shin-1さんの日記

○学校

 合併によって双海町という自治体がなくなったのと時を同じくして、教育長を辞してから早2年半が過ぎました。その間生涯学習という観点やPTAなどの現場へは時々招かれお話をすることがありますが、学校という現場からは随分遠ざかっています。先日えひめ地域政策研究センターの松本研究員から、舞たうんという雑誌の原稿依頼があり、ブログshin-1さんの日記という連載ながらテーマである「学校」について書いて欲しいと注文がありました。その内容については間もなく発刊予定の雑誌を読んでもらいたいので書きませんが、先日伊予市の教育長さんから翠小学校のエコ改修検討委員会で少し話して欲しいと頼まれました。現場を離れてかなりになるし、エコなんて難しいことは分らないと何度も硬く辞退したのですが聞き入れてもらえず、加えて佐賀関へ行く予定もあるのでと言い訳をしましたが、たとえ少ない時間でもと誘いに乗ってしまいました。

 僅か20分の持ち時間なので私のような凡人にはその意味も分らぬまま①これまでの学校のイメージ5、②今の学校のイメージ5、③これからの学校のイメージ5について話しました。

 ①これまでの学校のイメージ5

  ・木造校舎(和室・長い廊下・暗い・臭い便所・教科書)

  ・二宮金次郎(中国の古書大学)

  ・シンボル樹(イチョウ・クスノキ・桜の木)

  ・威厳ある先生(鞭を持った先生・通知表・立たされた悪がき)

 ②今の学校のイメージ5

  ・鉄筋校舎(電気・ストーブ・冷房・水洗便所・スチール机)

  ・空き部屋(子ども数減少・複式授業・パソコン室)

  ・防犯不安(閉じた校門・監視カメラ・オンラインシステム)

  ・防災不安(危険校舎・避難所)

  ・相談相手の先生(サラリーマン・地域を知らない・時間確保に忙しい)

 ③これからの学校イメージ5

  ・環境力(快適から我慢へ・不自然から自然へ・上灘川や蛍という自然のビオトープを生かす

        ・翠地区という原風景を生かす)

  ・地域力(地域の教育力・地域の人間力・自治公民館の学習機能の活用)

  ・交流力(ほたる祭りという交流の場・地域資源を生かしたグリーンツーリズム

        ・土日の学校利用を地域管理という手法で促進する・エコ情報発信

        ・つなぐという機能の強化(例人間牧場をフィールドにする)

  ・学力(学校でエコにこだわった学習・日本一のエコ教育学校を目指す)

  ・総合力(環境力+地域力+交流力+学力=総合力)

 

 特に話したかったこれからの学校イメージ5は、環境力、地域力、交流力、学力、総合力という5つの視点ではなしをさせてもらいました。残念ながら出発の時間が近づき討論には加わりませんでしたが、エコ改修検討委員会の斬新な提案を期待しています。

 私も人間牧場ができて2年近くになりますが、環境教育に力を入れており、特に子どもたちに対しては未来を見据えた様々な学習を行っています。子どもたちにとって学校での学びはほんの一部の基礎学習にしか過ぎません。親や社会がその基礎学習にどんな衣を着せるかが重要だと思うのです。

  「エコという 横文字意味も 分らずに 恥を承知で 話してしもた」

  「大学の 本を読んでる 金次郎 知らず卒業 誰も教えず」

  「間違って 学校訪問 愚か者 急ぎ返して 事なき得たり」

  「大学の 教授居並ぶ 同じ席 おこがましくも 高卒座る」  


 追伸

 エコロジー【ecology】

 1、生態学。

 2、自然環境保護運動。人間も生態系の一員であるとの視点から、人間生活と自然との調和・共存を目指す考え方。


 


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shin-1さんの日記

○団子三従兄弟

 昨日はわが家で母の七回忌の法要が行われました。法要には孫たち3人も父母に連れられてやって来ましたが、一際目を引いたのは出産以来20日余りが過ぎ、初めてわが家に帰ってきた長男の子どもの里帰りでした。大名の子どもであれば「お国入り」って感じでしょうが、平凡な庶民の子どもの里帰りとあって、大したことではありません。それでもわが家の長男の子どもの誕生とあって、皆さんは初のお目見えを期待していて、皆さんに代わる代わる抱いてもらって、少々お疲れの様子でした。

(左は生後4ヶ月近くになる尚樹君です。早くも寝返りができるようになりました。右が生後20日余りの希心君です。二人は髪の黒さや薄さで何かと引き合いに出され、尚樹君にとってはありがた迷惑な日となりました)

 これまで4年余り、身内の視線を一身に集めていた孫朋樹君は、相次いで生まれた弟といとこの出現で主役の座を奪われそうなのを察知してか、盛んにアピールするものの尚樹君と希心君の前にはなすすべもなく、昨日は哀れで少々お冠のご様子でした。そのためか何時になくおじいちゃんにすり寄り、お風呂もお父さんやお母さんと入ればよいものを「おじいちゃんと入る」といって、ゴマをすっていました。

(左が母乳使用後の朋樹君です。真ん中が母乳使用中の尚樹君です。右は母乳使用前の希心君です。直樹君も希心君も朋樹君のようにスクスク育って欲しいものです)

 昨夜3人の孫を並べて団子3従兄弟としてスリーショットの写真を撮ってやりました。「母乳の使用前・使用中・使用後」と皆が大笑いしましたが、3人とも今までは大した病気や事故もなくスクスクと育っているのか何より幸せです。昨日は面白い光景を目にしました。娘一子は尚樹君に、長男嫁あゆみは希心君にそれぞれ一緒に母乳を授乳していましたが、娘の頃は恥かしかったお乳をまるで「牛舎の乳牛のようだ」と表現するように、惜しげもなく人前で堂々とさらけ出しているのです。子育て中の母は強しと思いました。

 昨日の食事が終わった午後7時過ぎ、二人の赤ちゃんを入浴させましたが、娘は助産婦なので一番先に入浴し、その次に長男の赤ちゃん希心君を娘が入浴させるのです。その次に自分の赤ちゃん尚樹君を入浴させるのです。いやあ驚きました。聞くところによるとこの連係プレーは希心君が退院してからずっと続けている連係プレーだそうで、娘は尚樹君を連れて4キロほど離れた息子のマンションへ行き、毎日二人の赤ちゃんを入浴させてお喋りしし帰宅するということをしているのだそうです。嬉しい連係プレーに思わずホロリでした。

 自分の子どもなど忙しくて抱いた記憶など殆どないのですが、孫朋樹は随分世話をしましたし、まるで今は気が合う仲間のように人間牧場で虫を追ったり遊んだり、楽しい日々が続いています。その様子は私のブログにもはっきり現れ、ブログ仲間で朋樹君のことを知らない人がいないくらい度々登場しているのです。

 孫は目に入れても痛くないほど可愛いものです。

  「孫三人 並んで寝れば 母乳にて 使用前・中 後まで続く」

  「少子化も 何処吹く風か わが家では 一挙三倍 賑やかですよ」

  「孫を抱く 肩の凝りなど 気にもせず 帰るとやはり 張りを覚える」

  「来る楽し 帰る寂しい 孫の声 今度は何時と 念を押しつつ」  



 

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shin-1さんの日記

○七回忌

 母親が死んでから早くも丸6年が過ぎようとしています。2001年10月4日に母は亡くなりました。奇しくも私の誕生日の明くる日に逝ったものですから、その日のことはよく覚えているのです。この6年、私にとっても大きな変革がありました。平成の大合併で双海町という自治体がなくなり、役場に勤めていた私も60歳という区切りで第一線を退きました。自由人となった今は母親の残してくれたみかん畑を開拓して人間牧場を作り、新しい活動にも取り組んでいるのです。死んだはずの母親の顔が夢に出てきたり何かにつけてよく思い出していた母親の顔も、忙しさにかまけて最近は随分疎遠になったと思うのです。

 わが家は臨済宗東福寺派なので、この地方では法要の前日念仏を行う風習があります。夜7時からの念仏には親類縁者がやって来て念仏を唱えるのです。本家ということもあり、兄弟が多いということもあって家の中は足の踏み込む場所もないほどの大賑わいです。私の兄弟は5人のうち4人までが同じ町内に暮らしています。弟だけが奈良に住んでいますが、その弟も来月の誕生日で満60歳となり、目出度く42年間勤めた会社を定年退職するようです。前日弟夫婦が久しぶりに帰省しました。親父はこの日の来るのを指折り数えて待っていたようで、2~3日前からソワソワしているように見えました。やはり息子ですから気になるのでしょう。42年まえ高校を卒業して直ぐに大手建設会社に就職し、主にトンネル工事の現場を渡り歩いてきましたが、退職後は連れ合いの実家である和歌山県に古座に家を構え移り住むそうですが、何時までも二人元気で暮らして欲しいものです。

 葬式一周忌、3回忌、7回忌と回を重ねるごとに身内の叔父や叔母たちも足が痛い、膝が痛いと、老いを感じさせる言葉がよく聞こえるようになりました。私は現在62歳ですが、これから二十年は叔父や叔母の今日と同じ葬式や法事をしなければならないのが世のめぐりでしょう。それもそのはず今日の法事に来る予定だった叔母が2.3日前に救急車で運ばれ来れなくなった旨の連絡が昨夜入りました。

 法事をするに当って大変な苦労は妻の仕事です。身内への連絡、法事の食事の準備、お寺さんとの調整、買出しなどの他に家の掃除や食器類の準備など、かなりの量の仕事が妻の一身にかかっているのです。私などは念仏の当日まで佐賀関へ交流会に行く始末なのです。

 今日も朝から9月だというのに30度を越す真夏日でした。朝から来客がひっきりなしでやって来ます。姉と妹が手伝いにやって来て手伝ってくれるのですが、法事につき物のうどんを出さなければならず側で見ていましたが大変のようでした。

 何はともあれ母の7回忌の法事は無事終わりました。手伝いと称して里帰りしている娘は子どもを二人連れてよく頑張りました。大勢の来客に酔ったのか二人の子どもたちは8時過ぎに風呂に入れてバタンキューでした。

 今は法事もどこかの料理屋さんを借りて食事会ではい終りの所が多いそうです。田舎は大変だけれど、束の間の休日に日ごろ疎遠の親類縁者が集まって色々な話をしたことも意味があり良かったと思います。

 明日は寂しがる親父を残して弟夫婦は奈良県へ帰ってゆくことでしょう。親父が言う「今度お前と会う時はおらの葬式だ」にならないようにしたいものです。

  「七回忌 身内随分 歳を取り 椅子が足りぬと 書斎の椅子も」

  「長男の 嫁ゆえせねば ならぬこと 先祖祭りに 親父のお世話」

  「次法事 誰が来ないか 分らない 自分含めて 次への不安」

  「彼岸まで 暑さ寒さを 言うけれど 今日の気温は 尋常でなし」

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shin-1さんの日記

○祖母のふるさと

 祖母が亡くなって20年余りが過ぎました。12人も子どもを生み育てた明治生まれのしたたかな生き方には、平凡な庶民ながら深い共感を覚えていますが、祖母の出生地のことは旧西宇和郡瀬戸町小島というくらいで余り知りません。しかし心のどこかに先祖のルーツを訪ね調べたいという想いはいつも持っています。

 一昨日国道378号から国道197号を通る道すがら、国道の看板に「小島」という看板が目に入ったのです。「そうだ、少し早いので母の出生地を訪ねてみよう」と思い山道に分け入りました。国道は宇和海側を走っていて、小島は瀬戸内海側にあることから峠道を越えなければならないのです。時折見つける「小島」という看板や矢印を目当てに心細い気持ちとはやる気持ちを同時に持ちながらの走行でした。やがて瀬戸内海が大きく開け、狭いヘヤピンカーブを何度も曲がりながら、小島の集落へ入って行きました。

 何の予備知識も持たず、意の向くままの訪ね旅なので、誰かにどこかで聞いてみようと思いながら午後3時過ぎの残暑厳しい中で、容易に村人を発見することすら不可能なのです。


 最後のヘヤピンカーブを曲がると港に出ました。二人のおばちゃんが道沿いの木陰で何やら話していました。私は車のブレーキを踏み助手席の自動ドアを開けて「すみません。ここら辺にFさんというお家はありませんか」と聞きました。顔つきの悪いよそ者の侵入者に身構えるような姿がありありです。「Fさんといっても2軒ありますがBさんかCさんですか」と名前を尋ねられました。とっさに返ってくる質問に私は思い出すことが出来ず、あらん限りの記憶を辿りBさんの方です。といったら思わず心が和んだのか、指差しながら「あそこら辺の家だ」と教えてくれました。「でも行っても今日は留守かもしれない」といわれ、時間切れを気にしながらそれ以上の詮索は出来ないと判断したのです。

 私はこの港へは海路何度も訪ねてきています。若い頃漁師をしていた頃この沖合いは鯛の絶好の漁場だったのです。時化で母港へ帰れずこの港で1泊した記憶もあるし、港や湾内の風景はよく覚えているのです。多分それは祖母への想いからその目で見ていたからかも知れません。

 沖合いから見ると湾の奥に港があるのですが、その横に突き出た場所に神社があってそれは綺麗な小さな島がありました。小島という地名の由来はここではないかと昔は思っていました。

 祖母はこの地に生まれこの地で少女時代を過ごしたのです。そしてこの原風景を心のふるさととしながら下灘の祖父と結婚しました。聞いたことはありませんが多分祖父は、漁の途中で立ち寄った小島というこの土地で祖母を見初め結婚したのでしょう。90年も前のまさに遠い遠い昔の出来事ですが、祖母の決断がなければ私という人間もいなかった訳ですから、まさにこの地は私のルーツの原点とでもいうべき土地なのでしょう。



 もう一度訪ねたい。そんな気持ちで後ろ髪を引かれながら元来た道を引き返しました。バックミラーに写っては消える湾や海や民家が残像のごとく今も心に残っています。何時の日かまたこの地を訪ねたいものです。そして祖母の両親の墓参りでもしてみたいと思いました。私の心をここまで駆り立てるのはやはり私が歳を取ったせいなのでしょうか。

  「訪ね来し 祖母のふるさと キラキラと 残暑の中に トンボ飛び交う」

  「この風景 見ながら祖母は 少女期を 過ごしただろう 妙に懐かし」

  「海だけは 今も昔も 変わりなく 深い青みを 保ち続けて」

  「盛衰の 哀れを誘う 空き家見ゆ 住みし人たち 今は何処に」 


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shin-1さんの日記

○裂き織りの服のプレゼント

 昨日大分に行く途中、少し時間がるので伊方町三崎総合支所へ立ち寄りました。ここには盟友とでもいうべき塩崎満雄さんがいます。塩崎さんは長年三崎町の役場に勤めていましたが、合併した後観光などの仕事をした後、町のツーリズム協会の事務局長に出向し、協会の事務所が三崎に変わったのを機に古巣ともいえる三崎総合支所に帰って来ました。塩崎さんとは彼が西宇和郡連合青年団長、私が愛媛県青年団連合会長という関係の時代から付き合っている、もう40年近くになる私の最も古い友人です。今はお互いがえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員として活動を共にしているのです。

 彼は最も三崎町を愛する人間と自負しており、青石文化や裂き織り文化などをテーマにして地域を守る運動を地道にやっています。その力は地域づくりの世界では知る人ぞ知る男なのです。

 一昨日彼の事務所を訪ねました。彼を含めて3名のスタッフでやっていますが、看板やポスターや写真など、かつて私が観光協会事務局長を兼務していた頃と同じように足の踏み込む場所もないほど雑然として、追いまくられる事業の活気がみなぎっていました。彼は私より3歳下ですから来年の春に定年を迎えますが、少し体調を崩していたものの今は回復して元気に働いているようで安心しました。このままの元気な余力を始まるであろう次の人生に生かして欲しいと願っています。

 その雑然とした事務所のロッカーに藍染めの裂き織りの布で使ったベストが吊り下げていました。ベストというよりは半てんという方が正しいのかも知れませんが、私はとっさに3日前にえひめ地域政策研究センターの清水研究員と話した落語のことを思い出し、これを使うと三崎町や塩崎さんの宣伝も出来ると直感し、譲って欲しいと懇願しました。そこは私の考えを読み取った塩崎さんのことです。「差し上げる」という事になりました。私は嬉しくなって早速試着し、そのまま九州への旅と相成りました。佐賀関へ行く船の中で、見知らぬ中年女性に「素敵な半てんですね。それは何織りですか」と声を掛けられました。すかさず私は「はいこれは愛媛県の佐田岬半島の突端にある旧三崎町の裂き織りという織物です。木綿の古布を裂いて織るのです」と、まるでファッションショーのように脱いで見せました。また佐賀関でも同じような問いかけがあり、してやったりとばかりに宣伝をしまくりました。動く広告塔として塩崎さんにいささかなりともお返しをすることが出来そうです。

 モデルがいいからなのかも知れませんが、ご覧下さい。凄くシンプルで一辺に気に入りました。夕日寄席の支配人を自認する清水研究員のおメガネに適うかどうか心配しています。でもいただいた塩崎さんのためにも裂き織りの半てんをしっかりと宣伝しまくりたいと思っています。

 昨日の朝7時発のフェリーに乗って佐賀関から三崎に渡りました。その道中剣道の練習試合に松山へ行くという高校生の団体に出会いました。朝2時に起きて船に乗ったという高校生は眠たそうな目をして雑談にふけっていましたが、話しかけると気楽に応じてくれました。その高校生も「おじちゃんお洒落な服ね」と言ってくれました。

ああそうか、この服を着ると年齢的に「おじちゃん」なんだと納得しながら、笑いを誘う話を話をしたら、仲間が沢山集まってきました。フェリーの中で夕日寄席です。お陰様で70分の道中は退屈せず、その高校生を乗せたマイクロバスはシーサイド公園でトイレ休憩し、再会に驚いた様子でさよならしました。

  「裂き織りの 半てん羽織って 旅をする 目立つんですか 声を掛けられ」

  「モデルいい 裂き織り半てん 似合います 味をしめしめ しっかり使おう」

  「この一枚 織るのに誰が どれ程の 苦労したのか 偲ばれならぬ」

  「夕日寄席 予感的中 半てんを 手に入れ嬉し 腕をまくりて」

 

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shin-1さんの日記

○豊予海峡交流会

 気の合った仲間が集まって久しぶりに交流会をしようと誘いがありました。何とこれが九州と四国の交流会ですから10人足らずの少数人数とはいいながら考えはでっかいのです。九州と四国の間には豊予海峡という海があって、交通の便の悪い時代には別府温泉へ修学旅行に出かけるような遠い所でした。ところが三崎半島の突端と九州の佐賀関間にフェリーが就航して僅か1時間10分で結ばれ、このような交流が出来るようになったのです。70分だったら何のことはなく移動できるので思いつきました。

 三崎半島の旧三崎町までは瀬戸内海と宇和海を交互に見ながら私の町からだと1時間半くらいです。危ないからイクナと国道の名前を逆さに読まれ悪評をかこった岬頂上線は潮風メロディーラインと呼ばれて快適ですが、豊予海峡の洋上を国道が走る、つまり四国側の国道も九州側の国道も々197号線なのです。

 私の集会の都合で午後5時30分発のフェリー便にしてもらいましたので、南予を中心に私を含めて7人が三々五々三崎総合支所に集まりました。遠くは四万十川の中流域旧西土佐村の役所に勤める和田修三さんも遠路はるばる参加してくれました。私の親友であるツーリズム協会の塩崎満雄さんの事務所が三崎総合支所に移転したため、しばらくの間観光やまちづくりについて談義ししましたが、役所の中には知人や友人、それに顔見知りも沢山いて気軽に声を掛け手もらいお茶までサービスしていただきました。

 少し陽が短くなって午後5時30分出港のフェリーが佐賀関についた頃は夜の帳もすっかり降りて、鈍い街路灯の光に照らされた佐賀関港へ18時40分に着きました。渡部さんと姫野さんが桟橋まで迎えに来ていて、私たちは早速あまべの郷関あじ・関さば館へ向いました。

?関あじ・関さば館は、都さんが興した佐賀関観光有限会社で、今年の1月22日にこの会社を立ち上げるための研修会に招かれた時はまだ建設中でしたが、この春オープンして営業を続けています。そんなご縁もあって関あじ・関さば館へ到着すると都さんが持っていてくれました。懐かしいお顔に出会いましたが、このところ体調を崩しておられるらしく、ビールの差し入れをして早々に引き上げられました。




 それにしても、この日のお目当ては関あじ・関さばを堪能するほど食べようと乗り込んだのですが、あじ・さば・イサキ全ての活造りは最高の味で、日ごろ全国を巡って刺身を食べ歩いてい

る私ですが、新鮮さも味も、そして出すタイミングも全てに満足のいくものでした。他の人たちは正直言って失礼な言い方ですが刺身の本当の味は分らないかもしれません。

 飲むほどに酔うほどに元気になるのが私たちの年代です。海の向こうに来ていることもあって少しぐらい大きな事を言っても壁や障子に目や耳がある訳でもないし、借りきりで他の人もいないことから、ボルテージは上がる一方でした。多勢に無勢の勢いも見方をして愛媛県人、高知県人大いにトッポ話をしました。酒を飲まない私にとっては多少劣勢のようでした。

 折角来た余勢を借りて2次会に繰り出し、小さなスナックの客となりました。最初は何人かのなじみの客がいましたがそのうち引き上げ、またしても貸切状態です。ナツメロ・リバイバル・流行歌を9人が次々に歌うものですから、結局は12時までの楽しみ、宿へ引き上げたのは12時を回っていたようです。

 いやあ、交流はいいものです。宿で同じ101号室に床を並べた塩崎満雄さんとこうして他愛のない夜話をするのも何年ぶりでしょうか。青年の頃の思い出が蘇ってきました。

 明くる朝私は5時に起きて宿をそっと抜け出し、界隈の散策を試みました。わが家は今度の日曜日に母親の7回忌の法要が営まれます。そのため私一人が7時発のフェリーに乗って海を渡って帰りました。


(フェリーの窓から見えた佐田岬半島の突端の灯台、向こうには佐賀関の煙突、そして三崎半島の頂上には20基を越える風力発電のための風車が見えました)

  「牧場で 飲みし友だち 次は関 誘いを受けて 大挙乗り込む」

  「声を出しゃ 聞こえそうなる 所だが、橋やトンネル 物議をかもす」

  「関さばや 関あじたらふく 食いました 残りは無残 大根と串のみ」

  「また会おう 硬い握手で分かれたが 一ヵ月すりゃ 元のもくあみ」

 

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○お接待の心

 我が家の入口付近の道上に小さな祠があり、石の仏さんが祀ってあります。俗世からすっかり忘れられたような存在ですが、近所のお年寄りを中心に散歩の途中で立ち寄って祈りを捧げる人もいて、結構お参りがあるのです。30数年前にこの地を買い求め移り住んでから、路傍の雨風に晒されていたお地蔵さんのために祠を建て、わが家でお祭りをしてあげるようになりました。毎月21日を定めて幟を立て、茶菓線香を手向けるだけの簡単なことなのですが、妻はこの日をお接待の日と定めお赤飯を炊いて、お接待と称しせっせと近所や親類に配るのです。配る範囲はその時によってまちまちですが、15年前に民生児童委員になってからは、自分の持ち場の独居老人の家に配るようになり、毎月21日は朝から大忙しです。前日小豆を水にかし、もち米を加えたお米で赤飯を炊き上げるのです。今朝も炊き上がった赤飯の匂いが台所一面に立ち込め何ともいえない爽やかな朝です。炊き上がった赤飯は丸い桶に入れて冷まし透明のパックに入れて各家庭へ配るのです。

(透明のパックに詰められたお接待用のお赤飯)

 配る役目は及ばずながら私が務めます。一軒一軒主に独居老人の家を訪ねます。「おはようございます。お体の具合は如何ですか」と挨拶し、「今日はお大師様の日でお赤飯を炊きました。お接待ですのでお昼にでも食べてください」といいながら手渡しするのです。これといった用事もなく日々を過ごす老人にとって私の来訪は心待ちの様子で、ある老人などは手を合わせて「ありがたやありがたや」というのです。

 妻は今季限りで長年務めた民生児童委員を辞める事になりました。1期のつもりがついつい頼まれて5期の長きになり、女性部長という要職も2度務め、もう充分と判断したのです。既に後任の方も決まっていて、後2ヶ月余りの残任期間を一生懸命務めているようです。私は区長という仕事を既に終え、妻が民生児童委員を終えるのでやっと肩の荷が降りた格好です。区長や民生児童委員というボランティア活動にも似た仕事は、傍目に見えるほど楽な仕事ではありません。学ばなければならないし、耳や目や口を利用して活動をしなければなりません。それにも増して大切なのは社会弱者に対する優しい心を持たなければならないのです。

 夫婦揃って優しい心を学べたことは役をしてしか出来なかった大きな副産物なのです。さっき200メートルほど離れた所に住むおばあちゃんが、不自由な足を引きずりながら手押し車の助けを借りながらお大師さんにお参りにやって来ました。そしてわが家に立ち寄られ「いつも心に掛けてもらってありがとう。今朝のお赤飯は美味しかった。これは少しばかりの御礼です」お菓子をいただきました。断ることも出来ずいただいてお地蔵様に供えさせていただきました。

(わが家の入口付近の道上にあるお地蔵様)

 90歳になる親父は庭木の手入れをする手を休めて、お地蔵さんに通じる細い道沿いに今朝も縁日を示す手づくりの幟を何本か立てました。この仕事もやがて近い将来私の手に委ねられることでしょう。

 30年余り続いているお接待は振り返れば気の遠くなるような回数です。21日が来ると何のためらいもなく、まるで無意識のようにせっせとお赤飯を炊いてお接待する妻の姿が、今朝は少しばかり輝いて見えました。

  節介を 承知で配る お接待 今朝も単車に 赤飯積んで」

  「お彼岸が 来たよと咲きし 彼岸花 縁日幟 少しはためき」

  「お地蔵に 祈る老婆の 髪白く 背中かがめて 念仏唱え」

  「間もなくに 親父の仕事 受け継ぎぬ やれるかどうか 少し不安が」 

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shin-1さんの日記

○夕日寄席をやるか

 人間牧場の中心施設水平線の家に高知県魚梁瀬杉の切り株を利用して親父が作ってくれた台座があります。普通はテーブルにして使っているのですが、昨年6月広島県過疎を逆手に取る会のメンバーと共同で開催した逆手塾の折、沢山の参加者に何か工夫をととっさに思いついたのがこの台座に座布団を敷いて話をすることでした。この話が大受けで、その後水平線の家での研修会の度にこの台座の上に上がって話をするようになりました。これを見たえひめ地域政策研究センターの清水研究員が「あの台座の上で落語をやったら面白いかも知れない」と提案し、面白そうなので「よしやろう」と二人で菱かにその時期を狙っていました。南海放送のもぎたてテレビで人間牧場が紹介された折、ディレクターの三瀬さんにその話をしたら、落語用に使って欲しいと日本手拭と扇子をいただき、いよいよその夢は膨らんできました。

 来月国土交通省四国運輸局企画観光部観光地域振興課が主導して、わが町で観光カリスマ塾が開かれる予定になり、観光カリスマ百選の末席を汚す私がその講師役を務めるのですが、その折をとらえて夕日寄席の初舞台を考え少し準備を進めようということになり、清水研究員と松本研究員を巻き込んで準備が始まりました。

 そんな夢を持つと人間は何か心に希望がわいてくるもので、あれもしたいこれもしたいと考え行動するものです。落語には小道具が必要です。早速演目をお客に知らせる「めくり」なるものを考え、一昨日松山へ行ったついでに西村ジョイに立ち寄り、ヒノキの角材を買って帰り、私の図案化しためくり図を親父に見せ、作るよう依頼をしました。器用な親父のことなので一もニもなく引き受けてくれ、何とたった2日で昨日完成してしまいました。見透かしたように昨日清水さんが南予への出張の帰りにわが家へ立ち寄り、これを見て驚いた様子でした。

(親父の作ったヒノキのめくり、この台に演目を貼って捲るのです)

 昨晩清水さんと他愛のない夢を語りました。清水さんには清水さんの秘策があるようでまだマル秘ですがどうやら音の世界も考えているようで、これはまだマル秘の話なので公表は市内で起きます。清水さんが絡むと必ず経済の話になります。この寄席をどう運営するか、「500円のワンコインで運営しよう」と二人の話が既にまとまっていて、そのため参加者に提供する話のネタ本を売る事にしました。これも善は急げとばかりに昨日の早朝3時に起きて色々考え、とりあえずイメージを膨らませるためその原稿を2~3書いてみました。落語となると笑いですから中々難しいものです。文章の中に必ず笑いを入れる事を基本にしながらも、田舎のほおって置けない話も同情話として載せたいと思っています。

 私はこれもとっさの思いつきですが、台座の年輪が150年を数えているので、「150の小話」としようと馬鹿な話の大風呂敷にしてしまいました。しかしいきなり150もの原稿を書くことは出来ませんから、とりあえず30話を11月16日の初演までに間に合うようすることで清水さんと折り合いをつけました。それにしても馬鹿げた事を考えたものだと自分ながら自分の考えと行動を笑っているのです。

 私の芸名は二転三転の末「夕日亭大根心」と決めました。水平線の家の高座が「夕日亭」、芸名が「大根心」です。夕日を地域資源にして来た私を客観的に見て清水研究員が考えました。芸名の「大根心」ですが、これは私の古いペンネームなのです。教育委員会で公民館主事をしていた若い頃、町の広報を10年間担当し月2回、合計240号の広報を作りましたが、その折「こちら編集局」というコラムに「大根心」というペンネームで書いているのです。大根は葉っぱだけでは駄目で、本当の値打ちは土の中に埋まった白肌の大根、つまり心なんだと訴えるため、このペンネームをつけて書いたのです。当時は私の事を町民は=だいこんしん=さんと愛称で呼んでくれていました。ちなみにこのコラムは42歳の厄年を記念して「町に吹く風」というタイトルで一冊の本にまとめられ出版しているのです。

 小林旭の「昔の名前で出ています」ではありませんが、「大根心」という古くて新しい名前の復活です。面白くなりそうです。ワクワク・ドキドキします。

  「夕日寄席 奇妙な事を 考える ワクワクドキドキ 夢は広がる」

  「切り株の 上に座って 落語する 落伍しないで やれればいいが」

  「そういえば 昔の名前が あったっけ 大根心とは いい名じゃないか」

  「はや既に 動き出したる 夕日亭 小道具せっせ 親父巻き込み」 


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shin-1さんの日記

○水臭い水の話

 原油の値上がりは今や留まるところを知らないようで、最高値を更新したというニュースにため息を漏らすのは私一人ではないと思います。株もやらず外国旅行もほど縁遠い庶民たる私には、毎日ニュースで伝える株式市場や為替市場よりも原油市場の方が気になるのですからおかしな話です。それもそのはず自家用車を2台持っているわが家では、特に乗車となると毎日乗るものですからガソリン給油の度に毎回5千円弱の金額を払い悲鳴を上げているのです。国道沿いの給油所は1円2円の安売りにしのぎを削っていますが、友人知人のいる私はそんな場所を探すこともできず、海の向こうの砂漠の国の話として諦めるしかないのです。

 アラブの砂漠地帯は豊富な地下資源に恵まれ羨ましい国だとばかり思っていましたら、彼らは「水に恵まれている日本が羨ましい」と言うのです。ないものねだりかもしれませんが、確かに言われてみれば日本は水害などの自然災害は多いものの川も沢山有り水の多さを実感するのです。

 ガガーリンという宇宙飛行士が「地球は青かった」という名言を残すほど地球は水の星です。その地球の水の99.9パーセントは海水で、0.1パーセントが淡水だそうです。しかしそのうち人間が利用できる水は更に0.01パーセントでその水も時代の流れとともに人間のエゴによる汚染がどんどん進行して危機的な状況にあるそうです。

 水といえば私の体だって55キロの体重なのですが、その65パーセントに当る36キロまでが水分だそうです。しかもその体内の水分は約16日で入れ替わるというのです。今年は夏が暑くて熱中症で亡くなる人がいるほどでしたが、仮に水を一滴も取らないと体内の水分が一巡する16日程度で亡くなるのだそうです。

 水は動いているから腐らないので、桶に入れて3日も放置しておくと腐り始めます。ダムは水をためる大きな桶のようなものでしょうが、ダムに澱んだ水は死水のような栄養のない水だといわれています。都会の人が飲んでいる水は一見衛生的で綺麗な水のように思われていますが、実は少し危険な水を飲んでいるのです。私たちが始めて都会に行って水を飲んだ時、言いようのない不味さに鼻をつまんだことがありますが、一見谷川から取水している田舎の水は延性管理もそこそこで汚く感じられますが、ダムの水よりましな水だと自慢して飲んでいます。

 元上司だった今は亡き上田教育長さんが「水は方円の器に従い人は善悪の友による」という言葉をよく話されていました。その当時は余り深く考えなかった水五則という教えも今となっては身に染みるのです。水を飲む度にそのことは思います。また「水は高きより低きに流れるが人は低きより高きに流れる」と文化の話をしてくれたことも思い出します。文化については諸説があるのでこの辺で留め置きますが、文化の高き所へ人が集まるのであれば、文化の花開く町をつくらなければならないでしょう。

 今まで余りにも無頓着で水は何時でも何処でも手に入ると思っていたのに、気がつけば人間が生きてゆくうえで水ほど大切なものはないのです。気がつき始めたのかそこここで浄水器を取り付けたりして水にこだわる人が少なからず増えつつあるようです。いいことです。

  「無人島 暮し始めて 二十年 たった四日で 水は神様」

  「亡くなりし 教育長が 言っていた 水に学べと 口を酸っぱく」

  「水さえも 高きへ向けて 流す人 これこそエゴだ しっぺ返しが」

  「アブラより 水が欲しいと いうアラブ アブラ欲しさに 戦までして」 

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shin-1さんの日記

○米寿のおばあさんにお化粧のプレゼント

 私の友人に岩手県一関市室根に住む金森勝利さんという人がいます。「何でそんな遠方東北の人を知っているの」といわれそうですが、たまたま東京上野の国立社会教育研修所へ公民館職員講座の講師として招かれた際、参加していた金森さんが私の話を聞いたそうで、何年か後私の事を思い出し一関市の公民館研修会に彼の尽力で私を呼んでもらい急速に交友が深まったという訳です。その後もメールでのやり取りが頻繁となり、今月始めにも一関市室根に招かれ再開を果たしたのです。

 彼が指導している室根青年ふれいあ塾では敬老の日の17日、若者たちが町内の米寿の女性にお化粧をプレゼントする行事が毎年続いているそうで、室根に行った折その話を聞いていたので、新聞に載ったら送ってくれるよう頼んでいたら、昨日メールに添付して送ってくれました。

 岩手日日新聞社の記事を紹介します。

 米寿女性に化粧プレゼント 一関市室根・青年ふれあい塾(9/18)

 敬老の日の十七日、一関市室根の若者たちが町内の米寿の女性に「お化粧」をプレゼントした。おばあさんたちは目元まできれいにメークしてもらった自分の顔に照れながら、少女時代に戻ったような輝く笑顔を浮かべ感謝した。

 室根公民館が主催する青年ふれあい塾が平成十年から毎年行っているもので、同塾のメンバーや高校生十人が参加。町内の八十八歳の女性のうち五人の自宅や入所施設を訪ね、このうち同町折壁の特別養護老人ホーム孝養ハイツでは、西村いとさんと小野寺恵子さんの二人にお化粧を施した。

 若者たちは「好きな色はどれですか?」などと声を掛けながら、パレットに並ぶさまざまな色の中からそれぞれに似合う色を吟味。ファンデーション、アイシャドー、口紅、チークと、分担しながら丁寧にメークを行った。

 「女性なら化粧道具を一通りそろえないと行かないのだろうけど、クリームを付けるぐらいしかしなかった」という西村さんは、鏡に映る化粧顔に「自分でないようだ」と語り、職員から「きれいだよ」と声を掛けられると照れ笑い。

 参加した佐藤美香さん(高三年)は「将来介護の仕事に就きたいと思っているので、お年寄りが喜ぶ姿を見れてうれしい」と語り、美容系の進路を目指しているという小山香苗さんは(高三生)は「しわがあったりしてメークするのは難しかったけど、何色を合わせたらいいか考えるのが楽しかった」とメークの出来栄えに満足そうに見詰めていた。

 所変れば品変わるといいますが、何て素晴らしい企画なんでしょう。添付された写真では高校生からメークをしてもらうおばあちゃんの姿が何とも幸せそうに見えました。今の若者はと揶揄される現代にあって高校生をも巻き込んだ敬老の日の小さくも大きな声援たちの心温まるプレゼントに心から大きな拍手を送りたいと思います。

 この計画実行の段階でも88歳の方々の名簿が欲しいと役所に相談したそうですが、やはり個人情報保護法という法律を楯にかなり苦心をしたそうです。考えさせられる話でした。

 公民館は青年の溜まり場なのに殆どの公民館に青年たちは何故か集まろうとはしません。それは金森さんのような青年と行動を共にするよき相談相手がいないのかも知れません。もう一度青年は今何を求め、青年に何を期待し、青年に何をすれば良いのか考えてみる必要があるようです。

  「いいもんだ 青年たちの 善行は 心ほのぼの 大きな拍手を」

  「送られた 写真のばあちゃん はにかんで それでも私 綺麗に見える?」

  「孝行の 真似事してる 高校生 百点くらい 付けてやってよ」

  「金や物 あげることより 真心を これが米寿の 心得ですよ」  

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