shin-1さんの日記

○講演会を3倍理解するための情報リスト

 一昨日、県立図書館で開かれた「えひめ仕掛け人を巡るTour」という集会に出席しました。かつてはこの図書館内にフィルムライブラリーがあったり、巡回図書館の拠点であったりしたものですから、仕事柄随分と足繁く通ったものです。加えて博物館と歴史資料館も併設されていたため、資料の貸借のためトラックで乗り付けもしました。しかしここ数年は近くにある美術館やNHK、市民会館などには訪れても私の記憶の中から完全に姿を消していました。色々な県立施設がリニュアールされたり新設されたりしているにもかかわらず、図書館相変わらずの出で立ちで、かえって私の記憶とのギャップもなく新鮮な懐かしさを覚えるのもおかしな話です。

 普通図書館といえば蔵書をこれ見よがしに展示し、インターネットや雑誌類でコーディネートしているのが現代風なのですが、この施設は古いためそんな風景には出会えないばかりか、玄関に入っても「えっ、これが図書館?」てな感じで、図書館の趣きとはまったく違うのです。

 この日も2階の会議室で集会を開くというので、「また無料の会議室をよく探し当てたな」なんて半信半疑で出かけたものです。少し早かったので事務所前で右往左往していると、事務所の中で事務をとっていた職員さんと偶然にも目が合い、面識があったため中へ通されました。「今日はご苦労様」と声をかけられお茶まで出てきて二重の驚きです。聞くところによるとこの日の集会には図書館も一枚加わっていて、私がこの集会で話をすることも当然知っていたのです。

 事前にいただいた図書館作成の資料でまたまたびっくりです。「愛媛県立図書館は仕事に役立つ図書館を目指します」と控え目に書いた下には、1仕事に役立つ資料を提供します。2司書がご相談に応じます。3専門機関を紹介します。などと書かれ、図書や雑誌記事WEBまでA4裏表に私の書いたり載ったりしたものがズラズラとまあこと細かに紹介しているのです。

 【図書】では「若松進一さんの著作」で、町に吹く風、今やれる青春、昇る夕日でまちづくり、「若松進一さんが登場する資料」で、ニッポンの課長、えひめ地域づくり人100人、地域づくり活動のススメ2001。【雑誌記事】では、「若者とまちづくり(連載)」81(04.07)若者とたまり場、82(04.10)若者の発想と行動、83(05.01)若者と人づくり、84(05.04)大学生とまちづくり、85(05.07)ハガキが結ぶネットワーク、86(05.10)大学生が調べたまちの姿、87(06.01)大学生が考えた住みたいまちの条件と訪ねたいまちの条件、88(06.04)石垣島の若者たち、90(06.10)新しいまちづくりのかたち、91(07.01)手に入れたい四つの道具、92(07.04)ある若者との出会い。「あなたはどんな社会教育主事を目指しますか『社会教育』。「県立図書館に所蔵していない雑誌の最近の記事」で、地方議会人、ベンチャー通信、地上、月間レジャー産業、【WEB】で、若松進一NET、観光カリスマ百選(国土交通省)などなど多彩に紹介されているのです。

 インターネットの時代ですから、これぐらいなことは調べられると思うのですが、それにしても集会に先立ちこれらを羅列的に調べ、しかも会場の後にそれらの図書類をしっかりと展示しているのです。自分でも忘れているし、その所在さえも分らないものまであるのに、まあ凄いです。

 私はあらためて思いました。これこそ新しい時代に対応した図書館のあり方だと・・・・・。蔵書数を競ったり貸し出し数を競うことも大事ですが、どう生かされたかが問われるならば、今回の集会は私の話を聞くこと以上に事前準備として100%の条件整備がなされた事になるのです。私の心に強い衝撃波を投げかけた愛媛県立図書館の清水館長補佐や天野司書にブログを通じてお礼を言いたいと思います。

  「図書館の 機能が変る 新時代 衝撃波受け 新たな火種」

  「私でも こんなに書いて いるのかと 改め思う リストマジマジ」

  「文字残す それくらいしか 出来ぬ俺 これから先も 書いて遺すか」

  「県立の 図書館久し 懐かしや 日課のように 通った昔」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○善十郎の言葉(民俗学者宮本常一の父)

 大正12年4月18日、故郷の人々に見送られて島を離れるとき、善十郎は宮本に向かってこれだけは忘れないようにせよと、十ヶ条のメモを取らせた。それは次のようなものだった。(佐野眞一著「旅する巨人」より)

 ①汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているのか、育ちが良いか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺か、そういうところをよく見よ。

 駅に着いたら乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるのか貧しいか、よく働くところかそうでないかところがよくわかる。

 ②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。

 ③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮しの高さがわかるものだ。

 ④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろなことを教えられる。

 ⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのは難しい。それだけは忘れぬように。

 ⑥私はお前を思うように勉強させることはできない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではお前を勘当したつもりでいる。しかし三十を過ぎたら親のあることを思い出せ。

 ⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。

 ⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

 ⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。

 ⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかりあるいていくことだ。

 高等教育を受けたわけでもない父が、どうしてこれだけの教訓を垂れることができたか、宮本には不思議だったが、旅の暮らしの中で身につけた父なりの人生訓らしいことは、子供心ににもぼんやりわかった。

 先日「旅する巨人」の著者である佐野眞一さんの話を周防大島で聞く機会を得ました。宮本常一生誕100年の記念行事でのことですが、善十郎の言葉である10ヶ条はおぼろげながらのメモだったため、人間牧場水平線の家の蔵書の中から彼の著書である「旅する巨人」を取り出し、背もたれ椅子に座ってしっかりと読みふけりました。そして24・25ページにわたって書いてある善十郎の言葉を抜き書きして見たのです。

 不思議な事に今年90歳になる私の父親も、私が宇和島水産高等学校へ遊学する時、また体調を崩し漁師から役場に転職する時、同じような意味の言葉を私に垂れているのです。文字にてメモこそしなかったのですが親父の言葉は大陸への戦争出征や、県外出漁で僅か5トンの船にて三宅島辺りまで漕ぎ出した、そして12人兄弟の長男として生まれ人生の辛酸をなめ尽した人間の言葉として私の心に深く刻み込まれ、後の私の生き方に多くの示唆を与えてくれたように思うのです。その内「善十郎の10ヶ条」ならぬ「進むの10か条」もまとめてみたいと思いました。

  「勉強も せぬにどうして このような 言葉残すか 昔の親父」

  「どの言葉 ひとつ取っても 味のある 転ばぬ先の 杖と心得」

  「わが親父 さえもわが子に このような 言葉伝えて 戒めおりし」

  「家訓など 要らぬわ俺の 生き様で 十分思い 息子育てし」? 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○衣替えした書斎

 人間牧場に水平線の家が完成し、その部屋の中にとびきり広い書棚を作って、本の山に埋まって暮らしていた書斎からその本を引越しさせてからは、多少ゆとりの出来たように見えた書斎でしたが、色々な道具類がそのままで何とかしなければと思っていました。しかしそんな時間的なゆとりもなく日々を過ごしていましたが、パソコンの操作で何かと指導してくれる長男に相談したところ息子もそのことを思っていたようで、いきなり長男がメージャーで寸法を計り始め巾の広い机をインターネットで注文してくれました。数日前東京から帰ってみると注文した机は明くる日に届いていて、仕業の速さにただただ驚くばかりでした。一昨日居合わせた次男が手伝ってくれて組み立て古い机を倉庫に移動させて設置しました。巾70センチ長さ1メートル40センチの真新しい白い木目基調の机は狭い書斎に眩しく映えて存在感を誇示しているようです。早速パソコン類をつなぎ変え、父の日にプレゼントしてもらいながらまだ箱入りのままだったプリンターも取り出して脇机の上に設置しました。夕方長男夫婦が来たのでプリンターの初期操作をしてもらい、私の身の回りの情報化環境は充実の一途を辿っています。さてこれらの機器を使いこなせるようになるにはどのくらいの日数が必要なのか、側に置いた操作ガイドブックを眺めながら思案している所です。長男の話によるとこのプリンターは中々の優れもので、かなりの機能がついているそうですが、私にはまだ猫に小判の状態なのです。

(書斎風からオフィス風に変身した私の居部屋、机一つでこうも雰囲気が変るものなのでしょうか。巾70センチ、長さ140センチもある白くて広い机は中々お洒落な感覚です)

 さて真新しい白い机に向かって今朝から仕事といえるかどうか分らない仕事を始めました。まだ椅子を買う資金がないので、古い椅子を使っていますが、裏庭に面した書斎からは白い机越し、窓越しに庭の様子が一望できるのです。しかしこのところの忙しさで草が伸び放題になっており、野趣はあるのですが美観を損ねているので少し草取りでもしなければと思っています。

 机の上にはパソコン以外何も置かないよう努力するつもりですが、始末の悪い私ですから愛読書など何かにつけて置くものと思われます。でも机を入れた今日の誓いとして整理整頓に心がけたいものです。

 机が変ると人間の心理まで変るのか、不思議なもので考えまで何かすっきりしたような気分になります。今朝からは頼まれている雑誌の原稿書きに早速取りかかりました。締め切りが近いあせりもあって、中々書く気になれなかったのに、今朝はスラスラ書き上がってメールに添付して送ってしまいました。

 私は日々の暮らしの中で、外に出ていない限りは居間とこの書斎で殆どの時間を過ごします。私にとって書斎は発想の場であり憩いの場でもあるのです。これまで無頓着で住空間の持つ意味など考えたこともありませんでしたが、今回の書斎の衣替えはこれまでの発想と決別するいい機会になったことはいうまでもありません。この際古くて使わなくなった、この一年目を通さなかったペーパー資料も思い切って捨てようと思っています。側に置くだけで安心していた資料の数々も、あるが故にそこから抜け出せないものだっていっぱいあるのです。整理整頓の基本、発想の基本は捨てたり壊すことから始めないと何も変らないのです。

  「新しき 白い机を 前にして 締め切り迫る 原稿書き上げ」

  「何かしら 分らぬパワー みなぎって 仕事はかどる 書斎変身」

  「今日男時 朝からついて つきまくる 宝くじでも 買えばよかった」

  「机越し 見える風景 変化して やけに気になる 雑草の庭」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○忙中閑有り

 一昨日えひめ地域政策研究センターの所長さんと愛媛県庁市町振興課長さんたち数人が人間牧場に見えられました。今のところ人間牧場への来訪希望者が沢山いて順番待ちの状態なので、お二人ご一行の来訪も私のスケジュールに合わせて、少年少女おもしろ教室が終わった直後となってしまいました。加えて孫の子守りが引っ付いてしまい、大変な迷惑をかけてしまいました。

 この日の天気は晴れて遠望がよく、道後平野まで一望でき、ベストコンディションではないにしてもまあまあの状態でした。車を上の道に止めて歩いての人間牧場入りだったため、午後2時の炎天下移動は大変だったのではないかと推測します。東京から愛媛県庁に出向して来ている課長さんにとって、この人間牧場や水平線の家などがどのように目に映ったのか聞きたい気持ちもありました。

 水平線の家に入った課長さんは、「いかがですか?」という私に促された質問に「想像以上です」と美辞を送ってくれました。特に自慢の特注窓を開けて見える眺望に「窓越しの風景はよく見るのですが、ここは直接見えて贅沢ですね」と、日ごろ何気なく見ていると気付かない特長をズバリ表現してもらいました。

 この日人間牧場では地域づくりをめぐる様々な問題について意見を出し合いましたが、県内の地域づくりも平成の大合併によってすっかり様変わりし、特に私たちのような田舎では過疎と高齢化、それに少子化が同時に進行して限界集落が出来るなど暗雲が立ち込めています。加えて自治体の行政が参画と協働といいながら、中々上手く行かないのが実情です。格差社会といわれる経済格差もどんどん広がっていますが、県政の責任ある人がこうして地方に足を運び地域の実情を肌で感じることは大切なことだと実感しました。

 求心力と遠心力という言葉があります。合併後の行政と地域の在り方はおおよそこの二つの言葉に集約されるようです。行政が効果効率の名の元に支所や出先を切り捨て始めました。合併のメリットは効果効率ですから権力と情報、それに財政や頭脳を集中することはそれも仕方のないことかも知れませんが、それのみで求心力は出来るはずがありません。それでなくても合併時に約束した様々な計画がホゴにされ求心力が低下しつつあるとの嘆き節を聞く度に、無意味な集中は求心力を低下させて行くのです。確かなビジョンに基づいた行政なくして求心力は生まれないのです。

 一方行政には遠心力も必要です。50年間も育ててきた旧市町村のまちづくりはこの二年で完全に崩れ去りました。それは調和と言う名の元に個性をなくした行政をやっている結果かも知れません。内から外に向かって遠心力が働かなければ市民は救われません。集落も学校も将来への限りない不安を抱えて暮らしています。市民の不安を取り除き安心して暮らせる社会を実現することは大きな行政の役割なのです。このところ何処のまちでも小学校の統廃合問題が取りざたされています。私の持論ですが小学校はやはり歩いて行ける距離を基本原則にしなければならないのではないでしょうか。学校が消える、地域が消える、こうして住む人絶えた地域を日本の各地を旅して幾つも見てきました。

 来年愛媛県で第26回地域づくり団体全国研修交流会が持たれる予定です。南予を中心として幾つかのまちで分科会が開かれるこの研修会に全国から多くの人がやって来ることでしょう。少なくても全国の人のお目当ては地域資源を活かしながら生き生きと輝いて活動している人々との交流です。前年度の会場は愛知県でした。今年度の会場は茨城県だそうですが、好景気に沸く愛知県や首都圏に近い茨城県から構造不況にあえぐ愛媛県に受け継ぐなんて勝ち組と負け組みのバトンリレー構図ではいい研修会にはなりません。愛媛県らしい活動を全国の人々に自慢して見せるような力強い気概を持ちたいものです。皆さんの奮起を大いに期待しましょう。

  「瀬戸内の 眺望体感 贅沢だ 東京人は 粋な表現」

  「力には 遠心求心 二つあり どちらも大事 信頼あれば」

  「小学校 何故に減すのか 分らない 教育再生 唱えしつつも」

  「県庁の 課長も孫にゃ 形無しで ザリガニ書けと メモ紙渡す」   

 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○田所さんの一筆出版祝賀会

 私の知人・友人には色々な人がいます。話術の上手い人、不言実行を是としてただ黙々と働く人、財も名声もある人、政治家、未来に開花しそうな人など様々です。でも人間は不思議な事に全て整った人は少ないようで、字の上手い人が話し下手だったり、運動の得意な人が学習はからっきしだったりする所に人間の魅力が隠されているのです。事実かく言う私も書けて喋れて実践できる人を理想としてこの40年来精進し続けているにもかかわらず未だ道半ばだし、多分理想と現実のギャップを感じながら人生を終わるのではないかと思ったりしています。

 田所さんという愛媛県町村会事務局長を長らく勤めた方がいます。町村職員だった故にひょんなことから知り合いましたが、以来長年にわたってつかず離れずの交友を温めてきました。町村長を相手にする仕事なので黒子に徹することは当たり前なのでしょうが、その苦労を垣間見せることもなくそれでいて信念を持って対応している「静的な生き方」に、どちらかというと「動的生き方」をしている私は憧れ、引かれてきました。

 彼は長年にわたって町村会報コラムに「一筆」という題で短文を書き綴ってきました。私も何度かその文章を会報の隅に見つけて読んだり、時には切り抜いて利用したことを覚えています。それは愛媛新聞の地軸であったり、朝日新聞の天声人語であったり、読売新聞の編集手帳であったりと同じような時評なのですが、愛媛というローカルな視点から日本という狭いながらもグローバルな視点で物事を見つめているところに特長があるようです。私もかつて町の教育委員会に13年間在任中、月2回の広報を10年間担当し240号の広報を一人で書きました。その中に「こちら編集局」というタイトルでコラムを書き続けました。昭和45年に人事異動で産業課に異動した折、町長の許しを得てその一部を「町に吹く風」という一冊の本にまとめて出版した経験があるのです。

 その幾つかの中には拙文で消してしまいたいような文章や、痛烈に内部告発をして物議をかもした記事なども何本かありましたが、これも自分の不徳の致すところとあきらめて、今も240号全てをフォルダーに入れ大切に保管しているのです。

 数日前「一筆」という田所さんの分厚い本が私の元へ送られてきました。既に第一線を退いている私にまでも気配りをしてくれたのです。多分歴史の生き証人として市町村をリードして来られた町村長さんの元へも届けられたのでしょうが、私は人間牧場へその本を運び一気に読み上げました。多分人間牧場の水平線の家の蔵書となっているので、来訪人の目に触れ立ち読み程度に読まれることでしょうが、長年続けて書いた折々の想いだけに役に立つものと思われます。

 昨日午後5時から全日空ホテルで開かれた出版記念祝賀会には、100人を越える名士や知人友人が集まっていました。私もその末席を汚しましたが顔見知りの古顔の町村長さんも数多くいて懐かしく面談しました。

 田所さんには私の「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティにも出席をしていただいているので、少しだけ気が楽になりました。

 祝賀会の発起人を代表して白石松前町長さんが開会のあいさつをしました。祝辞は吉野内副知事さんと宇都宮元宇和町長さん、乾杯は教育長さんでした。

(開会あいさつをする白石松前町長さん)

(壇上に上がった方々)

(この日主役の田所さん)
(万歳三唱の玉水久万高原町長さん)

 続いて花束や記念品が贈られ田所さんが神妙な面持ちでお礼のあいさつをされ2時間の談笑が始まりました。

最後は玉水久万高原町の万歳と白石前事務局長の挨拶で締められましたが、早くに奥さんを亡くされたため内助の功には触れられることもありませんでしたが、この「一筆」は奥さんの墓前に供えてあげたいような心境でした。「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな馬肥やせ」は、徳川の家臣福井県丸岡城の城主本多氏が戦場から妻に送った日本一短い名文手紙です。天国の奥さんに田所さんはどんな手紙を送るのでしょうか。

  「消しゴムで 消せない文章 まとめ本 自分の昔 見ているようで」

  「あの人も 歳をとったと 思いつつ 聞き入る声は 昔そのまま」

  「あの人は 元気だろうか 消息を 聞かれて不義理 ハッと気がつく」

  「合併で 一つの時代 幕を引く 馴染みの顔も 見られなくなり」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二十年ぶりに泳ぎました

 町の名前に海という字があるほど海の町なのに、何故かこの20年間に1回も泳いだことがないのですから不思議と言えば不思議な話です。しかも県下屈指の海水浴場であるふたみシーサイド公園を造った張本人なのにです。まあ昔から紺屋の白袴というように、ご本家とはそういうものなのでしょう。

 今日は今年の夏、足が痛くて病院通いして海水浴を止められていた孫に病院からお許しが出たので、午前10時にシーサイド公園へトラックで出かけました。ところが駐車場は午前中だというのに砂浜サッカーのイベントをやったり海水浴で早くも満車でまったく止めれないとのこと、仕方がないので役場裏の駐車場まで引き返して駐車、暑い夏の日差しが照りつける中を孫と二人で歩いて砂浜まで行きました。

(浮き輪を持った格好は一人前、海水浴は半人前の孫朋樹)

 今年初めての海水浴なので孫は今朝までとても楽しみにしていました。ところがいざ海に来るとさっきまでのはしゃぎようとはまったく別人のような雰囲気で、海水の中へ入るのをためらっていました。私は孫を浮き袋に入れゆっくりと海水につけてやりました。そしてその浮き袋の紐を引っ張って400メートルの砂浜の沖合い3メートルくらいな場所を移動しました。最初は怖がっていた孫も次第に水に馴れて海面に浮かんでいるクラゲや海草を掴みがら海水浴とはいい難い慰みをしました。それでも小1時間砂浜で池を掘って遊んだり、渚で泳ぐポーズをとらせたりしながら遊びました。

(さっそうと海を散策するように見えますがまだ恐る恐るです。手にはくらげを串刺しにして遊んでいます)
(どうです双海の海は綺麗でしょう。白い砂浜、透き通る渚、絵になる光景なのに何故か孫朋樹の遊泳はこの程度です)

 今日は天候もよく土曜日とあってかなりの海水浴客が泳いでいました。同じ年齢くらいの子どもはみんなまちまちで腕白そうな子どもは泳ぎ、少しおとなしそうな子どもは水遊びといったところでしょう。突然前にいた子どもの浮き輪が何かの弾みではずれ、小学一年生くらいと思うのですがゴボゴボと海中に沈んでゆきました。人の子どもであるけれど傍にいた夫婦は子どもの存在に気付かずビーチパラソルの下でビールを飲みながら談笑していました。私はとっさに持っていた孫の浮き輪を外して麦藁帽子を海面に脱ぎ捨てたままその子を助けに海中に入りました。海面に上がった子どもはいきなり大きな声で泣き叫ぶのです。その声を聞いてお父さんも海中に駆けつけましたが、「すみません有難うございました」とお礼を言いつつ、溺れかけた息子を叱っていました。子どもが悪いのではなく子どもを見ていなかった親が悪いと思ったので、「子どもから目を離さないで下さい」といらぬお節介をしてしまいました。両親はばつが悪そうに平謝りでした。今日は小さいながら人助けをしてしまいました。

 昼が近くなったので屋外のシャワーまで出かけ、娘が着替えのために用意した袋の中から100円玉を取り出してコイン入れに入れましたが、どういう訳か作動しませんでした。事務所へ言いに行くのも遠いのでそのままの水も滴るいい男のままで駐車場まで歩き、持ち合わせたダンボール箱を座席に敷いて裸ながら海パンで乗り込み、急いで家に帰り孫と一緒にシャワーを浴びました。

 昼食の後少し眠くなって横になっていると私も孫もついウトウトし始め私は20分、孫は1時間ほど午睡をしてしまいました。海での海水浴は疲れるのか何時になく体がだるいようにも感じました。たった1時間余りなのに炎天下での水遊びは体まで焦がし、背中や腕が少しヒリヒリしてきたようです。私などは日焼け止めなどを塗ったことがないのでその効果も知りませんが、今は男でも日焼け止めのご厄介になっている人も結構いるようです。

 20年ぶりの海水浴は私も孫も十分に楽しめました。汗疹や皮膚の病気には海水は薬の役目をするそうなので、汗疹の出かかった孫にはいい薬になったようです。

  「二十年 泳ぐことなく この町で 暮らしてきたとは これは驚き」

  「本当は 海にザブーンと 投げ込んで やりたいつもり ひ弱な孫を」

  「目の前で 子ども溺れて 取るものも 取らず海中 子ども助ける」

  「溺れそう 子ども叱って 何になる 叱る相手は あんただろうが」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○キャンプ終わる

(みんなのモデルハウスとなったグランプリ受賞の「星の家」です)

(星の家の正面玄関、女の子らしく清潔できれいに飾っていました)
(グランプリに輝いた二宮さんと吉永さんの協働作品)

 小学生を対象にした少年少女おもしろ教室の今年のキャンプが終わりました。今年のキャンプは初日のダンボールの家造りと星の見学会、肝試し、ドラム缶の野外風呂、芋畑の草取りなど子どもたちの事前希望調査を取り入れた例年にない盛り沢山なプログラムとなりました。参加した子どもたちにとっては特に小学5年生などは小学校連合キャンプ、学校のキャンプを加えた3回のキャンプを一週間おきに消化するハードなスケジュールとなりましたが、それぞれの向く敵が違うため、それなりにキャンプを楽しんでいたようです。

 市町村が合併して2年余りが過ぎ、教育の現場にも少しずつ変化が出て戸惑いも見られましたが、双海町という旧エリアでの教室継続は余程特徴あるプログラムや運営をして行かないと潰される恐れがあるようなので、少しだけ頑張ってみましたが、頑張っただけの効果はあったようでまずは一安心しました。

 今年のキャンプは天候と会場に恵まれました。特に池ノ久保公民館と人間牧場が目と鼻の先で移動による会場変化で子どもの目線がより新鮮になったようです。

(この日も夕日が綺麗に落ちました)
(夕闇迫る西瀬戸の海も美しい光景でした。一番星が印象的でした)
(西尾先生の星空観察会)
(私の四方山話)

 夜は人間牧場のウッドデッキに寝そべって星空監察をやりました。野外の照明が多いため日ごろは暗天や満天の星空を見る機会はそんなに多くはありません。子どもたちは講師に招いた西尾先生の楽しい正座の話に熱心に耳を傾けました。特に西尾先生の用意した光を当てると星座が見える不思議な小道具でよりリアルな星の世界を味わうことが出来たのです。私が考えていた人間牧場の星空というもう一つの魅力を改めて発見もしました。松山や双海町、それに伊予灘の夜景が星空とともに広がり何ともいえない雰囲気でした。「あっ流れ星だ」と驚く子どもたち、「天の川が綺麗に見える」と感嘆の言葉を発する子どもたちにとってもいい機会だったようです。

私は昔船乗りをしていたこともあって星の勉強はしていますが、長い間使わずに寂びてしまっている知識をもう一度呼び起こし、星の話が出来るようにしなければならないと思いました。

(男の子に人気のドラム缶風呂)
(星空を眺めながらいい湯だな)

 ドラム缶の風呂も子どもたちにとっては好評でした。お湯の温度管理などまだまだ未熟な面もありましたが、この感動をどうレベルアップするか来年度につながる取組でした。また芋畑の草取りも炎天下ゆえ短い時間ではありましたが、昨年の植えっぱなし、イノシシにやられっぱなしから前進していい方向に向かっているようです。


 運営もまだまだ事務局にかなりの負担を強いているようですが、運営委員がその都度参加してくれていることも大きな前進です。将来は今回も協力してくれた4人の大学生スタッフやサポーターを加え、地域全体を巻き込むような強力な体制を組む必要があるようです。

(昼は前野婦人会長さん、栗田校長先生、和田校長先生の合作によるたらいそうめん・蕎麦に舌鼓を打ちました)

 人事異動で教育委員会の職員も異動が激しく、少しずつレベルアップしているのですが中々思うようにはいきません。これも悩みの種だし、地域公民館の愛護部あたりを絡ませる手立てもまだまだですが、焦らずやらねばなりません。ここまで書きながら「エッ、私は一体何処まで関わればいいのか」とふと考えてしまいました。行き掛かり上請われるままに実行委員長を引き受けてきましたが、私がここまで関わらなければならない理由もないので、少し冷静になって考えてみたいと思っています。まあ何あともあれ予想以上の効果があったことだけは予想以上でした。

  「長年の 経験生きる ハプニング 安全一番 冒険二番」

  「夢あれば 教育効果 上がるもの どうせやるなら ワンランク上」

  「星いいね 人間牧場 デッキにて 新たな魅力 またまた発見」

  「汗をかき 芋の畑の 草を取る 収穫間近か イノシシ負けぬ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○スイカなしで夏は乗り切れない

 「スイカは果物か野菜か?」と問われたらあなたはどう答えるでしょう。売るのは野菜屋でも果物屋でも売っているので売る店での判断は出来かねますが、スイカを漢字で書くと「西瓜」ですから、多分瓜の仲間で野菜だと思うのです。夏になると店先にデンと並ぶように座わっている姿は何とも頼もしく、やはり夏を代表する食べ物に違いありません。スイカのテレ具合は外の表面を手で叩いて見るとよく分るのだそうですが、私などは未だにその音の区別ができないのです。最近はスイカを買ってもそれ程まがい物はなく、まるで品質が保証されているように、どのスイカもそれなりにテレてそれなりに美味しいのです。昔母がわが家で家庭の食べ量としてスイカを作っていた頃は、スイカの花が咲き受粉受精すると日時を書き込んだエブ札を竹につけて立て、それを目安に収穫していました。それでも日時を見誤ることが多く、テレていないまだほんのり赤くなった、しかも種が黒く熟していない未熟のスイカを切ってガッカリしたことが何遍もありました。この頃は親父も家庭菜園でスイカを作る事を断念したため、スイカは買って食べるものになりました。

 スイカには小玉スイカから大玉スイカ、丸いスイカからラグビーボールのような楕円スイカ、縞模様から真っ黒スイカまで種別も様々です。また中の色は99パーセントが真赤ですが、中には時たま黄色いスイカもあって、面白いものです。わが家は田舎なので近所に農家が多く、時たまスイカのおすそ分けがあります。先日も何人かの人がスイカを持って来てくれました。持って来てくれる時期が重なるためなり口のツルの古さを見て古い方から急いで食べますが、あんな何処にでもある変哲もない畑から何であんな赤い果汁が出来るのか、凡人の私には子どもの頃から続いて未だに解決できない謎なのです。

 私の町には愛媛県内ではちょっと名の知れたスイカの名産地があります。東峰という山あいの国道56号線沿い位置する20戸足らずの小さな集落では、夏ともなると国道沿いに掘っ立て小屋のような季節限定の露店が並び、顔見知りのおじさんやおばさんが愛嬌を振りまいてスイカを売っています。スイカの販売は夏休みが始まる少し前からお盆までが勝負で、その集落では約1ヶ月間を稼ぎ入れ時として昼夜を分かたず働きますから、昔からこの時期には集会などは避けるようにしています。しかしお盆が過ぎるとスイカの味も落ちるので殆ど売れないそうです。それでも秋の実り以外の収穫や収入だけに東峰の人の暮しは税務署が目をつけるくらいですからかなりの儲けがあるのでしょう。国道沿いから見えるスイカ畑には押ししそうなスイカがあちこちにゴロゴロ転がっていて、何とも長閑な農村の風景を醸しています。

 私はスイカが大好物です。家内もその事を承知で東峯の知人からスイカを分けてもらい、惜しげもなく毎日三度三度の食後にスイカを食べさせてくれるのです。「東峰の山スイカ」と呼ばれるスイカは絶対といわれる程に当りハズレがなく美味しく、私にとってこの一ヶ月は妻に言わせれば「スイカで生きている」という表現がピッタリなのです。

 スイカは捨てる皮の部分が多く、ゴミ出しに大変だとか、家族が少なくなって大きなスイカが売れないとか、冷蔵庫を占有してしまうので敬遠されるとかいう話をよく耳にしますが、それでもわが家はスイカをどの家よりもよく食べる自負しているのです。

 新聞やテレビでは近づくお盆の帰省ラッシュが始まったと報じています。私の頭の中は「ああスイカの味を楽しむのも後10日くらいか」と思ったりします。昨日のように35度を越える猛暑日には外出から帰るとおやつ代わりにスイカを食べます。すると体中の汗がスッと引いて涼が蘇えってきます。

 今は昔と違ってスイカも温室栽培などで年中出回るようになりましたが、やはりこの時期のスイカは旬の味だとせっせとスイカの味を楽しんでいます。

  「朝昼晩 スイカ食ってる この夏も 利尿効果で 元気に過ごせ」

  「種無しと 笑って種を 飲み込んで 糞と一緒に 水に流して」

  「赤スイカ 食うのに何故に 赤い尿 出ぬのか不思議 子どもの頃から」

  「盆が来て 仏壇横に スイカデン 供えて母の 在りし日思う」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○面白い少年少女いおもしろ教室のキャンプ

 今日は高知・東京と続いた講演会の余韻と疲れが残り少し気だるい感じがしているものの、私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室のキャンプが今日と明日一泊二日で行われるので、開会式に間に合うように池久保公民館へはせ参じました。池久保の公民館はわが人間牧場の目と鼻の先にあるので、今回のプログラムは池久保公民館と人間牧場をフィールドに行う予定なのです。

 今日のプログラムのメインは何といっても住まい作りです。私は21世紀えひめニューフロンティアグループの代表をしていますが、これまで20年間無人島や大野ヶ原高原でサバイバルキャンプを主催して来ました。その事業も安全な冒険、非日常な活動などがメインで多くの子どもたちに夢と感動を与えてきました。今回も何かパンチの効いたアイディアはないかと教育委員会の担当者から求められました。そこで登場したのがテントを止めたダンボール箱の住まい作りとドラム缶風呂でした。私は既にその活動を実証済みですが若い担当者は果たしてそんなことが出来るのか半信半疑のようでした。それでも何かワクワクするからやろうという結論に達し、プログラムに組み込みました。ダンボールの家作りは雨が降ったらアウトなので、運を天に任せる以外ないのです。

地元の業者にダンボールを沢山貰って会場へ運びました。

(まず子どもたちは公民館前の広場の掃除から始めました。掃除の終わった広場に青い農業用ビニールシートを敷き、そこをキャンバスにしてダンボールアートの始まりです)
(子どもたちはまず自分たちの住家の設計図を書きました。出来た設計図は皆の前で発表し、本部の建築確認が出来たら建築が始まるのです)
(子どもたちが使うダンボールは地元の鰹節工場からいただいてきました)
(さあダンボールとの取っ組み合いが始まりました。設計図の夢とペーパーナイフとで造る現実の落差に苦労しました)

 早速プログラムがスタートしましたが、子どもたちは大人の不安を他所に熱心で、それぞれがどんな家を建てるか設計図を描いて1時半過ぎから始めた作業は途中休むこともなく延々4時間にも及ぶ長丁場でしたが、それぞれが思い思いの発想で住まい作りに挑戦してくれました。ダンボールの加工は主にペーパーナイフと紙製ガムテープを使って作業を進めて行くのですが、リーダーがサブ的に援助の手を差し伸ばさなければ上手くいかない班もあり四苦八苦の状態でした。

 幸いな事に樹齢200年とも300年ともいわれる市指定天然記念物指定の椎の大木の木陰が作業場となったため、猛暑ながら作業はことの他順調に進みました。

 夕方になってやっと寝れるような形のダンボールの家村が出来上がりました。それぞれの家に番号がつけられ、子どもたちは投票用紙に1番、2番と思われる作品を選んで投票するのです。自分の名前を書いているので、自分の作品に投票する不正は出来ないようになっています。1番2点、2番1点の点数が集計されましたが、グランプリは見事多少私が手伝った8組の家が選ばれました。

(作品番号1)(この家が皆が選んだグランプリ賞の「ほしの家」出です。暖炉の煙突や屋根裏部屋まで工夫をしていますし、そこら辺の蔦の葉っぱを入り口にあしらったり、骨組みにはそこら辺で拾ってきた竹や木切れを使って中々のものです)

 ここでブログ紙上で子どもたちの力作をカタログ風に住宅展示してみます。あなたはどの作品がお好みですか。
(作品番号2)

(作品番号3)

(作品番号4)

(作品番号5)

(作品番号6)

(作品番号7)
(作品番号8)

(作品番号9)

(作品番号10)

(作品番号11)

 これ以外にも作品はありましたが未完成だったので公開できませんでした。

 早速子どもたちは自分の造った家でまるでホームレスのように潜り込んで寝ました。蚊に悩まされてのことだったと思いますが、子どもたちはダンボールの持つ温かさと不思議な魅力、それにも増して自分が友だちと協力して造った世界に一つしかない家で寝たのですから嬉しかったようで、殆どの子どもが好評でした。キャンプ終了後何処かに飾って置きたいようなダンボールの家村は、残念ながらsべて取壊され資源ごみ処分場へと運ばれました。

  「工夫すりゃ キャンプ一味 二味も 違った魅力 子どもワクワク」

  「設計図 耐震強度 ゼロなのに 潰れもせずに 威風堂々」

  「四時間も かかって造った 家なのに 壊すはたった 10分で済み」

  「グランプリ 取った二人は 上機嫌 目指す未来は 大工か設計」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○東京は暑いねえ

 夏真っ盛りの日本列島ですが、更に暑いと感じる東京へ行って来ました。前日の高知県は曇り空でしたし帰る時スコールにも似たどしゃ降りの雨に会い、ワイパーが効かぬくらいの危険な状態で高速道路を走って四国山脈のトンネルを抜けました。だのに何のことはありません。愛媛県側は上天気で雨粒の欠片もないのです。同じ四国でもこうも違うのかと思ったものですが、昨日の東京は経度的には高知より北のはずだのに朝から容赦なく照りつける太陽がぎらぎら輝き、電車を乗り継いで国会議事堂前で降り、平河町の砂防会館まで歩こうと思ったのですが、夏の太陽は容赦なく私に降り注ぎ、目と鼻の先だというのに汗が噴出し、両手の荷物や脱いだ背広が重くて、ついに歩くことを断念しタクシーを拾いました。運転手さんも「直ぐそこですが」と気の毒そうだし、私も「直ぐそこで悪いのですが」と両方が謝りながらの乗車です。昨日この界隈は先日の参議院選挙で当選した方々が初登庁した場所だし、落選した方々は残念ながら赤いじゅうたんを踏めなかったのです。首相官邸や自民党本部を横目で見ながら日本の苦悩を思いました。

 信号で止まっている間運転手さんが「お客さんどちらから?」というので「はい四国から」と言うと、「東京は暑いでしょう」と言うのです。確かに昨日の東京の暑さは尋常ではないと思いました。ビルのあちこちから噴出す風はまるで温風で、肌にじっとりまとわりつくような湿度の高いものでした。運転手さんの話によるとこうした状態は深夜にまで及ぶのだそうです。昼の間に太陽で暖められコンクリートのビル群は夜になっても冷まされることがないのです。

 ヒートアイランド現象というのでしょうが、最近はビルの屋上に土を入れ緑を増やして温暖化を防ごうという試みも各地でされていますが、今はまだ実験段階で焼け石に水って感じのようです。

 「私は四国ですが運転手さんはどちらのご出身ですか?」と尋ねると、「はい私の田舎は福島県です」と言われました。東京に比べ福島は涼しいと言われ、お盆には年老いた母親の住んでいる田舎へ帰省するのだそうです。田舎では働く場所も限られているので東京へ出てきて職を転々としたそうですが、「結局はこんな仕事をしています」とぼやきとも取れる話をしていました。

 私「わが家など未だにクーラーを使わない暮らしをしています」。運転手「まあ羨ましい。東京でクーラーが止まったらみんな熱中症で死にますよ」と笑っていました。

 10時30分からシェーンバッハ砂防で行われた全国町村議会事務局職員研修会の講師として講演をしました。90分の講演でしたがあれ程暑かった外とは対照的に会場は冷房がガンガン効いて背広にネクタイの正装でも寒いくらいでした。研修者に取っては居眠りするのに丁度良いくらいの温度かも知れないと思いつつ眠ってもらっては困ると、馬力をかけて話をしました。眠る人もなく終始熱心な研修でした。

 この研修には今回の参議院議員選挙に大分県から立候補し残念ながら涙を呑んだ矢野大和さんも講師として招かれていました。本来なら昨日初登庁するはずの参議院の直ぐ横での講演は辛かったに違いありません。でも「明日があるさ明日がある」と信じて県土従来をきして欲しいものです。大分出身の参加者から私に一枚の名刺が届けられました。矢野大和さんからの託けです。彼とは何度か一・二度お目にかかっています。同じ役場職員であったよしみだし、お互い同じような苦労に翻弄されて生きて来ただけに、彼の思いは痛いほど分るのです。もう一人福島県矢祭町の高信由美子教育長さんにもお会いしました。私の前の講義を担当されたのですが、せっかくだからと私の講演を聞いていただきました。矢祭町は「合併しない宣言」をした町ですし、もったいない図書館でも有名になった町です。東京は全てがいいとは思いませんが、居ながらにして全国の名だたる人に会えるのも魅力なのです。早速私は東京でしか書けないハガキを新宿駅の雑踏の中で木になるカバンを机として書きました。新宿郵便局のポストへは他の6通とともに投函しました。

  「東京は 何でこんなに 暑いのか 夜になっても 熱は下がらず」

  「クーラーが 止まれば東京 熱中症 田舎の良さを 東京で見つけ」

  「選挙にて 破れた友人 東京で 同じ舞台に 立ちて熱弁」

  「新米と いわれる現職 教育長 古米と思う 元教育長」

  



 

[ この記事をシェアする ]