玉川ダムなどは水位が低く、近年にない水不足で梅雨前から取水制限が出されていました。しかし何度かの大雨や台風4号のお陰でダムは、100%の満水状態となって梅雨明けを迎えたのです。人間とは勝手なもので水不足の時は水のありがたさを痛感し節水に努めるのに、一旦水を確保すると強気な態度に変ります。我慢していた洗車も小まめとなり、庭に散水までして涼を求めるのです。今年は水不足でプールの閉店かと思われましたが、夏の話題は海よりも気軽で気楽なプールを利用する人が増えているようです。それでも今年の梅雨明けは水不足の心配がない梅雨明けですからいい気持ちで迎えられました。

 ・アジサイの花

 ふたみ潮風ふれあい公園には千本を越えるアジサイが植えられています。私が役場に勤めていた頃この公園の建設計画を担当しました。公園のメインの花を何にするか随分悩みましたが、ツツジとアジサイに決めました。ツツジはある大手業者が花産業から撤退するとの情報を得て、殆どタダ同然で分けてもらい、宿泊施設の周辺に沢山植栽しました。またアジサイは花期が約1ヶ月と長いことから千人塚という池の周辺や草スキー場周辺に千本ものアジサイを植栽し、花の会の人たちのお世話を得て今日を迎えています、今ではそれらが大きくなって、先日ある女性から「双海町のアジサイを見に行きました。とても綺麗でした」と絵手紙に添えたお便りを頂きました。このアジサイは現職中に構想した「花の小路運動」の一貫で、双海町には「すいせんの小路」「菜の花の小路」「芙蓉の小路」「アジサイの小路」「ツツジの小路」「ツワブキの小路」が出来上がり、愛媛の花の風物詩としてすっかり有名になり、多くの観光客を呼び寄せているのです。「花作り10年」(私の勝手なネーミング)といわれるように花作りは息の長い仕事です。美しいまちづくりは美しい心がなければ育ちません。まちづくり20年の成果はまちが綺麗になったことでしょう。今年初めてアジサイを一市民として見学に行きました。とても美しいアジサイが雨に濡れて優しく咲いていました。

 ・傘の忘れ物

 数日前のブログに旅のお供の傘や馬路村に忘れた傘の話を書きましたら、早速何人かの方からメールをいただきました。日本の忘れ物でダントツに多いのは雨傘だそうです。番傘の時代に育った私たちにとって傘は貴重品だし、雨の降るとき傘を持たず濡れた記憶は多いものです。私の家の隣は傘の製造工場ですが、夫婦の病気と寄る年波で製造を大幅に縮小しているようで寂しい限りです。私の叔母の家なので時々その作業風景を見る機会がありますが、傘にもピンからキリまであって、高級品は何万円もするのだそうで、その幾つかを見せてもらいましたが、傘を広げた姿は何とも絵になる光景だし、高級品を造る技術は技や匠と呼ぶに相応しいもののようでした。

 傘はなくして初めてそのありがたさが分ります。馬路村に忘れた傘の行方が気になります。馬路村役場の木下課長さんからは「傘を忘れたそうですが、傘を捜しに馬路村へ来るというのは如何ですか」と挑戦的なメールです。さて私の忘れた雨傘は今頃どんな場所で、どんな運命を辿ろうとしているのでしょう。

 今日は徳島県上勝町の横石さんに頼まれて講演に行きます。くれぐれも傘を忘れないように、今日は梅雨明けの上天気なので傘は持って行きませんので忘れるはずがありません。

  「俺の傘 今頃どうして いるのやら 恋しい思い 忘れた故に」

  「傘を差し アジサイ花を 愛でながら 公園計画 作りし日々を」

  「雨のつく 言葉数々 梅雨や慈雨 五月雨小雨 氷雨霧雨」

  「水不足 解消なりて 梅雨が明け 夏の野菜も 元気もりもり」 

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○家の周りの草刈り

 先日広島へ講演に出かけました。船着場から講演先までは行くのには、安上がりな路面電車で旅路をつないで行くのです。僅か150円なのに紙屋町のバスセンターや新幹線口まで連れて行ってくれる路面電車は金額といいCO2といい最高の乗り物です。でもたまに乗るタクシーも世間の話が聞けて何となく広島通になったような錯覚にもなるのです。私「運転手さん景気はどう」。運転手「あきませんねえ。1ヵ月このように一生懸命働いても15万円を越えることは余りありませんねえ」。私「ほう、大変ですねえ」。運転手「今は規制緩和とかでタクシーの数が増えて、自家用車が増えて、ええことありません」。私「月15万円では家族を養うのは大変でしょうねえ」。運転手「だからかどうかは分りませんが、広島の運転手さんは意外と一人身の人が多いんですよ」。私「ほう、それはまたどうしてですか」。「だってこのくらいのお金では家族は養えませんからねえ」。私「フーン」と、会話は続くのです。

 私「ところで広島では選挙はどうなっていますか」。運転手「政治家も悪いですね。選挙の時だけお国に帰ってペコペコされても誰が信じますか。政治家は嘘つきでないと大成しないようになっているのです」。私「年金問題や格差問題はいかがですか」。運転手「年金も格差も所詮政治家が自分たちの政党を躍進させていく道具にしか過ぎません。私たち国民なんかのことは選挙が終わるまでの美辞麗句ですよ」。私「・・・・・・・」。

 私「ところで宇品の港周辺は来る度に風景が変るほど発展していますね」。運転手「そりゃあそうですよ。このあたりはマンションブームでマンションが完成すると2~3千人もの人が住むそうです。2~3千人といえば小さな村がそっくり出来る事になるのです」。私「こんなに造って売れるのでしょうか」。運転手「売れないマンションを造る様な馬鹿はいませんから売れるのではないですか」。私「そうでしょうなあ」。

 「最近は広島も随分様変わりし始めました。何年か前までは郊外の山を切り崩して造成したニュータウンのような所へ一戸建ての家を求める人が多かったのですが、今はそんな田舎を売り払って便利なマンションへ移り住む人が次第に増えているそうです。私の近所でも町内会の付き合いや庭木の手入れが嫌で住み慣れた場所を離れてゆくケースが目立っています。歳をとっての異動は寂しい気もしますが、車に乗れなくなったり連れ添いがなくなった老後の事を考えるとやはり買い物や医者に行くのに便利なところが必要になって来るのです」と、意味深い話をしてくれました。

 車の中で聞いた話はとても参考になる話しでした。さすが相手持ちながら高い金を払って乗っただけのことはあるものだと感心しきりでした。

 今日は午後から家の周りの草刈りをしました。660坪もある広い家を今は親父が主で私がたまにお手伝い程度の管理をしています。さすがに90歳の坂を下る親父にとって草の手入れは毎年私の方に軸足がかわりつつあるようです。さてこれから25年のわが人生、この家の管理をどうするのか、息子の作業能力を勘案しながら考える時代が来たような気がする今日この頃です。

  「親父から 間もなく引き継ぐ 家管理 こうも広いと 気持ち重たく」

  「タクシーの 運ちゃんさすが 評論家 知識あっても 知恵は回らず」

  「意外だね 運ちゃんひとり身 多いそう 収入合わせて 生き方決める」

  「マンションを 好む理由が 見えてきた 楽な生活 したいからかも」 

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