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○腐葉土つくりのための落ち葉拾い

 昨日は出張先の東京から帰って、久しぶりに人間牧場へ行きました。初冬とはいいながら風もなく穏やかな日だったので、透明のゴミ袋を妻に用意してもらい落ち葉拾いをしました。「落ち葉なんか集めて何にするの?」と言われそうですが、この落ち葉を使って腐葉土を作る計画です。

 人間牧場の農場でこの2年間子ども達と一緒にサツマイモを栽培していることは何度も紹介していますが、来年度は今年収穫したサツマイモの幾つかを保存しておき、種芋として目を出させてツルを取って命のリレーをしようという壮大な計画なのです。そのため愛媛県が公募しているバイオマス事業に応募しました。将来の環境を考える新しい事業なので、応募者が多いだろうし、こんなちっぽけな事業は考えても採択されることはないだろうと半信半疑の応募でしたが、何とこの事業が採択されてしまったのです。金額的には応募が多かったので総事業費10万円が多少減額されました。でも人間牧場は全て自前と決め込んで始めた事業でいささか心に引っかかりはあるものの、甘んじて受けようと、双海町からえひめ地域政策研究センターへ出向している松本さんの力を借りたり、教育委員会の皆さんと相談しながら、来年の少年少女おもしろ教室のプロローグとしてスタートする事にしたのです。

 昨日はその手始めに落ち葉を拾いに出かけました。2~3日前から双海町では木枯しが吹いたため道沿いの吹き溜まりにはクヌギや樫の葉っぱがかなりの量で落ちており、山の中を歩かなくてもどんどん集めることができました。僅か30分余りでナイロン袋に7つも拾い、トラックに積んで人間牧場の倉庫に運び入れました。近所の人がその仕草を見て、車を止めて不思議そうな目で見ながら通り過ぎて行きましたし、顔なじみの人は「進ちゃん、今度は何をしでかすの?」と笑いながら声を掛けてくれました。

 今週の土曜日には子ども達が土作りのためにやって来ます。そお作業の一貫なのですが、実はこの落ち葉にバイオマスペレットを混ぜて土の中に掘った穴に入れて発行させる計画なのです。そのためには2メートル四方の穴を掘らなければなりません。スコップと鍬を用意して倉庫の裏の空き地に穴を掘り始めましたが、これがまた中々の重労働で、すっかり非力になった私の力では中々骨のある作業でした。作業中長男から電話が入り、嬉しい事に手伝いに行くというのです。そうこうしているうちに長男がやって来て、体力に物をいわせてアッという間に掘ってくれました。

 持参していたコンパネを立ててどうにか様になりました。あいにく釘の買い置きがなく、道具箱の何本かを使って作業を終わりました。子ども達がやって来る今週の土曜日までには何とか完成したいのですが、今日からまた秋田への旅が始まり、その作業が中断してしまいそうなので、今日は新聞社の取材が入って下灘駅へ行く予定なので、その折にでも都合をつけて工事を続行したいと考えています。

 今朝は親父を病院へ連れて行く日なので、午前中は仕事になりません。年賀状の印刷原稿を今朝早く起きて作成し、とりあえず馴染みの印刷屋さんへ遅ればせながらファックスで送りました。今日からの秋田行きは今年最後の大仕事なので頑張ります。

  「道沿いの 落ち葉集めて 土作り 作業難航 息子手助け」

  「バイオマス 横文字使う 補助金が 採択されて またもや進化」

  「体力は 確実減って 口ばかり 息子見てると 羨ましいな」

  「葉を落す クヌギの木々の その下に 無数ドングリ 腐る運命」 

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shin-1さんの日記

○奥多摩町を訪ねて②

 奥多摩町福祉会館は鈴木さんの料亭「寿々喜家」の直ぐ裏側にありました。「奥多摩の明るい未来を創る会」が主催した会なので、そのメンバーに会うため会館の中にある障害者が運営する「タンポポの家」の和室でお茶をいただきながら名刺交換しました。参加者の中には双海町へ来られた議員さんたちもいて、NPO法人タンポポの会のメンバーを交えた賑やかな交流となりました。

 

 私に与えられたテーマは「観光振興と意識改革」でした。この町のように東京に近いという地の利と、少し不便という古きものが残る場所、しかもこれといった基幹産業がない地域は、あり余る自然や暮しを生かした観光を目指すのが一番だと誰もが思います。しかし観光の何をどのように誰がいつ売るのかとなると、中々回答が出てこないのが実態だと思うのです。これまでの観光はどちらかというと東京にすり寄る姿勢があり、行政主導でハードやハコモノを作るないものねだりの観光であったように思います。しかし都会の人が本当に求めているのはそんな都会の物真似をしたハードではなく、人々の暮しや文化といったソフトなのです。そのためには民間も行政ももう一度その事を意識して、これからの観光振興を立ち上げなければなりません。そして暮しや文化を物語にしてまちづくりという手法で情報発信して行けば、必ず奥多摩らしい、奥多摩にしかないオンリーワンが出来るはずなのです。

 観光の難しさは観光を経済的に潤う人の占有物だと観光に携わる人は思い、携わらない人は人のことだと投げやりになることです。まちづくりが出来ていない町は観光を語る資格がないのです。観光で成功している地域には三つの条件があります。一つは時間が守れてあいさつが出来て、人が集まります。二つ目は公衆トイレが綺麗です。三つ目はその町の入り口から出口まで花が咲いています。

 観光客が来た時、優しい声が掛けれるような町、公衆トイレが綺麗な町、花が咲く素敵な町へは、また来たいと思うに違いないのです。つまり観光は人々の心が出来ていないとリピーターは来ないのです。リピーターが来ないと経済は潤わないのです。物を作っても心ある人が来ない町は経済どころかゴミと糞とション便だけが落ちるのです。

 
(お茶会は賑やかに夢を語り合いました)

(右端が今回の仕掛け人の鈴木賢一さんです)

 会議は大勢の人が集まりました。講演に熱中し残念ながら皆さんの写真を取るのを忘れてしまいましたが、集会後寿々喜家の二階で座談会をしました。議員さんやリーダーの方々に私が話したのは、一人一人が自分の住んでいる地域をよくして行こうということでした。議員なると議員病という評論家になりがちですが、自分の住んでる地域も自慢できず、自分の地域を守れないのに全町のことをいくらいっても、人は信じてくれないのです。色々な意見が出ました。ローバイを100本植えたという話や、イルミネーションで地域を飾っている話も出ました。故郷自慢が出来る地域は素晴らしくなり、それがやがては観光となるのです。

 その夜宿泊場所となった前田副議長さんの経営する玉翆荘へ筋木賢一さんが訪ねてきて、夜遅くまで二人でまちづくりについて四方山話をしました。酒を飲まない二人ですが、話に酔い知れました。

 明くる朝、玉翆荘のおばあちゃんがハヤトウリなどの珍しい漬物を朝食に出してくれました。これが絶品でこれを玉翆荘の売り物にしたらどうかとおばあちゃんに言ったらおばあちゃんは笑っていましたが、愛媛県宇和町には漬物だけで40種類もそろえた糠床だけでお客を集めているお店があります。結構有名で著名人がやって来るのです。普通は何でもないと思っているこうした生活文化や暮しが都会の人には求められているのです。寿々喜家で食べた川魚の生燻製も絶品でした。いい物を持ちながらこれが湧きに追いやられたり、気付いていないのは何とも勿体ない話です。高齢化する中で老人が持っている暮しの技はこれからの観光を支えること受けあいです。ついでの話で恐縮ですが役場職員の意識も少し改革する必要あると感じました。

  「おばちゃんの 技が生きてる 漬物を 情報載せれば 有名旅館に」

  「当選を すると何故なの 議員病 評論するも 手足動かず」

  「このままで 追々細り する地域 足腰立つうち 何とかせねば」

  「人のこと 思っている人 役場人 これでは人が ついて来ないよ」   

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shin-1さんの日記

○終着駅は始発駅・東京都奥多摩町を訪ねる①

(東京都庁のある新宿に建つビル群、ここから奥多摩町への旅は始まりました。落差を感じながら・・・・)
(朝の新宿は黄色いイチョウの葉っぱが風に舞って詩情豊かに落ちていました)

 「♭函館止まりの連絡船は 青森行きの船になる♯」なんて北島三郎さんの演歌があって、よく酒を飲むと調子に乗ってカラオケで歌ったものです。そんな懐かしい歌を思い出しながら、新宿発青梅行きの快速電車に乗り込みました。中央本線は山梨へ行く途中何度も通っているし、10月にも木曽福島へのルートとして選びましたが、青梅線は初めてだし、青梅から乗り継いで奥多摩までの列車はまだ一度も乗ったことがないので、奥多摩の渓谷沿いに登って行く列車の窓辺に見える初冬の奥多摩路を興味深く眺めながら、終点奥多摩駅に到着しました。待ち合わせ時間を含めても2時間ほどの短い時間でしたが、これでやっと念願叶って南に地位置する三宅島と東京都の一番奥まった場所へ来れたのです。日本の中心地で世界に冠たる東京都なのですが、中には三宅島のような離島もあればこんな田舎もあるのですから驚きです。

 そもそものきっかけは東京都町村議会議長会に招かれ東京都内で議員さんの前で話したことがきっかけでした。「面白い話をする人もいるものだ」と珍しがられ、おらが町に来て欲しいと三宅島にお邪魔し、奥多摩町の議員さんはわざわざ議員研修の場所としてわが双海町を選ばれ、6月4日に見えられたのです。その折義言いの一人として来られた鈴木賢一さんが代表を務める「奥多摩の未来を考える会」の招きでの訪問となったのです。

 奥多摩町では先月町議会議員選挙があって鈴木さんは勿論、双海町へ来られた他の議員さんも全員当選して、懐かしい顔々にお会いするの楽しみの一つでした。

 私が双海町を出発する日は北西の季節風が吹くあいにくの天気で、傘も用意しての旅立ちでしたが、東京都は風もなく絶好の天気に恵まれ、奥多摩までの列車にはリックを背負ったハイキングを楽しむ中年の男女が何人も乗って賑やかでした。

 地元の人は不便といいますが、30分に1本の電車が走っていて、マッチ箱のようなたった一両の列車が長閑に走る私たちの町から比べると雲泥の差があるようです。木造の駅舎も立派なもので、駅前の通りも昔から比べると寂れたそうですが、それでもバスがひっきりなしに出入りして、活気があるように見えました。

(終着駅でもあり始発駅でもある奥多摩駅)
(立派な三本杉)

 予想以上に早く着いたので、ひとりカバンを提げて周辺を散策しました。駅前に降り立った時目についた杉の木を見に行きました。多摩川に架かるモダンな橋の直ぐ側に神社があってその境内に、三本杉という東京都の天然記念物に指定されている大きな杉の木がありました。実に見事な銘木です。この町には巨樹と呼ばれるに相応しい樹木が沢山あって、その数は日本一だと自慢しているようで、暇があればその木々を訪ねたいものだと思いましたが、この日は残念ながらそんな時間も余裕もないため心残りな旅となりました。私は更に役場裏の遊歩道を通って多摩川沿いを散策しました。台風9号の被害甚大で「水の色が少し濁って」と謙遜していましたが、どうしてどうして、初冬の澄んだ水がとうとうと流れ、すっかり葉を落とした落葉樹の木々が冬近しの風情を醸していました。

(役場裏の多摩川に架かる赤い橋と川原)
(水は澄んで心が癒されました)
(この水は東京へ向って流れていました。実に美しい流れです)

 さてお目当ての鈴木賢一さんとは、東京都の町村議員研修会、奥多摩町の議員視察研修会と、これで3度目の出会いになるのですが、奥多摩町のホームページにアクセスすると先月禊を受けた選挙の様子が詳しく紹介されていて、本人は謙遜して電話打ち合わせの時には微塵も漏らさなかったのですが、どうやらトップ当選を果たされたようでした。

(鈴木賢一さんのお店の入り口に張り出されたいた私のポスター、横には議員選挙の余韻の看板がありました)

 電話では駅の近くで寿々喜家という料理屋を営んでいると聞いていたので、歩いてお店を訪ねました。昼前という仕込みの時間だったこともあって、鈴木さんも奥さんも従業員の方々も厨房で忙しく働いていて、悪い時間に訪問したと察したものの引き下がることも出来ず、カウンターでお茶をいただきながら、四方山話に花を咲かせました。お昼は鈴木さん自らが腕を振るって天ぷらをご馳走になりました。カウンター越しに見える鈴木さんのお手並みは見事なもので、あっという間に天ぷら定食が出来上がり、熱々の揚げたての天ぷらの美味しかったは格別でした。

(ダム湖です。台風の余韻でしょうか、少し濁っていました)

 食事が終わって一段落したところで、東京都の水瓶といわれる奥多摩ダムを鈴木さんの運転する車で見学に行きました。飲料水源ダムとしては最大級で、東京都民は遠く離れたこの水の恩恵を受けているようで、その見返りでしょうか、周辺の施設もかなり立派で、都民のオアシス公園となっているようでした。

(東海林太郎が歌った「湖底の故郷」という歌の歌碑です。)

 しかし、奥多摩町は何処へ行っても平地が少なく、田んぼは皆無だと聞きました。急峻な地形は私の町も同じで別に驚くことはありませんが、それでも私の町には見渡せば瀬戸内海が広がっていて、景観上での閉塞感あるようです。でもその分自然が豊かで、秋や春には季節の移ろいを愛でに大勢の観光客が押し寄せるようです。

  「東京と いいつ海あり 山ありて 人の暮しの 温もり感じ」

  「三度目の 正直なのか 奥多摩へ 人のご縁は 不思議なりけり」

  「親と子が 仲良く並ぶ 三本樹 優しき町に 足を踏み入れ」

  「この水が 流れ流れて 街人の 命育む 知る人もなし」    

 


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shin-1さんの日記

○昨日で今年も終りです②

 昨日は大学の授業日でした。しかも年間60時間の最終59時間目の授業なのです。授業の組み立ては大きく分けて三つになっています。まず一つ目は春先から「地域振興とまちづくり」について総論概論や県内外実態などをデスクワークでみっちり学ばせます。そしてその中から県内先進地視察に出かける住みたいまちと訪ねたいまちの採点基準をそれぞれ4テーマ40項目考えるワークショップを四つの班に分かれて行います。二つ目はその調査票を基に県下4ヶ所の市町を調査研究するために出かけます。そしてその調査結果を個人レポートにまとめて班毎に集計し発表します。三つ目はそれらの知識を基に自分たちが訪ねたいまちの理想像、住みたいまちの理想像をそれぞれ4テーマ、40項目設定するワークショップを行いその成果を発表するのです。

 昨晩は三つ目の発表会でした。4回のワークショップと班別討議によって8枚の発表資料がいつの間にか美しく出来上がっていました。昨日はまちづくり人の主張でご指導いただいたえひめ地域政策研究センターの所長さんや3人の研究員も特別参加してもらい賑やかな発表会となりました。昨日の発表会は四つの班がそれぞれ発表するのですが、自分の班以外の班に点数をつけて採点する方式をとりました。発表資料の出来栄え、資料の着眼点、発表の方法、総合点などそれぞれ5点満点で採点しましたが、センター職員にも採点参加してもらいより客観的な方法をとりました。

(グランプリをとった3班の発表)

(2班の発表)
(1班の発表)

(4班の発表)

(発表に聞き入る学生)

(センターの皆さん)

 実はこの発表で最高得点を得た班にグランプリとして賞金を贈る事を考えました。これは毎年やっている私のささやかなプレゼントなのです。賞金といっても私のポケットマネーから1万円しか出さない僅かなものですが、学生の夕食代だと思って続けているのです。これが学生には何故か好評でグランプリを目指して一生懸命頑張ってくれたのです。結果は61点と61.5点という僅か0.5ポイントの差で3班がグランプリを物にしました。

 センターの所長さんや研究員の方にも講評を述べてもらい、また班長さんにもそれぞれ一年間の思い出を述べてもらいましたが、少しジーンとくるような場面もあって、いい発表会で終わりました。帰り際玄関で待ち受けていた学生から別れを惜しむ声が沢山聞かれ嬉しい反応にこちらも少しジーンと来ました。

 長いようでも短い学生たちとの今年度の学びは昨晩で終わりました。学生たちはこれから「私の考える地域振興とまちづくり」「学びの感想」という個人レポートを年明け10日までに提出し、そのレポートと出席簿を基に採点し、レポート類を添付して大学へ提出、私の役目を終わるのです。

 昨日大学の校内で準教授に出会ったら、来年からは夜の授業でなく昼の授業になるかも知れないと耳打ちされました。6限が5限に変わるようです。そろそろ潮時かとも知れないと思いつつ複雑な気持ちで大学の駐車場の白赤の無人出口のバーをくぐって門を出ました。

  「少しだけ 涙がちょろり いいシーン 毎年ながら 終りは寂し」

  「想像を はるかに越えた 成長に お目々細めて 発表を聞く」

  「グランプリ たった一万 だけれども それでもみんな 本気喜ぶ」

  「別れ際 お礼と差し出す 義理チョコに 嬉し恥かし 年甲斐もなく」   

 

 

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shin-1さんの日記

○大学の授業①

 この5年間、毎週水曜日の午後6時から2時間、決まって私のスケジュールにセットされ続けてきたのは大学の講義でした。何の見識も持たない私に、ましてや高校しか出ていない私に、「大学の教壇に立たないか」と大学の先生から声がかかったのは今から6年前の夏ごろでした。当時は役場の地域振興課長を拝命して、まちづくりの第一線に立っていたこともあって、「幾らなんでもそればかりは」と最初は辞退しましたが、まちづくりの実績を評価されての強い要請だったので、恐れながら引き受けることにしました。しかし私が幾ら引き受けても任命権者である町長の承諾がなければ出来ないため、町長に直訴をしてしまいました。多分駄目だろうと半信半疑だった私に、懐の深い町長さんは「仕事に穴を開けない」約束でOKを出してくれたのです。ところが授業のカリキュラムが既に組まれた年明け早々私が教育長に就任することになって、その後辞退したものの動き出した船を止めることは出来ず、結局お忍びで始める事になったのです。

 大学へは単発でお話しに行ったり社会教育主事講習の講師を務めたりした経験はあるものの、学びのシステムを飲み込むことが出来ず、最初は戸惑うことが多かったのですが、大学授業のアバウトさにも慣れて独自の授業構成を編み出して、それなりの評価や実績が出せるようになり今日まで続けて来たのです。それでも年間60時間の授業を組み立てることは中々骨が折れ、この仕事の奥の深さを痛感しているこの頃です。

 私は愛媛大学法文学部総合政策学科非常勤講師という肩書きで教壇に立っています。春になると対象となる夜間主の学生全員を集めてガイダンスが行われ、講師陣がそれぞれ自分の講義の魅力について話すのです。いわば学生の分捕り合戦で、学生はそれぞれの講師の話を聞いて自分の学びたい分野を選択しカードに第一希望から第三希望まで理由を書き込むのです。このカードが先生たちによって第一希望を優先しながら分類され振り分けられて授業が始まるのです。例年ながら私を希望する学生は多くて、全ての要望には応えられませんが、それでも私を選んでくれたいとおしい学生たちに囲まれて、楽しい授業が続けてこられたのです。

 私の授業はフィールドワークなので、県内の先進地と目されている場所へ盛んに学生を連れ出して、目や肌で現地の雰囲気から学ばせるよう心がけています。県内外から集まった学生にとって他市町村へ行くことなどほとんどないため、地域を調査研究といいながら市町村を巡ることはとても新鮮で熱心に学びました。

 今の学生は授業に来ているのかアルバイトに来ているのか分らないとか、授業中に私語や携帯をするとか聞いていましたが、私の教室に限って言えばそんな学生は殆どいませんし、礼儀も正しい25人前後の学生が在籍してこの5年間いい雰囲気の学習を続けて来れました。

 私にとってこの5年間はあっという間に過ぎ去りましたが、まちづくりに深く関わっているつもりでもまちづくりの現場に若者の姿は余り見ることが出来ないため、学生から逆に沢山の事を学びました。若者の意識と行動、若者とまちづくり、若者対策など5年前の私にはなかったワールドが広がっているのです。

 人は意識してその世界に入り込まないと自分の価値観が損か得か、好きか嫌いかだけの判断でしか選べないのです。損しても嫌いでもその世界に入り込む勇気が必要なのです。正直言ってこの歳になって40歳以上も年齢差のある人との気力・体力・知力の偏差ギャップは歴然としていてきつい仕事です。でももう少し心の若さを得るために努力してみようと思うこの頃です。

  「石の上 早くも五年 過ぎました 若さ学んで 老いがストップ」

  「水曜日 来るのがどこか 待ち遠し ワクワクしつつ 裏口入門」

  「先生と 呼ばれて返事 しない俺 も一度先生 われ振り返る」

  「四十八 瞳キラキラ 輝いて 俺の瞳も 輝き増しつ」


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shin-1さんの日記

○夜の砥部町商工会講演会

 野村高校での昼の講演会に続いてダブルヘッターのような砥部町商工会からの要請に応えるべく、夕闇迫る時間に野村~内子~小田~広田~砥部へと裏街道ともいえる道をひた走りに走りました。この道はいつか来た道ではなく何度も通っている道なので、見覚えのある道の駅からり、宿泊施設いかだ、道の駅ひろたなどを横目に見ながら暮れなずむ師走の物悲しい山村を通りました。いつの間にかこれらの道も随分改良が進んで、広田~砥部の一部が未改良のようですが、野村から砥部まで僅か1時間半弱で到着しました。

 砥部の町もかつて私たちが青年団で活動した時代は農業青年が多く活気に満ち溢れていましたが、相次ぐ住宅開発で新住民となった人が多く、僅かに残る商店街に昔の面影を偲ぶ程度となっているようです。それでも陶街道五十三次などの新しい発想でアートの里をピーアールしてまちづくりの情報を盛んに発信しています。

 砥部焼は文化産業の色合いが濃く、白磁に藍色の色調は高い評価を得ているようですが、手づくりのため家内工業的な域を脱することが出来ず、100を超える窯元があるというのに売り上げは年間20億円程度だそうですから、伝統産業の苦悩が見えてくるようです。加えて最近は地方経済の冷え込みで美術品のような作品の売れ行きが今ひとつらしく、茶碗や湯のみ、皿といった生活用品が主流で、そのことも構造不況の一因のようです。

 昨晩の講演会は、9月13日にわが人間牧場で行われた中予地区商工会女性部研修会に参加していた、竹口部長さんたちが私の話を聞いて是非との有り難い要請によるものでした。加えて人間牧場へは商工会の西山会長さんも参加してもらっていて、嬉しい限りです。私は昨夜の会は女性部だけかと思いきや沢山の男性もお集まりで驚いてしまいました。西山会長さん、竹口部長さん、藤尾事務局長さん、田中指導課長さんは勿論のこと、旧友稲葉さん親子や白潟理事長さん、元三越に務めていて今は砥部でそば屋を営む山田さんなどなど、顔見知りも多くかなりのプレッシャーでした。それでも1時間余りの短い時間でしたが皆さん熱心に聞いていただきました。

 砥部町へは先月の22日に砥部楽学大学に来て講演したばかりで、その全てがCATVで長時間放映されていたため、多分見聞き及んでいるだろうと、少し視点を変えて話したものの、少し気がかりでした。

 講演を終わって帰り際、参加した女性の集団が玄関で、「若松さん、パワーを下さい」と握手を求められました。また「私はハガキを絶対出します」と名刺を求められました。嬉しい反応に驚きながらほのぼのとした気持ちで帰宅への夜道を急ぎました。

 演題は「人間牧場構想・遊び心の創造」でしたが、人生は楽しい、美しい、新しいという三つのキーワードを考えて生きると充実した人生が送れるようです。年齢によっては厳しい仕事環境の中で、とりわけ厳しい商工業者にそんな余裕などないといわれるかも知れませんが、それでも常に明るい日差しを求めて生きていれば何とかなるものなのです。自分が元気、会社も回りも元気であって欲しいものです。

 昨晩も沢山の人に会いました。縁を深めるのには次にまた会おうと思うことです。稲葉さんも白潟さんも、山田さんなどは早速人間牧場でソバを打とうと立ち話提案されました。自分の世界を広げそこから自分の仕事につないで行くしたたかさがいい商売を生んでゆくのです。さてどんな次の出会いが待っているでしょう。考えるとワクワク・ドキドキします。

  「帰り際 パワーを下さい 差し伸べる 手と手を握り 再会約す」

  「干支持ちて 訪ねし先輩 面会し 過ぎ越し日々が 昨日のように」

  「あきまへん 儲からないと 嘆く人 少し工夫の ヒントになれば」

  「男ども 見習え女性 元気だよ ワイワイガヤガヤ 男尻目に」


 

 

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shin-1さんの日記

 双海~長浜~大洲と車を走らせ、「須崎100キロ」と書かれた旧肱川町の国道197号を更に進むと、長い三つのトンネルがあります。まるで「反対では?」と見間違うような立体交差の橋を左折すると、野村町方面を示す看板がありました。何度も通った道なので間違うはずもなく進むとそこは西予市野村なのです。道の緑地帯にはこの日お邪魔する野村高校が管理する立派な花壇が目につきました。師走を感じさせる葉牡丹が行儀よく並べて植えられていて、「おっ、野村高校、やってるな」とまちづくりにいささかなりとも関わっている私はつい嬉しくなりました。

 学校は街の入り口付近にあり、その場所を示すカーナビの画面を見ながら、少し早めに着いたので旧野村町の自慢の一つである乙亥会館を見学しようと急に思い立ち、信号を右折し三つ目の信号を左折すると、川沿いに乙亥会館が見えてきました。この会館は相撲処野村がその自慢として、両国国技館を模倣して建てたと何かの記事で読んでいたり、野村の友人から聞いていたいたので一度は訪ねたいと思っていたのですが、残念ながらその暇もなく延び延びになっていました。

(太鼓櫓)
(乙亥会館)

(吊り屋根天井と中の様子)

(相撲博物館)
 両国国技館へは足を運んだことはありませんが、大相撲中継の度に映し出された国技館の姿が頭の中にあるため、そっくりな姿と色合いに何か懐かしい感じがしました。櫓も組まれ、九州場所のご当地出身玉春日の星取表まで残っていました。確か玉春日は負けが込んでいたにもかかわらず終盤連勝し勝ち越した記憶があり、幕内でも古く高齢にもかかわらず黙々と頑張る姿には感動したものです。

 入口付近には御茶屋さん風のお店も並び、私の顔が売れているのか?、こんな田舎町でも出会う人がいて、「若松さんではありませんか」と声をかけてもらう有様です。中に入ると相撲博物館があり時間がないのでさっと目を通し会館の中へ入りました。木造の高い天井には大相撲と同じ吊り屋根があり、可動式の椅子は収納され、体育館のような会場では老人会が集会をしている最中でした。温泉も併設されているのでしょうか、会館前の駐車場は一杯で止める場所を確保したものの写真を2~3枚撮って足早にその場を立ち去りました。友人原田課長さんにも会いたいとも思ったのですが野村高校へ行く時間が迫って後ろ髪を引かれる思いでした。

 全校生徒400人を前に「人間としての在り方生き方」を話して欲しいと頼まれていたため、15時から50分間の短い時間ながら熱を込めて話しました。この高校出身の人で県庁の旧友井上課長さんや鶴井局長さんの顔を思い出しながら、高校生なので短めの話をつなぎつなぎ出来るだけ分りやすく話したつもりですが、反応はどうだったのでしょう。でも壇上にいる私への直接反応は真面目な聞く態度も話への感心も申し分のないものでした。講演の前後に校長室でお茶をいただきながら清家校長先生、近藤教頭先生と面談しましたが、清家校長先生は八幡浜高校の創立記念イベントでウォークラリーを計画した折、目的地がシーサイド公園だったため、花火を用意するなどいささかの手助けをしていた思い出を話され驚きました。

 仕事柄県内の公立高校は殆ど足を運んでいますが、少子化の影響で田舎の高校は定員削減という方針に基づき生徒数が減っており、また就職組より進学組が多くなって、少し活気が失われているようにも思えました。ひと頃の学校が荒れた時代はもう遠い昔のことのようです。でも裏を返せば将来を見据えた真面目な態度になっているのですからそれはそれとして喜ぶべきでしょう。

 水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に旅立った40数年前の自分の姿を短い時間ではありましたが、思い出しながら話すことが出来て、いい一日でした。

  「二つの目 八百の目に 見られてる そんな緊張 話に凝縮」

  「ついでにと 乙亥会館 見学す 太鼓櫓の 音を想像」

  「九州の 熱戦の後 星並ぶ 黒と白とが 勝ち越し告げて」

  「青春を 語る自分の 青春を 思い出しつつ ショートな話」 

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shin-1さんの日記

○教え④

 一昨日まで国立大洲青少年交流の家で開かれた「大人を考えるシンポジウム」で数学者の秋山仁先生が、帰る車の中で、13人の終日参加の若者に色紙を書いてくれました。走り書きのような一枚一枚の色紙には味なる言葉がたくさん書かれていました。数学者らしく英語や数字のもありましたが、講演で述べた次の言葉の引用が多かったようです。

 「いい生き方をするための11のポイント」

 ①でっかい志を立て、自分流横綱を目指そう。

 ②一週間に一冊の本を読もう。

 ③感動を求めてどんどん出かけよう。

 ④自分にしか出来ない仕事を探そう。

 ⑤新たな事に挑戦しよう。

 ⑥スポーツで汗を流し体力を身につけよう。

 ⑦自立自活しよう。

 ⑧出会いを求めて旅に出よう。

 ⑨真実を語れる友、尊敬する師をつくろう。

 ⑩無から何かを創り上げる日々を送ろう。

 ⑪今日は何人の人を喜ばせることが出来るか考え、朝起きよう。

 エマーソンは人生成功の四つを次のように述べていることも紹介し色紙に書いていました。

 「人生成功の四つ」

 ①健康な子どもを一人は残す。

 ②お花畑を作る。

 ③社会をよくする。

 ④あなたがいたから今があるといわれる人間になる。

 色紙に走り書きした色々な言葉に納得しながら、自分のこれまでの生き方を反省してみました。殆どの言葉どおり生きてきたつもりですが、それは自分で納得しているだけであって、側にいる他の人から見てもらうと、まだまだである事に気づくのです。私はこの11を妻に読んで聞かせ、自分の足らない部分を言ってもらいました。例えば⑥は最近体力をつけるどころか、体力が衰えているような感じがします。書斎にこもってパソコンの前で過ごす時間が増えてきたと指摘されました。「当っている」と思いながら、昨日から体力をつけたり体を動かす事を意識的に始めてみました。風邪の回復後まだ間がないので無理は禁物ですが徐々に努力したいと思いました。⑦の自立自活も日々の暮らしの中で考えるだけでなく行動しようと思いました。

 立ち止まって自分の今を見つめ、反省しながら自分と対話して目標を決めて行動する、何気ないことですがこうした積み重ねが人生なのでしょう。

  「走り書き メモをパソコン 打ち込んで 妻に評価の 辛口採点」

  「そういえば 気力ばかりが 先に立ち 体力なくて 風邪の進入」

  「立ち止まり 日々の暮しを 見直せば 今から先は 楽しい日々が」

  「健康な 子どもを四人 世に送る これは四倍 大成功だ」

 

 


 

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shin-1さんの日記

○三つの実行委員会委員長

 2年半前にリタイアした折殆どの公職を辞して一野人になったつもりでしたが、2年半の時の流れの中でいつの間にか、色々な役職が復活し忙しく振舞っています。妻からは「仕事を辞めたのにどうしてそんなに忙しいの?」と首をひねられていますが、それでも人のお役にも立たなければなるまいと、請われるままに引き受けていますが、そろそろ限界かなと自分でも思っています。

 私は今三つの実行委員会の委員長をやっています。一番長いのは教育長の現職時代に兼務していたものを、市町村合併で持って行く人がいなく続けている双海町青少年おもしろ教室実行委員会の会長です。事務局が教育委員会にあって職員がしっかり支えているのでそんなに大きな仕事ではありませんが、それでも人間牧場をフィールドにして活動するため、手を抜くことが出来ず、むしろ積極的に関わっています。昨日の夜その委員会が行われました。この運営はゆめ基金という文部省系の資金が使われているため、今年度の反省に立って来年度の事業計画を立案する重要な会議でした。30人の定員で募集したものの倍の60人に余る応募があって抽選しなければならなかった反省点や、安全な冒険、マンネリと伝統の狭間、企画や運営への巻き込みなど様々な意見が出ましたが、今年も去年にはない大きな成果を得て、参加した子どもも参加させた親も満足のようなので、来年も継続することで一致し、会議を終えました。特に来年は「命をつなぐ」意味で、早速今月の22日にバイオマスで土作りを行い、今年収穫した芋のから芋ツルを芽吹かせるプロジェクトをスタートさせる事になりました。

 二つ目は一昨日まで行われた国立大洲青少年交流の家の主催事業「大人を考えるフォーラム」実行委員会の委員長です。今年で3年目を迎えましたが、3回の実行委員会を経て事業も多くの成果を得て無事終わりましたが、事業修了後に開いた4回目の実行委員会でも様々な意見が出ました。総じて建設的な意見なので、来年にバトンをつなげることが出来たようです。請われるまま今年で3年間も委員長をやり、意見の取りまとめをやってきましたが、意欲も年齢も衰えてはいないものの元気な間に、そろそろ後継者への移譲も考えなければならないと思っています。私にとっては自分の進化に役立った委員会でした。

 三つ目は来年愛媛県で行われる予定の地域づくり団体交流全国大会の実行委員会委員長です。これはかなり大掛かりなもので、過去3回の実行委員会が開かれ、1月に行われるプレイベントや2月の茨城で行われる全国大会へのPR参加と来年11月開催の全国大会に向けて着々と準備が進んでいるのです。えひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をやっていることもあって、これから1年は様々な気配りが必要で、特に16予定されている分科会の一つを双海町へ誘致していることから、気を抜くことなく動きたいと思っています。

 実行委員会は全てボランティア活動だし、出かける度に妻に対し「実行委員会に行って来る」と告げるものですから、妻はどの実行委員会か区別がつかず、「なんでそんなに実行委員会が再々あるの?」と首をかしげているようです。そういえばいつの間にかボランティア活動への参加参画も長くなりました。青年時代に福祉ボランティアに参加してからですから、かれこれ40年も続いている事になります。妻が「いつまでボランティア活動に参加するの」と聞くので、「死ぬまで」と答えてやりました。ふと漏らした言葉ですがこれは私の名言で、多分死ぬまでボランティア活動に関わることでしょう。今は「本業ボランティア、副業講演活動」ってなもんです。「本業ボランティア・副業仕事」これも名言かも知れませんね。

  「出る時に いつまでやるの ボランティア 聞く妻へ言う 死ぬまでですよ」

  「気がつけば 三つも代表 務めてる オーバーワーク それでも楽し」

  「少しだが 社会の役に たってます これから先も そんな気持ちで」

  「本業は 何かと人が 問うたなら ボランティアです 胸張り答う」

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